沼の見える街

ぬまがさワタリのブログです。すてきな生きもの&映画とかカルチャー。

窓の向こうに何を見る。『映画 窓ぎわのトットちゃん』感想&レビュー(ネタバレあり)

今年・2023年の日本アニメ映画は、大豊作だったと言っていいだろう。

私が鑑賞したり感想を書いたりした限られた範囲だけでも、斬新なキャラデザが光る『金の国 水の国』、鳥山明の良さが詰まった快作『SAND LAND』、芸能界と社会の歪みを斬る【推しの子 Mother and Children】、ハイセンスな絶滅どうぶつアニメ『北極百貨店のコンシェルジュさん』など、数多くの忘れがたい劇場アニメ作品をあげることができる。なんなら昨年末に公開して話題をかっさらった大傑作『THE FIRST SLAM DUNK』も今年の夏までずっと上映され続け、劇場を盛り上げていた。配信アニメでは、サイエンスSARUが海外のクリエイターとがっつり組んで作り上げたNetflix『スコット・ピルグリム テイクス・オフ』は特に注目すべき一作だ。(ちなみに海外アニメは海外アニメで凄まじい豊作イヤーだったが今は置いておく。)

そんな今年公開の日本アニメ映画の中でもとりわけ、巨匠・宮崎駿の(色んな意味で)圧倒的な最新作『君たちはどう生きるか』と、水木しげるのスピリットを果敢に蘇らせた『ゲゲゲの謎 鬼太郎誕生』は、2023年を象徴する二作品と言ってよさそうだ。宮崎駿、水木しげるという、それぞれ日本を代表する、戦時を知る世代のクリエイターの精神性が(直接・間接の違いはあれど)存分に発揮された結果、どちらにも「戦争」の影が色濃く刻まれていたのは特筆すべきだ。

そんな今年の日本アニメを振り返りながら、来年もどのような作品が現れるか楽しみにしたい…と、なんとなく「締め」の年末ムードに入りつつあったところに、これらの「今年を代表する日本アニメ映画」に確実に加えなければならない"凄み"のある作品が現れるとは、誰が予想しただろう。いや、黒柳徹子のファンは予想していたのかもしれない。そう、『映画 窓ぎわのトットちゃん』である。

tottochan-movie.jp

この映画、予告編自体は何度も劇場で目にしていたのだが、はっきり言ってノーマークだった…というか「まぁ別に観なくていいかな〜」とか思っていた(ごめん)。本編の凄さを知った上で予告↓を見ると、しっかり「面白そう」に感じられるし、作画も十分にすごいのだが…。

www.youtube.com

これは予告編のせいというよりは、私が原作本『窓ぎわのトットちゃん』や黒柳徹子さんについて特に何も知識がなかったことが大きいのだろう。(少なくとも原作を読んでいれば、そこに含まれた確固たるテーマ性を今わざわざアニメ化することの意義にも思い至ったはずだったが。)明らかに現代日本のメインストリームから外れたキャラクターデザインも相まって、なんか微妙に変わり種の、ファン向けのノスタルジーっぽいフワッとした人情的な作品なのかな、と思ってしまったのもある。

だが間違いだった。『映画 窓ぎわのトットちゃん』は、今年の日本アニメ映画で言えば『ゲゲゲの謎 鬼太郎誕生』のような気骨ある作品だとか、あるいは『君たちはどう生きるか』のような超絶作画を誇る作品であるとか、そしてなんといっても近年の日本アニメ映画を代表する一本である『この世界の片隅に』のような名作と、同じ重みを持って語られるべき映画であると思う。

というわけで結論→「紛うことなき傑作」なので、まずはとにかく劇場に駆けつけてほしい。残念ながら今のところ客入りはイマイチっぽく、これから人気作も続々とくるため、大きなスクリーンで見られる時期はすぐに終わってしまいそうだし…。ネタバレはなるべく控えめにするが、記事後半では終盤の展開にがっつり触れるので注意(まぁ原作も有名だし、ネタバレで面白さが損なわれる映画ではないとは思うが)。

 

 

現実と夢幻が重なる圧巻のアニメ表現

まずはシンプルに、本作はアニメーション表現のクオリティが極めて高い作品である。もう冒頭の駅のシーンからして、アニメに多少関心のある人なら「あっ、これは…」と襟を正さざるをえないだろう。多くの人が行き交う木造の駅で、人ごみの中から主人公・トットちゃんが現れ、駅員さんと「この切符、貰っちゃいけない?」といった、子どもならではの予測不可能性に満ちたやり取りをする。

原作本も全く同じ始まり方をするわけだが、このアニメ版では本当に当時の駅の様子や人混みをリアルタッチで描くことで、その光景自体に豊かな新鮮味があるだけでなく、その世界にふと現れたトットちゃんという思いがけない存在の面白さも際立つ。『この世界の片隅に』の、クリスマスの空気にわく街の様子を描いた、映画オリジナルの冒頭も見事だったが、それを思い出した。もっといえば本作は、このクオリティの街や学園、人々の日常の様子がほぼ全編にわたって続くわけなので、その点ではさらに凄いとも言える。

とりわけ鍵を握るのは、やはり美術監督の串田達也氏だろう。ジブリ作品やエヴァ、『この世界の片隅に』などで手掛けた美術は数しれず、名実ともに日本最高のアニメ美術監督の一人と言っていい。原作本『窓ぎわのトットちゃん』の挿絵を手掛けた巨匠いわさきちひろの美術の風合いを、できる限り再現するという困難な挑戦を成し遂げている。また、普段は実写作品を多く手掛けている美術設定の矢内京子さん(アニメでは『若おかみは小学生!』など)が果たした役割も大きいはずだ。特に後述するトモエ学園の、地に足の付いたリアル感と、どこかファンタジックな優しさを融合させた造形の見事さは、こうした一流クリエイター陣の尽力あってこそだろう。

現実世界のリアルタッチな描写がよくできていると同時に、劇中で3回ほどある、登場人物の内面世界を描いた夢幻的なアニメーションの素晴らしさも目を見張るものがある。それぞれ全く異なるタッチで、全く異なる意味合いの幻想を描くアニメーションが3種類(日常のタッチも含めると4種類)も同じ作品に同居していると考えれば、ほとんど『スパイダーバース』みたいなアニメ的チャレンジを試みているとさえ言える。詳しくは書かないが、全ての幻想シーンに重要な物語的意味があるので、アニメ表現のスタイルが変わった瞬間はぜひ目を凝らしてほしい。

 

主人公オブザイヤー・トットちゃん

本作のもうひとつの素晴らしさは、なんといっても主人公のトットちゃんの描写が「イイ」と言うことだ。まず誰でも気づくことだが、キャラクターデザインが独特である。というか予告編を観た時点で、多くの人が本作のキャラデザに「ん?」と思ったかもしれない。トットちゃんのみならず、全てのキャラクターが口紅や頬紅をさしているような、いわば「お化粧」を施したような外見に見えなくもないのだ。

こちらの監督インタビュー記事にも書いてあるが、こうした独特のキャラクターデザインは、トットちゃんが少女時代を過ごしていた、昭和の「児童画」を意識したということだ。実際、当時の児童本の表紙や挿絵などを見てみると、生命力の象徴のように、顔にお化粧のような「赤」をさしている絵を多く見かける。昭和の時代に純粋無垢な少女時代を生きていた、トットちゃんの視点から見た「自分自身」と「他の人々」の姿が、この独特なキャラデザで表現されているわけだ。

現行の日本アニメの主流的キャラデザからは相当かけ離れていることもあり、最初は面食らう人も多いかもしれない。だが観ているうちに、このデザインこそがトットちゃんを中心とした登場人物たちに、唯一無二の生々しい実在感を与えているということに気づき始める。人間の顔が記号化されるアニメでは意外と無視されがちな「唇」というパーツを、むしろ強調することで人物の表現に幅が出た、とも監督がコメントしているので、唇の表現に着目して観るのも面白いだろう。

外見だけでなく、トットちゃんが口にするセリフにしても、最初から最後まで全部「イイ」のである。アニメ/実写問わずありがちな「大人が都合よく考えだした子ども」感が全くないのだ。トットちゃんはあくまでまだ子どもではあるが、「子どもなりの知能をフルに生かして世界と向き合っている、聡明で元気で優しい、生きた人間」のエネルギーに溢れている。

たとえば冒頭、駅を出たトットちゃんがお母さんと交わす、「本当はスパイなんだけど、切符屋さんなのは、どう?」といった子どもっぽい、しかし可愛らしい発言も、「ああ〜子どもってこういうこと言うよね!」としっかり思えるリアリティがある(黒柳徹子が本当に言った言葉だろうし、当たり前かもしれないが…)。と同時に「スパイ」という言葉にお母さんがちょっと微妙な反応をすることも含め、こうした子どもならではの自由さが抑圧されていく後半の悲しさも示唆しているのだが…。

トットちゃんの良いセリフをあげていけばキリがないが、序盤で言えば、ユニークな教育方針のトモエ学園を見学に行き、校舎が電車の車両だったことにテンションぶち上がった後、校長先生に会ったときに食い気味で「校長先生か、駅の人か、どっち?」と尋ねるシーンなど凄く良いなと思った。常識的に考えればこの大人が「駅の人」であろうはずもないが、電車の教室にブチ上がってしまったトットちゃん的には、「駅」のイメージに引っ張られているのだろう…ということも想像できる、何気ないが子ども特有の世界観と自由さに満ちた発言だ。

こういう嘘っぽくない言葉を子どものキャラに言わせられる稀有なクリエイターが宮崎駿だと思うし、「校長先生か、駅の人か、どっち?」などというセリフを無から考え出せたらまさに天才であるが、本作は原作が自伝(ノンフィクション)であることが活きて、こういう面白い予測不能なセリフが湯水のように出てきて全く退屈しない。

これほど生き生きとした子どものキャラクターをゼロから作り出すのはほぼ不可能ではないかと思うし、間違いなく原作の『窓ぎわのトットちゃん』あってこそではあるが、その魅力をうまくアニメとして再構成したことで、トットちゃんは驚くほど魅力的なキャラクターとなっていた。今年観た映画の中でも、ベスト主人公のひとりにあげざるをえない。

 

トモエ学園、いい学校

このトモエ学園を舞台に、トットちゃんは自分の個性を押さえつけられることなく、のびのびと学校生活を楽しんでいくことになる。このパートで特筆すべきは、トットちゃんだけでなく、学園の他の子どもたちの描写もまた秀逸であることだ。

学園の日課である「お散歩」や、授業や食事のシーンなど、とにかく「子どもたちが集団で何かをする」という場面が多い作品なのだが、ひとりひとりの子どもが個性豊かにいきいきと描写されていることは、何気ないが(本作が手書き2Dアニメであることを考えれば特に)驚異的ではないだろうか。

子どもの描写に手を抜かないという本作の方針は、まさに舞台・トモエ学園の「それぞれの子どもの個性を大切にする」という理念と一致している、という事実も素晴らしいなと思う。スクリーンに映っている子どもたちが「書き割り」でなく生きているように見えるという事実が、「子どもの個性を大切に」などという、いっけん陳腐な絵空事にも響きかねない信念に、手触りと説得力を与えているのだから。

