沼の見える街

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窓の向こうに何を見る。『映画 窓ぎわのトットちゃん』感想&レビュー(ネタバレあり)

今年・2023年の日本アニメ映画は、大豊作だったと言っていいだろう。

私が鑑賞したり感想を書いたりした限られた範囲だけでも、斬新なキャラデザが光る『金の国 水の国』、鳥山明の良さが詰まった快作『SAND LAND』、芸能界と社会の歪みを斬る【推しの子 Mother and Children】、ハイセンスな絶滅どうぶつアニメ『北極百貨店のコンシェルジュさん』など、数多くの忘れがたい劇場アニメ作品をあげることができる。なんなら昨年末に公開して話題をかっさらった大傑作『THE FIRST SLAM DUNK』も今年の夏までずっと上映され続け、劇場を盛り上げていた。配信アニメでは、サイエンスSARUが海外のクリエイターとがっつり組んで作り上げたNetflix『スコット・ピルグリム テイクス・オフ』は特に注目すべき一作だ。(ちなみに海外アニメは海外アニメで凄まじい豊作イヤーだったが今は置いておく。)

そんな今年公開の日本アニメ映画の中でもとりわけ、巨匠・宮崎駿の(色んな意味で)圧倒的な最新作『君たちはどう生きるか』と、水木しげるのスピリットを果敢に蘇らせた『ゲゲゲの謎 鬼太郎誕生』は、2023年を象徴する二作品と言ってよさそうだ。宮崎駿、水木しげるという、それぞれ日本を代表する、戦時を知る世代のクリエイターの精神性が(直接・間接の違いはあれど)存分に発揮された結果、どちらにも「戦争」の影が色濃く刻まれていたのは特筆すべきだ。

そんな今年の日本アニメを振り返りながら、来年もどのような作品が現れるか楽しみにしたい…と、なんとなく「締め」の年末ムードに入りつつあったところに、これらの「今年を代表する日本アニメ映画」に確実に加えなければならない"凄み"のある作品が現れるとは、誰が予想しただろう。いや、黒柳徹子のファンは予想していたのかもしれない。そう、『映画 窓ぎわのトットちゃん』である。

tottochan-movie.jp

この映画、予告編自体は何度も劇場で目にしていたのだが、はっきり言ってノーマークだった…というか「まぁ別に観なくていいかな〜」とか思っていた(ごめん)。本編の凄さを知った上で予告↓を見ると、しっかり「面白そう」に感じられるし、作画も十分にすごいのだが…。

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これは予告編のせいというよりは、私が原作本『窓ぎわのトットちゃん』や黒柳徹子さんについて特に何も知識がなかったことが大きいのだろう。(少なくとも原作を読んでいれば、そこに含まれた確固たるテーマ性を今わざわざアニメ化することの意義にも思い至ったはずだったが。)明らかに現代日本のメインストリームから外れたキャラクターデザインも相まって、なんか微妙に変わり種の、ファン向けのノスタルジーっぽいフワッとした人情的な作品なのかな、と思ってしまったのもある。

だが間違いだった。『映画 窓ぎわのトットちゃん』は、今年の日本アニメ映画で言えば『ゲゲゲの謎 鬼太郎誕生』のような気骨ある作品だとか、あるいは『君たちはどう生きるか』のような超絶作画を誇る作品であるとか、そしてなんといっても近年の日本アニメ映画を代表する一本である『この世界の片隅に』のような名作と、同じ重みを持って語られるべき映画であると思う。

というわけで結論→「紛うことなき傑作」なので、まずはとにかく劇場に駆けつけてほしい。残念ながら今のところ客入りはイマイチっぽく、これから人気作も続々とくるため、大きなスクリーンで見られる時期はすぐに終わってしまいそうだし…。ネタバレはなるべく控えめにするが、記事後半では終盤の展開にがっつり触れるので注意(まぁ原作も有名だし、ネタバレで面白さが損なわれる映画ではないとは思うが)。

 

 

