沼の見える街

ぬまがさワタリのブログです。すてきな生きもの&映画とかカルチャー。

「IUU漁業」問題をウナぴょんが語る! WWFジャパン公式コラボ図解

【WWFジャパンとの公式コラボ図解!】
海のお魚を危機に追いやり、漁業を衰退させ、さらに奴隷労働まで横行しているという激ヤバな違法漁業「IUU漁業」問題について、海の社会派妖精・ウナぴょんが解説します。IUU漁業をなくすためのweb署名も実施中なので、ぜひご協力ください&拡散きぼウナ!

 

web署名ページはこちら。↓お気軽に署名してもらえると嬉しウナ!

www.change.org

 

WWFの特設ページはこちら↓

www.wwf.or.jp

IUU漁業問題の基本、私のコラボ図解、IUU問題に危機感を持つ8名の方からのメッセージ+ダイジェスト動画などがまとまっています。

 

ウナぴょんの過去の活躍はこちら↓

こっちもぜひチェックしてね。

『ポケットモンスター スカーレット』クリアしたよ報告

ゲーム『ポケットモンスター スカーレット』をクリアした。生きもの好きの視点からTwitterでもけっこう「このポケモンの元ネタはこれだろ!」的なコメントをしてきたし、普段なら「わくわく動物ゲームとして楽しむポケモンSV」的なブログ記事を書く流れなのだが、このたび文春オンラインさんでまさにそういう内容の記事を書かせてもらったので、ぜひこちらを読んでほしい。

bunshun.jp

 

…というわけでもう書くことは特にない(?)のだが、生きもの好き視点"以外"でもけっこう印象深いゲームではあったので、『ポケットモンスター スカーレット』クリア後の雑感をつらつら書き連ねておきたい。ネタバレとかはそんな気にしないので未クリアの人は一応注意。ちなみにスカーレットを選んだ(博士のキャラデザが好みだったため…)。

 

【バード・オブ・ザ・リング 旅の仲間】

記事にも書いたように、鳥を中心にパーティを組む「とりつかい」プレイを…少なくとも途中までやっていた。お気に入りのメンバーを紹介するぜ。

 

・クワッス(命名:クワぴちゃ)

 記念すべき御三家初のカモだし(デザイン面ではホゲータに惹かれつつも)カモ好きとしては一択であった。進化後のウェルカモは初見では正直「う〜ん」となったが、ぶっちゃけ御三家の2段階目ってわりとそんな感じよね。練られまくっている初期形態と最終形態に比べて、2段階目はこう良くも悪くも…ユルめ。今回の御三家も、初期形態と最終形態は明らかに「プロの仕事だな」という、ファンメイドの御三家ポケモンと一線を画した完成度と意外性があるのだが、2段階目だけはファンメイドとそんな見分けつかない感じがする。

 ただそんなユルめの2段階目にしかない愛嬌みたいなのもあって、若干のダサかわ感にも慣れてきてむしろ愛おしく思えてくるので、旅の後半くらいで最終形のかっこいい姿に進化しちゃうとなんだかんだ寂しいというのもお約束である。君を忘れない、ウェルカモ。

 最終形態のウェーニバルは(一部でキモいとか言われてるらしいが)一筋縄ではいかないヒネったカッコよさと美しさがあり、現代のポケモンらしくて良いデザインだと思う。カモの進化が白鳥だったらベタすぎてつまらんなあとか思っていたが(コアルヒーとかぶるし)、まさかクジャク+レンカク系?とは…。足のピエロっぽい独特な感じは、バン類の弁足をちょっと意識してるのかなと思った。良い意味で生々しい生きものらしさがあって好き。

 あとウェーニバル、カーニバルダンサーをモチーフにしてるだけあってけっこう女性的…とまでは言わないまでも、かなり中性的というか、ジェンダーの境界線上にあるような面白いデザインだなと思う。今回はマスカーニャ(ニャオハの最終形)が明白に女性的なデザインで(マフォクシー、アシレーヌの流れを汲む感じ)、ラウドボーン(ホゲータの最終形)が四足歩行の怪獣型なので、ウェーニバルは細身のイケメン枠(バシャーモ、ゴウカザル、ゲッコウガ、エースバーンとかの流れ)ということなんだろうが、そのポジションにしては中性的なセクシーさを感じさせるキャラデザというのは興味深いし、御三家最終形のバランスがちょっと面白いことになってる。このジェンダー撹乱的な感じは(後述するけど)人間のキャラデザにもかなり通じてるんだよね。ウェーニバル、好きだわー。

 

・他の鳥たち

 タイカイデン(命名:カイぱちん)とファイアロー(命名:コマぴゅん)が、クワッスと並ぶ鳥パーティの主力となった。どっちも高火力で素早いので旅の頼れる相棒。タイカイデンは「ちくでん」で電気を吸収してくれるので、いざというときの雷除けにもなってくれる。ただし技が電気と飛行しかないので電気タイプ相手だとやっぱキツイ。ファイアローは意外と強力な炎技を覚えてくれないので、かなり後半までニトロチャージでがんばる必要があった。フレアドライブ覚えてからはミサイルみたいな使い方ばかりして少し申し訳なかった。

 地味に強かったのがフラミンゴのカラミンゴ(命名:ミンゴぴん)。序盤鳥…と呼ぶにはしっくりこなさすぎる(でかくて進化しないし)のだが、序盤に出てくる鳥ポケなのでまぁ序盤鳥なのだろう。格闘/飛行で攻撃力が高いし、鳥パーティが苦手なタイプの打点をつきやすいのでかなり重宝した。ウェーニバルが格闘タイプでかぶるので、終盤はボックス入りさせてしまったけど…。

 オドリドリは序盤で手に入ったので一応鳥パーティで使っていたが、ロクなタイプ一致技を覚えてくれないので、あえなく不採用となった。クエスパトラやオトシドリやイキリンコ(いまだに野生で一回も見てないが)とか気になる鳥ポケは他にもいたが、以下に記述する子たちが有能すぎて手放せず、そもそも鳥パーティの構想が半端になってしまったことを告白する。

 

・ドオー

電気対策の用心棒&ぬいぐるみポジションとして入れていたが、ゲームを進めれば進めるほど普通に強いことに気づき始める。どく/じめんでフェアリーや電気に強いのがまずありがたいし、地味に水を無効化できる特性「ちょすい」が強力(うっかり特性を忘れて、水無効でびっくりしたことが多かったが…)。あくびも重宝。

 

・デカヌチャン

初期形態のカヌチャンを見て「これはカッコよく/かわいく進化するやつだな」と先が気になって育てたが、案の定いい感じに進化してカワイイし、タイプ(フェアリー/はがね)も技(デカハンマー他)も強いので手放せなくなった。この子がいなかったら四天王は厳しかったかもな…(特に鳥パーティだけではドラゴンになすすべがなかった気がする)。鍛冶(かぬち)を元にしたネーミングも秀逸だし、今回のポケモンデザインでもトップクラスの出来だなと。

 

・キノガッサ

「きのこのほうし」と「みねうち」を覚えてくれる高火力ポケモンという、あまりに便利な捕獲要因すぎて最後まで手放せず。ただ本作、ボックスにいる子を好きな時に引き出せるシステムだし、別にいちいち連れ歩く必要もさしてなかったのだが。(あ、だから殿堂入りシステムも廃止されたのかな…)

 

そんなわけで半端に終わった鳥パーティだが、ケジメとして最大の関門・ナンジャモには純然たる鳥パーティで挑んだ。

まぁレベル差もあるし、いうても余裕で勝てるだろとか思っていたが、さすがにタイプ相性で苦戦させられ、タイカイデンの渾身の一撃が外れて死んだり、ナンジャモがコイル使わないとか地味なフェイントもかましてきて(本作こういうの多くない?)けっこうな激闘になった。バトル後にちょうどウェルカモが最終形態に進化したのも良い思い出(遅いっちゃ遅いが…)。ありがとう鳥たち。ついでにありがとうナンジャモ。

 

【ポケモン初のオープンワールド、その良し悪し】

 初の完全オープンワールドということで、ポケモン赤緑からプレイし続けている世代として、まさかこんな進化を遂げるとは…と小学生の自分に教えてあげたくなったし、素直におお〜と思うところも多かった。序盤こそ(アルセウスのときも感じていたが)「移動だるくね…?」と思っていたが、コライドンとの出会い以降はほぼどこでもダッシュできたので、ストレスは軽減。広い世界を走り回る気持ちよさ、そして何より「あそこに見たことないポケモンがいるぞ!」というときの興奮は、ポケモンGOとアルセウス以降のシリーズならではの魅力があった。

 ただ同時に、やっぱswitchのマシンパワーってそろそろ限界だよな…と感じざるを得ない部分もまぁまぁ多かった。特に街では処理落ちでゲーム終了も数回あったし、ポケモンの数が増える&フィールド処理が複雑になる水辺とかはカクカクでいつ落ちるか緊張感が凄かった。もうグラとかはこのままでいいからPS5でやらせてくれ…(絶対むり)。

 そういうハード面もだし、そもそもオープンワールドである意味が、少なくともストーリー上はどれくらいあるんだろう、とかも思った。オープンワールドであることの楽しさって「自由度」にあると思うのだが、本作は別に野生ポケモンや敵トレーナーのレベルをこっちにあわせてくれるわけでもないので、実質的には取れるルートはそんなに多様じゃないっていう。マップに「ここは初心者向け」「こいつは強いよ」とか一応書いてあるので、「理想的なルート」はうっすら推察できるんだけど。

 しかも理想的な「順番」を間違えると、ある箇所ではやたらめったら苦戦したり、ある箇所では拍子抜けするほど楽勝だったりして、どっちにしろ「ちょうどいい難易度」になりにくいんだよね。砂漠のイダイナキバ戦は死ぬほど大変だったが、(道順的にはラストに想定されていたのであろう)氷のジムリーダー戦はあっさり倒せすぎてつまんない、みたいなことも起こる。だったら、あらかじめ作り手が想定した「道」をしっかり設定するとか、ゼルダBotWみたいに本当にどこから遊んでも難易度がそれほど変わらない作りにするとか、工夫してほしかった気も。ゼルダBotW発売当時ならまだしも、もう(アサクリとかホライゾンとか)世界水準のオープンワールドゲームにも沢山ふれてしまっているからな…。

 ていうか本作をやって改めて、根本的なことを思ったのだが、個人的にはゲームに「自由度」をそこまで求めてないのかもしれない。別に不自由でもいいので、作り手が「最も面白い」と想定した道順と難易度バランスでプレイしたいとか、身も蓋もないことを思ってしまう。これは映画やドラマなど、作り手がベストだと考える内容をひたすら一本道で見せていくエンタメを愛する人間ならではの古い感覚なのかもしれないが…。(で、そういう一本道ゲームも別に沢山あるので、オープンワールドに文句言うのは筋違いなんだろうが。)

 てなわけでオープンワールドゲームとして大満足とは言えないが、ポケモンがこうした方向性で進化を続けていくなら、それは楽しみなので見守りたい。ただやっぱその場合switch自体のアップグレードはさすがに必須だろうな…とは思う。というか従来の2DのRPGのポケモンを、超絶高いクオリティで今作ったらどうなるんだろうとか空想してしまい、個人的にはそっちの方がむしろ遊んでみたいのだが。

 

【愛すべきサブキャラと良質なストーリー(そして突然の百合)】

 今回は地味にサブキャラとメインストーリーが良かったなあと思う。3つのストーリーが並行して展開し、それぞれのルートでジムリーダー、巨大なぬしポケモン、スター団を倒すことを目標にしつつ、各ルートのサブキャラと共に物語を進めていくわけだが、いずれのキャラも印象的で、3つのストーリーと3人のサブキャラ&主人公が一堂に会する終盤はかなり盛り上がった。

 

・ペパー

出会った時はなんだこいつは…と思ったが、一緒にぬしポケモンを打倒する中で「意外とイイやつ」感がじわじわ高まり、最終的には本作で、というかポケモン史上でも最もストレートに胸を打つエピソードを届けてくれる。犬祭りゲームとしてのポケモンSVをさらに盛り上げてくれた功績も大きい。終盤の展開はよく考えるとだいぶ可哀想な気もするが、そのあたりもぐっと飲み込んで前を向く辺り、だいぶ大人なパーソナリティである。ちなみに(想定レベルを下回っていたとかもあったんだろうが)ペパーくんとのラストバトルが難易度的には一番キツかった。旅の途中で適当に捕まえてたポケモン、ちゃんと育ててたんだね…。

