沼の見える街

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信じる心が地獄を照らす。『ハズビン・ホテルへようこそ』感想&レビュー(ネタバレあり)

【2024/2/6追記:『ハズビン・ホテルへようこそ』シーズン1完結に伴い、限定公開していた部分(パレスチナ問題なども踏まえて考えたこと)も改めて加筆&全体公開し、完全版っぽい記事にしてみました。有料部分は雑感を別途に追記。すでに買ってくださった方はそのまま読める……はず(読めなかったら教えてください)】

2018年頃、この約3分のアニメ動画を見た時の驚きを今でも覚えている。

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タイトルは「INSIDE OF EVERY DEMON IS A RAINBOW」(直訳:どんな悪魔の心にも虹がある)。どうやら、とあるアニメの一部分を抜粋した動画のようだ。舞台は異形の者たちが跋扈する地獄のような世界で、主人公と思しき女性キャラがテレビカメラを前に、「人々が更生するホテルを開きたい」とおずおずと発言している…と思ったら、突如として自分の想いを歌い上げるミュージカルが始まる。

ものすごい密度と速度で展開するサイケデリックな美術、ダークで下品で破壊的な笑いのセンス、キャッチーで耳に残るメロディなど、とにかく鮮烈なアニメーションに圧倒されたが、もっと心に残ったのは、彼女が歌い上げるそのメッセージだ。それは「こんなめちゃくちゃな世界で、邪悪に振る舞っているあなたたちの心の奥にも、善良さ(虹)はきっとあるはずだ」というものだった。こんな過激で悪趣味でドラッギーな絵面でキマりまくった歌なのに、なんと優しいメッセージが込められているのだろう、と心に響いた。

だが地獄の住人たちにそんなメッセージは全く響かなかったようで、せっかくの歌もクソ扱いされてバカにされ、動画は終わる。この歌はあくまで『ハズビン・ホテル』という作品のパイロット版の一部らしく、「本編」はまだ完成していなかったようだ。だがこんなにカッコよくて楽しくて過激で、それでいて優しいメッセージに貫かれた「本編」がこれから生まれるというなら、なんとしても見てみたいと願ったものだ。

あれから5年がたった。どうやらその願いは最良の形で叶ったように思える。

ヴィヴィアン・メドラーノ氏を中心とする『ハズビン・ホテル』の制作陣は、「INSIDE OF EVERY DEMON IS A RAINBOW」の場面を含む30分ほどのパイロット版をYouTubeで公開したり、スピンオフ的な(これまた過激で楽しい)アニメ『ヘルヴァ・ボス』を制作したり、主要キャラの素敵なMVをアップしたりしながら、多くの熱心なファンを獲得していった。

ニューヨーク・タイムズで『ハズビン・ホテル』シリーズが歩んだ道のりについて記事になっていたので、ギフト設定にしておく(2/22くらいまで無料で読める)。

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そしていよいよ2024年1月、「本編」となるアニメシリーズが、驚くべきことに稀代の映画スタジオA24の制作で、しかもamazonプライム・ビデオという巨大プラットフォームで、満を持して配信されることとなったわけだ。自主制作的なインディーアニメが歩む道としては、これ以上ないほど華々しいものと言っていい。

日本版タイトルは『ハズビン・ホテルへようこそ』と名付けられ、しっかり日本語吹替版も制作されている。

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本編の話に入る前に、パイロット版『ハズビン・ホテル』を少し振り返っておく。物語の始まりが描かれた約30分のアニメーションで、すでに1億回近く再生されているのも納得のハイクオリティだ。この話の直後からamaプラ配信版の「本編」が始まるので、必ず見ておいたほうがいいだろう。(まぁ本編を見た後に前日譚としてこちらを見ても別にいいと思うが…)

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このパイロット版を「第0話」的な形で、amaプラ等で配信してもらえると話が早いのだが、キャラデザが微妙に刷新されていたり、声優陣を入れ替えたりしていることもあり(この件は本国ファンダムで物議を醸したようだが、まぁ色々な都合があるのだと思う)、新たな出発を遂げた『ハズビン・ホテルへようこそ』と、公式に連続したものとして売るのがちょっと難しい状況なのかもしれない。ただ実質的には完全に繋がっている話なので、YouTubeでさくっと見てしまってほしい。無料だし。

 

ちなみにパイロット版『ハズビン・ホテル』、なんと日本語吹き替え版も公式チャンネルにアップされているので、初見の日本の人はこちらを観てもいいだろう。(YouTubeに日本語字幕版もアップされてるが、そっちは非公式。)

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この吹替版は、日本で自主制作的に作られたバージョンで、厳密には非公式なのだが、本国の『ハズビン・ホテル』公式の目にとまって、準公式のような形でアップロードされている(インディーらしいフットワークの軽さと言うべきか)。ただし著作権的にもグレーゾーンだったようだし当然といえば当然だが、今回のamaプラ版は日本語版も改めて声優がリキャストされているので、あしからず。

 

