沼の見える街

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後悔と手をつなげたら。『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』感想&レビュー(ネタバレあり)

無限の可能性が広がっているということは、無限の後悔が待っているということだ。

可能性は選択を生む。今日の昼食にピザを食べるか/カレーを食べるか、まっすぐ家に帰るか/スーパーに寄るか、映画館で『アントマン&ワスプ:クアントマニア』と『別れる決心』のどちらを観るか、このブログを読むか/読まないか…。そんな日常的なごく小さな選択であっても、どんなに小さな変化だたっとしても、何を選ぶかで確実に未来は変わる。

そして当然、人生にとってもっと大きな意味を持つ「選択」もある。夢への挑戦を続けるか/諦めるか、誰と結婚するか/そもそも結婚しないか、子どもを持つか/持たないか、愛する人を殺した人間に復讐するか/赦すか…。まるで常に「二択」かのように並べてしまったが、言うまでもなく現実の選択肢は膨大であることを考えれば、「可能性」の数は無限に近い。

そして私たちが「可能性」を認識し、想像力を持つ生き物である以上、そこには必ず「後悔」がつきまとう。「あの時ああしていれば、あそこで別の道を選んでいれば、自分の人生は違ったかもしれない」という感情から逃げられないわけだ。社会的に「良きこと」とされがちな選択肢を選んだ場合であっても、後悔は常につきまとう。たとえば「子どもを持つ」選択をした女性で、「母親になってよかった」と素直に思える人も沢山いるのだろうが、「母親になって後悔してる」という人も確実にいるのだ。(実際はその間を揺れ動き続ける人も多いだろうが。)

多かれ少なかれ、人は後悔とともに生きていくしかない宿命を背負っている。それでは私たちは、人類共通の業とも言える「後悔」とどのように向き合えばいいのか。そんな普遍的でシリアスな問いに、世にも奇想天外でバカバカしい、しかし感動的な形で答えてみせた映画…それが『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』である。

 

【確定申告、しましょうか】

主人公はミシェル・ヨー演じる、アジア系の平凡な中年女性・イヴリン。彼女はコインランドリーを運営して家族の食い扶持を稼いでいるが、その経営は厳しいようだ。確定申告(納税の手続き)のために大量の書類を整理したり記入したりと煩雑な手続きにてんやわんやしていたら、なんと経費の不備で国税庁に呼び出しを食らってしまう。この「かんべんしてよ〜」という面倒臭さは、フリーで活動してる確定申告を避けて通れない世界中の人間は、広く共感できるところだろう…。

ただでさえ夫が頼りにならなかったり、頑固な父親が春節のお祝いでやってきたり、娘が(保守的な父親を驚かせそうな)同性の恋人を連れてきたりと慌ただしい状況に、国税庁の監査まで加わってしまった、エヴリンの人生のカオスっぷりの表現が冒頭から見事だ。もはや彼女がひとつのことをじっくり考えたり、誰かにゆっくり向き合ったりできないということが、観てるだけでパニクってくるような情報量の多いワンカット的な映像によって説明される。このあたりは、脅威の90分ワンカットで撮られた映画『ボイリング・ポイント/沸騰』や、ドラマ『一流シェフのファミリーレストラン』のいっぱいいっぱいなレストラン経営も連想した。

これは「貧乏暇なし」的な生活描写でもあると同時に、エヴリン自身の内面世界の映像化でもあるようだ。劇中で明言こそされないものの、エヴリンはADHD(注意欠如・多動症)の症状をもっていると考えられる。実際『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の監督を務める2人組「ダニエルズ」のひとりダニエル・クワンは、本作をきっかけにADHDの診断に至ったと公表している。そうした当事者性を織り込みつつ、同じくADHDを抱えるエヴリンから見た「もうワケがわからなくなっちゃってる」世界を、誰が見ても追体験できるように映像で表しているというわけだ。

そんなエヴリンを、さらにブッ飛んだ「ワケのわからない」事態が襲う。この世界に同時に並行して存在する宇宙、すなわち「マルチバース」の別の宇宙からやってきた男が突如として夫ウェイモンドに乗り移ったのだ。そしてエヴリンは、マルチバース間をジャンプしながら「別の自分」の能力を受け取りつつ、全宇宙を滅ぼそうとしている存在と闘うことになる…!そんな奇想天外な物語が始まるわけだが、それに至るまでの序盤の日常パートをしっかり描いていたからこそ、その後のとんでもないカオスもいっそう引き立つというものだ。

