沼の見える街

ぬまがさワタリのブログです。すてきな生きもの&映画とかカルチャー。

扉は閉じてもセカイは開く。『すずめの戸締まり』感想

率直に言って新海誠監督の作品はニガテであった。作画や音楽など全体としてのクオリティの高さに異論はないし人気も納得なのだが、どうにも合わない。たとえば『君の名は。』はなんであの2人が惹かれ合うのか全然わからないまま異性愛エモ全開で突っ走る感じが全くノレず、『天気の子』は(詳しく後述するが)ある部分がどうしても受け入れ難くてその年のワーストに選んでしまった。そんなわけで『すずめの戸締まり』への期待度も低く、映画館サイドの激推しも鬱陶しく感じられ、いくらなんでもスクリーン埋めすぎだろ、『RRR』や『ブラックパンサー ワカンダ・フォーエバー』の箱を奪いやがってよお…などとやや鬱憤をつのらせていた。…なので、嬉しい誤算が待っているとは思わなかった。蓋を開けてみれば『すずめの戸締まり』は、初めて「これは好き」と明言できる新海誠作品だったのだ。

 というわけでネタバレはなるべく抑えつつ、『すずめの戸締まり』の具体的に良かったところ、合わなかった過去作(特に『天気の子』)に比べてなぜ好きになれたかの理由など、感想をつらつら書き記しておきたい。

 ざっくりあらすじ。震災で家族をなくした少女・鈴芽が、日本各地の扉を閉めまくる謎のイケメン・草太と出会うのだが、扉から漏れ出た呪い的なパワーによって、草太が椅子と化してしまった! 扉を閉めないと大いなる災害が日本にもたらされることを知った鈴芽は、イケメン椅子と一緒に扉を閉じて回る「戸締まり」の旅に出るのだった。

 

<"戸締まりロードムービー"としての楽しさ>

 …あらすじだけ文章で読んでも「なにそのオカルト」って感じだろうが、まぁ散々予告編など流されているので大体でいいだろう。主人公・鈴芽の過去からもわかるように、『すずめの戸締まり』は震災に絡めた重いテーマが根底にある作品で、その観点から大いに考察・批評・称賛(もしくは批判)されるべき映画であることは間違いない。だが個人的にはなんといっても、細やかなセンス・オブ・ワンダーに溢れた"戸締まりロードムービー"として楽しい映画だったことを称賛したい。

 そもそもの話だが「扉」という目の付け所がまず良い。あらゆる住居や施設など、人間が生息するところには確実に存在する「扉」は、そこを通って外に出たり、帰ってきたりする人々の思いが込められた物体でもある。本作がユニークなのは、そんな思いが「扉を閉める(戸締まりする)」瞬間にこそ最も強く生じうるという点に着目していることだ。 

 その「戸締まり」というシンプルかつ日常的なアクションによって、豊かに話を彩り、盛り上げていく手法が上手い。キービジュアルにもなっている水没廃墟の1つめの扉、廃校の引き戸である2つめの扉…と、一口に「扉」といっても形状や"閉じ方"に様々なバリエーションを見せることで、アクション面・ビジュアル面での楽しさが生まれている。ピクサー映画『モンスターズ・インク』にも世界中の多種多様なドアが登場して圧倒されたが、本作もそれに近い楽しさがある。(欲を言えば『君の名は。』の「前前前世」的なダイジェストでいいから、もう2〜3扉くらい「戸締まり」を観たかった気もする。他にも色々アイディアもあったろうし。)

 「戸締まり」というユニークな切り口で、日本を縦断する旅に主人公たちは出るわけだが、鈴芽の相棒となるイケメン閉じ師・草太のキャラクターが特に良い。というか予告でも散々見せられたとはいえ、やはり「イケメンが椅子になる」というトリッキーなアイディアの面白さはズバ抜けている。「閉じ師」である草太が、扉から漏れ出た呪いによって(鈴芽が大切にしていた)子ども用の椅子に変えられてしまうのだ。「王子がカエルになる」物語の椅子バージョンといえばそれまでだが、3本足の子どもイスに人格が宿って、小動物的に走り回る姿はそれだけでコミカル&ダイナミックで、2人(1人+1脚)の旅におけるアニメーション的な楽しさを倍加している。

