沼の見える街

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動物映画として読み解く『NOPE/ノープ』

 まさかのわくわく動物ムービー! ジョーダン・ピール監督の最新作『NOPE/ノープ』、今年ベスト級に好きな映画であると同時に、ここまで動物フィーチャーな作品に仕上がっているとは…と動物クラスタとしては嬉しい驚きがあった。ピールの過去作『ゲット・アウト』『アス』と同様、ホラーの形式をとったエンタメでありながら、やはり人種差別や格差や搾取の問題が背景にある作品なんだけど、それを動物のモチーフと密接に絡めてくる手腕が今回は特に見事だった。

 『NOPE』は奇妙な感じに章が区切られている作品で、各チャプターには、「ゴースト」「ラッキー」「クローバー」「ゴーディ」そして「ジーン ジャケット(Gジャン)」というタイトルがつけられている。これらは全て本作における「動物」の名前だというのも、『NOPE』の動物フィーチャーっぷりを表している。

 まぁ実は『ゲット・アウト』の鹿(クライマックスの超展開が忘れられない)や『アス』のウサギ(ハサミと形が似ているところに目をつけたのかな)など、ピール監督は毎回必ず動物を象徴的なモチーフとして使ってきたのだが、『NOPE/ノープ』では動物たちがいよいよメインテーマとがっつり関わってきたなと感慨深いので、各章のタイトルにもなってる主に3種類(?)の「動物」について(Twitterでも散々語った考察のまとめ的な意味でも)書いていきたい。

 

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まごうことなきネタバレなので鑑賞後に読んでね。

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馬(ゴースト、ラッキー、クローバー他)

 馬は地球で最も「映画的」な動物と言えるかもしれない。そのスクリーン映えする体躯と、大地を疾走する運動能力、そして人間との信頼関係の築きやすさによって、馬は西部劇を筆頭に何度もスクリーンの上に登場してきた。本作の主人公OJ(ダニエル・カルーヤ)は、そんな映画界に馬を適切に扱ってもらうための調教師である。

 もっと言えば、馬は映画の歴史の「原点」のような動物でもある。というのも、OJの妹・エメラルド(キキ・パーマー)が「史上初の映画」として説明するように、写真家エドワード・マイブリッジが1870〜80年代に「運動の研究」として記録した、「走る馬」の連続写真こそ、映画の最も原初的な形だったと考えられるからだ。

 しかし、記録した写真家の名前と違い、写真の馬に乗っている騎手については今も全く謎のままであり、名前も残っていない。(この騎手がなんと私たちの先祖なんだよ!と語るエメラルドの言葉は当然っちゃ当然だが本作のフィクション要素である。)連続写真の黒人騎手は、確かに画面に写っている「見られる」存在ではあったが、主体性をもつ人物として、彼自身の名前や人生が記憶されることはなかった。そんな黒人騎手の姿に象徴される、映画界/エンタメ業界において「いないこと」にされてきた者たちの姿に再び光を当てることは、本作の大きなテーマとなっている。

 そして馬も、エンタメ界にとって重宝する動物であることは確かだが、結局のところ人間に都合よく利用されてきた動物にすぎないとも言える。そのことは何より、序盤のCM撮影現場で、OJの忠告を無視して勝手な都合で馬(ラッキー)を振り回そうとする人間たちの姿によく現れている。馬にとっては人間の撮影スケジュールなど知ったことではないのだが、人間もそんな馬の都合に気を配りもしない。万が一無理をさせて、馬が人間を傷つけた場合、馬は(まさに後述するゴーディのように)殺されてしまうかもしれないというのに…。

 ラッキーが取り乱してしまうきっかけとなったアイテムが、人間と馬の間にある「見る/見られる」支配関係を象徴する「鏡」であることも象徴的だ。近年の優れたホラー映画『透明人間』(2020)などと同じく、この「見る/見られる」の一方的な関係が、この世界に厳然として存在する「搾取」の構造の根源であるという問題意識こそが、本作を読み解く上で最も重要なポイントだと思う。