様々な「可能性と選択」によって分岐した多様な世界が舞台となる以上、ヨレヨレで情けなくも共感を誘う中年女性の姿から、格闘や歌が得意な堂々たる大スターまで、映画史上まれに見る振れ幅を見せることになる主役・エヴリン。極めて高度な演技力が要求される役だが、そこにバッチリ応えてみせるミシェル・ヨーこそが、まずは本作の絶対的な屋台骨である。

ミシェル・ヨーは言うまでもなくアジア系女性を代表する大スターであり、近年では『クレイジー・リッチ』の貫禄溢れる姿も記憶に新しいが、本作では「人生に行き詰まった平凡な中年女性」をコミカルに、そして悲哀たっぷりに演じてみせる。だからこそ、マルチバースの狂乱に巻き込まれた彼女が繰り出す、その後の八面六臂の大活躍にもいっそう喝采を送れるのだ。

 

【アジア系の『ブラックパンサー』!?】

主演のミシェル・ヨーを筆頭に、助演のキー・ホイ・クァン、ステファニー・スーなど、主要キャラが軒並みアジア系の俳優で、これほどエンタメに振り切ったアメリカ映画が現れた…というのが、とにもかくにもフレッシュである。アメリカ本国では、もはやアジア系にとっての『ブラックパンサー』と言っても過言ではないような盛り上がりを見せた…と伝え聞くのだが(作品のタイプは全然ちがうけど)、それも納得のパワーを持ったエンタメ作品だと思う。

本作『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』が、『シャン・チー』や『クレイジー・リッチ』のような、近年のアジア系が中心のメジャーなエンタメ作品に比べても特に重要なのは、実は物語的には、主人公たちがアジア系であることの必然性が「ない」ことだ。イヴリンや家族がアジア系でなく、黒人やメキシコ系や他のマイノリティであっても、特に問題なく本作の大筋は成立する(もちろん細部は変わるだろうが)。これは先述した『ブラックパンサー』がアフリカ系/黒人以外では成立しない話であることを考えても、特筆すべきことだ。

もちろん、コロナ以降の世界各地でアジア系への差別が加熱している背景も見れば、アジア系が主役である本作の意義がさらに増しているという意味での必然性はある。だが「どんな人種でも成り立つ」エンタメを、あえてアジア系主人公でやっているということに、いっそう新時代的な風通しの良さを感じさせる。これはスリラー映画『サーチ』(2018)などを観た時も感じたことだが、それをはるかに上回る規模でアジア系の超エンタメ映画が登場し、しかも大ヒットを遂げたのは祝福すべきだろう。

ところでアジア系が主人公で、親子の関係に焦点があたる、ブッ飛んだエンタメ作品…という意味では直近の『私ときどきレッサーパンダ』も強く連想した。子ども視点で描かれた『レッサーパンダ』の葛藤を、母親からの視点で語った物語が『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』とさえ言えるかもしれない。興味深いシンクロニシティだが、どちらも2020年代を象徴する作品として語り継がれることだろう。

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ーーー以下、ネタバレ注意ーーー

 

【ふざけ倒した超絶アクション】

主演のミシェル・ヨーに匹敵する素晴らしさを誇るのが、夫ウェイモンドを演じるキー・ホイ・クァンだ。『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』や『グーニーズ』等のヒット映画に子役で出演した後は、主に映画製作に関わっていたようだが、久々の俳優業復帰となった。優しいけど情けない夫ウェイモンドから、別のバースのウェイモンドに体をのっとられ、キビキビ動き回る姿のギャップは、キー・ホイ・クァンのキャリアを知った上で観るとまた味わい深い。ダサめなウェストポーチをヌンチャクのごとく振り回しながら、国税局の警備員たちをなぎ倒していくシークエンスはとにかく最高で、今年のベストアクションに選ぶ人も多いことだろう。

