沼の見える街

ぬまがさワタリのブログです。すてきな生きもの&映画とかカルチャー。

神回の後の静けさ。ドラマ『THE LAST OF US』第4話感想

ドラマ版「THE LAST OF US」、なんぼなんでも神回すぎた3話の後、はたしてどうくるかな…と若干ビビっていた。すでに散々語り倒したように、3話は正真正銘の傑作回であったし、このドラマの現代エンタメ史における重要性をある程度決定づけた、と言ってしまっていいだろう。

 

↓前回(神回オブ神回)

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先週はドラマを観てからというものビル&フランクのことをずっと考えていてしまい、他の創作物がイマイチ頭に入らないほどだった。きっと同様の人が世界中に沢山いることだろう…1000万人くらい…(←このドラマの視聴者数を考えるとそんなに大げさではない数字なのでこわい)

ただぶっちゃけ毎回3話のテンションで来られても逆に困るというか、そんな毎週ドラマに打ちのめされて放心してるわけにもいかないので、今回は(話的にも繋ぎ回だろうし)あっさりめでいいっすわ…などと思っていたほどだ。そしてその期待は当たることになる。……ある程度は。

 

以下ネタバレ気にせず感想書くので、U-NEXTで見てから読んでね。

『THE LAST OF US』U-NEXTで視聴 

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ーーー以下ネタバレ注意ーーー

 

【ジョエルとエリー、アメリカぶらり旅】

まるで『タクシードライバー』のトラヴィスのように、前回ビルの家でこっそり手に入れた銃を、鏡の前で突きつけてポーズをとるエリー。タフな彼女の微笑ましい一面ではあるが、結局の所まだ子どもであるがゆえの危なっかしさも垣間見えて、不穏な気持ちも生じる。

ビルとフランクの家から貰い受けた車で、2人はドライブを続けているが、ガソリン補給のために廃墟のスタンドに立ち寄ったようだ。エリーがおもむろにリュックからジョークの本を取り出して読むくだりは、DLC「Left Behind」の場面を思い出すわけだが、このジョーク本が今回、意外なほど重要な役割を果たすことになる。このように、ドラマ版ではすでに何度か「Left Behind」の出来事やモチーフがさりげなく言及されてきたので、このシーズンの中で「Left Behind」もやってくれるのではないか、と期待は高まってしまう(やれば3話級の神回になるでしょ絶対)。

ゲームでもあった、ビルのゲイ向けエロ本をエリーがくすねて車内で読むシーンもちゃんと再現されていた。セリフや構図もほぼそのままだが、ゲームでも荒んだ世界の雰囲気をエリーが明るくしてくれる印象的な場面だったので、ファンサービスとして気合いを入れたのだろう。ちなみにゲーム1作目では、キャラクターが性的マイノリティであることが明示される場面は実質的にここだけなので、こうした表現に関してその後ラスアスシリーズがいかに格段の進歩を遂げていくことか、ちょっと思いを馳せてしまう。

しばらく進んだ後、野外でキャンプを始める2人。「焚き火はしない」というやりとりから、感染者よりも人間に警戒せざるを得ないという、世界の荒廃っぷりがそれとなく示される。2話で登場したクリッカーを筆頭とする感染者はたしかに恐るべき脅威だが、結局のところ行動パターンがはっきりした猛獣のような存在にすぎないとも言える。真に恐るべきは、やはり人間である…というのは、原作ゲームとも共通する世界観だ。そんな不安な夜であっても、エリーのダジャレクイズにジョエルが「正解」を出してしまう場面には暖かさがある。

翌朝ジョエルがキャンプでコーヒーを飲む場面も、地味に注目したい。ジョエルは原作ゲームでは探索中に「あ〜、コーヒーが飲みたい…」などと呟きつつ、今はめったに飲めないのであろうコーヒー愛を露わにしていたし、『The Last of Us Part II』でも彼のコーヒー大好き設定が生かされていた。しかしドラマ版では、一応コーヒーっぽい飲み物は普通に飲んでいるようだ。「焦げたウンチの匂い」とか言われて、むくれたように音を立てて飲み干すジョエルが萌えである。ちなみに焦げたウンチ呼ばわりは、文明崩壊後の生まれのエリーがコーヒーの匂いを知らないゆえなのかと思ったが、ラスアス世界で本物の(良い香りのする)コーヒーが流通してるとも考えにくいので、実は本当に劣化してヒドイ匂いのコーヒーな可能性も高い…。

そんな感じで、この4話はジョエルとエリーのやりとりなど、けっこう笑いの要素が多かったり、良い意味で力の抜けた感じも程よく、神回の直後に見るにはちょうどいい感じの繋ぎ回になっていた……と言いたいところだが、それだけでは決して済まさないのも、やはりラスアスである…。

 

【ラスアス2先取り?なしんどさ】

というのもこの4話で、早くも続編ゲーム『The Last of Us Part II』のテーマ性を強く想起せざるをえない場面が現れるのである。先ほど「真に恐ろしい敵は人間」と言ったが、『The Last of Us Part II』はその「敵もまた人間である」という事実を、おそらくゲーム史上最も高い解像度によって描いた作品と言って良いと思う。たとえば、モブの敵キャラにも全員名前があり、殺そうとすると命乞いを始めたり、その死体を見た仲間がそいつの名前を泣き叫びはじめたりするという、ほとんど嫌がらせのような細かい処置が加えられている…。その結果、ガンガン人を殺していくゲームにもかかわらず、殺人や暴力がもつ取り返しのつかない重みを常に突きつけられたまま進行するという、まさに「プレイする地獄」のような有様になっているのだ。まさにそれこそが『The Last of Us Part II』を傑作足らしめているわけだが…。

このドラマ版4話では、ジョエルとエリーから見れば「敵」にあたる組織の内情が、けっこう詳しく描かれていくのも印象深い。ドラマ『イエロージャケッツ』(これもU-NEXTで見れます)にも出ていたメラニー・リンスキーが演じる、組織のリーダーである「キャスリン」という中年女性のキャラクターに光が当たり、敵には敵の事情があることが描かれていく様子も非常に『The Last of Us Part II』っぽいと言える。ゲームでもおなじみの黒人青年のキャラクター・ヘンリーと因縁があることが示され、このキャラや関係がどう転んでいくのか読めないが、ドラマならではの展開が見られることはまず間違いなさそうだ。ビル編が大きく変更されたことで出番が延びた中ボス・ブローターも、満を持して登場する気配なので楽しみである…。

そしてジョエルとエリーが「敵」である人間たちの罠にはまり、やむをえず戦闘になって相手を殺害していく場面は、何より『The Last of Us Part II』の思想を大いに感じさせた。ストーリー進行の上では単なる「モブ敵その1〜3」とかに過ぎない彼らもまた、この崩壊世界で共に生きてきた者同士であり、仲間が殺されれば当然だが大きなショックを受ける。仲間を殺したジョエルの命を奪おうとした寸前、後ろからエリーに撃たれた若者は、必死で命乞いを始め、ブライアンという名前を名乗り、ジョエルに「むこうに行ってろ」と言われて立ち去るエリーに「行かないでくれ」と懇願し、「お母さん!」と叫びながら、ジョエルにトドメを刺されることになる…。とても「主人公たちが協力して敵をやっつけたぞ!」という場面とは思えない、あまりに悲惨すぎる描かれ方である。だが本来「誰かをやっつける」というのは、リアルに描写すればこういうことなのだ…。

そんな本物の、ひたすら陰惨なだけの暴力の場面を目にしてしまったエリーは、銃をジョエルに手渡す。ゲーム版では、勝手に銃を撃ったエリーに対して、ジョエルは怒りを表明するわけだが、ドラマ版ではまったく違った反応になっていた。自分が不甲斐ないせいで、エリーに暴力を振るわせることになってしまい、申し訳ない…と謝罪するのだ。その謝罪を聞いたエリーは、自分が傷ついていたことに今気づいたかのように涙を流す。ゲーム版ジョエルの(たぶん自分の不甲斐なさへの苛立ちも混在した)怒りも理解できなくはないが、ここはドラマ版ジョエルのほうが、大人の子どもへの態度としてはずっと適切なように思う。

悲惨な出来事はあったとはいえ、ジョエルとエリーは目前の危機を脱するため、ビルに登っていく。高層階の一室で夜を明かすことにした2人。眠る前に、エリーが再びしょうもないジョークを言い、今度こそジョエルは思わず吹き出してしまう。声に出して笑うほどにジョエルがはっきりと笑顔を見せたのは、おそらく第1話の20年前の場面以来だろう。亡くなった娘・サラが残した傷が癒えることは決してないが、ジョエルとエリーという孤独な2人が築く擬似親子的な関係は、次第に深まっていくのだった。

しかし穏やかな夜は続かず、目を覚ませばそこには銃口を突きつける黒人少年の姿が…!というところで4話は幕を閉じる。いよいよ『The Last of Us』シリーズを(色んな意味で…)最も象徴するサブキャラクター、ヘンリー&サム兄弟が登場…というわけで、期待が高まっていく。 というわけで4話は、神回の直後にちょうどいい(比較的)静かな回でありながら、ゲームに忠実な再現と巧みな再構成をうまく織り交ぜながら、ラスアス2を想起する辛い展開や興味深い改変などもブチこんでくるという、相変わらず目が離せないドラマであると実感させられた。

ちなみにだが、第5話は来週の月曜ではなく、今週の金曜(2/11)配信らしいので気をつけよう。ゲームファンにはおなじみの、山寺宏一さんや潘めぐみさんの吹き替え版も2/13から配信スタートするので、楽しみに待ちたいところだ。

 

『THE LAST OF US』U-NEXTで視聴 

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ド迫力な小さい話。『イニシェリン島の精霊』感想&レビュー(ネタバレあり)

あらすじだけで思わず観たくなる映画は沢山ある。女の子が巨大なレッサーパンダになってしまう映画悪者が人類の数を半分に減らしてしまう映画黒人が経営する牧場をUFOが襲う映画2人の最強のインド人が出会い、とてつもない関係を築く映画…。万人に開かれたエンタメである映画には、こうした「一言でわかりやすく面白さを説明できる」キャッチーさが求められるものだ。

その一方で…「おじさんが親友のおじさんになぜか嫌われちゃった!どうしよう」というあらすじの映画もある。「知らねえよ……」としか言いようがない。しかし、そんな映画『イニシェリン島の精霊』がこんなにも面白いのだから…映画とは、実に豊かで奥深いものではないか。

 

【過激なまでに「小さな」話】

本作『イニシェリン島の精霊』は、過激なまでに「小さな」話だ。1923年、アイルランドの西海岸に浮かぶイニシェリン島で、お人好しの男パードリック(コリン・ファレル)が、なぜか突然、長年の友人のコルム(ブレンダン・グリーソン)に絶交を告げられてしまう…という話である。

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↑この『イニシェリン島の精霊』の予告編を観るだけで、本作の「小ささ」は実感できることだろう。世界を股にかけるアクション大作や、派手なエフェクトを駆使したアニメなど、とにかく「"大きな"話だよ!観てね!」と観客の期待を煽る映像が次々と流れるシネコンの劇場で、本作の予告編を目にした時、そのスケールの圧倒的小ささに、まるで他の映画に喧嘩を売ってるような「尖り」さえ感じた。

