- 黒沢清監督の映画『岸辺の旅』を観た。テアトル新宿、1000円。3本ハシゴの1本目。
- 一見ひたすら淡々としたお話なのだが、とにかく全編にわたって「異常」としか言いようがない空気に満ちた、強烈な作品だった。今年の邦画ベスト、更新したかもしれない…。
- 現状のトップ2が『きみはいい子』と『百日紅』なので、今年の邦画ベスト3が全部テアトル新宿の公開作品になる可能性すら出てきた…。さすがミニシアターの殿堂ですわ。選球眼ハンパないっす。私の微妙に失礼な感想までリツイートしていただき、ホント恐縮です…。
- ぶっちゃけ予告編を見た時点では、あんまり面白そうに思えなかったんですよね。「なんで黒沢清が、中年夫婦のロードムービーを…?」って。そんな夫婦の愛とか言われてもよくわかんないし、オバケも出ないっぽいし、スルーでいいかなって思っちゃいまして(残念な映画ファン)。ところがどっこい…凄かった。魅力を伝えるのが大変難しい作品なんですが、思いつくままに書いてみます。
- あらすじを言うとさっそくネタバレになってしまうんだよな…。『シックス・センス』じゃあるまいし、別にいいんだけど(この書き方がもう…)。では以下ややネタバレ注意で。
- 主人公は、深津絵里が演じる妻・瑞希と、浅野忠信が演じる夫・優介。この優介が失踪して3年がたったある日、瑞希のところに優介が突然帰ってくるのだが、優介は軽いノリで「おれ、死んだよ」と瑞希に告げる。「体は今頃海の底でカニに食われてるよ」とまで言う。それでは目の前にいる優介は一体、何なのか?
- この突如あらわれた優介、見た目は何の変哲も無い(?)浅野忠信なんだけど、登場シーンからして、とんでもなく凄かった。彼が「この世のものではない」という事実が、ショット一発で伝わってくる。
- なぜか懸命にキッチンで白玉団子を作っている優子が、ハッ、と振り返ると、部屋の片隅に優介が静かに立っている。怖いといえば怖いんだけど、「そういうものだ」という自然さも感じられる。本作はホラーではないけれど、黒沢清のホラー演出家としての経験値はきっちり随所で生かされていて、この場面はその最たるものだと思う。映画的としか言いようがない、惚れ惚れするような「つかみ」のシーン。もうここからグッ…と一気に作品世界に引きずり込まれ、戻れなくなる。
- 突然部屋の隅にあらわれた優介の第一声が「何年経った?」というのも、生きている人間っぽくなくて良かったし、過剰に怯えるでも驚くでもなく「三年」と答え、さらに「靴」(を履きっぱなしだよ)と指摘する瑞希も、異様なリアリティがあって最高だった。いわゆる「現実味」はまったくない会話なんだけど、それが逆に、「ああ、死者との対話ってこういうものかもな」という奇妙な自然さを生んでいる。
- そんなこんなで、「きれいな場所があるんだ」と優介が瑞希を誘い、二人で一緒に旅に出ることになる。とはいえ観客はまだ優介がどういう存在なのかもよくわかっていない状態なので、なんとなくモヤモヤしながら見守ることになる。
- それでも「やっぱり一種の幽霊で、瑞希の心の中だけの存在なんだろうな」とか予想しながら見ているといきなり、なんと優介が駅の改札で駅員さんに話しかけて、普通にやりとりを始める! この場面の「えええ〜〜〜〜!?」という、膝カックンを食らわされたような、すっとぼけた感覚もまた、独特の味わいを生んでいるんですよねコレが…。当然、優介の「結局おまえ、何なの…?」感はさらに深まっていくんだけど。
- こういう曖昧さって、もちろん場合によっては「ふざけんなよ」っていうか、「リアリティラインがわかんなくてノレないよ」って事態にもなりかねないんだけど、本作は不思議とそういうことがない。「優介、ふつうに人に見えるんだ!?」っていう一瞬の驚きはあるものの、「いや、でも死者ってのは案外そういうもんかもな…」とスッと納得できてしまう。