 

・ボタン

 今回いちばん好きなキャラ。コミュニケーションが得意でない、微妙に生々しいオタク・アトモスフィアが味わい深い。外見的にも目の感じとか、赤と青を大胆に組み合わせたデザインも実にカッコいい(市川春子先生キャラデザ説はホントなんだろうか、そうなら納得感はあるが。)打倒スター団の旅の相棒(?)となってくれて、なんか裏あるんだろうなとは薄々思っていたが、クラベル校長の謎に巧みなミスリーディングもあり、ボタンの秘密が明かされる場面では普通に「おお!」となってしまった。(クラベルなんなんだよお前…)

 ボタンはパッと見でも喋り方でも男子か女子か判別しづらく(設定上は女の子らしいが)、ノンバイナリー的な雰囲気なのもイイなと思った。ウェーニバルの項でも言ったけど、ジェンダー撹乱的なキャラデザが多い本作の方向性を象徴するような人物造形でもある。「パッと見では性別がわからない」キャラとしては、他には四天王のチリが代表格だろう。中性的で洗練された外見と、妙に気さくで気だるげな性格のギャップが凄くカッコよくて、夢主を大量発生させてそうである…。

 

・ネモ

 すでに散々バトルマニアとかヒソカとか言われているっぽく、たしかにストーリー上では「どんどん実る…!」みたいな異様な前のめりを見せてくるので少し怖いのだが、最終盤では相性悪そうなペパーやボタンをいい感じにまとめてあげたり、人格者ぶりを発揮してくれて良かった。ネモのキャラデザも、ありがちな「美少女」デザを絶妙かつ意図的に外した感じが面白くて、わりと語りどころがある。

 さっきも言ったが、保守的/内向き/オタク的に感じられることも多い日本ゲームの中では、近年のポケモンのキャラデザは(スプラトゥーンとも並んで)際立って海外を強く意識していることを感じさせるのだが、今回のSVは前回の剣盾ともまた異なる意味で開かれた感じで、そこも興味深かった。

 

・キハダ先生と突然の百合(ハリーポッターと賢者の石)

 …ところでみんな、学校イベントはちゃんとこなしてるだろうか? スルーしてる人も多いだろう。授業は(先生には申し訳ないけど)かなり内容がつまらないし、テストも科目によっては中途半端に難しいので、全体的にストレスが多く、逆にリアルな学校生活の追体験ができるとも言えるレベルだ。授業を受けなくてもマジで一切ストーリーに支障がないので、普通にスルーしてる人も多いんじゃないかと思う。

 ただ教師陣のキャラがかなり魅力的なので、授業を進めていくごとに先生との色々なコミュニケーションが開放されていくのが楽しく、サボらずに一度受けてみるのも良いと思う。私はカラッとした体育教師のキハダ先生が好きだった。いわゆるメシマズ的なギャグがあって、普段なら「女性キャラのメシマズネタとか古臭くてつまんねー」と思うところだが、キハダ先生の場合は「マジで体を鍛えることしか興味ない」というパーソナリティもあり、あまり嫌な感じがしなかった。

 そんなことよりキハダ先生といえば、異常な百合のポテンシャルで界隈をざわめかせている。ジムリーダーのリップとのまさかの幼馴染関係が明らかになるのも凄いし(「ポケモンバトルで負けたほうがなんでも言うこと聞くんだ!」みたいなセリフをカラッと言っててヤバい)、かと思えば学校では保健室のミモザ先生との絆を育んでいたりするので、リップ-キハダ-ミモザの社会人百合トライアングルみたいになっていて凄みがあった。キハダ先生に「ミモザ先生!私の幼馴染に会ってほしいんだ!」と言われて行ってみたら超有名人のリップが現れてうおぉ〜いマジかよキハダお前、幼馴染ってリップ様かよ大ファンだよ私、知ってたらもっとキメてきたのに〜適当なカッコで来ちゃったじゃんふざけんなよ言えよマジでキハダお前と手汗をかきまくるミモザ、当然のようにキハダを自分だけのものだと思って余裕こいていたら学校で知らん女(美人)と謎の絆を育んでいた事実に微笑みながらも静かにショックを受けて手汗をかきまくるリップ、そんな2人の心の機微に全然気づいておらず「大好きな2人が知り合ってくれて嬉しいぞ!」とはしゃぎ続けるキハダ先生……というエピソードは特になかったが、追加DLCで確実にあると思う。

 

そんなこんなで楽しかったポケモンSV、まだクリア後要素が色々ありそうなのでまだしばらく続けたいと思います。おわり。

天才の頭の中を覗くような。『THE FIRST SLAM DUNK』感想&レビュー

 バスケットボールはあまり好きではない。中学の時、バスケ部の連中がイヤなやつばっかりだったからだ。性格の悪いイジメっ子とチャラいアホがたしなむスポーツ、それがバスケなのだろう…。そんなふうに中学生の私は考え、それ以降バスケを見たり遊んだりする機会も特になかった。私の人生とバスケの唯一の接点といえば大人気漫画『SLAM DUNK』(以下スラダン)であり、一応読んでみたら名作だけあって確かに面白かった。しかし中学のバスケ部には自分を桜木花道だと思いこんでるアホとかもいて鬱陶しかったので、「スラダン」がバスケのイメージを向上するまでは至らず、バスケは私の心の「別にどうでもいい箱」に入れられた。

 しかしそんなバスケ一切興味なし人生に、もう一度バスケに触れる機会が訪れた。映画『THE FIRST SLAM DUNK』である。予告編を見た時点では、特に思うところは全くなかった。あ〜最近よくある感じの名作リメイクね、私らの世代もすっかりノスタルジー消費者ターゲットだね、てかスラダン原作者の井上雄彦氏が監督もやるの?どういうこと?てか手描き2Dじゃなくて3DCGなの?大丈夫?なんか声優交代とかで文句言われてるし、まぁ熱心なファンじゃないしどうでもいいっちゃいいけど…。しかし公開されると、意外と映画/アニメファンの間で評判が良く、せっかくだし観に行っておくかと劇場に足を運んだ。その結果……

『THE FIRST SLAM DUNK』は、素晴らしかった。スラダン原作のアニメ化として云々というのを超えて、純粋に1本の独立したアニメ映画として、いまだかつてない作品が現れたと感じる。海外のアニメ映画を継続的にチェックしている身としても言うが、世界全体を見回しても、こんなアニメーション作品は前例がないんじゃないだろうか。いま海外アニメは(むしろ日本やアメリカ以外のアニメが)とても豊かで先鋭的なことになっているので、日頃あまり「日本アニメすごい」的なガラパゴス称賛はしないようにしてるのだが、それでも『THE FIRST SLAM DUNK』は世界的にもかなり前代未聞にして、間違いなく独創的なアニメ映画になっていると思う。

 ここで再び私のスラダンへのスタンスをまとめておくと「原作漫画は子どものころ読んだきり、それも細部はうろ覚えだし、特定のキャラに別に愛着もないが、各キャラがどんな性格でどんな背景があるかくらいはまぁまぁ覚えてる。ちなみにアニメ版は全然みてない」程度のものだ。全く熱心なファンではないが、まさに私くらいの層が『THE FIRST SLAM DUNK』を最も楽しめる観客である可能性も、けっこう大きいようにも思う。「とにかくオールドファンに金を落としてもらおう」的な、洋の東西を問わず流行中の懐古趣味リメイクとはかけ離れた、とても開かれた作品であることは確かだ。

 ただ(うろ覚えとかですらなく)本当にマジで一切スラダンを知らない状態で『THE FIRST SLAM DUNK』を観るのは、さすがに「もったいない」感が若干勝つ気もする。というのも本作『THE FIRST SLAM DUNK』を先に観ることで、伝説的に面白い原作漫画の終盤のネタバレを食らうとも言えるからだ。何も知らない純粋な気持ちで原作を味わいたい人は、映画を観る前にさっさと読んでしまおう。(私もうろ覚えなので読まねば…)

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 ただし原作スラダンの結末はもはやミーム化してるレベルで有名なので(『あしたのジョー』の結末に匹敵するかも)、すでにぼんやり知ってるなら映画を躊躇する意味は特にない。主要キャラの性格や背景など、最低限の説明は的確に挟まれるので「全く意味がわからない」ことはないだろうし、完全初見も全然アリかと思う。映画館で観ることに大きな意味がある映画なので、原作への熱量を問わず、基本的にはすぐに劇場に駆けつけて、観客席の熱気を味わうのがベストだろう。

 

ーーー以下、ネタバレは特に避けないので注意(ネタバレで楽しみが損なわれるタイプの作品とは思ってないが…)ーーー

 

大きく分けて2つ、本作の最も素晴らしいと感じたポイントを語っていきたい。そのポイントが両方とも、最も賛否が分かれそうな点であることも面白いところだ。

ポイント1:【革新的なアニメーション表現】

youtu.be

 本作の予告編を観てパッと浮かんだ感想は「あれ、手書き2Dアニメじゃなくて3DCGか〜」というものだ。まずこの「2Dじゃない」件に反発している原作やアニメのファンも多いようだし、その気持ちはわからなくもない。3DCG技術の進化によって、海外の大作アニメ映画はほぼ完全に3D化が進んでおり、日本アニメも例外ではなく(ディズニーやピクサー等の水準にはほど遠いが)フル3Dのアニメも増えてきたし、馴染み深い2Dアニメの領域にも(セルルック風など)3Dが進出している。しかしまだ技術の過渡期ゆえか、中途半端な3D技術に違和感を感じる機会も多いのが日本アニメ界の現在地といえる。

 だが『THE FIRST SLAM DUNK』本編の3Dアニメ表現には、端的に言って驚かされた。まず冒頭からガッと引き込まれる。大きな海が眼前に広がる沖縄のバスケコートで、2人の男の子(その正体は後述する)がバスケに興じている。予告編でもチラリと見えた、なんてことない光景のはずだが、劇場で本編を見ると直感的に「まるで現実のようだ」と感じた。よく考えるとこれは不思議なことだ。ビジュアル的な意味でのCGのクオリティ自体は必ずしも最高峰ではなく、パッと見で「CGだな」とわかるレベルで、たとえばPS5の最新ゲームのような「実写に見紛うほどの美麗なCG」とかではないのだから。なのになぜ「現実のようだ」とまで感じたのだろう。

 鍵となるのは「動き」だ。本作のキャラクターの動きは、モーションキャプチャー技術を使って描かれている。劇中人物がバスケをプレイするシーンでは、現実のバスケプレイヤーの動きをキャプチャーし、そこにトゥーンレンダリング(CGを漫画やイラスト風の作画でレンダリングすること)を施したという。多分そこからさらに手作業で細かい調整を行うのだろう。その結果「漫画/アニメっぽいルックのキャラが、限りなく現実に近い動きをしている」という3Dアニメーションが具現化している。

 その手法こそが、まるで実写とアニメーション、虚構と現実の境目の上を2時間ぶっ通しで走り続けるような、いまだかつてない不思議なリアリズムを本作にもたらしているのだ。「そんなにリアリズムが大事なら、実写を作ればいいじゃない」という意見もあるかもしれない。だが本作のアニメ表現が生む新鮮な驚きは、通常の実写映画からは生まれえない。キャラのビジュアルが漫画/アニメ的であるがゆえに、一種の異化効果によって、逆に「現実の人間の動き」を強く想起させるのだ。

 『THE FIRST SLAM DUNK』のリアリズムにおいて、「動き」と同じくらい重要なのは「声」だ。動きにあわせて、声の演技もいわゆる「アニメ的」な抑揚を程よく抑えた、リアリティの高い演技になっている。本作は昔のアニメ版から声優を変更した件で炎上気味になったようだが、ここまでアニメーションの手法が抜本的に新しくなってしまえば、そりゃ声優だって変更するしかないだろうと思う。往年の2Dアニメにマッチするタイプの、フィクショナルな演技では確実に浮いていたはずだ。

 そんな『THE FIRST SLAM DUNK』の大半はバスケの試合シーンが占める。予告では伏せられていたが、実は本作で描かれる試合は原作漫画のクライマックスである、「山王」との闘いだったのだ。本作を称賛する声で特に多いのが「映画というよりも、本当に試合を観てるようだった」というもので、まったくもって同感である。バスケのコートを縦横無尽に走り回るキャラクターたちの姿を、劇中の試合進行とほぼリアルタイムで捉えたがゆえの臨場感は圧倒的だ。