現実と夢幻が重なる圧巻のアニメ表現

まずはシンプルに、本作はアニメーション表現のクオリティが極めて高い作品である。もう冒頭の駅のシーンからして、アニメに多少関心のある人なら「あっ、これは…」と襟を正さざるをえないだろう。多くの人が行き交う木造の駅で、人ごみの中から主人公・トットちゃんが現れ、駅員さんと「この切符、貰っちゃいけない?」といった、子どもならではの予測不可能性に満ちたやり取りをする。

原作本も全く同じ始まり方をするわけだが、このアニメ版では本当に当時の駅の様子や人混みをリアルタッチで描くことで、その光景自体に豊かな新鮮味があるだけでなく、その世界にふと現れたトットちゃんという思いがけない存在の面白さも際立つ。『この世界の片隅に』の、クリスマスの空気にわく街の様子を描いた、映画オリジナルの冒頭も見事だったが、それを思い出した。もっといえば本作は、このクオリティの街や学園、人々の日常の様子がほぼ全編にわたって続くわけなので、その点ではさらに凄いとも言える。

とりわけ鍵を握るのは、やはり美術監督の串田達也氏だろう。ジブリ作品やエヴァ、『この世界の片隅に』などで手掛けた美術は数しれず、名実ともに日本最高のアニメ美術監督の一人と言っていい。原作本『窓ぎわのトットちゃん』の挿絵を手掛けた巨匠いわさきちひろの美術の風合いを、できる限り再現するという困難な挑戦を成し遂げている。また、普段は実写作品を多く手掛けている美術設定の矢内京子さん(アニメでは『若おかみは小学生!』など)が果たした役割も大きいはずだ。特に後述するトモエ学園の、地に足の付いたリアル感と、どこかファンタジックな優しさを融合させた造形の見事さは、こうした一流クリエイター陣の尽力あってこそだろう。

現実世界のリアルタッチな描写がよくできていると同時に、劇中で3回ほどある、登場人物の内面世界を描いた夢幻的なアニメーションの素晴らしさも目を見張るものがある。それぞれ全く異なるタッチで、全く異なる意味合いの幻想を描くアニメーションが3種類(日常のタッチも含めると4種類)も同じ作品に同居していると考えれば、ほとんど『スパイダーバース』みたいなアニメ的チャレンジを試みているとさえ言える。詳しくは書かないが、全ての幻想シーンに重要な物語的意味があるので、アニメ表現のスタイルが変わった瞬間はぜひ目を凝らしてほしい。

 

主人公オブザイヤー・トットちゃん

本作のもうひとつの素晴らしさは、なんといっても主人公のトットちゃんの描写が「イイ」と言うことだ。まず誰でも気づくことだが、キャラクターデザインが独特である。というか予告編を観た時点で、多くの人が本作のキャラデザに「ん?」と思ったかもしれない。トットちゃんのみならず、全てのキャラクターが口紅や頬紅をさしているような、いわば「お化粧」を施したような外見に見えなくもないのだ。

こちらの監督インタビュー記事にも書いてあるが、こうした独特のキャラクターデザインは、トットちゃんが少女時代を過ごしていた、昭和の「児童画」を意識したということだ。実際、当時の児童本の表紙や挿絵などを見てみると、生命力の象徴のように、顔にお化粧のような「赤」をさしている絵を多く見かける。昭和の時代に純粋無垢な少女時代を生きていた、トットちゃんの視点から見た「自分自身」と「他の人々」の姿が、この独特なキャラデザで表現されているわけだ。

現行の日本アニメの主流的キャラデザからは相当かけ離れていることもあり、最初は面食らう人も多いかもしれない。だが観ているうちに、このデザインこそがトットちゃんを中心とした登場人物たちに、唯一無二の生々しい実在感を与えているということに気づき始める。人間の顔が記号化されるアニメでは意外と無視されがちな「唇」というパーツを、むしろ強調することで人物の表現に幅が出た、とも監督がコメントしているので、唇の表現に着目して観るのも面白いだろう。