 そんな馬たちが、UFOめいた謎の超常存在(と見せかけて実は捕食動物であると判明した)「Gジャン」に吸い込まれる最初の犠牲者となってしまうのも意味深い。Gジャンは、まるで「搾取」という概念をものすごい物理的に体現したような存在だ。マジで文字通りそのまんまなのでちょっと笑ってしまうのだが…。最悪のルンバかよ。

 さらにGジャンは「見る/見られる」関係における「見る」を象徴する存在でもある。 映画冒頭で、馬が走る連続写真が映し出されるのだが、実はそれを見ていたのはGジャンの「目」だったことが振り返ってわかる作りになっている。つまりGジャンは馬と「目があった=見た」ことで馬を捕食したというわけだ。

 馬がGジャンに飲み込まれるショッキングな光景を目にした(動物の習性に詳しい)OJは、Gジャンと「目を合わせない」ことで脅威をやり過ごそうとする。直接的な言及はないが、ここにOJたちが黒人として日常的に肌で感じている抑圧を読み取ることもできると思う。例えば(BlackLivesMatterで可視化された)警察暴力などの権力からの攻撃を、マイノリティの人々が「目を合わせない=権力に歯向かったり糾弾したりしない」ことでやり過ごしてきた姿勢も連想して、辛い気持ちになった。

 「地球で最も映画的な動物」ではあるが、同時に「エンタメ界で最も利用されてきた動物」とも言える馬たち。そして映画の原初から実は「ずっといた」にもかかわらず、ふさわしい敬意を払われることもなく、マジョリティが作る歴史の影に埋もれてきた黒人たちとその子孫。馬たちとOJ/エメラルド兄妹には、馬と人という種こそ違えど、どこか重なる部分も多い。

 だからこそ、「搾取」と「見る/見られるの支配」を体現するような、絶望的なほど強大な超常生物「Gジャン」に、馬とOJ/エメラルドが覚悟を決めて立ち向かう最終局面が非常に熱い。特にOJとラッキーがまさしく「人馬一体」となって、Gジャンを引きつけるために疾走する瞬間は、超常ホラーであった『NOPE』がまるでジャンルを薙ぎ倒すように「西部劇」へと変貌するような面白さがある。BGM(サントラの"The Run")もクラシックかつストレートにカッコよくて血がたぎる。動物映画としての本作のクライマックスにふさわしい名場面だった。

 余談だが、ちょうど『ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪』や『ハウス・オブ・ドラゴン』といった有名ファンタジー原作の現代ドラマで、多様性を志したキャストについて人種差別的な非難が沸き起こっている現状を考えても、「フィクションで"いない"ことにされてきた者たちの復権」を高らかに謳うような『NOPE』のクライマックスは、なおのことパワフルに感じられた。

 

チンパンジー(ゴーディ)

 そして、なんといっても本作の白眉はチンパンジーである。主要キャラのひとり・ジュープ(スティーブン・ユァン)が幼い頃に体験した超ド級のトラウマ事件に登場するチンパンジー、その名もゴーディ。実は本作の大筋とは驚くほど関係が薄いのだが、あまりにインパクトが強いため多くの人が"薄い"とは感じなさそうなのも凄い。ゴーディは動物ホラーとしての『NOPE』におけるMVPとも言えるキャラクターだった。

 本作の冒頭は、とあるホームコメディ調の会話の音声から幕を開ける。(制作の「モンキーパウ・プロダクションズ」の不気味なロゴアニメの出方が絶妙すぎるっていう…。)最初は和やかだった音声が、ある瞬間をきっかけに混乱と叫び声に変わり、「何かとんでもないことが起こった」と観客に予感させる。画面がパッと映ると、そこには倒れた人間と、口と手が血まみれになったチンパンジーの姿が…。どうやらドラマの撮影中に、チンパンジーがとんでもない事故を起こしてしまった…という戦慄の事態が明らかになる。