 草太自身の性格付けも好ましかった。せっかくイケメンなのに劇中時間の80%くらい椅子の姿であり続けるという実験的なキャラ造形と言えるが、"にもかかわらず"というか、"だからこそ"というか、新海作品の男性主人公では最も好感度が高かった。明確に年上という設定もあってだろうが、鈴芽への接し方もキモい感じが全然なく、良い意味で「新海誠汁」…じゃなかった「新海誠印」を逸脱したキャラになっている。「閉じ師じゃ食っていけないので教師を目指している」という地に足がついた感じもキャラの厚みを増している(こんな重要な仕事は国をあげてマネタイズされるべきだろと思うが)。

 また前2作ではどちらも若い女の子が一種の「巫女」として、神道由来と思われる不思議パワーを付与されていて、そうした神秘性を「少女」にばっかり背負わせる点でいかにもオタクっぽい古臭い感じが拭えなかったのだが、草太の存在はそうした前作へのカウンターにもなっている。その点、過去2作に対するセルフ批評的な観点さえ感じるキャラクターだと感じた。

 あえて言うなら本作も(『君の名は。』と同じく)恋愛部分にイマイチ説得力がないというか、もはや作品テーマの純度を下げるノイズになってるのは今回も「新海誠印」だなあと感じるのだが、それでも鈴芽が草太に感じる愛着と、2人の行く末がどうなるのかに感情移入できたのは、間違いなく草太のキャラ造形がうまくいっていたからだろう。あえて言えば鈴芽本人のキャラの印象がちょっと薄く、保守的スタイルの健気な女子高生なのは「またかよ日本アニメ…」感があるが、まぁ本作特有の欠点というほどではない。

<過去作より格段に良かった人物描写>

 そして何より本作『すずめの戸締まり』で心打たれ、驚かされたのは、旅の途中で2人が出会う市井の人々が、丁寧かつ生き生きした描かれ方をされていたことだ。それも各キャラのあり方、彼ら/彼女らとの出会いで生じる心の動きを、言葉で説明するのではなく、しっかりとアニメーションの豊かさによって表現しているのが良いと思った。

 たとえば民宿の娘・千果との出会いで、彼女の運ぶミカンが坂を転がっていくのを、鈴芽と草太(椅子)が食い止める一連のシーン。うわっ作画めんどくさそ〜とか思うわけだが、千果の若干のおっちょこちょいで憎めない性格、鈴芽の優しさと行動力、草太(椅子)の機転と利発さを、端的かつ美しく表現した印象深いシークエンスだ。

 とりわけ(私の大好きな伊藤沙莉が声を演じる)二児の母・ルミと知り合うくだりは特筆に値する。伊藤沙莉の声も相まって、実写作品に匹敵するような「普通の中年女性」としてのリアルな生命感を与えられたルミの描き方は、そもそも中年女性がちゃんと描かれることが極端に少ない近年の日本アニメとしては画期的と言える。その後、鈴芽と椅子草太がルミの子どもたちと遊ぶシーンも良い。邦画や日本アニメにありがちな、いかにも大人が考えた感じの「子ども描写テンプレ」を脱し、わけわからんゴッコ遊びとか会話の勢いとか「子どもって実際これくらい不条理だよね…」という実感の伴う生命力がちゃんと宿っていた。(ひょっとすると新海監督自身の子育て経験も反映されているのかもな、と思ったりもしたが。)