一応言っておくと本作のように、傍から見れば極めて小さな問題や出来事を扱った「小さな」映画自体は決して珍しくはない。舞台や人間関係が狭いまま会話メインで続行する作品は(特にアート系の映画では)無数にあり、「演劇的」と称されたりもする。アメリカの片田舎の町が舞台の、マーティン・マクドナー監督の前作『スリー・ビルボード』もそのひとつだろう。

だがとりわけ本作『イニシェリン島の精霊』は明確な意図をもって、格段に「小さな」物語であることが強調されているように思える。

たとえばオープニングだ。島の名産だというレース(編み物)も連想させる、岩だらけの島を空から映した鮮烈なショットで本作は幕を開ける。その無骨で神々しさすら感じさせる、寂寞とした島の自然のスケールの大きさと、人間たちが織りなす(レースだけに?)小さすぎる関係のこじれを対比させることで、人間がいかに「小さな話」に囚われ続ける些末な存在であるかを際立たせているかのようだ。

…しかし、である。「小さな話」であるからといって、それが「小さなこと」であるとは限らない。まじめに想像してみてほしいが、 私たちの現実の人生で、もし本当に、長年付き合っていた友人から、ある日突然嫌われたとしたら…? そんな出来事がもたらすショックは、レッサーパンダに変身したり、巨大UFOが襲ってきたり、人類の数が半分になったりすることの衝撃に、比肩しうるのではないだろうか…。それが言い過ぎたとしても、いざ自分の身に降りかかれば「知らねえよ…」では済まされないインパクトを及ぼすことは確かだ。そんな「ド迫力な小ささ」を体感できるのも、また映画なのである。

 

【あなたはコルム?それともパードリック?】

『あなたはボノボ、それともチンパンジー?』みたいになってしまったが、それはともかく…。

本作のダブル主人公である、パードリックとコルム。2人は友達だったのになぜ…というあらすじなわけだが、実はその関係性にはけっこう謎な部分も多い。というのもこの物語が始まる前に、2人が本当にどんな関係だったのかは、回想などでも全く明かされないまま物語が進行していくので、観客としては想像するしかないのである。パードリック視点の言いぶんを信じるとするならば、2人は本当に親友で仲が良かったと言えるのだろうが、それをコルム視点から裏付けるような証拠は何もない。

ただしヒントと言うべきか、本作にかなり重要な文脈を与えていそうな作品がある。マクドナー監督の15年前の映画『ヒットマンズ・レクイエム』(2008)だ。パードリック演じるコリン・ファレルと、コルム演じるブレンダン・グリーソンは、その時もダブル主人公を演じたコンビなのである。『ヒットマンズ・レクイエム』は、ベルギーの古都ブルージュで2人の殺し屋が雑談したり観光したり、酒場やホテルでウダウダ揉めたり、命の危機に陥ったり、自らの取り返しのつかない過ちに向き合ったりする、やや癖は強いものの独特な面白さのある映画だ。そのファレルとグリーソンが醸し出すケミストリーを、マクドナー監督も大いに気に入ったからこそ、15年後にもう一度2人の共演を『イニシェリン島の精霊』でセッティングしたのだろう。

よって『イニシェリン島の精霊』は、『ヒットマンズ・レクイエム』の実質的な続編である…とまで言えば明らかにおかしいが、こうした文脈を監督がわざわざ用意したことを考えれば、2人の間に『ヒットマンズ・レクイエム』を想起するような深い繋がりが、かつては確かに存在した、それなのに……といったん素直に考えるほうが、本作を読み解く上では適切と言えそうだ。

そして本作を観る前は、「なんでパードリックはコルムに急に嫌われちゃったの?」という謎が、物語のメインになるのだろうと考えていた。たぶん映画の後半くらいまではその謎を引っ張るんだろうな〜と。たとえば、実はパードリックが本当に嫌われても仕方ないようなひどいことをしていた…という展開もありうるし、最後まで「なぜ嫌われたか」明らかにならないパターンもあるかも?とか予想していた。だが予想を裏切って「答え」はあっさり、開始数分ほどでコルムの口から明かされる。

パードリックがコルムに急に嫌われちゃった理由とは……要するに「パードリックがつまらない人間だから」という、あまりに身も蓋もない答えであった。つまらない人間とずっと一緒にいて、つまらない話を聞いてきて時間を無駄にしてきたから、今後はお前のようなつまらない人間とは縁を切り、(音楽のように)真の意味で自分や世界にとって価値がある営みに没頭したい、だからもう話しかけるな、とコルムはパードリックに告げるのだ。

………。思わず絶句してしまうほどの身も蓋もなさであり、あんまりといえばあんまりな言い分なのは間違いない。「長年の友人に対してそれはないだろ」とコルムを正論で非難するのも容易い。だが、本作の恐ろしいところは、そんなコルムの「ひどい」考え方に、「あ〜〜〜…わかるかも……」という気持ちも湧いてきてしまうことだ…。

たしかに芸術や創作は、人の人生を変えるような力を持つ、とても大切な人間の営みだ。一方だからこそ、芸術や創作を追求することには、常にシビアさがつきまとう。才能やセンスも不可欠だが、何よりも絶え間ない修練に時間と労力を捧げる覚悟が必要だし、そのための時間は多ければ多いほど、良いものを生む上で「有利」なことも確かだろう。

絶対的な事実として、人生の時間は誰しも限られている。だとすれば、何の役にも立たない上に面白くもない人間関係はさっさと全部「切って」、その時間を真に価値のある営みに費やしたい、というコルムの率直すぎる言葉は、そうした観点からは理解できてしまう…どころか、むしろ「合理的」な態度にさえ思えてきてしまうのだ。

これは私がクリエイター方面に属する人間だからかもしれないが、しかしここでの「芸術」を他の仕事だとか、スポーツとか、学問だとか、何かしら人間の営みの中で「価値のある」とされるものに置き換えたとしても、上記の理屈は成立する。コルムとパードリックの諍いで描かれるのは、初見では「知るかよ…」となるような、あまりに個人的な小さな問題でありながら、同時に極めて射程の広い、普遍的な問題なのだ。

マクドナー監督はインタビューの中で、「日々の暮らしのなかで誰もがコルムであり、またパードリックでもあります」と語っている(パンフレットより)。たしかに、この世に「価値のある」とされる営みがあり、人間がその実現に向けて「合理的」に行動しようとする以上、コルムのような立場にも、パードリックのような立場にも、どんな人でもなりうると言えるのではないか。

「いや〜、パードリックならともかく、自分はコルムではないよ。別に芸術や創作の才能もないし、人を見下せるような能力やセンスもないし。"切られた"ことはあっても、誰かを"切ったり"なんかしないよ」と思う人もいるかもしれない。

だが本作ほど極端な状況ではないとしても、たとえば「こんな面白くもない飲み会、さっさと帰って自分の好きなことをしたいな」くらいのことは、誰しも思ったことがあるだろう。さらに「なんとなく知り合って付き合うようになったけど、一緒にいても正直あまり面白くないんだよな…」「昔からの友人だったけど、久しぶりに会ったら全然気も話も合わなくなってて、なんかガッカリした」などなど、思い当たるフシはないだろうか…?

さらにもっと身近で矮小な、たとえばTwitterのようなSNSを例にとってみると、コルム現象(?)の生々しさがいっそう増す。 なんとなく相互フォローになったはいいけど、正直なんか「ちがうんだよな」と思っちゃったり、発言にじわじわ幻滅したりして、いいねもリプもしなくなったり、フォローを外したり、外すと角が立つからミュートにしたりして、結局なんとなく疎遠になったりとか……そういうことが一度もない、とあなたは言い切れるだろうか…?(書いてて辛くなってきたが。) あまりにささやかではあるが、それでも誰かを「切った」経験には違いない。「切られた」人から見れば、あなたはコルムである。

一応言っておくと、当然ながら人間関係は本人の自由であるし、違和感を覚えたら離れていくのは何一つ悪いことではなく、むしろ望ましいことの方が多いだろう。だが「より良い・価値のある人生のために、誰かを・何かを"切って"いる」という点では、本作の(次第に常軌を逸していくように見える)コルムの振る舞いと、私達の日常のあれこれは、本質的には変わらないと言えるのではないか…。そんな風にまで思わせる、絶妙に普遍的なバランスの物語となっているのだ。ファレル演じるパードリックがまた、「こいつの話、マジでつまんねーんだろうな…」とリアリティを感じさせてくれる佇まいをしてるのも、この嫌に生々しい物語の迫力を増している…。

 

【"芸術のために全てを捧げる"と言うけれど】

一方で本作『イニシェリン島の精霊』は、パードリックを「切ろう」とするコルムの(つい気圧されて納得してしまいそうになる)言葉や考え方を、ただ肯定するような作品では決してない。むしろ、そのいっけん合理的な理屈の影に潜む一種の傲慢さが、いかに恐るべき事態を招くことになるかを、鮮烈な形で描き出してもいる。

コルムはアイルランドの伝統的なバイオリンである「フィドル」を演奏し、作曲してきた経験から、芸術がいかに価値のあるものかを実感したのだろう。人間自身は死んだら消えてしまうが、人の生み出した音楽や絵画や詩のような芸術は、永遠に残るはずだ…とコルムは言う。ここまでは概ね、誰もが同意できることだろう。

だがコルムはさらに、「モーツァルトのことを覚えてる人は大勢いても、その時代の"優しいやつ"を覚えてるやつなんかいない」と、パードリックに言い放つ。「優しさ」のように、音楽や芸術の"価値"のようには、時代を超えて記憶されるような"価値"とは言えないものを、コルムは正面から否定してみせるのだ。その"価値"観から言えばたしかに、パードリックのような「退屈なお人好し」は、コルムの人生から居場所をなくしてしまうのかもしれないが…。

コルムの言う「芸術の永続性」は(映画を含む)創作物の中でも「良きもの」として語られることが多い。たしかに「人が死んでも芸術は残る」ことは、素晴らしいことだ。だがそれを重視するあまり、「いつか死んで忘れ去られるだけの人間なんてどうでもいいから雑に扱って、真に価値のある芸術のみに集中するべきだ」とまで言ってしまうと、雲行きが怪しくなってくる。それは現実に周囲で生きている他人を軽んじる考え方であり、自分自身のことさえ単なる「芸術を生み出すための機械」に変えてしまいかねないのだから…。そもそも芸術は、基本的には生を豊かにするための営みなのだから、そのために他者や自分を踏みにじってしまえば、本末転倒ではないだろうか。

もっと射程を広げてみると、「芸術のために全てを捧げる」と言えば聞こえはいいが、その思想がいくらでも有害なものになりうることは、映画/エンタメファンこそよく知っているはずだ。たとえば、MeToo運動で告発されたプロデューサーのワインスタインであるとか、自分に逆らえない立場の人間を食い物にしてきた映画監督や有名俳優であるとか、やりがい搾取の違法労働で若い才能を使い潰す制作陣であるとか…。そんな蛮行がつい最近まで、いや今も、海外だけでなく日本でも、「芸術」や「エンタメ」の旗印の下で堂々とまかり通っている。