ポーチヌンチャクに限らず、アクションは『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の最大の美点のひとつだ。カッコイイだけでなく、先程のウェストポーチ・ヌンチャクにも象徴されるように、キレッキレの超絶アクションの中に、ちょっと情けなかったりカッコ悪かったりバカみたいだったりする「外し」の要素を必ず入れてくる。日本のエンタメでいうと、劇場版『クレヨンしんちゃん』シリーズの、「やってることはバカみたいだが、雰囲気は大真面目だし、作画もキレッキレだし、色んなギャップが相まって妙にかっこいいアクションシーン」を強く連想した。あれの新時代アップデート実写版といったところか…。

クレヨンしんちゃん的といえば、ダニエル・ラドクリフの死体がオナラでジェット噴射する前作(どんな映画だよ)『スイス・アーミー・マン』を作ったダニエルズ監督らしい、お下品な笑いは今回は封印するのかな…?と思いきや、途中でマジでしょうもなすぎる下品ギャグが炸裂するので油断ならない。これではいくらマルチバースの映画であっても、本作のMCUへの参入は厳しいことだろう。

かように基本ふざけ倒した本作のアクションではあるのだが、「ふざけた突飛な行動をしないとバースジャンプ(マルチバースをまたいだ宇宙移動)を起こせない」という理屈に謎の説得力があるため、キャラが次々に変なことをやりだしても作品自体は弛緩せず、むしろどんどん「熱く」なっていく…という仕組みが非常にうまいなと感心してしまうのだった。

 

【わくわく"どうぶつ映画"??】

いや本作は別にわくわくどうぶつ映画ではないだろ…と思いきや、ちょいちょい異常なテンションの動物ネタが挟まれるので、色んな意味で目が離せない。

まずはやはり「ラカクーニ」である。『レミーのおいしいレストラン』(原題:"Ratatouille"=ラタトゥーユ)をパロった「ラカクーニ」というアライグマシェフと人間のコンビが活躍する宇宙が出てくるのだ。あまりにも直球なパロディで絵面は本当にくだらないが、めちゃくちゃ面白かったし笑ってしまった。ラカクーニがどう見てもパペットなのもジワジワ来る(しかもラカクーニの声はピクサー映画でもおなじみの作曲家ランディ・ニューマンである)。マルチバースのふざけた不条理さがよく現れた場面だし、後半で出てくる結末にも爆笑しつつ(『RRR』に続きまた肩車映画が…!)、「他者への優しさを選び取る」ことをがテーマの本作にとっては、何気に大事な描写でもあったと思う。

ちなみにピクサー映画っぽい雰囲気の「ラカクーニ」のテーマ曲もある↓。ランディ・ニューマン、ノリノリである。

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アライグマだけでなく、犬も異常なテンションで登場する。イヴリンに襲いかかる敵が謎の「犬使い」で、かわいいポメラニアンを蹴っ飛ばして勢いをつけて(モーニングスターのように)ぶんぶん振り回しながら闘うのだ。言うまでもなく、犬の扱いとしては最悪にもほどがあるため、動物倫理の観点からは言語道断のはず…なのだが、ああいう極端な動物ギャグに弱いこともあって、これも正直すごい笑ってしまった。(先月ラジオで「エンタメにおける動物倫理」云々と語ったばかりだというのに…。)ポメラニアン側にもやたらめったら殺意があってやけに楽しそうで、飼い主(?)との間に謎のバディ感が生じていたのも大きいかも知れない。傑作ゲーム『ゴーストトリック』の愛すべきポメラニアン「ミサイル」の凶悪版みたいだなと思った。殺しますともッ!!

犬といえば、エヴリンが犬になっている宇宙も存在するようだ。パンフレットにマルチバース版エヴリンの一覧が載っていて(劇中では爆速スピードでほぼ視認が不可能なのでありがたい)、その中に犬版エヴリンがいる。目が怖い。

ちなみに猫エヴリンの宇宙もある。『ボージャック・ホースマン』のプリンセス・キャロライン的な。

同じくマルチバースを扱ったMCUドラマ『ロキ』でも、ロキが人間型ですらなくワニになっていたりしたが、本作のマルチバースでも同様の事態はありうるというわけだ。マルチバースという壮大な世界観を通じて、動物と人間は本質的には「等しい」存在である…ということを描いているとも言える。