外見だけでなく、トットちゃんが口にするセリフにしても、最初から最後まで全部「イイ」のである。アニメ/実写問わずありがちな「大人が都合よく考えだした子ども」感が全くないのだ。トットちゃんはあくまでまだ子どもではあるが、「子どもなりの知能をフルに生かして世界と向き合っている、聡明で元気で優しい、生きた人間」のエネルギーに溢れている。

たとえば冒頭、駅を出たトットちゃんがお母さんと交わす、「本当はスパイなんだけど、切符屋さんなのは、どう?」といった子どもっぽい、しかし可愛らしい発言も、「ああ〜子どもってこういうこと言うよね!」としっかり思えるリアリティがある(黒柳徹子が本当に言った言葉だろうし、当たり前かもしれないが…)。と同時に「スパイ」という言葉にお母さんがちょっと微妙な反応をすることも含め、こうした子どもならではの自由さが抑圧されていく後半の悲しさも示唆しているのだが…。

トットちゃんの良いセリフをあげていけばキリがないが、序盤で言えば、ユニークな教育方針のトモエ学園を見学に行き、校舎が電車の車両だったことにテンションぶち上がった後、校長先生に会ったときに食い気味で「校長先生か、駅の人か、どっち?」と尋ねるシーンなど凄く良いなと思った。常識的に考えればこの大人が「駅の人」であろうはずもないが、電車の教室にブチ上がってしまったトットちゃん的には、「駅」のイメージに引っ張られているのだろう…ということも想像できる、何気ないが子ども特有の世界観と自由さに満ちた発言だ。

こういう嘘っぽくない言葉を子どものキャラに言わせられる稀有なクリエイターが宮崎駿だと思うし、「校長先生か、駅の人か、どっち?」などというセリフを無から考え出せたらまさに天才であるが、本作は原作が自伝(ノンフィクション)であることが活きて、こういう面白い予測不能なセリフが湯水のように出てきて全く退屈しない。

これほど生き生きとした子どものキャラクターをゼロから作り出すのはほぼ不可能ではないかと思うし、間違いなく原作の『窓ぎわのトットちゃん』あってこそではあるが、その魅力をうまくアニメとして再構成したことで、トットちゃんは驚くほど魅力的なキャラクターとなっていた。今年観た映画の中でも、ベスト主人公のひとりにあげざるをえない。

 

トモエ学園、いい学校

このトモエ学園を舞台に、トットちゃんは自分の個性を押さえつけられることなく、のびのびと学校生活を楽しんでいくことになる。このパートで特筆すべきは、トットちゃんだけでなく、学園の他の子どもたちの描写もまた秀逸であることだ。

学園の日課である「お散歩」や、授業や食事のシーンなど、とにかく「子どもたちが集団で何かをする」という場面が多い作品なのだが、ひとりひとりの子どもが個性豊かにいきいきと描写されていることは、何気ないが(本作が手書き2Dアニメであることを考えれば特に)驚異的ではないだろうか。

子どもの描写に手を抜かないという本作の方針は、まさに舞台・トモエ学園の「それぞれの子どもの個性を大切にする」という理念と一致している、という事実も素晴らしいなと思う。スクリーンに映っている子どもたちが「書き割り」でなく生きているように見えるという事実が、「子どもの個性を大切に」などという、いっけん陳腐な絵空事にも響きかねない信念に、手触りと説得力を与えているのだから。

そんな学園の理念を象徴する存在が、トモエ学園の校長・小林先生である。モデルは金子宗作という実在の人物で、「リトミック」という幼児期の人格形成教育を普及した人としても知られている。先述の「校長先生か、駅の人か、どっち?」の出会いから、小林先生はトットちゃんに一人前の人間として敬意をもって接し、4時間にわたって話を聴いてくれた。小学生を追い出されたトットちゃんの良き理解者として、小林先生は本作の屋台骨のような存在となる。

小林先生と、トットちゃんのような子どもたちの関係を象徴する場面として、「便所」のシーンがあげられるだろう。トットちゃんは汲取式のいわゆるボットン便所に、あろうことか大事なお財布を落としてしまい、大きな柄杓で汚物を掻き出し続ける。冷静に考えるとアニメでこれほど汚物が描かれることも珍しいな…と思えてくる、だいぶストレートに「汚い」場面でもあるが、過去をむやみに美化しないという本作の理念を感じもする。