その背景には、「芸術の価値は絶対的な正義だから」「クズみたいな振る舞いでも、良い作品を作りさえすれば良いから」「作品のためには犠牲は仕方ないから」という不文律も大いに影響していたのではないか。「芸術のために全てを捧げる」という美しいフレーズには、業界の腐敗を温存するための免罪符として使われてきた、醜い側面もあるのだ。

少々話を広げすぎたかもしれないし、フォローしておくと本作でコルムは、なにも他人を傷つけたり、弱者を搾取したりするわけではない(むしろそうした醜悪な人間に立ち向かうシーンもあるほどだ)。しかし「芸術のために全てを捧げる」こと、すなわち「何か崇高なもののために周囲の人や自分を犠牲にすること」がもつ危うさや恐ろしさは、本作のコルムの振る舞いを通じて描かれていくことになる。それが最も強烈に現れるのが、中盤のあるショッキングな展開だ。

 

 

ーーー以下、大きめのネタバレ注意ーーー

 

 

【切って、切って、切りまくる】

突然の絶縁を告げられ、自分が「切られた」ことに納得がいかないパードリックは、諦め悪くコルムに関係の回復を持ちかける。それにしびれを切らしたコルムは「これ以上関わってくるようなら、自分の指を切り落としてやる」という恐ろしい警告をパードリックに告げる。予告編でも流れたシーンだが、要は「それくらいお前のことが嫌いだから、もう絶対に話しかけるな」という脅しであると、普通は解釈するだろう。

だがなんと中盤で、なおもしつこくパードリックに食い下がられたコルムは、その「脅し」を実行して、本当に自分の指を切り落としてしまう! パードリックの家の扉に、無造作に投げつけられるコルムの血染めの指…。「おじさんとおじさんが仲違いしちゃった」という小さすぎる話から始まったこともあり、わりとユーモラスな雰囲気にも満ちていた本作が、観客に冷水をぶっかけるようなダークさに転じる衝撃の場面である。さらに、その後…事態はもっと深刻な方向へとエスカレートしていくのだ。

本作を観た人の多くが抱くであろう、最も不条理な謎が、「なぜコルムは指を切り落としたのか」であることは間違いない。そもそもコルムは、音楽に集中したいからこそパードリックに絶縁を告げたはずだ。それなのに、パードリックがしつこいからと言って、演奏のために必要不可欠な指を切り落としてしまっては、まさに本末転倒ではないか…? 

真っ先に思ったのは、この行動はコルムによる「他人への脅し」であると同時に、「自分自身への戒め」なのだろう…ということだ。もしかしたらコルム自身の中にも残っている、パードリック含む他者や世間への未練を、文字通り「切り落とす」意味もあったのではないか…と思った。

そう解釈すれば、この「切断」が、さらにとんでもない方向にエスカレートしていった事態も、ある程度は説明できる。コルムへの怒りと嫉妬に駆られたパードリックが、コルムの音楽活動を邪魔するために意地悪な行動に出る。その後パードリックは、コルムといったん仲直りしかけたことでつい油断したのか、それをポロッと告白してしまう。それを聞いたコルムは、なんと左手の残った指も全て切り落としてしまうのだ…!

いよいよ完全に常軌を逸した行動としか言えないが、コルムのそんな暴挙は、「芸術に全てを捧げる」という誓いを破り、いったんはパードリックに心を許してしまった自分自身への「戒め」のように、もっと言えば「罰」のようにも見えてくる。

この「罰」を理解するためには、コルムが自分自身のことをどのように思っているのかを考える必要がある。コルムは確かに素人離れした腕前をもつ演奏家・作曲家だが、とはいえモーツァルト級の天才かと言えば当然そんなことはなく、作品を残すことに成功したとしても、コルム自身が恐れるように「忘れ去られていく」可能性も十分あるだろう。だからこそ、コルムはパードリックを「切って」まで、「芸術に全てを捧げる」ことを決意したわけだ。

だが「優しさに何の価値がある?」とバカにしていたコルムもまた、パードリックへの優しさや思いやりを完全には捨てきれない。それは、警察官によるひどい暴力からパードリックを助ける場面などからも明らかだろう。そしてパードリックの必死の説得によって(彼のひどい妨害行為に気づくこともなく)いったんは彼に心を再び開き、コルムは「優しさの世界」に帰ってきてしまった…。コルムは、むしろパードリックのことよりも、そんな自分自身が許せなかったのだろう。

…とはいえ、である。やはりフィドルの演奏に身を捧げるために、よりによって指を切り落としてしまうというのは、完全に矛盾して見えるのは確かであり、血まみれの傷が癒えぬうちにパブでフィドルを演奏(指がないので打楽器みたいにしか使えていないが…)し続けるコルムの姿は、狂気の沙汰としか言えない…。本作はコルムの奇行によって、もはや理性的な解釈を許さない突飛な奇作になってしまったのだろうか。

 

【小さな諍いと、大きな戦争】

いや、解釈を諦めるのはまだ早い。ここで重要になってくるのが、本作『イニシェリン島の精霊』の時代設定と社会背景である。具体的には、パードリックとコルムの諍いと並行してそれとなく示唆される「アイルランド内戦」に注目するべきだ。

約700年もの間イギリスに支配されていた(『ウルフウォーカー』でもおなじみですね)アイルランドは、ようやく「アイルランド自由国」の地位を1921年に獲得した。だが、翌年には講和条約の批准を巡って、国内が賛成派と反対派に分裂し、世にいう「アイルランド内戦」が勃発してしまう。1922年4月には、反対派のアイルランド共和軍IRAが首都ダブリンの裁判所を占拠するという大事件も起きた。

本作『イニシェリン島の精霊』では、パードリックがカレンダーを見る場面で、時代設定が1923年であることが明示される。だが並行して起こっているはずのアイルランド内戦の様子は、イニシェリン島と海を挟んだ本土から鳴り響く爆音や煙の様子から、あくまで間接的に示されるのみだ。

しかしそのことがかえって、パードリックとコルムの小さすぎる諍いと、はるかにスケールの大きい歴史的な内戦の間に、どこか相通じるものを感じさせる。なんらかの永続的な価値を求めることから始まり、対立がエスカレートしていく過程で後に引けなくなり、他者も自分も犠牲にすることを余儀なくしているうちに、自分にとって真に大切だったはずのものさえも失ってしまう…。この大きな世界の様々な「争い」を、世にも「小さな物語」として寓話的に描いた作品として本作を見れば、指を切り落とすというコルムのいっけん理解不能・解釈不能な行動も、どこか普遍性を帯びたものに感じられてこないだろうか。

内戦に限らず、歴史の教科書に乗るような、そして今もまさに進行中の「大きな」戦争であっても、元をたどっていけば、その起源はパードリックとコルムの争いのように、とても個人的で私的で「小さな話」から始まるのかもしれない。本作は「個人的なことは政治的なこと」という有名なフレーズをさりげなく、しかし正面から体現してみせる映画と言えるだろう。さらにつなげると、マーティン・スコセッシの金言としてアカデミー賞授賞式でポン・ジュノ監督が引用した「最も個人的なことは、最もクリエイティブなこと」という言葉も思い出した。

こうした創作の本質を捉えた考え方は、コルムがパードリックに告げていた「身近な人間と無駄な時間を過ごしていないで、芸術のように崇高なものに専念すべきだ」という考え方に対する、鋭いカウンターになっていることにも注目したい。

本作『イニシェリン島の精霊』は、それこそ「知らねえよ…」となるような「極めて小さな個人的な諍い」を描きながら、争いの本質という「極めて大きな社会的なテーマ」を捉えてみせる創作物だ。つまりコルムが見下し、距離を置こうとしている「個人的なこと」は、いっけん無駄で無価値なようでも、芸術の核心である「クリエイティブなこと」に直結している。『イニシェリン島の精霊』は作品そのものを通じて、実はコルムの主張に真っ向から反対してみせる、奥深い映画でもあるのではないだろうか。

 

【わくわくどうぶつ映画『イニシェリン島の精霊』】

最後に動物好きとして言っておきたいが、本作は思ってた以上に「どうぶつ映画」だった。大自然に囲まれたイニシェリン島での生活を示すための単なる背景を超えて、動物が物語上でかなり決定的な役割を果たしているという点も、本作の「どうぶつ映画ポイント」を高くしている。ロバ氏も犬氏も演技がうますぎたし、なんらかの賞をあげてほしいものだ。島の日常生活に溶け込んだ馬や牛も、記憶に残る役回りを果たしていた。窓から「どしたの」て感じにパードリックを覗き込む牛とか可愛かったね…。

ただし「わくわくどうぶつ映画」とは言いつつも、特に可愛らしいロバのジェニーに起こる悲劇には悲しい気持ちになったのだが、単なる露悪表現ではなく、必然性がある描写であることは強調しておきたい。個人の小さな諍いがどんどんエスカレートして引っ込みのつかなくなった「争い」が、いかに罪のない弱者を傷つけ、取り返しのつかない惨禍をもたらすかを、鮮烈かつ象徴的に表現した場面である。バリー・コーガンの演じる、風変わりだがどこか憎めない若者ドミニクがたどる悲惨な運命も、イノセントな動物たちの姿と重ねられていたように思えた。

そしてラスト、犬が決定的に重要な役割を果たすことも、「どうぶつ映画」としての価値を高めている。パードリックとコルムの対立はエスカレートを遂げ、もはや取り返しのつかないほど深刻化し、2人の仲が修復されることは決してないのかもしれない。それでも、かつてコルムがバカにしたパードリックの「優しさ」は、たしかに彼の愛犬の命を救った。パードリックはそのことに対する感謝を、素直にコルムに告げる。最後の最後に、真の意味で温かな気持ちに満ちたやりとりが、一瞬だけ2人の間で交わされるのだ。

マクドナー監督の前作『スリー・ビルボード』でも鮮烈に描かれたテーマだが、どこにも出口がないような憎しみの連鎖を和らげ、終わらせることができるのは、やはり誰かの小さな「優しさ」なのかもしれない。たとえ「無価値」と軽視されても、それだけがこの争いの絶えない社会に残った光明なのではないだろうか。

「モーツァルトは記憶されても、"優しいやつ"のことなんて誰も覚えてない」とコルムは言った。その通りかもしれない。それでも、人の"優しさ"が救った犬を間に挟み、海を見つめ続ける2人を捉えた美しいラストシーンを、私たち観客は覚えていることだろう。

読んだ本の感想まとめ(2023年1/29〜2/5)

読んだ本の感想まとめです。今週は映画を(劇場や配信や試写で)いっぱい観たり、ドラマ『THE LAST OF US』第3話にひたすら打ちのめされてビルとフランクのことを一生考えていたりして忙しかったので大して読めてないが、もう毎週やったほうがいっそリズムが生まれるのかもしれない。

 

↓前回

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<今週読んだ本>

『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』國分功一郎

『森の力 植物生態学者の理論と実践 (講談社現代新書) 』宮脇 昭

『ナショナル ジオグラフィック日本版 2023年2月号』

『珈琲の世界史 (講談社現代新書) 』旦部幸博

番外『Animage (アニメージュ) 2023年』 02月号

 

 

『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』國分功一郎

 

なんで急にスピノザの入門書なんて読み始めたかというと…(という文脈を書いておかないとけっこう忘れてしまうのである)

前回紹介した『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』という解説本がけっこう面白くて、もう1回元の本『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』を読み直していたんですね。

