沼の見える街

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最終回目前!ドラマ『THE LAST OF US』第5〜8話まとめて感想

今年を確実に代表するであろう神ドラマ「THE LAST OF US」がいよいよ明日終わってしまう!(シーズン2が決定してるとはいえ)寂しすぎる。あと10回はやってほしい。

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ちなみに明日3/13(月)といえば世間的(映画ファンとかの世間)にはなんといってもアカデミー賞2023なわけだが、ドラマ版ラスアス最終回の配信開始時間とブチ重なっているため、どちらを追えばいいのか判断に困る(まぁ私はWOWOW入ってないし授賞式は見れないわけだが)。

1話から一貫して素晴らしかったドラマ「THE LAST OF US」、当然毎週リアタイ視聴して感想を書いてきたわけだが…

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5話から(相変わらず神回が連発していたにもかかわらず)色々忙しくてブログの毎週感想が止まってしまっていた。シーズン1最終回となる9話は必ず感想を書きたいと思うので、辻褄を合わせるためにも(?)5話〜8話の感想を最終回前に(あっさり気味ではあるが)まとめておきたい。

ネタバレとかは気にしないので、未見の人は必ずU-NEXTで見ておいてほしい…!「ある程度の話数たまったら入るわ〜」と待ち体勢だった人、今が絶好のチャンスよ!

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ーーーーー以下ネタバレ注意ーーーーー

 

【5話】

比較的静かな4話という助走からジャンプするように、これまでで最もド派手であり、最も哀しくやりきれない、凄まじく濃厚な神回であった。ある意味では『THE LAST OF US』シリーズを最も象徴するキャラクターである、ヘンリー&サム兄弟がいよいよ登場し、彼らの複雑な人間性と生き方が繊細に描かれる。弟サムが聾者の設定になっており、手話や筆談でコミュニケーションを取るキャラクターとして再解釈されているのも、現代的かつ有効な変更点と言える。

そして(これまでもその要素はあったが)いよいよ『THE LAST OF US part2』を連想させる暴力と復讐の連鎖が、兄ヘンリーとキャスリンの確執を通して描かれていく。サムの命を救うためだったとはいえ、薬と引き換えに兄を売られたキャスリンが、ヘンリーに抱く憎しみは、納得が行ってしまう感情でもある。物語の展開的には「悪」っぽい側となるキャスリンにも、ドラマ版オリジナルの展開を加えて十分に理解できる動機を与えるこの手腕は、やはり『THE LAST OF US part2』を連想する凄みをドラマ版に与えている。そしてこの究極の選択は、ドラマ最終話でジョエルに降りかかることにもなるわけだが…。

3話で素晴らしいオリジナル展開を見せたドラマ版なだけに、ゲームで妙に印象深かった「地下に潜っていた人々の生活」も、ひょっとして物語として詳しく見せてくれたりして…?と思っていたが、さすがにそれはなかった(寄り道がすぎるしね)。しかしジョエル&サム一行の休憩地点として、たいへん印象的なロケーションとして使われていたので、原作ファンも満足である。

そんな5話、ひたすら陰鬱な話になると思いきや、人間同士の諍いの果てにまさかの感染者大フィーバー祭りが起こることで、きっちりゾンビドラマとしての本領も発揮してくれる。もはや感染者がむしろ癒やし枠になってね?と思うくらい人間パートの重みがキツイわけだが…(これはゲーム版でも言えることだけど)。待ってましたな千両役者・ブローターも大活躍してくれて嬉しいね(タイミング的にはこれが最初で最後の登場になる可能性もあるのかな。最終話でもっかいくらい出てほしい)。他にも子ども感染者の襲撃など色々盛り上がる場面ではありつつ、あれほどヘンリーとの確執が丁寧に描かれたキャスリンたちも、感染者の圧倒的暴力の前にあっさり命を落としてしまう、ラスアスらしい諸行無常さにも溢れている。

というわけで5話は、ゲーム中盤のエピソードの再構成と、世界や人物の奥行きをさらに増す変更が際立つ、見事なアレンジを見せてくれた。だが同時に「ここを変えたらもう『THE LAST OF US』じゃなくなる」という点は(たとえ視聴者が心の底では願っていたとしても)決して変えない鋼の意志も貫いてみせる…。そう、最後のサムとヘンリーの無惨な死のことである。

エリーとサムの(音声言語に頼らない)微笑ましい関係など、積み重ねの上手さもあり、さんざんゲームでショックを受けて覚悟していたにもかかわらず、彼らの最期は当然ショッキングだった。一方で、むしろ作り手の「上品さ」に心打たれたのも事実である。

5話ラストにしたって、凡庸な作品ならもっと「ショッキングでしょ?」と露悪的にドヤったり、ベッタリした情緒的な演出をまぶしそうなものなのに、2人の死や悲しみを凄くあっさり処理している。そのことによって逆に、複雑な背景をもつ彼らが悩みながらも取ってきた選択や行動、その全てが無意味で無価値であったかのように、あっさりとその生命を追えてしまう虚しさがいっそう際立つのだ。ドラマ『THE LAST OF US』はキツい物語なのは確かだが、露悪的・表面的なショッキングさ/過激さ/残酷さで注目を集める姿勢からは確実に距離を取るという真摯な姿勢が、5話でさらにハッキリしたと思う(怖いのはもちろん怖いが)。グロいの無理、で敬遠するのはもったいない作品である。

