沼の見える街

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ニャー Only Live Once.『長ぐつをはいたネコと9つの命』感想&レビュー(ネタバレあり)

人生は一度きり。YOLO (You Only Live Once)という英語のスラングにもなっているほど、誰もが知っているはずの真実であるにもかかわらず、私たちはそのことをあまり意識しない。それは人間が、死について考えるのが苦手だからなのかもしれない。そんな私たちの目をさますべく(?)、ファミリー/全年齢向け作品であるにもかかわらず、「死」や「一度きりの人生」について真正面から語る作品が現れた。しかも超カッコいいアクションと笑えるギャグを山のように散りばめながら…。映画『長ぐつをはいたネコと9つの命』である。

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ドリームワークス・アニメーションの成功を築いた大ヒット作『シュレック』シリーズの人気キャラ「長ぐつをはいたネコ」こと「プス」。人気のあまりプスを主人公にした長編劇場アニメ『長ぐつをはいたネコ』(2011)も作られ、本作『長ぐつをはいたネコと9つの命』はその10年以上越しの続編となる。

久々のシリーズ続編ということもあり、『シュレック』シリーズも前作『長ぐつをはいたネコ』も観てなくても全然問題なく楽しめる作りとなっている。とはいえシリーズファンに嬉しい要素もいくつかあるので、余裕あれば観ておくと楽しいはず(ちょうどamazonレンタルで100円セール中だし)。

ちなみに本作『長ぐつをはいたネコと9つの命』のジョエル・クロフォード監督って『クルードさんちのあたらしい冒険』の監督ですね。原始世界コメディ『クルードさんちのはじめての冒険』の続編なのだが、ギャグもキレまくりで面白かったのであわせて観よう。

 

【ざっくりあらすじ】

おしゃれな帽子にマント、そして長ぐつをトレードマークに、お尋ね者の人生を謳歌していたネコ・プス。今日も元気に歌って踊って大冒険、ついでに人助けに励んでいたが、少々ハシャぎすぎてうっかり死んでしまう! 「ネコには9つの命がある」という言い伝え通り、プスも9つのライフを持っていたはずが、すでに8回死んだので「残機1」となってしまった…。ゲームオーバー、もとい本当の死の恐怖に取り憑かれ、一度は引退も考えるプス。だが、どんな願いも叶う「願い星」の話を聞きつけたプスは、残機(残りライフ)を復活させるために旅に出るのだった。

 

【あえて「減らす」大胆アニメーション】

本作『長ぐつをはいたネコと9つの命』のアニメーションを最もよく特徴づける要素…それはアクションである。冒頭のアクションシーン(vs山の巨人)がYouTubeで公開されているので、観てもらった方が早そうだ。

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圧倒的に巨大な山の巨人と闘いながら、プスが街をダイナミックに飛び回る、実にワクワクするアニメーション活劇となっている。巨人がぶん回す鐘が家の屋根をぶっ壊すたびにゴーン、ゴーーンと鳴る音を、BGMとリズミカルに連動させ、攻撃をかいくぐって街を走り抜けるプスの疾走感をさらに増す演出の巧みさなど、今年のアニメ界でも最高のアクションシーンのひとつと言っていいだろう。

一方でこのアクション、けっこう独特なタッチで描かれていることにも気づくはずだ。その独特な味わいを生む隠し味のひとつが「コマ数」である。上のアクション場面だと、特にプスが「グラシアス」と言ってコーヒーを飲む(ちなみに原語では「おっ、エスプレッソか」と言ってる)あたりから顕著なのだが…

動画を見ればわかるが、こうしたプスの一連の動きが、カクカクした「コマ数を減らした」アニメーションになっている。カフェインで興奮したプスの尋常ならざる勢いを表しているとも取れるが、この場面に留まらずその「カクカク」した動きは、本作のアクションやバトルの方針全体を決定づけるアニメ表現になっている。アニメ作品の「コマ数の多さ」がもたらす滑らかさ、いわゆる「ぬるぬる感」とは、かなり正反対のアプローチを取っているのだ。

