沼の見える街

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食べて、祈って、処刑して。『イコライザー THE FINAL』感想&レビュー(ネタバレあり)

 「単純な勧善懲悪ではない」が褒め言葉として使われるようになって久しい。この世で最もありふれたフィクションの形である「勧善懲悪」、すなわち「善人が悪人をやっつける」という物語のあり方を疑う視点は、たしかに大事である。この複雑な世界が、そんなにはっきり「善と悪」に色分けできるはずもないし、複雑な内面をもつ人間を「善人と悪人」にきっぱり分けることも不可能だ。

 それでは「単純な勧善懲悪」はもはや時代遅れの遺物なのだろうか。そうではない、と今の時代に改めて示すかのような映画、それが『イコライザー』シリーズだ。善良な人々を苦しめる悪人どもを主人公が処刑する…という、このうえなくB級バイオレンス的で、まぎれもなく「単純な勧善懲悪」の物語である。だがそこには、理不尽な現実社会で生きる私たちが、心のどこかで渇望してしまう理想や希望が確かに息づいているのだ。

 その最新作となる『イコライザー THE FINAL』は、シリーズをいったん締めくくるにふさわしい見事な出来栄えだった。(とはいえ原題は『The Equalizer 3』なので最終作とは全く言ってないのだが…)

 ファンとして一度シリーズを総括する意味でも、この記事ではネタバレありで感想を語っていきたいと思う。

 

 なお『イコライザー』過去作(1・2)はどちらも面白いのでぜひ観てほしいが、『イコライザー THE FINAL』はそれだけで独立した話なので、完全初見でも問題なく楽しめると思う。

イコライザー (字幕版)

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イコライザー2

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なおこの記事には「1」「2」のネタバレも含まれるので注意してほしい。

 

 

ーーー以下ネタバレ注意ーーー

 

食べて、祈って、処刑して

 シチリアの美しい田園地帯にある屋敷から、物語は幕を開ける。屋敷の持ち主と思われる男が屋内に足を踏み入れると、そこには沢山の惨殺死体が転がる、凄惨な光景が広がっていた…。じっくりと舐め回すように、カメラは大量殺人現場と化した血まみれの屋敷の様子を家主の視点から追っていく。そしていよいよ屋敷の奥で待ち構えていた、その「犯人」の姿が明らかになる。誰あろう、本作の主人公ロバート・マッコールさんであった。

 …いやお前かい、とツッコんだ観客もいるかもしれない。この冒頭が、主人公の登場シーンというよりは、どちらかというと映画によくある「今回のラスボスはこんなに恐ろしいやつだぞ」演出そのものだからだ。何の予備知識もなく本作を初めて見る人は、そもそもこの人(マッコールさん)が主人公だと認識できない可能性もある。客観的にはどう見ても殺人鬼なのだから…。

 手下たちを惨殺したあげく銃を突きつけられているのにゆったり腰掛けており、なんか小声で「入れてくれればよかったのに…」とか言い訳をして手の血を拭っている謎の男マッコールに対して、家に入ってきた主(実はマフィアのボス)は恐怖と戸惑いを隠せない。それはそうだと思う。

 さらに「9秒以内に自分の運命を決めろ」などという、難解な上に時間制限が厳しすぎる選択を突きつけられたボス。それでも一応9秒は待ってくれるのかと思いきや、直後に銃の発射ムーブを感知したマッコールさんは一瞬で手下たちを皆殺しにし、手下の目に突っ込んだ銃でそのまま撃つという省エネ必殺によってボスに致命的ダメージを与える。瀕死で床を這いずるも、尻に銃撃をくらったボスは(バトル含めて)9秒という最期の貴重な時間を有効活用することはできず、トドメの一発を食らって惨死するのだった。過去シリーズで瞬殺されてきた悪党どもと同じく、「誰なんだお前は…」という当然といえば当然の疑問ながら、永久に答えを知ることのないクエスチョンを目に浮かべながら…。

 ここまではいつもの『イコライザー』なのだが、この後なかなか意外なツイストがある。まったくの無力と思えた子どもが、マッコールさんに予想外のダメージを与えるのだ。珍しく瀕死の状態となったマッコールさんだが、そこはさすがの生命力でなんとか生き延びて、イタリアの小さな町「アルトモンテ」(名前は実際のモデルになった町とは違うのだが)に流れ着く。親切な医者エンツォの手助けもあり、マッコールさんは文化や習慣の違いに戸惑いながらも、このアルトモンテでしばらく暮らすことになる。

