沼の見える街

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地球最強の映画がここにRRR。『RRR』感想&レビュー

 最強の映画とはなんだろうか。桁外れに強い人間や動物が暴れまわる映画。有無を言わせぬ物語の面白さで引っ張っていく映画。画作りやアクションやダンスが圧倒的に美しい映画。人が互いに抱く激情を正面から描ききる映画。起こる事態がヤバすぎて笑うしかないけどなぜか感動してしまう映画。社会の不平等・不正義を告発するような怒りに満ちた映画。いずれも文句なしに「強い」映画といえるだろう。だがそのすべてを兼ね備えた映画があるとすれば、それは「最強の映画」と呼ばざるをえないのではないか。この2022年、「最強」の称号にふさわしい映画を1本あげるなら、インド映画『RRR(アールアールアール)』で決まりだ。

 というわけで大好きな『バーフバリ』シリーズを手掛けたS.S.ラージャマウリ監督の待望の最新作『RRR』がついに上映されたので感想を書き記しておく。『バーフバリ』ファンは放っといても観に行くと思うが、年1〜2本しか映画観ないようなカジュアルな映画ファンも、ぶっちゃけ今年は全員これ観とけば良いと思う。ここまで純粋にエンタメとしての「力」で正面突破してくる作品って世界レベルでも凄く珍しいし、一気に映画を5本観たかのような満足感がある"全部盛り"映画だと約束できる。(なんといっても上映時間が3時間あるので、そこだけ注意だが…)

 『RRR』は"予習"を一切しなくても楽しめる映画だが、もし『バーフバリ』シリーズを未見であればぜひ観ておこう(同じ監督で同じインド舞台だから当然かもだが、そこはかとなく世界観が繋がってるので)。

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昔々RRRところに…。『RRR』ざっくりあらすじ

 つい昔々とか言ってしまったが、いにしえのインドの王国が舞台の『バーフバリ』から一転し、『RRR』の舞台は1920年の英国植民地時代のインドと、グッと近現代に迫る。主人公は2人の男だ。英国軍にさらわれた少女を救うために立ち上がった、大自然とともに生きるパワフルな男・ビーム(NTR Jr.)。そして英国支配体制のもとでインド市民を弾圧する獰猛な警察官でありながら、実はとある"大義"を内に秘めたラーマ(ラーム・チャラン)。激情を秘めた2人の男が出会い、熱すぎる関係を築いていくが、互いの素性を知らぬ2人を待ち受けるのは、インド社会の行く末を変えるような壮大な"宿命"だった…。

 さっそく『RRR』がいかに凄まじい最強の映画かを具体的に語りたいところだが、いちいち凄かった最強シーンを語っていくと切りがないし50万字のブログを書く羽目になるので、ほんの序盤も序盤、まだタイトルすら出ていない序盤の凄さを重点的に語っていきたい。だがしょっぱなから本当にフルスロットルなので、本作の「強さ」を象徴的に語るためには十分と言えるだろう。「今のはメラゾーマではない…メラだ」ならぬ「今のはRRRではない…アだ(Rですらない)」という末恐ろしさを感じてほしい。

 

ーーー注意ーーー

以下、主に序盤のネタバレがあります!

ーーー注意ーーー

 

・あんまりにもほどがRRR!開幕早々の惨劇 

 南インドの森で暮らす少数民族ゴーンド族のもとを訪れた、英国領インド帝国総督とその妻は、ヘナアート(歌いながら装飾を施すインドの伝統芸能)が得意な少女マッリを気に入り、彼女の母親にコインを投げ与える。白人どもの差別的な態度に辟易しながらも、母親はコインを受け取る…。だが総督たちは、マッリをむりやり連れて行ってしまう! そのコインは「歌(ヘナアート)へのお礼」ではなく、なんと「娘そのものの代金」だったのだ!

