沼の見える街

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地球最強の映画がここにRRR。『RRR』感想&レビュー

 最強の映画とはなんだろうか。桁外れに強い人間や動物が暴れまわる映画。有無を言わせぬ物語の面白さで引っ張っていく映画。画作りやアクションやダンスが圧倒的に美しい映画。人が互いに抱く激情を正面から描ききる映画。起こる事態がヤバすぎて笑うしかないけどなぜか感動してしまう映画。社会の不平等・不正義を告発するような怒りに満ちた映画。いずれも文句なしに「強い」映画といえるだろう。だがそのすべてを兼ね備えた映画があるとすれば、それは「最強の映画」と呼ばざるをえないのではないか。この2022年、「最強」の称号にふさわしい映画を1本あげるなら、インド映画『RRR(アールアールアール)』で決まりだ。

 というわけで大好きな『バーフバリ』シリーズを手掛けたS.S.ラージャマウリ監督の待望の最新作『RRR』がついに上映されたので感想を書き記しておく。『バーフバリ』ファンは放っといても観に行くと思うが、年1〜2本しか映画観ないようなカジュアルな映画ファンも、ぶっちゃけ今年は全員これ観とけば良いと思う。ここまで純粋にエンタメとしての「力」で正面突破してくる作品って世界レベルでも凄く珍しいし、一気に映画を5本観たかのような満足感がある"全部盛り"映画だと約束できる。(なんといっても上映時間が3時間あるので、そこだけ注意だが…)

 『RRR』は"予習"を一切しなくても楽しめる映画だが、もし『バーフバリ』シリーズを未見であればぜひ観ておこう(同じ監督で同じインド舞台だから当然かもだが、そこはかとなく世界観が繋がってるので)。

amzn.to

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昔々RRRところに…。『RRR』ざっくりあらすじ

 つい昔々とか言ってしまったが、いにしえのインドの王国が舞台の『バーフバリ』から一転し、『RRR』の舞台は1920年の英国植民地時代のインドと、グッと近現代に迫る。主人公は2人の男だ。英国軍にさらわれた少女を救うために立ち上がった、大自然とともに生きるパワフルな男・ビーム(NTR Jr.)。そして英国支配体制のもとでインド市民を弾圧する獰猛な警察官でありながら、実はとある"大義"を内に秘めたラーマ(ラーム・チャラン)。激情を秘めた2人の男が出会い、熱すぎる関係を築いていくが、互いの素性を知らぬ2人を待ち受けるのは、インド社会の行く末を変えるような壮大な"宿命"だった…。

 さっそく『RRR』がいかに凄まじい最強の映画かを具体的に語りたいところだが、いちいち凄かった最強シーンを語っていくと切りがないし50万字のブログを書く羽目になるので、ほんの序盤も序盤、まだタイトルすら出ていない序盤の凄さを重点的に語っていきたい。だがしょっぱなから本当にフルスロットルなので、本作の「強さ」を象徴的に語るためには十分と言えるだろう。「今のはメラゾーマではない…メラだ」ならぬ「今のはRRRではない…アだ(Rですらない)」という末恐ろしさを感じてほしい。

 

ーーー注意ーーー

以下、主に序盤のネタバレがあります!

ーーー注意ーーー

 

・あんまりにもほどがRRR!開幕早々の惨劇 

 南インドの森で暮らす少数民族ゴーンド族のもとを訪れた、英国領インド帝国総督とその妻は、ヘナアート(歌いながら装飾を施すインドの伝統芸能)が得意な少女マッリを気に入り、彼女の母親にコインを投げ与える。白人どもの差別的な態度に辟易しながらも、母親はコインを受け取る…。だが総督たちは、マッリをむりやり連れて行ってしまう! そのコインは「歌(ヘナアート)へのお礼」ではなく、なんと「娘そのものの代金」だったのだ!

 悪逆非道はこれで終わらない。必死に追いすがる母親を無情にも撃とうとする護衛に対して、「わざわざ英国から運んできた銃弾がもったいないだろ」と総督が冷酷に告げたかと思えば、母親は太い棒きれで無残に殴り倒されるのだった…。開始数分で繰り広げられる惨劇に愕然とすると同時に、本作における「悪とは何か」を最初にバンと提示するための、的確かつ象徴的な描写としても完璧で唸ってしまう。『RRR』で主人公が立ち向かう「悪」は、人種差別と植民地主義に裏打ちされた、平気で弱者を踏みにじる精神そのものなのだ。

 監督の前作『バーフバリ 王の凱旋』のセクハラ裁判で「切るべきは指ではない……首だ!!」という強烈なシーンがあったが、本作の「そのコインは歌へのお礼じゃない!娘の代金だ!!」というセリフも、得意の「〇〇じゃない、〇〇だ」構文のダークな活用といえる。「報酬がたったコイン数枚かよ、てか投げてんじゃねーよ、現地民を見下しやがって…」→「まぁ一応受け取っとくけど…」→「実は娘の代金だった!」というように、情報を的確な順番で激しい緩急をつけて乱れ打ちにすることで、観客の想定を上回り続けるという、ラージャマウリ監督の「情報パンチ力」とでも呼ぶべき天賦の才がいきなり炸裂する冒頭だ。ド派手なケレン味だけでなく、観客の思考を周到に想像し、それを上回っていく知的パワーこそが『RRR』を"最強の映画"にしているのだ。

・主人公にRRRまじき恐ろしさ! 度を越した「1人vs千人」バトル

 冒頭のショック冷めやらぬ中、舞台はデリー郊外の警察署へと移動する。数千人はいそうな大勢のインド人群衆が、反英活動家の釈放を求めて警察署を取り囲んでいるのだ。そこに登場するのが『RRR』のもう1人の主人公・ラーマ。インド人でありながら、英国の警察官として市民を弾圧するラーマは、裏切り者として同胞から憎まれている。だがそんな憎しみを物ともせず、群衆のリーダーに狙いを定めたラーマは、大勢の人間たちと執念の「1人vs千人」バトルを繰り広げる。

 1人の猛者がモブ敵をガンガンぶっ飛ばしていくような、いわゆる「無双」的な強さ表現としての「1vs大勢」バトルはフィクションでよく目にするのだが、このラーマの群衆バトルは、そうした先例とは一線を画するインパクトをもたらす。一言でいえば非常に泥臭く、リアルなのである。凄いエネルギー波で全員ふっとばすとか覇気で全滅させるとかではなく、あくまで一人ずつ殴り倒し、組み伏せていくという地道な暴力で(地道な暴力?)大量の人間をボコボコにしていく。だがそれが逆にラーマというキャラクターの破格の強さに、手触りのある実体を与えているのだ。

 一人の標的のみを鋭く見据え、大量の人間を殴り倒し続け、ついには目標を完遂するラーマの姿のインパクトは凄まじい。その異常な執念は「主人公」というより、まるで『バーフバリ』のラスボス・バラーラデーヴァのような危険なオーラに満ちている。そしてこれほどの孤軍奮闘を見せてなお、人種差別の根深い英国の支配体制下では(ドン引かれはしても)全く評価されない…というラーマの悔しさも重く響く。立場も境遇もまるで違うはずの、差別に踏みにじられたゴーンド族の人々の無念に共鳴するかのように…。

・爆走!猛虎チェイス(RRRいは"わくわく動物映画"としての『RRR』)

 ラーマがあれほどのインパクトをもたらしてしまえば、もう1人の主人公ビームの存在が霞んでしまうのではないだろうか?  そんな我々モブ観客の心配を"最強の映画"は一撃で粉砕する。少女を奪われたゴーンド族の男ビームは、なぜか森の中を爆走していた! ビームを追うのは恐ろしげなオオカミ…かと思えば、オオカミは突如現れた巨大な獣に打ち倒されてしまう。ベンガルトラだ! 追跡者をオオカミからトラに一瞬でスイッチした森の爆走チェイスは、ビームvsトラの「人類最強vs動物最強」の一騎打ちへとなだれ込んでいく。ラーマの砂埃舞う凄まじい「1vs千」のお目見えとは180度異なる、大自然の中での「1vs1」ガチバトルによって、ビームという「もう1人の最強」の堂々たるお目見えが完了するのだ。

 インドにおいて、トラは特別な動物だ。インド一帯は野生のトラが生息する、地球でも稀有な地域である(現在は数千頭ほど生息)。「チャンパーワットの人食いトラ」のように、背筋を凍らせる恐ろしさと、古の神話のようなロマンを漂わせ、今に残り続けている伝説もある。インドの伝説的な猛虎の恐怖とロマンを語る本『史上最恐の人喰い虎 436人を殺害したベンガルトラと伝説のハンター』はオススメ本だ。

 開幕早々の猛虎バトルは、"わくわく動物映画"としての『RRR』の幕開けを告げる雄叫びでもある。思い返せば『バーフバリ』シリーズにも数多くの動物が登場する、"わくわく動物映画"としての魅力があった。数年前、有志と一緒に出した同人誌「ジャイホー通信」に描き下ろした『バーフバリ』動物イラストを、この機会に特別公開するのでチェックしてほしい。ゾウ、牛、イノシシ、ヘビなど、大自然の広がる古代インドにふさわしく、様々な動物が『バーフバリ』世界を彩っていたことがわかるはずだ。

『バーフバリ』を象徴する「最強の動物」がゾウだったとすれば、本作『RRR』の「最強の動物」ポジションは間違いなくトラだ。バーフバリは暴れるゾウを殺すのでなく、なだめることで「王」としての真の強さを証明していた。同様に『RRR』の主人公であるビームが、死闘の末に眠らせたトラに「人間の都合で捕まえて申し訳ない」と丁寧に謝る姿からは、彼の動物への敬意と優しさを感じ取れる。インドの獰猛にして優美な大自然を象徴する動物でもあるトラへのビームの眼差しは、自然とともに生きる土地の人々を踏みにじる本作の「悪」とまさに正反対だ。ビームの桁違いの強さを爆走エンタメの中で表現するとともに、本作における「善」とは何か、ヒーローの資格とは何かを表す場面でもあった。

 こうした積み重ねがあるからこそ、前半のクライマックスで、インド総督の公邸で繰り広げられる「わくわく動物大フィーバー」が、本作を真に象徴するような熱く輝く名場面となっているのだ。マジで開いた口が塞がらないようなブッ飛んだ絵面なので(予告編ですでに見た人もいるだろうが)ネタバレは控える。大画面で目撃してブチ上がってほしい。

『RRR』にとって動物が重要なことは、作り手の証言からも伺える。以下のインタビュー記事で、ラージャマウリ監督は次のように語っている。

"私はドキュメンタリーを見るのが好きなんですが、特にディスカバリーチャンネル、ナショナル・ジオグラフィックといった野生動物が出てくる作品が大好きなんです。獲物を狙っている、もしくは追手から逃げようとする。動物たちの伸縮性……特に“伸びる方”です、彼らは限界まで延びる。その際には、何かしらの強い感情が伴っています。このイメージを組み込めたらどうだろうかと考えるんです。"

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 監督が動物ドキュメンタリーを大好きで、動物のダイナミックな身体の「伸縮性」に着目していたというのは面白い証言だ。鋼のような硬質さとバネのような柔軟性を兼ね備えた、ビームとラーマの強靭な肉体の映し方には、たしかにドキュメンタリーの精密映像で鮮やかに捉えられた獣たちの肢体を連想する美がある。

 さらに、こちらのラジオのインタビューで、ラージャマウリ監督は「動物が好きだから、フィクションの中でもできれば傷つけたくない」という旨のことを語っていた。おじさんがトラをファイアパンチ(物理)したりもする『RRR』が動物倫理的に100点の映画かどうかは議論の余地もありそうだが、動物を尊重する姿勢はたしかに伝わってくる。

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 動物好きとして『RRR』に感心した地味なポイントは、動物があくまで野生の自主性をもつ動物として描かれていて、たとえ主人公サイドに助力するようなシーンであっても、「人間の都合」で動いてる感じがしないこと。先述のわくわく動物大フィーバーの場面でも、いきなり動物たちが敵に襲いかかるのではなく、ビームが炎を使って荒れ狂う動物を誘導している描写を挟んでいる。地味な描写だが、これがあるかないかで「動物が人間の都合で動かされてる感」が格段に減り、動物たちの獰猛な生命力が輝きを増す。どんなにブッ飛んだ場面であっても、こうした細かい配慮を欠かさない姿勢こそ、ラージャマウリ監督が一流たるゆえんだ。

 わくわく動物大フィーバーの場面以外にも、例えばヘビなど(大義のためとはいえ、インドの民を虐げてきたラーマが、民と動物から恐るべき「逆襲」を受けることになる点で面白い)、色々な動物が意味ありげに登場するので、注目しておくとさらに『RRR』世界を深く楽しめるだろう。

 そんな『RRR』だが、「イギリスの支配下にある国で、自然とともに生きてきた弱者(と自然を象徴する動物)が、権力の弾圧に反旗を翻す歴史改変IF的なフィクション」という意味で、私の最も好きなアニメ映画『ウルフウォーカー』とも実は共通点が多いなと思った。女の子がオオカミに変身する『ウルフウォーカー』、おじさんがトラにパンチする『RRR』と両作に多少の(?)違いはあるが、そのスピリットは通じる部分が大きい。映画好き/動物好きは両方あわせてチェックしてほしい。cinema.ne.jp

・出会いはRRR日、突然に。すべてが過剰だが一切のムダがない「人命救助」

 メインディッシュ10品で構成されたフルコースのような『RRR』から、最強の場面をひとつに絞ることは難しい。だが本作の凄さを端的に象徴する場面をひとつだけ選ぶなら、いよいよ「RRR」のタイトルが出る直前、2人の最強の男が満を持して(いやまだタイトルすら出てないのだが)巡り合うきっかけとなる「人命救助」シーンを挙げたいと思う。