もうひとつ、同じクリエイター陣による、世界観を(たぶん)共有したシリーズ『ヘルヴァ・ボス』もすでにシーズン2まで制作され、YouTubeで公開されており、熱い人気を博し続けている。こちらも素晴らしくカッコよく面白いアニメなので必見だが、『ハズビン・ホテル』と直接の連続性は(まだ)ないので、観るのは後回しでも問題ない。公式には日本語版もまだないしね。amazonさん、吹き替え作って〜

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ちなみに『ヘルヴァ・ボス』、エログロ悪趣味成分は『ハズビン・ホテル』シリーズよりさらに5倍くらい過激なので注意しよう! そのへんが平気なら、信じがたいほど良デザなキャラたちが織りなす、ヤバすぎる作画の最高アニメーションの乱れ打ちを存分に堪能できるはずだ。

 

前置きはこのくらいにして、さっそく新シリーズ『ハズビン・ホテルへようこそ』の魅力を語っていきたい。そこそこネタバレも含まれるので(重大な場合は警告もするが)できれば本編を先に見てほしい。1話20分強×全8話なので決して長くはない。

 

今回『ハズビン・ホテル』シリーズの素晴らしさを語る上で、3人のキャラクターに焦点を絞ってみたい。チャーリー、アラスター、エンジェル・ダストの3人である。他にも魅力的なキャラが山のように出てくる贅沢なシリーズだが、やはり本作の肝を最もよく体現しているのはこの3人だと思う。

 

 

チャーリー 〜冷笑に負けない地獄のプリンセス〜

本作の主人公にして、地獄のプリンセスである。地獄の支配者ルシファーとリリスの娘という物々しい出自なのだが、本人は至って善良な性格をしていて、まるでディズニープリンセスのような純真な心をもっている。

最初に紹介した、パイロット版の「INSIDE OF EVERY DEMON IS A RAINBOW」で、彼女の願いは完璧に説明されているのだが、再出発となった『ハズビン・ホテルへようこそ』1話でも、改めてチャーリーの人格や動機を表すミュージカルナンバーが用意されている。それが「Happy Day in Hell」だ。↓公式の動画(短縮版)

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チャーリーというキャラを象徴する「INSIDE OF EVERY DEMON IS A RAINBOW」と比べても、この「Happy Day in Hell」は、さらに王道の「I WISH Song」っぽい作りになっていることがわかるはずだ。なお「I WISH Song」というのは、ディズニープリンセスのような主人公が、自分の願い=WISHを歌い上げる楽曲の通称だ。多くは物語の序盤で歌われ、たとえば『リトルマーメイド』のアリエルが歌う名曲「パート・オブ・ユア・ワールド」や、最近でも『塔の上のラプンツェル』のラプンツェルが歌う「自由への扉」や、『モアナと伝説の海』の「どこまでも(How Far I'll Go)」などが「I WISH Song」の代表格といえる。プリンセスものに限らず、ミュージカル劇『ハミルトン』の「My Shot」なども「I WISH Song」に該当するだろう。主人公に感情移入させるとともに、物語全体のテーマも強調する、重要なミュージカルナンバーなのだ。

そんな『ハズビン・ホテルへようこそ』の「Happy Day in Hell」だが、初見で最も連想したのは、『美女と野獣』でベルが歌う「朝の風景」である。フランスの小さな美しい町の、朝の風景をベルが駆け抜けていきながら、彼女の内面や想いを表現した名曲だ。

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『ハズビン・ホテル』の「Happy Day in Hell」も『美女と野獣』の「朝の風景」も、「見慣れた町を歩きながら、主人公のヒロインが住民と交流しつつ、自分の感情や願いを高らかに歌い上げる」という意味ではおおむね同じことをやっているはずだが、見比べるとあまりの落差に笑うしかない。

チャーリーが生きる世界は、ベルの和やかな町とは似ても似つかず、暴力と性的倒錯と悪意にあふれた、まさに地獄の様相をなしている。ベルが町の人々と「ボンジュール!」と和やかに挨拶をかわすように、チャーリーも地獄の住人に「こんにちは、おじさん」と呼びかけるのだが、帰ってくる返事は「Go f※ck Yourself!(さっさと失せやがれクソが!)」である。あまりに非ディズニー的なお返事だが、それを大して気にもとめず歌い続けるチャーリーの姿に、むしろこの地獄世界の圧倒的な治安の悪さが現れている。

窓を開けっ放しでハードコアセックスに励む者たちや、路上の死体を食い散らかす異形の者たちや、歌を邪魔して性器(?)を触らせようとする化け物といった有象無象にも決して負けることなく、むしろそんなどうしようもない人々も救おうと心に決めて、チャーリーは「今日は地獄で最高の一日になるはずだ!」と高らかに歌い上げるのだった。

この地獄版"I WISH"プリンセスソングと呼ぶべき「Happy Day in Hell」や、パイロット版の「INSIDE OF EVERY DEMON IS A RAINBOW」が表現しているのは、地獄という世界の異常さだけではない。チャーリーがこの世界でいかに「異常」な存在なのかということもまた描かれているのだ。こんなめちゃくちゃな世の中で、希望と笑顔を絶やさずに「人の良心を信じる」心を歌い上げるチャーリーは、まさに異端にして異質な人物といえる。しかしだからこそ、彼女は本作の主人公なのだ。