ディズニー/ピクサーなど、世界的に興隆している3Dアニメーションは、CG技術の格段の進歩もあって、まるで実写かと思うほどに違和感のない、「自然な」「なめらかな」動きを3Dキャラが行うのが主流だ。アニメではないがジェームズ・キャメロンの『アバター ウェイ・オブ・ウォーター』にしても、ハイフレームレートという「超ぬるぬる」表現がそのCGやVFXの謳い文句だった。そして日本で主流の2Dアニメでも、コマ数の多い「ぬるぬるした動き」は今なお「アニメのクオリティの高さ」と強く結び付けられているように思う。基本的に「コマ数が多い(ぬるぬる)=ゴージャス=良いアニメ」というわけだ。

そんな中、『長ぐつをはいたネコと9つの命』は、ぬるぬる至上主義に逆らうかのように、意表を突く「カクカク」した動きを意図的に織り交ぜることで、アクションシーンに独特のメリハリをもたらしている。あえて「コマ落とし」をすることで、よく考えれば奇跡のような「"絵"の連なりとしてのアニメ」の豊かさを、かえって観る者に強く意識させるのだ。これは、今も絶え間ない進化が続く3DCGアニメ界に現れた、新たな「答え」であるとも言える。

 

【『スパイダーバース』の衝撃と、その残響】

ここで少し、近年のCGアニメの明確な潮流を振り返ってみたい。ディズニー/ピクサーだけでなく、3DCGはここ数十年の世界のアニメを席巻し、CGの質をいかに高めていくか、競うように進歩が遂げられてきた。それと同時に、どうしてもツルッとした質感になりがちで、無機質な印象も与えかねない3Dアニメ表現に、どのように手描き2Dアニメ的な良さや美しさを復権的にもたらすか…という挑戦も続いてきた。

その挑戦にひとつの「答え」を提示した超重要アニメ作品が、やはりなんといっても『スパイダーマン:スパイダーバース』(2019)である。コミックを彷彿とさせるバキッとしたアナログ的な色彩や、2次元的なエッジィな構図をふんだんに織り交ぜながら、ディズニー/ピクサー系の3DCG表現とは全く異なるCGアニメーションのあり方を鮮烈に提示した。まさに革命的な作品だったのだ。

同じくソニー・ピクチャーズ・アニメーションのNetflix『ミッチェル家とマシンの反乱』(2021)もその流れを汲む傑作だったこともあり、他の制作会社も『スパイダーバース』以降の潮流を大いに意識するようになる。昨年の筆頭は、ドリームワークスの映画『バッドガイズ』(2022)だろう。

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詳しくは↑の記事でも語ったが、『バッドガイズ』は「コミック/イラスト風2Dアニメの魅力を活かした3Dアニメ」という『スパイダーバース』以降のトレンドを踏襲しながらも、また全く異なるドライ&ポップなアニメ表現を志した点で、見応え抜群だった。さらにそれに続くのが本作『長ぐつをはいたネコと9つの命』なので、ドリームワークスもソニー・ピクチャーズと競い合うように、こうした2D+3Dの実験を続けていくぞという意思表明(宣戦布告?)かもしれない。

さらに今年は、その実験的姿勢をさらに先鋭化させたような映画『ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!』が夏に公開したり…

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極めつけに、これらの潮流の起点となった『スパイダーバース』の正統続編『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』の公開も控えているので、いよいよ2023年の海外アニメはとんでもないことになりそうだ。楽しみすぎる。

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ちなみに全くジャンルは異なるものの、ほぼドキュメンタリーに近い手法で作られたアート的なアニメ映画である『FLEE』の、あえての違和感をもたらす「カクカク」した表現にも、『長ぐつをはいたネコと9つの命』のコマ落とし表現と通じるものを感じもした。エンタメとアート/社会派の両方の領域で、アニメ表現を根底から問い直すような探求が続いていると思うと、アニメファンとしては心躍る。