そんな学園の理念を象徴する存在が、トモエ学園の校長・小林先生である。モデルは金子宗作という実在の人物で、「リトミック」という幼児期の人格形成教育を普及した人としても知られている。先述の「校長先生か、駅の人か、どっち?」の出会いから、小林先生はトットちゃんに一人前の人間として敬意をもって接し、4時間にわたって話を聴いてくれた。小学生を追い出されたトットちゃんの良き理解者として、小林先生は本作の屋台骨のような存在となる。

小林先生と、トットちゃんのような子どもたちの関係を象徴する場面として、「便所」のシーンがあげられるだろう。トットちゃんは汲取式のいわゆるボットン便所に、あろうことか大事なお財布を落としてしまい、大きな柄杓で汚物を掻き出し続ける。冷静に考えるとアニメでこれほど汚物が描かれることも珍しいな…と思えてくる、だいぶストレートに「汚い」場面でもあるが、過去をむやみに美化しないという本作の理念を感じもする。

ただし汚いだけではなく、不思議な爽やかさと愛情にあふれた場面でもある。汚物まみれのトットちゃんの姿を小林先生は目撃するのだが、「そんな汚い/危ないことはやめろ」「大人にまかせておけ」などとは決して言わず、ただ「終わったらもとに戻しておけよ」とアドバイスし、放任しておくのだった。結果トットちゃんは、汚物まみれになった上に財布も見つからなかったものの、「やるだけやった」という満足感を手に入れることができた。ふつうアニメがわざわざ描かないような「汚い」シーンを通じて、先生と子どもたちの理想的な関係を(一切の説明セリフなく)現実的に表現する手腕はスマートで、観客への信頼を感じさせる。

下手をすると聖人のように描かれかねない小林先生だが、彼もあくまで人間なのだ…という点も何度も強調される。体の小さな子を不用意な発言で傷つけてしまった女性の先生を、小林先生が叱責する場面では、先生たち大人も決して完璧でなく、泥臭く努力してこの「理想」の学園を作り上げていたんだ…と、覗き見るトットちゃんと一緒に観客は理解する。小林先生もまた苦悩しながら学園を運営しているからこそ、トットちゃんたち生徒が、トモエ学園をバカにするよその学校の子どもたちに「トモエ学園、いい学校!」と反撃の歌を歌う場面で、人知れず涙する姿が胸を打つのだ。

だからこそ終盤、学園の夢が消えつつあるとわかった時、小林先生が生徒たちに隠れて慟哭し取り乱す姿がショッキングでもある。だが終盤で学園を襲う圧倒的な「現実」を前にして、燃え盛る炎が宿ったような決意を秘めた先生の目には、どこか「綺麗事」を超越した、底しれぬ人間の凄みに溢れている。小林先生というキャラクターの描写だけに着目しても、とても複雑な濃淡を感じさせるのは驚くべきことだ。執念にも似たたくましさをもつ、一筋縄ではいかない人間の「善意」や「信念」の化身…。それが小林先生であり、トモエ学園なのかもしれない。

 

大事な友だち、泰明ちゃん

そんな学園の生徒たちの中でもとりわけ重要なキャラクターが、小児麻痺を患った男の子・山本泰明(やすあき)ちゃんである。片腕・片足が動かしにくいという身体障害を抱え、周りの子と同じようには振る舞えないというコンプレックスをもちながらも、知性と優しさに溢れた泰明ちゃんは、トットちゃんのいちばんの親友になるのだった。

泰明ちゃんとの交流は、原作『窓ぎわのトットちゃん』の核心にあるテーマと言っていいが、この映画版はそれをさらに膨らませ、原作の要素をうまく拾って並べ替えたり、時には映画オリジナルの展開を付け加えたりしながら、一本の筋の通った友情物語として再構成している。

最も重要かつ象徴的なのは、やはり中盤の「木登り」シーンだろう。学園に生えている木を「トットちゃんの木」と(勝手に)名付けたトットちゃんは、体の事情ゆえに「木登りなんて無理」と諦めていた泰明ちゃんを、なんとかして木に登らせてあげたいと奮闘する。とはいえ二人ともただの子どもであり、脚立を使ったり工夫しながらも、なかなか思うように木に登ることができない。子どもならではの「これ下手したら死ぬのでは?」みたいな危うさもスリリングに織り交ぜながら、小さくも壮大なチャレンジを輝かしく描いていた。 監督の八鍬新之介氏も、原作を読んで最も心に残る場面だったとパンフレットで語っていたが、実際このアニメ全体を象徴する、忘れがたいシーンとなっていた。

他にもプールの場面では、原作ではさらっと触れられるだけだった、仲間たちと一緒に泰明ちゃんが水遊びに親しむ姿を、よりドラマチックかつエモーショナルに描いている。先述した「3つの夢幻的アニメーション」のひとつもここで、トットちゃんに背中を押されつつ、水中で「自由」の感覚を味わう泰明ちゃんの内面世界が躍動的に描かれる。中でもこの場面が、いわさきちひろのアートスタイルを最もよく踏襲したアニメ表現になっていることにも注目したい。

ちなみに八鍬監督は、最近だと『のび太の月面探査記』など、普段はドラえもん映画を多く手掛けてる方である。今回の映画版の企画は2016年くらいから始まってたようなのだが、その年に起こった相模原での障害者殺傷事件に象徴されるような、社会の歪みに対する問題意識があったこともパンフで言及していた。その意識は本作にもしっかり現れていたと思う。

アニメ作品は数あれど、障害をもつ人々が、しっかり意志や知性をもったメインキャラクターとして登場することはいまだに極めて少ない。そんな中、泰明ちゃんのような愛すべき人物に、実質的な主人公のひとりとして光が当たる本作のもつ意義は、日本アニメの多様性と可能性を押し広げる意味でも大きいだろう。

それを踏まえた上で(詳しく書くとネタバレになってしまうのだが)泰明ちゃんがたどる哀しき運命と、彼のようなマイノリティが物語上で担いがちな「役割」については、たとえば「冷蔵庫の中の女」や「bury your gays」というミーム(意味は調べてほしい)が喚起するような議論や批評があってもいいかもな、と感じる。もちろん原作通りの展開であるし、悲劇によってしか描けないテーマもある以上、この点で本作を批判するのはお門違いではあるが、仮に障害をもつ当事者の人が本作を見て「あ〜、またか…」と思ってしまったとしても責められないとも思う。これも障害者のキャラクターの絶対数がまだ圧倒的に少ないことによる偏りの問題なので、より広くエンタメ全体の課題といえるだろう。フィクションはいまだ過渡期にあるのだ。

 

ーーー以下、終盤のネタバレがあるので注意ーーー

 

戦争、疾走、チンドン屋

『君たちはどう生きるか』や『ゲゲゲの謎 鬼太郎誕生』など(実写の『ゴジラ -1.0』を並べてもいいかもしれない)、戦争の影が色濃く残るアニメ作品に彩られた2023年だったが、『映画 窓ぎわのトットちゃん』はそんな年を締めくくるにふさわしいアニメ映画でもある。

原作の『窓ぎわのトットちゃん』の時代背景は「第二次大戦が終わるちょっと前」という説明があったが、このアニメ版は正確には1940年(昭和15年)を始まりとしているようだ。いよいよ第二次大戦が本格化し、太平洋戦争へと突入していく不穏な時期だが、この時期を「戦前」と表現するのは実は不正確でもある。というのも、すでに日中戦争(1937〜)が始まっているからだ。

つまり本作の冒頭、トットちゃんが平和な子ども時代を満喫している時点で、すでに「戦争」は勃発していたし、そのことは実はラジオの音声や町並みの細かい描写によって、観客にそれとなく示唆されている。トットちゃんや家族のいわゆる「ハイカラ」な、当時の平均的な生活水準に比べると格段に豊かな生活も、戦争や植民地政策がもたらした富の上に成り立っていた、という背景があるわけだ。

戦争がもたらす惨禍と搾取を通奏低音にしつつ、ある意味では特権的な生活を送る主人公を描く作品という意味では、第二次大戦中の広島の日常を描いた『この世界の片隅に』や、太平洋戦争まっさかりの1944年を舞台にした『君たちはどう生きるか』にも、本作は通じていると言える。

本作の不穏さを語る上でひとつ象徴的なのは、序盤で単なる子どもらしい憧れとして(それこそ現代の子どもが『SPY×FAMILY』に憧れるように…)、楽しげに「スパイになる!」と語っていたトットちゃんとその家族が、本当に「スパイとして疑われないように」気をつけないといけない状況に追い込まれる、ということだ。「スパイ」という言葉のリフレインによって、少女と家族を取り巻く状況が一変してしまうことの怖さを巧みに描いている。

さらに、トモエ学園の楽しい生活を最もよく象徴していた「音楽」も、いつしか抑圧の対象になっていく。トモエ学園ではアメリカの歌「Row Row Row Your Boat」を、食事前の教育のために「よく噛めよ♪」と替え歌にしていた。戦時中の食料配給制限によって、空腹で仕方のないトットちゃんと泰明ちゃんは、せめてもの慰めに「よく噛めよ♪」の歌を歌っていたのだが、通りかかった大人(おそらく軍人)に、「そんな海外の浅ましい歌を歌うな、気を強く持て」などと一喝されてしまう。まさにクソの役にも立たないクソバイスであるが、空腹の子どもを無茶な精神論でさらに追い詰める、戦時社会の貧しさ・愚かしさを端的に表す場面だった(まぁ「子ども食堂」とかを取り巻く話題を見てると現代にも思いっきり通じている気もするが…。)

このように、児童画を基調にしたキャラデザや、きらきらした優しい美術に象徴されるような、トットちゃんの純粋無垢な子ども時代が、戦争の脅威によってじわじわ蝕まれていく恐ろしさは、本作に底しれない深みを与えている。

まさにその恐ろしさを完璧に表しているのが、映画の終盤で繰り広げられる「疾走」シーンだ。泰明ちゃんという最愛の友だちの喪失は、トットちゃんの子ども時代の終わりも意味していた。そんな彼女の目に、世界は全く違う容貌で映り始める。戦意を高揚させる勇ましい言葉とともに、街の通りを行進していく兵隊たち。「ゼイタクは敵だ」という標語を前に、不気味なマスクをつけて、イジメのような「戦争ごっこ」に励む子どもたち。いつの間にか世界はすっかり変貌してしまった。いや、トットちゃんが子どもであったゆえに、とっくに「変貌していた」ことに「気づかないでいられた」と言うべきだろう。トットちゃんはそんな変わり果てた世界を、子ども時代に永久の別れを告げるように、まるで一迅の風のごとく駆け抜けていく…。