 もちろんリアリズム一辺倒ではなく、アニメゆえの楽しさも満載である。試合が白熱する中で、たとえばダンクシュートを決める瞬間を真下から捉えた映像、ドリブルをものすごく低い視点から捉えた絵面など、「実写では不可能なアングル」が多発する。「漫画のような実写」と「実写のような漫画」の交錯点としての「漫画でも実写でもないアニメ」が、映画全体に驚くようなダイナミズムをもたらしているのだ。

 キャラが3DCGかつ、会場全体を映した俯瞰ショットが多いからかもしれないが、試合の空気感に、漫画で読んだ印象よりも少し突き放した現実的なクールさ・ドライさが漂っていたのも良かった。主人公たちにとっては凄く重要な試合だが、あくまで「現実の会場で沢山行われているうちの一試合」に過ぎない、というような…。これは実際に会場の観客席で(第三者視点から)スポーツの試合を観戦している人に近い感覚かもしれない。

 この「ドライさ」も感じるアニメ手法によって、逆に強烈な存在感を獲得したキャラクターがいる。言わずと知れた『SLAM DUNK』の主人公・桜木花道である。全体的にはリアリティが高い、まるで本物の試合のような雰囲気であるからこそ、ド素人だが天才的なセンスをもつ桜木の破天荒な行動が、良い意味で「悪目立ち」するのだ。ダブルドリブルの場面の可笑しさったらないし、机の上に立って観客を煽りまくるシーンでは「マジでやべーやつがいるよ…」と客席の心情とリンクした。

 しかしだからこそ、チームがピンチを迎えた時に桜木が不敵にも言う「おめーらバスケかぶれの常識はオレには通用しねえ!シロートだからよ!」というセリフが、まさに(漫画においては達人だがアニメ業では「シロート」である)井上氏の境遇とも一致することにゾクッとしてしまう。終盤になるにつれ、机に突っ込んでまで勝利に固執する桜木の様子に、彼に反感を抱いていた試合の観客までもがつい応援してしまう姿は、「漫画家がアニメ監督ねぇ…」と斜に構えていた私たち映画の観客の心情とも、見事にリンクするかのようだ。

 この実写的リアリズムと漫画的ダイナミズムの交錯点のようなアニメの試合を「観戦」することで、「天才漫画家でありアニメ素人」である井上雄彦氏が多大な手間をかけて(2Dではなく)3Dアニメ表現にこだわった理由が見えてくる。それは天才の頭の中で起こっている「リアル」をそのまま出力するためだと思う。つまり井上氏がかつて「漫画」の形でアウトプットしていた、脳内で縦横無尽に繰り広げられる「動き」をリアルかつダイナミックに表現するための、現時点でのベストな手法が「3DCGアニメ」だったから…ではないだろうか。

 現在の日本アニメは…というと雑に括り過ぎだが、全体の傾向としては「強い"絵"の力によって、いかに現実を魅力的に歪曲するか」にアニメーションの重点が置かれていると感じる。大ヒットした『鬼滅の刃』でも新海作品でも、まずはカッコよかったり美麗だったりする、現実を魅力的に歪めた"絵"が中心となり、それを軸にキャラを動かしたり、エモい音楽や派手な特殊効果を重ねたりして、アニメーションを成立させるという発想が根強いと思う。

 だがそうした主流的な日本アニメのスタイルは、現実の人間のリアルな躍動にこそ命が吹き込まれるという、井上氏が極めてきた創作の方法論と、実は相容れないものだったのだろう。だからこそ氏は、今回のような新しいチャレンジに出たのではないか。あえなく失敗する可能性も大いにあったはずだが、蓋を開けてみれば、1本のアニメ映画として(世界的に見ても)前代未聞の革新的な作品ができあがったわけだ。

 実際、『THE FIRST SLAM DUNK』のような発想で作られた、近年の日本・海外のアニメ映画は(特にこうした大作エンタメでは)全く思いつかない。あえて国内で1本、近い種類の驚きを感じた近年のアニメ映画をあげるなら、岩井俊二が監督を務めた『花とアリス殺人事件』だろうか…。

 両作品は、アニメ世界に異質な現実感を持ち込んだ作品であること、監督がアニメ畑の作家ではないことが共通している。ただし『花とアリス殺人事件』は全編ロトスコープなので、モーションキャプチャーの方法論をベースにしつつも、同時に漫画/アニメ的なダイナミズムを大胆に織り交ぜた『THE FIRST SLAM DUNK』とはやはり全く異なると言えるが…。

 同じくCGを使ったアニメであっても、たとえばディズニー/ピクサー/ドリームワークスのような海外アニメ映画の主流とも、『THE FIRST SLAM DUNK』は全く異なっている。あえて海外から挙げるなら、今年見た素晴らしい中国アニメ『雄獅少年』が、高いリアリズムと(後述するが)逆境の中で生きる若者へのシンパシーという点で、通じるところが多いと言えそうだ。

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そして自分でも意外だが、同じく今年観たアニメ映画である『FLEE』を思い出した。アフガニスタンから難民として「脱出」したゲイの青年の人生を、実写を元にしたアニメーションで語り直した特異な作品で、表現手法としてアニメがもつ大きな可能性を改めて感じさせてくれる映画だ。

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 もちろん『FLEE』とは作品テーマも規模もあまりにも異なるのだが、現実とアニメの境界に踏み込んでいくチャレンジ精神という点では、『THE FIRST SLAM DUNK』にはこうしたアート映画にも共鳴する志の高さがあると感じる。

 そんなわけで本作は、2Dアニメ/漫画/実写映画の枠組みを踏み越え、それらを融合するような大胆な手法としての「3Dアニメ」の新しい可能性を切り開いた。しかし実は従来的な「2D」表現への愛着もたっぷり表現されている。3Dへの期待を感じさせる冒頭から始まったかと思うと、オープニングでは逆に意表をついて、「手描き2Dアニメ」のワクワクするような魅力を強調してくるのだから(そして最終盤のぶち上がる場面にも繋がっていく)。うろ覚え勢である私でさえ「あいつらが帰ってきた!」と興奮したのだから、原作ファンは感涙モノといって良いはずだ。なんにせよ本作、アニメ表現に少しでも興味がある人は、決して見逃さないほうがいいだろう。

【ポイント2:リョータについて】

 こうしたアニメ表現の革新性に匹敵するほど、『THE FIRST SLAM DUNK』を観て素晴らしいと感じたポイントがある。それは宮城リョータにまつわるエピソードだ。

 リョータは、実質的な本作の「主人公」と言っていい。先述した「冒頭でバスケに興じている2人の男の子」とは、宮城リョータと兄のソータだったのだ。本作は、原作漫画では描かれることのなかった、実はリョータが内心で抱えていた葛藤を描写していく。いわば壮大な「後づけ」と言えばそれまでだが、まさにこの点こそが『SLAM DUNK』を今リメイクする必然性だと思えるほど、個人的には心打たれた。

 私が原作うろ覚え勢なせいもあるだろうが、リョータはメインの5人の中では比較的(ファンには申し訳ないが)印象の薄いキャラだったように思う。リョータには桜木や流川のようないかにも少年漫画的なケレン味もないし、赤木(ゴリ)のように過去にまつわる濃いエピソードもないし、三井のように大胆な変化を遂げるドラマチックな展開もなかったはずだ。リョータは確かな実力をもつ魅力的な人物だが、あくまで脇を固める名サブキャラだったように記憶している。

 だが、そんなリョータを中心に再構成された本作を観て、改めて気づくことがある。『SLAM DUNK』があまりに有名な作品であり、そしてリョータ自身も人気のキャラであるゆえに、『THE FIRST SLAM DUNK』を語る上でも意外と見落とされそうなポイントだ。それは宮城リョータのようなキャラクターが、日本のアニメ作品で「主人公」として正面から深く描かれるのは意外なほど珍しいということである。

 アニメ好きの人はちょっと考えてみてほしいが、本作のリョータのような、スポーツが好きで雰囲気は少々チャラいが、実は家庭の背景など様々な苦悩や鬱屈も抱えている…という、そのへんのストリートにいそうなリアリティある"普通の若者"が、近年の日本のアニメで「主人公」として描かれたことがどれほどあるだろうか…? いやちゃんと探せばあるのだろうが(書いてて『サイバーパンク:エッジランナーズ』とかはわりと当てはまるかなと思った)、それはともかく、リョータのような人物が深い解像度とリアリティ、そしてシンパシーを伴って主人公を務めているというだけでも、『THE FIRST SLAM DUNK』は相当フレッシュな作品に感じられた。

 原作の時点で、リョータは主要メンバー5人の中で最も「こういうヤツって本当にいそうだな」という身近なリアリティを有していたキャラと言える。『THE FIRST SLAM DUNK』はその点が強調されるとともにさらに掘り下げられ、一見するとよくいるチャラめの若者だが、実は複雑で繊細な内面をもつリョータという人物を重層的な視点から描き出そうと試みる。

  先述したように本作冒頭のリョータと兄・ソータがバスケをしている場面がまず鮮烈だ。モーションキャプチャーによるリアルな動きと、かなり抑えられた声の演技のトーンが「まるで現実みたい」な効果を生むことについてはすでに言及した。だが話が進むと、このいっけん和やかなバスケの場面の裏に、実は「厳しすぎる現実」が横たわっていることが見えてくる。

 実はリョータとソータの宮城家は、父を失っていた。ソータは嘆き悲しむ母親に、一家の長男として家族を支えると告げるが、とはいえ彼もまた子どもに過ぎない…。秘密基地のような洞穴で、現実を受け止めきれないソータが泣きじゃくる哀れな姿をリョータは目にする。そんな悲惨な状況だからこそ、兄弟にとってバスケは、キツい現実に心折れないための「救い」であり、ある種の「逃避」のような役割も果たしていたことがわかる。「辛いときこそ平気なフリをしていろ」といった内容の兄の言葉は、その後もリョータの人生にこだまし続ける。

 だがあろうことか、ただでさえしんどい宮城家とリョータをさらなる悲劇が襲う。なんとソータまでもが、海の事故で帰らぬ人となってしまうのだ…(兄の死は冒頭の時点では直接的には描かれないのだが)。あまりに無情な展開だが、現実には「これくらい」の悲劇は起こるときは起こるし、重なるときは重なってしまうんだろうな…とも思わせるような、妙にドライな冷淡さに貫かれていて震えてしまう。(広がる海のイメージと大きな喪失の結びつけ方から、極めて間接的にではあるが、「ポスト3.11映画」として受け止める余地も残しているように思った。)

 キツすぎる悲劇が起ころうが、人生は淡々と続いていく。父も兄も喪ったリョータは成長してバスケ部の選手になり、兄の形見に「いってくる」と告げて試合に向かうのだった。この直後のオープニングがブチ上げで最高にカッコいいので誤魔化されてる気もするが、冷静に考えるとどんな始まり方だよ、『ブラックパンサー ワカンダフォーエバー』かよと思ってしまうほどに、あまりに悲しすぎる冒頭である。

 だが冒頭から全体を貫くこの「悲しさ」こそが、本作を特別なものにしている。その後のリョータのスポーツへの向き合い方は、悲しみに満ちている。優秀なバスケ選手だった兄の後を追い、不在の穴を埋めるようにして、リョータはバスケにすがりついていく。切実さもあってバスケの腕前はどんどん上達していくが、心に空いた穴が真に埋まることはない。それでも「辛いときこそ…」という兄の言葉を胸に、リョータは「平気なふり」をしながら、自分の人生の逆風にバスケで挑んでいくのだ。

 このリョータの描かれ方をみて、私などは「ああ、そうだよね…こういう人だって沢山いるよな…」と少し反省したほどだ。スポーツマンといえば、あたかも「リア充」(リアルが充実している人)や「陽キャ」(明るくて人付き合いが上手い人)の代表格のような存在にも思われがちだ。そうしたリア充や陽キャと自分は違う…的なルサンチマンをバネに、何かに没頭するというキャラ造形はアニメにおいて馴染み深いものだ。だが現実逃避は陰キャオタクの専売特許ではない。現実の辛さを忘れたくて創作行為やサブカル趣味や科学研究に打ち込む人がいるように、(いっけん明るくチャラく振る舞っているかもしれないが)同じ理由でスポーツに打ち込んでいる人だって沢山いるはずだ。