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ーーー以下、ネタバレ注意(大したネタバレはないと思うが)ーーー

 

【「おとぎ話のしゃべる動物は大嫌いだ!」】

『長ぐつをはいたネコと9つの命』は主人公がネコなので、日頃から唱えている「動物が主人公の海外アニメ映画にハズレ無しの法則」にまた新たな実例が生まれたことになったわけだが、「動物映画」として本作を観た時に、どんな見どころがあるだろうか。

本作の悪役が「おとぎ話に出てくる、しゃべる動物は大嫌いだ!」と微妙にメタな悪態を叫ぶので笑ってしまうのだが、この台詞は意外にも本作の動物描写の肝を捉えているようにも思う。「童話に出てくる、しゃべる動物」と「現実的な動物」の間の差異に、かなり自覚的なようにも思えるからだ。

その意味で面白い場面は、前半で出てくる「ママ・ルーナの家」こと保護猫ホームだ。もう一度も死ねないことを悟っただけでなく、恐るべき賞金稼ぎウルフの圧倒的強さにも恐怖を抱いたプスは、ついに挫折して「長ぐつをはいたネコ」稼業(?)をやめて、そのホームで老後のような余生を過ごすことに決める。

ホームで暮らすネコたちは、かなり現実味のあるネコとして描かれている。プスに代表される「フィクショナル/童話的な動物」と、保護ネコたちのような「リアルな動物」が混在している世界観という意味では、人間の中にごく少数の動物キャラが混ざっていた『バッドガイズ』とも通じる不思議なズレがある。普通に言葉を話したり立ち小便をしたり料理までこなすフィクショナルなネコ・プスと、保護ネコたちとの間に、リアリティ面でのギャップが生まれてしまっているが、それがまたギャグになっていて笑える。

一方、その「リアルとフィクション」のギャップはギャグ要素にとどまらない。プスはホームで暮らす日々の中、その「現実的」な世界にどんどん埋没し、食事やトイレのような日常動作も、すっかりごく普通のネコのようになっていく。「何回も死ねる」という、「フィクショナル/童話的」なスーパーパワーを失ったことで、プスは夢も希望も勇気も失い、「リアル」な動物に限りなく近づいてしまったわけだ。

そんな暮らしにすっかり馴染んでしまったプスだが、ある重要な動物キャラクターと出会う。それが「ワンコ」と呼ばれる名無しの犬だ。ネコのフリをしているが実は犬だった…という設定である。

ワンコは、本作の「フィクショナルな動物」と「リアルな動物」の間に存在する不思議なギャップを埋め、橋渡しするような動物キャラでもある。その外見はアニメ的に直球の可愛さというよりは、かなりリアリティを意識した「犬」造形となっている。ぼっこりしたおなかの質感も妙に生々しい。よく見ると縫われた切り傷の跡があるし…。

そんな絶妙にリアルで生々しい外見からうっすら伝わるように、ワンコは常に周りから虐められ、見捨てられ、忘れられるという、壮絶な生涯を送ってきた。童話に描かれることは決してない、残酷な現実世界に数多く存在する「現実の動物」の苦しみや悲しみを、その一身に引き受けるかのように…。ワンコが「笑い話」として語りだした、あまりに悲しすぎる生い立ちに、プスとキティが思わず絶句して「そんな悲しい笑い話、聞いたことないよ…」とこぼす場面は、笑っていいのか泣いていいのかわからない気分になる。

だがワンコ自身は、自分の悲惨きわまる「リアル」な境遇を苦にしていない。根っから前向きで明るい性格のまま、想像力を羽ばたかせながら、「いつかセラピードッグになりたい」という夢まで語りつつ、ハッピーな"今"を謳歌しようとしているのだ。これは、実はプスと正反対である。「童話的/フィクショナルな動物」としてヒーローのように活躍し続けてきたが、死の恐怖と生の限界に取り憑かれ、"今"を見失って「現実」に埋没してしまったプスと、ワンコは対照的なキャラクター構造になっているのだ。自分と真逆のワンコを最初は鬱陶しがっていたプスだが、そのエネルギーと純粋さに、徐々に心を開いていくことになる。