地獄はとても「冷笑的」な場所だ。「INSIDE OF EVERY DEMON IS A RAINBOW」でも、希望や良心を歌うチャーリーのことを嘲笑し、冷笑する住人たちの姿が繰り返し描かれた。地獄は「罪人」と見なされ、見捨てられた魂が集う場所であり、誰も自分に価値や可能性があるなどとは思っていない。娯楽といえばセックスか暴力か酒かドラッグか、チャーリーのような「綺麗事を歌う愚か者」が無様に失敗する姿を嘲笑するか…ぐらいが関の山だろう。こんな世界で冷笑的にならないほうが無理というものかもしれない。

その意味で本作の「地獄」は(これほど過激ではないにしろ)私たちが暮らす現実世界にもどこか似ていないだろうか。戦争、虐殺、暴力、貧困、差別、環境破壊といったあらゆる理不尽や不公正があふれかえるこの世界で、「人の良心を信じたい」「世の中を良くしたい」などと綺麗事を語ろうものなら、すぐさま「世の中そんなに甘くない」「お花畑にもほどがある」「何をしたって結局無駄」という嘲笑と冷笑をぶつけてやろうという人間が続々と現れる。レベッカ・ソルニットのいうところの「無邪気な冷笑家」たちに、地獄でチャーリーをあざ笑う者たちの姿が重なる。

もっと身近な「地獄」が見たければ、ソーシャルメディアを覗くのもいい。当初『ハズビン・ホテル』が発表されたYouTubeにも、カスみたいな陰謀論や悪意あるデマがあふれかえっている。Twitterは「表現の自由」の意味を完全に取り違えた大富豪に買われ、大幅に治安が悪化したXとして生まれ変わり、差別や暴言が娯楽として弱者やマイノリティに投げつけられ、もはや人間ですらないインプレ稼ぎゾンビにあふれかえる地獄のSNSとなった。というか最近はもうbotアカウントがポルノ動画を無差別に投げつけてくるので、露出狂でもNOと言えば一応引き下がってくれるぶん、『ハズビン・ホテル』の地獄の方が若干マシかもしれない。ともかく『ハズビン・ホテル』が最初に発表された数年前と比べても、リアルもネットも「地獄」っぷりが加速しているように思えてしまう。

しかしだからこそ、チャーリーという主人公は輝きを放つ。どんなに嘲笑されようとも、悪意をぶつけられようとも、決して希望を捨てることなく、ろくでもない人間の中に良心や善性を見出し、みんなを救おうと走るチャーリーの姿は眩しい。彼女の存在こそが『ハズビン・ホテル』シリーズを、単なる露悪的なオシャレアニメではなく、冷笑に抗う希望の物語にしてくれている。理想と現実のギャップがこんなにデカいプリンセスもめったにいないと思うが、だからこそ応援したくなってしまうというものだ。

一方で、彼女が地獄の罪人に与えようとしている「救い」は、下手をすれば独善的で、押し付けがましいものになりかねないはずだが、本作独特のユーモアや過激さがその「説教臭さ」を見事に中和しているのも興味深い。第2話で、とある意外な来客がホテルを訪れるのだが、チャーリーがその人物に「Sorry(ごめんなさい)」と謝ることの重要性を歌い上げる場面は特に心に残った。「まずは謝りましょう」なんて、もはや子ども向けアニメですらめったに描かれないほどド直球に「道徳的」なメッセージといえるが、本作で描かれると「たしかに"謝る"って本当に大事だな…」と変に納得してしまうので不思議だ。極端すぎる環境を逆手に取って「道徳的なプリンセスもの」を成立させてしまう、まさに唯一無二の主人公造形といえるだろう。

 

チャーリーと言えば、もうひとつ大切な要素がある。それは同じくメインの女性キャラ「ヴァギー」との関係性だ。チャーリーとヴァギーは公式でカップルの設定であり、本作のクィアな(性的マイノリティのキャラクターがたくさん出てきたり、肯定的に描かれる)アニメとしての魅力を強化している。近年では『シーラとプリンセス戦士』『アウルハウス』『ニモーナ』など、主人公が性的マイノリティであり、かつ公式に同性カップルが描かれるメジャーなアニメ作品が数多く生まれているが、『ハズビン・ホテル』は6年前のパイロット版の時点でこの主役カップルを描いていたわけで、この点でも先駆的だったといえる。クィアな主人公を描く作品は増加中とはいえ、「主人公が最初から同性カップル成立してる状態」から始まる作品はいまだに珍しい気がするので、いっそう応援したいところだ。

お相手のヴァギーも魅力的なキャラである。原語版の吹き替えは『ブルックリン99』のローザや『ミラベルと魔法だらけの家』のミラベルを担当したステファニー・ベアトリスというのも嬉しい。ヴァギーの人柄はチャーリーとは対照的に現実的・常識的であり、チャーリーの派手な振る舞いにツッコミを入れたり呆れたりしつつも、決して理想を捨てない彼女の生き方に惹きつけられてもいる。つい突っ走りがちなチャーリーにはぴったりの相手といえるだろう。シーズンの後半では彼女の過去が明かされ、チャーリーとの関係がさらに踏み込んで描かれることとなり、ロマンスとしても見応え抜群だ。