その『ブルシット・ジョブ』の中に、スペインのとある公務員が、6年も仕事をサボって哲学者スピノザの研究に(専門家レベルに達するほど)没頭していたのだが、6年間のあいだ誰ひとりサボりに気づかなかった…という凄いエピソードがあった。言うまでもなく職務怠慢の究極バージョンであるし、もちろんダメはダメなのだろうが、ちょっと畏敬の念も抱いてしまったんだよね。

『ブルシット・ジョブ』によると、その公務員への仕事は上司からほとんど嫌がらせ的に割り振られたということなんだけど、そんな無意味な仕事をブッちぎって、真に自分にとって意味のあるスピノザ研究にその時間を費やして、ついには専門家レベルにまで到達した…ということになる。まぁ日本で似たようなニュースがあったら絶対総たたきだろうし、さすがに最近はそんな仕事はめったなことで成立しないだろとも思うんだけど、なんだか胸がスッとする話だし、人間の可能性すら感じてしまった。

逆に言えば、仕事中でも別にみんながずっと忙しいわけでもなかろうし、職場でも暇な時は読書くらい堂々とできるようにしてくれれば、まだまだ世の中の知性が底上げされるポテンシャルって全然あるのでは…?とか思わざるをえなかった。もっと本も売れて、(私とか)クリエイターも潤うかもしれないし…。

私自身も(今はフリーランスなので良くも悪くもそんな状況に置かれることは考えづらいが)現実でそういうブルシットなジョブを強制されるような状況になれば、例のスピノザ公務員のような方向性で、システムの隙をつきながら、何か自分にとって意義あることをやろうと企てるかもな〜と想像したりした(それが難しい場合がほとんどなのだろうが…)。

前置きが長くなりすぎたが、『ブルシット・ジョブ』のスピノザ公務員の話を見ていたら、ちょっとスピノザ哲学そのものに興味が湧いてきた。世の中やブルシットなシステムへの反逆として学ぶ価値があるとその公務員は思ったわけだから。ただ初心者には難解という話もよく聞くので、とりあえず入門的な新書を読んでみるか…と。そこで読んでみたのが、この『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』というわけ。

スピノザの理論はとても一言で言えるようなもんではないし、詳しくは本を読んでほしいわけだが、本の中で紹介されていた以下の1節が良いなあと思った。

もろもろの物を利用してそれをできる限り楽しむ〔……〕ことは賢者にふさわしい。たしかに、ほどよくとられた味のよい食物および飲料によって、さらにまた芳香、緑なす植物の快い美、装飾、音楽、運動競技、演劇、そのほか他人を害することなしに各人の利用しうるこの種の事柄によって、自らを爽快にし元気づけることは、賢者にふさわしいのである。

(第四部定理四五備考)

難しめな言い回しではあるけど、要するに賢者とは「楽しめる」人のことなんだ、と言ってるのだろう。ブルシットな世のアレコレを打ち砕き、生きることを心から楽しむためにも、哲学が必要なんだと。件のスピノザ公務員の心をひきつけたのも、こういうところにあるんだろうな。

さっそくスピノザの原著『神学・政治論(上) (光文社古典新訳文庫)』も読んでみたりしたわけだが、初っ端からけっこうフルスロットルでかましてくるため、当然だがとてもじゃないが入門書をちょっと読んだくらいで理解できる哲学ではないだろう…とも思う。ただその根底にある思想は何か大事なものだと、入門書レベルからも感じ取ることはできたので、今後もスピノザ先輩のことを気にかけてみたいところ。

購入→『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』

 

 

『森の力 植物生態学者の理論と実践 (講談社現代新書) 』宮脇 昭

↓この「都市の再野生化」にまつわるCNNの記事を興味深く読んでいたら…

www.cnn.co.jp

海外でもその手法が高く評価されているという、著者の宮脇昭さんの名前が出てきたので、著書も読んでみたのだった。若い頃から森林再生や植林に深くコミットしてきた人生を振り返りつつ、今後の日本の「森林」のあり方を語っていく本で、「日本一木を植えている科学者」として名高いのも頷ける情熱と知識量だな…と感銘を受ける部分も大きかった。

ただ一方で、これは著者さんが高齢ということもあるだろうし、この方だけの問題というわけではないと思うんだが、わりと素朴に「日本人の精神」「日本のDNA」的な、ぶっちゃけ非科学的だし排外的なナショナリズムにも容易に転じうることを無批判に称揚しだすくだりがあり、正直ヒェ…となる部分もあった。いかに専門領域の知識が豊富とは言え、そこは少し突き放した距離感をもって読む必要がありそうだなとは。ただ一読の価値ある本だと思うし、生態系や動物を考える上でも植物に向き合わねば、の想いを新たにした…。

購入→『森の力 植物生態学者の理論と実践 (講談社現代新書) 』

 

 

『ナショナル ジオグラフィック日本版 2023年2月号』

毎月定期購読してるナショジオだが、今月は特に「ラッコ特集」が読み応えあったので紹介。絶滅寸前になるほど数を減らしていたラッコを、再び自然に返す「再導入プロジェクト」が世界各地で行われていた。そのことによる生態系へのメリットや、観光を潤す利益などを語っていく一方で、ラッコの大食いっぷりが漁業者に引き起こす不安なども当事者インタビューも織り交ぜて語っていく点で(私自身はもちろんラッコに栄えてほしいとはいえ)意義深い特集だった。そして、ラッコ歓迎派もラッコアンチも同意するのが、ラッコの圧倒的かわいさであった…。

キーストーン種であるラッコが生態系に与える影響は基本的に良いものだと思うし、『ゆかいないきもの超図鑑』で紹介したように、増えすぎたウニを食べてくれて、そのおかげでケルプ林が回復して、結果的には漁獲量が爆増した…という結果も出ている。

ただ、やはり大食いな動物なだけあり、海の幸を食べ尽くしちゃうのでは…?と短期的には不安になる漁業者も多いみたいなんだよね。まぁ無理もない不安かもなと思うので、そうした既得権益層とのコミュニケーションもしっかりしつつ、ラッコのいる健全な生態系を作っていってほしいところ。

ていうかラッコ再導入を巡る現地の悶着を聞いていると、わりと『ウルフ・ウォーズ オオカミはこうしてイエローストーンに復活した』みたいになってる面もあるんだなと…。外野からのんきなもんだけど、いつか『ラッコ・ウォーズ』として本になったら読みたい。『ウルフ・ウォーズ』との違いは、賛成派と反対派が「とはいえカワイイのはめちゃくちゃカワイイ」と同意してるという点だが…。実に一筋縄ではいかない動物である。

ちなみにナショジオ今月号、ブルキナファソの「泥建築」特集(気候変動への対策にもなりうる伝統的な泥建築だが、まさに気候変動によって危機に晒されているというのが皮肉だしヒドイ話…)とかも面白かったので、雑誌ごと読んでみてほしい。全く知らんジャンルの情報も飛び込んでくるのが雑誌の良いところだね。

購入→『ナショナル ジオグラフィック日本版 2023年2月号』

 

 

『珈琲の世界史 (講談社現代新書) 』旦部幸博

今年はコーヒーに向き合おうと思っているので、色々コーヒー本を読み漁っているのだが、いきなりものすごい勘違いをしていたことが明らかに…↓

そう、高級コーヒー豆の「ゲイシャ」って日本の芸者とは何の関係もなくて、エチオピアのゲイシャ(ゲシャ)村で野生種が採取されたからゲイシャって名前だと知ったのである…。いやさすがに日本産とは思ってなかったけど、何か芸者に引っ掛けた由来があるのかなとは思ってた…マジか…

そんなゲイシャコーヒーの産地ゲイシャ村、エチオピアの地図を頑張って探したら見つけた。マジか〜。よく見たら近くに「マジ」って地名あるし。やかましいわ

www.google.com

で、このゲイシャの件を冒頭でいきなり教えてくれたのが本書『珈琲の世界史』。なおゲイシャコーヒーの由来は『珈琲の世界史』という本に豆知識として書いてあったのだが、別に「芸者だと思ってたでしょ?でも実は〜」的なノリでさえなかったので、そんな勘違いは誰もしてなかったということか…ばかな…するだろ……。

そんな『珈琲の世界史』は、コーヒーという人類が3番目に大量に飲んでる(水とお茶の次)の飲み物に着目しながら、コーヒーの起源を巡る諸説から始まり、世界の歴史の移り変わりを語っていくという面白い本でした。イギリスやフランスの政治体制の変革であるとか、歴史上の重要な場面でけっこうコーヒーが大きな役割を果たしていると知れてコーヒー好きとしても楽しい。

あと意外と知られてなさそうな日本のコーヒー史とかも興味深かった。「スペシャルティーコーヒー」とか「サードウェーブ」とかよく考えると何なの?っていう人も多いだろうし、ちゃんとした知識を得ておくと良いかもしれぬ。

ところで読んで知ったけど、何度か紹介した『コーヒーの科学 「おいしさ」はどこで生まれるのか』と同じ著者さんなのね。同じコーヒーという対象へのアプローチでも、「科学」は理系的な興味をもつ読者、「世界史」は文系的な興味に向けて書いたそうな。化学的メカニズム寄りな『コーヒーの科学』と本書をあわせて読むことで、文・理を兼ね備えた最強のコーヒーマスターになれるかもしれませんね。類書だと中公新書の『コーヒーが廻り世界史が廻る』もけっこう面白い。引き続きコーヒーに向き合っていきたい。

購入→『珈琲の世界史 (講談社現代新書) 』

 

番外『Animage (アニメージュ) 2023年』 02月号 インボイス特集記事

まだ特集記事しか読んでないので番外とさせてもらうが、良かったので紹介。

アニメーターの西位さんと、声優の甲斐田裕子さん(好き)と税理士さんの対談が載っていた、アニメージュ2月号。インボイス問題は私も何度か言及してるけど、フリーランスのクリエイターの集合体である日本アニメ界の今後にマジで大きく影響しそうだし、ぜひアニメ誌で語られてほしい問題だったので、意義深い特集であると思う。アニメ好きは一読をお願いしたい。対談の中で、やっぱ当然ながらクリエイター側も社会や政治に無関心ではいられない…といったことも真摯に語られていて、本当そうだよなと。

ちなみにKindle Unlimitedでも読めるのでぜひ。にまたKindle Unlimited2か月99円キャンペーンやってるみたいなので、対象者ならどうぞ。

関係ない話で恐縮だが、甲斐田さんの最近のお仕事では『バッドガイズ』のダイアン知事がマジ最高でしたね! 本作は本職声優ではない人の吹替えの見事さも話題になったが、やっぱプロ声優の熟練の業も至高ということは重ねて強調しておきたい。そのためにも"裾野"を守らないとね…。

購入→『Animage (アニメージュ) 2023年』 02月号

 

今週はこんな感じでした。ところでipad miniがタイムセールで安かったので買ってしまったよ…(今日までらしいので気になる人はどうぞ)。読書、はかどらねば…

「かもかもかもね!かもスタンプ」発売しましたわ

「ごきげんよう。冬も佳境ということで、カモのLINEスタンプを作りましたわ。おなじみカルガモや、冬に日本へやってくる主要な鴨々(かもがも)が目白押しとなっていますわ。LINEしながらカモの名前を覚えてカモ見を極められる、カモ&ネギなうまいスタンプとなっていますわ。ぜひご購入あそばせ。」byカルガモ令嬢・カモミール