この「疾走」は、無垢な子ども時代が崩壊し、世界がその真の姿を露わにする瞬間を、一切の説明セリフを使うことなく、純粋にアニメーションの移り変わりのみで描ききった驚くべき場面だ。ただでさえ豊かな日常芝居アニメや、色とりどりの見事な幻想的アニメが素晴らしかった本作を締めくくるにふさわしい、紛れもない名シーンといえる。今年描かれた(日本・海外問わず)全てのアニメーションの中でも、最高のシーンの一つだと断言できる。

ちなみに本作の八鍬監督は、そもそも(クレしん映画『オトナ帝国の逆襲』や『河童のクゥと夏休み』でもおなじみ)原恵一監督に憧れてアニメの道に入ったという。この「疾走」のアニメーションが、原監督の実写作品『はじまりのみち』でも挿入された、木下惠介監督の『陸軍』の(時代の厳しい制限の中、せめてもの反戦の思いを託した)有名なクライマックスを連想するものだったことも特筆したい。

そんな「疾走」を決定的な境目として、トットちゃんの子ども時代は終わりを告げた。それではトットちゃんの心から、かつてのような純真さや優しさ、世界を愛する心も失われてしまったのだろうか…。

それは違う、ということを、黒柳徹子のファンはよく知っていることだろう。

大切な人や居場所を失い、変わり果ててしまった世界に打ちのめされ、自分の無知と無力を思い知った上で、それでも絶望せずに生きていく…。そんなトットちゃんの物語を締めくくる上で、鍵を握るのは「チンドン屋」という存在である。

チンドン屋といえば、にぎやかなだけで、何の役にも立たない軽薄な人の代名詞のように言われる存在だ。ゆえに非常時には(様々な文化と同様)真っ先に切り捨てられもするし、うつつを抜かしていれば厳しい目も向けられる。実際、トットちゃんが小学校から追放されたのも、「窓ぎわ」から見えるチンドン屋に夢中になってしまったことが大きな原因だった。

だがそんな「チンドン屋」スピリットは、いつも明るい灯火のようにトットちゃんの周りを照らしてきた。終盤、戦争のせいでトモエ学園の生徒たちが離れ離れにならないといけなくなり、教室で別れを告げあうという悲壮なシーンがある。そのうち1人が、別れの言葉を言い終わる前に、悲しすぎて泣き出してしまう。だがトットちゃんがすかさず、その子の家にいるニワトリの真似をしたことで、泣いてしまった子も含め、みんなが笑いに包まれる。トットちゃん自身も悲しいに決まっているにもかかわらず、明らかに場にそぐわない唐突なギャグをかますことで、せめて友だちの気分を明るくしようとしたわけだ。

トットちゃんがニワトリの真似をする場面自体は原作にもあるのだが、戦争がもたらす無念と悲哀の空気の中で、その「エンターテイナー」としての彼女の行動に、格別の重みをもたせたのは映画オリジナルの秀逸な判断だ。

ゆえに、実は彼女の人生の核をなしていたチンドン屋が、ラストシーンでもう一度現れるという構成は示唆的で美しい。戦火を逃れるために地方に向かう列車の「窓」から再び、チンドン屋の姿をトットちゃんは目にする。非現実的な光景といえばそうだし、もしかしたら失われた子ども時代の残滓がトットちゃんに見せた幻視だったのかもしれない。

それでもその後のトットちゃん=黒柳徹子が、知らぬ人のいないエンターテイナーとして、日本の芸能界の頂点へと上り詰めていくことを観客は知っている。彼女の才能をいち早く見出し、いつかテレビという「魔法の箱」にトットちゃんも出られるかもよ、と告げてくれた親友・泰明ちゃんとの約束を、果たそうとするかのように…。

振り返ってみれば、本作はチンドン屋のように「なんの役にも立たない」と言われるものが、どれほど人の生を豊かにし、苦しい時の支えになってくれるか…というテーマに貫かれていた。歌を叱り飛ばされて泣き出すトットちゃんを、『雨に唄えば』のような水しぶきの「音楽」で元気づける泰明ちゃん。軍のプロパガンダに加担することを拒み、音楽家としての矜持を守ろうとするお父さん。絵や歌といったアートを愛する心を子どもに教えようとした小林先生。そして悲しむ友だちを「チンドン屋」精神で笑わせてあげたトットちゃん…。

アートやエンターテインメントといった文化や、それらを愛する精神が、戦争のように人々を飲み込み押しつぶす巨大なシステムから、良識や尊厳を守るためにどれほど重要な意味をもつか…。そんなテーマを語るこのアニメ作品そのものが、ひとつのアート/エンタメ作品として見事な出来栄えを誇っていることは、素晴らしいと言う他ない。

ウクライナや中東を筆頭に、世界各地で目を覆うような戦禍が巻き起こっている今、文化やアートがもつ力の小ささに打ちひしがれている人も多いだろう。恐るべき戦争の実態が毎日のように届く一方、文化的な発信力をもつ戦争世代の人々も世を去りつつある日本で、当時の記憶がいよいよ薄れ始めていることに、危機感を覚えることも増えてきた。そんな時代だからこそ、本作『映画 窓ぎわのトットちゃん』のような、この世にいつの日も存在する危機と希望を真摯に描いてくれる作品は、計り知れないほど重要だ。見知らぬ未来へ突っ走っていく列車の「窓」のむこうに、私たちは何を見るだろうか。

 

ーーーおわりーーー

 

原作『窓ぎわのトットちゃん』も遅まきながら読んだけど、今読んでも素晴らしく面白かったのでもし未読ならぜひ。黒柳徹子の朗読もあるよ

なんと今年、続編も出たらしい。スゴイ。

 

さいごに【告知】

ビニールタッキーさんと1/7に渋谷で新年の映画イベントやります。私もリアルイベントはとても久々!ですが、楽しい交流会っぽい感じにしたいので、映画ファン(というほどでもないが興味ある人も)はぜひお越しください!

詳細↓

https://vinygasa24.peatix.com/?lang=ja

 
 
 
 
 
 
 

図解「イヌの進化と"愛"」

人類の最愛のパートナー動物・イヌが、いかにしてオオカミから進化を遂げたのか?その答えは…「愛!」という図解です。"難病"遺伝子が鍵を握るという興味深い研究も…?「金輪際現れない 一匹狼の生まれ変わり」なスペシャルな動物・イヌを大切にしてね。

 

<参考書籍・HPなど>

まずは『イヌはなぜ愛してくれるのか 「最良の友」の科学』ぜひ読んでほしい。

著者のクライブ・ウィン博士は科学者として「愛」みたいなふんわりした言葉をとにかく使わないようにしていたのだが、イヌを研究していくうちに「いや……愛でしょ」と認めざるをえなかったのだった。

こちらでも紹介↓(セールは終わったけど)

numagasablog.com

 

ナショジオが出してるイヌ系の本もオススメ。

↑こちらの『犬の能力』も参照させてもらった。世界各国のイヌの専門家がいっぱい出てくる『イヌはなぜ〜』のクライブ・ウィン博士もいるよ。

ウィン博士、NYタイムズでも記事書いてる。↓良い記事です

www.nytimes.com

↓ナショジオはイヌの進化にまつわる色々な記事をまとめてくれている。

natgeo.nikkeibp.co.jp

↓イヌと難病遺伝子について詳しい説明。

natgeo.nikkeibp.co.jp

 

イヌだけじゃなく、植物含めた様々な生物を人類が「飼いならして」きた歴史を語る『飼いならす――世界を変えた10種の動植物』もとても面白いのでオススメ。

 

今回の図解と直接は関係しないけどオススメのイヌ関連書籍。

『犬であるとはどういうことか―その鼻が教える匂いの世界 』。有名なイヌ学者アレクサンドラ・ホロウィッツがイヌの嗅覚に特化して語る本。おもしろいよ

お騒がせバグ!「トコジラミ」図解

国際的パニックを巻き起こし中な昆虫「トコジラミ」を図解してみました。大まかな生態や、対策に役立ちそうな弱点など紹介。どんな虫なのかざっくり知りたいけどググるのはちょっと…という人もお役立てください。参考になりそうなHPなどもいくつか紹介。

 

↓ナショジオの記事。トコジラミに関するよくある誤解を正す内容で、過剰なパニックに陥らないためにも一読オススメ。

natgeo.nikkeibp.co.jp

 

↓トコジラミをはじめ、旅の間に会う「害虫」の皆さんの対策記事。

natgeo.nikkeibp.co.jp

 

↓厚生労働省の「トコジラミとその効果的な防除法」。

https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-10900000-Kenkoukyoku/0000074552.pdf

 

↓ハフポスト。刺されるとどうなる?とか主要な対策とか。

www.huffingtonpost.jp

 

パリを襲うトコジラミパニックのようす(BBC記事)。韓国もだが、観光先として人気があるエリアはやっぱり色々と持ち込まれやすいのであった。

www.bbc.com

 

日本Twitterでも、某メトロにトコジラミが…!?的なツイートがあったけど結局まだ真偽がよくわからないっぽいのだが、パリ・韓国ともに「鉄道でトコジラミ目撃」の情報はあったが確認できず(トコジラミではなかった)…という現象が見られる。いつかのヒアリパニックもちょっと思い出す状況なので、拡散には少し慎重になるべきかもね

t.co

 

ヨーロッパでも恐れられるトコジラミについて、イギリス人が苦労話を語る(ガーディアン紙、英語)。「うちにトコジラミがいる」と友人に話しづらい…という社会的な苦境も。人口密度の高いアパート等に多いが、駆除にはけっこうな資金が必要になるという理不尽。一種の経済格差問題とも言えるかもな…

t.co

 

トコジラミも先日のクマもだが、生きもの系の「ヤバイ」情報はSNSでも(時として実態以上に)激烈な感じで拡散しやすいので、生きものの生態を学びつつ冷静に対応することも必要かなと思います。

numagasablog.com

アーバン・ベア! 「町にやってくるクマ」図解

町にやってくる熊々(くまぐま)、通称「アーバン・ベア」が世間を騒がせる今、クマに何が起きているのか、なぜ人を襲ってしまうのか、出会わないために/出会ったらどうすればいいか、共存の道はあるのか…などの基本的な情報を図解でまとめてみました。図解イラストとあわせて、参考にした/できそうなクマ関連の記事やサイトもまとめておきます。

Twitter↓

 

【参考記事・サイトなど】

 

まずクマ被害の定量的データは環境省の「クマ類による人身被害について[速報値]」も参照。
2023年の被害人数(〜10月末)は「180人」で、21年+22年の合計をすでに上回る数字。県別に見るとやはり秋田が突出、次いで岩手。死者数は現時点で「5人」と過去ワースト級。(とはいえ、毎年"数千人"規模の死者を出している交通事故などと比べると、クマによる死亡事故は現状では非常に珍しいケースである、ということも留意すべきかなとは思うが…)

 

図解を描く上で最も参考にした、先日放送されたクローズアップ現代の「アーバン・ベア」特集の書き起こし。クマの異常行動の背景、クマの生態を知る大切さを、クマ専門家の小池先生らが語る。誘引物の除去など短期的な対処から、軽井沢のように長期的な共存政策まで、幅広い施策が必要だとわかる。

www.nhk.or.jp

 