 最も愛すべきサブキャラは、鈴芽が旅の途中で出会う大学生男子・芹澤だろう。ぶっきらぼうな感じと軽薄さ、そして憎めない間抜けさが絶妙に混ざりあった人物で、草太への深い思い入れもそこはかとなく匂わせており、とにかく絶妙な奥行きを感じさせるキャラだ。一部界隈でさっそく人気を博しているようだが、私もぶっちゃけ新海作品全体のベストキャラクターだとさえ思う。(てか声が神木くんと知り「それアリなんだ…」となった。過去2作とは世界が繋がってないよ宣言ということかな。)

 かなり深刻な過去と複雑な家庭背景をもつ鈴芽&環のコンビが醸し出す雰囲気に対して、わりと軽薄な雰囲気の芹澤の存在が良いアクセントになっていて、すっとぼけたロードムービー感を物語の最終盤まで維持できている。全く関係ない第三者の客観的な視線を加えることで、軽く突き放した風通しの良さを作品にもたらすという点で、深田晃司監督の『LOVE LIFE』の秀逸な車中シーンを思い出したりもした。

  新海監督といえば「セカイ系」の代表格のように言われがちだ。「セカイ系」という言葉の定義は曖昧だが、要は(恋愛を基本とした)主人公&ヒロインの閉じた関係の行く先と、世界(セカイ)の運命が直結している創作ジャンルという認識で大体OKだろう。まぁそれ自体は「セカイ系」なんて言葉を使わずとも、よくある物語の類型じゃね?という気もするし、その中で陰キャ主人公とか美少女とかオタク受けしそうな要素をもつものが"セカイ系"と呼ばれてるだけなのでは疑惑も個人的に持っているが、それはいいとして、主人公たちと世界の関係が「閉じて」いることが「セカイ系」の重要な条件とは言えそうだ。

 だが本作『すずめの戸締まり』はこうした豊かな「他者」の描写によって、主人公の物語に奉仕するだけの閉じた"セカイ"ではなく、たしかに人々が生きている、守るに値する"世界"であることが、過去作よりも段違いに力強く伝わってきた。私が本作を気に入った理由は、言ってしまえばこの1点に尽きる。

 そんな「世界」が『すずめの戸締まり』では危機に陥ることになるのだが、「こんな書き割りみたいな嘘くさい"世界"どうなったっていいだろ」とか思うことなく、最後まで緊張感をもって見られた理由は、先述の丁寧な人物描写のおかげだ。日本各地を周り「扉」を閉じて人々の命と生活を守る2人の旅路に、ちゃんとズッシリくる意味合いが生じるのである。2011年の震災から10年以上がたち、被災地や失われた命を悼む心がどこか薄れつつあるこのタイミングで、たしかに「そこにいた」人々の命をもう一度「悼み」、「思い出す」ための旅を描く本作には、大きな意義があるといえると思う。

<なぜ『天気の子』は合わなかったのに『すずめ』はイケたのか>

 『すずめの戸締まり』は東日本大震災を正面から扱った作品だ。地震の描写はかなり生々しく、ご丁寧にアラーム音まで現実に似せているので、普通にトラウマを刺激される人も多いだろう。このように現実の災害を超常的なエンタメに引き寄せて、ある種の「エモ消費」を果たしてしまう本作の手法は、『天気の子』に通じる問題も抱えているのも確かだ。それなのになぜ個人的に『天気の子』が厳しくて、本作は楽しめたのかを考えてみたい。まず『天気の子』のどういう部分を特に問題だと思ったのかを整理しておく(以下、思った以上に長くなってしまったので注意。『天気の子』にかなり批判的なので好きな人はわざわざ読まなくていいです)。

 『天気の子』では、かなり「気候変動っぽい」主題が扱われる。新海監督もインタビューなどで、現実の気候変動やそれに対する活動(例えばグレタ・トゥーンベリさんの気候アクションなど)にインスパイアされた面もあると語っているようだ。まずフォローしておくと、新海監督のように第一線のクリエイターが、気候変動のように現代社会の極めて重要かつ深刻な問題に対して、斜に構えたり冷笑したりせず、ちゃんと自分の作品に反映しようとする姿勢そのものは好ましいと思っている。