 そのドラマとは、ゴーディに"かわいいチンパンジー"の役を演じさせたホームコメディ『ゴーディ 家に帰る』。動物倫理や動物福祉の考え方がまだ進んでいなかった時代にいかにもありそうな劇中劇ドラマと言える。チンパンジーに対する動物学的な理解が不十分なまま、人間に都合のよい「かわいくて面白おかしい、ちょっとバカな存在」としてエンタメ業界はチンパンジー(含む動物たち)を利用してきたのだ。

(↑9/10追記:ジョーダン・ピール監督がアップした『ゴーディ 家に帰る』の架空の予告編。どんなドラマだったか雰囲気が掴めて良い。ノイズが不穏すぎる)

 現実にはチンパンジーはとても複雑な内面をもった動物で、心優しい一面を見せてくれることもあれば、暴力で敵を抹殺することもあり、接する際は人間の方も細心の注意を払わないといけないのだが、視聴者にウケればいいエンタメ界ではそんなことはお構いなし。『ゴーディ 家に帰る』の製作陣と出演者たちは、そのツケを最悪の形で支払うことになったわけだ。

 とはいえ本作のゴーディ事件を、日本でも「外国の話」では片づけられない。日本でもTV番組「志村どうぶつ園」でのチンパンジーの扱われ方に問題が多いのではないか…という専門家からの指摘があった(『志村どうぶつ園』VTRでパンくんは「恐怖に震えて…」霊長類学者が警告! | 週刊女性PRIME)らしいし、実際に女性を襲撃するという痛ましい事故も起きた。本来は飼育に適さない野生動物を、かわいいからといって無理やり飼ってみたり、「ふれあい」の美名のもとにストレスを与え続けたり、生きたアートなどと称して劣悪な飼育設備に閉じ込めたり、そんな話は身近でも事欠かない…。

 アメリカでも日本でも共通するのは、人間が動物を自分の都合で勝手な枠組みに押し込めて「消費」しようとする態度である。その「枠」は物理的な意味でもそうだし、その感情を勝手に決めつけることも「枠に押し込める」姿勢のひとつだ。身近な例では動物番組で「ボクは○○なんでちゅ!」的な幼稚なアテレコを動物の行動に被せてみたりとか、人間が動物を見下しつつその"心"を勝手に決めつけるという傲慢な構図は、さまざまな場所で目に入る(まぁ私の本も動物をしょっちゅう擬人化してるので広義ではそこに含まれそうだが…)。ゆえに『NOPE』のゴーディの場面で、そうした構図が最も恐ろしい形で破壊されるという展開は、戦慄すると同時にどこか痛快でもあった。

 本作のチンパンジーは、人間社会における差別や搾取や消費の構造と重ね合わせたメタファーとして見ることもできる。アジア系であるジュープだけが、奇跡的にゴーディに襲われることなく生き残ったという事件の顛末に関しては、その観点からも解釈が可能だ。チンパンジー含む「猿」が、黄色人種を嘲るワードとして使われがちだった…という差別の歴史背景を考えると、ジュープとゴーディの関係性に特別な意味合いが与えられることには必然性もある(アジア系とチンパンジーをそのように括ること自体が人種差別的ではないか、という指摘もありうるかなと思うけど)。

 解釈は分かれるだろうが、アメリカの白人社会の中でアジア系の子役として肩身の狭い思いをしてきたジュープは、とりわけゴーディに親しみと愛着を感じていて、それをゴーディの方も感じ取っていた、つまりジュープとゴーディの間には本当に種を超えた「つながり」があったんじゃないか、と個人的には想像してる。ジュープとゴーディが拳を突き合わせそうになる場面も(劇中ではポスターで提示されるのみだが、ドラマ内でお約束的に行っていたアクション)単なる条件反射やゴーディの気まぐれではなく、ド修羅場の中にあっても"2人"の結びつきが消えなかった証拠ではないか…と思いたい。