図解でも紹介した、軽井沢の長期的な視野をもったクマとの「共存」施策。人とクマの「陣取り合戦」というイメージで、森林・緩衝地帯・市街地の3つのエリアに分け、森林エリアにクマを押し戻す。資金や人手は必要だが、長い目で見ると確実に必要になってきそうな方針。

t.co

 

音声コンテンツとしてはSessionのクマ特集も。今年クマ被害が多発している背景を、クマの専門家・山崎先生が解説。

t.co

 

図解でも少し言及したが、クマの異常行動に気候変動が与えた影響はやはり大きいと見るべきでは、と思う(日本語ニュースではあまり言及されないが)。こちらの記事では、気候変動とブナ凶作の関連性が指摘されている。長期的かつ喫緊なクマ対策という意味でも気候危機対策が日本でも切実に重要になるんじゃないでしょうか…

t.co

 

気候変動とクマの都市進出を結びつける報道、海外だっとけっこう見かける。

《気候変動により都市部にクマが押し寄せ、日本はクマ襲撃の避けがたい増加に直面》(英語)

t.co

 

日本語のクマ記事はどうにも扇情的なものが多く、特に「クマを駆除しようとするスタッフに対して、こんなクマ保護派のクレームが!」みたいな対立煽り記事ばっかり出てきて辟易させられた…。

この手のネット受けしそうな、「クマは駆除あるのみ、保護だの共存なんてお花畑」みたいな単純な二項対立が良くないのは、駆除が本質的には対処療法にすぎず、長期的には地道な動物保護のアプローチ(≒クマと人の間に適切な距離を設ける)が人命を守るためにも不可欠になるから…ということは周知されるべき。

ただしこの記事↓は、タイトルちらっと見て、またよくある「行き過ぎた動物保護派がこんなクレームを!」的な対立煽り記事かなと思ったが、よく見るとクマ保護派にも理不尽なクレームや誹謗中傷が殺到してるという記事だった(集英社オンライン)。メディアの(百害あって一利なしの)煽りに乗せられず、クマ被害の背景にあるものをちゃんと見ないといけない。

t.co

 

こういうのはむしろ海外の方が冷静かつ論理的に見てる、みたいなことも多いので、ジャパンタイムスの充実した記事も紹介しとく(イラストかわいい)。文中で『平成狸合戦ぽんぽこ』にまで言及されてて面白いし、連想もわかるなという状態ではある。
《コンクリートの森: クマやイノシシなどが都市へ向かう》(英語)

t.co

 

いったんこんな感じ。また何かあれば追記します。

Kindle本高額書籍キャンペーン(〜11/9)オススメ本

Kindle本の高額書籍キャンペーンが11/9までやってるので個人的にオススメできそうな本をかんたんにまとめておきます(毎度偏ってますが)。高額っていうかまぁざっくり3000〜4000円台の良質な本が1000〜2000円に下がるお手頃セールなので、読書勢は狙い目だと思う。

amzn.to

 

 

DRAWDOWNドローダウン― 地球温暖化を逆転させる100の方法

今年は夏だけでなく、秋の気温もやばすぎて、11月に入っても夏日が3日もあったらしいし、いよいよ気候変動っていうか気候危機が本格してきた今日このごろ。そんな気候危機・地球温暖化の問題を考える上で、必読級の1冊として本書をよくオススメしてる。

たとえばamazonで「地球温暖化」と調べてもいまだに地球温暖化否定論の本とか見かけてびっくりしてしまうわけだが、一時期に比べるとさすがに肌感覚でも「天気やばい」とわかるようになってきたためか、露骨な否定論は最近ようやく減り始めた感もある。しかし否定論の次は「もう何をやっても無駄」という気候絶望破滅論みたいのが世界的に盛り上がってきてるようで、否定論とは真逆のようで結局「何も対策しないのが一番だ」という結論に人を導く点では同じであるため、これも等しく良くない。

そこで本書『DRAWDOWNドローダウン― 地球温暖化を逆転させる100の方法』のような本が大事になってくる。人類共通の危機である地球温暖化を食い止め、「逆転」させるための科学的かつ具体的な方策・施策を詰め込んだ本。エネルギーや食など基本の他にも、建築、輸送、女性の権利のような意外な視点からの「対策」もあって、世界を結ぶシステムの繋がりに思いを馳せるきっかけになるはず。

気候の現状は明らかにヤバいが、どんな気候対策も無駄にはならないし、やるべきことは沢山ある…というまっとうな姿勢をビジュアル的にわかりやすく伝えた本なので、学校の図書館とかにも1冊は置いておくべき本だと思う。ただ意外と400ページ超あって分厚いので電書で持っておくのもオススメ。

セール対象ではないが続編の『Regeneration リジェネレーション 再生 気候危機を今の世代で終わらせる』も大変オススメ。こっちは動物や生態系の話も多いし。昨年のベスト本にも選びました。

 

ちなみに気候関連だと『気候カジノ 経済学から見た地球温暖化問題の最適解』もセール対象になっていた。実は未読だが、有名な本なので一応読んでおこうかと…

 

「いいね!」戦争 兵器化するソーシャルメディア

キャンペーンで知って、今まさに読んでる本なのだが、相当面白くて怖いので紹介させてもらう。タイトルだけ見て、最近よくある「なんかSNS中毒とか政治対立とかエコーチェンバー云々みたいな話かな?」と思ったのだが、そういうレベルではないというか、本当にタイトル通り「戦争」「兵器化」みたいな物騒な言葉が当てはまるようなヤバい状況を、世界各地でソーシャルメディアが作り出してしまっている…という戦慄の事実を、軍事研究とSNS研究の専門家が語る。

特に今、イスラエル/パレスチナ紛争…というより虐殺と言っていいような悲惨な状況がある中で、こうした本を読んでおくべき理由は増しそう。マスクがチェック機構を粉砕したせいでTwitterにも(前もひどかったがさらに悪質になった)誤情報が溢れかえっているし、もはや「誤情報」というか明白に政治的意図をもって撒き散らされているプロパガンダニュースも後を絶たないわけで、それを見分けるのがどんどん困難になっていき、結果として本当に起こった惨劇までもがなんとなく覆い隠されてしまい…みたいな悪循環も生まれているわけだから…。

「アラブの春」にも象徴されるように、SNSの盛り上がりが独裁政権を倒したり、BLMのように警察暴力を日の下に晒したり…といった、前向きな面も確かにあるんだけど、問題は権力の側もソーシャルメディアの力を熟知し始めていることだと本書は語る。その結果として生まれる、ロシアのフェイクニュース専門部署とか、間抜けでもあるんだけど洒落にならない影響を社会に及ぼしているのも恐ろしい(当然トランプの隆盛にも繋がってくる)。

中南米では新聞などのオールドメディアが麻薬組織に萎縮する中、一般市民がSNSを利用して対抗する一方で、麻薬組織のほうもSNSを活用して抵抗者を殺害するなど、事態は混迷を極めている。ここまで直接的な暴力ではないにしろ、日本でもDappi事件とか、女性憎悪的なエコーチェンバーが引き起こしたなんとかアノン事件とか話題になったばかりし、全然人ごとではないなと戦慄しながら読んでいるのだった…。

そんなわけでSNSに憎悪と誤情報の嵐が吹き荒れる今こそ読んでおくといい1冊かと。セール対象だけどkindle unlimitedにも入ってるよ。

 

巨大テック産業の闇…とつなげると少々無理やりだが、『ウーバー戦記:いかにして台頭し席巻し社会から憎まれたか』もセール対象。読み途中だがなかなか面白い。

この本を元にしたドラマ『スーパーパンプト/Uber -破壊的ビジネスを創った男-』のほうを先にU-NEXTで見たのだが、そっちも面白かった&ウーバーあんまり使いたくなくなった(実は使ったことないが)。ウーバー版『ウルフ・オブ・ウォールストリート』といった趣き…

 

ジ・アート・オブ Cuphead(などゲームのアート本)

高額書籍キャンペーンは(主に誠文堂新光社が出してる)海外の名作ゲームのアート本が安くなりがちなのでゲーマーは押さえておこう。けっこう買っているのだが、イチオシは本書『ジ・アート・オブ Cuphead』かな。

1930年代ごろのアニメーションを源泉に再創造した傑作ゲーム『Cuphead』のアート本にふさわしく、各ボスや世界観について、元ネタの大量のアニメやゲーム(ロックマンとかカービィとかストリートファイターとか日本のゲームも多いのよね)に触れつつ解説。テキスト量も意外なほど多いので、せっかくだしこの日本語版をオススメする(素晴らしいローカライズで知られるゲーム同様、この本の翻訳もいい)。本の作りもかわいので、電子だけでなく紙でもほしくなってしまうが…

↓ゲーム本編(私はswitchでプレイ)。めちゃくちゃ難しいゲームだけど、圧倒的に美しく可愛いビジュアルゆえにリトライが苦にならないので、特にアニメ好きはトライしてみよう。DLCも最高の出来栄え。

store-jp.nintendo.com

 

誠文堂新光社のゲームアート本、他にもセール対象が色々。

ジ・アート・オブ Horizon Zero Dawn

Horizonの圧倒的な作り込みの世界観を詳しく解説。↓下の記事でも参照した。

numagasablog.com

続編『Forbidden West』やDLC『焦熱の海辺』のアート本も早く出てほしいね。

 

ジ・アート・オブ The Last of Us 

ジ・アート・オブ The Last of Us Part II 

「ラスアス」シリーズのアート本も対象。ストーリーの素晴らしさが評判のゲームだが、圧倒的なビジュアルの美しさや作り込みも噛み締めたいところ。↓むしろドラマになってそれに改めて気付かされたな。久々に再プレイしながらアート本を読み返したい。

numagasablog.com

 

ワールド・オブ・サイバーパンク2077

『サイバーパンク2077』は未プレイなのだが、ちょうど(『エルデンリング』もクリアして)次に遊ぼうと思っていたので、アート本を先に買っておくことにした。発売当初こそ何やらゴタゴタしていたが、今はアップデートも重ねて普通に名作の評判が名高いようで何より。DLCの評判も良いし、楽しみだ。

 

ワールド・オブ・ウィッチャー

同じゲームスタジオつながりで『ウィッチャー』のアート本も対象。これも非常に凝った作りの本で、ゲーム内の登場人物(吟遊詩人)の語りという体で、本作の重厚ファンタジー世界観やモンスターなどを詳しく解説してくれる。ファン必携と言っていい本で、めくってるだけで楽しい。まぁ私はゲームは未クリアなのだが…コンテンツが膨大すぎてな…(せっかくなのでPS5版を改めて最初からプレイしようかなと考え中)

 

他にも色々「ジ・アート・オブ」系が対象なのでゲーム好きはぜひ。ツシマもあるよ

 

〈正義〉の生物学 トキやパンダを絶滅から守るべきか

生き物好きほど意外と改めて考えることが少ないかもしれない「なぜ生物を守らなければいけないのか?」という問いを突き詰める1冊。「絶滅も自然の摂理なのだから…」といったよくある誤謬に丁寧に反駁しつつ、動物や自然を守る理念を研ぎ直す。