 実際『天気の子』の「東京水没」を上回るような、気候変動由来である可能性が非常に高い大水害は世界中で頻発しつつあり、今年もパキスタンでは国土の約3分の1が冠水するという破滅的な事態に陥った。そのような危機的状況に対する不安も高まっている今、「天気」のテーマを創作物に反映しようとする新海監督のセンスそのものは鋭敏だと思う。

 しかしあくまで『天気の子』で描かれる問題は「気候変動っぽい」何かにすぎない。 『天気の子』における「天気」の変化は、あくまで少女のもつマジカル巫女パワー(?)によって引き起こされる超常現象である。それは言うまでもなく、裕福な社会で暮らす大人たちの(例えば温室効果ガスを排出するような)人為的な活動が引き金となって激化している、現実の気候変動とは全く異なるものだ。つまり『天気の子』は気候変動のメタファーとしてはほぼ全く成立していない。

 そのこと自体は問題とは言えない。天気を扱った作品だからといって、気候変動や地球温暖化について必ずしも正確に反映する必要はないし、天気に何か他のメタファー(地震や疫病といった災害、少年少女の荒れ狂う内面世界など)を託すことも可能だ。

 しかし本作のクライマックスでは、少女を救おうとする主人公が「天気なんて狂ったままでいいんだ!」というセリフを(RADWIMPSのエモい楽曲にあわせつつ)叫び、そこで観客が最大のカタルシスを得られる作りになっている。

 その瞬間に向けたエモーションの連なりが上手くて、初見では生理的に感動しかけたのを告白しておくが、時間がたてばたつほど「…どうなん?」と感じる気持ちが高まってきた。いや『天気の子』の天気は現実の気候変動そのもののメタファーではないんだろうし…と納得しようとしても、実際には断固として気候の脅威が(特に弱者に)降り掛かっているわけで、そんな時代に「天気」をテーマとした大作を作っておきながら、「天気なんて狂ったままでいい」を若者向けアニメのクライマックスの激エモ感動シーンにもってくる姿勢に、はっきり言えば無神経・無責任なものを感じてしまったのだ。

 こうした開き直りっぽいメッセージを「尖ってる」「攻めてる」と持てはやす声も、悪い意味で日本っぽくてイヤだな…と思った。「尖ってる」どころか、こと気候の問題に関しては、「狂ったままでいい」って権力者や既得権益者やマジョリティが思ってることじゃね…?とさえ思う。極端な話、いまだに化石燃料を燃やしまくって儲けてる企業も、そうした業界と癒着してる政治家も、戦争を起こして環境汚染しまくってるプーチンも、アマゾン熱帯雨林を限界まで破壊したブラジルの元大統領ボルソナロも、自分は気候危機が深刻化する前に死ぬから天気がどうなろうと知ったこっちゃない"大人"たちも、全員「天気なんて狂ったままでいい」と思ってるはずだ。

 気候変動には極めて不平等な構造がある。それは「温室効果ガスを排出しまくって気候変動を加速させているのは"豊かな国で暮らす金と権力をもつ大人"なのに、その気候変動によって最も被害を受けるのは"若者・途上国の貧しい人々・社会的な弱者"である」という理不尽な構造だ。

 グレタ・トゥーンベリさんの気候デモに象徴されるような気候危機へのアクションは、「天気が狂ったままでいいわけがない」と怒りを抱えた若者によって主導されていた。そうした切実な声に対して「そうは言ってもねえ…」「子どもにはわからないだろうけど、社会は複雑なんだよ」とか言い訳を並べたり、「もっと勉強しなさい」とか冷笑したり、追い詰められた若者の"過激な"プロテストを罵倒し嘲笑しながら、世の中を変えることを拒み続け、天気がどんどん狂っていくことに加担してきたのが大人たちだ(もちろん私もその一員である)。