 ラーマとビームは偶然にも、デリーの街で列車が爆発事故を起こし、少年が絶体絶命の危機に陥っている状況に遭遇する。まだ互いの素性すら知らない2人だが、ものすごい長距離から阿吽の呼吸でアイコンタクトを行い、観客が誰一人イメージできてなさそうな驚異のレスキュー作戦を決行する。その作戦とは、ラーマが馬で、ビームがバイクで疾走し、互いが紐で結ばれていて、ラーマが旗を掴んで…サーカスの空中ブランコみたいに…えーと…

…日本公式が該当シーンを公開しているので観てもらったほうが早いだろう。

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 わずか1分弱のシーンにもかかわらず、脳がパンクしそうになるほど全ての要素が過剰であり、それでいてアクション自体は極めてロジカルで一切の無駄が削ぎ落とされている。おかしい/おかしくないで言えば明らかにおかしいはずだが、本当にカッコいいとしか言いようがない。その意味で、まさに『RRR』全体を象徴する名シーンと言える。この場面の直後に満を持して「RRR」のタイトルがドーンと出るのも「ここしかない」というタイミングである。

 すべてが過剰に凄い場面だが、あえてひとつ注目するなら「旗」の使い方だ。(ちなみにこの旗は現在のインド国旗ではなく、最初期の民族旗に似せたデザインで、8つの花と太陽・月・星、「母なるインド万歳」と書いてある。)旗をひらめかせながら馬で疾走するラーマの姿に民族的な英雄性を付与すると同時に、ラーマが"振り子運動"の途中でその旗に川の水を染み込ませ、ビームの抱きとめた子どもと交換するように投げ渡し、ビームが炎から物理的に身を守るための防御壁とし、炎を生き延びて現れるビームの英雄性も再び強調する…という、この短時間に「旗」というワンアイテムを何回活用するんだよと突っ込みたくなるほどの技巧に舌を巻く。思わず笑ってしまう過剰なパワーに満ちたこの場面が、旗ひとつに着目しても、極めてロジカルな知性と計算によって構成されていることに気づくだろう。

 「救助」前の時点では、特にラーマはほとんどラスボスみたいな登場シーンだったこともあり、この2人の男をどんな目で見たらいいか、まだ観客は決めかねていたはずだ。しかし「子どもの命を助ける」という"絶対的な善"に2人が力を合わせるシークエンスによって、全く立場も思想も違えど、この2人はどちらも紛れもなく本作のヒーローなのだ!と力技で観客の心に叩き込むことに成功している。こうした正拳突きのようにストレートな"善"としての人命救助の描き方は、すべてのヒーロー作品が学ぶべきではないだろうか。

 そんなわけで「1人vs千人バトル」「猛虎チェイス」「ダイナミック救出劇」などのシーンの凄さを語ってきたが、もはやこんな凄い名場面が3つもあったら普通その時点で大傑作認定されるだろと思ってしまう。しかしこれらがまだ「タイトルが出る前の掴み」にすぎないというのが、本作の真に恐るべきところなのだ…。まったくもって大変な映画である。

 

・ぶちかませ! 最強ぶちあげミュージカRRR!

 凄いシーンを列挙していくとキリがないので序盤だけ、とは言ったものの、中盤以降でひとつどうしても言及したいシーンがある。それはインド固有のダンス「ナートゥ」を主役2人が全力で踊りまくる、圧巻のミュージカル場面だ。

『RRR』本国公式が「ナートゥ」ダンスの場面を配信しているので、ややネタバレとはなるが観てほしい。

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 とにかく主役2人のダンスのキレッキレぶりが驚異的に素晴らしく、何度も繰り返し観てしまう。テルグ語版・ヒンディー語版あわせて数億回も再生されているのも納得するしかない圧巻ミュージカル・ナンバーだ。「ナメてたインド人が最強ダンサーだった」とでも呼ぶべき痛快なストーリー運びも観ていて気持ちがいい。一方で、このダンスシーンが背負う背景からは、「インド映画だからお約束で踊るよねw」では片付けられない、なかなかに重たいメッセージ性を感じもした。

 『RRR』は、バーフバリと同じく超エンタメである一方で、数百年にもわたる大英帝国のインド支配の暗い歴史が、色濃く刻印された映画でもある。植民地主義・白人至上主義によって人の命や尊厳が踏みにじられるように、インドの芸術・文化もまた抑圧と蔑視に晒されることになる。そんな世界の理不尽に、インド映画の奥義ともいえる「歌とダンス」で立ち向かうという、暗く悲惨な歴史に抗うような「ぶちあげミュージカル」になっているのだ。

 この「ナートゥ」が始まる前に、嫌味でムカつくイギリス男が、ビームとラーマを「インドの田舎者」とバカにしながら、「お前ら、タンゴやスイングを知ってるのか?」などと"西洋的"な音楽ジャンルを列挙する。ここで「スイング」という言葉を聞いた、イギリス側に仕える黒人ミュージシャンが顔をしかめる一瞬のカットが挟まれる。これは「スイングとかジャズとか、元は黒人文化の音楽だろうがよ…」という、黒人の彼が内心に抱えた「白人によるマイノリティ文化の簒奪」に対する鬱憤を示しているのだろう。

 この一瞬のカットは非常に重要で、ナートゥのミュージカル場面に「白人音楽vsインド音楽」という枠組みを超えて、「白人至上主義vs(アジア人・アフリカ系など)マイノリティ文化」という広がりをもたせている。どうしても作品の構造的に、ある種のナショナリズム的な価値観も生じざるをえない(これについては後述する)本作にとって、この黒人ミュージシャンのような「インド人以外の社会的弱者」を差別への闘いに包括していく姿勢はとても大切だと感じる。

 その意味で、真っ先にナートゥに加わってくるのが、白人の中でも「女性たち」であることも意味深いなと思った。この時代(1920年代)は白人社会でも、女性はまだまだ貞淑であることが至上の価値とされていたはずだ。だからこそナートゥの熱狂からエネルギーを受け取って、白人男たちに歯向かったり、大きな声を上げて笑ったり、踊り手たちに歓声を飛ばしながらナートゥをエンジョイする女性たちの姿は眩しく映る。インド人/白人女性と抑圧の軸は違えど、マイノリティ同士の密かな連帯もそれとなく示されていた。

 もっと言えばナートゥが加熱するにつれて、本作における最も深刻で揺るがない障壁としてそびえ立つ「インド人vs英国人」の対立構造そのものが、歌と踊りのあまりに圧倒的なパワーによって、ほんの一瞬だが"瓦解"していく様にも心打たれた。ビームvsラーマの頂上対決に至っては、あの嫌味なイギリス男まで「どっちが勝つんだ…!?」みたいにちょっと飲まれちゃってたし…。

 この「作中最もシビアな対立構造が、歌と踊りのパワーによって一瞬だけ瓦解する」展開といえば、奇しくも最近観たばかりのインド映画『スーパー30 アーナンド先生の教室』も連想した。

 もちろん『RRR』は「歌とダンスで英国人もインド人も仲良しハッピーさ!」みたいな生ぬるい話では一切なく、人間社会の支配/被支配の構造を断固として糾弾する物語だ。でもだからこそ、世界をかき回す音楽と踊りの力によって、期せずしてほんの一瞬だけ幸福な「平等」が実現してしまう…というナートゥの場面が、まるで人類全体に向けた祈りのようにも感じられて、いっそう胸に刺さった。

 ところで帝国主義に対する苦闘の物語である『RRR』、どうしたって今ウクライナで起きていることとも重ねながら観てしまったのだが、このナートゥのダンスシーンがまさにウクライナの首都キーウで2021年に撮影されたと知って驚いた…。ロシアによる侵攻が始まる前に撮ったらしく、まったくの偶然とは思うが、すごい文脈が生まれてしまったなと思う(ほんとラージャマウリ監督、"もってる"よなと…)。

 現在進行系で不条理な暴力と支配の脅威に晒されている世界中の人々を、本作がユニバーサルに勇気づけることは間違いない。国境や時代の枠組みを超えて、人類全ての心を燃やすエネルギーが渦巻く『RRR』は、真に"地球最強"の名に値する映画なのだ。

 

・"最強の映画"に死角なし…いやちょっとだけRRR?

ここまでひたすら『RRR』がいかに"最強の映画"なのか語ってきたので、称賛の信憑性を増すためにも、逆にあえて少し気になった部分、弱点として指摘できそうな部分もあげておこう。

●インターミッションが(日本では)ない

 まず映画そのものとは全く関係ない部分。なんといっても3時間ある映画であり、かつ内容もあまりに特盛濃厚なので、オリジナル版は普通にインターミッション(途中休憩)が挟まれる。だが日本では上映側の都合もあってか、作り手の「休憩してね」の指示を無視した3時間ぶっ続け上映になっているので、辛い人は普通に辛いと思われる…。まぁ最近では洋画大作が2時間半とかも増えてきたし、私のようにそれなりに健康な人間であれば全然耐えきれるのだが、体力的に厳しい人も多いだろうし、やはり人を3時間ぶっ続けで座らせることはあまりバリアフリーとは言えない。

 日本でもNTLiveなど、長大な作品の場合はインターミッション付きの上映が増えつつあるので、本作のように長い映画は(特に作り手が指定してる場合は)途中休憩を挟む慣習が定着してほしいものだ。かなり健康な人でないと映画を十全に楽しめない現状は、弱者のために闘うビームやラーマも望まないのではないのだろうか。

●女性キャラクターが(比較的)弱い

 これは本作の数少ない、かつ明白な弱点だといえる。もちろん本作の「ヒロイン枠」であるジェニーもシータも決して悪くないキャラ造形だし、知的で勇敢な女性キャラとしてはフェアな描き方をされていると思う。だがあくまで受け身の「ヒロイン枠」というか、『バーフバリ』のシヴァガミやデーヴァセーナのような、強烈で忘れがたい印象を残す女性キャラクターを観てしまった後では、やや女性描写が"弱い"印象を受けるのも確かだ。(まぁいうて少し前まではMCUとか主流エンタメの女性描写もこのくらいではあったが…。)

 『RRR』は主人公2人があまりに強烈なキャラクターであり、「バーフバリ親子とシヴァガミとデーヴァセーナとバラーラデーヴァとカッタッパを全部足して2人の男に分割した」みたいなもの凄い造形になっているため、もはや女性キャラっていうか他のキャラ自体を立てる余裕がなかったのだろう…という背景は想像できる(今回は悪役もかなり薄めの造形だしね…。)ここに関しては、ラージャマウリ監督の次作以降に強く期待したいところだ。てか次はバキバキに強い女性主人公も超観たいんだが!

●映画の持つナショナリズム的な側面

 これは弱点というか美点の副作用というか、かなり言及が難しいポイントだ。白人至上主義や植民地主義に立ち向かう物語を、被支配側であったインド人が当事者性をもって作った映画である以上、そこにある種のナショナリズム的な"熱狂"が生まれることは避けられないと言える。ラージャマウリ監督の超絶技巧と豪腕があれば、なおさらだ。

 まず本作の主人公2人は、もちろん大幅にフィクション改変を加えてはいるものの(そりゃな)、実は歴史上に実在した人物である。さらにエンドロールでは、インドの歴史の中で反英活動において大きな役割を果たしたリアル"英雄"たちが次々と登場して讃えられる。それぞれの人物への興味が深まった一方で、あくまで古代神話だった『バーフバリ』に比べて、現代への距離が近い『RRR』のこうしたナショナリズム的な面もある"熱さ"が、現在のインド国内でどのように作用しうるだろう?と多少の懸念を抱く部分もあった。

 ただし、モディ政権下のインド社会で、排外的なヒンドゥー至上主義が高まっていることへの懸念はラージャマウリ監督にもあるようだ。そもそも主人公が少数民族であることや、色の使い方(ヒンドゥー至上主義の象徴と化しているサフラン色の仕様を控えているらしい)など、なるべく包括的な物語になるような細かい配慮は見て取れる。ナートゥの項目で言及した黒人への眼差しも、そのひとつと言えるだろう。

 もっと言えば、歴史的には明らかにインドよりも大英帝国に近いムーブをかましてきた日本という立場から、そうした被支配側のナショナリズム的な"熱さ"に、どのような距離感で接したものか、ちょっとまだ答えが出ないというのが正直なところである。「プロパガンダじゃねーか」と上から批判するのも、「めっちゃアツイぜ!」と無邪気に同調するのも、どちらも違うように感じてしまう。インドの国内事情に詳しい人や、それこそ現地の人の論考も拝見したいし、引き続き考えていきたい"宿題"だ。

 

 …と最後にいくつかゴチャゴチャ言ってみたものの、『RRR』の最強っぷりを損なう欠点では全くない。あまりに映画そのもののパワーが強すぎるので、むしろ安心してこの種の指摘もできようというものだ。すでに1万字を軽くオーバーしたので終わりたいが、あらゆる意味で『RRR』は万人に開かれた超ド級のエンタメであり、劇場で体験できる機会を逃さないことを強くオススメする。私も確実にもう1回観る(できればIMAXとかで)。

 

【おまけ】"R"ージャマウリ監督、NT"R" Jr、"R"ーム・チャラン、 最強"RRR"トリオ舞台挨拶!