自然の摂理として(特に人間社会の不均衡を都合よく解釈するために)よく持ち出される「弱肉強食」という考え方が、自然界を理解する上でなぜ全くの的外れなのか、そしてなぜ人間界に適応できないのか…と改めて解説する部分など、生物学が雑に乱用されがちな今こそ傾聴すべき話でもある。

生物や自然に理解がある人でも「それらを守るべき理由」として最重視しがちな「人間の役に立つから」という考え方に潜む欠陥や欺瞞も指摘していて、若干ドキッとしつつ「そうだよね…」となった。そこで重要になる概念がやはり(日本では煙たがられがちな)"正義"であることも重要だなと。多方面から面白かったのでぜひ。

 

生きもの繋がりで、図鑑系もかなりセール対象になっているので、興味あればどうぞ…

日本の野鳥識別図鑑

野鳥図鑑を電子で持っておくと、出先で「なんの鳥だ?」と思ったときに意外と便利です。鳥はいつ現れるかわからないからね。ネットで調べるのもいいけど、情報が凝縮されている図鑑はやはり良い…

 

決定版 日本のカモ識別図鑑: 日本産カモの全羽衣をイラストと写真で詳述

いよいよカモの季節なので、カモ図鑑などいかがでしょう。近所ではオナガガモが群れをなしてやってきました。

 

新版 ウミウシ:特徴がひと目でわかる図解付き

ウミウシかわいさに衝動的に買ってしまった図鑑。別に海にもぐったり磯遊びもしないので、まだ一度も具体的に役に立ってはいないが、ながめているとかわいい。

 

イタリア菓子図鑑 お菓子の由来と作り方:伝統からモダンまで、知っておきたいイタリア郷土菓子107選

イタリア好き勢としてぜひオススメしたい1冊。ジェラートやティラミスみたいな超メジャー選手以外にも、イタリアの甘味は多彩なのである。イタリアの地理的・文化的な多様さもよくわかる、眺めてるだけでも楽しいレシピ図鑑。イタリア行ったばかりだがまた行きたくなる。

たとえばサイゼリヤとかでも、デザート=ドルチェのイタリア再現も頑張ってるとは思うが(プリンはあまりイタリアで食べるイメージないけど…)、『イタリア菓子図鑑』にのってるようなコアなドルチェを時々やってくれたらアツイのにな〜とは思う。それこそカンノーリとかってダメなのかな? 皮の用意が大変?リコッタが高くてムリ?

今年行ったシチリアでも本場のカンノーリをむしゃむしゃむさぼり食うつもりだったのだが、暑かったしジェラートやグラニータがおいしすぎたので、実はこの1回しか食べられなかった。日本でもマリトッツォの次にきてくれ、カンノーリ…。

 

ちなみにこの菓子図鑑シリーズはヨーロッパで色々出ているので世界のスイーツ好きはコンプしても良いかもしれない。いずれもセール対象でした

イギリス菓子図鑑

ドイツ菓子図鑑

フランス伝統菓子図鑑

ポルトガル菓子図鑑

 

オススメはいったんこんな感じ。あくまでごく一部で、対象本は多岐にわたるので色々チェックしてみてね

amzn.to

食べて、祈って、処刑して。『イコライザー THE FINAL』感想&レビュー(ネタバレあり)

 「単純な勧善懲悪ではない」が褒め言葉として使われるようになって久しい。この世で最もありふれたフィクションの形である「勧善懲悪」、すなわち「善人が悪人をやっつける」という物語のあり方を疑う視点は、たしかに大事である。この複雑な世界が、そんなにはっきり「善と悪」に色分けできるはずもないし、複雑な内面をもつ人間を「善人と悪人」にきっぱり分けることも不可能だ。

 それでは「単純な勧善懲悪」はもはや時代遅れの遺物なのだろうか。そうではない、と今の時代に改めて示すかのような映画、それが『イコライザー』シリーズだ。善良な人々を苦しめる悪人どもを主人公が処刑する…という、このうえなくB級バイオレンス的で、まぎれもなく「単純な勧善懲悪」の物語である。だがそこには、理不尽な現実社会で生きる私たちが、心のどこかで渇望してしまう理想や希望が確かに息づいているのだ。

 その最新作となる『イコライザー THE FINAL』は、シリーズをいったん締めくくるにふさわしい見事な出来栄えだった。(とはいえ原題は『The Equalizer 3』なので最終作とは全く言ってないのだが…)

 ファンとして一度シリーズを総括する意味でも、この記事ではネタバレありで感想を語っていきたいと思う。

 

 なお『イコライザー』過去作(1・2)はどちらも面白いのでぜひ観てほしいが、『イコライザー THE FINAL』はそれだけで独立した話なので、完全初見でも問題なく楽しめると思う。

イコライザー (字幕版)

イコライザー (字幕版)

  • デンゼル・ワシントン
Amazon
イコライザー2

イコライザー2

  • Denzel Washington
Amazon

なおこの記事には「1」「2」のネタバレも含まれるので注意してほしい。

 

 

ーーー以下ネタバレ注意ーーー

 

食べて、祈って、処刑して

 シチリアの美しい田園地帯にある屋敷から、物語は幕を開ける。屋敷の持ち主と思われる男が屋内に足を踏み入れると、そこには沢山の惨殺死体が転がる、凄惨な光景が広がっていた…。じっくりと舐め回すように、カメラは大量殺人現場と化した血まみれの屋敷の様子を家主の視点から追っていく。そしていよいよ屋敷の奥で待ち構えていた、その「犯人」の姿が明らかになる。誰あろう、本作の主人公ロバート・マッコールさんであった。

 …いやお前かい、とツッコんだ観客もいるかもしれない。この冒頭が、主人公の登場シーンというよりは、どちらかというと映画によくある「今回のラスボスはこんなに恐ろしいやつだぞ」演出そのものだからだ。何の予備知識もなく本作を初めて見る人は、そもそもこの人(マッコールさん)が主人公だと認識できない可能性もある。客観的にはどう見ても殺人鬼なのだから…。

 手下たちを惨殺したあげく銃を突きつけられているのにゆったり腰掛けており、なんか小声で「入れてくれればよかったのに…」とか言い訳をして手の血を拭っている謎の男マッコールに対して、家に入ってきた主(実はマフィアのボス)は恐怖と戸惑いを隠せない。それはそうだと思う。

 さらに「9秒以内に自分の運命を決めろ」などという、難解な上に時間制限が厳しすぎる選択を突きつけられたボス。それでも一応9秒は待ってくれるのかと思いきや、直後に銃の発射ムーブを感知したマッコールさんは一瞬で手下たちを皆殺しにし、手下の目に突っ込んだ銃でそのまま撃つという省エネ必殺によってボスに致命的ダメージを与える。瀕死で床を這いずるも、尻に銃撃をくらったボスは(バトル含めて)9秒という最期の貴重な時間を有効活用することはできず、トドメの一発を食らって惨死するのだった。過去シリーズで瞬殺されてきた悪党どもと同じく、「誰なんだお前は…」という当然といえば当然の疑問ながら、永久に答えを知ることのないクエスチョンを目に浮かべながら…。

 ここまではいつもの『イコライザー』なのだが、この後なかなか意外なツイストがある。まったくの無力と思えた子どもが、マッコールさんに予想外のダメージを与えるのだ。珍しく瀕死の状態となったマッコールさんだが、そこはさすがの生命力でなんとか生き延びて、イタリアの小さな町「アルトモンテ」(名前は実際のモデルになった町とは違うのだが)に流れ着く。親切な医者エンツォの手助けもあり、マッコールさんは文化や習慣の違いに戸惑いながらも、このアルトモンテでしばらく暮らすことになる。

 まず、食文化の違いに翻弄されるマッコールさんの姿がなかなかカワイイ。マッコールさんはカフェインやお酒を摂取しないので、イタリアのカフェでも「ティーバッグの紅茶」を注文して、店員にカプチーノを出されたりする。(※イタリアの人は圧倒的にコーヒー派なので、わざわざ店で紅茶を飲むことは極めて少ない。旅行者はおとなしくエスプレッソでも飲んでおこう。)

 カフェだけでなく服屋さんや魚屋さんなど、ささやかな暮らしを贈る町の一般市民ともなんとなく仲良くなっていくマッコールさん。カフェの女性店員さんと(本格的なロマンスとはいかないまでも)食にまつわる交流イベントがあったりする。地域コミュニティにとって重要な役割を果たす教会も、人には言えない罪を犯してきたマッコールさんにとって、自分と向き合うための大事な空間になっていく。まさにマッコールさん版『食べて、祈って、恋をして』とでもいうべき、『イコライザー』イタリア編を楽しむことができるのだ。

 『イコライザー』シリーズは1作め、2作めともに、平凡な一般市民とマッコールさんとの交流を映すパートに時間を割くことが特徴的だったが、この『イコライザー THE FINAL』でも、そこを今まで以上にちゃんと描いてくれたのは好ましかった。しかしやはりマッコールさんともあろうものが、全編「食べて、祈って、恋をして」ですむはずもない。住民との交流が暖かくなるほどに、それを踏みにじられた時の怒りも爆発的なものとなり、激しい落差がもはや恐怖映画のような凄みを生む。タイトルを付けるなら『食べて、祈って、処刑して』といったところか…。

 

マッコールさんが、くる

 本作『THE FINAL』の冒頭で、主人公たるマッコールさんがほぼほぼ殺人鬼みたいな描かれ方をしていたわけだが、マッコールさんがなんらかの重要なラインを踏み越えたのは今に始まったことではない。

 決定的だったのは『イコライザー2』の後半だろう。長年の友人を殺されたマッコールさんが、真の犯人と思しき人間の家を「訪問」する場面がある。このシーンの演出は、その自らの悪行がバレないか不安がっている犯人視点ということもあるのだが、平和な我が家に「あいつ」がやってきた…という、闖入者ホラーみたいな雰囲気になっている。まずマッコールさんが登場する時の音からして、視界の端に殺人鬼が立っていたと気づいた時みたいな音で不穏すぎる。主人公の出していい音なのだろうか。

 さらに凄いのは退場で、「お前たちを全員殺すことにした」「一度しか殺せないのが残念だ」などと悪の四天王の残虐担当の人みたいな台詞を吐きながら、にこやかに「犯人の家族の車に」乗せてもらって去っていく。去り際の笑顔が意味するものは紛うことなき脅迫であり、「いざとなればお前の家族をどうにでもできる…わかるな?」というメッセージでもある。もう主人公というよりは、韓国映画の悪のラスボスみたいな行動であり、笑顔を顔に張り付かせたまま後退りで退場していく姿はとにかく「怖い」の一言に尽きる。夢に出そうだ。

 『イコライザー THE FINAL』のマッコールさんは、そうした「怖さ」の純度がさらに上がっていたように思えた。敵視点で見ると『13日の金曜日』みたいなスラッシャーホラー映画のように仕上がっているのだ。キャッチコピーは「マッコールさんが、やってくる。」とかそんな感じだろう。