 まず、食文化の違いに翻弄されるマッコールさんの姿がなかなかカワイイ。マッコールさんはカフェインやお酒を摂取しないので、イタリアのカフェでも「ティーバッグの紅茶」を注文して、店員にカプチーノを出されたりする。(※イタリアの人は圧倒的にコーヒー派なので、わざわざ店で紅茶を飲むことは極めて少ない。旅行者はおとなしくエスプレッソでも飲んでおこう。)

 カフェだけでなく服屋さんや魚屋さんなど、ささやかな暮らしを贈る町の一般市民ともなんとなく仲良くなっていくマッコールさん。カフェの女性店員さんと(本格的なロマンスとはいかないまでも)食にまつわる交流イベントがあったりする。地域コミュニティにとって重要な役割を果たす教会も、人には言えない罪を犯してきたマッコールさんにとって、自分と向き合うための大事な空間になっていく。まさにマッコールさん版『食べて、祈って、恋をして』とでもいうべき、『イコライザー』イタリア編を楽しむことができるのだ。

 『イコライザー』シリーズは1作め、2作めともに、平凡な一般市民とマッコールさんとの交流を映すパートに時間を割くことが特徴的だったが、この『イコライザー THE FINAL』でも、そこを今まで以上にちゃんと描いてくれたのは好ましかった。しかしやはりマッコールさんともあろうものが、全編「食べて、祈って、恋をして」ですむはずもない。住民との交流が暖かくなるほどに、それを踏みにじられた時の怒りも爆発的なものとなり、激しい落差がもはや恐怖映画のような凄みを生む。タイトルを付けるなら『食べて、祈って、処刑して』といったところか…。

 

マッコールさんが、くる

 本作『THE FINAL』の冒頭で、主人公たるマッコールさんがほぼほぼ殺人鬼みたいな描かれ方をしていたわけだが、マッコールさんがなんらかの重要なラインを踏み越えたのは今に始まったことではない。

 決定的だったのは『イコライザー2』の後半だろう。長年の友人を殺されたマッコールさんが、真の犯人と思しき人間の家を「訪問」する場面がある。このシーンの演出は、その自らの悪行がバレないか不安がっている犯人視点ということもあるのだが、平和な我が家に「あいつ」がやってきた…という、闖入者ホラーみたいな雰囲気になっている。まずマッコールさんが登場する時の音からして、視界の端に殺人鬼が立っていたと気づいた時みたいな音で不穏すぎる。主人公の出していい音なのだろうか。

 さらに凄いのは退場で、「お前たちを全員殺すことにした」「一度しか殺せないのが残念だ」などと悪の四天王の残虐担当の人みたいな台詞を吐きながら、にこやかに「犯人の家族の車に」乗せてもらって去っていく。去り際の笑顔が意味するものは紛うことなき脅迫であり、「いざとなればお前の家族をどうにでもできる…わかるな?」というメッセージでもある。もう主人公というよりは、韓国映画の悪のラスボスみたいな行動であり、笑顔を顔に張り付かせたまま後退りで退場していく姿はとにかく「怖い」の一言に尽きる。夢に出そうだ。

 『イコライザー THE FINAL』のマッコールさんは、そうした「怖さ」の純度がさらに上がっていたように思えた。敵視点で見ると『13日の金曜日』みたいなスラッシャーホラー映画のように仕上がっているのだ。キャッチコピーは「マッコールさんが、やってくる。」とかそんな感じだろう。

 まずそもそもマッコールさんは、戦闘スタイルがかなり怖い。基本的に「惨殺」なのである。これは他のアクション映画と比べても顕著だ。

 たとえばいま映画館では『ジョン・ウィック コンセクエンス』も上映していて、『イコライザー THE FINAL』とあわせて殺し屋映画の新作(一応最終作)が両方見られる秋の殺人祭り状態だ。この二作を見比べると、同じ殺し屋でもやっぱりジョン・ウィックの殺しは、マッコールさんに比べればずっとスタイリッシュというか紳士的(まぁ殺してるけど…)なんだなと思わされる。