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アラスター 〜カッコよさ恐怖かわいげ全部盛りデーモン〜

本作『ハズビン・ホテル』シリーズの魅力を象徴する第2のキャラとして、アラスターの話をしたい。アラスターは地獄で最強の悪魔であり、「ラジオデーモン」の異名で恐れられている。シカのようなツノを生やし、紳士的な赤いスーツをバシッと着込み、いつもチェシャ猫のように不気味に微笑んでいる姿は不気味ながら魅惑的だ。

公式テーマソング「INSANE」もカッコイイ。

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クリエイターのヴィヴィアン・メドラーノは中学生の頃からアラスターを構想していたと聞くが、実際それも納得というか、絶妙に中2マインドを刺激するカッコよさに溢れたキャラクターである。もう「ラジオデーモン」という概念からしてカッコいい。昔のラジオに乗せたような少しひび割れたボイス(時々笑い声などの効果音が挟まる)で、往年のラジオアナウンサーを模して喋るという彼のスタイルには、ラジオという媒体がもつ洒脱でノスタルジックな魅力が活かされている。

そんな底知れないほど邪悪な悪魔のアラスターだが、なぜか「罪人を救うホテル」という綺麗事の大風呂敷を広げたチャーリーに興味を示したようで、(善意よりも娯楽としての側面が大きいようだが)彼女たちのホテルの活動を手伝ってくれることになった…というのがパイロット版の大筋である。

そこから直結する新シリーズ『ハズビン・ホテルへようこそ』で注目したいアラスターの動向は、やはり第2話、地獄を支配する「メディア王」ヴォックスとの対決だろう。洗脳能力やテック、巨大資本を武器にして、地獄に君臨するヴォックスは、テレビそのものの形をした頭といい「テレビデーモン」とでも呼ぶべき姿をしている。そんなヴォックスが(何があったのか詳しくは描かれないが)にっくき「ラジオデーモン」アラスターの帰還を知り、普段のクールさや慇懃さを投げ捨て、自分の映像メディアを駆使してネガキャンに励むのだが…という一連のバトルが、テンポの良いミュージカルシーンとして描かれることになる。

↓2話は英語版が公開中。歌は8:49〜ごろから

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この場面が、ヴォックスvsアラスターを通じて「テレビvsラジオ」のメディア対決を視覚的に表現したシーンになっているのも面白いポイントだ。映像も音声を流せるテレビは、音声しか流せないラジオの上位互換のはずであり、ラジオはテレビの前に破れ去った…というイメージがあるかもしれない。だがこれほど映像技術が発達した現在でも、ラジオはなくなっていないどころか、ポッドキャストのような音声コンテンツは音声サブスクの隆盛も影響して、今いっそう勢いを増しているようだ。(現に私自身もテレビは全く見なくなったが、ラジオやポッドキャストはしょっちゅう聞いているわけだし…)

なので「ラジオデーモン」という、いっけん時代遅れにも思えるメディアを名前に冠したアラスターが、主流メディアを支配するヴォックスをねじ伏せる展開にも、不思議な説得力があるのは興味深い。web上でカウンターカルチャー的に、バイラルな熱狂を巻き起こした『ハズビン・ホテル』の顔を務めるのに、アラスターはふさわしいキャラといえる。

その一方でアラスターは、ラジオという媒体がもつ恐るべき「闇」も体現しているように思う。彼自身、地獄の支配者を殺す様子をラジオで実況するというサイコな行動によって伝説と化しており、悪魔に転生する前も大勢の人を殺していたガチの悪人だったという裏設定もある。

それを踏まえるとラジオがメディアの歴史上、虐殺に加担したこともあるというおぞましい闇も抱えていることにも注目すべきだろう。たとえば『ホテル・ルワンダ』で映画化された1994年のルワンダ虐殺でも、結果としてラジオが殺人を煽ることになった。メディアが緊急時に人の心に与えうる最悪の影響の例として、今でも語り草になっている事件である。「声」は、時としてビジュアル付きの映像媒体以上に、人の精神にダイレクトに影響してしまうのかもしれない。

ラジオという媒体の魅力と恐怖の二面性を、これ以上なくスタイリッシュな形で具現化したアラスターは、近年のあらゆるカートゥーン・キャラクターの中でも、トップクラスの良デザインと言っていいだろう。大量のファンアートを生み出しているのも納得するしかない…。

さらに『ハズビン・ホテル』シリーズが(スピンオフ『ヘルヴァ・ボス』もだが)恐ろしいのは、このレベルの素晴らしい造形を誇るキャラクターが、息をするように続々と登場するということだ。毎回毎回あまりにイカしたデザインのキャラクターばかり登場するので、連続して見ると正直「凄い」を通り越して若干疲れてしまうかもしれない…。「アイキャンディー」も一気に食べすぎると胸焼けしてくる、と言ったところか。贅沢すぎる不満だが…。