 まずそもそもマッコールさんは、戦闘スタイルがかなり怖い。基本的に「惨殺」なのである。これは他のアクション映画と比べても顕著だ。

 たとえばいま映画館では『ジョン・ウィック コンセクエンス』も上映していて、『イコライザー THE FINAL』とあわせて殺し屋映画の新作(一応最終作)が両方見られる秋の殺人祭り状態だ。この二作を見比べると、同じ殺し屋でもやっぱりジョン・ウィックの殺しは、マッコールさんに比べればずっとスタイリッシュというか紳士的(まぁ殺してるけど…)なんだなと思わされる。

 これはジョン・ウィックの基本武器が銃である一方、マッコールさんはあまり銃を使わないことも大きいかも知れない。マッコールさん自身は決して意図的に残酷に殺しているわけではないだろうが、手近にある日用品(ガラスとかコルク抜きとか銛とか)を使ってフルパワーかつ最短距離で相手を絶命させるので、結果的にグチャッとしたグロい感じの死体が転がることが多い。

 これは撮り方の問題も大きく、『ジョン・ウィック』シリーズの格闘を美しく見せようというチャド・スタエルスキ監督らの方向性と比べ、『イコライザー THE FINAL』のアントワン・フークア監督は「暴力」を(美しいものではなく)恐ろしく、陰惨なものとして描こうとしている、という違いもあるのだろう。

 それにしても澄んだ湖のように穏やかな表情を浮かべながら、悪人の腕や手首をポッキーのようにへし折るマッコールさんの姿はおそろしい。パンフレットの格闘技教官のコラムによると、マッコールさんのトロンとした目つきは「視界をワイドアングルにして周辺を見る」訓練をした人に特有のものらしい…。菩薩のような眼差しだが、実は一分の隙もなく「殺し」に最適化した目つきなのだ。

 

マッコールさんが、(思いのほか早く)くる

 そんな恐怖の純度が上がった『イコライザー THE FINAL』のマッコールさんを最も特徴づけるのは「早さ」だ。これは9秒云々みたいな速度の話ではなく(いやそれも怖いのだが…)、「殺す」に至るまでの流れが観客の想定するテンポより一段「早い」ということだ。殺される側も「くそ〜、やつを仕留めてやる!」とか息巻いてる時点ではもう「遅い」ことに気づいてないというのが怖い。本作では大きくマッコールさんの「殺し」の場面が3つあるのだが、後の2つに共通しているのは「早さ」の意外性である。

 とりわけ印象的なのは中盤、マフィアの弟マルコとのひと悶着である。レストランで憲兵を脅すマルコは、じっと自分を見つめるマッコールさんに気づく。よせばいいのに(周囲にナメられたくないというプライドもあり)マッコールさんに絡んでいき、当然ながら返り討ちにあって痛めつけられるマルコ。「お、覚えてろよ!」みたいな捨て台詞を吐きながら店を出て、屋外で仲間とともに「あいつ絶対ゆるせねえ…ぶっ殺してやる!」などと息巻いている。ここまではよくある展開だ。

 だが、この後こいつらがマッコールさんを襲いに行くのかな…などと観客がぼんやり予想していた次の瞬間、車が突っ込んできてマルコの仲間の息の根を止める。そして遠くから歩いてくる人影が、次々とマフィアたちを絶命へ至らしめる…。誰あろう、マッコールさんその人であった。

 マルコはナイフを取り出し、応戦しようとするが、マッコールさんにとって刃物をもつチンピラなど、オモチャの剣を振り回す中学生に等しい。マルコは腕をカニ脚のようにへし折られ、ぶらんと垂れ下がった自分の手が握るナイフによって、マッコールさんに滅多刺しにされる。「あっ、殺し、あっ……」と思う観客を尻目に、ほんの数分前まではイキリちらかしていた青年は、無惨な死体に成り果てていた。紛うことなきスラッシャーホラーの惨殺シーンである。

 殺されたマルコはそれまでじっくり描かれたように、救いようのないクズのチンピラ悪党であり、観客の大半も「こいつは死んで当然かもな」「マッコールさんにブチのめされるのが楽しみだ」と思っていたはずだ。なのになぜだろう、いざ激烈な暴力によって彼が殺されると、「あっ…死んじゃった…」と無慈悲さと衝撃を覚えてしまうのだ…。

 『イコライザー』シリーズは慈悲深い物語でもある。1作めのデヴィッド・ハーバー演じる汚職刑事や、2作めの絵が得意な黒人青年マイルズのように、悪と善の境目でギリギリ踏みとどまったり、やりなおしのチャンスを得る人間も描いてきた。本作のマルコも、あまりに悪辣な兄の所業にちょっと引く場面が挟まれたりもしたので、もしかしたら「やりなおす」側の人として描かれるルートもあるのかな?と(すでに悪行を重ねているから難しいだろうとは思いつつ)心のどこかでちょっぴり思っていた。だが一切そんなことはなく、観客が想定するより一段「早い」マッコールさんの襲撃によって、あっさり惨殺されてしまった。「こいつがやりなおす機会があるとしたら、人生のどこだったんだろうな…」などと、少ししんみりしてしまうほどだ。

 マッコールさんの恐るべき「早さ」は、実は『イコライザー』シリーズの核をなすものだ。1作めを振り返ってみても、最初にマッコールさんがその恐るべき戦闘力を明らかにする「19秒で悪を仕留めた」場面は、アクションとしては短い部類といえる。これは演じるデンゼル・ワシントンが60近い高齢であることからも、それほど派手で長いアクションは難しいということだったのかもしれないが、その「早さ」と「短さ」はむしろ本作を特徴づける鮮烈さを生んでいる。

 同じく1作めでユニークなのが、ホームセンターに押し入った強盗を始末する場面だ。「武器となるハンマーを持っていく→強盗を襲撃して指輪を取り返す→ハンマーを返す」という流れを省略し、「ハンマーを持っていく→ハンマーを返す」の爆速シークエンスを作り上げている。マッコールさんが勝つことは映画的に明らかなので、わざわざ描くまでもないということなのだが、その省略がマッコールさんの理不尽なまでの強さと、気持ちのいいテンポ感を生んでいる。

その「早さ」を伝える「省略」の技法は1作めの時点でどんどんエスカレートしていく。いかにも強キャラのような風格のメガネの悪役がラスボスと食事をしており、トイレに行ったかと思えば、帰ってきたのはマッコールさんと、彼の割れたメガネだった…というシーンも強烈だ。トイレで待ち構えてきた(こわい)マッコールさんがメガネの悪役を倒す、という場面をまるごと「省略」したわけだ。

 さらにこの印象的な場面で、実はマッコールさんはもうひとつ重要な「省略」を行っている。それは「ラスボスの"悲しい過去"を、面と向かってぜんぶ口で説明してしまう」という所業だ。その話自体は、悪辣な少年が愛を失うことを恐れるあまり、恩人を殺してしまう…という、なかなか深みのあるバックストーリーであり、数分の尺をとって回想シーンとして表現されてもおかしくない話だ。だがマッコールさんはあろうことか、そうした深い背景を勝手にぜんぶ言葉で説明して終わらせてしまうのだ。人生で他人にやられたらイヤなことランキングでも相当上位にくるだろう。

 絶対に誰にも知られてないはずとラスボスが思っていた秘密を簡単に調べ上げる、マッコールさんの恐るべき調査能力を示す場面でもあるが、同時に『イコライザー』シリーズにおける「省略」のあり方を明確に示すシーンでもある。それは、しょうもない悪人のドラマなど「語られるに値しない」という思想だ。

 いや、たしかにこの場面はマッコールさんがラスボスの背景を(漫画編集者なら「セリフで説明しすぎ」と赤を入れるほどペラペラと)「語って」はいるのだが、例えばフラッシュバックによる表現や、本人が独白で自分の物語を回想する…といった、キャラクターに厚みをもたせるための映像的な「語り」とは異なる、いうなれば「ネタバレ」に近い冷淡な「語り」である。マッコールさんが「語られるに値しない」と判断した人間の物語=シーンを、文字通り"省略"してしまうという冷徹なシビアさがそこにはある。

 マッコールさんの「早さ」が奪うのは、卑劣な悪人の命だけではない。悪人の人生の物語に割く映像的な時間、そしてスポットライトをこそ奪っているのだ。そのかわり、映画もマッコールさんも、心優しく誠実に生きている一般市民の「物語」に光を当てることを優先してみせる。映画そのものの構造がマッコールさんの思想とも重なっているというわけだ。

 

集まる場所が必要だ(そして殺す)

 『イコライザー』シリーズは紛れもなく「アクション映画」ではあるのだが、『ジョン・ウィック』のようにアクションが目的化した映画ジャンルという意味で「アクション映画」と括るのは少し違う感じもしていた。そんな中、かなり渋めのトーンの『THE FINAL』を観て「やっぱそうだよね」と実感した。本シリーズは「悪とは何か」「善とは何か」を考えさせる一種の文芸作品なのだと思う(バイオレンスな文芸だが…)。

 最近、『集まる場所が必要だ――孤立を防ぎ、暮らしを守る「開かれた場」の社会学』という本を読んだ。図書館などの人が集まる社会的インフラの重要性をメインで語りつつ、後半ではハリケーンで打撃を受けた街の話も出たりする。感染症や気候危機のような緊急事態も多発する中、柔軟で強靭な社会を作るために「公共」のコミュニティをどう設計していくかを考える本だ。

 この『集まる場所が必要だ』を読んで、なぜか『イコライザー』シリーズを連想したのだが、それはマッコールさんが地域のコミュニティとその中で生きる人々の生活を尊重する人だからなのだと思う。そして『THE FINAL』ではさらにその傾向が顕著になっていたように感じる。人々のコミュニティを破壊する者は、問答無用で(物理的に)破壊されることになるのだ。

 『THE FINAL』の中でマッコールさんが放つセリフで、特に印象的なものがある。マフィアの弟マルコに対して、「お前と友人が何をしようと勝手だが、ここ以外のよそでやれ」と言い放つのだ。公平さを重視する「正義の味方」としてマッコールさんを捉えていた人は少し面食らってしまいかねない、身勝手にも響くセリフと言える。

 だが、マッコールさんは正統的な意味での「ヒーロー」とはやはり違う。悪人を惨たらしく殺す姿がヒーローらしくないことは置いておいても、マッコールさんは長年抱えた神経症的な性質から「どうしても悪や不公平を見逃すことが"できない"」人なのである。「殺さなくてすむ」ならもちろん殺したくないが、自分の近くで悪事を働かれるともう気になってしまい、ぶんぶんうるさい蚊を叩くように殺すしかない。その妥協案として「どうしても悪事を働きたいなら、自分の関知しない、よそでやれ」と提案してみせたのだ。マッコールさんの「ヒーロー」にはなれない暴力装置としての限界やエゴも隠さず映す、象徴的なセリフだと言えよう。彼に守れるのは、自分が暮らすコミュニティの人々や、自分に助けを求めてくれた稀有な人くらいのものなのだ。