 悪逆非道はこれで終わらない。必死に追いすがる母親を無情にも撃とうとする護衛に対して、「わざわざ英国から運んできた銃弾がもったいないだろ」と総督が冷酷に告げたかと思えば、母親は太い棒きれで無残に殴り倒されるのだった…。開始数分で繰り広げられる惨劇に愕然とすると同時に、本作における「悪とは何か」を最初にバンと提示するための、的確かつ象徴的な描写としても完璧で唸ってしまう。『RRR』で主人公が立ち向かう「悪」は、人種差別と植民地主義に裏打ちされた、平気で弱者を踏みにじる精神そのものなのだ。

 監督の前作『バーフバリ 王の凱旋』のセクハラ裁判で「切るべきは指ではない……首だ!!」という強烈なシーンがあったが、本作の「そのコインは歌へのお礼じゃない!娘の代金だ!!」というセリフも、得意の「〇〇じゃない、〇〇だ」構文のダークな活用といえる。「報酬がたったコイン数枚かよ、てか投げてんじゃねーよ、現地民を見下しやがって…」→「まぁ一応受け取っとくけど…」→「実は娘の代金だった!」というように、情報を的確な順番で激しい緩急をつけて乱れ打ちにすることで、観客の想定を上回り続けるという、ラージャマウリ監督の「情報パンチ力」とでも呼ぶべき天賦の才がいきなり炸裂する冒頭だ。ド派手なケレン味だけでなく、観客の思考を周到に想像し、それを上回っていく知的パワーこそが『RRR』を"最強の映画"にしているのだ。

・主人公にRRRまじき恐ろしさ! 度を越した「1人vs千人」バトル

 冒頭のショック冷めやらぬ中、舞台はデリー郊外の警察署へと移動する。数千人はいそうな大勢のインド人群衆が、反英活動家の釈放を求めて警察署を取り囲んでいるのだ。そこに登場するのが『RRR』のもう1人の主人公・ラーマ。インド人でありながら、英国の警察官として市民を弾圧するラーマは、裏切り者として同胞から憎まれている。だがそんな憎しみを物ともせず、群衆のリーダーに狙いを定めたラーマは、大勢の人間たちと執念の「1人vs千人」バトルを繰り広げる。

 1人の猛者がモブ敵をガンガンぶっ飛ばしていくような、いわゆる「無双」的な強さ表現としての「1vs大勢」バトルはフィクションでよく目にするのだが、このラーマの群衆バトルは、そうした先例とは一線を画するインパクトをもたらす。一言でいえば非常に泥臭く、リアルなのである。凄いエネルギー波で全員ふっとばすとか覇気で全滅させるとかではなく、あくまで一人ずつ殴り倒し、組み伏せていくという地道な暴力で(地道な暴力?)大量の人間をボコボコにしていく。だがそれが逆にラーマというキャラクターの破格の強さに、手触りのある実体を与えているのだ。

 一人の標的のみを鋭く見据え、大量の人間を殴り倒し続け、ついには目標を完遂するラーマの姿のインパクトは凄まじい。その異常な執念は「主人公」というより、まるで『バーフバリ』のラスボス・バラーラデーヴァのような危険なオーラに満ちている。そしてこれほどの孤軍奮闘を見せてなお、人種差別の根深い英国の支配体制下では(ドン引かれはしても)全く評価されない…というラーマの悔しさも重く響く。立場も境遇もまるで違うはずの、差別に踏みにじられたゴーンド族の人々の無念に共鳴するかのように…。

・爆走!猛虎チェイス(RRRいは"わくわく動物映画"としての『RRR』)

 ラーマがあれほどのインパクトをもたらしてしまえば、もう1人の主人公ビームの存在が霞んでしまうのではないだろうか?  そんな我々モブ観客の心配を"最強の映画"は一撃で粉砕する。少女を奪われたゴーンド族の男ビームは、なぜか森の中を爆走していた! ビームを追うのは恐ろしげなオオカミ…かと思えば、オオカミは突如現れた巨大な獣に打ち倒されてしまう。ベンガルトラだ! 追跡者をオオカミからトラに一瞬でスイッチした森の爆走チェイスは、ビームvsトラの「人類最強vs動物最強」の一騎打ちへとなだれ込んでいく。ラーマの砂埃舞う凄まじい「1vs千」のお目見えとは180度異なる、大自然の中での「1vs1」ガチバトルによって、ビームという「もう1人の最強」の堂々たるお目見えが完了するのだ。