 これはジョン・ウィックの基本武器が銃である一方、マッコールさんはあまり銃を使わないことも大きいかも知れない。マッコールさん自身は決して意図的に残酷に殺しているわけではないだろうが、手近にある日用品(ガラスとかコルク抜きとか銛とか)を使ってフルパワーかつ最短距離で相手を絶命させるので、結果的にグチャッとしたグロい感じの死体が転がることが多い。

 これは撮り方の問題も大きく、『ジョン・ウィック』シリーズの格闘を美しく見せようというチャド・スタエルスキ監督らの方向性と比べ、『イコライザー THE FINAL』のアントワン・フークア監督は「暴力」を(美しいものではなく)恐ろしく、陰惨なものとして描こうとしている、という違いもあるのだろう。

 それにしても澄んだ湖のように穏やかな表情を浮かべながら、悪人の腕や手首をポッキーのようにへし折るマッコールさんの姿はおそろしい。パンフレットの格闘技教官のコラムによると、マッコールさんのトロンとした目つきは「視界をワイドアングルにして周辺を見る」訓練をした人に特有のものらしい…。菩薩のような眼差しだが、実は一分の隙もなく「殺し」に最適化した目つきなのだ。

 

マッコールさんが、(思いのほか早く)くる

 そんな恐怖の純度が上がった『イコライザー THE FINAL』のマッコールさんを最も特徴づけるのは「早さ」だ。これは9秒云々みたいな速度の話ではなく(いやそれも怖いのだが…)、「殺す」に至るまでの流れが観客の想定するテンポより一段「早い」ということだ。殺される側も「くそ〜、やつを仕留めてやる!」とか息巻いてる時点ではもう「遅い」ことに気づいてないというのが怖い。本作では大きくマッコールさんの「殺し」の場面が3つあるのだが、後の2つに共通しているのは「早さ」の意外性である。

 とりわけ印象的なのは中盤、マフィアの弟マルコとのひと悶着である。レストランで憲兵を脅すマルコは、じっと自分を見つめるマッコールさんに気づく。よせばいいのに(周囲にナメられたくないというプライドもあり)マッコールさんに絡んでいき、当然ながら返り討ちにあって痛めつけられるマルコ。「お、覚えてろよ!」みたいな捨て台詞を吐きながら店を出て、屋外で仲間とともに「あいつ絶対ゆるせねえ…ぶっ殺してやる!」などと息巻いている。ここまではよくある展開だ。

 だが、この後こいつらがマッコールさんを襲いに行くのかな…などと観客がぼんやり予想していた次の瞬間、車が突っ込んできてマルコの仲間の息の根を止める。そして遠くから歩いてくる人影が、次々とマフィアたちを絶命へ至らしめる…。誰あろう、マッコールさんその人であった。

 マルコはナイフを取り出し、応戦しようとするが、マッコールさんにとって刃物をもつチンピラなど、オモチャの剣を振り回す中学生に等しい。マルコは腕をカニ脚のようにへし折られ、ぶらんと垂れ下がった自分の手が握るナイフによって、マッコールさんに滅多刺しにされる。「あっ、殺し、あっ……」と思う観客を尻目に、ほんの数分前まではイキリちらかしていた青年は、無惨な死体に成り果てていた。紛うことなきスラッシャーホラーの惨殺シーンである。

 殺されたマルコはそれまでじっくり描かれたように、救いようのないクズのチンピラ悪党であり、観客の大半も「こいつは死んで当然かもな」「マッコールさんにブチのめされるのが楽しみだ」と思っていたはずだ。なのになぜだろう、いざ激烈な暴力によって彼が殺されると、「あっ…死んじゃった…」と無慈悲さと衝撃を覚えてしまうのだ…。

 『イコライザー』シリーズは慈悲深い物語でもある。1作めのデヴィッド・ハーバー演じる汚職刑事や、2作めの絵が得意な黒人青年マイルズのように、悪と善の境目でギリギリ踏みとどまったり、やりなおしのチャンスを得る人間も描いてきた。本作のマルコも、あまりに悪辣な兄の所業にちょっと引く場面が挟まれたりもしたので、もしかしたら「やりなおす」側の人として描かれるルートもあるのかな?と(すでに悪行を重ねているから難しいだろうとは思いつつ)心のどこかでちょっぴり思っていた。だが一切そんなことはなく、観客が想定するより一段「早い」マッコールさんの襲撃によって、あっさり惨殺されてしまった。「こいつがやりなおす機会があるとしたら、人生のどこだったんだろうな…」などと、少ししんみりしてしまうほどだ。