今回、ラージャマウリ監督と主演2人(NTR Jr、ラーム・チャラン)のRRRトリオの舞台挨拶で観ることができたのは大変光栄だった。(せっかく名前がRRRなトリオなのに本人も司会者もそこを強調しなかったのはなぜだ。ベタすぎたのだろうか)

 皆さんとっても気さく&丁寧な人柄で、特にNTR Jrさんは上手な日本語で挨拶してくれるサプライズを披露! NTR Jrさんがあだ名はありますか?と聞かれて、観客席のインド人と思しき方が「"ヤングタイガー"でしょ!」と叫んで、NTRさんが「確かに前はそう呼ばれてたけど、もう若くないからなあ〜」とつぶやいていたのが実にプリティでした。ラーム・チャランさんは日本ファンダムの「チャランくん」というあだ名を気に入ったご様子。ラージャマウリ監督は、テルグ語の好きな言葉を聞かれて「黄金の母」にあたるテルグ語をあげていました(なぜか娘をそう呼びがちらしい)。

 そうそう、『RRR』新宿ピカデリーでの舞台挨拶回、在日インド人と思しき方々がけっこう家族連れで来場していたりして、インドな雰囲気が増していたのも良かった。隣席のインド人(多分)の子が「好きな人の名前(名前ではない)が長すぎてどうしよう」ギャグとかで超笑ってたのも微笑ましかった。いつかインドの劇場で観てみたい…。とんでもない盛り上がりなのだろうな。

 そんなわけで、心のRRRバムに大切にしまっておきたい一幕でした。

 

図解「不老不死」の鍵を握る動物たち

不老不死になりたいですか? あっという間に過ぎていく人生の儚さが不満な人は、老いや死の常識をぶち破るような動物の生き様をチェックしてみましょう。そんなわけで今回は「不老不死」の鍵を握る(かもしれない)動物たちの図解です。

【テキスト】

<1>
「不老不死」…それは人類の見果てぬ夢だ。歴史上、数多の権力者やセレブがその夢を追ったが、実現した者はいない。だが実は「不老不死」の秘密を解き明かす鍵を動物が握るとしたら…?

2007年、アラスカ沖で捕獲されたホッキョククジラの体の奥深くから、大きな「銛」の破片が発見された。だがなんと、その銛が最後に使われていた時代は、1890年ごろだと判明した。このクジラに銛が打ち込まれたのは約120年前ということになるのだ…!

1890年前後に銛を打たれたクジラは…1世紀以上も生き続け…2007年に死亡し銛が発見。

参考 1886年 ベンツが世界初のガソリン車を発表
2007年 スティーブ・ジョブズが初代iphoneを発表

これほど長い時間を、クジラは生き続けたことになる。

<2>
ホッキョククジラは地球の哺乳類で最も寿命が長い。なんと211歳という超長寿の個体も確認されている。
その寿命の長さには厳しい生活環境が関係しているようだ。冷たい海では体が大きくなるほど体温の維持がしやすくなるのだが…餌の少ない北極海では、大きく成長するには長い時間がかかり、繁殖の時期も遅くなる。
こうした条件から、長生きできる個体が有利となり、「長寿」に進化したのだろう。
冷たい海の大型動物が「不老」めいた長寿となる例が他にもある。
北極圏の深海に棲む世界最大の肉食サメ「ニシオンデンザメ」の寿命は、なんと400年を超えると判明した。
いま生きているニシオンデンザメは徳川家康やシェイクスピアが生きていた時代に生まれたかも…?
不老の秘密をまず探すべき場所は、海なのかもしれない。

<3>
驚くべき"不老"能力は、陸の小さな動物にも見られる。
アフリカの地下にすむ齧歯類ハダカデバネズミは、飼育下ではなんと30年以上も生きるとわかった。ふつうのネズミの10倍もの寿命だ。
単に寿命が長いだけではない。人間の死亡率は8年半ごとに倍増すると言われているが(ゴンペルツの法則)、ハダカデバネズミの死亡率は歳を取っても上昇せず、ずっと一定だ。つまり老化の兆候が皆無なのである。
驚くべき「長寿」の秘訣は、強力なタンパク質「Nrf2」が酸化による細胞へのダメージを打ち消すことにある。

さらに、ハダカデバネズミは決してガンにならないという。ガン細胞を制御する「ヒアルロン」酸の分子量が他の動物よりも大きい(マウスや人間の5倍)ことが理由と考えられている。「老化とガン」という人間のトップクラスの死因を防ぐ鍵を握る哺乳類として、注目は高まる一方だ。

<4>
「不老」を超え、「不死」の能力をもつ動物もいる。地中海で発見されたベニクラゲの一種Turritopsis dohrnii だ。このクラゲは死が迫ると、体を溶かして「若返り」、生命サイクルを逆転。理論上は「永遠に生きる」ことができるのだ…!
動物細胞の染色体にはふつう「テロメア」という、細胞分裂のための「回数券」がある。テロメアは通常なくなっていくものだが、ベニクラゲはテロメアを修復し続けて、無限に細胞を分裂させられるという…!その驚異の能力を解明すれば、人間が老いや死を克服する未来にも繋がるかもしれない…
とはいえ…こうした"反則的"な動物たちも、自然界ではごく普通に命を落とし、次の生命に道をゆずっていく。「死」は、「生」の大きなサイクルを回していく原動力でもあるのだ。科学や医学がどれほど発展したとしても、「死を忘れるな」の警句が古びることはないのだろう。

 

【参考資料】

『海の極限生物』スティーブン・R. パルンビ

先日の記事でも紹介した本。極限すぎる海の環境で生き抜く動物たちの極端な能力や生態を、海洋生物学者が美しくユーモラスな筆致で紹介。主にホッキョククジラのページで参考にしました。

amzn.to

 

『不老不死のクラゲの秘密』久保田 信

驚異的な「若返り」能力をもつベニクラゲの生態に関して、久保田先生は世界的な権威といっていい生物学者で、海外の本でベニクラゲを扱う時には必ず登場する。わかりやすく生態を解説した本も出しているので、せっかく日本語読めるならゲットしよう。

amzn.to

 

『海について,あるいは巨大サメを追った一年
ニシオンデンザメに魅せられて』モルテン・ストロークスネス

深海で数百年も生きるという巨大な「ニシオンデンザメ」の神秘に憑かれた、2人のノルウェー人が海に繰り出すノンフィクション。人間の都合などお構いなしな暗く深く冷たい海が育む、複雑で豊かな生命の世界を綴る。まるで『白鯨』のごとくニシオンデンザメを追い求める旅路がどう終わるかは読んでのお楽しみだが、その道程で多様な海の生物や、人と海との歴史的繋がりに寄り道するのが(筆者が歴史家だけあり)面白い。てか『白鯨』っぽい。

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『ハダカデバネズミのひみつ』岡ノ谷 一夫

ハダカデバネズミの研究者による最先端のトリビアを散りばめた本。真社会性、長寿、無酸素耐性、そして図解したアンチガン細胞など、掘れば掘るほど色々出てくる動物なので、最新情報もこまめにチェックしないといけない。

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『動物学者が死ぬほど向き合った「死」の話 ──生き物たちの終末と進化の科学』ジュールズ・ハワード

動物と「死」に関する総合的な読み物。死に関して動物学的な観点から哲学してみる本として面白いし、エンタメ的で読みやすいのでオススメ。(著者は『生きものたちの秘められた性生活』の人ですね。あっちも面白い)

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『不老不死ビジネス 神への挑戦 シリコンバレーの静かなる熱狂』チップ・ウォルター

ビジネスとしての不老不死界隈(?)の最先端事情を知りたい人はこちら。図解したような動物研究の成果も盛んに利用されているもよう…人間の欲望は果てしない。

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ブレイキング・グッド! 『バッドガイズ』感想

「動物が主人公の海外アニメ映画は95%面白いからさっさと観ろの法則」を知っているだろうか…? 私が勝手に言ってるだけなのでたぶん知らないと思うが、体感それくらいのアタリ率を誇るのが「動物が主人公の海外アニメ映画」であり、今回もその法則を見事に満たしてくれる大アタリ映画に出会うことができた。そう、『バッドガイズ』である。

gaga.ne.jp

 動物主人公=面白いという法則の真偽はともかく、(動物が主人公だったりする)全年齢向けの海外アニメ映画って、もはや「誰が観ても楽しめる」純粋なエンタメとしての完成度は全ジャンルの中でもトップじゃね…?となるようなハイクオリティな良作が多いよねとは常々思っている。予告の時点で『バッドガイズ』も「あ〜これ絶対面白いやつ〜」と確信していたが、全く期待を裏切らない出来栄えだった。

 ざっくりあらすじ。主人公はオオカミ、ヘビ、サメ、ピラニア、クモの五人からなる「嫌われ者」なバッド動物たち。人々には半端なく恐れられてはいるが愉快な仲間たちが、今日も元気に犯罪を企てる…のだが、ある事件を機に予期せぬ方向へ事態が転がっていく!というお話。

 本作の一番わかりやすい魅力は、なんといってもレトロなコミックがガンガン動いてるかのようなビジュアルアートで、今年のアートワーク大賞は決まり!という風格がある。「伝統的なコミックの魅力や味わいをいかにアニメ表現に落とし込むか」は近年のかなり熱いトレンドで、大作では『スパイダーマン:スパイダーバース』という伝説の一本が記憶に新しいし、Netflixの『キッド・コズミック』とかもその潮流にある良作と言える。そこに『バッドガイズ』という素晴らしい新星が現れてくれたので、カッコイイ絵作りのアニメが見たい人は速攻で劇場に駆けつけた方がいい。

 ビジュアル面だけでなく、物語もよく考えられている。先にテーマを少し明かしちゃうと、超有名な犯罪ドラマ『ブレイキング・バッド』のちょうど逆で、いうなれば「ブレイキング・グッド」な話になっている。『ブレイキング・バッド』は(傑作スピンオフ『ベター・コール・ソウル』も)、冴えない暮らしをしているが基本的には善良に生きてきた人間が、自分の才能と欲望に気づき、どんどん"悪"の世界に踏み込んで(=ブレイキング・バッドして)いく…という展開。

 本作『バッドガイズ』はその逆で、好き勝手に生きてきた悪いヤツらが自分の中の"善(グッド)"を愛する心に気づいてしまうのだが、「ワルな俺たちから"悪(バッド)"を取ったら何が残るんだよ…!?」と葛藤することになる…という、善悪をめぐるなかなか深い物語にトライしている。でも基本的には(一部除き)全くウェットさはなく、超ハイスピードで進む王道エンタメで、万人が楽しめる作りなのが本作の好ましいところ。

 まず冒頭の「長回し」シーンが凄くいい。いかにも(ソダーバーグとか)オシャレ系犯罪映画に出てきそうな、レトロアメリカンな感じのダイナーで、本作の主役バディであるMr.ウルフとMr.スネーク(ネーミングそのまんま)が、いかにもタランティーノ映画的なノリのどうでもいい感じのおしゃべりをしている。一見ダラダラしてる(が実は後の展開を予兆するようなワードが張り巡らされてるのもウマイ)会話が終わって、二匹がごちそうさま〜と店を出ようとするとカメラがぐるっと回り込み、実は他の客がめちゃめちゃ二匹にビビり散らかしていた…!という絵面が明らかになる。子ども向けアニメの開幕としては見たことないような、にくいほどスタイリッシュな冒頭であった。

 この冒頭シーンのオチ、仮に2人が普通の人間だったら「いやどんなに悪人でもここまで周りの人がビビってるのはさすがに不自然だろ」となりそうなものだが、なんといっても二人のルックスがオオカミとヘビなので、人々のビビりに絵的な説得力を(ちょっと強引にではあるが)もたせているのも上手いと思う。

 そしてこの「反射的に人がビビるほどに怖いイメージを持たれている動物」が主人公であることで、「怖いイメージの動物だからって、見た目で判断してはいけないよ」という動物教育アニメ(?)としての価値も本作に持たせている。オオカミやヘビやサメのように、物語の中でも常に悪役にさせられがちな存在について、「そのイメージ、ほんとかな?」と疑う視線を提示することは、特に子ども向け作品において大切だと思う。(ほぼ同じテーマを、Netflixアニメ『バック・トゥ・ザ・アウトバック めざせ!母なる大地』でも描いているので、こっちもオススメ。)

 我田引水ごめんあそばせだが、『バッドガイズ』の「人々に怖がられている動物」からなる主人公チーム5匹のうち4匹(オオカミ、ピラニア、タランチュラ、サメ)について、私も過去作でまさに「勝手なイメージで恐れられているほどには怖くないよ」という図解を描いていたことを思い出した。

↑『ゆかいないきもの超図鑑』オオカミ・シュモクザメ図解より

↑『ゆかいないきもの㊙︎図鑑』よりピラニアとタランチュラ図解

 ヘビだけは描いてなくて、ごめんよスネーク…と思ったのだが、考えてみると『バッドガイズ』チームの元になった動物の中では唯一ヘビだけが、実際に人をたくさん(ざっくり10万人/年くらい)死に至らしめている動物であるのは、数字の上では事実なんだよね…。チームの中でも、スネークだけ"悪(バッド)"であることに対する重みが周囲と違うのもその辺に背景があるのかな…とか切なさも感じた。

 まぁ全てのヘビが危険なわけでは全くなく、全世界に3000種ほど生息すると思われるヘビのうち、毒を持つのは約25%ほどで、その中から致死的な有毒ヘビになるとさらに絞られるはずなので、人間のヘビに対する恐怖が行き過ぎなのは事実なのだが、ヘビ当事者(?)のスネークとしてはもう「恐れられる」のも慣れっこになって、「自分はバッドであり続けるしかないんだ」と思い込んでしまうのも無理ないかな…と考えたりした。

 そして本作が地味にユニークなのは、「動物」の見た目をしたキャラと人が何の説明もなく混在していること。人間ナイズされた動物(動物人間)が日常生活を送ってる系の作品って、海外アニメでは『ズートピア』や『SING』を筆頭に、漫画だと『ブラックサッド』とか、日本でも『BEASTARS』とか『オッドタクシー』(はちょっと変則だけど…)みたいに普通は"みんな動物人間"なことが多い。