 日本アニメ界には、そもそもオタク的な感性をもつクリエイターが集まりやすいし、その作品を(私含め)オタク的な感性をもつ鑑賞者が見るという高濃度オタクサイクルがいまだに根強いと思う。だからこそ取りこぼされるタイプのキャラクター="他者"って絶対いるよな…とは以前から感じていたが、本作のリョータはまさに「オタク的な想像力が取りこぼしてきた」"他者"ではないかと思えた。オタクの支配権と影響力が強すぎる日本アニメ界において、物語やキャラを描く上で実は密かに存在していた「檻」のような枠組みを、スラダンという超有名作品の力をフル活用してぶち破るパワーがとても痛快で、同時に痛烈でもあった。

 冒頭で「バスケは好きじゃなかった」と書いたが、昔のしょうもない思い出などから、スポーツへのうっすらした偏見をもっているような私のようなオタク系人間は、つい"ナードvsジョック"(いわゆる文化系オタクvsスポーツ系リア充)的な安易な対立項にとらわれてしまいがちだ。おめーが偏ってるだけだろと言われればそれまでだが、実際そうした構造は(アニメに限らず)フィクションに数え切れないほど出てくるので、実はうっすら影響されてる人も多いのでないかと思う。だが現実には「オタクvsリア充」みたいなシンプルな対立項に、人間が都合よく収まるわけがない。

 本作のリョータ(や後の三井)のように「現実がキツすぎて、持て余したエネルギーを変にこじらせて自分をダメにしないためには、もうスポーツしかないんだ…」というような、切羽詰まった状態にある若い人って、実際には多いんだと思う。車椅子バスケを描いた井上氏の過去作『リアル』は未読なのだが(読みます)、おそらくそうした作品などを経たことによって、そんな若者たちへの井上氏のシンパシーはますます強まっていったのだろう。

 その結晶としての『THE FIRST SLAM DUNK』は、「しんどい人生に抗うためにスポーツに打ち込む若者」に向けた力強いエールのようにも受け止められる。かつてスラダンの読者だった元スポーツ好きや、リアルタイムでスポーツに打ち込む、悩みや鬱屈や喪失を抱えた若い人々は、本作のリョータたちの物語を見て、どこか深い部分で慰められ、励まされるのではないだろうか。井上雄彦氏が『SLAM DUNK』を今リメイクした背景には、エンタメにおける共感の網からこぼれ落ちてきた「他者」たちをすくい上げたい、という現実世界に広く開かれた意志があったのだと思う。その意志が、アニメ表現において「リアル=現実」を強く志向した姿勢とも深く共鳴しているのは、まさに必然だろう。

 

 (またも1万字くらい書いてしまったのでそろそろ終わりたいが)一応最後に言っておくと、『THE FIRST SLAM DUNK』は、必ずしも観た人全員をまんべんなく満足させる、端正でバランス完璧な作品とは言えないのかも知れない。私も絶賛しつつ、気になる点もないではない。たとえば回想シーンを多用することで、特に試合の後半は、せっかくのスピーディでスリリングな展開をやや損なっている感もある。また、長大な山王戦を映画の尺に押し込めたことで、どうしても削らざるをえなかった場面やセリフなども少なくないようだ(私は原作うろ覚えなので気にならないが)。

 それでも、私が良い映画…というか良い創作物の条件だと考えているものが2つある。それは「見たことのない何かを見せてくれること」、そして「他者への想像力を拡張してくれること」だ。本作は獰猛なまでに大胆なアニメ表現によって前者を、深みのあるリョータの物語によって後者を満たしてくれた。この基準から言えば『THE FIRST SLAM DUNK』は、紛れもない傑作と言わざるを得ない。

 たしかに、スラダン原作や昔のアニメの熱心なファンが本作をどう思うのか、原作うろ覚え勢としては検討もつかない。私の観測範囲では称賛の声が非常に多いとはいえ、けっこうな熱量で反発してる「オールドファン」の声もちらほら目にする。ただ言わせてもらえば、もしもずっと好きだった作家が、自分の過去作をベースに、これほど革新的かつ真摯な作品へと飛躍したのなら、私なら心から誇らしく思うだろうし、そんな作家を愛した自分の目は間違ってなかった、と感動することだろう。だからお前もそう思うべきだ!…とは決して言わないが、できる限り思い込みやこだわりを捨てたオープンな心で、天才の頭の中を覗いてもらえればと思う。

 

12/18追記

たくさん読んでもらってありがとうございます!追記(?)として原作漫画の再読レポートも書きました。

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カルガモ令嬢が伝授する「カモ見」の愉しみ

この大課金時代にありながら、いくら見ようとビタイチ課金されない庶民のための高コスパエンタメ、それが「カモ見」…。どんな大富豪にも買収できない、この世にカモがいる限り揺るがない不滅のエンタメ「カモ見」の楽しさを、誇り高きカルガモ令嬢カモミールが皆さまにプレゼンいたしますわ。初心者にも見つけやすい「かもセブン」も紹介しますわよ。

 

<参考文献ですわ>

amzn.to

経験豊かな「ガンカモ博士」が、個性豊かななカモ類の生態、渡り、保全に関する情報を解説してくださる、希少な「カモ学」の本ですわ。

 

本の中でも触れられていたヒドリガモの「労働寄生」の決定的瞬間はこちら。オオバン、がんばってほしいですわね…

 

鳥雑誌『BIRDER』カモ回(2020年12月号 カモ類ウォッチングの愉しみ)もカモ初心者にオススメでしてよ。

BIRDER (バーダー) 2020年 12月号 [雑誌] | BIRDER編集部 | 趣味・その他 | Kindleストア | Amazon

 

そういえば5年前にこんな早見表も作りましたわね。この5年で世界は激動してしまいましたが、カモはどっこい揺るがぬ存在なのですわ。

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2ヶ月でみろ!AppleTV+作品オススメ祭り(2022年11月時点)

 あなたがAppleTV+に加入していなかったとして、誰に責められようか。たとえドラマや映画を日常的に見る人であったとしても、NetflixやらAmazonプライムやらDisney+やらhuluやらU-NEXTやら群雄割拠な配信サービスに膨大に流れ込んでくる作品の消化で忙しいことだろう。その上さらにAppleのよくわからんサブスクに入る時間的/金銭的余裕はないかもしれない…(最近600円→900円に値上げしよったし)。

 しかし数ある映像サブスクをそこそこ使い倒してる身として自信をもって言うが、AppleTV+はすごい。その最大の特性は「クオリティ・コントロール」だ。要するに、とても質の高い作品が少数精鋭で揃っている映像サブスクなのである。作品数は多いとは言えず、見放題なのもAppleオリジナル作品だけなので、物量的にはNetflixやAmaプラに比べてはっきりとショボい。だがたとえば作品を大量に投入し続けるNetflixには意外とクオリティのバラつきがあったりすることに比べて、「何を見てもまず間違いなく面白い」AppleTV+の異質さは際立っている。

 ドラマ分野のエミー賞ではすでに常連という感じだが、映画分野でも、昨年のアカデミー賞でAppleTV+発の『CODA あいのうた』が作品賞を取ったりした(ややこしいことに日本ではAppleTV+では見放題できないのだが…)ので、映画・ドラマファンがいよいよ無視できない配信プラットフォームになってきているのは確実だ。

 すでにAppleTV+の回し者感が出てしまっているが、一応言っておくとPR案件でもなんでもない。このサービスが(特に映画・ドラマファンの間で)埋もれ続けることは一種の文化損失だと思うし、せめてエンタメ好きの間でくらいは普通に流行ってほしいし、ちょうど無料キャンペーンやってるし、何より良い作品が多いので自分用にもそろそろ一回まとめておきたかったのだ。

 まず初見だと「AppleTV」と「AppleTV+」はどう違うの?と迷うかもしれない。ややこしいよね。ざっくり言うと「AppleTV」はデバイスの名前で(AmazonのFire StickのApple版みたいなもん)、「AppleTV+」は今回紹介する配信サービスの名前である。なおAppleTV+を観るにあたってAppleTVは必要なく、アプリとかブラウザでNetflix感覚で見られる。

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 腹立たしくも300円も値上げしよったAppleTV+だが(作品がだんだん増えてきて権利関係とかでしょうがないらしいけど)、ちょうど今2ヶ月無料のキャンペーンを行っているので、入ろうか迷ってた人はこのチャンスを逃さないでいただきたい(ブログ記事タイトルの由来)。無料コードの有効期限は2022年12月2日までらしいので今すぐ入って2ヶ月でぜんぶタダで見よう!見れるかな。わからん!

2022年12月25日更新:2か月無料コードが復活してました↓。期限は2023年1月14日とのこと。入っとこう。

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『バッド・シスターズ』

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 色んな有名作品を置いといて、まずは(2022年11月時点で)最新ドラマ『バッド・シスターズ』から紹介したい。主人公は固い絆で結ばれた5人姉妹だ。姉妹のひとりグレースの夫・ジョンが死んでいる場面から物語は始まる。時をさかのぼると、このジョンという男が清々しいほどの最低クソ野郎だったことがわかる。ジョンは基本的に女性や社会的弱者を常に見下し馬鹿にしていて、とにかく妻グレースをはじめ周囲の人みんなに嫌な思いをさせているモラハラ男なのだ。ジョンのせいでどんどん弱っていくのに、彼から離れられないグレースを見ていられない姉妹たちは、思い切ってジョンを殺すことを決意する!

 さすがに殺すなんてひどいだろ!と思うかもだが、ドラマを見続けていくと「まぁ殺意を抱かれるだけのことはあるクソ野郎だな…」と思えてくるだろう。本作最大の見どころとして、ジョンのクソ野郎っぷりの解像度が非常に高いことがある。明らかにひどいモラハラ的な暴力から、ちょっとした会話に滲ませる差別意識まで、その細やかで丁寧なクソ野郎表現が本当に不快なのだ(褒め言葉)。死ぬとわかっていなかったら逆にだいぶ視聴がキツイだろう。

 物語において「クソ野郎」を描くのは意外と難しい。打倒されるべき悪役には大抵クソ野郎属性が付与されるものだが、平凡な作り手だとテンプレ表現になりがちで、逆に「こんなやついるか?」と物語から深みが失われてしまうものだ。だがその点、本作『バッド・シスターズ』のジョンは(悪い意味で)素晴らしい。度を越したクソ野郎でありながら、「いやでもこういう男は実際にいるよな…」と観客に思わせるイヤな質感と説得力があるのだ。もはや近年のエンタメのキーワード概念ともいえる「有害な男らしさ(トキシック・マスキュリニティ)」が、現実世界でどのような形をとって現れているか、ドラマの作り手が本気で考察・分析していなければ生まれ得ないキャラクターだと言える。

 物語は、そんなジョンが"活躍"する過去パートと、ジョンが死んだ後の現在パートを行き来しながら進行する。過去パートでは、圧倒的クソ男ジョンを、爆殺・毒殺・銃殺など多種多様なやり方で抹殺しようと企てるタフな姉妹たちの密かな陰謀が楽しめる。現在パートでは、ジョンの死の真実を突き止めようとする(貧乏で切羽詰まった)保険会社の調査員が、姉妹たちに迫る様がスリリングだ。

 果たしてジョンを「殺した」のは誰なのか…?  その答えに向けて、時を行き来しながら突き進んでいく本作は、一気観してしまうエンタメ的勢いに満ちている。いまだ世の中を支配するマッチョでトキシックな男の醜悪さと弱さを解体しながら、虐げられた女性たちの(時に法をブチ破ってでも)連帯していく姿を描く、「犯罪シスターフッド」系ドラマの新たな名作だ。『キリング・イヴ』好きな人にもオススメ。

 

ちなみに同じくAppleTV+で『バッド・シスターズ』に通じるテーマ性や雰囲気の、短めのドラマ『彼女達が、キレた時』も凄く良かったのでぜひ。Netflix『ブラックミラー』のような不気味なテイストもありつつ、女性たちの"怒り"に焦点を合わせた版という感じの迫力あるオムニバスだ。

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『ブラックバード』

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 こちらも最近のドラマだが、無類に面白い犯罪サスペンスなのでイチオシだ。タロン・エジャトン演じるめちゃモテ男・ジミーはワルな人生をエンジョイしていたが、銃の違法取引がバレて刑期10年の罪を喰らってしまう。だが「重犯罪刑務所に潜入して、少女連続殺害の容疑者と仲良くなって自白を引き出したら釈放してやるよ!(ただし失敗したらそのまま刑務所に放置ね)」という無茶な条件を引き受けて、ジミーはヤベー犯罪者が集う刑務所に潜入する。こうして「スーパー陽キャなモテ男vsスーパー陰キャな殺人鬼」の人生かかった心理バトル(友達づくりともいう)が幕を開けるのだった!

