沼の見える街

ぬまがさワタリのブログです。すてきな生きもの&映画とかカルチャー。

読んだ本の感想まとめ(〜2023年1月15日)

今年の目標として「インプットしたもの(映画・本・ドラマ・アニメ・ゲームetc…)をできる限り全て記録し、簡単でもいいので何かしら感想を書く」を掲げている。いかにも挫折しそうな目標ではあるが、まず本からということで、2023年1月1日〜1月15日に読んだ本まとめ。

基本的にはTwitterの感想まとめ+アルファって感じになりそうですが、興味湧いたらゲットして読書に励み、共に知性をヤバいくらい磨き、この世界をヤバいくらい変革しようではないか。なお「読んだ本」の定義は「最初から最後まで(一応)読んだ本」とし、読みかけはカウントせず。

 

『コーヒーの科学 「おいしさ」はどこで生まれるのか』旦部幸博

今年は年明け早々、たまたまネットで見かけた、けっこうなお値段のするコーヒー豆焙煎マシーン「ジェネカフェ」を勢いで買ってしまった。さらに衝動ついでに、評判が良くてずっと気になっていたエスプレッソマシン「デロンギ マグニフィカS」も勢いで買ってしまった。どちらも高価なマシンなのでドキドキであったが、今のところ美味しいコーヒーが飲めて最高だし使い勝手が良く、新たなコーヒー生活の幕開けとしたい。

そんな多額(つってもあれだけど)の投資をしてしまったからには、コーヒーについてより深く学ばなければならない…。そんなわけで年明けから熟読したのが、『コーヒーの科学 「おいしさ」はどこで生まれるのか』である。今年の目標は……知と技と心を兼ね備えた、真のコーヒーマスターになることだ(今年中だとちょっと厳しいかもしれない)。

おそらく世界で最も有名な嗜好品の一種であり、あまりにも身近であるがゆえに、私たち人間はコーヒーについて実はよく知らない…ということさえも知らない。コーヒーってそもそも何なのか、どういう植物なのか、なんでまたカフェインなんて特殊な化学物質をもっているのか、なんで人類はそれを飲み始めたのか、そしてなぜ美味しいのか…などなど、コーヒーという面白い植物を科学的・化学的観点から解説していく、という面白い本だ。

あくまでその一例だが、「カフェイン」という物質の正体を語る部分も面白い。コーヒーの果実がなる「コーヒーの木」が作るカフェインには、実は他の植物の育生を邪魔する作用があるというのだ。カフェインは落ちた種子から広がっていき、近くの植物が育つのを抑え、自分だけが生長できるようカフェインを活用してるという。コーヒー、お前…イヤなやつだな、とか思いかけるが、そのおかげで美味しいというのなら文句も言えない。

コーヒーに限らず、紅茶などの「茶の木」もだが、そもそも植物がなんでカフェインを作るのかと言えば、「毒だから」という身も蓋もない理由があるわけだ。他の植物の生育を邪魔したり、虫やナメクジといった外敵から身を守る作用があったりと「化学兵器」としての役割が大きいという。そんな植物・動物視点では「毒」以外の何物でもないカフェインが、まさか人間の間で、人類史上に刻まれる超絶大ヒットを記録する愛され化学物質になるとは、コーヒー的にも「何なのお前ら?」って感じだろう…(トウガラシとかも同じなんだろうけど)。

他にもコーヒーゲノムからカフェイン合成関連の遺伝子を抽出した結果、「植物にとってカフェインを作ることが一種の"収斂進化"である可能性」が示されるとか、生きもの勢としてもグッとくる話が多い。それも当然かもしれない。植物もれっきとした「生物」なのだから…。

『コーヒーの科学』繋がりで同じブルーバックスの『植物たちの戦争 病原体との5億年サバイバルレース』も買ってみた。植物の世界、見様によっては動物より全然物騒で面白いんだよね。生きもの好きとしては植物にも向き合わなくてはいけないとは前から思っているので、今年は動物本に限らずちょいちょい植物本を読むつもり。

読みたい人は→『コーヒーの科学 「おいしさ」はどこで生まれるのか』

 

『ギレルモ・デル・トロ モンスターと結ばれた男』イアン・ネイサン

Netflixの『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』が非常に面白くて美しい傑作だったこともあり、発売されたばかりの 『ギレルモ・デル・トロ モンスターと結ばれた男』を読んでみたが、とても充実したデルトロ評伝だった。その圧倒的なビジュアルへの美意識や、異形への愛に満ちた世界をどう構築したかを、デルトロ全作品の成り立ちと歩みを振り替えながら精緻に論じていく。去年の『ナイトメア・アリー』や『ピノッキオ』など、最新作もしっかり掲載されてるのも良い。