 一方で『バッドガイズ』は、主人公チーム(オオカミ、ヘビ、サメ、ピラニア、タランチュラ)と、キツネの知事ダイアンと、モルモットのマーマレード教授くらいしかメインの「動物人間」キャラはいなくて、他は全員ふつうの人間というけっこう珍しいバランスだった。(何気に近いパターンなのが『ボージャック・ホースマン』で、あのアニメはマジで何の説明もなく動物人間とふつうの人間が混在してたので「それアリなんだ…」となった。)

『バッドガイズ』のモルモットに至っては、人間的に振る舞うモルモットであるマーマレード教授だけでなく、本当にただのモルモットであるモルモットたちも大量に出てくるので、この世界における動物人間ってなんなん!?と若干の混乱を生むのは確かである。 いわば『ズートピア』でジュディと普通のウサギが同居してるみたいな事態になっているが、まぁ勢いがスゴイ映画なのでその辺はあまり気にせずにみられる。(モルモットといえば、同じく今年の良作動物アニメである『DC がんばれ!スーパーペット』と奇跡の被り方をしていたな…。)

 とはいえ『バッドガイズ』の「動物」キャラには実は必然性があるようにも感じられて、要は「他者から恐怖や偏見の視線を向けられてきたキャラ」が動物の形で表現されているんだよね。(ダイアンも周囲からの偏見に関するあるエピソードがあるし、マーマレードも"逆偏見"とでもいうべき思い込みに晒されているとも言える。)バッドガイズの皆は「その実態はともかく、やたら怖がられている動物」の見た目をしているのだが、それが一種のメタファーとしても機能している。

 つまり「怖い動物」としての見た目に、たとえば外見や人種や犯罪歴といった、現実社会に存在する偏見のタネを代入して読み解くことも可能ということ。原語版だと、ピラニア:アンソニー・ラモス(ラテン系)、タランチュラ:オークワフィナ(アジア系)、シャーク:クレイグ・ロビンソン(アフリカ系)とか、多様な人種マイノリティの役者たちが声を演じたりもしているし。

 急にヘビーな話をすると、たとえば『13th -憲法修正第13条-』というドキュメンタリー映画では、アメリカ社会で実質的に奴隷制がまだ存続しているという恐ろしい実態について解説している。偏見と憎悪に満ちた社会でひとたび「悪」のレッテルを貼られたマイノリティの人々が、自由を奪われることで「悪のスパイラル」に巻き込まれざるをえないという、戦慄すべき現状がある…。『13th -憲法修正第13条-』はYouTubeで無料公開しているのでぜひ見てほしい。

 こうした『13th』の内容とも共通するように、『バッドガイズ』では誰かが「悪」であることは本人だけの問題ではなく、「多数派の人々による少数派への恐怖や偏見」や「マイノリティが"悪"であり続けてほしいと願う人々」といった、いびつな社会のあり方とも深く関わっている問題なのだ…という現状についても、示唆しているように思えた。

 本作は「生まれついての"悪"ではなかったのに、社会から恐れられたり、偏見の目を向けられてきたがゆえに、"悪"であり続けようとしてしまい、"善"に踏み出せない(ブレイキング・グッドできない)者たち」への想像力を働かせるための物語でもある。その上で、誰にでも"善"の心はきっとあるし、変わることもできるのだ…というメッセージを優しく、力強く、押し付けがましくなく伝えてみせる真摯な作品だった。

 

以下、好きなところ箇条書き。

・日本語吹き替え版しかやってなかったので観たが、思った以上に満足できた。日本の芸能界に全く詳しくないが、みんな本職の声優と思えないほど良かったです。ウルフの尾上松也もスネークの安田顕も抜群に上手かったし、ピラニアの河合郁人は最初少しあどけなく感じたのだが、後半の歌唱が素晴らしかった。芸能人吹き替えは少し前までけっこう文句の嵐という感じだったけど、次第にノウハウも蓄積されてきて、今は全体にかなりクオリティ上がったよな〜という印象。あと作中の文字などの日本語ローカライズも完璧といってよく、ビジュアル面でローカライズする全ての海外アニメは本作を基準にしてほしい…お前のことだよピクサー!

 

・Twitterでも書いたが、ウルフとスネークの関係は刺さる人にはブッ刺さると思うので、いい年した男たちのただならぬ関係性が好きな人は全員観たほうがいい。BLそこまで詳しくない私でも「思いもよらぬ方向からデケぇ球が豪速球で来たな…」という衝撃で膝をつかざるをえなかった。

全体としては大変カラッとした陽のアトモスフィアに満ちた娯楽作なのだが、この主役2人の間に流れる空気だけが絶妙に湿っているというか…。「ママ〜、どうしてオオカミとヘビのおじさんの関係性だけなんかじっとりしてるの〜?」と尋ねる子どもの声が聞こえてくるようだ。いい年した大人には色々あるんだよ。先述したようにヘビならではの"悪"への執心も手伝ってか、特にスネーク→ウルフの感情の激重っぷりは特筆すべきで、pixiv5000users入りの風格がある。「この2人の関係はLOVEとかではなくて〜」的な逃げ道を叩き壊すかのように、もはやクライマックスで"I Love You"って言っちゃってるし、幸せになってほしいと思う。

 

・我ながらわかりやすいが、最も好きなキャラはキツネのお姉さんことダイアン知事であった。ネタバレは控えるがなかなかの秘密を抱えたキャラで、後半の大活躍が実に眼福で楽しい。一応ウルフとのパートナー的な関係で登場したのだと思うが、ウルフがスネークとのじっとりした激重関係で忙しかったこともあり、ダイアンはタランチュラとの百合フラグを立てていた(スピンオフ作って)。それにしても今年は『SING ネクストステージ』といい、最高ケモキャラが百花繚乱で困ってしまう。世界中のケモナーを映画館におびきよせて一網打尽に逮捕するつもりなのだろうか。

・サブキャラでは、バッドガイズに翻弄される、どことなく鳥山明タッチの脳筋マッチョな警察署長がイイと思った。この説明だけ読むと男性キャラクターを想像する人が多いかと思うが、本作の署長は当然のように女性なのがフレッシュで良かった。最後までおいしい役回りだったしね。

・予告で必然のごとく流れていたビリー・アイリッシュの「Bad Guy」はどこで使われるのだろう、と待っていたが、結局本編では一度も使われなかったな。まぁこっちの『バッドガイズ』のほうがビリーより先なので、実はそのほうがクールな判断だと思う(劇中で使うとSING2ともかぶっちゃうし)。そう、いかにもオリジナル作品っぽい映画だが、『バッドガイズ』はれっきとした原作コミックがあるのです。まだ日本ではそんなに知名度ないけど、本国オーストラリアでは大ヒットしてるっぽい。

バッドガイズ1 | アーロン・ブレイビー, 中井 はるの |本 | 通販 | Amazon

それにしても今年だけで『私ときどきレッサーパンダ』『シチリアを征服したクマ王国の物語』『神々の山嶺』『FLEE』『雄獅少年』に続いて『バッドガイズ』も加わり、海外アニメ映画のビッグウェーブはとどまるところを知らない。さらに今年はまだカートゥーン・サルーンの『エルマーのぼうけん』やらヘンリー・セリック監督のジョーダン・ピール脚本の『ウェンデルとワイルド』がNetflixで控えていたりもするので、まだまだボンヤリしていられないのだった。2022年はこれからだ!(前向き)

動物ゲームとして楽しむ『Horizon Forbidden West』

(本記事はpixivFANBOXで2022年4月に公開した記事をブログ用に再構成したものです。)

PS4&5用ゲーム『Horizon Forbidden West』、心の底から素晴らしいと思える傑作ゲームであるわりに、今年2022年はビッグタイトルが大渋滞しすぎて(特に日本では)相対的にちょっと影が薄くなってる気がするので、いかに本作が最高のゲームかをファンはまだまだ語らねばならないと思う。動物好きの観点からも、映画やドラマなど海外エンタメのファンとしても、見どころが本当に多いゲームなのだが、今回はポイントを2つに絞って記事にまとめておく。

タイトル通り第1章は「動物ゲームとしての面白さ」を語り、2章では「アーロイさんの圧倒的カッコよさ」について褒め称える構成です。致命的なネタバレは避けるつもり(終盤で一部ネタバレある部分は注意書き出します)なので気軽に読んでください。1万字あるけど。

【1】わくわく動物ゲーム『Horizon Forbidden West』

動物ゲームっていうか(主に)機械獣ゲームだろ!というツッコミが聞こえてくるが、個人的には『Horizon Forbidden West』は紛うことなき動物ゲームだと思った。ゾウとかキリンのような動物そのものが活躍するゲームというわけではなく(野生動物も脇役的に出るけど)、より抽象的に「動物とは/生命とは何なのか」という問いを、「機械獣」という存在を通じて提示しようという思想に貫かれた、極めて意欲的な動物ゲームとしての側面があると思う。それは前作『Horizon Zero Dawn』からしてそうなんだけど、本作はいっそう動物ゲームとしての深みが増していたなと。

まずはシンプルに、今回も動物モチーフの機械獣たちがどんどん出てきて、「オッこいつはプレーリードッグがモデルかな?」「ワニに続きカバだと!?」「カメきたー!」などなど、動物好きとしてめっちゃ楽しいというのがある。その機械獣たちもシルエットだけでなく、かなり巧妙に現実の動物の動きや習性を反映してることもあり、テンション上がりまくり。それまでの傾向から言って、今回はアメリカ大陸、アフリカ大陸の動物がメインなんだろうな〜と油断していると、むこうからカンガルーモチーフの「リープラッシャー」の群れがぴょんぴょん跳ねてきた瞬間はゾクゾクした。禁じられし西部、なんでもありだな!

ゾウ/マンモスをモチーフとしているトレマータスクとか、キングコブラがモデルのスリザーファングとか、元ネタがわかりやすい機械獣ももちろんカッコいいわけだが、今回は元ネタ動物が一種に絞りきれない機械もけっこういて、それも面白い。
たとえば今回のザコ機械バロワー(かわいい)。最初はプレーリードッグがモチーフかな?と思って、その読みは当たっていたのだが…

ゲームを進めるとバロワーが体を上下にくねくねさせながら水中をすいすい泳ぐ姿も披露されて、「カワウソも入ってるなこれ!」とわかる。機械獣がある意味では特殊な「キメラ生物」でもある設定を活かして、さまざまな動物の特徴を抽象化して抜き出して組み合わせる、という芸当も可能になっている。動物ファンは機械に遭遇するたび好奇心をくすぐられると思う。

前作に引き続き登場する厄介な機械獣「ストーカー」も、前作のアートブックによるとタテガミオオカミが元ネタらしいんだけど、ヒョウを連想するしなやかで長い足と体躯をもっていたり、カメレオンやタコのように擬態したり、いろいろな動物の特徴をあわせもつ面白い(怖い)機械だった。(ちなみにタテガミオオカミは最近図解しました。足なっがい!)

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サル(ヒヒ)がモチーフの「クランバージョー」も「そうきたか!」と感心した。動きはコミカルだけど素早くて強いし、集団で現れるとかなり厄介。しっぽがレアアイテムなのだが、切り落とすのがかなり大変! 機械の部品などの貴重品をすぐ持っていってしまうとか、習性もサルっぽくていいね(腹たつけど)。

新登場する機械で地味に「おっ!」と思ったのは「スパイクスノート」。オオアリクイを思わせる体つきなのだが(ピョロっと飛び出す長い舌も炎とかで再現されてたよね?)、スカンクのように尻尾を振り上げてガスを振り撒くという凶悪な能力をもつ。あと背中のギザついたウロコっぽい装甲は鱗甲目のセンザンコウも入ってる感じがした。スパイクスノートも複数の動物モチーフを巧みに組み合わせた興味深い例だし、その動物チョイスが渋いのもいい。

機械獣たちがどんなロケーションに生息していて、どんな行動をしていて、人間に遭遇するとどんな反応を返すのか…というのも、かなり巧妙に現実の動物の生態を反映していると思う。草原、高原、雪山、砂漠、湿地帯、森林etc…と多種多様なロケーションが存在するゲームだが、いち動物好きとして見ても「ここにその動物メカがいたら変じゃね?」ということがあまりなかった気がする(まぁメカだから本来どこにいてもいいんだけど)。本作における機械獣は、たぶん実際の動物たちの生態系をある意味「のっとる」形で世界に広がったと思われるので、生息地や行動が本物の動物と似ている必然性もあるんだよね。機械の残骸を食べる機械もいたりとか、特殊な食物連鎖の形も描かれていて想像が広がる。たぶん動物学の専門家を監修チームに入れるとかして、生物学的なリアリティを出すための考証を真面目にやっているはず。

『Horizon Forbidden West』の、機械獣の形で表現された「抽象化された動物」の面白さって、最近でも何かで感じたな…と思ったけど、演劇の『戦火の馬』だな!!と気づいた。

『戦火の馬』も、骨組みと最低限の表面だけで構成された「馬」が、熟練のパペットマスターの手によって、絶対に生きているとしか思えないようなリアリティと生命力をもって表現される、動物フィクション好きとしては確実に一度は見ておいた方がいい、凄い舞台だった。『Horizon Forbidden West』はあの「馬」表現のような「生命の抽象化」の面白さをゲームというエンタメに落とし込んだような作品だな~と。