 本作で最も強烈なポイントは、なんといっても殺人鬼(仮)役のポール・ウォルター・ハウザーだ。恰幅のいいボディと妙に小動物的なニュアンスのある顔が特徴的な役者で、『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』や『ブラック・クランズマン』で「本当にこういうやつを引っ張ってきたんじゃないの?」と思わせるほどリアルなダメ人間を演じていたと思っていたら、イーストウッドの『リチャード・ジュエル』でまさかの主演を演じていた上に、このたびタロン・エジャトンとの堂々共演なのだから、地味にキャリアのウナギ登りっぷりが目覚ましい。

 そんなポール・ウォルター・ハウザーが本作で演じるのが、少女を暴行して殺した(容疑の)最悪殺人鬼ラリーというわけだ。リンカーンみたいな時代錯誤のヒゲ面が強烈すぎて、はっきり言って変態殺人鬼にしか見えないので初見でもう「お前がやったんだろ!!」と思ってしまう…のだが、本作を複雑にしているのは、このラリーが妙に「かわいげ」があるやつなのだ。一見やべー殺人鬼でも、仲良くなってみると妙に人懐っこかったり、(役者の体型も相まって)くまさんみたいな愛嬌もあったりして、ジミーともども「あれ、なんかけっこうイイやつ?」とちょっと「ほだされて」しまうのだ。…だが、しかし、もちろんそれで終わるはずもなく……という展開の緩急が見事で、温泉と冷水風呂を行き来するような鑑賞体験が味わえる。  

 ラリーの心に秘められた闇が明らかになる過程がとにかく恐ろしい一方で、ジミーもジミーで心に鬱屈を秘めていて、まったく正反対の2人がどこかで互いに自身の影を見出す…という複雑な心の機微も、本作の深みを増している。全6話できれいに完結しているので見やすいし、近年いちおしのサスペンスドラマだ。

 

『テッド・ラッソ :破天荒コーチがゆく』

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 たぶん最も有名なAppleTV+のドラマだろう。最近はエミー賞コメディ部門の常連だったりするし、ドラマ好きなら名前くらいは聞いたことがあると思う。実際に見てみればその心温まる素晴らしい内容から、世評の高さにも納得するのではないだろうか。

 主人公テッド・ラッソはアメフトのコーチだったが、なぜかイギリスでサッカーチームの監督を務めることになってしまう。サッカーはド素人なのでチーム運営は当然うまくいかず、試合でも負けまくり、チームメンバーとも揉めまくり、メディアにも観客にも叩かれまくるラッソ監督。だが持ち前の明るさとユーモア、そして飛び切りの親切心によって、思ってもいなかったような変化を周囲にもたらしていくのだ。

 主人公のテッド・ラッソ監督は、先ほど紹介した『バッド・シスターズ』の最悪モラハラクズ男・ジョンの、まさに正反対に当たるような男といえるだろう。 

 ただでさえ、この社会は「弱さ」にとても厳しい。勝ち負けが全てを左右するスポーツ業界なら、なおさらだ(ワールドカップへの反応を見よ)。結局のところ成果主義・実力主義であり、優しかったり感じが良かったりしても「弱ければ無意味」、勝てなければ意味がない…。そんな考え方は合理的なものとして社会に蔓延している。だからこそ『バッド・シスターズ』のジョンのように、仕事では優秀だが中身はクズみたいな人間が必然的にはびこるわけだ。だが本作は、最も「弱さ」が許されないスポーツ業界において、心優しいラッソ監督が引き起こしていく変化の波を描くことで、強さ/弱さをめぐる価値観を揺るがしていくドラマなのだ。

 この手のスポーツものの定石を覆すような、シーズン1のラストにはかなり驚いたのだが、「たとえ弱くても優しくあることの価値」を示す本作にとっては、むしろ筋が通った結末といえる(と同時にシーズン2への強いヒキにもなっているわけだが…)。テーマ性から語ることもできるが、何よりまず文句なしに楽しいコメディなので、AppleTV+にせっかく加入した際は見逃さぬように。

 

『パチンコ』

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 かなりヘビーな描写を含むものの、とりわけ日本人に観てほしい作品、それが本作『パチンコ』だ。韓国系の作家ミン・ジン・リーによる小説『パチンコ』をドラマ化したアメリカの作品で、韓国の釜山から日本の大阪に移住した女性(とその子孫)の物語を、壮大な時間的/空間的スケールで描き出す。

 日本が舞台であるにもかかわらず、在日コリアンの物語が日本で作られることはめったにないため、彼女たちの激動の人生を新鮮な気持ちで追うことができるだろう(ちなみに主人公の老年期はアカデミー賞もとったユン・ヨジョンが演じている)。『ゲーム・オブ・スローンズ』を上回るという破格の予算を投じて、釜山や大阪の生命感あふれる当時の姿を再現した舞台美術など、驚異のビジュアルも見応え抜群だ。

 本作を語る上で欠かせないのが、シーズン後半に起こる重大事件だ。ややネタバレかもしれないが、歴史的な出来事なので言ってしまおう。それは1923年の関東大震災と、それに伴って引き起こされた朝鮮人虐殺である。民族差別・災害パニック・メディアの扇動・権力の暴走が複雑に絡まり合って引き起こされた、日本史上でも屈指の惨劇であり、決して繰り返されてはならない歴史の汚点と言える。

 この描写のためか本作『パチンコ』は、主に日本の歴史修正主義的なヤバい人々から「反日プロパガンダだ!」みたいな理不尽な攻撃を浴びた。しかし朝鮮人虐殺は確固たる歴史的事実であり、在日コリアンの歴史を語る上で絶対に避けて通れないターニングポイントなのだから、描かれない方がおかしい。それどころか、極めて重大かつ悲惨な出来事でありながら、日本のフィクションで振り返られることがあまりに少ない歴史的事象であることを考えても、むしろ日本の視聴者こそ積極的に観るべきだろう。

 たしかに観るのが辛い部分はあるが、虐殺を生き延びる韓国人の青年に寄り添う日本人のキャラクターも印象的に描かれていた点で、むしろ日本人でも見やすいようなバランスはかなり(ちょっと意識しすぎなほど)意識されていたように思う。まぁそもそも歴史修正主義を振りかざして本作を叩くような人が、わざわざAppleTV+に加入してこのドラマを終盤まで観てるとは思えないのだが…。

 こうした重厚なテーマをもつ真摯な作品を、日本が主導して…とまでは言わずともせめて参加して作れていたらベストだったと思うが、昨今の政治状況を鑑みても、実現には程遠いのか…と考えると暗くなる。検閲めいた異常な圧力も明らかになったばかりだし…(都職員が「懸念」示した朝鮮人虐殺巡る映像、上映会で人権意識問う声:朝日新聞デジタル)。とはいえせっかく『パチンコ』のような優れた作品が(海外経由であっても)日本でも見られるのだから、国内の汚泥めいた状況に足を取られることなく、ぜひ積極的にチェックしてほしい。普通に女性の一代記としても凄く面白いので。

 

『TRYING 〜親になるステップ〜』

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 AppleTV+作品の中ではそれほど話題にならないが、個人的に大変お気に入りのコメディである。中年に差し掛かったカップルのニッキーとジェイソンは子どもがほしいと願っていたが、色々な事情でかなわなかったので、養子を迎えることを決意する。だがイギリスで養子を迎えるハードルはかなり高く、どっちも別にお金持ちでもなんでもない普通の会社員である2人に、様々な試練が降りかかるのだった。

 …とだけあらすじを書くとなんか重そうだが、2人がちっとも暗くならない人柄で常にちょっとふざけていたり、難題を思いも寄らない方法で解決(?)したり、人格的には難があるけど妙に愛すべきやつらが沢山出てきたりするので、全体に肩の力を抜いて見られるコメディなのが本作の素晴らしいところ。世の中思うようにはいかないが、捨てたもんでもないなと実感したい時などに(『テッド・ラッソ』とも合わせて)ぜひ観てほしい。今の所シーズン3まであるが、4も作ってくれたらいいな(子どもが成長しちゃうと難しいのかもだが)

 

『フォー・オール・マンカインド』

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 「もしも月面着陸の競争に勝っていたのが、アメリカではなくソ連だったら…?」という、アメリカの共同幻想ならぬ共同悪夢みたいなショッキングな「IF」からスタートする、歴史改変SF宇宙開発ドラマ。国運を賭けた月への闘いに敗れたアメリカは打ちひしがれ、歴史の歯車が狂ったことで今の私たちが知る世界からどんどんズレていく。だが面白いのは、本作で描かれる「負けた」IF世界線のアメリカの方が、「勝った」現実のアメリカよりも、見方によってはずっと"進歩的"になっていたりすること。

 たとえば切羽詰まったNASAで(白人男性だけでなく)女性や有色人種の宇宙飛行士も活躍し始め、その流れで政府の要職にもマイノリティが多く就くようになったりして、アメリカ政治の風景も国際政治のあり方も現実の歴史とガラッと違っていたりする。バチバチの宇宙開発ドラマとしても見応え抜群だが、そうした「IFの社会」を描く歴史SFとしても大変面白いエンタメだ。

 最新のシーズン3では『ポセイドン・アドベンチャー』みたいな宇宙事故サバイバルから始まり、アメリカvsソ連vsアフリカの三つ巴で宇宙開発バトルになだれ込むというケレン味もたっぷりで、物語的にどんどんヒートアップ。今後も目が離せない、文句なしの大作宇宙ドラマだ。

 

『神話クエスト』

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 大規模なオンラインゲーム「神話クエスト」を制作するゲーム会社を舞台にしたコメディ。自信過剰でナルシストなゲームディレクター・アイアンや、アジア系女性でオタクな天才エンジニア・ポピーを中心に、無茶振りと大人の事情が飛び交うゲーム会社の悲喜こもごもを描く。大人気ゲーム配信者であるクソガキYouTuberの評価をめちゃくちゃ気にしないといけないゲーム制作陣の姿とか、1話からいきなり辛辣で笑ってしまう。

 たぶんUbisoft(アサクリとか)あたりのゲーム会社をモデルにしてると思われ、UbiのみならずAAAタイトルのゲーム映像がいっぱい挿入されて、ゲーム好きはちょっとうれしい。私も大好きな『ホライゾン』シリーズでアーロイの声をつとめるアシュリー・バーチさんも出演し、Z世代のレズビアン女性ゲーマーのキャラを素敵に演じていた。現在シーズン4で、特に3話は最高のガールズ友情回でグッと来ちゃった。

 

『アフターパーティー』

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これもあまり話題になってないけど映画/ドラマファンは絶対観たほうがいいやつ。みんな大好きクリストファー・ミラーとフィル・ロードがプロデュースを務めている時点で面白さの確度が上がるわけだが期待を裏切らず、最後まで先が読めないドキドキミステリーコメディとなっていた。

 高校の同窓会の二次会(アフターパーティー)で、イケイケな人気者だった参加者の1人が不可解な死を遂げた。元クラスメイトたち全員が容疑者となり、やってきた刑事は順番に話を聞いていく…という1シーズン8話完結のストーリー。

 それぞれの「容疑者」たちの視点から1話ごとに、死んだ人気者とどんな関係だったかという思い出や、彼ら/彼女らが現在どういう立ち位置なのかが描かれていくわけだが、本作がユニークなのが、容疑者ごとに「語り」のスタイルが全く違うこと。1話が王道ミステリーの導入だったと思えば、2話は(ミュージシャン志望者の視点なので)いきなりミュージカル形式になったり、他の話ではバイオレンスアクション風な雰囲気になったり、挙句の果てにアニメーションが飛び出したり、それぞれガラリと異なるスタイルで全8話が描かれることになる。

 回ごとに視点人物を変え、「人の数だけ真相がある」…的ないわゆる『羅生門』『藪の中』形式でドラマが進んでいくわけだが、マジで実際にビジュアル・演出をガラッと変えることで、閉じた密室劇であるにもかかわらず「人の数だけ」違う視点を示していることが大変ユニークで面白い。とはいえ「犯人」はきっちり存在して、ちゃんとミステリーとしても完結しているので安心してほしい。