 一方で「ジュープが襲われなかったのは単にテーブルクロスがゴーディの恐怖を和らげたからに過ぎず、別に心が通い合ったわけではないのだが、それをジュープが"奇跡"だと勘違いしてしまった…」というわりとドライな解釈も見かけた。先述のように「見る/見られる」関係がめちゃ重要な概念である本作の見方としては、それはそれでなるほどな〜と思った。

 ただ、拙著『ゆかいないきもの超図鑑』でも語ったように(https://twitter.com/numagasa/status/1567710146754916352?s=20&t=urCetcBwVq67IyithmcOaQ)、チンパンジーには暴力性と鏡合わせとも言える繊細な共感能力がある。出演者の中でも自分と同じくらいの体格であるジュープに対してだけは、実際に親しみを覚えていて、パニック&怒りの状態にあっても彼のことを傷つけようとはしなかった、と考えることは動物学的にも十分に現実的だと思う。

 ゴーディが暴走する瞬間もけっこう考えられていて、意味もなく暴れ出したとかではなく、風船が「パン!」と割れる銃声のような音がパニックを引き起こしたという経緯も描かれており、多分それまでにゴーディが受けていた抑圧やストレスの限界容量に達してしまったんじゃないか…と。破裂音に過剰反応したのは、もしかすると自然界で捕獲される時に親を銃殺されたとか、そういうトラウマ的な背景もあったりするのかなと空想したりもした(最悪だけど類人猿の密猟ではよくあることなので…)。

 ジュープとゴーディの関係は様々な解釈が可能だが、何もかもが欺瞞と偽善だらけのエンタメ業界で、それでもジュープとゴーディの間には真のつながりが存在した、それなのに……と考えた方があのシーンの残酷さと美しさが増すと思うので、私としてはそっちの解釈をとりたい。

 ただ「奇跡」についてさらに掘り下げると、ジュープの何よりの悲劇は、(確かにあの状況では"奇跡的"とはいえ)実は科学的/動物学的に説明可能だったゴーディとの精神的なつながりを、いわゆる超常的な「奇跡」だと思い込んでしまったことなのかもしれないな…と思った。その結果、人間の考える「奇跡」観など知ったことじゃなく、科学も理屈もあったものじゃない、真に超常的な存在・Gジャンといざ遭遇してしまった時にはジュープはなすすべもない。結局はゴーディとの関係に超常的な意味合いをもたせてしまった、あの垂直に立った"靴"こそが「最悪の奇跡」ということなのか…と考えると改めてゾッとしてくる。(余談だがあの"靴"のショット、『NOPE』を見たばかりのアリ・アスターが第一声で「あの靴ヤバいね」とピール監督を褒め称えたらしく、真っ先にそこを語るあたりがマジでアリ・アスターって感じである。)

 ジュープのゴーディに対する("奇跡"によって歪められたとも言える)いびつな思いと対照的に、主人公OJの馬に対する姿勢は一貫して科学的・理性的だったことも重要だと思う。そのアプローチの違いは動物に対するリスペクトや良心の差としても現れる。結局のところジュープは"奇跡"を追い求めるあまり、ショーで馬を生贄として扱ったりと、まさに『ゴーディ 家に帰る』の製作陣と同じように、動物を利用する人間に成り果ててしまったのだから…。ジュープが真に信じるべきは超常的な"奇跡”なんかではなく、動物学的にも筋の通った、ゴーディとの精神的つながりだったのではないか…と思うとやりきれない。

 なおゴーディ関連のシークエンス、本当に今年ベスト級の鮮烈な場面であることに異論はないのだが、あまりに強烈であるがゆえに、「チンパンジー=凶暴で恐ろしい動物」という偏ったイメージを多くの観客に植え付けてしまわないだろうか…と動物好きとして懸念する部分は正直ある。それは動物倫理の問題を巧妙に作劇へ組み込んだ本作の望むところではないだろうとも思う。なので(手前味噌ながら)Twitterでも紹介したチンパンジー図解とかを見て、チンパンジー観に対するバランスを取ってもらえれば幸いだ。残酷な側面こそがその動物の「本性」だ、とは決して思ってほしくないので。

 

Gジャン(ジーン ジャケット)