さらに言うと犬や猫だけでなく、「そもそもエヴリンが生物ではない」宇宙というのもけっこう出てくる。生物が誕生しなかった宇宙というのも遠い遠いマルチバースの果てに存在し、そこではエヴリンやジョブは「岩」になっているのだ。岩の他にもエヴリンやジョブが「ピニャータ人形(お祝いで叩いて割るやつ)」になってる宇宙もある。

生物ですらないなら、それはもうエヴリンという存在としてカウントできるのか…?と当然のツッコミも湧いてくるのだが、本作のマルチバース世界における「自己」や「存在」の定義がめちゃくちゃ広いというのはけっこう興味深い。「人間、動物、植物、無生物など万物に魂がある」というアニミズム的な思想に貫かれた世界観なのだ。ブッ飛んだやり方ではあるが、逆説的に「生命とは何か」を考えさせられる映画かもしれない。

 

【クイアムービーとマルチバース】

予告編だと全然わからないが、登場人物の性的マイノリティ性(クィアネス)が物語の重要な鍵を握っている、クィアムービーとしても見どころが多かった。決定的に重要なキャラクターは、主人公エヴリンの娘であり、レズビアンでもある女の子・ジョイである。ジョイは恋人であるベッキー(いいやつ)をエヴリンたち家族に紹介しようと連れてくるのだが、忙殺されているエヴリンは娘たちの相手をする余裕もなく、保守的な祖父にベッキーを「娘の恋人だ」とちゃんと紹介することもしない。「上の世代は保守的だから」というのをなんとなくの言い訳に使いながら、性的マイノリティである娘と恋人を「公」のカップルとしては認めないというわけだ。後で明らかになるように、その背景には(父親云々ではなく)エヴリン自身がまだ拭いきれていない、性的マイノリティへの差別的な考えも確かに存在していた。それをうっすら察したジョブは、傷ついた表情を浮かべながらエヴリンのもとを去っていく…。当然であろう。

ただこう書くとエヴリンがひどい人のようだが、同性婚すらもまだ成立していない日本社会では、性的マイノリティへの態度に関して、大多数はエヴリンと大差ないのではないかと思う。(直近の邦画『エゴイスト』でも同性の恋人の親に会いに行った主人公が、本当の関係を言い出せなくて…という場面があったりした。)こうした軋轢は、日本で暮らす私たちにとっても今後いっそう身近なものになっていきそうだし、だからこそ本作は重要な物語でもある。というのも、クィアネスに対する主人公の意識の変化が、マルチバースという特大ギミックを駆使して描かれることになるのだ。

ここから大きめのネタバレになるが(まぁ予告で言っちゃってるけど…)、本作をクィア・ムービーとして語る上で、やはりジョイを演じるステファニー・スーの輝きっぷりを語らずにはいられない。ジョイはなんと別の宇宙では、本作の「ラスボス」的なキャラである、変幻自在の最強存在ジョブ・トゥパキだったのだ。先述したクィアな若者を繊細に演じたスーの演技も良いのだが、それ以上にジョブの演じっぷりは最高の一言である。

ジョブは全宇宙のマルチバースと繋がり、全知全能に近いパワーを得たことで、まさに「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス(なんでも・どこでも・同時に)」を体現する、恐るべき存在となっていた。実写というよりはアニメのようなテンポで(特に湯浅政明のアニメっぽい)、一瞬ごとに外見や能力が変わっていき、固有の人間としてはほとんど破綻しているような、「カオスの王」として君臨するジョブ・トゥパキ。チャンネルを切り替えるような気軽さで変幻自在に姿も雰囲気もチェンジし続けるという、前代未聞の実写キャラクターといえるジョブの人格や姿を、生き生きと演じ分けるステファニー・スーの演技力は驚嘆すべきだ。

ステファニー・スーは、TVドラマシリーズ『マーベラス・ミセス・メイゼル』や映画『シャン・チー』でも、脇役ではあるものの確かなインパクトを残す役を演じてきたが、本作でさらなるブレイクを果たすことになるのは間違いないだろう。ジョブは確かに悪役的な存在として登場するものの、複雑で虚無的な内面を抱えた繊細なキャラクターでもある。クィアでカラフルでパワフルなエネルギーを秘めた、新時代のアイコンが生まれたと言えよう。