このように、「童話的/フィクショナルな動物」と「リアルな動物」を、プスの変化によって描き分け、その狭間に存在するワンコとの関わりによって、本作の根本的なテーマを際立たせようという、何気に高度な試みが本作には見られる。「動物アニメのリアリティ設定」の問題を逆手に取ったような、またなかなかフレッシュな動物描写が現れたな…と感じさせた。

 

【濃すぎるサブキャラたち】

ワンコを筆頭として、本作には数多くの濃いサブキャラが登場する。願い星を追い求めるプス・キティ・ワンコの賑やかなトリオにくわえ、彼らを追いかけるライバル的なグループ(ウルフのみ単独行動だが)が3つあり、しかもその全員がやたらと濃いメンツなので、2時間の映画としてはだいぶギッシリ詰め込みまくったキャラクター配置となっている。だがそれでも全く混乱した感じがせず、鑑賞者がスッキリと理解できるストーリーラインが作れていることは称賛すべきだろう。

 

ゴルディロックスと3匹のクマ

本作のわくわく動物映画っぷりを3倍増してくれた、3匹のクマと少女ゴルディロックスの犯罪ファミリーである。『3匹のクマ』の童話がモチーフなこともあり、おかゆの「熱い/冷たい/ちょうどいい」を少女が確かめるシーンを元ネタに、「こっちは○○すぎる」「こっちは□□すぎる」「でもこれは…ちょうどいい(Just Right)」が決め台詞、もといお約束ギャグとなっている。

『3匹のクマ』とゴルディロックスの物語に、日本での知名度がどれくらいあるかはわからないが、「ゴルディロックス相場」とか「ゴルディロックス・ゾーン」とか、経済や宇宙科学の分野でも「ちょうどいい環境」を示す言葉にもなっているので、聞いたことはあるかもしれない。

最初は願い星を巡るライバル集団として登場しつつも、「ちょうどいい」というキーフレーズを繰り返しながら、徐々に彼女たち(血のつながらないクマと人の異種ファミリー)の成り立ちと絆が掘り下げられていく。その過程でワンコが絶妙に絡んでくるのも上手い。なかなか現代的なテーマの心温まる物語を見せてくれる、魅力的な準主役キャラクターだった。

ちなみに原語版では少女ゴルディロックス役がフローレンス・ピュー、お母さんクマがオリヴィア・コールマンという豪華キャストなので、個人的にはそっちも聞きたかった。日本語吹き替えキャストももちろん良かったが、やはり原語版と選びやすい上映形態にしてほしいものだ…。

 

ジャック・ホーナー

本作の悪役である。イギリスの伝統的な童話『マザーグース』の「リトル・ジャック・ホーナー」が、「ビッグ・ジャック・ホーナー」となって、私利私欲に溢れた大企業のボスを務めている。

前作『長ぐつをはいたネコ』では『マザーグース』のハンプティ・ダンプティが重要な(婉曲)役割だったので、2連続で『マザーグース』からこういう感じのキャラかよ!と思わなくもない。どういう扱いなんだマザーグース。しかも一応は複雑な過去を背負わされていた前作のハンプティ・ダンプティと違うのは、今回のジャック・ホーナーは単に恵まれた環境でひねくれて育っただけの、清々しいほどのカス野郎だということだ。まぁ「人にはそれぞれ事情がある」と伝えるのが大切なのと同じくらい、「そうは言っても悪いことは悪い」と伝えることも児童向けエンタメの立派な役目だと思うので、単なるカス野郎の悪役もまだ全然いていいと思う。