ただし汚いだけではなく、不思議な爽やかさと愛情にあふれた場面でもある。汚物まみれのトットちゃんの姿を小林先生は目撃するのだが、「そんな汚い/危ないことはやめろ」「大人にまかせておけ」などとは決して言わず、ただ「終わったらもとに戻しておけよ」とアドバイスし、放任しておくのだった。結果トットちゃんは、汚物まみれになった上に財布も見つからなかったものの、「やるだけやった」という満足感を手に入れることができた。ふつうアニメがわざわざ描かないような「汚い」シーンを通じて、先生と子どもたちの理想的な関係を(一切の説明セリフなく)現実的に表現する手腕はスマートで、観客への信頼を感じさせる。

下手をすると聖人のように描かれかねない小林先生だが、彼もあくまで人間なのだ…という点も何度も強調される。体の小さな子を不用意な発言で傷つけてしまった女性の先生を、小林先生が叱責する場面では、先生たち大人も決して完璧でなく、泥臭く努力してこの「理想」の学園を作り上げていたんだ…と、覗き見るトットちゃんと一緒に観客は理解する。小林先生もまた苦悩しながら学園を運営しているからこそ、トットちゃんたち生徒が、トモエ学園をバカにするよその学校の子どもたちに「トモエ学園、いい学校!」と反撃の歌を歌う場面で、人知れず涙する姿が胸を打つのだ。

だからこそ終盤、学園の夢が消えつつあるとわかった時、小林先生が生徒たちに隠れて慟哭し取り乱す姿がショッキングでもある。だが終盤で学園を襲う圧倒的な「現実」を前にして、燃え盛る炎が宿ったような決意を秘めた先生の目には、どこか「綺麗事」を超越した、底しれぬ人間の凄みに溢れている。小林先生というキャラクターの描写だけに着目しても、とても複雑な濃淡を感じさせるのは驚くべきことだ。執念にも似たたくましさをもつ、一筋縄ではいかない人間の「善意」や「信念」の化身…。それが小林先生であり、トモエ学園なのかもしれない。

 

大事な友だち、泰明ちゃん

そんな学園の生徒たちの中でもとりわけ重要なキャラクターが、小児麻痺を患った男の子・山本泰明(やすあき)ちゃんである。片腕・片足が動かしにくいという身体障害を抱え、周りの子と同じようには振る舞えないというコンプレックスをもちながらも、知性と優しさに溢れた泰明ちゃんは、トットちゃんのいちばんの親友になるのだった。

泰明ちゃんとの交流は、原作『窓ぎわのトットちゃん』の核心にあるテーマと言っていいが、この映画版はそれをさらに膨らませ、原作の要素をうまく拾って並べ替えたり、時には映画オリジナルの展開を付け加えたりしながら、一本の筋の通った友情物語として再構成している。

最も重要かつ象徴的なのは、やはり中盤の「木登り」シーンだろう。学園に生えている木を「トットちゃんの木」と(勝手に)名付けたトットちゃんは、体の事情ゆえに「木登りなんて無理」と諦めていた泰明ちゃんを、なんとかして木に登らせてあげたいと奮闘する。とはいえ二人ともただの子どもであり、脚立を使ったり工夫しながらも、なかなか思うように木に登ることができない。子どもならではの「これ下手したら死ぬのでは?」みたいな危うさもスリリングに織り交ぜながら、小さくも壮大なチャレンジを輝かしく描いていた。 監督の八鍬新之介氏も、原作を読んで最も心に残る場面だったとパンフレットで語っていたが、実際このアニメ全体を象徴する、忘れがたいシーンとなっていた。