ともあれ、主人公・チャーリーが本作に込められた優しさや良心、まっとうな倫理観を体現しているのだとすれば、アラスターは『ハズビン・ホテル』シリーズのビジュアルが放つ、まさしく悪魔的に強烈な魅力を象徴するキャラクターといえる。この「まっとうな心」と「抗いがたい過激で強烈な魅力」という強靭な両輪こそが、本作をスペシャルな作品にしているのだと思う。

そんなアラスターだが、カッコよさと怖さだけではなく、かわいげも存分に発揮しているというのはニクイところだ。2話でのヴォックスとの微妙に大人げない対決といい、5話の「チャーリーにどういう感情を抱いてるんだコイツは…」となるダディ対決といい、本編が始まったことで思ってたより「人間臭い」一面もあるヤツなんだな…とわかったという点で、パイロット版からけっこう印象が変わったキャラクターでもある。ちなみに公式にアセクシュアル(無性愛者)のキャラとして設定されていることもあり、エンジェルくんにエグい下ネタを振られると若干イヤな顔をしたりもする。

この「強大な力をもった恐ろしい存在だが、かわいげもある」というデーモンの魅力は、林田球『ドロヘドロ』のチダルマやハルといった悪魔たちも個人的に連想した。圧巻のデザインセンス、過激なエログロ、スッとぼけたユーモアの共存という意味で、『ハズビン・ホテル』シリーズに一番近い日本の作品は『ドロヘドロ』といえるかもしれない。

話が進むにつれてアラスターの意外な過去や人間関係、かわいげはあってもやはり真剣に恐ろしい面もじわじわ明らかになったりして、今のギリギリ味方?なポジションを今後も続けるのか、それとも強大な悪としてチャーリーたちの脅威になるのか、本当の意味で「敵かな?味方かな?」が読めない、目が離せないキャラ造形になっている。

 

エンジェル・ダスト 〜ディズニーが救えないポルノスター〜

『ハズビン・ホテル』シリーズの両輪である「まっとうな心」と「抗いがたい過激で強烈な魅力」を体現するキャラクターとして、それぞれチャーリーとアラスターを挙げたが、最後にもう1人、その両方の要素がよく現れているキャラクターを語りたい。エンジェル・ダストだ。

エンジェル・ダスト、通称エンジェルくんは、地獄のポルノ業界のスターである(ちなみにセクシュアリティはゲイ)。彼はそのあふれんばかりの性的魅力によって、地獄の住人たちにセクシャルな快楽を提供している。性にまつわる自身の才能をアピールしがちで、口を開けば下ネタばかり飛び出し、あのアラスターさえも若干うんざりさせている。(容赦ない下ネタが飛び交う『ハズビン・ホテル』シリーズだが、実はホテルの主要キャラは、エンジェルくん以外は進んで下ネタを言うタイプではないという事実はけっこう面白い。)

まずエンジェルは「セックスワーカーの男性」という時点で、従来のアニメには登場しなかったタイプの主要キャラクターといえる。性を売り物にする女性、いわゆる「娼婦」が、古今東西のフィクションでしょっちゅう(大抵は男性作家によってステレオタイプ的に)描かれてきた存在であることに比べると、男性のセックスワーカー(男娼)がフィクションの主要キャラクターになること自体が少ない。パイロット版の時点で、カッコよくてセクシーなキャラデザと辛口なユーモアを兼ね備えたエンジェル・ダストは、本作で最も目を引く存在だった。

だが『ハズビン・ホテル』シリーズはさらに踏み込んで、エンジェルをステレオタイプなキャラクターとして終わらせることなく、彼の内面をより繊細に描こうと試みる。パイロット版の数年後に突如公開された、エンジェルくんを主人公としたMV「ADDICT」は大きな反響を巻き起こした。すでに1.6億回以上再生されているが、それも納得の出来栄えだ。

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「ADDICT(薬物中毒の意)」では、セックスと暴力が支配する地獄の世界で、傷を抱えながらもなんとか生きていくエンジェルと、彼の相棒である爆弾魔チェリーボムの姿がスタイリッシュに描かれている。目を引くのは、エンジェル・ダストの人格の複雑さや、彼が生きる世界の二面性が表現されていることだ。

エンジェルは他人の情欲を燃え上がらせる自身の「セックスの才能」に対して、確かにプライドや自尊心、やりがいも抱いているのだろう。だがそれと同時に、やはり自分の体や尊厳を売り物にし、見知らぬ大勢に消費されていることや、時には直接的な暴力や支配にさらされることに、屈辱や恐怖、悲しみも覚えているのだ。きらびやかなストリップショーで自分の体を見せびらかす姿と、汚れたベッドでうずくまり泣きじゃくる姿が交互に映るシーンに、彼の人生の二面性が最もよく現れている。