本作がクィアムービーとして秀逸なのは、同性愛者であるジョイ周りの表現だけではない。主人公エヴリンも、広大なマルチバースを巡る旅路のなかで、自分自身のセクシュアリティさえ、必ずしも固定されていないことに気づくのである。

たとえば、国税庁でイヤな監査役を努めていたディアドラは、はるか離れた宇宙の「人類の指がソーセージのように進化した世界」(なにそれ)では、なんとエヴリンと恋仲にあったことがわかる。思い返せばディアドラと闘っていた時、マルチバースを移動して彼女を打倒するための「突飛な行動」として、エヴリンはディアドラに「愛してる」と告げたわけだが、別のマルチバースでは本当にエヴリンとディアドラは恋愛関係だったのだから、伏線としてかなり秀逸である。(ディアドラのテーマ的に流れる楽曲「月の光」の使われ方も巧みだ。)ディアドラを演じるのは『ナイヴズ・アウト』『ハロウィン』等で今をときめくイケイケ壮年女優ジェイミー・リー・カーティスであり、しょぼい意地悪監査員を務めるには豪華すぎ…と思いきや、まさかの超重要な役回りであった。

マルチバースの大冒険を終えたイヴリンが意識を変革し、あるがままのジョイを受け入れ、保守的な父親に向かってちゃんとベッキーを「娘の恋人だ」と紹介する姿には、別のマルチバースでは自分自身も同性のディアドラを愛していた、と知ったことも大きいのではないかと思う。複雑に重なり合い、分岐し続ける壮大なマルチバースの描写によって、個人の中にも存在する「性の揺らぎ」と意識の変化を表現するというのも、なかなか凄い発想である。

 

【後悔と想像力とマルチバース】

マルチバースを扱った作品は、近年どんどん増えている。そのトップランナーはやはりマーベル映画で、特にフェーズ4以降の作品、『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』や『ロキ』や『アントマン&ワスプ:クアントマニア』など枚挙にいとまがない。MCU以外でもアニメ映画では『スパイダーマン:スパイダーバース』も、マルチバースを扱った傑作のひとつだ。

そんな中、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の素晴らしいところは、作品の核となるテーマを語る上で、マルチバースの設定にこの上ない必然性があるところである。実は「マルチバース入門」としても最適な映画なんじゃないだろうかと思うほどだ。とりわけ良いなと思ったのは、「過去のこの時点でエヴリンがある行動を取った/取らなかったことで未来が派生し、こんな宇宙が生まれた」というロジック的な説明をしっかり見せてくれることである。これにより、膨大に存在する宇宙が「エヴリンの選択の結果である」という事実が強調される。(さすがに岩とか人形とかまで離れてしまうと、エヴリンの選択とはまた違うのだろうが…。)

冒頭で書いたように、この映画は「後悔」にまつわる映画でもあると思う。あそこで別の選択をしていれば、人生には別の可能性があったのではないか、もしかしたらその自分は、今の自分よりベターだったんじゃないか…と、私たちは日々の隙間のふとした時に(不毛と知りつつも)つい考えてしまうものだ。だが時間を戻すことはできない。多かれ少なかれ「こんなはずじゃなかった」「別の"今"があったかも」という後悔を抱えながらも、人は生きていかなければいけない。

その「後悔」のあり方は、実は本作で描かれた「マルチバース」の姿によく似ている。「お昼にアレを食べればよかった」から「あの人と結婚しなければよかった」まで、軽さ重さは様々だが、人が「後悔」した瞬間、その人の心の中には「別の可能性」によって分岐した「別の宇宙」が生まれる。後悔だらけの私たちはすでに、マルチバースを生きていると言えるのだ。

「後悔」は基本的に、よくないものとされる。すでに起こったことはどうにもならないし、過去は変えられないのだから、振り返ることなく、潔く未練を投げ捨てて、未来に向かって歩き出そう…というわけだ。まったくもって正論だし、きっとそうするべきなのだろう。…しかし本当にそれだけなのだろうか? 私たちが日々してしまう「後悔」は、何の価値もない不毛な妄想にすぎないのだろうか。実は本作『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は、「それは違う」と告げているように思う。