 インドにおいて、トラは特別な動物だ。インド一帯は野生のトラが生息する、地球でも稀有な地域である(現在は数千頭ほど生息)。「チャンパーワットの人食いトラ」のように、背筋を凍らせる恐ろしさと、古の神話のようなロマンを漂わせ、今に残り続けている伝説もある。インドの伝説的な猛虎の恐怖とロマンを語る本『史上最恐の人喰い虎 436人を殺害したベンガルトラと伝説のハンター』はオススメ本だ。

 開幕早々の猛虎バトルは、"わくわく動物映画"としての『RRR』の幕開けを告げる雄叫びでもある。思い返せば『バーフバリ』シリーズにも数多くの動物が登場する、"わくわく動物映画"としての魅力があった。数年前、有志と一緒に出した同人誌「ジャイホー通信」に描き下ろした『バーフバリ』動物イラストを、この機会に特別公開するのでチェックしてほしい。ゾウ、牛、イノシシ、ヘビなど、大自然の広がる古代インドにふさわしく、様々な動物が『バーフバリ』世界を彩っていたことがわかるはずだ。

『バーフバリ』を象徴する「最強の動物」がゾウだったとすれば、本作『RRR』の「最強の動物」ポジションは間違いなくトラだ。バーフバリは暴れるゾウを殺すのでなく、なだめることで「王」としての真の強さを証明していた。同様に『RRR』の主人公であるビームが、死闘の末に眠らせたトラに「人間の都合で捕まえて申し訳ない」と丁寧に謝る姿からは、彼の動物への敬意と優しさを感じ取れる。インドの獰猛にして優美な大自然を象徴する動物でもあるトラへのビームの眼差しは、自然とともに生きる土地の人々を踏みにじる本作の「悪」とまさに正反対だ。ビームの桁違いの強さを爆走エンタメの中で表現するとともに、本作における「善」とは何か、ヒーローの資格とは何かを表す場面でもあった。

 こうした積み重ねがあるからこそ、前半のクライマックスで、インド総督の公邸で繰り広げられる「わくわく動物大フィーバー」が、本作を真に象徴するような熱く輝く名場面となっているのだ。マジで開いた口が塞がらないようなブッ飛んだ絵面なので(予告編ですでに見た人もいるだろうが)ネタバレは控える。大画面で目撃してブチ上がってほしい。

『RRR』にとって動物が重要なことは、作り手の証言からも伺える。以下のインタビュー記事で、ラージャマウリ監督は次のように語っている。

"私はドキュメンタリーを見るのが好きなんですが、特にディスカバリーチャンネル、ナショナル・ジオグラフィックといった野生動物が出てくる作品が大好きなんです。獲物を狙っている、もしくは追手から逃げようとする。動物たちの伸縮性……特に“伸びる方”です、彼らは限界まで延びる。その際には、何かしらの強い感情が伴っています。このイメージを組み込めたらどうだろうかと考えるんです。"

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 監督が動物ドキュメンタリーを大好きで、動物のダイナミックな身体の「伸縮性」に着目していたというのは面白い証言だ。鋼のような硬質さとバネのような柔軟性を兼ね備えた、ビームとラーマの強靭な肉体の映し方には、たしかにドキュメンタリーの精密映像で鮮やかに捉えられた獣たちの肢体を連想する美がある。

 さらに、こちらのラジオのインタビューで、ラージャマウリ監督は「動物が好きだから、フィクションの中でもできれば傷つけたくない」という旨のことを語っていた。おじさんがトラをファイアパンチ(物理)したりもする『RRR』が動物倫理的に100点の映画かどうかは議論の余地もありそうだが、動物を尊重する姿勢はたしかに伝わってくる。

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 動物好きとして『RRR』に感心した地味なポイントは、動物があくまで野生の自主性をもつ動物として描かれていて、たとえ主人公サイドに助力するようなシーンであっても、「人間の都合」で動いてる感じがしないこと。先述のわくわく動物大フィーバーの場面でも、いきなり動物たちが敵に襲いかかるのではなく、ビームが炎を使って荒れ狂う動物を誘導している描写を挟んでいる。地味な描写だが、これがあるかないかで「動物が人間の都合で動かされてる感」が格段に減り、動物たちの獰猛な生命力が輝きを増す。どんなにブッ飛んだ場面であっても、こうした細かい配慮を欠かさない姿勢こそ、ラージャマウリ監督が一流たるゆえんだ。