もちろん人にもよるだろうし、外野からは想像するしかないとはいえ、こうした二面性は、多かれ少なかれ現実のセックスワーカーや、なんらかの形で性を消費されている人が直面しているものでもあるのではないだろうか。「ADDICT」は、エンジェルというキャラクターをただ「カッコよくてエロイもの」として消費するのではなく、現実の痛みを抱えた人々の希少なリプレゼンテーション(表象)として丁寧に造形していこうという、作り手の高い志を感じさせるMVだった。

 

ーーー以下『ハズビン・ホテルへようこそ』4話ネタバレありーーー

 

そしてその志は、このたびの新作『ハズビン・ホテルへようこそ』でさらに見事に結実している。特筆すべきはやはり第4話「仮面」である。暴力的な権力者ヴァレンティノに生活を支配され、セックスを売り物にする世界で生きるエンジェルは、プライドと痛みという矛盾した2つの感情を悶々と抱えている。しかし自分の抱える複雑な思いを誰にも吐露できないまま、つい偽りの「仮面」を被るように振る舞って、チャーリーらホテルの面々とも衝突してしまう。

半ばヤケになったエンジェルは、ヴァレンティノが支配するポルノ業界で、暴力的・搾取的なセックスワークに没頭する。この様子が『ハズビン・ホテル』らしい過激さで、「Poison」というミュージカルナンバーにのせて描かかれることになる。ヴァレンティノのような強者から受ける抑圧を「毒(Poison)」にたとえ、「それが毒であることはわかっているが、生きるために飲むしかない」という、中毒のような深みにハマっていく泥沼を示した歌という意味で、先述の「ADDICT」の変奏のような内容にもなっている。

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自分の気持ちに正面から向き合うこともできず、仲間から差し伸べられた手も振り払い、DV彼氏的なクソ男に生活を支配され、過酷なセックスワークで体も心も搾取され…という、まさにドン詰まりな状況にあるエンジェルくん。だが、彼にささやかな救いをもたらしてくれたのは、意外な人物だった。つい先刻まで言い争っていた、エンジェルと最も気が合わなさそうな悪魔・ハスクである。

ハスクは猫のような外見の元・上級悪魔だが、アラスターに弱みを握られているようで、無理やりハズビンホテルでバーテンダーとして働かされている。様々な問題を抱えたエンジェルに厳しくツッコミを入れつつ、彼自身もギャンブルやアルコールの問題を抱えているようだ。そんな彼が、自暴自棄になったエンジェルに(本作らしくミュージカルによって)どんな言葉をかけるのかは、ぜひ該当の楽曲シーンをを見てほしい。『雨に唄えば』も想起する前向きなメロディの中に、妙に突き放したドライなテンションが混ざり、何もかもがイヤになった「Loser(負け犬)」を優しく励ますような、絶妙な塩梅の歌になっている。

曲名は「Loser, Baby」で公式がアップしていた。

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ハスクがエンジェルを(とても彼らしいやり方ではあるが)慰め励ますこのシーンが、男性同士の繊細なケアという、なにげに今ホットなトピックであることにも着目したい。マッチョさが支配する世界での、男性同士の優しい労りあいという意味では、最近見た映画だと『ファースト・カウ』を連想したりもした。さっそくハスク/エンジェルのship=カップリングも盛り上がっているようで、その良さもよくわかるのだが、個人的にはこの2人には性や恋愛を介さないまま、お互いをケアしあう良き関係を築いてほしい気持ちもある。こういうことが言えるのも逆に本作が(主人公コンビが思いっきり同性カップルだったり)クィアフレンドリーな作品だからこそなのだが…。とか言いつつ恋愛が本格的に描かれても面白そうだし、どう転んでも美味しいと思う。

なんにせよこの『ハズビン・ホテルへようこそ』4話は、本作を連続シリーズ化した意義を改めて感じさせる、まさに神回だったといえるだろう。過激なエログロも存分にぶちかまし、間違いなくディズニーのような全年齢アニメの対極を歩む『ハズビン・ホテル』シリーズだが、チャーリーの項目で述べたように実は王道の「プリンセスもの」でもある。そんな本作が、社会の周縁に追いやられた人の苦しみや、繊細なメンタルケアの描写等を通じて、過酷なセックスワーカーやドラッグ中毒者のような「ディズニー作品では絶対に救えない(そもそも登場すらできない)ような人々」に手を伸ばそうとしていることが何より熱いし、素晴らしいことだと思う。

驚異的なデザインセンスによって構築された世界で、楽しいミュージカルやピリッとするユーモアを織り交ぜながら、マイノリティに光を当てる社会派なメッセージ性も込めた『ハズビン・ホテルへようこそ』は、カートゥーンの可能性を一段押し広げる革新的な作品という意味で、個人的なオールタイムベストアニメである『スティーブン・ユニバース』にも匹敵するポテンシャルを感じている。すでにシーズン2の制作も決まっているということで、今後どんな展開を向かえるか、心から楽しみだ。

 

もう十分長々と書いたので終わりたいが、その前に『ハズビン・ホテルへようこそ』がもつ社会的なメッセージ性という意味で、もうひとつ外せないトピックに言及しておきたい。