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↓カモ見ってなんですの?カモミールって誰ですの?という知識が未インストールな皆さまは、こちらをごらんくださいませ。

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スタンプ一覧ですわ。描き下ろしイラストたっぷりですのよ。元イラストをほどよく使い回してスタンプ作ろうと思ってたのにだいぶ描き下ろすハメになった…とイラスト担当の労働者が嘆いてましたわ。労働って大変ですのね。

↑ちなみにちゃんと、わたくしもいますわ。スポンサーなので当然ですわね…。このスタンプはカモミール・カルダモンの提供でお送りしますわ。

いよいよ冬も深まってきましたが、心にカモ見スピリットを宿して、めいっぱいお楽しみ遊ばせ。それでは皆様、ごきげんよう。byカモミール

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ドラマ史に残るラブロマンス。 ドラマ『THE LAST OF US』第3話感想(ネタバレあり)

結論から言って、ドラマ『THE LAST OF US』第3話は、TVドラマの歴史に名を残すことになるだろう。 

確かにドラマ『THE LAST OF US』(ザ・ラスト・オブ・アス)は最初から素晴らしく、1話も2話も「名作ゲームの実写映像化」として見事な出来栄えだった。だが今週、全世界で放送/配信された第3話「長い間」は、それまでの「見事さ」とは一段、格が違っていると感じる。もはやゲーム云々というよりも、独立したドラマ作品として、桁違いの完成度と斬新さを誇っているのだ。すでに海外のレビューでも激賞が続出していたり(たとえばIGNは第3話に10点満点を与えている )、早くもエミー賞候補筆頭の声も上がっているようだが、出来栄えから言って当然の結果だと思う。

 

1話感想

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2話感想

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感想記事↑でも書いたように、ドラマ『THE LAST OF US』1話と2話は(興味深い補足や改変があったとはいえ)ほぼ原作の展開をなぞっていた。だがこの3話で初めて、いや「早くも」というべきか、このドラマははっきりと原作ゲームと異なる展開を見せることとなった。実質「ドラマオリジナル展開」と言っていい第3話は、原作ゲームから大胆な飛躍を遂げながらも、実は『THE LAST OF US』シリーズの核心にある、「人が生きていくことの悲哀」をさらに鮮烈に浮かび上がらせている。そしてその上で、ここが何より重要なのだが、世にもロマンチックな愛の物語に仕上がっているという、真に驚くべき回になっていたのだ…。

 

というわけで今回は特にじっくり語りたい回なので、わりとネタバレ全開でいくので注意(一応注意書きは「ネタバレ注意」と「致命的なネタバレ注意」の2段構えにしておく)。正直もう、なんなら1話と2話を飛ばして3話だけでも見てくれという気分なので、未見勢は今すぐU-NEXTで見てしまってほしい…。

『THE LAST OF US』U-NEXTで視聴

px.a8.net

 

ーーー以下、ネタバレ注意ーーー

 

【そして2人だけになった】

前回2話のラストで、菌に感染してしまったテスが、ジョエルとエリーを救うために迫りくる感染者たちに立ち向かい、帰らぬ人となった。過酷な人生の長年のパートナーだったテスを失い、ジョエルはさぞやショックだろうと思いきや、そこはタフな精神力と冷徹な理性を発揮し(少なくとも表面的には)無闇に落ち込むことはせず、エリーと共にあくまで淡々と旅を続けていく覚悟を決めたようだ。

2人は道中、廃墟と化したコンビニに立ち寄ったり、墜落した飛行機を見つけたりしながら、ささやかな会話を続けていく。会話の中で重要だったのは、この世界の「崩壊」がどのように始まったのかが、ジョエルの口から明示されたことだ。ラスアス菌(仮)は冬虫夏草菌の突然変異である可能性が高く、小麦などの食品に混入してしまい、世界中に広まった…という詳細が(ジョエルの言葉を信じるなら)明かされたことになる。本作に「わくわく菌類ドラマ」としての側面を期待している生きもの勢としては、テンション上がる場面だった。

ゾンビものの設定として、ゾンビウイルス(本作は菌だが)が「食品」を媒介として広まるというケースはわりと珍しい感じもするが、実際に食物が晒されている菌類の被害は世界的にもけっこう深刻なので、むしろリアリティがあるとも言える。小麦のような重要な食物に対しても、菌は猛威を振るっているのだ。

↑先日行った特別展「毒」の図録より。たとえばムギに発生する赤カビ病菌は非常に厄介である。マイコトキシンという毒素をもち、こうした穀物(ムギだけでなく稲、大麦、トウモロコシなど多様な植物に発生)がげっ歯類などの食料になるのを防いで、カビ/菌類自身の食料&すみかとなるようにしているという。菌類に人間の考えるような意志はないとはいえ、こうした菌類の不気味でイヤらしいような、たくましいような生態は、『THE LAST OF US』の恐るべき菌類にも大いに参考にされていそうだ。

その後ジョエルとエリーは、ショッキングな光景にたどり着く。それは、人間の死体が山と積まれた穴だった。この人々は、軍隊によって元の居住区から連れてこられたものの、収容する居場所がすでになかったために抹殺された…という無残な真相が明かされる。前話の感想でも語ってきた「命の線引き」の恐ろしさが、ここでもまざまざと映し出されるわけだ。穴の中で白骨死体と化した親子の服装と巧みにリンクさせて、物語は文明の崩壊が始まった2003年へと飛ぶ。そこでいよいよ、今回の主役となる人物である、変わり者の男・ビルに視点が移っていく。

 

【ビルとフランク、愛の物語】

ビルは原作ゲーム『THE LAST OF US』をプレイした人にとってはおなじみのキャラクターだ。人間不信でかなり気難しいものの、なんだかんだジョエルとエリーを助けてくれる、印象的な味方キャラとして活躍してくれたからだ。彼と一緒に学校に忍び込み、中ボス感染者・ブローターと闘うくだりなどは原作プレイヤーにとっても思い出深いシーンである。

そして原作ゲームでも、彼が同性愛者であることはそれとなく明示されていた。フランクの最期を見た彼の(珍しく)感情たっぷりの口ぶりや、エリーが家からくすねたゲイ向けのアダルト雑誌からも、そのことは伝わるようになっている。ただし、フランクとの関係もセリフでうっすら"匂わせ"られるだけなので、例えばDLC『Left Behind』や『THE LAST OF US part2』で、エリーのセクシュアリティが明白に描かれたことなどに比べれば、あくまでさらっと言及する程度ではあった。ひょっとするとビルが同性愛者だとは気付かずにゲームを続行した人も多かったかもしれない。『THE LAST OF US』シリーズ(特にpart2)はクィア表現について相当に先進的な大作ゲームと言えるが、第一作に関しては、10年前の作品であるがゆえの時代的・社会的な限界を感じさせる部分もある。

だからこそ、そんな『THE LAST OF US』を10年後に改めて語り直すドラマ版で、ゲームではさらっと流されるだけだったビルとフランクの関係に、これ以上なくじっくりと焦点が当てられることは、まさに必然だったのかもしれない。「匂わせ」どころか、誰がどう見ても明白な「同性カップルの恋愛」として、ラスアスらしい残酷さや悲哀もたっぷり漂わせながらも、世にもロマンチックな「愛の物語」を、ドラマ『THE LAST OF US』第3話は世界に届けてみせたのだ…。

2003年、ラスアス世界の菌類パニックが始まった時、ビルは政府も社会も他者も全く信頼していない、陰謀論者のサバイバリストだった。だがそれゆえにビルは、軍隊が人々を街から連れ去っていく中、地下に篭ってやり過ごすことで、人々が去った無人の街に1人だけ留まることができたのだ。先述したように、この時に連れていかれた親子が、結局は殺されてしまったわけなので、ビルの極端な生き方が彼の命を救ったことになる。

ビルは感染者や略奪者を寄せ付けないフェンスや防衛システムをDIYで築き上げ、この殺伐として物資にも乏しいラスアス世界では考えられないような、豊かな自給自足の生活を送り続ける。一人だけの生活に本心では孤独を感じていたかもしれないが、そもそも人間なんて基本的に嫌いだったであろうビルは、他人がいない生活に満足し、それなりに幸福に暮らしていたようだ。

しかし…そんなビルの元に、ある来訪者が現れる。それがフランクだった。ビルの仕掛けた沢山の罠の一つ、落とし穴にハマったフランクは、必死で「武器は持ってない」と伝え、命からがら穴の中から出してもらったと思えば、「もう2日も何も食べてない、食べるものをくれ」とビルに懇願する。他人を一切信用してないビルは、一旦は断って「さっさと失せろ」とつれない態度をとるが、根負けして結局家の中に招き入れる。

ちなみにフランクを演じるのは、ドラマ『ホワイト・ロータス 諸事情だらけのリゾートホテル』で支配人のアーモンドを演じたマレー・バートレット(ちょうど最近見たばかりだったので嬉しい)。マレーさん自身もゲイであることを公言しており、しっかり当事者キャスティングをしている。また、3話の監督を務めるのはドラマ『IT’S A SIN 哀しみの天使たち』のピーター・ホアー監督(自身もゲイ)であり、当事者の視点も大いに盛り込んだ同性ロマンスとしての繊細な描写も、今回の見所と言えるだろう。

ラスアス世界では貴重品である温かいシャワーを満喫するフランクに、着替えを持ってくるビル。いつになくドギマギして見えることから、この時点でかなりフランクが気になっているようだ(パッと見で好みのタイプだったのかもしれない)。

それからビルは、フランクに手料理をごちそうする。この荒廃した世界で、本格的なジビエ料理とワインが楽しめるだけでも驚くべきことなのに、ぶっきらぼうに見えるビルの姿からは意外な料理の美味しさにフランクは大喜び。ずっと自分のためだけに料理をしてきたビルも、喜んでくれる人が現れてまんざらでもなさそうだ。

和やかに食事をすませたフランクは、約束通り出発する前に、ヴィンテージもののピアノが気になり、見せてほしい…とビルにお願いする。いつの間にか楽譜も見つけて、勝手にピアノを弾き、歌いはじめるフランク。その曲はリンダ・ロンシュタット「ロング・ロング・タイム」だった。第3話の原語タイトル"Long, Long Time"の元になっている曲であり、今回の鍵を握る一曲である。

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ビルにとって「ロング・ロング・タイム」は、それまでマイノリティとして孤独に生きてきた人生に寄り添ってくれた曲だったのだろう。なんにせよ、ビルには思い入れが深いその曲が、フランクの微妙な腕前で演奏されることにビルはしびれを切らしたのか、自分で「ロング・ロング・タイム」の弾き語りを始める。その情感に溢れた美しい歌声と演奏に、フランクは深く心打たれたようだ。ビルのセクシュアリティにもフランクは気づいていたようで、思いが通じ合った2人はキスをかわし、恋に落ちるのだった。男性同士ということを差し置いても、ドラマでもなかなか見かけないレベルの、ものすごくロマンチックな「恋のはじまり」描写と言えるだろう。