 こうした「天気」の問題の構造を考えるほど、「天気なんて狂ったままでいい」「狂っていても僕たちは大丈夫」と"子どもに"言わせ、「世界なんて元から狂ってるんだから気にするな」と"大人に"言わせる『天気の子』の捻れ具合がキツくなってくる。新海監督が本作を作る上で込めた、今を生きる子どもたちを慰め、励まそうとする意志そのものは疑っていない。だがいっけん子どもに寄り添っているように見える本作は、実は大人に都合のいい物語になってしまってはいないか?という欺瞞性を感じずにいられなかった。

 「天気なんて狂ったままでいい」の決め台詞シーンや、東京水没エンドそのものは良いとしよう。こうした破壊的な結末のフィクションも実は世にありふれているし、それ自体は特に悪くない。だが現代に「天気」を主題にそうした物語を描く以上、せめて通すべき「筋」はあるように思う。たとえば途中に出てくるオカルト爺さんに、近代の科学的な気候データの蓄積を否定するようなセリフを(あたかも真実を鋭く突いてるかのように)言わせたり、終盤でおばあさんに「東京は昔は海だったんだし、大きな視点で見れば元に戻っただけかもね…」的なセリフを"深イイ"感じで言わせたりするくだりは、やはりどうかと思ったし、似た感じの気候変動否定論をしょっちゅう目にする身としても勘弁してくれ〜…と思った。

 「巨視的に見れば地球の気候はずっと変動し続けている」という意見そのものは間違ってないが、それを人間活動による急激な気候変動を問題視する声への反論に使うのは、単なる論点ずらしや混ぜっ返しでしかなく、人為的な気候変動の否定論者がしょっちゅう使う手である。いくら『天気の子』の"天気"が現実の気候変動とはかけ離れているとはいえ、そうした意見を「気候変動っぽい」ビジュアルとテーマ性を借りた本作で"深イイ"的に垂れ流してしまう姿勢は、作り手の"天気"に対する考えの浅さを端的に表してしまっている。海外で「作り手は人為的な気候変動を否定してるのか…?」という疑惑までけっこう出てたっぽいのも無理はないと思う(そういう意図ではないと私は信じているが)。

 このように『天気の子』が欺瞞的に見えてしまう理由は、突き詰めて言えば「新海監督が現実世界の"天気"に対する考察や理解や勉強が不十分なままで、中途半端に現実と絡めた"天気"の映画を作ってしまった」ことに起因すると思う。天気のビジュアル表現は(専門家がしっかり監修したこともあり)美麗なのだが、"天気"とは何なのか、"天気"が社会にとってどんな意味をもつのか、そうした根本的な洞察が欠けていると感じた。(ただ正直「ビジュアルなど表面は見事だが、テーマやモチーフに対する本質的な掘り下げが足りてない」というのは新海監督に限らず、日本エンタメ界に広く見られる傾向だとも思う。)

 ここまで読んで「たかがアニメ、そこまで難しく考えることないだろ」とツッコむ人もいるかもしれない。しかしアニメーション作品には「たかがアニメ」を超えた大いなる可能性があると私は信じている。近年でも『ウルフウォーカー』や『ディリリとパリの時間旅行』や『スティーブン・ユニバース』といった世界最高峰のアニメ作品がなぜ普遍的な傑作となりうるのかといえば、それは現実の社会構造に見られる諸問題を作り手が考え抜き、エンタメ作品の形に昇華しているからだ。だからこそ単なる子供だましの気晴らしや暇つぶしを超えて、観た人の心や思考、もしかしたら社会全体にも強い影響を与えうる力をもつ。新海監督自身もそう信じているからこそ、過去作への批判的な反応も踏まえつつ、『すずめの戸締まり』でも数々のアップデートを見せたのではないかと思う。