 もうすでに前の2項目で散々言及してしまったが、最後にわくわく動物映画『NOPE』のラスボス動物こと「Gジャン」の話をして締めくくりたい。やはり「空飛ぶ円盤と思いきや、実は円盤そのものが人喰い巨大生物だった」という発想は素晴らしいの一言である。B級ホラー精神ここに極まれり!なアホといえばアホな発想だが、多くの人が「UFOを操っている存在は何なのか」という視点から本作を追っていたと思うので、それ自体が生物というのは予想外の不意打ちだったはずだ。チンパンジーの(実は全く本筋に関係ない)サブプロットがあまりに強烈でちょっとGジャンが割を食ってる気もしたが、Gジャン自体も「思いついた時点で勝ち」レベルの見事なアイディアと思う。

 あと人喰い巨大UFO動物を「Gジャン」と名づけるってどういうセンスなんだよと驚愕してしまうが、エメラルドが子供の時にもらうことを約束された馬の名前から取ったらしい。それはそれで適当でスゴイなとなるが、この辺の肩の力抜けた感じはまさにコメディ出身のジョーダン・ピール節かも。(9/15追記:2回目を観たら前半で馬の方の「Gジャン」にけっこうしっかり言及していたことに気づき、OJが「Gジャン」ネーミングを提案するシーンはエメラルドへの思いやりも感じて普通にグッときた。)

 Gジャンの造形に関しては、クラゲや鳥の生態を研究する科学者にも監修してもらったらしく、ぶっ飛んだ怪異でありながら、動物ファンの視点からもなかなか興味深い「生物」となっている。確かに円盤モードの時も、そこから触手がぶわっと広がる最終形態もクラゲを連想する形である。(9/15追記:2回目みて、エイの動きや形態も強く想起した。海底の小さい動物を吸い込む捕食方法や、滑らかに山の向こうへ去っていく時の動きなど。)

 また、下に巨大な開口部があってそこから地上の動物をむさぼり食う…という食性からは、たとえばオニヒトデのような水生動物の挙動を連想したりもした。

拙著『ゆかいないきもの㊙︎図鑑』より「オニヒトデ」

 そしてGジャンは空中から襲い掛かる擬態生物ならではの、自ら作り出した「雲に隠れる」という擬態能力を持つ。タコやカメレオンのように体表の外見を素早く変える能力なのかなと思うが、アワフキムシやカエルの泡のように隠れるための「雲」っぽいものを作り出す能力があったとしても若干キモくて良いなと思う。

 ただしそのニセ雲が全く動かないという、擬態としては不完全な性質のせいで、地上の人間にその正体がバレてしまうというちょっと間抜けな一面もある。これは(たとえば狩りの際に変幻自在に色と形を変えるミミックオクトパスなどに比べても)Gジャンが「雲が流動する」という地球の環境条件に十分に適応できていない結果とも言えて、Gジャンが地球に"目をつけた"のが比較的最近である証なのかも。確かに「超常的」な存在ではあるが、ラストバトルでも罠に気づかず反射的に食いついてしまうなど、知能は意外と地球の動物とそれほど大きく変わらないと考えられそう。少なくともチンパンジーや馬よりは明らかに知能レベルが低い印象を受けた。

 このGジャンの、貪欲だが知能はそれほど高くないという、生物としての「身も蓋もなさ」がけっこう重要だと思う。それによって逆に、何か高尚な目的や悪意をもつわけではなくエサを捕食したいだけという、この世界(宇宙?)に普遍的にあり続けた「搾取」の身も蓋もない構造を体現する存在としてのGジャンの、絶望的な理不尽さがいっそう増すようにも感じた。