デルトロ監督 、過去作を並べるとまったくもってスゲえフィルモグラフィだなとしか思えないが、実は決して順風満帆なキャリアではなかったのも忘れないでおきたい。たとえば私はけっこう好きなんだけど(『クリムゾン・ピーク』感想 - 沼の見える街)、『クリムゾン・ピーク』とか興行的には全然ダメで、これで『シェイプ・オブ・ウォーター』も当たらなかったら監督やめよっかな…とデルトロも思ってたらしい。デルトロでさえそんなこと思うんだからもうクリエイターなら誰だって思うんでしょうね、そういうことは…。そしてそんな歩みを知ると、『シェイプ・オブ・ウォーター』ヒットして賞も取ってよかったなと思ってしまう。

この本を見た後に『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』を見ると、いかに本作がデルトロの集大成みたいな凄い作品なのかもっとわかると思う。クリケット、フェアリー、クジラ等のクリーチャー(としか言いようがない)デザインもことごとく最高なので、評伝『モンスターと結ばれた男』とあわせて観たい逸品。

読みたい人は→『ギレルモ・デル・トロ モンスターと結ばれた男』

 

『直立二足歩行の人類史 人間を生き残らせた出来の悪い足』ジェレミー・デシルヴァ

最近、「人類が動物としてどういう進化を遂げてきたのか」っていうことが自分の中で気になるテーマでもあって、人類進化史の本とかをまぁまぁ読んでいたんだけど、そのことをSNSでもつぶやいてたら、出版社の方がこの『直立二足歩行の人類史 人間を生き残らせた出来の悪い足』を献本してくれた(つぶやいてみるもんだな)。読んでみたら実際ガチで面白い本だったので紹介しとく。

ざっくり言うと、直立二足歩行をするほぼ唯一の動物である人類の進化の謎に、「足首の専門家」(この時点ですごいんだが)が迫っていき、実は「歩行」こそが「人間性」の本質を形作っていた!という可能性を示すという、かなりワクワクする人類本。

「歩行」という切り口から人類進化に関する凝り固まった定説に切り込んでいく本であるのも面白いところ。たとえば「過去の人類の女性はあまり歩かなかった(なぜなら妊娠とかをする女性の身体は歩行にあまり向いてなかったから)」みたいな、なんかそれ性差別的なバイアスかかってんじゃねーの?と思えてくる意見も、最近までまことしやかに囁かれていたらしい。

でもそれに対して本書は、たとえば「女性(初期人類のメス)の歩行」こそが人類進化を強くブーストさせてきたんだ、というような話を確実な根拠を示しながら語ったりしていく。これは人類学に限った話では全然ないよなと(動物好きとしても)思うが、現在から過去を見る際、人間が現生人類以外の動物(初期人類など含む)を見る際の、無意識のバイアスにも光を当てていくのが面白い。

なので本書の途中でレベッカ・ソルニットの『ウォークス 歩くことの精神史』が引用されたりするのも(歩行繋がりというだけでなく)テーマ的に納得感がある。ソルニット、読む本読む本に引用されてる気がするな…(私が好きだから気づきやすいだけかな)。

そんなわけで人類史の細かい知識はなくても楽しめるスリリングな本だし、何より「よっしゃ歩こう」という気持ちにさせてくれるので、散歩好きとしては読んでよかった。

読みたい人は→『直立二足歩行の人類史 人間を生き残らせた出来の悪い足』

 

『人類の進化 大図鑑』アリス・ロバーツ

人類進化つながりで『人類の進化 大図鑑【コンパクト版】』 もついでに。人類がどういう歩みを辿ってきたかのビジュアル図とか、いにしえの人類の(その辺を歩いてる人みたいな)リアルな復元図とかがいっぱい載ってる図鑑。今回読んだのはコンパクト版だったけど情報量ぎっしりだった。フル版も読んでみたい。

 

『荊の城 上・下』サラ・ウォーターズ

映画『お嬢さん』は私の人生ベスト映画の1本と言っていい大好きな作品なのだが、その原作になった小説『荊の城』を、こともあろうに読み終えていなかったことを思い出したので、この機会にさっさと再読することにした。ちなみになんで今『お嬢さん』かというと、『水星の魔女』のスレミオ繋がりで再燃したからなのだが、この話は長くなるので今はやめよう…。

20世紀前半の朝鮮半島が舞台の『お嬢さん』と違い、『荊の城』の舞台は19世紀ロンドンだが、貧しくも賢い孤児の少女スウが、詐欺師の「紳士」に誘われ、令嬢の侍女になりすまして巨額の財産を奪う企みに乗る…!という大枠は映画と同じ。だが映画にはなかった後半のさらなるどんでん返しなど、原作だけの仕掛けもあって、最後までどうなるかわからず楽しめた。