- これはやっぱり、最初の一発目(登場シーン)で、いかにうまく観る者をこの世界に引きずり込んでいたか、という証だと思う。そしてこの曖昧さによって観客は、これから出てくるあらゆる登場人物に対して、「いま目の前にいるこの人は生きている人なのか、それとも…?」というぼんやりとした不穏な疑念を、作品が終わるまで抱き続けることになる。この本作最大の特徴でもある緊迫感は、きっちりと「死者」のルールを明示していたら生まれ得なかったものだろう。
- 夫婦は旅の中で、優介が失踪中の3年間で「お世話になった」人々に会いにいく。まず島影さんという人としばらく一緒に過ごすのだが、このエピソードがまた異様な緊迫感に満ちていて、とんでもなく凄い。アニメ『がっこうぐらし!』の1話をちょっと想起させるようなシーンもあるんだけど、ああいう「びっくり!」っていうトリッキーさとは全く違っていて、その違いこそが興味深い。
- 島影さんも実は優介と同じ存在だった、というのが「びっくり」要素だと言えるんだけど、その事実自体はわりとあっさり明かされてしまい、瑞希もそれを知った時点では(おびえはするものの)そんなに衝撃は受けない。でも、島影さんが「去った」後、優介と瑞希と島影さんの3人で送っていた穏やかな生活の、真の姿がむき出しになったとき、はじめて瑞希は(観客と一緒に)深く動揺する。この「真実を事実として知った時」と、「真実を真実として知った時」の「時間差」が生むショックが、すごく鮮烈だった。『がっこうぐらし!』と違って、たとえネタバレを受けてもあの場面の強烈さは変わらないはず。そこがすごく面白い…んだけど、わかりづらいか。ぜひ見てね(諦めた)。
- そして本作、「光と闇」の使い方がすごく象徴的なので、照明に注目しながら見ると面白いと思う。この映画は大きく4つのパートに分けられるんだけど、それぞれのパートに必ず、「光と闇」を対比する場面がある。
- まず第1パートでは、優介が登場するシーンでのライトを明滅させることで、生者と死者の境にいる存在の異様さを表現している(たぶん能の照明を意識したんだと思う)。第2パートでは、酔っ払った島影さん(=死者)を二人が寝かせたあと、その真っ暗な寝室がゆっくりと明るくなっていき、とある鮮烈な光景が浮かび上がる。死者の世界にグロテスクなまでの「生」が立ち現れたかのようで、不気味さと同時に奇妙な感動を覚えた。本作屈指の名場面ですね。
- 第3パートでは、中華料理屋の妻フジエと瑞希との対話シーンで、まるで長い時間の経過をあらわすように、自然光の明暗がじわじわと変化していく。(彼女たち生者が、長きにわたって「死者」にとらわれていることを暗示していたのかも。)続く第4パートでは、「光」について優介が科学の講義をする場面で、暗かった部屋に一列ずつ電灯が点いていく。死者が生きた聴衆に「存在論」的なことを語るという、異常と言えば異常すぎる場面なのだが、照明の効果もあって、不思議な暖かみのある、「生」に対する希望を感じさせるシーンになっていた。
- どの場面にも共通しているのは、「ああ今、映画を見ているな…」という喜び。こんなに奇妙で異常な映画なのに、なぜか「これこそが映画というものではないか」というような楽しさをがあった。それはきっと、この「光と闇」の対比というものが、映画という芸術の最も根本的な仕組みの一つだからなのかもしれない…という考察を雑誌で読んで、なるほど〜と思いました(受け売りかい)。
- 長いのと眠いのでこの辺にしときます。蒼井優の話とかしたいんですけどね。最高でしたね蒼井優…。あんな蒼井優の使い方ってないよな。蒼井優はともかく、本当、最初から最後まで、「映画って凄いな」と思わされるようなポイントが沢山あって、にこにこしたり震えたりしながら見ていました。わかりやすい映画ではないし、私もまだ理解できていない部分が山ほどあるんでしょうが、最高の映画体験でした。ありがとう黒沢清。ありがとうテアトル新宿。今年の邦画レベル高すぎですよね。では。