そしてフランクは、結局この家を発つことはせず、ビルと2人で暮らし続けることを選んだ。その後は、時に数年単位で時間を飛ばしながら、ビルとフランク2人の外界から閉ざされた、しかし愛情豊かな生活に、どのような変化が訪れるのかが描かれていく。

ドラマ『THE LAST OF US』の画期的なポイントとして、「コロナ以降のリアリティを取り入れた、パンデミック以降初のパンデミック超大作」であることはすでに述べた。実は第3話は、その点でも語り甲斐のある回だ。なんといっても「まるでロックダウンのように」社会的に隔絶された状況で繰り広げられる愛の物語なのだから…。予想外の方向性ではあるが、「コロナ以降のリアリティ」によって大いに奥行きを増している回であるように感じた。 

ビルとフランクの関係は、愛情があるとはいえ、なんといっても2人だけの閉ざされた生活であり、社会的なサポートも何もないという極限状況なので、一筋縄ではいかない部分も多かったようだ。この辺の困難さは、現実にコロナ以降「家に閉じ込められる」機会を長く経験したからこそ、視聴者もより深く共感できそうなポイントである。幸福なベッドシーンから、いきなり4年後の派手なケンカに飛ぶ…という場面転換も、そんな波乱万丈な2人の生活っぷりや、そもそもビルとフランクが根本的に違う性格の人間であることをうまく表現している。

そんな中、フランクが「友達を呼ぼう」と突然言い始めるので、視聴者もちょっと面食らい、ビル同様「友達って誰だよ…」と思うところだが、その"友達"とは他ならぬテスのことだった。個人的にドラマ版のテスがゲーム版以上に大好きなこともあり、過去シーンとはいえ再登場してくれたのは嬉しいサプライズである。テスはパートナーのジョエルと一緒に(どっちもけっこう若返っている)ビルの家にやってくるのだった。

最初こそ食卓で銃を構えてまで警戒していたビルだったが、ジョエルとのやり取りの中で少しずつ心を開いていき、2人と協力関係を築くことができたようだ。他者に心を開くことが、結局のところ(ビルにとって最も大切な存在である)フランクを守ることにも繋がるのだ…というジョエルの後押しもビルの心を動かしたのだろう。

かように色々トラブルもあったビルとフランクの生活ではあるが、その根底には確かに愛情が流れていたことを最もよく象徴している名場面が、2人がイチゴを食べるシーンだ。銃とイチゴの種を交換したというフランクが、ビルに内緒でこっそりイチゴを育てていてくれたのである。この荒廃した世界では、もしかしたら二度と食べられないかも…と思っていたであろうイチゴを久々に食べたビルが、その美味しさと幸福感のあまり笑いだしてしまう姿は忘れがたい。「君が現れる前は、何も怖くなかった」とビルはフランクに告げ、口づけをかわす。たとえ絶望的に崩壊した世界の片隅であっても、お互いを思いやり、愛し合う人間の心は、イチゴの果実のように美しく、しぶとく生き残っているのだ。

だが…そんなビルとフランクの人間らしく幸せな生活を脅かす、最大の脅威となるのもまた人間であるということが、『THE LAST OF US』らしい皮肉さと残酷さを感じさせる。ジョエルの警告通り、ある夜、彼らの家を略奪者たちが襲撃するのである。火炎放射や電流などの殺意あふれる防衛ギミックで、なんとか略奪者たちを撃退するも、銃弾を腹に食らってしまったビル…。フランクは必死で、今にも死にそうなビルの傷に応急承知を施し、なんとか彼の命を救おうとするのだった。

 

 

ーーー以下、致命的なネタバレ注意ーーー

 

 

【ラスト・オブ・LOVE...】

そんな極限状況から場面はあっさり移り、なんと10年もの時間が経過していた。時系列は2023年となり、つまりこのドラマがジョエルやエリーの視点から描いてきた「現在」にほぼ重なったわけだ。一時は大ピンチに陥ったビルとフランクだが、たくましくも生き延びて、着実に年老いていったようである。略奪者の襲撃にあった時点では、重傷を負ったのはビルの方だったが、10年後に車椅子に乗っていたのはフランクの方だ。年老いたフランクは、自分では身動きも難しいほどの、重い病気にかかっているようだ…。

2人だけの高齢者(とすでに言っていい年齢だろう)の生活で、片方が車椅子の重病患者となれば実際かなり大変であり、夜にベッドに入るのも一苦労だ。そんな中でフランクは、何かを決意したかのように翌朝、車椅子に乗りながらビルの目覚めを迎える。「何してる」と戸惑うビルに対し、フランクは「今日を自分の"最後の日"にする」と告げるのだった…。

要は安楽死を選ぶことにしたという、フランクの覚悟は確かに悲壮なものであるし、福祉や医療の発達した通常の現代社会であれば、ビルもきっと全力で止めたことだろう。だが…今ここは何の社会的サポートもない、荒れ果てた世界だ。下手に苦しみながら生きながらえて、ビルに大きな「負荷」をかけるよりも、まだ自分の精神と肉体のコントロールが効くうちに、幸せな記憶と愛情を抱いたまま穏やかに逝きたい…というフランクの願いは、納得のいくものと思えてくるのも事実だ。だからこそビルもフランクの意志を尊重し、幸福な「最期の一日」を過ごすことにする。

ブティックに行って着飾ったりと、お互い一日を楽しみながら、2人は文字通り「最後の晩餐」を迎える。そこでビルがフランクに運んでくるのが、最初に彼らが出会った日の料理とワインだったことも、悲しいと同時に美しくもある。

いよいよ食事も終わり、フランクの頼みどおり、致死量の薬をワインに入れるビル。一緒にワインを飲み干すのだが…実はビルもまた、自分のワインにすでに薬を混ぜていたのだった。ビルは、フランクと一緒に死を選ぶ決意を固めていたのだ。

生きているビルと行動を共にした原作ゲームのプレイヤーの多くは、この場面でかなり意表を突かれたかもしれない。ゲームの話通りなら、この後ジョエルとエリーとの冒険がビルを待っているはずであり、つまりビルはなんだかんだ生き残るんだろう…と無意識で予想していたはずだからだ。

だが驚くべきは、いざこのドラマ版の展開を目にしてしまえば、原作ゲームのコアなファンである私でさえ「そうだよな、ビル…そうに決まってるよな」と思わざるをえなかったことだ。じっくり約1時間かけて語られた、2人が築いてきた関係性の見事な表現には、原作ゲームで示された運命を書き換えるだけの説得力があったことになる。

自分も一緒に死ぬというビルの決断に、視聴者としては100%納得するしかない一方で、フランクは必ずしも完全に納得がいったわけではないようだ。自分の死に「付き合わせる」形になってしまったのだからそれも当然だし、フランクは「怒ろうと思った」と一応は言うのだが、その直後に「でも客観的に見ると…なんてロマンチックなんだ」と微笑む。ここまで2人のロマンスに付き合ってきた視聴者から見ても、全くもって同感と言わざるを得ない。互いへの愛情を頼りに、荒んだ世界を生き抜いてきた2人にとって、これ以上にロマンチックな「結末」があるだろうか…。

死を目前にした2人は、お互いしかいない穏やかな最期を迎えるため、奥の寝室へと歩み去っていく。そんな姿のバックに流れるのが、ゲーム『THE LAST OF US』における屈指の名BGM「Vanishing Grace」であることに、原作ファンとしても心を打ち震わせてしまった。

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残酷なことばかり起きるこの世界で、無力な人間たちは愚かな判断を繰り返し、無意味で無残な「THE LAST OF US(人類の終わり)」を迎える運命なのかもしれない。しかしそれでも、ほんの一瞬かもしれないが、何か価値のある、無垢な、美しい瞬間も、確かに存在したのだ…。そんな想いをプレイヤーに抱かせるような、『THE LAST OF US』シリーズにとって極めて重要な場面で流れる曲、それがこの「Vanishing Grace」なのだ。ドラマ版では初めて流れたことになるが、ビルとフランクの最期は、まさにこの曲が象徴する意味合いにふさわしい。『THE LAST OF US』に通底して流れる人間の深い悲しみと、だからこそ際立つ美しい感動をもたらしてくれる、正真正銘の名場面だった。

余談だが自分の中でこの曲を勝手に「キリンのテーマ」と呼んでいた(原作プレイ済みなら同意してもらえるだろう)ので、曲が流れた時に感極まって「ビル、フランク……あなたたちが、あなたたちこそが……"キリン"なんだ……!!」と叫びだしたくなったが、ビルとフランクもそんなこと言われたって困ることだろう。

それはともかく、しばらく後のこと…。ビルとフランク亡き後の家を、ジョエルとエリーが訪れる。家の荒れた様子からジョエルはうっすらと悟っていたようだが、エリーが見つけた手紙によって、2人に何が起こったのか知ることになる。手紙の中でビルは、他人も社会も憎んできた自分が、たった一人だけ守りたい人間に出会えたことを素直に吐露しながら、ジョエルに自分の持ち物を託すと語り、「テスを守ってやれ」と伝える。すでにテスを失ったジョエルにとっては胸の痛くなる言葉だったろうが、どこか似た者同士ともいえるビルから投げかけられた「守りたいと思える1人を守り抜け」という最期のメッセージは、ジョエルの今後にとって重要な指針となっていくことだろう。

必要な物資や武器を揃え、最期のメッセージと車のキーを受け取り、ビルとフランクの家を後にするジョエルとエリー。その姿を、2人の遺体が眠る部屋の開かれた窓から捉えたショットで、この第3話は締めくくられる。まるで2人の苦難に満ちた旅への出発を、ビルとフランクが見送っているかのように…。『THE LAST OF US』ゲーム版のタイトル画面を彷彿とさせる「窓」のショットで締める美しいエンディングは、完璧の一言だ。

 

結末も含め、まさに文句なしの「神回」と言えるこの第3話が、世界に与えたであろう衝撃と意義深さは、どれほど強調しても足りない。そもそもこのドラマ版『THE LAST OF US』は、すでに各話の視聴者数が2000万人を超えるレベルの、世界中で桁違いに広く観られているドラマである。こんな超メジャー級のタイトルで、約1時間の尺を丸ごと使って、中年男性同士の、世にもロマンチックで愛おしく悲しいロマンスがじっくり描かれ、これほど大勢の人に「なんとか2人に幸せになってほしい」と思わせただろうという、そのことだけ見ても前代未聞な気がするし、エンタメ界全体にとっても歴史的な瞬間だったんじゃないかと思う。

2023年の今になっても、世界中の性的マイノリティの過酷な現状は存続し続けているし、日本にしても同性婚が成立する兆しがいつまでたっても見えない上に、最高権力者も「同性婚は極めて慎重な検討が必要」とか一生言い続けており最悪である。しかしだからこそ高い志と技術を兼ね備えたクリエイターが、こうした先進的なエンタメを世界に送り届けることによって、「世界は変わりつつある」と示してくれることそのものが、遠くの明るい星のように輝いて見える。「このドラマこそが"キリン"なんだ…!」と思わず叫びだしたくなるほどだ。(きっとドラマの作り手なら、何が言いたいかわかってくれることだろう。)

 

それにしても第3話でここまでのものを見せられると、前回までで「ゲームとドラマここは違う!ここは同じ!」とかでハシャいでたのが我ながらちょっと幼稚に思えてくるほどであり、もう原作と何が違っても文句言わないから独立したドラマとしての最善を追求してくれ…とさえ願っている始末だ。とか言って結末とかが本当にマジで全然ちがっていたらさすがに怒るかもしれないが、もはやこの素晴らしいドラマのクリエイターの手掛けたものであれば、それはそれで見てみたいとさえ思う。

あと原作ゲーム大好き勢としては「ドラマから観ても全然いいけど、せっかくプレイ環境あるならゲームを先にやってほしいかな〜」(PS4版なら激安で手に入るし…)というスタンスでいたのだが、この第3話でついに「いやもうゲーム知らなくても観たほうがいい」派に鞍替えした。それだけ、独立したドラマとしての完成度がすでに凄いことになっているという事実に、原作ゲームファンとしても喜びを隠せない。

てなわけで、U-NEXTは月額料金も高いしハードルたけーよという人も多いだろうが、このドラマを見るためだけでもその価値は確実にあると約束できるし、どうしても高すぎるのであれば31日間無料トライアルでもなんでも使って(マジで一銭も払いたくない場合は全話完結してからのほうがいいかもだが…)、この世界規模のラスアス祭りに一緒に乗ってくれたらファンとしては嬉しい。なんなら3話だけでも見てくれ!