他にもプールの場面では、原作ではさらっと触れられるだけだった、仲間たちと一緒に泰明ちゃんが水遊びに親しむ姿を、よりドラマチックかつエモーショナルに描いている。先述した「3つの夢幻的アニメーション」のひとつもここで、トットちゃんに背中を押されつつ、水中で「自由」の感覚を味わう泰明ちゃんの内面世界が躍動的に描かれる。中でもこの場面が、いわさきちひろのアートスタイルを最もよく踏襲したアニメ表現になっていることにも注目したい。

ちなみに八鍬監督は、最近だと『のび太の月面探査記』など、普段はドラえもん映画を多く手掛けてる方である。今回の映画版の企画は2016年くらいから始まってたようなのだが、その年に起こった相模原での障害者殺傷事件に象徴されるような、社会の歪みに対する問題意識があったこともパンフで言及していた。その意識は本作にもしっかり現れていたと思う。

アニメ作品は数あれど、障害をもつ人々が、しっかり意志や知性をもったメインキャラクターとして登場することはいまだに極めて少ない。そんな中、泰明ちゃんのような愛すべき人物に、実質的な主人公のひとりとして光が当たる本作のもつ意義は、日本アニメの多様性と可能性を押し広げる意味でも大きいだろう。

それを踏まえた上で(詳しく書くとネタバレになってしまうのだが)泰明ちゃんがたどる哀しき運命と、彼のようなマイノリティが物語上で担いがちな「役割」については、たとえば「冷蔵庫の中の女」や「bury your gays」というミーム(意味は調べてほしい)が喚起するような議論や批評があってもいいかもな、と感じる。もちろん原作通りの展開であるし、悲劇によってしか描けないテーマもある以上、この点で本作を批判するのはお門違いではあるが、仮に障害をもつ当事者の人が本作を見て「あ〜、またか…」と思ってしまったとしても責められないとも思う。これも障害者のキャラクターの絶対数がまだ圧倒的に少ないことによる偏りの問題なので、より広くエンタメ全体の課題といえるだろう。フィクションはいまだ過渡期にあるのだ。

 

ーーー以下、終盤のネタバレがあるので注意ーーー

 

戦争、疾走、チンドン屋

『君たちはどう生きるか』や『ゲゲゲの謎 鬼太郎誕生』など(実写の『ゴジラ -1.0』を並べてもいいかもしれない)、戦争の影が色濃く残るアニメ作品に彩られた2023年だったが、『映画 窓ぎわのトットちゃん』はそんな年を締めくくるにふさわしいアニメ映画でもある。

原作の『窓ぎわのトットちゃん』の時代背景は「第二次大戦が終わるちょっと前」という説明があったが、このアニメ版は正確には1940年(昭和15年)を始まりとしているようだ。いよいよ第二次大戦が本格化し、太平洋戦争へと突入していく不穏な時期だが、この時期を「戦前」と表現するのは実は不正確でもある。というのも、すでに日中戦争(1937〜)が始まっているからだ。

つまり本作の冒頭、トットちゃんが平和な子ども時代を満喫している時点で、すでに「戦争」は勃発していたし、そのことは実はラジオの音声や町並みの細かい描写によって、観客にそれとなく示唆されている。トットちゃんや家族のいわゆる「ハイカラ」な、当時の平均的な生活水準に比べると格段に豊かな生活も、戦争や植民地政策がもたらした富の上に成り立っていた、という背景があるわけだ。

戦争がもたらす惨禍と搾取を通奏低音にしつつ、ある意味では特権的な生活を送る主人公を描く作品という意味では、第二次大戦中の広島の日常を描いた『この世界の片隅に』や、太平洋戦争まっさかりの1944年を舞台にした『君たちはどう生きるか』にも、本作は通じていると言える。

本作の不穏さを語る上でひとつ象徴的なのは、序盤で単なる子どもらしい憧れとして(それこそ現代の子どもが『SPY×FAMILY』に憧れるように…)、楽しげに「スパイになる!」と語っていたトットちゃんとその家族が、本当に「スパイとして疑われないように」気をつけないといけない状況に追い込まれる、ということだ。「スパイ」という言葉のリフレインによって、少女と家族を取り巻く状況が一変してしまうことの怖さを巧みに描いている。