 

『ザ・モーニングショー』

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 これもかなり有名なタイトルだが、実際必見なので簡単に紹介。朝の人気ニュース番組の司会(スティーブ・カレル)がセクハラで降板した事件をきっかけに、新人女性ジャーナリストが大企業の根深い(同時に"あるある"とも言える…)闇に切り込む。シーズン1終盤の怒涛の勢いは、MeToo運動を題材にした作品の中でも圧倒的だった。

 まずリース・ウィザースプーン演じる正義感に溢れた主人公のブラッドリーが良い。不正義にブチ切れて爆弾とか呼ばれてるんだけど、過去に自分の「正しい」行動が全てを壊してしまったのではないか?という苦しみも抱えて生きていて、だからこそクライマックスの「爆発」が何重にもエモーショナル…。ぜひシーズン1最終話まで見届けてほしい。

 あんだけ強烈かつ完璧なエンディングを迎えたシーズン1の続き、どうするんだろう…?と思っていたが、シーズン2は2019→2020に移り変わってからの「コロナ時代のアメリカ」をはっきり捉えた貴重なエンタメ作品にもなっていたと思う。(「2020」の数字が完全に大惨事の象徴になってて笑ってしまうが…)

 

『ウルフウォーカー』

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人生ベスト級の傑作アニメとして色々なところで散々語り尽くしているので、逆に今回は省略させてもらうが、数少ないAppleTV+オリジナルアニメ映画の1本が本作な時点で、そのクオリティコントロールの半端なさが伺い知れると思う。これを観るためだけにも入る価値あります。

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<他にも色々オススメドラマ>

おすすめドラマは他にも沢山あげられるのだが、そろそろ字数がヤバイので短文紹介にとどめておく。

『セヴェランス』

「仕事中の記憶と私生活の記憶を分離する」というヤバげな手術を受けた会社員が主人公の不気味なドラマ。今年のエミー賞でも旋風を起こした。

『ディキンスン 〜若き女性詩人の憂鬱〜』

わが愛するヘイリー・スタインフェルドが女性詩人エミリ・ディキンスンを演じる、皮肉満載で楽しい文芸コメディ。

『シャイニングガール』

わが愛するエリザベス・モスが『ハンドメイズ・テイル』『透明人間』に続いてまたもヤバ男の被害にあう、恐怖の記憶スリラー。

『WeCrashed ~スタートアップ狂騒曲~』
シェアワークスペースWeWork社を創立し、極端な浮き沈みを繰り返したアダム・ニューマンの実話を基にしたドラマで、ジャレド・レトが主演。

『マネー 〜彼女が手に入れたもの〜』

大富豪の夫と離婚して莫大な財産を得た世間知らずの女性が、ゆかいな仲間と一緒に新たな人生を歩みだすコメディ。

『カム・フロム・アウェイ』

実話ベースのブロードウェイミュージカルを映像化。2001年9月11日、米国同時多発テロが発生した直後、カナダの小さな町に38機もの航空機がやむなく着陸。飛行機の乗客とそこで暮らす人々との交流を描く。

『The Problem with ジョン・スチュワート』

最近観てるけど面白い。有名なコメディアンのジョン・スチュワートが、アメリカの様々な問題について考えるショー。ふざけた語り口と思いきや、権力者に直撃インタビューをしかけて真っ向から議論する姿勢が凄い。こういうショーが成立するアメリカ、やっぱ底力あるよなと。

『モスキート・コースト』

頭脳明晰な男がアメリカの追跡から逃れ、家族を連れてメキシコへ脱出を試みるというサスペンスドラマ。いまシーズン2が進行中だが、なんとなくこんな話かな〜というイメージを丁寧に裏切ってくれて、破格に面白い。

『コール』

異色の短編ドラマ集。何が異色って、映像がほぼ全くなくて完全に音声だけで話が進むのである。それもうラジオドラマだろ!という感じだが、まさにラジオドラマの最先端バージョンといった趣きで、音だけなのにめちゃ怖かったり緊張感に満ちていたり、視覚を封じたがゆえのアイディアに満ち溢れている。必見、いや必聴。

 

<動物系もたくさん>

AppleTV+、地味に動物系・自然系ドキュメンタリーの秀逸な作品も多いので、生きもの好きはそれだけでチェックする価値あります。いくつかオススメを紹介。

 

『小さな世界』

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動物好きにまずイチオシな番組。でっかい自然界で生きる小さな動物たちの日常や大冒険を、どうやって撮ったのか想像もつかないクオリティの映像でとらえたドキュメンタリー。ハネジネズミ、ピグミーマーモセット、カヤネズミなど、かわいい小動物がその回の主人公アニマルに設定され、その視点に入り込むような美しく不思議な映像の数々に好奇心が刺激される。原語版ナレーションはポール・ラッド(アントマンってことね。)

 

『カラーで見る夜の世界』

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動物ドキュメンタリー界にとって、まさに10年に一度レベルの大革命が起こった。その名も…「低照度カメラ」。この撮影技術によってこれまで暗闇に包まれていた、せいぜい白黒でぼんやりしか映せなかった「夜」の動物たちの姿を、とても鮮やかにカラーで映し出すことが可能になったのである。『カラーで見る夜の世界』はそんな知られざる夜の世界を語る斬新な番組で、いかに人間が動物たちの生活の約半分について無知だったか、改めて学ぶ機会になるだろう。原語ナレーションはトム・ヒドルストン(MCU再び)。ちなみにNetflix『ナイトアース』でも同様の試みを行っていて若干ライバル関係を感じる。どっちもスゴイよ!

 

『ファゾム 〜海に響く音〜』

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 まるで人間の"文化"のように海から海へと伝わっていく「クジラの歌」を追って、海洋生物学者たちが海原へ漕ぎ出すドキュメンタリー。陸の常識を超越したクジラという生き物に取り憑かれ、"歌"に込められた深遠な秘密を測る(fathom)ことを試みる、女性研究者たちの姿が眩しい。

一方で、陸の文明社会での女性ならではの困難もさりげなく言及されるだけに、クジラの歌を追って人里離れた海辺の生活に明け暮れる研究者が、「この海の暮らしこそが"リアル"な生で、陸の日常が非現実に感じる」「元の暮らしに戻れるかわからんなぁ」的にこぼす場面が印象深かった。クジラという(色々な意味で)規模がデカすぎる存在を追う生活が、"普通の日々"のスケール感を狂わせてしまう感覚、想像を絶するような、想像できなくもないような。

クロエ・ジャオの映画『ノマドランド』でも大自然の中で動物の生に触れることが、人生の本質的な何かとして描かれていて、動物好きとして嬉しかったのだが、そんな日々のあまりの本質っぷり(?)に、『ファゾム』で研究者たちが「元に戻れないかもな…」と心配する姿には、妙なリアルさがあった。

 なお"クジラの歌"は今かなり熱いテーマで、本作で描かれたような研究によって、何千kmも離れた海へ、まるでポップソングのように"歌"が伝わるプロセスが徐々に明らかになっている。「文化」の定義によっては、地球で最初に文化を持ったのは人間ではなくクジラなのでは?という意見もある(『ゆかいないきもの超図鑑』でこのへん参考にしました)。

 

『ゾウの女王:偉大な母の物語』

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 メスのアフリカゾウ「アテナ」をリーダーとする群れが、厳しい自然を生き抜く姿を描く美麗なドキュメンタリー。ゾウの行動(水浴び/食事/排泄など)が生態系の中でどんどん波及して他の生物に恩恵や波乱をもたらし、ゾウそのものが一個の大自然のよう。巨大な体を持ちながら極めて社会性に溢れたゾウの生活を(制作に4年かけただけあって)驚くほど近い距離感で捉えていて凄い。子どもへの丁寧なケアや集団内での密接なコミュニケーションなど、意外とオオカミとの共通点も多いような。そして死を悼むような行動も…(最近のゾウ図解の参考にした)。

 

『その年、地球が変わった』

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 コロナ禍で人類の活動が大幅に制限されたことで、動物たちの生活や自然環境が変化し、時には劇的に改善された様を捉えるドキュメンタリー。地球の様々な場所から「人間」を抜くと何が起こるのか、壮大な社会実験が行われたと言えるが、その結果を残す貴重な映像にもなっている。

 アフリカの民家に(本来は夜に活発に動く)ヒョウが真っ昼間から堂々と現れて、予想もしてなかった撮影班が「みんな、動くな…」と緊張する場面のインパクトが凄い。ロックダウンの影響が巡り巡って、ヒョウなどの希少な大型動物の行動パターンにも大きな変化が見られる。

 コロナ禍が人間にとって災厄なのは確かだし、今の状態が持続可能なはずもないが、『その年、地球が変わった』を見ても、「人間が何をしようと地球は手遅れだし何も変わらない」という投げやりな諦念は間違っていて、やはり「人間の行動次第でスゲエ変わる」のは明らかなので、気候変動対策や環境保護なども、そこを教訓とすべきね…。

 

『太古の地球から 〜よみがえる恐竜たち〜』

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恐竜ドキュメンタリー…では正確にはないが(そりゃ撮影対象が絶滅してるからね)、CGアニメーション技術で本物と見紛うほどクオリティ高く蘇った恐竜が沢山でてくる、ハイクオリティな最先端科学ダイナソー番組。ジュラシックパークの印象で時が止まってる人は、色々ひっくり返ることでしょう。

 

ひとまずこんなところです。たぶん観て面白かったやつもいくつか書き忘れてると思うし、よく名前聞くけどまだ観てない作品もけっこうある(『SEE』とか)ので、引き続き観ていきたいと思います。実は1回解約しようと思ったのに先述の2ヶ月無料キャンペーンのせいで絶賛続行してしまっている。

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もう1回キャンペーンのリンク貼っとくので、みんなタダでAppleTV+に入って2ヶ月以内に上で紹介したやつぜんぶタダで見てくれ!(むりかも。)まぁとはいえ作品クオリティを考えれば値上げ後の月900円でも、最近のサブスク水準では安いほうだと思います。おしまい。

扉は閉じてもセカイは開く。『すずめの戸締まり』感想

率直に言って新海誠監督の作品はニガテであった。作画や音楽など全体としてのクオリティの高さに異論はないし人気も納得なのだが、どうにも合わない。たとえば『君の名は。』はなんであの2人が惹かれ合うのか全然わからないまま異性愛エモ全開で突っ走る感じが全くノレず、『天気の子』は(詳しく後述するが)ある部分がどうしても受け入れ難くてその年のワーストに選んでしまった。そんなわけで『すずめの戸締まり』への期待度も低く、映画館サイドの激推しも鬱陶しく感じられ、いくらなんでもスクリーン埋めすぎだろ、『RRR』や『ブラックパンサー ワカンダ・フォーエバー』の箱を奪いやがってよお…などとやや鬱憤をつのらせていた。…なので、嬉しい誤算が待っているとは思わなかった。蓋を開けてみれば『すずめの戸締まり』は、初めて「これは好き」と明言できる新海誠作品だったのだ。

 というわけでネタバレはなるべく抑えつつ、『すずめの戸締まり』の具体的に良かったところ、合わなかった過去作(特に『天気の子』)に比べてなぜ好きになれたかの理由など、感想をつらつら書き記しておきたい。

 ざっくりあらすじ。震災で家族をなくした少女・鈴芽が、日本各地の扉を閉めまくる謎のイケメン・草太と出会うのだが、扉から漏れ出た呪い的なパワーによって、草太が椅子と化してしまった! 扉を閉めないと大いなる災害が日本にもたらされることを知った鈴芽は、イケメン椅子と一緒に扉を閉じて回る「戸締まり」の旅に出るのだった。

 

<"戸締まりロードムービー"としての楽しさ>

 …あらすじだけ文章で読んでも「なにそのオカルト」って感じだろうが、まぁ散々予告編など流されているので大体でいいだろう。主人公・鈴芽の過去からもわかるように、『すずめの戸締まり』は震災に絡めた重いテーマが根底にある作品で、その観点から大いに考察・批評・称賛(もしくは批判)されるべき映画であることは間違いない。だが個人的にはなんといっても、細やかなセンス・オブ・ワンダーに溢れた"戸締まりロードムービー"として楽しい映画だったことを称賛したい。