ただこのジャック・ホーナー、とんでもないカス野郎ではあるのだが、先述した「おとぎ話のしゃべる動物は嫌い」発言に象徴される、『シュレック』シリーズらしいメタ的な楽しさにあふれたキャラでもある。それが最も顕著なのは、童話に登場するアイテムやキャラをコレクションしていて、それを悪行のためにバンバン使ってくるという設定だろう。

たとえば『シンデレラ』のガラスの靴やかぼちゃの馬車(てか戦車)、『メリーポピンズ』の傘、ユニコーン(マイリトルポニー…?)のツノ、『不思議の国のアリス』の巨大化お菓子、白雪姫の毒りんごボム、不死鳥などなど、様々な童話アイテムが乱れ打ちのように登場し、カスな使われ方ばかりするというギャグが(酷いけど)ことごとく面白く、情報量の洪水で目が忙しい。

特に面白かったのは『ピノキオ』のジミニー・クリケット(っぽい虫)が登場するくだりである。良心が存在しないカス人間の「良心の声」を務めるハメに…という一連の展開は声を出して笑ってしまった。直近の『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』のクリケットも大変そうだったが、宿主(?)がカスなせいで、苦労っぷりがあっちの比ではない。

 

ウルフ

本作『長ぐつをはいたネコと9つの命』に濃厚に漂う「死」の匂いを象徴する、恐ろしくも超カッコいい悪役キャラクターである。

口笛を吹きながら獲物を探す賞金稼ぎであり、自分は「死神=death」そのものだと自称する禍々しい追跡者、その名もウルフ。登場シーンから不気味なインパクト抜群だ。2本の鎌を振り回すバトルスタイルや、先述した「決め絵の畳み掛け」的なアニメ表現の上手さも相まって「こいつには勝てない」絶望感を観客に植え付ける。こうしたアニメとしては珍しく、鎌がかすったプスの額から赤い血が流れる描写も、プスが陥った死へのパニック的な恐怖と混乱を生々しく表現している。

外見といいアクションといい、まさにプスが内心に抱える死の恐怖が具現化したようなホラーな存在感だが、だからこそプスが物語の中で乗り越えるべき「恐怖」が何なのかも明確に伝わってくる。台詞のくどい説明ではなく、敵のビジュアルやアクションによって作品の重要テーマを巧みに表現したという意味で、素晴らしいキャラクター造形の実例と言えるだろう。終盤のプスvsウルフの一騎打ちは本作のキレッキレのアクションの大見せ場となっているので刮目して見よう。そして冒頭のバトルの群衆の中にもウルフが混ざっているようなので、ぜひ探してみよう…。

一点だけ、オオカミをはじめ「悪役動物」への偏見を描いた『バッドガイズ』の直後で、思いっきりオオカミが超コワい悪役なのはどないやねんドリームワークス、と動物勢として若干思わなくもなかったが、まぁ作り手も違うので大目に見よう。こうなってくると、ウルフ主人公のスピンオフも見たくなってくるところだ…(スピンオフのスピンオフ?)

 

【NOLO(Nyaaa Only Live Once...)】

山盛りのギャグとド派手なアクションを散りばめながらも、ウルフ=死神の強烈な存在感に象徴されるように、『長ぐつをはいたネコと9つの命』の中心的なテーマには「死」がある。子ども向け大作としては、かなり珍しい踏み込みっぷりと言える。

繰り返し何度も死ぬことができる異能ゆえに、生の真価を実感できない主人公が、流浪の果てに「一度しかない生の豊かさ」を知るという点で、連想する直近の作品といえば、やはり『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』だろう。

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『長ぐつをはいたネコと9つの命』にも、ジャックの生い立ちにピノキオが登場したり、先述したクリケット的な虫といい、実は地味に「ピノキオ」ネタが多いのだが、デルトロ監督が大いに創造性を働かせたバージョンの『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』ともシンクロニシティ的に響き合っている事実は、やはり興味深い。また、死や老いを間接的に示唆した大作という点で『トイ・ストーリー3』や『トイ・ストーリー4』などを連想する人もいるかもしれない。