 一方で、こんなツッコミへの反論は少しむずかしい。「いや『天気の子』のそういう問題は『すずめの戸締まり』にもたいがい当てはまるだろ!」というものだ。それは、たしかにそうである。『すずめ』世界における震災を起こす「みみず」のメカニズムは、言うまでもなく完全なオカルト的フィクションであり、現実に地震が起こる仕組みとは何の関わりもない。上の文の「天気」を「震災」に変えるだけで、『天気の子』に対する批判のかなりの部分が、そのまま『すずめ』にも通用してしまうのだ。それどころか『すずめ』は「東日本大震災」という特定の大災害を堂々と描いている分、フィクショナルな災害を描いた『君の名は。』や『天気の子』よりタチが悪いという言い方さえできる。場合によっては(特に直接的な被災者であれば)前2作よりも今回の方がよっぽど受け付けない…という人がいても全くおかしくない。

 それでも、個人的に『すずめの戸締まり』のほうが『天気の子』よりもずっと好きになれた理由は何なのか。それは新海監督が"震災"について(少なくとも『天気の子』における"天気"よりは格段に)深く考えていたからだと思う。東日本大震災以来、日本に生きる当事者として、震災後の日本で大規模なエンタメ作品を作っていくクリエイターとして、新海監督は様々な声を見聞きし、どのような物語を語るべきか熟考を重ねたのだろう。それが作品をどの程度良くしたかを判断するのは観客だが、一観客としてその形跡は確かに刻まれていると感じる。

 終盤、おそらく東日本大震災の犠牲者と思われる様々な人々が「扉」を出ていく…という、強く心を打つシーンがある。この名場面が生まれたのも、震災で失われたものについて、震災で傷ついた場所について、確かにそこに生きていた命を悼むことについて、新海監督が突き詰めて考えた結果ではないだろうか。作り手がテーマについて「考えた」分量というのは、ここまではっきりアウトプットの違いとして現れるのか…と、そのこと自体に感銘を受けるほどだったし、いち作り手としても背筋が伸びる思いだった。

 そして、起こった災害を結局「なかったこと」にしてしまう『君の名は。』や、「狂った世界を変えることはできない」という開き直った着地を見せる『天気の子』に対してバランスをとるかのように、懸命に災厄を食い止めよう、世界を少しでも良くしようと走る人々を描いた『すずめの戸締まり』は、過去作への反応も踏まえた上での、新海監督からのセルフアンサーにもなっているように感じたのだった。

 …そんなこんなで語ってきたが、あっさりめに『すずめ』を褒めるだけで終わるつもりが『天気の子』パートが増えすぎて、そろそろ息切れしてきたのでいったん終わりたい(ただ一回整理しときたかったので自分的には良かった)。あと観た直後は称賛した『すずめの戸締まり』も、ブログをだらだら書いてる内にもう観てから2週間くらい経ってしまって、「ここはちょっとな〜」と感じる細かい点も浮かんできた。おもにダイジンがかわいそうとか(新海監督って本当に動物への興味が薄いよなと思う、『天気の子』のネコとか一切ネコっぽくないし…)、やっぱ恋愛描写がノイズだよなとか、左大臣ってなんだったんだよとか、オチは冷静に考えると何も解決してなくねとか、ダイジンかわいそうとか、女性描写は格段に向上したと思うけどそれでも細かい部分がな〜(なんか母性とか恋愛にまだやっぱ偏ってる感)とかダイジンかわいそうとか色々あるのだが、そのへん詰めてくといよいよ褒めてるのかけなしてるのかわからない記事になりそうなので、このへんでやめとく。 なんにせよ「国民的作家」(という呼び方はうさんくさくてイヤだが)とやらに本当になっていくのかなあと思わせる飛躍っぷりを見せ、新海監督の今後が普通に楽しみになる一作だったので、その意味で「観て良かったな」と素直に思いました。おしまい。