さらに、トモエ学園の楽しい生活を最もよく象徴していた「音楽」も、いつしか抑圧の対象になっていく。トモエ学園ではアメリカの歌「Row Row Row Your Boat」を、食事前の教育のために「よく噛めよ♪」と替え歌にしていた。戦時中の食料配給制限によって、空腹で仕方のないトットちゃんと泰明ちゃんは、せめてもの慰めに「よく噛めよ♪」の歌を歌っていたのだが、通りかかった大人(おそらく軍人)に、「そんな海外の浅ましい歌を歌うな、気を強く持て」などと一喝されてしまう。まさにクソの役にも立たないクソバイスであるが、空腹の子どもを無茶な精神論でさらに追い詰める、戦時社会の貧しさ・愚かしさを端的に表す場面だった(まぁ「子ども食堂」とかを取り巻く話題を見てると現代にも思いっきり通じている気もするが…。)

このように、児童画を基調にしたキャラデザや、きらきらした優しい美術に象徴されるような、トットちゃんの純粋無垢な子ども時代が、戦争の脅威によってじわじわ蝕まれていく恐ろしさは、本作に底しれない深みを与えている。

まさにその恐ろしさを完璧に表しているのが、映画の終盤で繰り広げられる「疾走」シーンだ。泰明ちゃんという最愛の友だちの喪失は、トットちゃんの子ども時代の終わりも意味していた。そんな彼女の目に、世界は全く違う容貌で映り始める。戦意を高揚させる勇ましい言葉とともに、街の通りを行進していく兵隊たち。「ゼイタクは敵だ」という標語を前に、不気味なマスクをつけて、イジメのような「戦争ごっこ」に励む子どもたち。いつの間にか世界はすっかり変貌してしまった。いや、トットちゃんが子どもであったゆえに、とっくに「変貌していた」ことに「気づかないでいられた」と言うべきだろう。トットちゃんはそんな変わり果てた世界を、子ども時代に永久の別れを告げるように、まるで一迅の風のごとく駆け抜けていく…。

この「疾走」は、無垢な子ども時代が崩壊し、世界がその真の姿を露わにする瞬間を、一切の説明セリフを使うことなく、純粋にアニメーションの移り変わりのみで描ききった驚くべき場面だ。ただでさえ豊かな日常芝居アニメや、色とりどりの見事な幻想的アニメが素晴らしかった本作を締めくくるにふさわしい、紛れもない名シーンといえる。今年描かれた(日本・海外問わず)全てのアニメーションの中でも、最高のシーンの一つだと断言できる。

ちなみに本作の八鍬監督は、そもそも(クレしん映画『オトナ帝国の逆襲』や『河童のクゥと夏休み』でもおなじみ)原恵一監督に憧れてアニメの道に入ったという。この「疾走」のアニメーションが、原監督の実写作品『はじまりのみち』でも挿入された、木下惠介監督の『陸軍』の(時代の厳しい制限の中、せめてもの反戦の思いを託した)有名なクライマックスを連想するものだったことも特筆したい。

そんな「疾走」を決定的な境目として、トットちゃんの子ども時代は終わりを告げた。それではトットちゃんの心から、かつてのような純真さや優しさ、世界を愛する心も失われてしまったのだろうか…。

それは違う、ということを、黒柳徹子のファンはよく知っていることだろう。

大切な人や居場所を失い、変わり果ててしまった世界に打ちのめされ、自分の無知と無力を思い知った上で、それでも絶望せずに生きていく…。そんなトットちゃんの物語を締めくくる上で、鍵を握るのは「チンドン屋」という存在である。

チンドン屋といえば、にぎやかなだけで、何の役にも立たない軽薄な人の代名詞のように言われる存在だ。ゆえに非常時には(様々な文化と同様)真っ先に切り捨てられもするし、うつつを抜かしていれば厳しい目も向けられる。実際、トットちゃんが小学校から追放されたのも、「窓ぎわ」から見えるチンドン屋に夢中になってしまったことが大きな原因だった。