 だがそんな『イコライザー』を、よくある自警バイオレンスものと一線を画す特別なシリーズにしているものは、実は「コミュニティの中で生きる市民」の描写なのだと思う。1作めの歌手に憧れる娼婦、警備員になりたい店員や、2作めの絵が好きな黒人青年、話を信じてもらえない老人など、理不尽で不平等な世界でなんとか生きている(私達によく似た)人々こそが、『イコライザー』シリーズの影の主人公なのだ。

 『イコライザー THE FINAL』でもそんな普通の人々が、マッコールさんとの交流を通じてしっかりと尺をとって描かれる。ささやかな生活、希望、楽しみ、密かな夢、大切な思い出を抱きながら、日々をなんとか生きている。本作のマフィアや過去シリーズの悪党たちのように、そうした市井の人々の大切なものを、自らの欲望や利益のために踏みにじる所業は、「単純な勧善懲悪」が難しくなった今の時代でさえ、絶対的な「悪」と呼べるのではないか。そして、そんな人々の生活をマッコールさんが守ろうとすること、そして人々のほうが今度はマッコールさんを守ろうと自ら立ち上がることは、紛れもない「善」と呼べるのではないかと思う。

 もちろん言うまでもないが、人を殺すのはよくない。よってマッコールさんが100%「善」であるとは言えるはずもない。ちょうどイスラエルとパレスチナの間で悲惨な衝突も起こったばかり(正確には「起こり続けてきた」のだが…)だし、ある意味で私刑や報復をエンタメ化した本作を無邪気に楽しんでいていいのか…といった感覚もまた忘れ去るべきではないだろう。

 それでもやはり、「悪いことは悪い」と悪を断罪するエンタメもまた、まだまだ人類に必要だと思えてならない。とりわけ日本のように(特に権力者や企業や政府が)弱者を踏みにじるような悪が「なぁなぁ」で相対化されてしまい、逆にそれが「清濁併せ呑む」態度として称賛されるような社会では…。『THE FINAL』といわず、まだまだマッコールさんに滅ぼしてほしいと願ってしまう「悪」は数多くある。『イコライザー』シリーズで悪人が粉砕される時に感じる喜びは、もしかしたら暗い喜びなのかもしれない。だが間違いなく、まだこの世界に必要な喜びなのだ。

歪みを愛せよ。『ミュータント・タートルズ ミュータント・パニック!』感想&レビュー(ネタバレ控えめ)

 ただでさえ今年2023年は、『長ぐつをはいたネコと9つの命』『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』『ニモーナ』など、アニメーション表現の面でもテーマ性の面でも傑出した海外アニメ映画が連発している。だがクラクラしている我々アニメ好きにトドメをさすように、またも革新的な一作が登場した。『ミュータント・タートルズ ミュータント・パニック!』である。

予告編を見てもらうだけでも、そのアニメ表現の斬新さは伝わってくるだろう。

www.youtube.com

 「めちゃくちゃ絵のうまい人が、落書きみたいにさっと描いたラフな絵」のカッコよさというのがあると思うが、それをアニメ表現に落とし込むことは極めて難しかった。たとえコンセプトアートやアイディアスケッチの段階では「ラフさ」にあふれていたとしても、映画が完成形に近づくにつれて、ラフではなく「本気」の、誰が見ても完成度の高いルックにまとめ上げなければいけない以上、発想の源流では満ちていた「ラフさ」は次第に失われていくものだ。だが本作『ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!』では、その生き生きとした「ラフさ」が、完成したアニメの中に見事に刻まれている。

 というわけで、本作の素晴らしさを語っていきたい。ネタバレは控えめにしておくが、何も知らずに観たい人は今すぐ劇場に駆けつけてほしい。これほど素晴らしい作品にもかかわらず、今のところ日本では興収面で苦戦しているという話も聞く(海外アニメあるある)ので、なるべく早めに行ったほうがいいかもしれない…。

 

◯現代アニメーションの新たなる王道

 3Dアニメの「つるん」とした無機質とも言える質感に対して、いかに2Dアニメの「絵が動く」豊かな表現をドッキングし、昇華させるか。その挑戦にひとつの「答え」を示した超重要作『スパイダーマン:スパイダーバース』(2019)以降、海外アニメ映画は完全に次のステージに移行したといえる。

 昨年の筆頭として、昨年のドリームワークスの映画『バッドガイズ』や…

numagasablog.com

 半年前に公開された『長ぐつをはいたネコと9つの命』が上げられる。この数年のアニメーションの流れは、↓の記事でも解説したので参照してほしい。

numagasablog.com

 そして今年の大本命として、本家『スパイダーバース』の続編『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』が公開された。これがまた、アニメ表現の可能性を数段も押し上げるような凄まじい出来栄えの続編だった。

 こうした2Dと3Dの掛け算ともいうべきアニメ表現の「新たなる潮流」は、もはや「新たなる王道」と言っていいほどの存在感を放っているわけだが、その中でも特に今回、押さえておくべき作品がある。それは『スパイダーバース』と同じソニー・ピクチャーズ・アニメーション制作の『ミッチェル家とマシンの反乱』(2021)だ。

www.netflix.com

 なぜ重要かというと、『ミュータント・タートルズ ミュータント・パニック!』の監督であるジェフ・ロウが、本作『ミッチェル家とマシンの反乱』の共同監督を務めていたからだ。YouTube・TikTok時代の新世代的なアニメーションやカジュアルな動画クリエイトのセンスが炸裂した長編アニメ映画であり、今回の『タートルズ』のアートと通じる部分も大いにあるので、未見ならぜひ観ておいてほしい。

 ちなみにジェフ・ロウは『怪奇ゾーン グラビティフォールズ』シーズン2の脚本家も務めていた。日本での知名度はそれほど高くないが、たいへん楽しく最後はグッときてしまうアニメだし、『アウルハウス』『ふしぎの国アンフィビア』『陰謀論のオシゴト』など、高く評価されている最先端アニメシリーズの潮流を考える上で、とても重要な起点となっている作品なので、こちらもぜひチェックしてほしい。

www.disneyplus.com

 

◯革新的に「歪んだ」アニメーションと美術

 本作『ミュータント・タートルズ ミュータント・パニック!』のアニメーションの凄さは誰の目にも明らかなだけに、語るにしても一体どこから手を付けたものか迷うほどだ。だが最初の一歩は明らかである。私たち観客が最初に目にする物体、マンホールだ。

 どこの街にもある、何の変哲もないはずのマンホールの蓋はずだが、まるで子どもがフリーハンドで適当に描いたかのように、その円形は奇妙に歪んでいる。だがこの「歪み」こそが、本作のアートの革新性を体現するものだ。これを冒頭でバーンと示すことで、このマンホールに作品全体の「思想」を象徴させているようにも思える。「このアニメはこれで行きますんで、ヨロシク!」と決意宣言をするかのように、作り手の打ち鳴らす「号砲」であるかのように。

 この「歪んだ楕円」は他にも、直後に出てくる信号機など、本来は「正円」として描かれるはずの様々な物体にも適応される。このラフなフリーハンド感が、本作が表す世界観に独特の疾走感と心地よさを与えているのだ。

 「歪み」が"侵食"するのは円だけではなく、街そのものにも及ぶ。アートブックには街のコンセプトアートが載っているのだが、そこには「幼児が太いクレヨンで描いた感を出す」「ガサツな線で形を崩す」などの指示がわざわざ出されている。

 これはあくまでコンセプトアートのはずだが、実際の作品で描かれる街の背景をチェックしてみると、むしろさらに歪んでラフな感じの描かれ方になっていることがよくわかる。↓

 この「街」はタートルズたちが「見ている」街でもある。主役のタートルズがあくまでティーンエイジャーであり、人間社会や文化をまだよく理解していないがゆえの「解像度の低さ」の表現でもあるのだろう。だからこそ、「何かよくわからないけど不思議で楽しそうな街」としてのニューヨークが輝かしく見えてくる。こうした全年齢アニメ映画としては珍しいほど、シーンの大半を「夜の街」の描写が占めるというのも、本作のオリジナリティを増している。

 とりわけ面白いのは、本作のアートを貫く「歪み」が、主役のミュータントの造形や、物体や街の美術だけでなく、地上の人間のデザインにも適用されていることだ。

 本作には沢山の人間が登場するが、誰一人として「左右対称」ではなく、キュビズム的な美術表現も連想するほど、左右非対称かつ不均衡に歪んでいる。わかりやすく「異形」的にぐにゃぐにゃしているミュータントたちより、むしろ人間たちのデザインの方の「歪み」をこそ強く意識させる構造になっているのだ。

 こうした発想は、『ベルヴィル・ランデブー』(2002)で広く知られるフランスのアニメーション監督シルヴァン・ショメなど、ヨーロッパのアートアニメ的なキャラクター造形や美術と通じる部分もある。わざわざ露悪的に「醜く」描いているというよりは、現実の有り様を正確に写し取り、リアリティと生命感あふれる世界をユーモラスに構築しようとする試みなのだ。

 本作『ミュータント・タートルズ ミュータント・パニック!』のキャラクターデザイナーのウッドロウ・ホワイトも、アートブックの中で「人間のキャラクターもミュータントに負けないくらい変な見た目にしようとした」と語っている。「受容と疎外が本作のテーマ」であり、「人間を醜くすることで、ミュータント目線で物が見れて、タートルズにとっての人間の奇妙さがわかりやすくなる」と考えたという。 

 確かに本作の「歪み」は誇張されているといえるが、実は私たち現実の人間の外見にしても、自分で思っているほどに「左右対称」ではない。ためしに自分の顔写真の中心に鏡を立てて無理やり「左右対称」にしてみると、「あれ、なんか違うな…」と違和感を抱く人が大半ではないだろうか(実は目の大きさや位置、顔の輪郭なども左右で微妙に異なったりするため)。大抵のアニメなどで描かれる人間は、美しく左右対称に整っていることが多いが、むしろそれこそが「誇張」された表現ではないか…ということまで考えてしまう。

 生物である以上、キレイに「整って」いることなどなく、むしろみんな「歪んで」いるにもかかわらず、地下にすむミュータントだけが「気持ち悪い」と罵られ、石を投げられてしまう…。先述したマンホールは、タートルズたちが暮らす地下の世界と、人間たちが暮らす地上の世界をつなぐ「ドア」でもある。そんなドアまでもがぐにゃりと「歪んで」いる冒頭の絵は、本作の根本的なテーマを(どこか皮肉に)示唆しているように思えてこないだろうか。

 

◯愛すべき「歪んだ」キャラクターたち

 キャラクターもみな魅力的だ。まずはいうまでもなく、タートルズの面々がいい。リーダー的なレオナルド、パワー系のラファエロ、陽気なミケランジェロ、頭脳派のドナテッロという王道的なキャラクター造形の4人組ながら、たいへんリアリティのある「おバカなティーン感」を醸し出してくれる。