 そもそもの話だが「扉」という目の付け所がまず良い。あらゆる住居や施設など、人間が生息するところには確実に存在する「扉」は、そこを通って外に出たり、帰ってきたりする人々の思いが込められた物体でもある。本作がユニークなのは、そんな思いが「扉を閉める(戸締まりする)」瞬間にこそ最も強く生じうるという点に着目していることだ。 

 その「戸締まり」というシンプルかつ日常的なアクションによって、豊かに話を彩り、盛り上げていく手法が上手い。キービジュアルにもなっている水没廃墟の1つめの扉、廃校の引き戸である2つめの扉…と、一口に「扉」といっても形状や"閉じ方"に様々なバリエーションを見せることで、アクション面・ビジュアル面での楽しさが生まれている。ピクサー映画『モンスターズ・インク』にも世界中の多種多様なドアが登場して圧倒されたが、本作もそれに近い楽しさがある。(欲を言えば『君の名は。』の「前前前世」的なダイジェストでいいから、もう2〜3扉くらい「戸締まり」を観たかった気もする。他にも色々アイディアもあったろうし。)

 「戸締まり」というユニークな切り口で、日本を縦断する旅に主人公たちは出るわけだが、鈴芽の相棒となるイケメン閉じ師・草太のキャラクターが特に良い。というか予告でも散々見せられたとはいえ、やはり「イケメンが椅子になる」というトリッキーなアイディアの面白さはズバ抜けている。「閉じ師」である草太が、扉から漏れ出た呪いによって(鈴芽が大切にしていた)子ども用の椅子に変えられてしまうのだ。「王子がカエルになる」物語の椅子バージョンといえばそれまでだが、3本足の子どもイスに人格が宿って、小動物的に走り回る姿はそれだけでコミカル&ダイナミックで、2人(1人+1脚)の旅におけるアニメーション的な楽しさを倍加している。

 草太自身の性格付けも好ましかった。せっかくイケメンなのに劇中時間の80%くらい椅子の姿であり続けるという実験的なキャラ造形と言えるが、"にもかかわらず"というか、"だからこそ"というか、新海作品の男性主人公では最も好感度が高かった。明確に年上という設定もあってだろうが、鈴芽への接し方もキモい感じが全然なく、良い意味で「新海誠汁」…じゃなかった「新海誠印」を逸脱したキャラになっている。「閉じ師じゃ食っていけないので教師を目指している」という地に足がついた感じもキャラの厚みを増している(こんな重要な仕事は国をあげてマネタイズされるべきだろと思うが)。

 また前2作ではどちらも若い女の子が一種の「巫女」として、神道由来と思われる不思議パワーを付与されていて、そうした神秘性を「少女」にばっかり背負わせる点でいかにもオタクっぽい古臭い感じが拭えなかったのだが、草太の存在はそうした前作へのカウンターにもなっている。その点、過去2作に対するセルフ批評的な観点さえ感じるキャラクターだと感じた。

 あえて言うなら本作も(『君の名は。』と同じく)恋愛部分にイマイチ説得力がないというか、もはや作品テーマの純度を下げるノイズになってるのは今回も「新海誠印」だなあと感じるのだが、それでも鈴芽が草太に感じる愛着と、2人の行く末がどうなるのかに感情移入できたのは、間違いなく草太のキャラ造形がうまくいっていたからだろう。あえて言えば鈴芽本人のキャラの印象がちょっと薄く、保守的スタイルの健気な女子高生なのは「またかよ日本アニメ…」感があるが、まぁ本作特有の欠点というほどではない。

<過去作より格段に良かった人物描写>

 そして何より本作『すずめの戸締まり』で心打たれ、驚かされたのは、旅の途中で2人が出会う市井の人々が、丁寧かつ生き生きした描かれ方をされていたことだ。それも各キャラのあり方、彼ら/彼女らとの出会いで生じる心の動きを、言葉で説明するのではなく、しっかりとアニメーションの豊かさによって表現しているのが良いと思った。

 たとえば民宿の娘・千果との出会いで、彼女の運ぶミカンが坂を転がっていくのを、鈴芽と草太(椅子)が食い止める一連のシーン。うわっ作画めんどくさそ〜とか思うわけだが、千果の若干のおっちょこちょいで憎めない性格、鈴芽の優しさと行動力、草太(椅子)の機転と利発さを、端的かつ美しく表現した印象深いシークエンスだ。

 とりわけ(私の大好きな伊藤沙莉が声を演じる)二児の母・ルミと知り合うくだりは特筆に値する。伊藤沙莉の声も相まって、実写作品に匹敵するような「普通の中年女性」としてのリアルな生命感を与えられたルミの描き方は、そもそも中年女性がちゃんと描かれることが極端に少ない近年の日本アニメとしては画期的と言える。その後、鈴芽と椅子草太がルミの子どもたちと遊ぶシーンも良い。邦画や日本アニメにありがちな、いかにも大人が考えた感じの「子ども描写テンプレ」を脱し、わけわからんゴッコ遊びとか会話の勢いとか「子どもって実際これくらい不条理だよね…」という実感の伴う生命力がちゃんと宿っていた。(ひょっとすると新海監督自身の子育て経験も反映されているのかもな、と思ったりもしたが。)

 最も愛すべきサブキャラは、鈴芽が旅の途中で出会う大学生男子・芹澤だろう。ぶっきらぼうな感じと軽薄さ、そして憎めない間抜けさが絶妙に混ざりあった人物で、草太への深い思い入れもそこはかとなく匂わせており、とにかく絶妙な奥行きを感じさせるキャラだ。一部界隈でさっそく人気を博しているようだが、私もぶっちゃけ新海作品全体のベストキャラクターだとさえ思う。(てか声が神木くんと知り「それアリなんだ…」となった。過去2作とは世界が繋がってないよ宣言ということかな。)

 かなり深刻な過去と複雑な家庭背景をもつ鈴芽&環のコンビが醸し出す雰囲気に対して、わりと軽薄な雰囲気の芹澤の存在が良いアクセントになっていて、すっとぼけたロードムービー感を物語の最終盤まで維持できている。全く関係ない第三者の客観的な視線を加えることで、軽く突き放した風通しの良さを作品にもたらすという点で、深田晃司監督の『LOVE LIFE』の秀逸な車中シーンを思い出したりもした。

  新海監督といえば「セカイ系」の代表格のように言われがちだ。「セカイ系」という言葉の定義は曖昧だが、要は(恋愛を基本とした)主人公&ヒロインの閉じた関係の行く先と、世界(セカイ)の運命が直結している創作ジャンルという認識で大体OKだろう。まぁそれ自体は「セカイ系」なんて言葉を使わずとも、よくある物語の類型じゃね?という気もするし、その中で陰キャ主人公とか美少女とかオタク受けしそうな要素をもつものが"セカイ系"と呼ばれてるだけなのでは疑惑も個人的に持っているが、それはいいとして、主人公たちと世界の関係が「閉じて」いることが「セカイ系」の重要な条件とは言えそうだ。

 だが本作『すずめの戸締まり』はこうした豊かな「他者」の描写によって、主人公の物語に奉仕するだけの閉じた"セカイ"ではなく、たしかに人々が生きている、守るに値する"世界"であることが、過去作よりも段違いに力強く伝わってきた。私が本作を気に入った理由は、言ってしまえばこの1点に尽きる。

 そんな「世界」が『すずめの戸締まり』では危機に陥ることになるのだが、「こんな書き割りみたいな嘘くさい"世界"どうなったっていいだろ」とか思うことなく、最後まで緊張感をもって見られた理由は、先述の丁寧な人物描写のおかげだ。日本各地を周り「扉」を閉じて人々の命と生活を守る2人の旅路に、ちゃんとズッシリくる意味合いが生じるのである。2011年の震災から10年以上がたち、被災地や失われた命を悼む心がどこか薄れつつあるこのタイミングで、たしかに「そこにいた」人々の命をもう一度「悼み」、「思い出す」ための旅を描く本作には、大きな意義があるといえると思う。

<なぜ『天気の子』は合わなかったのに『すずめ』はイケたのか>

 『すずめの戸締まり』は東日本大震災を正面から扱った作品だ。地震の描写はかなり生々しく、ご丁寧にアラーム音まで現実に似せているので、普通にトラウマを刺激される人も多いだろう。このように現実の災害を超常的なエンタメに引き寄せて、ある種の「エモ消費」を果たしてしまう本作の手法は、『天気の子』に通じる問題も抱えているのも確かだ。それなのになぜ個人的に『天気の子』が厳しくて、本作は楽しめたのかを考えてみたい。まず『天気の子』のどういう部分を特に問題だと思ったのかを整理しておく(以下、思った以上に長くなってしまったので注意。『天気の子』にかなり批判的なので好きな人はわざわざ読まなくていいです)。

 『天気の子』では、かなり「気候変動っぽい」主題が扱われる。新海監督もインタビューなどで、現実の気候変動やそれに対する活動(例えばグレタ・トゥーンベリさんの気候アクションなど)にインスパイアされた面もあると語っているようだ。まずフォローしておくと、新海監督のように第一線のクリエイターが、気候変動のように現代社会の極めて重要かつ深刻な問題に対して、斜に構えたり冷笑したりせず、ちゃんと自分の作品に反映しようとする姿勢そのものは好ましいと思っている。

 実際『天気の子』の「東京水没」を上回るような、気候変動由来である可能性が非常に高い大水害は世界中で頻発しつつあり、今年もパキスタンでは国土の約3分の1が冠水するという破滅的な事態に陥った。そのような危機的状況に対する不安も高まっている今、「天気」のテーマを創作物に反映しようとする新海監督のセンスそのものは鋭敏だと思う。

 しかしあくまで『天気の子』で描かれる問題は「気候変動っぽい」何かにすぎない。 『天気の子』における「天気」の変化は、あくまで少女のもつマジカル巫女パワー(?)によって引き起こされる超常現象である。それは言うまでもなく、裕福な社会で暮らす大人たちの(例えば温室効果ガスを排出するような)人為的な活動が引き金となって激化している、現実の気候変動とは全く異なるものだ。つまり『天気の子』は気候変動のメタファーとしてはほぼ全く成立していない。

 そのこと自体は問題とは言えない。天気を扱った作品だからといって、気候変動や地球温暖化について必ずしも正確に反映する必要はないし、天気に何か他のメタファー(地震や疫病といった災害、少年少女の荒れ狂う内面世界など)を託すことも可能だ。

 しかし本作のクライマックスでは、少女を救おうとする主人公が「天気なんて狂ったままでいいんだ!」というセリフを(RADWIMPSのエモい楽曲にあわせつつ)叫び、そこで観客が最大のカタルシスを得られる作りになっている。

 その瞬間に向けたエモーションの連なりが上手くて、初見では生理的に感動しかけたのを告白しておくが、時間がたてばたつほど「…どうなん?」と感じる気持ちが高まってきた。いや『天気の子』の天気は現実の気候変動そのもののメタファーではないんだろうし…と納得しようとしても、実際には断固として気候の脅威が(特に弱者に)降り掛かっているわけで、そんな時代に「天気」をテーマとした大作を作っておきながら、「天気なんて狂ったままでいい」を若者向けアニメのクライマックスの激エモ感動シーンにもってくる姿勢に、はっきり言えば無神経・無責任なものを感じてしまったのだ。

 こうした開き直りっぽいメッセージを「尖ってる」「攻めてる」と持てはやす声も、悪い意味で日本っぽくてイヤだな…と思った。「尖ってる」どころか、こと気候の問題に関しては、「狂ったままでいい」って権力者や既得権益者やマジョリティが思ってることじゃね…?とさえ思う。極端な話、いまだに化石燃料を燃やしまくって儲けてる企業も、そうした業界と癒着してる政治家も、戦争を起こして環境汚染しまくってるプーチンも、アマゾン熱帯雨林を限界まで破壊したブラジルの元大統領ボルソナロも、自分は気候危機が深刻化する前に死ぬから天気がどうなろうと知ったこっちゃない"大人"たちも、全員「天気なんて狂ったままでいい」と思ってるはずだ。

 気候変動には極めて不平等な構造がある。それは「温室効果ガスを排出しまくって気候変動を加速させているのは"豊かな国で暮らす金と権力をもつ大人"なのに、その気候変動によって最も被害を受けるのは"若者・途上国の貧しい人々・社会的な弱者"である」という理不尽な構造だ。