動物ゲームとしての『Horizon Forbidden West』に面白さを感じる最大の理由は、作り手たちの現実世界の動物に対するリスペクトも大きいのだろうし、それはゲームの世界観とも直結している。続編である本作の機械獣は、特に「動物」「生命」としての側面がクローズアップされていたなぁと思う。機械獣たちは極めて危険な存在で、時には立ち向かって破壊しないといけないのは確かなのだが、元はと言えば人間に汚された地球を癒すために、生命に対するリスペクトも込めて作られた、ある意味では「新しい生命」でもある。(機械たちを生み出す「機械炉」の設定は、人体が生命を生み出すメカニズムを参照しているともアートブックで読んだ。)

というか、本作の機械って実は「生命の定義」を満たしているのでは?と思わされる。例えば「他の有機物を取り入れて(変則的ながら)代謝を行う」とか「自己を複製する」という性質を、あくまでプログラムに則った方法ではあるけど実践しているわけで、それはもう新しい生命なのでは…?と根本からプレイヤーに考えさせる設定に意図的にしているなって。

機械は大きな脅威であると共に、壮大なる「新しい生命」として地球を跋扈する存在でもあって、(前作のバヌーク族や本作のウタル族のように)神のごとく崇める部族もいる。ゆえに今回の悪役は、機械も人間も動物も含めた地球の「生命」を丸ごと愚弄してる不老不死のエリート集団だったのだと思う。連中にとっては、機械も人間もその他の動物も、「自分達とは違う、抹殺してもいい下等な存在」という意味では全然大差ない。だからこそ、そんな悪役連中が迎えるあの無惨な結末には「ざまあ~」と大変スカッとした。

破壊すべき脅威であると同時に、別種の「生命」でもある…という機械獣の複雑な魅力を最も象徴するゲーム内アクションが「オーバーライド」だと思う。前作に引き続き登場するコマンドで、機械獣を乗っ取って自在に操る能力。さっきまで恐ろしい敵だった機械が頼れる味方になる瞬間は楽しいし、一緒に旅をして愛着を感じてきた機械が攻撃されて壊れちゃったりすると一抹の悲しさもある。本作はそうした、人が機械に抱く相反する想いがかなり強調されていて、機械獣グリムホーンを大地神のように崇めるウタル族の物語なんかはその最たるものだったなと。結末ではウタルの「歌」の文化を見事に活かしていて、感動的なエピソードだった。

オーバーライドといえば、なんといっても終盤のクエスト「テンの翼」の感動は忘れられない。機械炉をあらかた制圧した後も「あれ、なんでこいつだけオーバーライドできないのかな?」と不思議に思っていたが、あいつに乗ってアレするアーロイさんの絵面の最高っぷりに「そうきたか~~!!」とストレートに震えた。オーバーライドという本作を象徴する能力、キービジュアルにもなってる機械獣、広大なオープンワールドを最も楽しく味わう方法…など考えれば必然的といえるが、全く予想していなかったので(わくわく動物ゲームの行き着く先としても)最高のサプライズになった。あのビジュアルが良すぎて告知映像とかにもすでに使われちゃってるっぽいが、新規プレイヤーにはできる限り何も知らずに、私と同じ最高の驚きを味わってほしいものだ。

動物ゲームとしての『Horizon Forbidden West』を語る上で一応補足しとくと、普通の野生動物もちょいちょい登場する。イノシシとかフクロウとか色々いて楽しいものの種数は限られていて、あくまで大自然のリアリティを彩る脇役という感じではある。苦言というほどではないが個人的には、せっかく狩猟動物の代わりとしての「機械」という存在がいるのだから、現実の動物を狩らないとステータスが強化できない要素は排してもよかったんじゃないかな~というのは、いち動物好きとしてちょっと思ったかな…。(機械や逆賊はともかく、ペリカンやアライグマを殺しまくるアーロイさんは若干イヤ、みたいな。)まぁ狩猟が文化に根差しまくってる本作の世界観では必然的といえるし、欠点とは言えないのだが。

そんなわけで本作、とにかく魅力的な機械獣(と動物)がじゃんじゃん登場する最高にして異色の動物ゲームだが、動物の元ネタを出し惜しみしなさすぎて続編のメカ案が続くかな?とちょっと心配になるほどだった。ゾウとかコブラとかコウモリとか、「こんなデカイ機械獣いたらカッコよくて怖いぜ!」と思う現実の有名な陸上動物、もうけっこう出尽くしちゃってる感じもして(あとはライオンとかゴリラとかラクダとか?)。まぁでも虫系とか魚系とか、ほぼ全く登場してない動物グループも多いのでまだ大丈夫かな。虫系だとハチやクモ、海だとサメやシャチの機械獣とかいたら怖そうだな~とか空想。タコとかもいいね。

【2】こんな圧倒的にカッコイイ主人公いる? アーロイさんの魅力

『Horizon』シリーズの(機械獣に匹敵する)最大の魅力、それはなんといっても主人公のアーロイさんであると断言したい。ここまで圧倒的にカッコイイ女性主人公を作り上げたクリエイター陣にまず最大限の賛辞を送りたいです。前作でもむろんカッコよかったが、本作では(ビジュアル的な豪華さが増したのもあって)カッコよさのギアが一段上がっていた。

マイノリティとしての出自を持ちながら、どんな恐ろしい敵にも槍と弓矢(他)で立ち向かい、絶望的な状況でも決して諦めず、弱者への思いやりを持ち続け、常にちょっとしたユーモアも忘れない。こうした性格はある意味オープンワールドゲーム主人公の王道ともいえるけど、色々プレイした中でもやっぱシンプルに憧れるカッコよさという面ではアーロイさんがズバ抜けていると思う。それでいてなんかちょっと身近でもあるというか、近所の気さくなお姉さんくらいの親しみやすさもあるのがまた良い。

ていうか、ここまでカッコいい女性ヒーローって、映画とか含めた全エンタメでもいまだに希少なのでは?と映画ファンとしても思わざるをえない…。 特に本作のようなAAAタイトルなど、世界中の人に向けた大作エンタメの主人公としては稀有なのでは。マーベル映画とかも近年は女性ヒーローにスポットライト当たり始めたし(キャプテンマーベルとかブラックウィドウとか)、最近アクション系映画でも女性主人公モノどんどん増えてるけど(『アトミック・ブロンド』とか『ガンパウダー・ミルクシェイク』とか)、やはりアーロイさんのカッコよさ、キャラクター造形の素晴らしさって頭ひとつ抜けてるようにも思う。(ゲームという、インタラクティブかつキャラを描写するための時間が極めて豊富なコンテンツとしての有利さはもちろんあるとはいえ。)

ビジュアル面でも趣向が凝らされまくっていて、パワフルな美しさを備えた一方で、荒れ果てた世界を孤独に冒険しているというリアリティもちゃんと感じさせる外見になっているバランス感も見事。肌のシミとか日焼けとか産毛の感じがちゃんと再現されててスゲー…というコメントも見た。最新世代としての画質進化の活かしっぷりの方向性がスゴイ!

ゲームの女性キャラ表象が、体型の偏りや露出の多さなど、ジェンダー的な観点から問題になっているのを近年よく見かけるんだけど、本作はそこも非常に考え抜かれていると思う。アーロイさんは体格や顎の感じもガッシリしていて、服装も(露出の程度は服によって差があるけど)あくまで大自然を生き抜くための必然性を感じさせるキマりっぷり。テンプレ的な女性描写の枠組みにハマらない、むしろ積極的に壊していく形で、新時代の「カッコいい女性ヒーロー」をビジュアル的な説得力をもって示した絶好の例として、アーロイさんは末長く語り継がれるんじゃないだろうか。

物語的にも、アーロイさんに良い意味で女性性(母性とか)が全く担わされてない感じも清々しいなと思う。(アサクリオデッセイのカサンドラさんとかも強くてカッコよくて好きだが、あれは男女選択式なので事情がちょっと違うのと、未プレイだけどDLCが性規範的すぎるとかで批判されたりしてたしね…。)同じく最近の革新的なゲーム『ラスト・オブ・アス part2』のエリーとアビーの造形も凄まじいなと驚愕したばかりなんだけど、こうした女性主人公描写の先進性って、エンタメ界で今いちばん進んでいるのは実はゲームなんじゃね…?と思えてしまう。

『Horizon Forbidden West』、キャラクター造形の素晴らしさはやはり主人公のアーロイさんが突出しているものの、この世界に生きる人々の描写も同じく見どころが多い。アーロイさんを創り上げた精神性とも完全に通じるのだろうが、性別や性志向や人種や身体的/知的障害のような幅広いマイノリティ描写を、世界で生きる人々の描写の中にさらっと、かつ膨大に取り入れている姿勢も見事だなと感銘を受けた。そうした多様さへの志向は本作に限らず、特に海外の先鋭的なエンタメ全般で徐々に取り入れられている要素だけど、やはり本作のような堂々たる大作エンタメ・巨大タイトルでそれをやる社会的インパクトは絶大だと思う。

こういうのを「わざとらしい配慮」とかいう人もいるのかもしれないが(ラスアス2発売後もウンザリするほど見た…)、むしろこれだけ激変した世界で、住民が白人ばっかりとか男ばっかりとか"健常者"ばっかりとか異性愛者ばっかりとかだったら逆にリアリティなくて興醒めすると思う。一度文明が完全に崩壊した世界(=社会規範が一掃された)という設定を、多彩なマイノリティ描写をブーストする装置として巧く活かしているとも言える。

印象に残ったキャラクターは沢山いて、今回は「仲間」という概念があるのでサブキャラの魅力も深く語られるのだが、なかでも隻腕の戦士コターロが特に好き…。優秀な戦士なのだが、「力こそパワー」であるバトル部族・テナークスの社会で、腕を失ったという身体的ハンデを負い目に感じてもいる。でもだからこそ(同じくマイノリティとしての属性や出自をもちながら)ほとばしる勇気ととんでもない発想力で文字通り「壁」をぶっ壊していくアーロイさんの存在が、どれほど眩しく思えたことか…と勝手にグッときてしまった。義手をめぐるエピソードも本当に心打たれたし、身体的ハンディキャップをもつ人の表現としても力強いものだったと思う。日本語版の声も煉獄さん(日野聡)でめちゃカッコイイぞ!

仲間のキャラだとアルヴァも良い。登場時はなんか頼りない雰囲気で「アーロイ夢小説の主人公みたいだな」とか失礼なことを思ってしまったが(ごめん)、話が進むにつれて、その圧倒的な知的好奇心ゆえの芯の強さが垣間見えるようになって、素敵なキャラ造形だなあと(コターロに「ロングレッグみたいな突き進み方」とか評されてて笑った)。顔立ちもあどけない可愛らしさがあるんだけど、なんか絶妙にフィクションで見かけないような、リアリティある顔つきなのが良い。

『Horizon Forbidden West』の魅力的なサブキャラ陣の中でも、マイノリティ表現で特に強く印象に残ったのは「爆発シスターズ」の妹・ブーマー。彼女は現代でいう自閉症(autism)に相当する人で、周囲の人間や感情に注意を払うことが苦手なのだが、自分が愛する爆発物の探求にひたすら邁進している。そんな性質ゆえに爆発トラブルもしょっちゅうで、姉さんには心配されるし、まわりからは文字通り「煙たがられて」いるのだが、そういう彼女だからこそ突き破れる逆境だってあるよね…という、とてもまっとうな視点を感じるエピソードがあって心打たれた。片腕を失ったコターロと同じく、障害は欠落ではなく、その人自身であることが大切なんだ、という真摯なメッセージ性が共通していて素晴らしいなと思う。

アーロイさん、カッコよすぎて(老若男女問わず)色んな人にさまざまなデカめ感情を向けられるのだが、やはり根っからの「流れ者」であるため、そんな感情もクールに受け流して旅立たざるをえず、そのせいでまたみんなの感情がデカくなっていくスパイラルがなんかもう面白くなってくる。今回のラスボスはその究極版というか、巨大感情ファイナル形態という感じで、強すぎるし笑うしかなかった。と同時に「アーロイさんの影に別の誰かを見出しているラスボス」vs「アーロイさんの人生を実際に"生きた"プレイヤー」みたいな構図にもなっていてかなり熱かった。
 
ーーー以下、ラスボスに関するネタバレ注意ーーー

 

『Horizon Forbidden West』のラストバトル、「アーロイをエリザベトの代わりとして見ているラスボス」vs「実際にアーロイさんと一緒に旅をしてきたプレイヤー」の戦いでもあるんだなと考えるとかなり熱い。
ラスボス(一応名前は書かない)はアーロイさんの「コピー元」であるエリザベトに深い愛情を抱いていて、彼女を失ったことに取り返しのつかない失意を抱いたまま1000年も過ごしてしまったので、ようやく会えたアーロイが気に入ってたまらず、アーロイの大冒険もフォーカスを通じて見てテンションMAXになって、「一緒に行きましょうアーロイ!コピーとはいえあなた実質リズ(エリザベト)みたいなもんでしょ!行こ行こ宇宙行こ!ゼロからやりなおそ!リズなら絶対そうするって!ウォオオオーー(大意)」と巨大感情爆発ファイナル形態となってプレイヤーに襲いかかる。その巨大感情(物理)がめちゃくちゃ強いので「これは詰んだか?」と、いったん退却して再挑戦するべきかなと諦めかけた…。だが、しかし。

1作目と2作目を計100時間くらい(かは知らんが)プレイしてきた私ことプレイヤーは、アーロイさんがエリザベトとは異なる存在であり、彼女オリジナルの人生を生き、彼女オリジナルの冒険を繰り広げてきたことを知っている。なんたって自分で(苦労して試行錯誤して)「プレイ」してきたから。なのでどんなにラスボスが強かろうと、エリザベトへの想いが強かろうと、お前はいわばアーロイさんの冒険をYouTube動画の配信実況でしか見ていないニワカであり、プレイしてきたのはこっちなんじゃボケ〜〜!!という熱い闘志によって立ち向かった。

そして「エリザベトにこんなことできるかァ〜!?」とばかり相手の武器を切断し、「アーロイさんはアーロイさんなんじゃボケ〜〜!!」とばかり全力砲撃によって辛くも勝利をおさめたのだった。まぁバトル中もバトル後もアーロイさん本人はいたっていつも通りクールな立ち振る舞いだったわけだが…。(それはそれとしてラスボスの巨大感情は百合的にはすごく甘美だと思いました。なんだかんだ生き延びてほしい気持ちもちょっとあったので悲しさもある〜。まぁでも美味しすぎるポジションだったので…ヨシ!)