その映画にはない「どんでん返しその2」に普通に驚いたわけだが、本書の主人公スウ&モード(『お嬢さん』でいうスッキ&秀子)の間に存在していた権力格差をひっくり返し、撹乱することで、最後には2人の関係がよりフラットで対等なものになったようにも思えて、上手い仕掛けだなと感じた。とはいえ映画にこれまで入れてしまうと、筋が複雑になりすぎるので、『お嬢さん』でのカットはやむなしという感じだが…。

身分も性格も全く異なる女性2人が出会い、恋に落ち、裏切り、また信じ合いながら、自分たちを抑圧してきた大きなものに立ち向かう…という物語の本質は、映画も小説も全く変わらない。だが『荊の城』のラストに関しては、あの素晴らしい『お嬢さん』のラストシーンよりさらに好きかもしれない。官能小説という、彼女たちを抑圧し、消費し、貶めてきたものを、最後に自分たちの幸福のためにその手に取り返す…という痛快さと美しさは、映画よりもさらに際立っていたと感じる。本作が小説という文字の集合体であればこその、忘れがたいエンディングだった。

とはいえ『お嬢さん』の方では、モード=秀子を搾取していた本の表現が(映画なので当然かもだが)文字よりもビジュアルに重きを置かれていたので、映画のラストは「自分たちの手に取り返したもの」について、より絵的に鮮烈になるよう強調したのだろう。小説にはない、館の本を焼き払うシーンも、映画にしかない強烈な怒りの表出として効いていたし、パク・チャヌクの再構成の上手さも改めて認識する。物語の本質を抽出して別のメディアで再解釈した作品の中でも、やはり『お嬢さん』は傑作のひとつに数えられるだろう。それを再認識できた点でも、さっさと読み終えてよかった!

読みたい人は→『荊の城』

 

『ボクのクソリプ奮闘記 アンチ君たちから教わった会話することの大切さ』ディラン・マロン

長年SNSをやってるとクソリプをいただく機会も多いこともあって、キャッチーな(軽薄とも言う)タイトルが目についた本『ボクのクソリプ奮闘記 アンチ君たちから教わった会話することの大切さ』だったが、これが思った以上に考えさせられる、深く胸を打たれるページが沢山ある本だった。

その内容は、自分にヘイトコメントを送りつけてきた人と直接会話するという挑戦的プロジェクト「"Conversations with People who Hate Me"(ぼくを憎む人々との会話)」を始めた著者ディラン・マロンがつづる体験記。邦題こそ軽薄な感じだが、誰もが「画面のむこうで確かに生きている人」をなかなか想像できなくなる、SNS時代のために書かれた真摯な本だった。

著者マロンはゲイを公表しているコメディアンで、多くの醜悪で差別的なクソリプ…っていうか普通にヘイトコメントをweb上でどっさり受け取っていた。こんな風に憎悪を寄せられていたら、普通は心を病んでしまってもおかしくないが、ユーモアに溢れる著者は、逆にそれらを晒すことで自分のネタに変えていたようだ。

だがある日、そうした「ネットトロール」(ネット上で嫌がらせをする人々)のうち1人「ジョシュ」のコメントから、ホーム画面に飛んでみたら、「『ファインディング・ドリー』はマジで力づくで泣かせにくる」とか「誰か今夜遊ばないか、寂しいんだよ」とか、あまりにも人間臭いことが書いてあったのを見て、マロンはなんとも言えない気持ちになる。

とはいえ良いネタになると思って、いつもどおりマロンはジョシュのそうしたコメントをショーで客席に晒してみたのだが、爆笑というよりは、「ああ…」というため息のような、共感のような反応が客から返ってきて面食らったそうだ。しかもなんと、この晒されたジョシュがショーを見てしまい、怒りを露わにメッセージでマロンに連絡してきた!