なんといってもエヴリンは「後悔ばかり」の人生だったからこそ、本作のヒーローになれたのだ。エヴリンは別の宇宙の夫から「あなたは全宇宙で最低バージョンのエヴリンである」という、とんでもない真実を告げられる(普通にひどい)。なぜかといえば、他の宇宙のエヴリンたちがしたような選択を、本作のエヴリンは「自分にはできない」と諦めたり、後回しにし続けたり、より「ダメ」な選択肢を選び続け、その結果が今のエヴリンだから、というのだ…。

事実、そのせいでエヴリンの人生は後悔だらけだ。しかし、だからこそエヴリンは最強でもある。自分自身が「最低バージョン」だということは、マルチバースには「より良いバージョンの自分」が沢山いることになる。そんな「ありえたかもしれない自分」に向かって飛び立つことで、まるで「後悔と手をつなぐ」ようにして、エヴリンはより強く優しい自分になることができたのだ。

エヴリンとは逆に、「絶対に後悔しなくていい人生」とはどういうものか、と考えてみてもいい。ジョブのように、マルチバースを自在に移動できる存在にとって「後悔」はありえないだろう。可能性が分岐し、後悔が生じた瞬間にすべてをやり直してしまえばいいだけなのだから。しかし「後悔」とは無縁のはずのジョブは、もっと恐ろしい「虚無」にとりつかれる。ありとあらゆる可能性がこの宇宙に無限に広がっているなら、それは「何をしても、しなくても同じ」ということではないのか…?という絶望だ。

ジョブがベーグルにこの世の「すべて」をトッピングしたことで、宇宙最強の虚無を出現させてしまう…というシュールの極みでありながら絶望的な光景は、彼女を苛む圧倒的な虚無主義の象徴だろう。そんなジョブに比べれば、人間らしく「後悔」に苛まれているエヴリンは少なくとも虚無的ではない。後悔する人、いや後悔できる人は、「別の可能性」を思い描き、少なくとも何かを願っている人なのだから。それは「今の自分も、この世界も、どうにもならないし何も変わらない」とすべてを諦めることより、ずっと良いのではないか。

そしてもうひとつ、「こうではなかった自分」を想像するのと同じくらい大事なことがある。「こうではなかった他者」を想像することだ。いま目の前にいるやつはイヤな奴で、自分と相容れない"敵"かもしれないが、「別の宇宙」では違うかもしれない…。それどころか、自分にとって大事な存在かもしれないと考えてみるのだ。時空が違えば関係も違う。エヴリンにとって、国税庁のディアドラと、指ソーセージ宇宙のディアドラが全く違う存在だったように…。

ウェイモンドの命を賭した「優しくあろう」という言葉をしっかり受け止めたエヴリンは、ラストバトルで敵を暴力によって「倒す」のではなく、「幸せにする」ことで勝つ。その展開にも、マルチバースだからこそ際立つ説得力がある。その人がどんなことに幸福を感じるか、その人が抱える物語を(マルチバースを通じて)理解した上で、「最高の幸せ」を送り届け、もう戦わなくて良くする…。エヴリンが「他者への優しさ」によってマルチバースならではの勝利を遂げたことが、ユーモアたっぷりに表される素敵なクライマックスだった。

こうなると本作におけるマルチバースとは、「ありえたかもしれない別の世界」を思い描くことによって、自分や他者への「想像力」を拡張することのメタファーのようにも思えてくる。それは、まさにフィクションが持っている力そのものではないだろうか。人が「後悔」するメカニズムは、別の世界・別の可能性・別の物語を想像し、創造するためのメカニズムでもあるのだ。

物語が終わった後も日常は続く。この膨大な可能性に溢れた、容赦なく無限に広がる宇宙で、いつでも「別の可能性」を想像しながら、「こんなはすじゃなかった」と後悔を重ねながら、エヴリンも私たちも生きていくことだろう。だが本作を観た後は、ふと後悔に襲われた時に、ちょっと違った考え方ができるかもしれない。いま自分は、他の宇宙で生きる「こうじゃなかった自分」と、手をつないでいるのだと…。