(※以下は最初、有料部分として公開したんですが、シーズン1終了記念ということでさらに加筆して全体公開してみます。いつまでとかは不明。有料部分を買ってくださった方のために、記事の最後にも別途に追記してみました。)

 

天国・地獄、パレスチナ問題

(注意:第6話のネタバレを含みます)

 

今パレスチナで起きていることに関心を寄せている人は、『ハズビン・ホテルへようこそ』を見て「えっ、この話って…」と思ったことだろう。冒頭のプロローグから、「天使によって"罪人"とみなされた集団に対する虐殺」が地獄で繰り返されていて、しかも新たな虐殺が迫っていることが明らかになる。さらに1話の後半・アダムとの会合を経て、『ハズビン・ホテルへようこそ』は、チャーリーが(地獄の善人たちをホテルに招くことで)その虐殺をなんとか食い止めようとする物語として始まる。本作はあくまでフィクションとはいえ、今パレスチナのガザ地区で起きている、目を覆うような惨状を思い起こさない方が難しいかもしれない。

本作のそうした現実への「ぶっ刺さり方」は、先日配信された第6話「天国へようこそ」後半のミュージカルシーンで頂点に達する。

公式がアップしてる当該シーン(英語↓)

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地獄での虐殺を止めるため、天使たちと直談判しに天国へ向かったチャーリーは、「罪人が更生できる証拠を見せろ」と詰められる。そこでチャーリーが提示したのが、エンジェル・ダストの姿だった。ドラッグ中毒のポルノスターという、天国からは白い目で見られる属性の彼も、(第4話でのハスクの励ましも功を奏して)少しずつ人生を改善させていることがわかる。だが、そんな成果にもかかわらず、天使たちは彼の「更生」を認めようとしない。それどころか、何をすれば「天国」に行けるのか、その基準すら誰も示せないのだ。

そこから始まるミュージカルシーンは、そんな理不尽に対して怒りをぶちまけるチャーリー、彼女を嘲笑しつつ虐殺について口を滑らせるカス野郎の天使アダム、虐殺の真相を知って天国への批判に転じる熾天使の少女エミリー、そんな彼女を「あなたたちのためだから虐殺も仕方ないのだ」と、燃え盛る炎を目に映しながら諫める熾天使長セラ…といった、いくつもの異なる思惑が折り重なる、圧巻のミュージカルナンバーとなっていた。

この場面が凄いのは、まさに今、世界中で飛び交う議論が生々しく映し出されているように見えることだ。宗教と深く結びついた帝国主義・植民地主義に基づく一方的な断罪によって、「永続的な罪人」のように土地に縛り付けられた人々が、虐殺による滅亡の運命を押し付けられている…。そんな理不尽を可能にしているのは、「安全のためなら仕方ない」という理屈によって、なんだかんだ支配体制を温存し、虐殺や暴力に加担し続けている「善良な人々」でもある。

一方でそんな理不尽に気づき、惨状を目の当たりにしてなんとか「運命」を変えようと、若い世代が立場を超えて奮闘し、体制に対して批判の声をあげている。これらは全て『ハズビン・ホテルへようこそ』の劇中で描かれたことだが、まさにそのまま、パレスチナの問題を巡る現実世界の状況に当てはまりはしないだろうか…。

先日ちょうど国際司法裁判所でイスラエルに「ジェノサイド(集団虐殺)」防止の命令が出たり、かと思えばUNRWAの職員がハマス襲撃に関与した疑いに対してアメリカなどが支援停止に踏み切ったり、今まさにパレスチナを巡って国際社会が揺れている真っ最中なだけに、こういうタイミングで『ハズビン・ホテルへようこそ』のように、虐殺を正面から堂々と批判する作品が出たことは、現代のポップカルチャーにとって大きな意味があることだと思う。

ただ一応補足すると、もちろん『ハズビン・ホテル』の天国/地獄を、中東問題にそのままなぞらえるのは問題があることは言うまでもない。まずパレスチナを「罪人にあふれかえった地獄」扱いするのは当然ながら不適切だし、本作の天国や天使にしても、基本的にキリスト教の保守派的な世界観として描かれているので、ユダヤ教が多数派を占める国家であるイスラエルを直接に想起させるわけではない。

ただしイスラエルの最大の支援国家であるアメリカはキリスト教が強い力をもつ国家であり、中でも保守的な勢力の福音派=エヴァンジェリカルは、政治的に強大な力をもち、共和党の岩盤支持層であり(トランプのことも熱烈支持している)、イスラエルに対しても極めて親和的だ。国内のキリスト教保守派の圧力は、アメリカが国家としてイスラエルを支援し続ける最大の要因のひとつと言って間違いないだろう。「なんでキリスト教保守がユダヤ教に肩入れを…?」と思う人が多そうだし、この辺の繋がりはしっかり説明されないと外野にはわかりづらいと思うので、詳しくはこういう記事とか読んでみてほしい。私は新書『ユダヤとアメリカ』を読んだりした。