 マッコールさんの恐るべき「早さ」は、実は『イコライザー』シリーズの核をなすものだ。1作めを振り返ってみても、最初にマッコールさんがその恐るべき戦闘力を明らかにする「19秒で悪を仕留めた」場面は、アクションとしては短い部類といえる。これは演じるデンゼル・ワシントンが60近い高齢であることからも、それほど派手で長いアクションは難しいということだったのかもしれないが、その「早さ」と「短さ」はむしろ本作を特徴づける鮮烈さを生んでいる。

 同じく1作めでユニークなのが、ホームセンターに押し入った強盗を始末する場面だ。「武器となるハンマーを持っていく→強盗を襲撃して指輪を取り返す→ハンマーを返す」という流れを省略し、「ハンマーを持っていく→ハンマーを返す」の爆速シークエンスを作り上げている。マッコールさんが勝つことは映画的に明らかなので、わざわざ描くまでもないということなのだが、その省略がマッコールさんの理不尽なまでの強さと、気持ちのいいテンポ感を生んでいる。

その「早さ」を伝える「省略」の技法は1作めの時点でどんどんエスカレートしていく。いかにも強キャラのような風格のメガネの悪役がラスボスと食事をしており、トイレに行ったかと思えば、帰ってきたのはマッコールさんと、彼の割れたメガネだった…というシーンも強烈だ。トイレで待ち構えてきた(こわい)マッコールさんがメガネの悪役を倒す、という場面をまるごと「省略」したわけだ。

 さらにこの印象的な場面で、実はマッコールさんはもうひとつ重要な「省略」を行っている。それは「ラスボスの"悲しい過去"を、面と向かってぜんぶ口で説明してしまう」という所業だ。その話自体は、悪辣な少年が愛を失うことを恐れるあまり、恩人を殺してしまう…という、なかなか深みのあるバックストーリーであり、数分の尺をとって回想シーンとして表現されてもおかしくない話だ。だがマッコールさんはあろうことか、そうした深い背景を勝手にぜんぶ言葉で説明して終わらせてしまうのだ。人生で他人にやられたらイヤなことランキングでも相当上位にくるだろう。

 絶対に誰にも知られてないはずとラスボスが思っていた秘密を簡単に調べ上げる、マッコールさんの恐るべき調査能力を示す場面でもあるが、同時に『イコライザー』シリーズにおける「省略」のあり方を明確に示すシーンでもある。それは、しょうもない悪人のドラマなど「語られるに値しない」という思想だ。

 いや、たしかにこの場面はマッコールさんがラスボスの背景を(漫画編集者なら「セリフで説明しすぎ」と赤を入れるほどペラペラと)「語って」はいるのだが、例えばフラッシュバックによる表現や、本人が独白で自分の物語を回想する…といった、キャラクターに厚みをもたせるための映像的な「語り」とは異なる、いうなれば「ネタバレ」に近い冷淡な「語り」である。マッコールさんが「語られるに値しない」と判断した人間の物語=シーンを、文字通り"省略"してしまうという冷徹なシビアさがそこにはある。

 マッコールさんの「早さ」が奪うのは、卑劣な悪人の命だけではない。悪人の人生の物語に割く映像的な時間、そしてスポットライトをこそ奪っているのだ。そのかわり、映画もマッコールさんも、心優しく誠実に生きている一般市民の「物語」に光を当てることを優先してみせる。映画そのものの構造がマッコールさんの思想とも重なっているというわけだ。

 

集まる場所が必要だ(そして殺す)

 『イコライザー』シリーズは紛れもなく「アクション映画」ではあるのだが、『ジョン・ウィック』のようにアクションが目的化した映画ジャンルという意味で「アクション映画」と括るのは少し違う感じもしていた。そんな中、かなり渋めのトーンの『THE FINAL』を観て「やっぱそうだよね」と実感した。本シリーズは「悪とは何か」「善とは何か」を考えさせる一種の文芸作品なのだと思う(バイオレンスな文芸だが…)。