 わくわく動物大フィーバーの場面以外にも、例えばヘビなど(大義のためとはいえ、インドの民を虐げてきたラーマが、民と動物から恐るべき「逆襲」を受けることになる点で面白い)、色々な動物が意味ありげに登場するので、注目しておくとさらに『RRR』世界を深く楽しめるだろう。

 そんな『RRR』だが、「イギリスの支配下にある国で、自然とともに生きてきた弱者(と自然を象徴する動物)が、権力の弾圧に反旗を翻す歴史改変IF的なフィクション」という意味で、私の最も好きなアニメ映画『ウルフウォーカー』とも実は共通点が多いなと思った。女の子がオオカミに変身する『ウルフウォーカー』、おじさんがトラにパンチする『RRR』と両作に多少の(?)違いはあるが、そのスピリットは通じる部分が大きい。映画好き/動物好きは両方あわせてチェックしてほしい。cinema.ne.jp

・出会いはRRR日、突然に。すべてが過剰だが一切のムダがない「人命救助」

 メインディッシュ10品で構成されたフルコースのような『RRR』から、最強の場面をひとつに絞ることは難しい。だが本作の凄さを端的に象徴する場面をひとつだけ選ぶなら、いよいよ「RRR」のタイトルが出る直前、2人の最強の男が満を持して(いやまだタイトルすら出てないのだが)巡り合うきっかけとなる「人命救助」シーンを挙げたいと思う。

 ラーマとビームは偶然にも、デリーの街で列車が爆発事故を起こし、少年が絶体絶命の危機に陥っている状況に遭遇する。まだ互いの素性すら知らない2人だが、ものすごい長距離から阿吽の呼吸でアイコンタクトを行い、観客が誰一人イメージできてなさそうな驚異のレスキュー作戦を決行する。その作戦とは、ラーマが馬で、ビームがバイクで疾走し、互いが紐で結ばれていて、ラーマが旗を掴んで…サーカスの空中ブランコみたいに…えーと…

…日本公式が該当シーンを公開しているので観てもらったほうが早いだろう。

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 わずか1分弱のシーンにもかかわらず、脳がパンクしそうになるほど全ての要素が過剰であり、それでいてアクション自体は極めてロジカルで一切の無駄が削ぎ落とされている。おかしい/おかしくないで言えば明らかにおかしいはずだが、本当にカッコいいとしか言いようがない。その意味で、まさに『RRR』全体を象徴する名シーンと言える。この場面の直後に満を持して「RRR」のタイトルがドーンと出るのも「ここしかない」というタイミングである。

 すべてが過剰に凄い場面だが、あえてひとつ注目するなら「旗」の使い方だ。(ちなみにこの旗は現在のインド国旗ではなく、最初期の民族旗に似せたデザインで、8つの花と太陽・月・星、「母なるインド万歳」と書いてある。)旗をひらめかせながら馬で疾走するラーマの姿に民族的な英雄性を付与すると同時に、ラーマが"振り子運動"の途中でその旗に川の水を染み込ませ、ビームの抱きとめた子どもと交換するように投げ渡し、ビームが炎から物理的に身を守るための防御壁とし、炎を生き延びて現れるビームの英雄性も再び強調する…という、この短時間に「旗」というワンアイテムを何回活用するんだよと突っ込みたくなるほどの技巧に舌を巻く。思わず笑ってしまう過剰なパワーに満ちたこの場面が、旗ひとつに着目しても、極めてロジカルな知性と計算によって構成されていることに気づくだろう。

 「救助」前の時点では、特にラーマはほとんどラスボスみたいな登場シーンだったこともあり、この2人の男をどんな目で見たらいいか、まだ観客は決めかねていたはずだ。しかし「子どもの命を助ける」という"絶対的な善"に2人が力を合わせるシークエンスによって、全く立場も思想も違えど、この2人はどちらも紛れもなく本作のヒーローなのだ!と力技で観客の心に叩き込むことに成功している。こうした正拳突きのようにストレートな"善"としての人命救助の描き方は、すべてのヒーロー作品が学ぶべきではないだろうか。

 そんなわけで「1人vs千人バトル」「猛虎チェイス」「ダイナミック救出劇」などのシーンの凄さを語ってきたが、もはやこんな凄い名場面が3つもあったら普通その時点で大傑作認定されるだろと思ってしまう。しかしこれらがまだ「タイトルが出る前の掴み」にすぎないというのが、本作の真に恐るべきところなのだ…。まったくもって大変な映画である。

 

・ぶちかませ! 最強ぶちあげミュージカRRR!