さらに言えば、ラスボスが「絵画」を愛し、美しいそれ(≒エリザベト/アーロイ)を解釈して保存して「所有」しようとする姿勢と、そんなことは不可能と知っているアーロイさん&プレイヤーとの最終決戦、という構造は意図的なんだろうなと。もっと言ってしまえば本作のラスボス戦って、「絵画vsゲーム」の一騎討ちにもなっていると思う。
本作を作っているスタジオ・ゲリラはオランダのゲーム会社なこともあり、自国の伝統的な文化である「絵画」に対するリスペクトをゲーム内で存分に発揮している。実際、17世紀オランダ絵画をじっくり味わえる場面があったりもする。

 しかし本当に素晴らしいのは、そうした「過去の栄光」として自国の文化をひたすら崇め讃えるだけでなく、いま自分たちが作っている最先端の"文化"である「ゲーム」によって、乗り越えようとする意志が感じられること。圧倒的な歴史と権威をもつ「絵画」に、芸術としてゲームが"勝ち"うる本質的な点があるとすれば、それは「プレイできる」ことなんだ…!というロジックも見事だし、なんて志が高いんだろうと感動してしまった。

ーーーネタバレおわりーーー

 

そんな感じで『Horizon Forbidden West』の魅力でした。今年2022年はヤバい大作ゲームが目白押しだけど、今年の私的ベストゲームは本作で確定だなという感じ。GOTYとかはエルデンリングあたりに行くんだろうな〜とは思うが、どう考えても本作が(ラスアス2とかと並んで)PS4終盤〜PS5初期世代を代表する名作ゲームとして歴史に名を残すのは確実だと思うし、難易度調整もあってオープンワールド入門にもぴったりなので、未プレイ勢はぜひ1作目(内容を考えれば激安よ)から続けて遊んでみてほしい。次回作…はさすがに気が早いけど、追加コンテンツはそろそろ発表くる予感するんだよね…楽しみ!!

amzn.to

一作目はこちら。私も久々に遊び返そうかな。

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はてなブログProにしてみた&最近のオススメ本

意外と開設7年くらい経過していた本ブログ「沼の見える街」ですが、このたび「はてなブログPro」にアップグレードしてみました。始めてから1年くらいはやたら熱心に毎日更新→作家業が忙しくなってきて数年完全放置…からの→最近またブログ再開…という流れになってきたので、まぁ月600円(2年プラン)とかだしProにしてみるか〜と。

Twitterの生きもの図解系は基本的にブログにもあげていて、それは引き続きやろうと思うのと同時に、(初期はいちいち観る/読むたび書いていた)映画や本の感想をなるべく復活させたいと思ってます…。Twitterにはよく書いてるけど、書いてもすぐ流れていってしまってログ性が低いのと、せっかくインプットしたら出力しないともったいない感じもするので。ていねいな暮らしがしたい(?)

今年はPIXIV FANBOXを始めたりもしたんですが、色々あって結局やめてしまったので、FANBOXでやろうと思っていたことをこっちでやろうかな、とかぼんやり考えてます。一周してブログに戻ってきた感。

とりあえずPro料金の元を取るためと、ブログ更新のモチベが多少上がるといいなという目論見で、GoogleアドセンスとAmazonアソシエイトに登録してみました。(リンクから買ってもらうと少しお金が入るらしい。審査まだ通ってないけど。)

とりあえずここ最近読んだ中で面白かった本などをつらつら挙げていくので、興味湧いたらゲットしてくださいね。

 

『ネアンデルタール人は私たちと交配した』スヴァンテ・ペーボ

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このたびノーベル生理学・医学賞を受賞した進化生物学者スヴァンテ・ペーボ氏による、日本語で読める著作。「珍しく生物学がノーベル賞とったど〜!」と生物クラスタがわいわいしてたので(やったね)、さっそく読んでみた。

数万年前に絶滅し、遺伝子も絶えてしまったと思われていたネアンデルタール人。だがベーポ氏はその古代DNAを復元することに成功し、それらが実は人類に受け継がれているという大発見に辿り着く…。そこに至るまでの長く険しい道のりを本人が語る1冊。DNA解読にまつわる専門的な部分はけっこう難しくて、一度読んだだけでは完全には理解しきれなかったんだけど、テーマの壮大さやペーボ氏本人の人となりの興味深さもあって、サイエンス読み物として面白かった。

「古代DNAを復元!」と宣言するは易しだが、実際には長時間が経過したDNAの復元というのは本当に困難。それなのに同業者がろくに検証もせずに「恐竜のDNAを復元したど〜!」とか適当なことを宣言しまくるせいで、うちらの真面目にやってる研究が霞みそうでめっちゃモヤついたわ…的な、「わ、わかる〜」となる苛立ちや焦燥感とかも赤裸々に描写されてて、どこの業界もそういうのあるんだな…って興味深かった。

でも(巻末で更科功氏が解説してるように)、センセーショナルな「発見」を煽る世間に流されずグッとこらえて、淡々と地味に科学的真実にたどりつこうとする努力こそがペーボ氏の素晴らしさで、その道のりが立派に報われて、このたびノーベル賞まで受賞したわけだから、シンプルによかったなあという気持ちになれる。

先述したようにペーボ氏の人柄も興味深い。科学者として分子生物学に没頭しながらも、同時になぜかエジプト学研究にどうしようもなく強く惹きつけられ、勝手にミイラを作ったりして顰蹙を買っていた(さらにミイラのDNAの解読を誤って宣言してしまった)という話が面白い。

「古代人の考古学」と「分子生物学」って、その後のネアンデルタール人の大発見を思えばまさにドンピシャな組み合わせだが、まさに文系と理系って感じで、当時は互いに無関係な領域でしかなかっただろうし、ペーボ氏も周りに「よそ見してないで一方に集中しろ!」と言われたかもしれない。

それでも、ペーボ氏の分子生物学とエジプト考古学に対する領域横断的な好奇心の深まりこそが、後にノーベル賞級の大発見に繋がったわけで、やはり知的領域って「文系/理系」でバッキリ分けられるようなもんでもないし、雑な二元論で重要な気づきを逃すこともあるよな〜とつくづく思う。

amzn.to

↑ ペーボ氏の探求を読みながら、前に読んだ本『RANGE(レンジ) 知識の「幅」が最強の武器になる』を思い出したりもした。まぁ私自身が常に興味の対象が複数ジャンルにまたがるタチだから、願望も入ってるかもしれないけどね…。「深さ」が重要なのは大前提だけど、幅の広さにも目を向けるべきなのは確かだと思う。

 

あと『ネアンデルタール人は私たちと交配した』の副読本としてオススメされてた(著者のヘンリー・ジーさんがちらっと登場する)『超圧縮 地球生物全史』も読んでる。まだ序盤だけど面白い!

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こういう「地球/生物/人類全史」みたいな無茶っぽい本、専門的な見地からは批判的な意見も色々あるんだと思うが(ダイアモンドとかハラリとかもわりと批判されてるし)、かなり好きでしょっちゅう読んでしまう…。まぁ歴史にしろ科学にしろ、広く浅く大局的な本と、狭く深く局地的な本、どっちもバランス良く読めばいいかなって。

 

『海の極限生物』スティーブン・R. パルンビ

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最近読んだ生物本の中でも特に面白かった1冊。灼熱の火山みたいな熱水噴出孔で生存するポンペイワームから、極寒の海で驚異的な長寿を誇るクジラまで、極限すぎる海の環境で生き抜く動物たちの極端な能力や生態を、海洋生物学者が美しくユーモラスな筆致で紹介していく。海は広いし半端ない!と実感できるエキサイティングな読み物。 もっと具体的に紹介したいところだが、次の図解の参考にさせていただくつもり。

しかしこんなに面白くて濃密で学びの多い良書なのに、amazonでは「写真集かと思ったのに違った」とかいうワケわからん理由で低評価されていて気の毒だった。真の極限環境はamazon。でも今見たら入荷待ちになってたから、呟き見て誰か買ったのなら良かった。

 

『読者に憐れみを ヴォネガットが教える「書くことについて」』

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 敬愛する作家カート・ヴォネガットの新作!?……と思えてくるほどの手触りと親しみに満ちた文章読本。ヴォネガットの文学講義を受けていた生徒が、彼の説く創作への心構えや作家志望者への助言をまとめた。作品と同じく皮肉なマインドを持ちながら、ヴォネガットが優しさと熱意に溢れた教師だったことが伝わる。作家に限らず何か"書く"人なら得るものがあるはず。

 良い文章を書くためにまず必要なものは小手先の技術でなく、「自分が関心のある(そして他の人も関心を持つべきだと思う)テーマを見つけること」というヴォネガットの最初のアドバイスは、単純だが確かにすごく大事だし、初心者も上級者も意外と忘れがちなことかもな…と思った。

 良い文章の例としてヴォネガットが紹介するのが娘の書いた手紙。レストランでバイトしてた彼女が、同僚にクレームをつけた客に反論するという、小説でも何でもない現実的な文章なのだが、確かに書き手に強い動機(≒テーマ)があり、だからこそ力強く心を打つ文章になっている。

 最も有名な作品にして最高傑作であろう『スローターハウス5』を書くまでに、ヴォネガットが想像を絶するような人生経験と紆余曲折を経たことを考えても、やはり創作に小手先は通用しないし、そう効率化もできないし、焦ったって仕方ないよな…と思えてくるかも。

 具体的な文章アドバイスも多く、特に「とにかく明快に、簡潔に書くこと」を重視するヴォネガットの助言の数々は(小説家ではないが)普通に参考にせねばな…と思った。文章を読むことは誰だって本当は大変なのだから、「読者を憐れんで」あげなさいと(タイトルの由来)。これは私も、生きもの図解とかを書くにあたっても肝に銘じる必要がありそうね…。

 ところで大作家の『書くことについて』といえばまず思いつくのはスティーヴン・キングのこれ(読み直そうかな)。

amzn.to

ヴォネガットとキングは全く違う作家だけど、2人とも「書くことそのものが恵みであり(仕事になろうとなるまいと)人生の救いだ、だからどんどん書こう」といった内容のことを語ってるのが素敵だなと思う。みんなも何かしら書こうね!

 

『【全面改訂 第3版】ほったらかし投資術』山崎元・水瀬ケンイチ

amzn.to

急に投資の本ってなんだよという感じであるが、やはりフリーランスの作家とかやってると金銭と向き合わざるをえない機会も多く、積立NISAだのIDECOだのといった投資について考える状況も増えるので、ちょいちょい投資の本を読んだりしてお勉強しているのである(えらい)。

ただその結果、大抵の本には同じようなことが書いてあるといっても過言ではないと気づき、そのエッセンスが最もシンプルな形で凝縮されているのが本書だと思ったので、もうこの方針に従うことにした…。タイトル通り死ぬほど単純だし、素人考えで下手に悩んでいじくり回すよりは、プロが推奨するやり方をいったん鵜呑みにして、本業に集中した方がいいと思ったのもある。

もちろんこれが絶対の正解ではないのだろうが、明らかに王道のひとつではあるはずなので、「投資って何をどうすれば…」というレベルの人も一読オススメ。私もこの方針でとりあえず5年くらい様子を見るつもり。さっさと資本主義経済の鎖から解き放たれたいものだ!

余談だけど、投資にまつわる話って、妙に「技術を獲得する」プロセスと重なるところが多い気がして、門外漢ながら興味深いなと思っている。市場にどんな変化があろうと地道に投資を続けることの大切さを示す、「投資家は"稲妻が輝く瞬間"に市場に居合わさなければならない」という有名な格言があるらしいが、これって技術を得るための鍛錬にも言えることだよな〜とか思ったり。

あまり成果が出ないように思えても、諦めずに鍛錬を淡々と積み重ねていくことで、ある時「稲妻が輝く」ように飛躍する瞬間というのは、様々なジャンルの人に覚えがあると思うし、その瞬間を掴み逃さないためにはマジで地道な継続が大事なのだ…というのは、かなり普遍的なエッセンスだなと。こういう興味深い視点も得られるし、たまには(投資だの経済だの)門外漢なジャンルを覗いてみるのも良いかもですね。

 

ーーー

 

せっかくPro化したので、こんな感じで読んだもの・観たもののログを(簡単にでも)残せていったらいいなと思います。たぶん…できれば…

 

あ、私が出したKindle本も引き続きよろしくね。やすいよ〜

amzn.to

 

図解「夢みる動物たち」

「動物は夢を見るの?」という疑問の答えについて、現状わかっていることを図解しました。地球の動物は例外なく眠りますが、睡眠中の脳が引き起こす「夢」もまた、人間だけの特権ではないようです。さらに最新の研究で、意外な動物も「夢を見る」可能性が浮上…!?