一方いま政権を握るバイデンの民主党も、国内のユダヤ系の支持を失わないために、イスラエル支持の姿勢そのものは崩せないという事情があり、結果として(共和党よりは強硬でないとはいえ)虐殺を止めることに対して弱腰になっている。よって本作のアダム(現実だとトランプ?)に象徴される「わかりやすいクソ野郎」だけのせいで虐殺が起こっているわけではないという事実は重要だ。セラのように「あなたにはわからない事情があるのだ」と理性的に(しかしその目に炎を映しながら)若者をたしなめる権力者もまた、虐殺の力学を温存している。だからこそ、アダムにもセラにも反旗を翻し、「虐殺は間違っている」と歌い上げるチャーリーとエミリーの姿は、なおさら現実の情勢に突き刺さっているように思える。

『ハズビン・ホテルへようこそ』は、そもそも1話でのアダムの描かれ方(チンコマスターを自称する性差別クソ野郎!)といい、キリスト教的な世界観の欺瞞に対して相当突っ込んだ、批判的な描き方をしていることは注目に値する。エヴァンジェリカル的なキリスト教勢力の暗部を、批判を恐れず突っ込んで描くエンタメ作品としては、たとえば近年ではドラマ『ザ・ボーイズ』なども攻めた描き方をしていたので、先鋭的なクリエイターにとって熱いテーマなのだと思う。

日本でも似た感じの事案として、神道が保守派の政治家(同性婚に反対してるような勢力)と癒着してる問題とか、元首相の暗殺に旧統一教会の問題が関わっていたとか色々あったわけだし、神社や巫女のような宗教の上澄みだけモチーフに利用して消費するだけでなく、国内の宗教にまつわる問題について突っ込んで描くフィクションが増えてもいいと思うのだが…。ちゃんとやれば絶対面白くなると思う。

それはともかく『ハズビン・ホテル』シリーズが、現在進行系で行われている虐殺を批判する上で、キリスト教的な規範の欺瞞性を糾弾していることは、(少なくともアメリカ国内の政治状況を考えれば)現実世界の状況に深々と刺さっているし、地獄や悪魔を扱った作品の姿勢としては、むしろ非常に正しくまっとうなことだと思う。そうしたまっとうさが、第6話のような息を呑むほどのタイムリーさをもたらしたのは、創作への真摯な姿勢がもたらした、ある種の奇跡と言えそうだ。

ただし中東(イスラエル/パレスチナ)の問題にしても、何も2023年10月8日のハマス襲撃によって無から始まったわけではなく、暴力的な抑圧の構造自体は前からずっと存在し続けたわけなので、本来はタイムリー云々といった話ではないのだろう。

それに『ハズビン・ホテル』の「天国/地獄」の関係は、パレスチナ以外にも、様々な現実の問題のメタファーを読み取ることが可能だ。特に連想したのは、ドキュメンタリー『13th 憲法修正第13条』で論じられた、人種的マイノリティに対する差別構造を維持するべく刑務所のシステムが利用されている…という問題である。YouTubeに全編(!)がアップされているのでぜひ見てほしい。

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つまり『ハズビン・ホテル』の描写がたまたま現実に刺さったというよりは、クリエイターが差別や暴力の構造といった「現実の諸問題」を真剣に考えて作品を作ると、まさに今のように現実の問題がわかりやすく激化した時、予想外のぶっ刺さり方をしてしまう(ように見える)…という好例なのだと思う。

言い古されている言葉だが、「真に過激な作品を作るためには倫理観が必要になる」と常日頃から思っている。現実世界に真の意味で「刺さる」ものを作るためには現実をちゃんと観察する必要があり、逆に現実を見る解像度が低いままだと、大して「尖った」「過激な」ものは作れない…という、けっこうシビアなクリエイターの能力の問題でもある。

その意味で『ハズビン・ホテルへようこそ』が、いま表面的な意味ではなく(いや表面的にも尖りまくってるのだが)真に「尖った」「過激な」エンタメ作品になりえているのは、クリエイターの思考と観察力、そして表現力の結晶なのだろう。本作のクィアネスと、虐殺への批判精神は、いまだ社会を支配する(キリスト教に限らない)保守的な権威主義に対する、相互に重なり合ったカウンターになっていることも意識したい。性的マイノリティや障害者といった周縁化された存在へのエンパワメントと、植民地主義的な思想への批判を同時に行った『スティーブン・ユニバース』との共通点も、なおさら強く感じるのだった。まぁ『スティーブン・ユニバース』はいま日本で見る手段がほぼないのだが…。『ハズビン・ホテル』の大波に乗って、どこでもいいから早く配信してくれ!!(結論)

 

終わり。

 

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…実はここまでは概ね6話までを見た時点で書いたことなのだが、先週7・8話が公開されて『ハズビン・ホテルへようこそ』シーズン1が終わった。たいへん素晴らしいエンディングで、これまで書いたことも直す必要も感じなかったのだが、終盤「そうきたか〜」と思った部分も多かったので、かんたんに感想などを追記しておこうかと思う。

先日すでに有料部分を購入してくださった方はそのまま読めると思います(すでに買っていたのに読めない場合は、届いたメールからログインしてみてください。)ほんとにただの箇条書きの雑感なのであくまで投げ銭感覚でどうぞ。

 

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