 凄いシーンを列挙していくとキリがないので序盤だけ、とは言ったものの、中盤以降でひとつどうしても言及したいシーンがある。それはインド固有のダンス「ナートゥ」を主役2人が全力で踊りまくる、圧巻のミュージカル場面だ。

『RRR』本国公式が「ナートゥ」ダンスの場面を配信しているので、ややネタバレとはなるが観てほしい。

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 とにかく主役2人のダンスのキレッキレぶりが驚異的に素晴らしく、何度も繰り返し観てしまう。テルグ語版・ヒンディー語版あわせて数億回も再生されているのも納得するしかない圧巻ミュージカル・ナンバーだ。「ナメてたインド人が最強ダンサーだった」とでも呼ぶべき痛快なストーリー運びも観ていて気持ちがいい。一方で、このダンスシーンが背負う背景からは、「インド映画だからお約束で踊るよねw」では片付けられない、なかなかに重たいメッセージ性を感じもした。

 『RRR』は、バーフバリと同じく超エンタメである一方で、数百年にもわたる大英帝国のインド支配の暗い歴史が、色濃く刻印された映画でもある。植民地主義・白人至上主義によって人の命や尊厳が踏みにじられるように、インドの芸術・文化もまた抑圧と蔑視に晒されることになる。そんな世界の理不尽に、インド映画の奥義ともいえる「歌とダンス」で立ち向かうという、暗く悲惨な歴史に抗うような「ぶちあげミュージカル」になっているのだ。

 この「ナートゥ」が始まる前に、嫌味でムカつくイギリス男が、ビームとラーマを「インドの田舎者」とバカにしながら、「お前ら、タンゴやスイングを知ってるのか?」などと"西洋的"な音楽ジャンルを列挙する。ここで「スイング」という言葉を聞いた、イギリス側に仕える黒人ミュージシャンが顔をしかめる一瞬のカットが挟まれる。これは「スイングとかジャズとか、元は黒人文化の音楽だろうがよ…」という、黒人の彼が内心に抱えた「白人によるマイノリティ文化の簒奪」に対する鬱憤を示しているのだろう。

 この一瞬のカットは非常に重要で、ナートゥのミュージカル場面に「白人音楽vsインド音楽」という枠組みを超えて、「白人至上主義vs(アジア人・アフリカ系など)マイノリティ文化」という広がりをもたせている。どうしても作品の構造的に、ある種のナショナリズム的な価値観も生じざるをえない(これについては後述する)本作にとって、この黒人ミュージシャンのような「インド人以外の社会的弱者」を差別への闘いに包括していく姿勢はとても大切だと感じる。

 その意味で、真っ先にナートゥに加わってくるのが、白人の中でも「女性たち」であることも意味深いなと思った。この時代(1920年代)は白人社会でも、女性はまだまだ貞淑であることが至上の価値とされていたはずだ。だからこそナートゥの熱狂からエネルギーを受け取って、白人男たちに歯向かったり、大きな声を上げて笑ったり、踊り手たちに歓声を飛ばしながらナートゥをエンジョイする女性たちの姿は眩しく映る。インド人/白人女性と抑圧の軸は違えど、マイノリティ同士の密かな連帯もそれとなく示されていた。

 もっと言えばナートゥが加熱するにつれて、本作における最も深刻で揺るがない障壁としてそびえ立つ「インド人vs英国人」の対立構造そのものが、歌と踊りのあまりに圧倒的なパワーによって、ほんの一瞬だが"瓦解"していく様にも心打たれた。ビームvsラーマの頂上対決に至っては、あの嫌味なイギリス男まで「どっちが勝つんだ…!?」みたいにちょっと飲まれちゃってたし…。