『THE LAST OF US』U-NEXTで視聴

px.a8.net

読んだ本の感想まとめ(2023年1/23〜1/29)

読んだ本の感想まとめです。別にルール決めたわけではないが、なんか日曜日に更新する流れになってるな。いつまで続くかな〜

↓前回

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<今週読んだ本>

『インディ・ゲーム新世紀ディープ・ガイド──ゲームの沼』 田中 "hally" 治久 (監修), 今井 晋 (監修)
『進化のからくり 現代のダーウィンたちの物語』千葉聡
『食の歴史――人類はこれまで何を食べてきたのか』ジャック・アタリ
『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』酒井隆史 

 

『インディ・ゲーム新世紀ディープ・ガイド──ゲームの沼』 田中 "hally" 治久 (監修), 今井 晋 (監修)

『インディ・ゲーム新世紀ディープ・ガイド──ゲームの沼』読了。百花繚乱&奇々怪々なインディ・ゲームの魅力を、「戦争」「フェミニズム」「LGBTQ+」「音楽」「文学」など多様なテーマに着目してゲーム識者が紹介する本。ゲームは娯楽や暇つぶしとしての側面も大きいのだろうが、それと同時にいま最も前衛的な表現メディアでもあると実感させられる。

海外でもゲーマーズゲートのような事件もあったし、ぶっちゃけ日本でもフェミニズムや性的マイノリティ関連の問題に冷淡だったり敵対的なゲーマーも沢山いる印象なので、ゲームを紹介する本にフェミニズムやLGBTQ+の章もあるのは意外に思う人が多いかもしれない。だが個人的なゲーム好きとしての感覚でも、実は現代のゲーム(特に海外)はその辺に意識的かつ先進的な作品もかなり多い印象がある。まぁだからこその反動でゲーマーズゲートみたいな動きも活発化してるんだろうが。

本書で語られるようにインディゲームにも沢山あるみたいだが、そもそも超メジャー級タイトルでも『The Last of Us Part2』とかがすでに現れてるわけだからね。ラスアス2みたいにレズビアン女性を主人公に据えて(もう1人の主人公も筋肉バッキバキのコワモテ女性だし)こんな超弩級のエンタメを成立させた作品が、じゃあ映画やドラマやアニメにどんだけあるかって言ったら全く思いつかないので、なんならこうした観点では映像エンタメ全体がゲームに水を開けられちゃってる感じもする。

そんなわけで、先進的なゲーム界でもさらに先進的なインディゲーム界の名作を色々紹介してくれる本書のような存在はありがたい。有名な『Gone Home』(帰省したら誰もいなかったゲーム)や『Unpacking』(荷物を開けるゲーム)がフェミニズムの章で紹介されており、やってみようかなと思った。見た目だと全然わからなくて積んでいてしまったが…。評判いい『Butterfly Soup』もいいかげんやらねばな。

ちなみに本書で熱くオススメされてた『ディスコ エリジウム』、セールでPS版を買ったので遊び始めてる。とんでもねえ文章量で面白いが、主人公が精神的ショックで絶望してゲームオーバーになった。クセの強いゲームっぽいが、ハマるかもしれない…。

購入→『インディ・ゲーム新世紀ディープ・ガイド──ゲームの沼』

 

『進化のからくり 現代のダーウィンたちの物語』千葉聡

『進化のからくり 現代のダーウィンたちの物語』読了。日本のカタツムリ(陸貝)研究の第一人者が、進化生物学の面白さ(と学問としての大変さ)を生き生きと語る本。生物学者の営みがどういうものなのかを改めて伺える本でもあるし、市井の生きものファン(私含む)も励まされる内容。プロの生物学者が書いてるのだが文章力も巧みで読みやすく、一風変わった生物学入門としてもかなりオススメできる。

『進化のからくり』では、ある特定の生物についてとことん調べる…という手法は一般的には奇異にも見られるという話もされて、本書の著者もバブル時代のリーマンに「カタツムリなんて研究してどうすんの?」とか面と向かって言われたりしたという。しかしカタツムリ=陸貝のように(外から見れば)狭く些細に思える対象を深く掘り下げることで、「生命の進化」という極めて重要な問題の核心が見えてくるのだ。それは科学という営みの根本でもある。

『進化のからくり』、実はけっこう前に買ってたのだが(タイトル的にも)よくある動物の浅く広くな雑学系なのかな?と思い込んで積んでたのだが(ごめん)、ちゃんと読んだら陸貝というマニアックな対象に焦点を絞ることで、むしろ普遍的な進化の法則を解き明かす…というガチかつ読みやすい良書だったので、積ん読消化してよかった。

当初は本書、研究者ではないものの在野の生物好きで、注目すべき研究成果をあげている"現代のダーウィン"のインタビューも収録予定だった…(けど色んな事情でやめた)と書いてあり、それもぜひ見たかったなと少し惜しい(タイトルにもさらに合ったと思うしね)。特に生物学はアマチュアが重要な役割を果たしてきた分野だと思うから、いつか形にしてほしい。

ところで『進化のからくり』にもあったが、進化にまつわる学説って日本でも最近まで冷遇されていて、80年代には高校でも一切扱っておらず、大学でさえまともに教えてなかったと聞くと、海外の宗教保守の進化論否定をあまり笑えない感じになってくる。そもそも「進化」自体が相当に新しい概念というのも「進化あるある誤解」の背景にあるんだろうな。

↓ポケモンのせいだけとは言えないようですね…

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1/29現在、電子版ポイント40%還元中。

 

『食の歴史――人類はこれまで何を食べてきたのか』ジャック・アタリ

『食の歴史―人類はこれまで何を食べてきたのか』読了。前から面白そうでリスト入れてたのと、ちょうど電子版が半額だったので読んでみたが面白かった。フランスの有名知識人ジャック・アタリが「食」に着目して人類史を読み解いていく1冊。「食べる」という行為が生物としての根幹にある行動だからこそ、「食」は人間の全ての営みに深く結びついてくるし、人類存亡の鍵も握る…ということがわかってくる。

人類が言語を発展させて地球最強レベルに繁栄する動物になった、決定的な要因も"食"にあるとアタリは語る(火を使うことで消化に費やすエネルギーが減り、脳のキャパが増えた等)。個体数が増加するにつれ、定住化を本格化させた人類は「自然を食らうために自然を手なずけようとする」というループに突入していく。それが人類にとって良いことだったのかはともかく…。

本書の全体にうっすら流れるテーマとして「食と権力」がある。「食」が特権階級の権力維持のために利用されてきた歴史を、メソポタミア文明や古代中国とかまで振り返って語っていく。翻って現代の「食と権力」を、グローバル企業が"食"を媒介にして巨大な支配構造を形作る…という視点で考察していく。

『食の歴史』後半でも語られるように、たとえば気候危機のような地球規模の大問題を考える上で、つい「発電をどうするか」とかにばかり目が行きがちで、それも当然ものすごい大事なんだけど、実は「食」が占める割合が非常に大きいんだよね。たとえば畜産は温室効果ガスを大量に排出するのだが、だからこそ菜食主義が市民権を得始めているという側面もある。

気候危機の問題でも、ぶっちゃけ「食」について解決すればぜんぶ解決するんじゃね…?とまで言ったら当然言い過ぎなのだが、多くの人が思ってるよりは「食」の重要性ウェイトがめちゃ重い、というのは気候変動対策を扱う本とかでも実際よく語られること。(『DRAWDOWN ドローダウン― 地球温暖化を逆転させる100の方法』『Regeneration リジェネレーション 再生 気候危機を今の世代で終わらせる』とか。)「食」は副次的な役割どころか、全然"主役級"のテーマというのは「食」に産業として携わる人も、色々なものを日常的に食べている私達一般市民も覚えとくべきではないだろうか。

かように「食」はどこまでも個人的/ローカルな営みのようでありながら、極めて社会的な行為としての側面ももっている。この両義性が「食」の面白いところなので、こういう「食の歴史」みたいな本はつい心惹かれてしまうのだった。

購入→https://amzn.to/3HDZnbl

1月中は電子半額みたい。

 

『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』酒井隆史

『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』読了。日本でもヒットしてブルシット・ジョブ(以下BSJ)という言葉を広めた『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』という本を翻訳した著者による解説本。かなり人口に膾炙してきた感もあるものの、意外と誤解も多そうな「ブルシット・ジョブ」の概念を正しく理解し、日本社会の現実と突き合わせる上でもけっこう意義のある本だと思う。

元本『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』、私も読んで面白かったし重要な本だと思うけど、『ブルシット・ジョブの謎』でも書かれているように、たしかに書き方のクセがちょっと強めなんだよね(4000円とかするし)。だから話題になって買ったけど途中で挫折した…という人が多めなのもわかる本ではある。こういう「話題の本を解説」系って普段あまり読まないし、別に元本読めばいいじゃん…なスタンスではあるのだが、やはり翻訳者はさすがに理解が深いなと思うので、この新書『ブルシット・ジョブの謎』から入るのも全然アリだと思う。元本も読んでほしいけどね。

なお原書『ブルシット・ジョブ』が書かれたのはコロナ前だが、(ブルシットジョブの真逆とも言える)エッセンシャルワーカーの過酷な現状がコロナ禍で浮き彫りになった今、さらに重要性が増してしまってるという辛い面もある。真の意味で社会や他者の「役に立つ」仕事ほど不遇に扱われるという歪み…。

そういう、なんでブルシット・ジョブ(クソどうでもいいのに待遇はいい仕事)が沢山あるのに、本当に世の中に必要な仕事は待遇が悪いのかの問題に、『ブルシット・ジョブ』著者のグレーバーは「道徳羨望」(立派な行動を引きずり降ろそうとする感情)という言葉を作って考察していて、日本もそれ相当ありそう…と薄ら寒くなるのだった。教師が例に上げられていたけど、クリエイターの一部が異常に薄給だったりとか、「やりがい搾取」みたいな問題にも通じるのかな〜とか。

さらにこの問題の重要性が増している昨今、著者が亡くなってしまってるのは残念だけど、ブルシット・ジョブは「仕事」を根本から考え直していく上で重要な概念だと思うし、この新書を立脚点にしてぜひ読もう。