<テキスト>

地球上のあらゆる動物は眠る。進化の過程で、視覚や手足を捨て去った動物はいても、睡眠を捨て去った動物はいない。それほど「眠り」は、生命にとって必要不可欠なのだ。それでは、動物は「夢を見る」のだろうか?答えは「イエス」である可能性が高い。

人間が夢を見るのは、大抵はレム睡眠(※急速な眼球運動などを特徴とする睡眠の状態)の間だが、レム睡眠はほとんどの哺乳類や鳥が経験する。犬や猫が寝ている時に、
体をぴくぴく動かしている時は、夢を見ている最中かもしれない。さらに、人間が思う以上に多くの動物が「夢を見る」…という説に、様々な根拠が与えられつつある。

言葉を話せない動物の「夢」の内容など、わかるはずもないと思うかもしれないが…
アメリカ手話 (ASL) の訓練を受けたチンパンジーが、睡眠中に「GOOD(良い)」のサインや「COFFEE(コーヒー)」のサインを出す姿が確認された。コーヒーが好きだったというこのチンパンジーは、見ている夢を「寝言」のように表したのかもしれない…。
なんと「歌う夢」を見る鳥もいる。ゼブラフィンチ(キンカチョウ)は幼い時に、大人の鳥から「歌」を学んで上達するのだが…寝ている間に、習った「歌」を脳内で「復習」するようなのだ。さらに「歌」を発声するためののどの筋肉も動かすという。
その筋肉の動きのパターンが、起きている時と眠っている時で完全に一致することもわかった。この結果から、鳥が眠っている時に歌を「練習」する…つまり事実上「歌う夢を見ている」と考えられるわけだ。人間と同じように、目覚めている時に学んだ内容を、「夢」によって記憶に定着させている可能性もある。

「最も賢い無脊椎動物」と呼ばれるタコも「夢を見る」…と考える科学者もいる。眠っている間、色が変化していくタコ。タコと(人間含む)哺乳類の脳の構造は全く異なるが、大きな共通点がある。それは「静かな」睡眠と「活発な」睡眠を交互に繰り返すことだ。「活発な」睡眠の間は、タコの皮膚の色が変化し、体がけいれんする。これが「レム睡眠」に近い状態だとするならば、タコが夢を見る可能性も示しているというわけだ。眠りと「夢」による記憶の整理がタコの高度な問題解決能力を強化しているのかもしれない。ただし、タコが「夢を見る」としても、その夢は数秒〜1分ほどの短い動画くらいの長さのようだ。

虫はレム睡眠をせず、したがって「夢」も見ないと考えられていたが…その常識に一石を投じる発見が最近あった。ハエトリグモが眠る時、まるで犬や猫のように足や目がぴくぴくと動く様子が観察されたのだ。これはレム睡眠によく似た状態だ。もし虫の仲間もレム睡眠をすると証明できれば、大発見となる。さらに、クモが夢を見るとしたら?8個の目と360度の視野をもつクモの夢とはどんなものか…?想像は広がるばかりだ…。
「胡蝶の夢」という中国の説話がある。荘子が美しい蝶の舞う夢から覚め、自分が蝶になった夢を見たのか、それともこの現実が蝶の見た夢なのかわからなくなった…という話だ。夢は人間ならではの高尚な精神現象だと長く考えられてきたが、人間に近い動物だけでなく、虫でさえも夢を見ると科学的に判明する時が来れば、そんな思い込みも
儚く消えることだろう。まさに、春の夜の夢のごとし…。


<今回の主な参考文献・参考サイトなど>

『睡眠の科学・改訂新版 なぜ眠るのか なぜ目覚めるのか』 (ブルーバックス)   櫻井 武 

https://www.amazon.co.jp/dp/4065020263/ref=cm_sw_r_tw_dp_B9HA4TCWG5CJD1KW2WPY?_encoding=UTF8&psc=1 www.amazon.co.jp

『睡眠こそ最強の解決策である』   マシュー・ウォーカー

www.amazon.co.jp

www.smithsonianmag.com

natgeo.nikkeibp.co.jp

www.vice.com

www.bbc.com

 

1ページ目のネコとネズミの夢に使ってみたのはこちらの画像生成AI。不条理な悪夢めいた絵が欲しかったので試してみたのだが、良い感じに出力されて楽しかった。というか不条理な悪夢以外の使い方がまだちょっと思いつかないのだが…。いつかAIに仕事を奪われるかもしれないが、今じゃなさそうだ(?)huggingface.co

 

恐怖のわくわく動物映画『NOPE/ノープ』感想&レビュー

 まさかのわくわく動物ムービー! ジョーダン・ピール監督の最新作『NOPE/ノープ』、今年ベスト級に好きな映画であると同時に、ここまで動物フィーチャーな作品に仕上がっているとは…と動物クラスタとしては嬉しい驚きがあった。ピールの過去作『ゲット・アウト』『アス』と同様、ホラーの形式をとったエンタメでありながら、やはり人種差別や格差や搾取の問題が背景にある作品なんだけど、それを動物のモチーフと密接に絡めてくる手腕が今回は特に見事だった。

 『NOPE』は奇妙な感じに章が区切られている作品で、各チャプターには、「ゴースト」「ラッキー」「クローバー」「ゴーディ」そして「ジーン ジャケット(Gジャン)」というタイトルがつけられている。これらは全て本作における「動物」の名前だというのも、『NOPE』の動物フィーチャーっぷりを表している。

 まぁ実は『ゲット・アウト』の鹿(クライマックスの超展開が忘れられない)や『アス』のウサギ(ハサミと形が似ているところに目をつけたのかな)など、ピール監督は毎回必ず動物を象徴的なモチーフとして使ってきたのだが、『NOPE/ノープ』では動物たちがいよいよメインテーマとがっつり関わってきたなと感慨深いので、各章のタイトルにもなってる主に3種類(?)の「動物」について(Twitterでも散々語った考察のまとめ的な意味でも)書いていきたい。

 

ーーー注意ーーー

まごうことなきネタバレなので鑑賞後に読んでね。

ーーー注意ーーー

 

馬(ゴースト、ラッキー、クローバー他)

 馬は地球で最も「映画的」な動物と言えるかもしれない。そのスクリーン映えする体躯と、大地を疾走する運動能力、そして人間との信頼関係の築きやすさによって、馬は西部劇を筆頭に何度もスクリーンの上に登場してきた。本作の主人公OJ(ダニエル・カルーヤ)は、そんな映画界に馬を適切に扱ってもらうための調教師である。

 もっと言えば、馬は映画の歴史の「原点」のような動物でもある。というのも、OJの妹・エメラルド(キキ・パーマー)が「史上初の映画」として説明するように、写真家エドワード・マイブリッジが1870〜80年代に「運動の研究」として記録した、「走る馬」の連続写真こそ、映画の最も原初的な形だったと考えられるからだ。

 しかし、記録した写真家の名前と違い、写真の馬に乗っている騎手については今も全く謎のままであり、名前も残っていない。(この騎手がなんと私たちの先祖なんだよ!と語るエメラルドの言葉は当然っちゃ当然だが本作のフィクション要素である。)連続写真の黒人騎手は、確かに画面に写っている「見られる」存在ではあったが、主体性をもつ人物として、彼自身の名前や人生が記憶されることはなかった。そんな黒人騎手の姿に象徴される、映画界/エンタメ業界において「いないこと」にされてきた者たちの姿に再び光を当てることは、本作の大きなテーマとなっている。

 そして馬も、エンタメ界にとって重宝する動物であることは確かだが、結局のところ人間に都合よく利用されてきた動物にすぎないとも言える。そのことは何より、序盤のCM撮影現場で、OJの忠告を無視して勝手な都合で馬(ラッキー)を振り回そうとする人間たちの姿によく現れている。馬にとっては人間の撮影スケジュールなど知ったことではないのだが、人間もそんな馬の都合に気を配りもしない。万が一無理をさせて、馬が人間を傷つけた場合、馬は(まさに後述するゴーディのように)殺されてしまうかもしれないというのに…。

 ラッキーが取り乱してしまうきっかけとなったアイテムが、人間と馬の間にある「見る/見られる」支配関係を象徴する「鏡」であることも象徴的だ。近年の優れたホラー映画『透明人間』(2020)などと同じく、この「見る/見られる」の一方的な関係が、この世界に厳然として存在する「搾取」の構造の根源であるという問題意識こそが、本作を読み解く上で最も重要なポイントだと思う。

 そんな馬たちが、UFOめいた謎の超常存在(と見せかけて実は捕食動物であると判明した)「Gジャン」に吸い込まれる最初の犠牲者となってしまうのも意味深い。Gジャンは、まるで「搾取」という概念をものすごい物理的に体現したような存在だ。マジで文字通りそのまんまなのでちょっと笑ってしまうのだが…。最悪のルンバかよ。

 さらにGジャンは「見る/見られる」関係における「見る」を象徴する存在でもある。 映画冒頭で、馬が走る連続写真が映し出されるのだが、実はそれを見ていたのはGジャンの「目」だったことが振り返ってわかる作りになっている。つまりGジャンは馬と「目があった=見た」ことで馬を捕食したというわけだ。

 馬がGジャンに飲み込まれるショッキングな光景を目にした(動物の習性に詳しい)OJは、Gジャンと「目を合わせない」ことで脅威をやり過ごそうとする。直接的な言及はないが、ここにOJたちが黒人として日常的に肌で感じている抑圧を読み取ることもできると思う。例えば(BlackLivesMatterで可視化された)警察暴力などの権力からの攻撃を、マイノリティの人々が「目を合わせない=権力に歯向かったり糾弾したりしない」ことでやり過ごしてきた姿勢も連想して、辛い気持ちになった。

 「地球で最も映画的な動物」ではあるが、同時に「エンタメ界で最も利用されてきた動物」とも言える馬たち。そして映画の原初から実は「ずっといた」にもかかわらず、ふさわしい敬意を払われることもなく、マジョリティが作る歴史の影に埋もれてきた黒人たちとその子孫。馬たちとOJ/エメラルド兄妹には、馬と人という種こそ違えど、どこか重なる部分も多い。

 だからこそ、「搾取」と「見る/見られるの支配」を体現するような、絶望的なほど強大な超常生物「Gジャン」に、馬とOJ/エメラルドが覚悟を決めて立ち向かう最終局面が非常に熱い。特にOJとラッキーがまさしく「人馬一体」となって、Gジャンを引きつけるために疾走する瞬間は、超常ホラーであった『NOPE』がまるでジャンルを薙ぎ倒すように「西部劇」へと変貌するような面白さがある。BGM(サントラの"The Run")もクラシックかつストレートにカッコよくて血がたぎる。動物映画としての本作のクライマックスにふさわしい名場面だった。

 余談だが、ちょうど『ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪』や『ハウス・オブ・ドラゴン』といった有名ファンタジー原作の現代ドラマで、多様性を志したキャストについて人種差別的な非難が沸き起こっている現状を考えても、「フィクションで"いない"ことにされてきた者たちの復権」を高らかに謳うような『NOPE』のクライマックスは、なおのことパワフルに感じられた。

 

チンパンジー(ゴーディ)

 そして、なんといっても本作の白眉はチンパンジーである。主要キャラのひとり・ジュープ(スティーブン・ユァン)が幼い頃に体験した超ド級のトラウマ事件に登場するチンパンジー、その名もゴーディ。実は本作の大筋とは驚くほど関係が薄いのだが、あまりにインパクトが強いため多くの人が"薄い"とは感じなさそうなのも凄い。ゴーディは動物ホラーとしての『NOPE』におけるMVPとも言えるキャラクターだった。

 本作の冒頭は、とあるホームコメディ調の会話の音声から幕を開ける。(制作の「モンキーパウ・プロダクションズ」の不気味なロゴアニメの出方が絶妙すぎるっていう…。)最初は和やかだった音声が、ある瞬間をきっかけに混乱と叫び声に変わり、「何かとんでもないことが起こった」と観客に予感させる。画面がパッと映ると、そこには倒れた人間と、口と手が血まみれになったチンパンジーの姿が…。どうやらドラマの撮影中に、チンパンジーがとんでもない事故を起こしてしまった…という戦慄の事態が明らかになる。

 そのドラマとは、ゴーディに"かわいいチンパンジー"の役を演じさせたホームコメディ『ゴーディ 家に帰る』。動物倫理や動物福祉の考え方がまだ進んでいなかった時代にいかにもありそうな劇中劇ドラマと言える。チンパンジーに対する動物学的な理解が不十分なまま、人間に都合のよい「かわいくて面白おかしい、ちょっとバカな存在」としてエンタメ業界はチンパンジー(含む動物たち)を利用してきたのだ。

(↑9/10追記:ジョーダン・ピール監督がアップした『ゴーディ 家に帰る』の架空の予告編。どんなドラマだったか雰囲気が掴めて良い。ノイズが不穏すぎる)

 現実にはチンパンジーはとても複雑な内面をもった動物で、心優しい一面を見せてくれることもあれば、暴力で敵を抹殺することもあり、接する際は人間の方も細心の注意を払わないといけないのだが、視聴者にウケればいいエンタメ界ではそんなことはお構いなし。『ゴーディ 家に帰る』の製作陣と出演者たちは、そのツケを最悪の形で支払うことになったわけだ。

 とはいえ本作のゴーディ事件を、日本でも「外国の話」では片づけられない。日本でもTV番組「志村どうぶつ園」でのチンパンジーの扱われ方に問題が多いのではないか…という専門家からの指摘があった(『志村どうぶつ園』VTRでパンくんは「恐怖に震えて…」霊長類学者が警告! | 週刊女性PRIME)らしいし、実際に女性を襲撃するという痛ましい事故も起きた。本来は飼育に適さない野生動物を、かわいいからといって無理やり飼ってみたり、「ふれあい」の美名のもとにストレスを与え続けたり、生きたアートなどと称して劣悪な飼育設備に閉じ込めたり、そんな話は身近でも事欠かない…。