 この「作中最もシビアな対立構造が、歌と踊りのパワーによって一瞬だけ瓦解する」展開といえば、奇しくも最近観たばかりのインド映画『スーパー30 アーナンド先生の教室』も連想した。

 もちろん『RRR』は「歌とダンスで英国人もインド人も仲良しハッピーさ!」みたいな生ぬるい話では一切なく、人間社会の支配/被支配の構造を断固として糾弾する物語だ。でもだからこそ、世界をかき回す音楽と踊りの力によって、期せずしてほんの一瞬だけ幸福な「平等」が実現してしまう…というナートゥの場面が、まるで人類全体に向けた祈りのようにも感じられて、いっそう胸に刺さった。

 ところで帝国主義に対する苦闘の物語である『RRR』、どうしたって今ウクライナで起きていることとも重ねながら観てしまったのだが、このナートゥのダンスシーンがまさにウクライナの首都キーウで2021年に撮影されたと知って驚いた…。ロシアによる侵攻が始まる前に撮ったらしく、まったくの偶然とは思うが、すごい文脈が生まれてしまったなと思う(ほんとラージャマウリ監督、"もってる"よなと…)。

 現在進行系で不条理な暴力と支配の脅威に晒されている世界中の人々を、本作がユニバーサルに勇気づけることは間違いない。国境や時代の枠組みを超えて、人類全ての心を燃やすエネルギーが渦巻く『RRR』は、真に"地球最強"の名に値する映画なのだ。

 

・"最強の映画"に死角なし…いやちょっとだけRRR?

ここまでひたすら『RRR』がいかに"最強の映画"なのか語ってきたので、称賛の信憑性を増すためにも、逆にあえて少し気になった部分、弱点として指摘できそうな部分もあげておこう。

●インターミッションが(日本では)ない

 まず映画そのものとは全く関係ない部分。なんといっても3時間ある映画であり、かつ内容もあまりに特盛濃厚なので、オリジナル版は普通にインターミッション(途中休憩)が挟まれる。だが日本では上映側の都合もあってか、作り手の「休憩してね」の指示を無視した3時間ぶっ続け上映になっているので、辛い人は普通に辛いと思われる…。まぁ最近では洋画大作が2時間半とかも増えてきたし、私のようにそれなりに健康な人間であれば全然耐えきれるのだが、体力的に厳しい人も多いだろうし、やはり人を3時間ぶっ続けで座らせることはあまりバリアフリーとは言えない。

 日本でもNTLiveなど、長大な作品の場合はインターミッション付きの上映が増えつつあるので、本作のように長い映画は(特に作り手が指定してる場合は)途中休憩を挟む慣習が定着してほしいものだ。かなり健康な人でないと映画を十全に楽しめない現状は、弱者のために闘うビームやラーマも望まないのではないのだろうか。

●女性キャラクターが(比較的)弱い

 これは本作の数少ない、かつ明白な弱点だといえる。もちろん本作の「ヒロイン枠」であるジェニーもシータも決して悪くないキャラ造形だし、知的で勇敢な女性キャラとしてはフェアな描き方をされていると思う。だがあくまで受け身の「ヒロイン枠」というか、『バーフバリ』のシヴァガミやデーヴァセーナのような、強烈で忘れがたい印象を残す女性キャラクターを観てしまった後では、やや女性描写が"弱い"印象を受けるのも確かだ。(まぁいうて少し前まではMCUとか主流エンタメの女性描写もこのくらいではあったが…。)

 『RRR』は主人公2人があまりに強烈なキャラクターであり、「バーフバリ親子とシヴァガミとデーヴァセーナとバラーラデーヴァとカッタッパを全部足して2人の男に分割した」みたいなもの凄い造形になっているため、もはや女性キャラっていうか他のキャラ自体を立てる余裕がなかったのだろう…という背景は想像できる(今回は悪役もかなり薄めの造形だしね…。)ここに関しては、ラージャマウリ監督の次作以降に強く期待したいところだ。てか次はバキバキに強い女性主人公も超観たいんだが!

