沼の見える街

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そして列車は"時"を運ぶ。『エンドロールのつづき』感想&レビュー(ネタバレあり)

いまインド映画がアツいことに異議を唱える映画ファンはいないだろう。『バーフバリ』旋風を起こしたS.S.ラージャマウリ監督の最新作『RRR』は日本でも絶賛ヒット中なだけでなく、欧米でも大ヒットして映画業界人の話題を集めているという。私も思う存分ことあるごとに語りまくっているので、ここでは『RRR』の話は繰り返さない。観てない人は今すぐ観たほうがいい。まじで。

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だが…いまアツいインド映画は『RRR』だけではない。最近日本で公開された作品に限っても、そのテーマ性も表現手法も実に多様で、インド映画の懐の広さに驚かされるばかりだ。たとえば、食という普遍的な営みを通じて、女性が晒される性差別の現実を鋭くえぐり出した『グレート・インディアン・キッチン』昨年のベスト10にも選んだ)。インド社会の教育格差の壁に教師と生徒が熱く立ち向かう『スーパー30 アーナンド先生の教室』。どちらも高度な問題意識を、巧みにエンタメの形に昇華させた秀逸な映画である。「インドの問題」という枠にとらわれない普遍性のあるテーマ設定になっているため、日本の観客が観ても確実に刺さるはずだ。

そして『RRR』の興奮冷めやらぬ…というか明らかに加熱している2023年早々、またしても素敵なインド映画が公開された。ド派手で激アツで常に何かしらの物体や感情が爆発してるような『RRR』とは正反対の、静謐で穏やかなトーンで描かれるインド映画…それが『エンドロールのつづき』である。

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【ざっくりあらすじ】

主人公は、インドの田舎町で暮らす9歳の少年サマイ。父のチャイ店を手伝っている日々の中、家族で街に映画を観に行くことになる。人の賑わいに満ちた映画館の熱気や、スクリーンを照らす光の美しさにすっかり心奪われたサマイ。「映画なんて低劣なものだ」と映画に冷淡な父親には内緒で、その後もサマイはこっそり映画館に通うことになり、いつしか映画という「光の芸術」にのめりこんでいく…。

 

【世にも映画的だが、あまりに現実的な乗り物】

列車はこの世で最も「映画的」な乗り物と言っていい。リュミエール兄弟が1896年に公開した、1分に満たない白黒映画『ラ・シオタ駅への列車の到着』は、映画など観たこともなかった観客を大いに驚かせた、「世界最初の映画」の1つとして名高い。(本作序盤、サマイ一家が映画を観た帰りに白黒で列車が写しだされるシーンはこの『ラ・シオタ駅〜』オマージュとのことだ。)

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その後もアクション映画から文芸映画まで、あらゆる映画に数え切れないほどの列車が登場し、その「映画的な美しさ」や「映画的な興奮」によってスクリーンを彩ってきた。列車は映画にとって特別な存在なのだ。

しかし、そんな映画の夢を象徴するような「列車」も、貧しい生活を送る大勢の人々にとっては、シビアな現実生活の一場面でしかない。本作の主人公・サマイもその「大勢」の1人だ。列車の動きや線路の構図、そして世界に満ちる光に「美」を感じ取る鋭敏なセンスをもつサマイは、明らかに映画の才能を持っているのだが、彼を取り巻く現実は厳しい。映画という「夢」の象徴であるはずの列車が停止した時、サマイにできるのはその周りで乗客にチャイを売り、小銭を稼ぐことくらいだ。そんな貧しい暮らしぶりでは、列車の出てくる映画を観ることさえも簡単にはできないし、列車を映して映画を撮るなんて、まさに「夢のまた夢」だ。

 

【"光の芸術"をDIY!】

だがまるで映画そのものを端的に表すような、「時」を意味する名前をもつサマイは、現実の厳しさの前に「夢のまた夢」を諦めたりはしない。心を強烈に惹かれる映画を観るために、店の売上をくすねてでも、小さな町のオンボロ映画館に通い始める。どんどん映画の面白さ・美しさにのめり込んでいくサマイだが、そこはしょせん子ども…。お金がいつも手に入るわけではなく、無賃鑑賞がバレて劇場をつまみ出されたり、映画ファン活動も簡単にはいかない。

そこに現れた「救世主」が、映画館で働く映写機係のファザル。お母さんの手作りランチと引き換えに、映写機室から映画を観てもいいという約束をゲットする。サマイとファザル、年の離れた2人の「映画好き」が形作る共犯関係のような、奇妙な友情の描写が楽しい。

2人の交流の中で、「光の芸術」である映画の根幹を形作る「フィルム」の仕組みが説明されていくのも、映画ファン的に面白いシーンである。サマイは「フィルムが動いている時はライトが消え、止まったときだけライトが光る」ことで、人間の脳を騙すかのように「動く映像」をスクリーンに出現させるということを教わるのだ。この映画の観客も、つい劇中のサマイと一緒に、まばたきを繰り返してしまったことだろう。

ファザルとの交流を経て、映画のメカニズムに関する知識を得たサマイは、仲間たちと一緒にお手製の「映写機」をDIY(Do It Yourself)して、自分たちで映画を上映しようと挑戦する。フィルムを盗み出すという、決して褒められたものではない所業に手を染めつつではあるが、非常に貧しい暮らしを送っている子どもたちにとっては、それが唯一の「映画」にふれる手段でもあった。素人なりのトライアル&エラーを繰り返しながら、自分たちだけのやり方で「正解」へと近づいていくプロセスは、間違いなく本作で最も心躍る場面だ。