 アメリカでも日本でも共通するのは、人間が動物を自分の都合で勝手な枠組みに押し込めて「消費」しようとする態度である。その「枠」は物理的な意味でもそうだし、その感情を勝手に決めつけることも「枠に押し込める」姿勢のひとつだ。身近な例では動物番組で「ボクは○○なんでちゅ!」的な幼稚なアテレコを動物の行動に被せてみたりとか、人間が動物を見下しつつその"心"を勝手に決めつけるという傲慢な構図は、さまざまな場所で目に入る(まぁ私の本も動物をしょっちゅう擬人化してるので広義ではそこに含まれそうだが…)。ゆえに『NOPE』のゴーディの場面で、そうした構図が最も恐ろしい形で破壊されるという展開は、戦慄すると同時にどこか痛快でもあった。

 本作のチンパンジーは、人間社会における差別や搾取や消費の構造と重ね合わせたメタファーとして見ることもできる。アジア系であるジュープだけが、奇跡的にゴーディに襲われることなく生き残ったという事件の顛末に関しては、その観点からも解釈が可能だ。チンパンジー含む「猿」が、黄色人種を嘲るワードとして使われがちだった…という差別の歴史背景を考えると、ジュープとゴーディの関係性に特別な意味合いが与えられることには必然性もある(アジア系とチンパンジーをそのように括ること自体が人種差別的ではないか、という指摘もありうるかなと思うけど)。

 解釈は分かれるだろうが、アメリカの白人社会の中でアジア系の子役として肩身の狭い思いをしてきたジュープは、とりわけゴーディに親しみと愛着を感じていて、それをゴーディの方も感じ取っていた、つまりジュープとゴーディの間には本当に種を超えた「つながり」があったんじゃないか、と個人的には想像してる。ジュープとゴーディが拳を突き合わせそうになる場面も(劇中ではポスターで提示されるのみだが、ドラマ内でお約束的に行っていたアクション)単なる条件反射やゴーディの気まぐれではなく、ド修羅場の中にあっても"2人"の結びつきが消えなかった証拠ではないか…と思いたい。

 一方で「ジュープが襲われなかったのは単にテーブルクロスがゴーディの恐怖を和らげたからに過ぎず、別に心が通い合ったわけではないのだが、それをジュープが"奇跡"だと勘違いしてしまった…」というわりとドライな解釈も見かけた。先述のように「見る/見られる」関係がめちゃ重要な概念である本作の見方としては、それはそれでなるほどな〜と思った。

 ただ、拙著『ゆかいないきもの超図鑑』でも語ったように(https://twitter.com/numagasa/status/1567710146754916352?s=20&t=urCetcBwVq67IyithmcOaQ)、チンパンジーには暴力性と鏡合わせとも言える繊細な共感能力がある。出演者の中でも自分と同じくらいの体格であるジュープに対してだけは、実際に親しみを覚えていて、パニック&怒りの状態にあっても彼のことを傷つけようとはしなかった、と考えることは動物学的にも十分に現実的だと思う。

 ゴーディが暴走する瞬間もけっこう考えられていて、意味もなく暴れ出したとかではなく、風船が「パン!」と割れる銃声のような音がパニックを引き起こしたという経緯も描かれており、多分それまでにゴーディが受けていた抑圧やストレスの限界容量に達してしまったんじゃないか…と。破裂音に過剰反応したのは、もしかすると自然界で捕獲される時に親を銃殺されたとか、そういうトラウマ的な背景もあったりするのかなと空想したりもした(最悪だけど類人猿の密猟ではよくあることなので…)。

 ジュープとゴーディの関係は様々な解釈が可能だが、何もかもが欺瞞と偽善だらけのエンタメ業界で、それでもジュープとゴーディの間には真のつながりが存在した、それなのに……と考えた方があのシーンの残酷さと美しさが増すと思うので、私としてはそっちの解釈をとりたい。

 ただ「奇跡」についてさらに掘り下げると、ジュープの何よりの悲劇は、(確かにあの状況では"奇跡的"とはいえ)実は科学的/動物学的に説明可能だったゴーディとの精神的なつながりを、いわゆる超常的な「奇跡」だと思い込んでしまったことなのかもしれないな…と思った。その結果、人間の考える「奇跡」観など知ったことじゃなく、科学も理屈もあったものじゃない、真に超常的な存在・Gジャンといざ遭遇してしまった時にはジュープはなすすべもない。結局はゴーディとの関係に超常的な意味合いをもたせてしまった、あの垂直に立った"靴"こそが「最悪の奇跡」ということなのか…と考えると改めてゾッとしてくる。(余談だがあの"靴"のショット、『NOPE』を見たばかりのアリ・アスターが第一声で「あの靴ヤバいね」とピール監督を褒め称えたらしく、真っ先にそこを語るあたりがマジでアリ・アスターって感じである。)

 ジュープのゴーディに対する("奇跡"によって歪められたとも言える)いびつな思いと対照的に、主人公OJの馬に対する姿勢は一貫して科学的・理性的だったことも重要だと思う。そのアプローチの違いは動物に対するリスペクトや良心の差としても現れる。結局のところジュープは"奇跡"を追い求めるあまり、ショーで馬を生贄として扱ったりと、まさに『ゴーディ 家に帰る』の製作陣と同じように、動物を利用する人間に成り果ててしまったのだから…。ジュープが真に信じるべきは超常的な"奇跡”なんかではなく、動物学的にも筋の通った、ゴーディとの精神的つながりだったのではないか…と思うとやりきれない。

 なおゴーディ関連のシークエンス、本当に今年ベスト級の鮮烈な場面であることに異論はないのだが、あまりに強烈であるがゆえに、「チンパンジー=凶暴で恐ろしい動物」という偏ったイメージを多くの観客に植え付けてしまわないだろうか…と動物好きとして懸念する部分は正直ある。それは動物倫理の問題を巧妙に作劇へ組み込んだ本作の望むところではないだろうとも思う。なので(手前味噌ながら)Twitterでも紹介したチンパンジー図解とかを見て、チンパンジー観に対するバランスを取ってもらえれば幸いだ。残酷な側面こそがその動物の「本性」だ、とは決して思ってほしくないので。

 

Gジャン(ジーン ジャケット)

 もうすでに前の2項目で散々言及してしまったが、最後にわくわく動物映画『NOPE』のラスボス動物こと「Gジャン」の話をして締めくくりたい。やはり「空飛ぶ円盤と思いきや、実は円盤そのものが人喰い巨大生物だった」という発想は素晴らしいの一言である。B級ホラー精神ここに極まれり!なアホといえばアホな発想だが、多くの人が「UFOを操っている存在は何なのか」という視点から本作を追っていたと思うので、それ自体が生物というのは予想外の不意打ちだったはずだ。チンパンジーの(実は全く本筋に関係ない)サブプロットがあまりに強烈でちょっとGジャンが割を食ってる気もしたが、Gジャン自体も「思いついた時点で勝ち」レベルの見事なアイディアと思う。

 あと人喰い巨大UFO動物を「Gジャン」と名づけるってどういうセンスなんだよと驚愕してしまうが、エメラルドが子供の時にもらうことを約束された馬の名前から取ったらしい。それはそれで適当でスゴイなとなるが、この辺の肩の力抜けた感じはまさにコメディ出身のジョーダン・ピール節かも。(9/15追記:2回目を観たら前半で馬の方の「Gジャン」にけっこうしっかり言及していたことに気づき、OJが「Gジャン」ネーミングを提案するシーンはエメラルドへの思いやりも感じて普通にグッときた。)

 Gジャンの造形に関しては、クラゲや鳥の生態を研究する科学者にも監修してもらったらしく、ぶっ飛んだ怪異でありながら、動物ファンの視点からもなかなか興味深い「生物」となっている。確かに円盤モードの時も、そこから触手がぶわっと広がる最終形態もクラゲを連想する形である。(9/15追記:2回目みて、エイの動きや形態も強く想起した。海底の小さい動物を吸い込む捕食方法や、滑らかに山の向こうへ去っていく時の動きなど。)

 また、下に巨大な開口部があってそこから地上の動物をむさぼり食う…という食性からは、たとえばオニヒトデのような水生動物の挙動を連想したりもした。

拙著『ゆかいないきもの㊙︎図鑑』より「オニヒトデ」

 そしてGジャンは空中から襲い掛かる擬態生物ならではの、自ら作り出した「雲に隠れる」という擬態能力を持つ。タコやカメレオンのように体表の外見を素早く変える能力なのかなと思うが、アワフキムシやカエルの泡のように隠れるための「雲」っぽいものを作り出す能力があったとしても若干キモくて良いなと思う。

 ただしそのニセ雲が全く動かないという、擬態としては不完全な性質のせいで、地上の人間にその正体がバレてしまうというちょっと間抜けな一面もある。これは(たとえば狩りの際に変幻自在に色と形を変えるミミックオクトパスなどに比べても)Gジャンが「雲が流動する」という地球の環境条件に十分に適応できていない結果とも言えて、Gジャンが地球に"目をつけた"のが比較的最近である証なのかも。確かに「超常的」な存在ではあるが、ラストバトルでも罠に気づかず反射的に食いついてしまうなど、知能は意外と地球の動物とそれほど大きく変わらないと考えられそう。少なくともチンパンジーや馬よりは明らかに知能レベルが低い印象を受けた。

 このGジャンの、貪欲だが知能はそれほど高くないという、生物としての「身も蓋もなさ」がけっこう重要だと思う。それによって逆に、何か高尚な目的や悪意をもつわけではなくエサを捕食したいだけという、この世界(宇宙?)に普遍的にあり続けた「搾取」の身も蓋もない構造を体現する存在としてのGジャンの、絶望的な理不尽さがいっそう増すようにも感じた。

 動物映画としての『NOPE』を語る上で重要となるもうひとりの人物は、老練なカメラマンのホルスト(マイケル・ウィンコット)である。自分が撮った動物の「決定的瞬間」ビデオを見ている姿からも、彼が動物界の捕食に強いこだわりをもつ人物であることがわかる。そのためホルストが、究極の捕食動物とも言えるGジャンの撮影を決意するという展開もなかなか面白い。OJ/エメラルドと協力して一度はGジャンの撮影に大成功したホルストだったが、Gジャンの被写体としての圧倒的な魅力に蛾のように引き寄せられて、結局は(『ジョーズ』のクイントのように)彼自身も飲み込まれてしまう。この展開は、捕食という最も根源的な「搾取」とも言える世界の構造が、いかに抗いがたい力を持っているかを示してもいると思った。

 だからこそ(繰り返しになるけど)この社会の構造に「搾取」されてきた動物の一種である馬と、マイノリティであるOJ/エメラルド/エンジェルたちが、カメラと共にGジャンに立ち向かうクライマックスは熱く輝くのだった。ここで強調したいのはこの「マイノリティ」に、実はジュープも含まれていることだ。

 『NOPE』の三大"最高の場面"を挙げるなら、ひとつめは「OJがGジャンを引きつけるため馬に乗って爆走する」場面、ふたつめは「ゴーディによる惨殺現場で、なぜか靴が垂直に立っている」場面なのだが、最後に「Gジャン最終形態vs巨大ジュープ風船」の場面を挙げたい。

 エメラルドがGジャンを撃退するためにジュープ風船を宙に打ち上げ、それが西部劇ガンマンの一騎打ちのようにGジャン最終形態と大空で対峙するという、壮大ながら絵面だけ見るとアホっぽくて笑えるシーンでもあるのだが、「いないことにされてきた者たち」が大きなテーマである本作にとって、(西部劇における黒人の復権を謳うかのような)OJと馬の爆走に匹敵するほど胸を熱くする名場面だと思う。

 チンパンジーの項目でも書いたように、ジュープは「奇跡」を信じるあまり迷走し、ゴーディとの関係を科学的な観点から見つめることもできず、挙句の果てに馬をGジャンの生贄にしたりと、動物を利用する側に回ってしまった。この時点でジュープは(OJたちと違って)本作のヒーローになる資格は失ったのだろう。最後は「奇跡」なんぞ知ったこっちゃない巨大生物Gジャンに飲み込まれて退場してしまった。

 それでも、彼もまた(ゴーディと同じように)世界の「搾取」の構造に苦しめられてきた者の1人であり、その巨大な絶望に、彼なりのやり方で抗ってきたのも確かなのだ。だからこそ、まるで自分を飲み込んだGジャンに意趣返しをするかのように、「バン!」と撃つポーズを決める巨大ジュープ風船の場面には心底グッときてしまった。

 元を正せば『ゴーディ 家に帰る』で「風船が割れた」ことが引き金になったゴーディの惨劇に、ジュープは生涯にわたって苦しめられ、執着し続けることになる。だからこそ彼の人生の物語が、ジュープ自身を模した巨大な「風船が割れた」ことで締め括られる、という結末は美しい。

 ジュープの望む「奇跡」は決して起こらなかったが、諦めずに理不尽と闘う人間が打ち上げたあの「風船が割れて」Gジャンが爆発した時、ジュープもまた世界の理不尽に一矢報いたのではないだろうか。

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 長くなったので、この辺でいったん終わります。「動物」という切り口だけでも、考えれば考えるほど色々ネタが出てくるので1万字近くになってしまった。『NOPE』は2本の全く異なる映画がねじり合わされたような、間違いなく異形の作品ではあるが、動物倫理などの社会問題も巧みに織り込んだ、とにかく高濃度なエンタメ作品が劇場で観られただけで感無量である。ありがとうジョーダン・ピール。話題作が目白押しだし映画館でいつまでやってくれるかは不明だが、もう一度くらいIMAXで見たい。(9/15追記:池袋シネマサンシャインのIMAXレーザーGTで再見。評判通り最高で、これが『NOPE』の完成形という感じがひしひししました。超埋まってたからロングランするといいなあ)

 

ジョーダン・ピール過去の監督作もぜひ。

amzn.to

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ピール出ずっぱりドラマも面白いよ。

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