 グレタ・トゥーンベリさんの気候デモに象徴されるような気候危機へのアクションは、「天気が狂ったままでいいわけがない」と怒りを抱えた若者によって主導されていた。そうした切実な声に対して「そうは言ってもねえ…」「子どもにはわからないだろうけど、社会は複雑なんだよ」とか言い訳を並べたり、「もっと勉強しなさい」とか冷笑したり、追い詰められた若者の"過激な"プロテストを罵倒し嘲笑しながら、世の中を変えることを拒み続け、天気がどんどん狂っていくことに加担してきたのが大人たちだ(もちろん私もその一員である)。

 こうした「天気」の問題の構造を考えるほど、「天気なんて狂ったままでいい」「狂っていても僕たちは大丈夫」と"子どもに"言わせ、「世界なんて元から狂ってるんだから気にするな」と"大人に"言わせる『天気の子』の捻れ具合がキツくなってくる。新海監督が本作を作る上で込めた、今を生きる子どもたちを慰め、励まそうとする意志そのものは疑っていない。だがいっけん子どもに寄り添っているように見える本作は、実は大人に都合のいい物語になってしまってはいないか?という欺瞞性を感じずにいられなかった。

 「天気なんて狂ったままでいい」の決め台詞シーンや、東京水没エンドそのものは良いとしよう。こうした破壊的な結末のフィクションも実は世にありふれているし、それ自体は特に悪くない。だが現代に「天気」を主題にそうした物語を描く以上、せめて通すべき「筋」はあるように思う。たとえば途中に出てくるオカルト爺さんに、近代の科学的な気候データの蓄積を否定するようなセリフを(あたかも真実を鋭く突いてるかのように)言わせたり、終盤でおばあさんに「東京は昔は海だったんだし、大きな視点で見れば元に戻っただけかもね…」的なセリフを"深イイ"感じで言わせたりするくだりは、やはりどうかと思ったし、似た感じの気候変動否定論をしょっちゅう目にする身としても勘弁してくれ〜…と思った。

 「巨視的に見れば地球の気候はずっと変動し続けている」という意見そのものは間違ってないが、それを人間活動による急激な気候変動を問題視する声への反論に使うのは、単なる論点ずらしや混ぜっ返しでしかなく、人為的な気候変動の否定論者がしょっちゅう使う手である。いくら『天気の子』の"天気"が現実の気候変動とはかけ離れているとはいえ、そうした意見を「気候変動っぽい」ビジュアルとテーマ性を借りた本作で"深イイ"的に垂れ流してしまう姿勢は、作り手の"天気"に対する考えの浅さを端的に表してしまっている。海外で「作り手は人為的な気候変動を否定してるのか…?」という疑惑までけっこう出てたっぽいのも無理はないと思う(そういう意図ではないと私は信じているが)。

 このように『天気の子』が欺瞞的に見えてしまう理由は、突き詰めて言えば「新海監督が現実世界の"天気"に対する考察や理解や勉強が不十分なままで、中途半端に現実と絡めた"天気"の映画を作ってしまった」ことに起因すると思う。天気のビジュアル表現は(専門家がしっかり監修したこともあり)美麗なのだが、"天気"とは何なのか、"天気"が社会にとってどんな意味をもつのか、そうした根本的な洞察が欠けていると感じた。(ただ正直「ビジュアルなど表面は見事だが、テーマやモチーフに対する本質的な掘り下げが足りてない」というのは新海監督に限らず、日本エンタメ界に広く見られる傾向だとも思う。)

 ここまで読んで「たかがアニメ、そこまで難しく考えることないだろ」とツッコむ人もいるかもしれない。しかしアニメーション作品には「たかがアニメ」を超えた大いなる可能性があると私は信じている。近年でも『ウルフウォーカー』や『ディリリとパリの時間旅行』や『スティーブン・ユニバース』といった世界最高峰のアニメ作品がなぜ普遍的な傑作となりうるのかといえば、それは現実の社会構造に見られる諸問題を作り手が考え抜き、エンタメ作品の形に昇華しているからだ。だからこそ単なる子供だましの気晴らしや暇つぶしを超えて、観た人の心や思考、もしかしたら社会全体にも強い影響を与えうる力をもつ。新海監督自身もそう信じているからこそ、過去作への批判的な反応も踏まえつつ、『すずめの戸締まり』でも数々のアップデートを見せたのではないかと思う。

 一方で、こんなツッコミへの反論は少しむずかしい。「いや『天気の子』のそういう問題は『すずめの戸締まり』にもたいがい当てはまるだろ!」というものだ。それは、たしかにそうである。『すずめ』世界における震災を起こす「みみず」のメカニズムは、言うまでもなく完全なオカルト的フィクションであり、現実に地震が起こる仕組みとは何の関わりもない。上の文の「天気」を「震災」に変えるだけで、『天気の子』に対する批判のかなりの部分が、そのまま『すずめ』にも通用してしまうのだ。それどころか『すずめ』は「東日本大震災」という特定の大災害を堂々と描いている分、フィクショナルな災害を描いた『君の名は。』や『天気の子』よりタチが悪いという言い方さえできる。場合によっては(特に直接的な被災者であれば)前2作よりも今回の方がよっぽど受け付けない…という人がいても全くおかしくない。

 それでも、個人的に『すずめの戸締まり』のほうが『天気の子』よりもずっと好きになれた理由は何なのか。それは新海監督が"震災"について(少なくとも『天気の子』における"天気"よりは格段に)深く考えていたからだと思う。東日本大震災以来、日本に生きる当事者として、震災後の日本で大規模なエンタメ作品を作っていくクリエイターとして、新海監督は様々な声を見聞きし、どのような物語を語るべきか熟考を重ねたのだろう。それが作品をどの程度良くしたかを判断するのは観客だが、一観客としてその形跡は確かに刻まれていると感じる。

 終盤、おそらく東日本大震災の犠牲者と思われる様々な人々が「扉」を出ていく…という、強く心を打つシーンがある。この名場面が生まれたのも、震災で失われたものについて、震災で傷ついた場所について、確かにそこに生きていた命を悼むことについて、新海監督が突き詰めて考えた結果ではないだろうか。作り手がテーマについて「考えた」分量というのは、ここまではっきりアウトプットの違いとして現れるのか…と、そのこと自体に感銘を受けるほどだったし、いち作り手としても背筋が伸びる思いだった。

 そして、起こった災害を結局「なかったこと」にしてしまう『君の名は。』や、「狂った世界を変えることはできない」という開き直った着地を見せる『天気の子』に対してバランスをとるかのように、懸命に災厄を食い止めよう、世界を少しでも良くしようと走る人々を描いた『すずめの戸締まり』は、過去作への反応も踏まえた上での、新海監督からのセルフアンサーにもなっているように感じたのだった。

 …そんなこんなで語ってきたが、あっさりめに『すずめ』を褒めるだけで終わるつもりが『天気の子』パートが増えすぎて、そろそろ息切れしてきたのでいったん終わりたい(ただ一回整理しときたかったので自分的には良かった)。あと観た直後は称賛した『すずめの戸締まり』も、ブログをだらだら書いてる内にもう観てから2週間くらい経ってしまって、「ここはちょっとな〜」と感じる細かい点も浮かんできた。おもにダイジンがかわいそうとか(新海監督って本当に動物への興味が薄いよなと思う、『天気の子』のネコとか一切ネコっぽくないし…)、やっぱ恋愛描写がノイズだよなとか、左大臣ってなんだったんだよとか、オチは冷静に考えると何も解決してなくねとか、ダイジンかわいそうとか、女性描写は格段に向上したと思うけどそれでも細かい部分がな〜(なんか母性とか恋愛にまだやっぱ偏ってる感)とかダイジンかわいそうとか色々あるのだが、そのへん詰めてくといよいよ褒めてるのかけなしてるのかわからない記事になりそうなので、このへんでやめとく。 なんにせよ「国民的作家」(という呼び方はうさんくさくてイヤだが)とやらに本当になっていくのかなあと思わせる飛躍っぷりを見せ、新海監督の今後が普通に楽しみになる一作だったので、その意味で「観て良かったな」と素直に思いました。おしまい。

深海オブ・ザ・デッド!「ゾンビワーム」図解

ハロウィンといえばゾンビ!…というわけで、海の底でうごめく「ゾンビワーム」を図解しました。"骨を食べる鼻汁の花"を意味するヤバい名前と、死の残骸を生命の糧に生まれ変わらせるリビングデッドな能力の持ち主です。その奇妙な生活には、「雪ときどきクジラ」な深海の"お天気"が関わっていて…!?

おまけ

【テキスト】

<1>
人間をむさぼり食うゾンビは、ホラー界の人気者だ。だが時には…もっと小さい貪欲な「ゾンビ」にも光を当ててみよう。人呼んで…「ゾンビワーム」!
ゾンビワームのすむ世界は、光の届かない深海だ…。
赤い羽毛のような触手をもち、口も胃も肛門もなく、植物のようにも見えるがれっきとした動物だ。
正式名はosedax mucoflorisオセダックス・ムコフロリス。直訳すると「骨を食べる鼻汁の花」となる…。
2002年、水深3000mで見つかったコククジラの骨が、「赤い茂み」にびっしりと覆われていた…
その茂みを形作る「糸」の正体こそが、新発見となる生物ゾンビワームだった!

<2>
ゾンビワームが暮らす深海では、数千m上から雪のように落ちてくる有機物の残りカス「マリンスノー(海の雪)」が主な栄養源だ。恵まれた食生活とはいえないが…不毛の深海に、"棚からぼたもち"のごとく「天の恵み」が降ってくることがある。そう、クジラの死体だ。

ヌタウナギ、サメ、タコなど死肉を食べる動物たちが、死骸の匂いを嗅ぎつけてまっさきに集まってくる。数ヶ月たって、肉が減ってくると、カニやグソクムシやゴカイなど、海底の「清掃動物」がやってくる。数トンにもなる巨大なクジラの死骸は、何年にもわたる「饗宴」で肉を剥ぎ取られていく。やがて骨格だけになれば、ゾンビワームの出番だ!

<3>
“骨をむさぼり食う者”という学名通り、ゾンビワームは「根」のような部分から酸や消化酵素を分泌して骨を溶かし、その中にある栄養を吸収する。
サメからゾンビワームまで、クジラの死骸に集まる生物たちは「鯨骨生物群集」と呼ばれ、最後までクジラの体を無駄にせず活用するのだ。
ちなみにゾンビワームが食べるのはクジラだけだと考えられていたが…新発見されたゾンビワームの仲間は、ワニの骨も食べるとわかった。
さらに、1億年前(白亜紀)のプレシオサウルスの骨からも、ゾンビワームが開けたと思われる小さな穴が見つかったという…。
太古の昔から、大きな動物の亡骸は深海の生命を支えてきた。まるで深夜営業の飲食店のような海の底のオアシスは今日も「ゾンビたち」でにぎわっている。

<おまけ>

「ゾンビワーム」(オセダックス)にはひとつミステリーがあった。なぜか成体がメスしか見つからないのだ。ミステリーの答えは、実はシンプル。ゾンビワームの成体のオスは存在しないのだ。

性成熟するまで成長するのはメスだけで、オスはずっと幼生のままだ。メスは数十匹のオスを体のまわりに従えて、卵が受精するための精子を量産させる。1mm以下の極小のオスは、精子を作ることが存在意義の微小生物として、「大家」である大きなメスに尽くす。オスは何も食べることなく、短い生涯を生きるのだ…。

ただし、オスが肉眼で見えるほど大きく、メスに寄生せずに「独立」して生きる例外的なゾンビワームも発見された。苦労なき寄生生活から、わざわざ「独立」の生き方に「逆戻り」したという。深海の謎多きゾンビたちは、繁殖行動も謎だらけだ。

 

<参考文献>

前回に引き続き「鯨骨生物群集」についてはこちら参照。

amzn.to

 

今回紹介したゾンビワームに関する記事。ひとくちにゾンビワームといっても色々な種類がいるようですが。

www.theguardian.com

 

「おまけ」としてゾンビワームの興味深い生殖の話も紹介してみたのですが、拙著『図解なんかへんな生きもの』の監修をつとめてくださった中田先生の最新刊『もえる!いきもののりくつ』を読んでいたらちょうどゾンビワーム(ホネクイハナムシ)の話が出ていたので、おまけの参考にしてみました。動物の面白いエピソードや生態が色々のってて面白い本なのでオススメ!

amzn.to

 

極小のゾンビワームのオスに関するweb論文。

www.cell.com