そしていよいよ映写機が完成した後、村外れの廃墟を小さな「映画館」に作り変え、インドの伝統衣装サリーをスクリーン代わりにして、(盗んだフィルムを勝手に組み合わせつつではあるが)お手製の「映画」を上映する場面の幸福感は忘れがたい。フィルムのみなので音はなく映像だけの「上映」なのだが、楽器がわりの日用品を活かして「音響効果」も自分たちで作り出したり、観客に風を感じてもらうために息を吹きかける様は、まるで4DXだな…と微笑ましい。

この「小さな映画館」の場面は、まずはなんといっても「エンターテインメント」である映画の本質を垣間見るようでもあった。こんなアナログ感に満ちた楽しいシーンがあるからこそ、その後の急転直下の衝撃も際立つわけだが…。

 

ーーー以下ネタバレ注意ーーー

 

【「映画の映画」の地獄めぐり】

「映画にまつわる映画」「映画を撮る映画」は珍しくないどころか、完全に一大ジャンルと化している(日本でも『カメラを止めるな!』なんて代表例だし、最近も『サマーフィルムにのって』など秀作がありましたね)。 だが本作『エンドロールのつづき』が興味深い点は、物語や演技などの「ソフト」面よりも、フィルムや映写機のような「ハード」面を強調するという、映画に対する一風変わった間接的なアプローチを取りながら、かえって映画の本質に強く"光を当てて"いることだ。

そして本作が、映画のハード面に着目した「映画の映画」だからこそ、本作のもうひとつのクライマックスとなる、終盤の「地獄めぐり」が鮮烈に観客の心を刺してくるのだ。

そのきっかけは、サマイを「育てて」くれた町の映画館・ギャラクシー座に、デジタル化の波が押し寄せ、フィルムが用無しになってしまったという悲しい事態だ。気のいいアナログ映画あんちゃん・ファザルもクビである。まだ見ぬ「物語」であるフィルムや、それを上映するために欠かせない映写機は、ガラクタのようにトラックに詰め込まれ、どこかへ運ばれていってしまう…。そのトラックを(皮肉にも「映画的」なカーチェイスのように)サマイたちは追いかけ、リサイクル工場にたどり着くのだが、そこで目にした光景は、言葉を失うようなものだった…。

「映写機やフィルムがどのようなメカニズムで映画を映し出しているか」を、この映画を通じて私達観客もサマイと一緒に学んできた。だからこそ、そんな映写機やフィルムが単なる金属の塊として分解され、溶解され、再整形され、まさかのスプーンやアクセサリーに生まれ変わってしまうという一連の光景は、まさに「地獄めぐり」である。「万物流転」「諸行無常」といった四文字熟語が浮かぶ、圧倒的な虚しさと哀しさにあふれていた。

これまでの不屈の精神っぷりから考えても、てっきりサマイたちが「その映写機やフィルムはゴミじゃない、大切なものなんだ!返してくれ!」と懇願したり、工場から盗み出したりする展開になるのかな?と思っていたのだが、そうはならなかったことも意表を突かれた。

工場のシークエンスでは一切セリフがなくなるので、サマイが具体的に何を感じていたのかは観客の想像に委ねられる。カメラはただ、淡々と続くリサイクル工場のプロセスと、かつて「映画」そのものであった機材が別のものに流転していく姿を映し出していく。馴染み深いフィルムの時代が幕を閉じ、映画の次の時代が容赦なく始まっていく時の流れを、これ以上なく直接的な形で提示するかのように…。

この光景を見て、果たしてサマイは何を感じたのだろうか。予想を超えた事態に面食らい、何も手を出せず呆然としていたのだろうか。それとも、むしろ"死にゆく"映写機やフィルムの行く末をしっかり見届けようと熱い決意を固めたのだろうか。あるいは、サマイ(=時)の名を体現するかのように、人間にはどうしようもない"時"の流れを、せめてフィルムのように瞳に焼き付けておこう…と透徹した思いを抱いたのだろうか。

 

【そして列車は"時"(サマイ)を運ぶ】

思い入れのある映写機やフィルムが、全く別のものに生まれ変わってしまう、残酷だが荘厳な光景…。それを見届けて帰路についたサマイは、落ち込んでしまうどころか、むしろ映画の世界に本格的に関わっていきたい…という決意を固めたようだ。

映画のラスト、彼は「映画をつくる」という夢を叶えるため、家族の理解を経て故郷に別れを告げる。「映画をつくりたい」というサマイの想いが「光の勉強がしたい」「光を知りたい」という言葉によって表されるのも、映画の「光の芸術」としての側面を捉えてきた本作らしいポイントだ。

そして「映画になりたい」とまで言っていた、映画の世界に深い思い入れをもつサマイを、まだ見ぬ未来に向かって運んでいくのが、「この世で最も映画的な乗り物」列車である…という結末は美しい。かつて眺めるしかなかった列車が象徴する、夢見るしかなかった映画の世界に、自分なりのやり方でトライ&エラーを繰り返しながら踏み込んでいき、自分だけのやり方で「光を捕まえる」ことで、サマイはついに「列車に乗り込む」ことができたのだ。

同じ列車に乗っていた女性たちが身につける、インド特有の七色のアクセサリーに生まれ変わったフィルムたちも、サマイの出発を優しく見守っているかのようだ。止められない時の流れの中で、物体としての形をなくしてしまった映画たちは、きっとサマイのことを、そして映画に関わる大勢の人を、これからも励まし続けるのだろう。