●映画の持つナショナリズム的な側面

 これは弱点というか美点の副作用というか、かなり言及が難しいポイントだ。白人至上主義や植民地主義に立ち向かう物語を、被支配側であったインド人が当事者性をもって作った映画である以上、そこにある種のナショナリズム的な"熱狂"が生まれることは避けられないと言える。ラージャマウリ監督の超絶技巧と豪腕があれば、なおさらだ。

 まず本作の主人公2人は、もちろん大幅にフィクション改変を加えてはいるものの(そりゃな)、実は歴史上に実在した人物である。さらにエンドロールでは、インドの歴史の中で反英活動において大きな役割を果たしたリアル"英雄"たちが次々と登場して讃えられる。それぞれの人物への興味が深まった一方で、あくまで古代神話だった『バーフバリ』に比べて、現代への距離が近い『RRR』のこうしたナショナリズム的な面もある"熱さ"が、現在のインド国内でどのように作用しうるだろう?と多少の懸念を抱く部分もあった。

 ただし、モディ政権下のインド社会で、排外的なヒンドゥー至上主義が高まっていることへの懸念はラージャマウリ監督にもあるようだ。そもそも主人公が少数民族であることや、色の使い方(ヒンドゥー至上主義の象徴と化しているサフラン色の仕様を控えているらしい)など、なるべく包括的な物語になるような細かい配慮は見て取れる。ナートゥの項目で言及した黒人への眼差しも、そのひとつと言えるだろう。

 もっと言えば、歴史的には明らかにインドよりも大英帝国に近いムーブをかましてきた日本という立場から、そうした被支配側のナショナリズム的な"熱さ"に、どのような距離感で接したものか、ちょっとまだ答えが出ないというのが正直なところである。「プロパガンダじゃねーか」と上から批判するのも、「めっちゃアツイぜ!」と無邪気に同調するのも、どちらも違うように感じてしまう。インドの国内事情に詳しい人や、それこそ現地の人の論考も拝見したいし、引き続き考えていきたい"宿題"だ。

 

 …と最後にいくつかゴチャゴチャ言ってみたものの、『RRR』の最強っぷりを損なう欠点では全くない。あまりに映画そのもののパワーが強すぎるので、むしろ安心してこの種の指摘もできようというものだ。すでに1万字を軽くオーバーしたので終わりたいが、あらゆる意味で『RRR』は万人に開かれた超ド級のエンタメであり、劇場で体験できる機会を逃さないことを強くオススメする。私も確実にもう1回観る(できればIMAXとかで)。

 

【おまけ】"R"ージャマウリ監督、NT"R" Jr、"R"ーム・チャラン、 最強"RRR"トリオ舞台挨拶!

今回、ラージャマウリ監督と主演2人(NTR Jr、ラーム・チャラン)のRRRトリオの舞台挨拶で観ることができたのは大変光栄だった。(せっかく名前がRRRなトリオなのに本人も司会者もそこを強調しなかったのはなぜだ。ベタすぎたのだろうか)

 皆さんとっても気さく&丁寧な人柄で、特にNTR Jrさんは上手な日本語で挨拶してくれるサプライズを披露! NTR Jrさんがあだ名はありますか?と聞かれて、観客席のインド人と思しき方が「"ヤングタイガー"でしょ!」と叫んで、NTRさんが「確かに前はそう呼ばれてたけど、もう若くないからなあ〜」とつぶやいていたのが実にプリティでした。ラーム・チャランさんは日本ファンダムの「チャランくん」というあだ名を気に入ったご様子。ラージャマウリ監督は、テルグ語の好きな言葉を聞かれて「黄金の母」にあたるテルグ語をあげていました(なぜか娘をそう呼びがちらしい)。

 そうそう、『RRR』新宿ピカデリーでの舞台挨拶回、在日インド人と思しき方々がけっこう家族連れで来場していたりして、インドな雰囲気が増していたのも良かった。隣席のインド人(多分)の子が「好きな人の名前(名前ではない)が長すぎてどうしよう」ギャグとかで超笑ってたのも微笑ましかった。いつかインドの劇場で観てみたい…。とんでもない盛り上がりなのだろうな。

 そんなわけで、心のRRRバムに大切にしまっておきたい一幕でした。