マロンはあわててジョシュとやりとりしてみたのだが、その結果わかったことは、ネット上でヘイトコメントをしていたジョシュもまた、学校に居場所のない、いじめられている若者であることだった…。2人がより丁寧な対話を重ねていく中でジョシュは、マロンに吐いた差別的な暴言など、自分のやったことに少しずつ向き合う姿勢を見せる。ささやかな変化かもしれないが、「画面のむこうに人がいる」ということをジョシュは思い知ったことになったのだ。

そしてこれが本書の重要なポイントなのだが、同時にマロンの方もまた、「ヘイター」や「トロール」といった言葉ではくくれない複雑な人間性をもつ人が、ヘイトコメントの裏に確かにいるのだ、という事実を思い知る。ヘイトを向けてくる人がこちらを人間扱いしてない時、こちらも相手を人間と見るのは難しくなるものだが、それでも確かに、自分の暮らしや社会との関わりをもつ、生きた人間であることを浮き彫りにするやりとりだったのだ。

「分断」が叫ばれるアメリカ、いや世界全体を少しでも良い方向に向かわせるために、その劇的な体験には大きなヒントが込められている、とマロンは考えたのだろう。こうした「橋渡し」をもっと行うために始まった一大プロジェクトが、"Conversations with People who Hate Me"(ぼくを憎む人々との会話)だったというわけだ。そのプロジェクトは大きな反響を呼び、色々と意外な展開を見せていき、「会話」の難しさと大切さをあぶり出すことになる。

「分断」を解決するための「会話/対話」の大切さ…というテーマは、「ザ・綺麗事」という感じもするし、ハッキリ言ってそれほど珍しくない。だが本書の特筆すべきポイントは、「会話」が全く万能の処方箋ではないどころか、むしろ心の傷を深めるだけという可能性もきちんと認識していることだ。「憎しみをぶつけてくる人とも常に会話することが大切だ」「それができない人は心を閉ざしているだけ」みたいな雑で甘い結論には決して着地しない。

結局の所、クソみたいなヘイトや差別に心を消耗しきることもなく、「会話してみよう」などと思えること自体が(著者も性的マイノリティではあるとはいえ)特権的とも言えるし、「会話」など贅沢品でもある…とマロンは自覚している。実際、性被害にあったアーティストの女性と、彼女へひどいコメントをした若者との「会話」は、いたたまれない終わり方をして、会話が必ずしも良い結果を(少なくとも即座には)もたらさないことを、著者は痛烈に思い知ることになる。

だがそれでも、皆が「画面のむこうにいる人」の姿を想像できるようになる、希望への道はあるのではないか…ということを、体をはったトライ&エラーによって、説得力のある根拠によって示す姿勢こそが、本書の最も素晴らしく、胸を打つところだ。

私自身も正直、ネットでマイノリティとか特定の属性とかへの差別をまき散らしてる人を見ると、「いや会話とか無理だし、しても無駄でしょ」と普通に思っちゃうし、会話を試みるどころか即ブロックなわけだが、それでも(そんなヘイトに日々晒される)当事者の書いた本書には、感銘をもらうところも多かった。

というわけで素晴らしい本だった『ボクのクソリプ奮闘記』だが、翻訳にはちょっと思うところがあった。汚いネットスラングとかが大量に登場するので翻訳が難しい本なのは重々理解しつつ、クソリプの和訳が「あぼーん」とか絶滅ネット死語なのが若干「ウッ」とはなる…。スラングの訳・置き換えは日本の現在のネット文化にも精通してないと厳しいだろうし、無理に日本ローカライズする必要はなかったんじゃないかな。

それと著者のプロジェクト名"Conversations with People who Hate Me"(ぼくを憎む人々との会話)というシンプルで真摯な題が、「やつらがボクのことなんて大っ嫌いだってあんまりいうから、とりあえず直で電話して話してみた件」とか長ったらしく軽薄になってて、しかも文中で何度も繰り返すのも、ちょっと意訳がすぎるのでは?とか。タイトルも"クソリプ"とか"アンチ"だとちょっと軽いというか、やっぱり「好き/嫌い」ではなく「差別・ヘイト」の問題であることは強調されるべきなのでは…とか。まぁ私も「クソリプ」というワードに惹かれて読んだクチなので、重箱の隅かもだが。

些事はともかく、この大SNS時代、得るものが沢山ある本だと思う。個人的にも先日、なんか漫画家の人に見当違いの絡まれ方をして、たまたま作品を読んだことあったのでそれに絡めたウマイ感じの反撃でもするか…とか戦闘態勢になりかけたが、そんなことしても一瞬スッとするだけで後味よくないだろうし、相手も人生うまくいかなかったり色々あるのかもな…と想像力を働かせ、適当に会話してミュートするだけに留められたのは、『ボクのクソリプ奮闘記』読んでたおかげかもしれない。読書は大事である。

読んでみたい人は→『ボクのクソリプ奮闘記 アンチ君たちから教わった会話することの大切さ』

 

というわけで1月から良い本が沢山読めてうれしいですが、たった5〜6冊紹介するだけでも8千字とか軽く行ってしまうことに気づき、やっぱ「見たもの感想ぜんぶ書く」目標の厳しさがいきなり伺えるのだが、まぁ自分のペースでやります。気になる本あったらぜひゲットしてみてね〜