本作『長ぐつをはいたネコと9つの命』では、プスは冒頭で「8つの命」を失い、残りはあと1つしかない、これじゃ命がけの冒険なんかできないよ…と嘆くわけだが、よく考えると、要は私たち「リアルな」人間と同じ普通の人生になっただけとも言える。人は誰しも最初から「1回しか生きられない」というルールに縛られて生きているのだ。プスと違うのは、当然すぎるその事実を普段それほど意識しないということだけだ。

そんな「人生が1回しかないという事実」、すなわち「生の一回性」を、プスの葛藤を通じて、本作は観るものに改めて意識させる。何度でも死ねるという「フィクショナル」なパワーを失って「リアル」な動物に近づき、死の恐怖に取り憑かれて「今を生きる」心を忘れてしまったプスのように、リアルを生きる私たちもまた、失敗や痛みを恐れるあまり、心が死んだような日々を送っていないだろうか…と本作は突きつけてくる。

プスは、かつて愛した(今も未練ありまくりな)キティとの間にあったわだかまりについて話し合い、そしてワンコのまっすぐな生への愛に触れることで、「一度しかない人生」の尊さを味わうことを少しずつ学んでいく。その過程は、プスが虚勢を張るのをやめて、自分の弱さや恐れと向き合う姿勢とも密接に結びついているのが現代的なところだ。とりわけ、序盤でギャグっぽく繰り返された「セラピードッグになる」という夢が果たされるかのように、ワンコが打ちのめされたプスに寄り添う場面は心に残った。自分のことしか考えていなかったプスが、周囲の助けも借りながら、己の弱さと向き合っていき、他者への理解や愛を育み、新しい人生を見つけ出す…という、実に大人っぽい物語になっているのだ。

ところで、広大な可能性がある(あった)はずの世界で、かえって日々を雑に生きてきた主人公が、アクション満載の大冒険の果てに、ただひとつの自分の生に向き合う…という本作のストーリーから、つい最近公開された映画を思い出さないだろうか。そう、アカデミー賞を席巻したばかりの『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』である。

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実は『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は、非常にアニメーション的な要素が濃厚な実写映画だったな…と思っている(監督が湯浅政明に影響を受けたとも公言しているし、一瞬だが本当にアニメの場面もあったし)。マルチバース的な「全く異なる複数の世界/人生」がテンポよく切り替わっていく心地よさや、大量のカルチャーやフィクションへのメタ的・パロディ的な言及など、『エブエブ』でも見られた語り口の特徴は、本来ならアニメでこそ表現しやすいものと言ってもいい。実際『長ぐつをはいたネコと9つの命』でも、プスの「前世」たちの描かれ方や、ジャック・ホーナーの童話アイテム連発ギャグなどに、そうした『エブエブ』とも通じる要素やテーマが見られると言える。

そんな本作『長ぐつをはいたネコと9つの命』の特異なポイントは、こうした「一度しかない生を生きる」という本質的なテーマ性が、アニメーション表現とリンクしているとも解釈できるところだ。すでに語った、意図的にコマ数を落としたり、2D的な絵面をバシッと決めて「その瞬間をしっかり見せてくれる」斬新なアニメ表現は、まさに「生の瞬間をちゃんと味わう」ことの暗喩のようにも思えてくる、と言ったら穿ち過ぎだろうか。作り手の意図はどうあれ、ぜひ本作のメッセージを正面から受け止めて、めくるめく美しいアニメーションの「絵」をじっくり堪能したいところだ。

そして映画館を出た後も、ふだん目にする光景を、膨大な瞬間の連なりの中に埋没させることなく、「絵」として目に焼き付けてみようと思えるかもしれない。光の反射を美しく感じ、聴こえてくる音にじっと耳をすませ、もしかしたら匂いも楽しもうと思えるかもしれない(バラの匂いを嗅いでみせたワンコのように…)。一度しかない日々の道のりを歩む過程こそが、願いが叶うことよりも、命が9つあることよりも、きっと素敵なことなのだから。