 まず基本的なことだが、原語版では4人とも声優をリアル「ティーンエイジャー」で揃えているのはエライ。本作の邦題は『ミュータント・タートルズ』だが、オリジナル表記は『ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ』であり、「ティーンエイジ」要素はタイトルに入るほど重要にもかかわらず、実はこれまでそれほど重視されてこなかった。ある意味では"当事者キャスティング"といえる、「リアル10代」が命を吹き込んだ楽しくカワイくバカな会話の数々が、本作のタートルズに嘘くさくない生命力を与えている。「大人が考えた都合良い子ども」感が限りなく薄いのだ。

 楽しさだけでなく、単なる子どもにすぎないカメたちが高い格闘能力と武器を振り回してる姿を見ると「大丈夫かな…」とちょっとヒヤヒヤするし、恐ろしげな目にあっているのを見ると「やめてあげて〜」と思ってしまうし、本当に子どもの振る舞いを観ているようで、良くも悪くも全体的に目が離せないスリルも生んでいる。こうした若々しい勢いを、本作のアートの「ラフな」タッチが倍増させていることも特筆すべきだ。(カメとはいえ)ティーンの描かれ方のリアルさとしては、けっこう本当にアニメ史に残る級ではないだろうか。

 カワイイだけでなく、アクション映画としてきっちりカッコいい場面も用意されているのはさすがだ。特に街の悪党たちの根城に乗り込むシークエンスで、全く同じ構図で複数の時系列のシーンをすばやく切り替えながら、シームレスにバトルを繋いでいく場面は凄い(言葉で説明すると伝わりづらいが…)。近年のアニメの中でも最大級にカッコよく、実写映画でもなかなか観ないような、スタイリッシュなバトルシーンとなっている。

 どのメンバーも魅力的だが、日本の観客にとって、オタク的な性格のドナテッロ(ドニー)は、特に印象に残るキャラクターかもしれない。というのも『進撃の巨人』のようなアニメなど、日本のポップカルチャーへの言及をちょいちょい挟んでくれるからである。『進撃』に至ってはクライマックスでけっこう重要な鍵を握ったりさえする。

 ちなみにアートブックで、ドニーが着てるパーカーのロゴが思いっきり『ジョジョの奇妙な冒険』であることに気づいたが、ジェフ監督が「"同士求む"という彼なりのサイン」と明言していた。ドニーの声優を務めた子が「ジョジョ」好きだったゆえのチョイスらしい。『進撃の巨人』といい、現代のオタク海外ティーンの日本アニメ受容もうっすら伝わってくるのも興味深かった。よく見るとゲーム機(ニンテンドー64!)にカービィのソフトがあったり、高校の掲示板に『ヒロアカ』のデクがいたりするので探してみよう。

 タートルズ以外でお気に入りだったキャラクターは、エイプリルである。

 カメラの前に立つと緊張して吐いてしまうという、ジャーナリスト志望者としてはそこそこ深刻な弱点を抱えながらも、決して諦めることなく夢とチャンスを狙う…という、繊細さとタフさを併せ持つ女の子だ。

 最悪の失敗場面が映像に残ってしまい、それがネットミーム化して拡散…というのは、本来ギャグですまされないくらい心の傷を残しそうな出来事だが、現代ならではの「ありそう」な顛末でけっこう怖い。しかしだからこそ、彼女が本作でたどるストーリーは、何か大きな失敗をしたり、人前で大恥をかいてしまった若者(や大人)を勇気づけるのではないだろうか。新時代の映像の力でのし上がろうとする少女という点で、監督の前作『ミッチェル家とマシンの反乱』の主人公ケイティとも通じる人格でもある。

 なお昔のアニメなどでは大人の白人女性として描かれていたエイプリルだが、近年ではキャラクターの再構成・再解釈が進み、2Dアニメ『ライズ・オブ・ザ・ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ』では黒人少女として登場している。↓

 本作『ミュータント・パニック!』のエイプリルもこうした流れを継いだと言えそうだが、がっしりしたリアリティのある体格やラフな服装など、Z世代的なルックが本作の世界観によくマッチしている。大人向け・子ども向け双方において、アニメにおける「少女」の描き方がどうしても「美少女」方向で画一的になりがちな日本でも、こうしたリアリズムあふれる魅力的なキャラクター造形に挑戦してほしいところだが…。

 ちなみにエイプリルの原語版の声優をアヨ・エデビリ(Ayo Edebiri)が務めていることを知り、嬉しくなった。大好きなドラマ『The Bear(邦題:一流シェフのファミリーレストラン)』の準主役といえるシドニー役の女優である。世間の絶賛にも納得するしかない傑作ドラマなので、本作のエイプリルが気に入った人は必ずこちらも観てほしい。邦題はひどいが…。

www.disneyplus.com

◯「歪んだ」世界のまっすぐなストーリー

 本作の美点を語る上で、どうしてもアニメ表現や美術に注目せざるをえないが、ストーリーもとても力強く、心を打つものだった。本作のストーリーの良さを語る点で、2人の対照的な重要キャラクターに光を当てたい。スプリンターとスーパーフライである。

 まず、ネズミのミュータントであるスプリンターは、タートルズの父親にして師匠のようなキャラクターだ。幼いカメたちを助けたことで、自分もミュータントに変異してしまい、それ以降タートルズを地下で世話することになる。ちなみに原語ではジャッキー・チェンが声を演じているだけあって、アクション的な見せ場も用意されている。

 そんなスプリンターだが、いちど「地上」に出た時、人間たちに化け物扱いをされて追い回されたことがトラウマとなり、タートルズにも地上に出ることを禁じて育てることになる。こうしたキャラクター造形に、現実のマイノリティ、とりわけアメリカの都市部で生きる移民・難民(やその子孫)の姿が反映されていることは疑いようもない。

 自分が受けた過酷な差別や弾圧が傷となり、若い世代に対して(傷ついてほしくないばかりに)抑圧的な振る舞いをしてしまう…という負の連鎖は、近年のアニメでも『私ときどきレッサーパンダ』や『マイ・エレメント』などでも暗喩的に語られた問題なのだが、本作『ミュータント・タートルズ ミュータント・パニック!』ではより直接的に光が当てられる。

 ここでも、キャラクター描写の「歪み」が重要な鍵となっていることに注目だ。タートルズにしろスプリンターにしろ、後に登場する他のミュータントにしろ、ごちゃごちゃ・グニョグニョした「歪み」が隠されずに表現されている。これによって、「僕たちを受け入れてくれる人間が他にもいるかな?」と尋ねるタートルズに対して、エイプリルが「いないよ」と返す(ひどい)場面も、まぁとはいえムリもないかな…と思えてくる。それほど生々しいリアリティを放つ造形になっているからこそ、現実のマイノリティのメタファーでもある彼らを取り巻く状況のシビアさが、嘘くさくなく伝わってくる。

 その意味で本作の「メインヴィラン」となるハエのミュータント、スーパーフライも興味深いキャラクターだ。

 原語版では有名ミュージシャンのアイスキューブが声を演じていることもあり、敵役とはいえチャーミングさや人間臭さも存分に発揮するキャラ造形となっている。多数派の人間に虐げられてきたことから、暴力による復讐や世界の撹乱を決意した人物という点で、『ブラックパンサー』のキルモンガーや、『羅小黒戦記』の風息(フーシー)に相当する、恐ろしげな一方で共感や同情をも誘う「悪役」キャラクターといえるだろう。

 なお少々ネタバレとなるが、スーパーフライがクライマックスで変身する「最終形態」が、異形の「わくわく動物映画」でもある本作を締めくくるにふさわしいカオスっぷりでアガるので必見だ。日本のゲーム『塊魂』や、イタリアの画家ジュゼッペ・アルチンボルドを参考にしたとアートブックに書いてあって、ズバリそんな感じだな…!と思った。

 ところで本作、当初は(冒頭でスーパーフライを育てていた)科学者バクスターがハエのミュータントになる…という話だったらしいのだが、やはりスーパーフライの出生は元々ハエだった方が物語として締まると判断したのだろう。そこにはスプリンターとの対比もあるのだと思う。

 スプリンターとスーパーフライは実は似た背景をもつキャラクターで、「プロフェッサーXとマグニートーのような関係性」だと作り手も語っている。どちらも多数派の人間に弾圧されたトラウマを持つと同時に、家族のような同胞への愛情も抱えている。2人は最終的に分岐することとなるが、スーパーフライを「邪悪」として片付けることもしづらい。元はと言えば2人を傷つけたのは、異なる他者を排除せずにはいられなかった人間の性質なのだから。

 だからこそクライマックスで、恐怖に怯えるスプリンターに差し伸べられるささやかな「救い」と、そこから始まる逆襲は、今年の全てのエンタメ作品でもトップクラスに熱く、感動的なものとして輝いている。ネタバレは避けたいが、『スパイダーマン』シリーズの過去作とも通じるようなカタルシスがあり、独特のタッチで描かれる「街」そのものが「もうひとりの主人公」であるような本作にふさわしい、文句なしに燃える展開だ。

 この展開に対して「あっさり手のひらを返しやがって…」という声もあるかもしれない(正直それも理解できる)が、本作は人間がまさにその「手のひら」を、異質な他者やマイノリティに対してどのように用いるべきなのか…と突きつける物語でもある。自分たちの「歪み」に気づくことさえなく、他者の「歪み」にばかり目をつけて、拳を握りしめ、排除するべきなのか。それともそうした「歪み」もまた愛することで、追い詰められた弱者に対して「手を差し伸べる」べきだろうか。人々が正しい「手の使い方」にたどり着くため、ジャーナリズムがいかに重要な役割を果たすかということも、唯一の善良な人間キャラであるエイプリルの活躍を通じて示されるのが巧みだ。

この素晴らしく「歪んだ」美しいアートで描かれたアニメ映画よりも、よほど不完全で不健全に「歪んで」いるようにも思える我々のリアル世界が、果たして本作の結末が示したような希望に向かって分岐できるのか…。それはまさしく私たちの「手」にかかっているということが、本作が最も伝えたかった「まっすぐな」メッセージではないかと思う。

 

ーーーーーー

 

ところで必須ではないが、観ておくとさらに『ミュータント・タートルズ ミュータント・パニック!』が楽しめると思われる配信作品がある。Netflixの『ボクらを作ったオモチャたち』シーズン3初回のタートルズ回だ。意外にも長く複雑に曲がりくねった『タートルズ』シリーズの歴史をざっくり眺めることができる。実はジェフ・ロウ監督も、この回を観てから『ミュータント・パニック!』を発想した、と語っていた。ラストで『タートルズ』を創造した(が後に仲違いをしてしまった)2人が、仲良く手描きのイラストを描いている姿は、今回の映画の美術に対して大きなインスピレーションを与えたのではないだろうか。

t.co

記事でも何度か紹介したがアート本『アート・オブ・ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!』もオススメ。美しいコンセプト絵とか設定イラストとかジェフ・ロウ監督やセスのインタビューとか色々のってて良かった。海外アニメのアート本が劇場公開と同時に出るとか滅多にない厚遇だし、ファンはゲットしようね(日本が最速出版らしいし)