だがそんな「チンドン屋」スピリットは、いつも明るい灯火のようにトットちゃんの周りを照らしてきた。終盤、戦争のせいでトモエ学園の生徒たちが離れ離れにならないといけなくなり、教室で別れを告げあうという悲壮なシーンがある。そのうち1人が、別れの言葉を言い終わる前に、悲しすぎて泣き出してしまう。だがトットちゃんがすかさず、その子の家にいるニワトリの真似をしたことで、泣いてしまった子も含め、みんなが笑いに包まれる。トットちゃん自身も悲しいに決まっているにもかかわらず、明らかに場にそぐわない唐突なギャグをかますことで、せめて友だちの気分を明るくしようとしたわけだ。

トットちゃんがニワトリの真似をする場面自体は原作にもあるのだが、戦争がもたらす無念と悲哀の空気の中で、その「エンターテイナー」としての彼女の行動に、格別の重みをもたせたのは映画オリジナルの秀逸な判断だ。

ゆえに、実は彼女の人生の核をなしていたチンドン屋が、ラストシーンでもう一度現れるという構成は示唆的で美しい。戦火を逃れるために地方に向かう列車の「窓」から再び、チンドン屋の姿をトットちゃんは目にする。非現実的な光景といえばそうだし、もしかしたら失われた子ども時代の残滓がトットちゃんに見せた幻視だったのかもしれない。

それでもその後のトットちゃん=黒柳徹子が、知らぬ人のいないエンターテイナーとして、日本の芸能界の頂点へと上り詰めていくことを観客は知っている。彼女の才能をいち早く見出し、いつかテレビという「魔法の箱」にトットちゃんも出られるかもよ、と告げてくれた親友・泰明ちゃんとの約束を、果たそうとするかのように…。

振り返ってみれば、本作はチンドン屋のように「なんの役にも立たない」と言われるものが、どれほど人の生を豊かにし、苦しい時の支えになってくれるか…というテーマに貫かれていた。歌を叱り飛ばされて泣き出すトットちゃんを、『雨に唄えば』のような水しぶきの「音楽」で元気づける泰明ちゃん。軍のプロパガンダに加担することを拒み、音楽家としての矜持を守ろうとするお父さん。絵や歌といったアートを愛する心を子どもに教えようとした小林先生。そして悲しむ友だちを「チンドン屋」精神で笑わせてあげたトットちゃん…。

アートやエンターテインメントといった文化や、それらを愛する精神が、戦争のように人々を飲み込み押しつぶす巨大なシステムから、良識や尊厳を守るためにどれほど重要な意味をもつか…。そんなテーマを語るこのアニメ作品そのものが、ひとつのアート/エンタメ作品として見事な出来栄えを誇っていることは、素晴らしいと言う他ない。

ウクライナや中東を筆頭に、世界各地で目を覆うような戦禍が巻き起こっている今、文化やアートがもつ力の小ささに打ちひしがれている人も多いだろう。恐るべき戦争の実態が毎日のように届く一方、文化的な発信力をもつ戦争世代の人々も世を去りつつある日本で、当時の記憶がいよいよ薄れ始めていることに、危機感を覚えることも増えてきた。そんな時代だからこそ、本作『映画 窓ぎわのトットちゃん』のような、この世にいつの日も存在する危機と希望を真摯に描いてくれる作品は、計り知れないほど重要だ。見知らぬ未来へ突っ走っていく列車の「窓」のむこうに、私たちは何を見るだろうか。

 

ーーーおわりーーー

 

原作『窓ぎわのトットちゃん』も遅まきながら読んだけど、今読んでも素晴らしく面白かったのでもし未読ならぜひ。黒柳徹子の朗読もあるよ

なんと今年、続編も出たらしい。スゴイ。

 

さいごに【告知】

ビニールタッキーさんと1/7に渋谷で新年の映画イベントやります。私もリアルイベントはとても久々!ですが、楽しい交流会っぽい感じにしたいので、映画ファン(というほどでもないが興味ある人も)はぜひお越しください!

詳細↓

https://vinygasa24.peatix.com/?lang=ja