 最近、『集まる場所が必要だ――孤立を防ぎ、暮らしを守る「開かれた場」の社会学』という本を読んだ。図書館などの人が集まる社会的インフラの重要性をメインで語りつつ、後半ではハリケーンで打撃を受けた街の話も出たりする。感染症や気候危機のような緊急事態も多発する中、柔軟で強靭な社会を作るために「公共」のコミュニティをどう設計していくかを考える本だ。

 この『集まる場所が必要だ』を読んで、なぜか『イコライザー』シリーズを連想したのだが、それはマッコールさんが地域のコミュニティとその中で生きる人々の生活を尊重する人だからなのだと思う。そして『THE FINAL』ではさらにその傾向が顕著になっていたように感じる。人々のコミュニティを破壊する者は、問答無用で(物理的に)破壊されることになるのだ。

 『THE FINAL』の中でマッコールさんが放つセリフで、特に印象的なものがある。マフィアの弟マルコに対して、「お前と友人が何をしようと勝手だが、ここ以外のよそでやれ」と言い放つのだ。公平さを重視する「正義の味方」としてマッコールさんを捉えていた人は少し面食らってしまいかねない、身勝手にも響くセリフと言える。

 だが、マッコールさんは正統的な意味での「ヒーロー」とはやはり違う。悪人を惨たらしく殺す姿がヒーローらしくないことは置いておいても、マッコールさんは長年抱えた神経症的な性質から「どうしても悪や不公平を見逃すことが"できない"」人なのである。「殺さなくてすむ」ならもちろん殺したくないが、自分の近くで悪事を働かれるともう気になってしまい、ぶんぶんうるさい蚊を叩くように殺すしかない。その妥協案として「どうしても悪事を働きたいなら、自分の関知しない、よそでやれ」と提案してみせたのだ。マッコールさんの「ヒーロー」にはなれない暴力装置としての限界やエゴも隠さず映す、象徴的なセリフだと言えよう。彼に守れるのは、自分が暮らすコミュニティの人々や、自分に助けを求めてくれた稀有な人くらいのものなのだ。

 だがそんな『イコライザー』を、よくある自警バイオレンスものと一線を画す特別なシリーズにしているものは、実は「コミュニティの中で生きる市民」の描写なのだと思う。1作めの歌手に憧れる娼婦、警備員になりたい店員や、2作めの絵が好きな黒人青年、話を信じてもらえない老人など、理不尽で不平等な世界でなんとか生きている(私達によく似た)人々こそが、『イコライザー』シリーズの影の主人公なのだ。

 『イコライザー THE FINAL』でもそんな普通の人々が、マッコールさんとの交流を通じてしっかりと尺をとって描かれる。ささやかな生活、希望、楽しみ、密かな夢、大切な思い出を抱きながら、日々をなんとか生きている。本作のマフィアや過去シリーズの悪党たちのように、そうした市井の人々の大切なものを、自らの欲望や利益のために踏みにじる所業は、「単純な勧善懲悪」が難しくなった今の時代でさえ、絶対的な「悪」と呼べるのではないか。そして、そんな人々の生活をマッコールさんが守ろうとすること、そして人々のほうが今度はマッコールさんを守ろうと自ら立ち上がることは、紛れもない「善」と呼べるのではないかと思う。

 もちろん言うまでもないが、人を殺すのはよくない。よってマッコールさんが100%「善」であるとは言えるはずもない。ちょうどイスラエルとパレスチナの間で悲惨な衝突も起こったばかり(正確には「起こり続けてきた」のだが…)だし、ある意味で私刑や報復をエンタメ化した本作を無邪気に楽しんでいていいのか…といった感覚もまた忘れ去るべきではないだろう。

 それでもやはり、「悪いことは悪い」と悪を断罪するエンタメもまた、まだまだ人類に必要だと思えてならない。とりわけ日本のように(特に権力者や企業や政府が)弱者を踏みにじるような悪が「なぁなぁ」で相対化されてしまい、逆にそれが「清濁併せ呑む」態度として称賛されるような社会では…。『THE FINAL』といわず、まだまだマッコールさんに滅ぼしてほしいと願ってしまう「悪」は数多くある。『イコライザー』シリーズで悪人が粉砕される時に感じる喜びは、もしかしたら暗い喜びなのかもしれない。だが間違いなく、まだこの世界に必要な喜びなのだ。