本書→『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』

元本→『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』

 

今週はこんな感じでした。講談社系が新書セールとかやってる せいで無限に買ってしまうが、それによって逆に積ん読を消化しようという気持ちも湧くので、結局とんとんかもしれない(そうかな)

そして列車は"時"を運ぶ。『エンドロールのつづき』感想&レビュー(ネタバレあり)

いまインド映画がアツいことに異議を唱える映画ファンはいないだろう。『バーフバリ』旋風を起こしたS.S.ラージャマウリ監督の最新作『RRR』は日本でも絶賛ヒット中なだけでなく、欧米でも大ヒットして映画業界人の話題を集めているという。私も思う存分ことあるごとに語りまくっているので、ここでは『RRR』の話は繰り返さない。観てない人は今すぐ観たほうがいい。まじで。

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だが…いまアツいインド映画は『RRR』だけではない。最近日本で公開された作品に限っても、そのテーマ性も表現手法も実に多様で、インド映画の懐の広さに驚かされるばかりだ。たとえば、食という普遍的な営みを通じて、女性が晒される性差別の現実を鋭くえぐり出した『グレート・インディアン・キッチン』昨年のベスト10にも選んだ)。インド社会の教育格差の壁に教師と生徒が熱く立ち向かう『スーパー30 アーナンド先生の教室』。どちらも高度な問題意識を、巧みにエンタメの形に昇華させた秀逸な映画である。「インドの問題」という枠にとらわれない普遍性のあるテーマ設定になっているため、日本の観客が観ても確実に刺さるはずだ。

そして『RRR』の興奮冷めやらぬ…というか明らかに加熱している2023年早々、またしても素敵なインド映画が公開された。ド派手で激アツで常に何かしらの物体や感情が爆発してるような『RRR』とは正反対の、静謐で穏やかなトーンで描かれるインド映画…それが『エンドロールのつづき』である。

movies.shochiku.co.jp

 

【ざっくりあらすじ】

主人公は、インドの田舎町で暮らす9歳の少年サマイ。父のチャイ店を手伝っている日々の中、家族で街に映画を観に行くことになる。人の賑わいに満ちた映画館の熱気や、スクリーンを照らす光の美しさにすっかり心奪われたサマイ。「映画なんて低劣なものだ」と映画に冷淡な父親には内緒で、その後もサマイはこっそり映画館に通うことになり、いつしか映画という「光の芸術」にのめりこんでいく…。

 

【世にも映画的だが、あまりに現実的な乗り物】

列車はこの世で最も「映画的」な乗り物と言っていい。リュミエール兄弟が1896年に公開した、1分に満たない白黒映画『ラ・シオタ駅への列車の到着』は、映画など観たこともなかった観客を大いに驚かせた、「世界最初の映画」の1つとして名高い。(本作序盤、サマイ一家が映画を観た帰りに白黒で列車が写しだされるシーンはこの『ラ・シオタ駅〜』オマージュとのことだ。)

youtu.be

その後もアクション映画から文芸映画まで、あらゆる映画に数え切れないほどの列車が登場し、その「映画的な美しさ」や「映画的な興奮」によってスクリーンを彩ってきた。列車は映画にとって特別な存在なのだ。

しかし、そんな映画の夢を象徴するような「列車」も、貧しい生活を送る大勢の人々にとっては、シビアな現実生活の一場面でしかない。本作の主人公・サマイもその「大勢」の1人だ。列車の動きや線路の構図、そして世界に満ちる光に「美」を感じ取る鋭敏なセンスをもつサマイは、明らかに映画の才能を持っているのだが、彼を取り巻く現実は厳しい。映画という「夢」の象徴であるはずの列車が停止した時、サマイにできるのはその周りで乗客にチャイを売り、小銭を稼ぐことくらいだ。そんな貧しい暮らしぶりでは、列車の出てくる映画を観ることさえも簡単にはできないし、列車を映して映画を撮るなんて、まさに「夢のまた夢」だ。

 

【"光の芸術"をDIY!】

だがまるで映画そのものを端的に表すような、「時」を意味する名前をもつサマイは、現実の厳しさの前に「夢のまた夢」を諦めたりはしない。心を強烈に惹かれる映画を観るために、店の売上をくすねてでも、小さな町のオンボロ映画館に通い始める。どんどん映画の面白さ・美しさにのめり込んでいくサマイだが、そこはしょせん子ども…。お金がいつも手に入るわけではなく、無賃鑑賞がバレて劇場をつまみ出されたり、映画ファン活動も簡単にはいかない。

そこに現れた「救世主」が、映画館で働く映写機係のファザル。お母さんの手作りランチと引き換えに、映写機室から映画を観てもいいという約束をゲットする。サマイとファザル、年の離れた2人の「映画好き」が形作る共犯関係のような、奇妙な友情の描写が楽しい。

2人の交流の中で、「光の芸術」である映画の根幹を形作る「フィルム」の仕組みが説明されていくのも、映画ファン的に面白いシーンである。サマイは「フィルムが動いている時はライトが消え、止まったときだけライトが光る」ことで、人間の脳を騙すかのように「動く映像」をスクリーンに出現させるということを教わるのだ。この映画の観客も、つい劇中のサマイと一緒に、まばたきを繰り返してしまったことだろう。

ファザルとの交流を経て、映画のメカニズムに関する知識を得たサマイは、仲間たちと一緒にお手製の「映写機」をDIY(Do It Yourself)して、自分たちで映画を上映しようと挑戦する。フィルムを盗み出すという、決して褒められたものではない所業に手を染めつつではあるが、非常に貧しい暮らしを送っている子どもたちにとっては、それが唯一の「映画」にふれる手段でもあった。素人なりのトライアル&エラーを繰り返しながら、自分たちだけのやり方で「正解」へと近づいていくプロセスは、間違いなく本作で最も心躍る場面だ。

そしていよいよ映写機が完成した後、村外れの廃墟を小さな「映画館」に作り変え、インドの伝統衣装サリーをスクリーン代わりにして、(盗んだフィルムを勝手に組み合わせつつではあるが)お手製の「映画」を上映する場面の幸福感は忘れがたい。フィルムのみなので音はなく映像だけの「上映」なのだが、楽器がわりの日用品を活かして「音響効果」も自分たちで作り出したり、観客に風を感じてもらうために息を吹きかける様は、まるで4DXだな…と微笑ましい。

この「小さな映画館」の場面は、まずはなんといっても「エンターテインメント」である映画の本質を垣間見るようでもあった。こんなアナログ感に満ちた楽しいシーンがあるからこそ、その後の急転直下の衝撃も際立つわけだが…。

 

ーーー以下ネタバレ注意ーーー

 

【「映画の映画」の地獄めぐり】

「映画にまつわる映画」「映画を撮る映画」は珍しくないどころか、完全に一大ジャンルと化している(日本でも『カメラを止めるな!』なんて代表例だし、最近も『サマーフィルムにのって』など秀作がありましたね)。 だが本作『エンドロールのつづき』が興味深い点は、物語や演技などの「ソフト」面よりも、フィルムや映写機のような「ハード」面を強調するという、映画に対する一風変わった間接的なアプローチを取りながら、かえって映画の本質に強く"光を当てて"いることだ。

そして本作が、映画のハード面に着目した「映画の映画」だからこそ、本作のもうひとつのクライマックスとなる、終盤の「地獄めぐり」が鮮烈に観客の心を刺してくるのだ。

そのきっかけは、サマイを「育てて」くれた町の映画館・ギャラクシー座に、デジタル化の波が押し寄せ、フィルムが用無しになってしまったという悲しい事態だ。気のいいアナログ映画あんちゃん・ファザルもクビである。まだ見ぬ「物語」であるフィルムや、それを上映するために欠かせない映写機は、ガラクタのようにトラックに詰め込まれ、どこかへ運ばれていってしまう…。そのトラックを(皮肉にも「映画的」なカーチェイスのように)サマイたちは追いかけ、リサイクル工場にたどり着くのだが、そこで目にした光景は、言葉を失うようなものだった…。

「映写機やフィルムがどのようなメカニズムで映画を映し出しているか」を、この映画を通じて私達観客もサマイと一緒に学んできた。だからこそ、そんな映写機やフィルムが単なる金属の塊として分解され、溶解され、再整形され、まさかのスプーンやアクセサリーに生まれ変わってしまうという一連の光景は、まさに「地獄めぐり」である。「万物流転」「諸行無常」といった四文字熟語が浮かぶ、圧倒的な虚しさと哀しさにあふれていた。

これまでの不屈の精神っぷりから考えても、てっきりサマイたちが「その映写機やフィルムはゴミじゃない、大切なものなんだ!返してくれ!」と懇願したり、工場から盗み出したりする展開になるのかな?と思っていたのだが、そうはならなかったことも意表を突かれた。

工場のシークエンスでは一切セリフがなくなるので、サマイが具体的に何を感じていたのかは観客の想像に委ねられる。カメラはただ、淡々と続くリサイクル工場のプロセスと、かつて「映画」そのものであった機材が別のものに流転していく姿を映し出していく。馴染み深いフィルムの時代が幕を閉じ、映画の次の時代が容赦なく始まっていく時の流れを、これ以上なく直接的な形で提示するかのように…。

この光景を見て、果たしてサマイは何を感じたのだろうか。予想を超えた事態に面食らい、何も手を出せず呆然としていたのだろうか。それとも、むしろ"死にゆく"映写機やフィルムの行く末をしっかり見届けようと熱い決意を固めたのだろうか。あるいは、サマイ(=時)の名を体現するかのように、人間にはどうしようもない"時"の流れを、せめてフィルムのように瞳に焼き付けておこう…と透徹した思いを抱いたのだろうか。

 

【そして列車は"時"(サマイ)を運ぶ】

思い入れのある映写機やフィルムが、全く別のものに生まれ変わってしまう、残酷だが荘厳な光景…。それを見届けて帰路についたサマイは、落ち込んでしまうどころか、むしろ映画の世界に本格的に関わっていきたい…という決意を固めたようだ。

映画のラスト、彼は「映画をつくる」という夢を叶えるため、家族の理解を経て故郷に別れを告げる。「映画をつくりたい」というサマイの想いが「光の勉強がしたい」「光を知りたい」という言葉によって表されるのも、映画の「光の芸術」としての側面を捉えてきた本作らしいポイントだ。

そして「映画になりたい」とまで言っていた、映画の世界に深い思い入れをもつサマイを、まだ見ぬ未来に向かって運んでいくのが、「この世で最も映画的な乗り物」列車である…という結末は美しい。かつて眺めるしかなかった列車が象徴する、夢見るしかなかった映画の世界に、自分なりのやり方でトライ&エラーを繰り返しながら踏み込んでいき、自分だけのやり方で「光を捕まえる」ことで、サマイはついに「列車に乗り込む」ことができたのだ。

同じ列車に乗っていた女性たちが身につける、インド特有の七色のアクセサリーに生まれ変わったフィルムたちも、サマイの出発を優しく見守っているかのようだ。止められない時の流れの中で、物体としての形をなくしてしまった映画たちは、きっとサマイのことを、そして映画に関わる大勢の人を、これからも励まし続けるのだろう。