 動物映画としての『NOPE』を語る上で重要となるもうひとりの人物は、老練なカメラマンのホルスト(マイケル・ウィンコット)である。自分が撮った動物の「決定的瞬間」ビデオを見ている姿からも、彼が動物界の捕食に強いこだわりをもつ人物であることがわかる。そのためホルストが、究極の捕食動物とも言えるGジャンの撮影を決意するという展開もなかなか面白い。OJ/エメラルドと協力して一度はGジャンの撮影に大成功したホルストだったが、Gジャンの被写体としての圧倒的な魅力に蛾のように引き寄せられて、結局は(『ジョーズ』のクイントのように)彼自身も飲み込まれてしまう。この展開は、捕食という最も根源的な「搾取」とも言える世界の構造が、いかに抗いがたい力を持っているかを示してもいると思った。

 だからこそ(繰り返しになるけど)この社会の構造に「搾取」されてきた動物の一種である馬と、マイノリティであるOJ/エメラルド/エンジェルたちが、カメラと共にGジャンに立ち向かうクライマックスは熱く輝くのだった。ここで強調したいのはこの「マイノリティ」に、実はジュープも含まれていることだ。

 『NOPE』の三大"最高の場面"を挙げるなら、ひとつめは「OJがGジャンを引きつけるため馬に乗って爆走する」場面、ふたつめは「ゴーディによる惨殺現場で、なぜか靴が垂直に立っている」場面なのだが、最後に「Gジャン最終形態vs巨大ジュープ風船」の場面を挙げたい。

 エメラルドがGジャンを撃退するためにジュープ風船を宙に打ち上げ、それが西部劇ガンマンの一騎打ちのようにGジャン最終形態と大空で対峙するという、壮大ながら絵面だけ見るとアホっぽくて笑えるシーンでもあるのだが、「いないことにされてきた者たち」が大きなテーマである本作にとって、(西部劇における黒人の復権を謳うかのような)OJと馬の爆走に匹敵するほど胸を熱くする名場面だと思う。

 チンパンジーの項目でも書いたように、ジュープは「奇跡」を信じるあまり迷走し、ゴーディとの関係を科学的な観点から見つめることもできず、挙句の果てに馬をGジャンの生贄にしたりと、動物を利用する側に回ってしまった。この時点でジュープは(OJたちと違って)本作のヒーローになる資格は失ったのだろう。最後は「奇跡」なんぞ知ったこっちゃない巨大生物Gジャンに飲み込まれて退場してしまった。

 それでも、彼もまた(ゴーディと同じように)世界の「搾取」の構造に苦しめられてきた者の1人であり、その巨大な絶望に、彼なりのやり方で抗ってきたのも確かなのだ。だからこそ、まるで自分を飲み込んだGジャンに意趣返しをするかのように、「バン!」と撃つポーズを決める巨大ジュープ風船の場面には心底グッときてしまった。

 元を正せば『ゴーディ 家に帰る』で「風船が割れた」ことが引き金になったゴーディの惨劇に、ジュープは生涯にわたって苦しめられ、執着し続けることになる。だからこそ彼の人生の物語が、ジュープ自身を模した巨大な「風船が割れた」ことで締め括られる、という結末は美しい。

 ジュープの望む「奇跡」は決して起こらなかったが、諦めずに理不尽と闘う人間が打ち上げたあの「風船が割れて」Gジャンが爆発した時、ジュープもまた世界の理不尽に一矢報いたのではないだろうか。

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 長くなったので、この辺でいったん終わります。「動物」という切り口だけでも、考えれば考えるほど色々ネタが出てくるので1万字近くになってしまった。『NOPE』は2本の全く異なる映画がねじり合わされたような、間違いなく異形の作品ではあるが、動物倫理などの社会問題も巧みに織り込んだ、とにかく高濃度なエンタメ作品が劇場で観られただけで感無量である。ありがとうジョーダン・ピール。話題作が目白押しだし映画館でいつまでやってくれるかは不明だが、もう一度くらいIMAXで見たい。(9/15追記:池袋シネマサンシャインのIMAXレーザーGTで再見。評判通り最高で、これが『NOPE』の完成形という感じがひしひししました。超埋まってたからロングランするといいなあ)

 

ジョーダン・ピール過去の監督作もぜひ。

amzn.to

amzn.to

ピール出ずっぱりドラマも面白いよ。

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