そして、たしかにヘンリーとサムはあっさりと無意味に死んでしまったようにも見えるが、必ずしもそれだけとは言えない。まず何が起こったかを把握したヘンリーが、「何もかも犠牲にしてまで助けた弟を自分の手で撃ち殺す」という辛すぎる判断を迅速に行なっていなければ、エリーは殺されていたかもしれない。またサムを救えなかったことは、自分の免疫で他者を救えるのなら…というエリーの想いと動機を、より強くしたことだろう。2人の物語は残酷な終わりを遂げたが、エリーとジョエルが生き続けていく限り、サムとヘンリーの生きた証も完全に消えるわけではないのだ。

 

【6話】

感染者も登場せず、銃撃戦も殺人もなく、前回と打って変わって全体的に静かな回と言えるが、ジョエルとエリーの関係性を語る上で最も重要なエピソードだ。街や大学を丸ごと作り上げてしまった美術セットも素晴らしく、驚くほどリッチでゴージャスな回でもある。要するに、またもや文句なしの神回である。

冒頭の、老夫婦に銃を突きつけながら会話をするドラマオリジナルの場面。夫婦の側がジョエルの脅しをあまり真面目に受け取っていないのと、出てきたエリーが緊張感を削いでしまうこともあり、このシリアスなドラマ版の中では貴重と言える、なかなか笑える場面になっていた。

その後は西部劇っぽい緊張感のある、警備メンバーとの対峙シーンもはさみつつ、ジョエルと弟トミーはワイオミング州の街でついに再開を果たす。この舞台セットはまさに『ラスアス2』冒頭でおなじみの街なので、「2」に向けた布石はバッチリと言えるだろう。復讐の連鎖を扱った前回までの時点でそうだが、すでに「2」が始まってる雰囲気をひしひし感じ、今からシーズン2が楽しみすぎる。

街での秩序ある暮らしぶりを語るトミーは、ジョエルに「じゃあ共産主義(コミュニズム)ってことだな」と言われて「ちがう」と否定する。だが妻のマリアに「いや、ここはコミューンだし、私たちはコミュニストでしょ」と言われて「えっ…」となるトミー。ジョエルはともかく、トミーは(バーでの感じとかを見ても)どちらかといえば保守的な政治姿勢なのかな?と思わせるので、3話の「政府はみんなナチだろうが!!」も連想する政治ギャグとなっていて面白い。

せっかく再会して安らぎのある時間を過ごした兄弟だが、娘を失った過去に囚われ、自分の新たな人生に優しい言葉をかけてくれるでもないジョエルに、トミーはしびれを切らしたのだろう。「兄貴の人生が止まっても、自分の人生は止まらない」とトミーはジョエルに言い放つのだった。

その後、考えた末に覚悟を決めたジョエルは、エリーが免疫を持っていることをトミーに告げる。だがそれ以上に印象的だった「告白」は、ジョエルが自分の「弱さ」を率直にトミーに吐露することだ。これまでも耳が聞こえにくかったり、体力が衰えていたりしたことで、エリーに多大な負荷をかけてしまったとジョエルは悔やんでいた。街に来る前、エリーに犬がけしかけられた時も、ジョエルは「怖くて動けなかった」と正直に告げる。そのジョエル姿は旧来的な「子どもを守る男性ヒーロー」の勇ましさとはかけ離れているし、だからこそゲーム版のジョエルよりもさらに生々しい実在感がある。ペドロ・パスカルの、無骨なだけではない繊細な演技力の真髄が発揮された名場面だった。その後のジョエル&エリーの(展開は省略しているもののゲームをなぞった)やりとりも、ジョエルの弱さの吐露の場面がとても効いている。口論になりはしたが、改めて2人がもう離れられない存在であることを、互いに改めて認識するという、胸を打つなシーンになっていた。

そしてゲームでは長いステージである大学の場面が(あれだけ豪華なセットを作っておきながら…!)本当にあっという間に終わってしまうのも凄いなと思った。まぁジョエルとエリーの他にキャラクターも登場しないし、ここはドラマでそのまま再現してもそれほど面白くないはずなので、切るべきところは切っていこうという判断なわけだが、それにしても思い切りが凄まじい(猿はちゃんと出てくるので良かった)。ジョエルもゲームより若干地味な形ではあったがちゃんと(?)大怪我を負い、エリーの慟哭でEND…。そしてタイミング的に、ついに次回は「アレ」がくるに違いない!と確信していたが……

 

【7話】

予想のとおり、ついにアレがきたーーーという最高の神回であった。何が来たかと言えばもちろん、ゲーム版の傑作DLC「Left Behind -残されたもの-」エピソード、満を持しての実写ドラマ化である。(よく考えたらDLCでも「現在:ジョエルの治療薬探し」と「過去の記憶」が交互に展開されるわけで、入れるならここしかなかったので予想も何もないが…。)

FEDRA(軍隊)で訓練を受けていた問題児エリーは、うまく軍に馴染めず暴力沙汰を起こしてしまう。だが上官のアイドバスで態度を改めて、出世の階段を登る決意を固め…たと思いきや、行方不明になっていた親友ライリーが目の前に現れ、夜の街に繰り出そうと誘われるのだった。なんとライリーはFEDRAの大敵の革命集団「ファイアフライ」に入った、とエリーに告げる。いまや正反対の立場になってしまった2人が、寂れたショッピングモールを訪れ、楽しいひとときを過ごしながら徐々に関係を深めていく姿を繊細に描いていくのが「Left Behind」の大筋だ。

エリーがレズビアンであることは、ゲーム(特に2)をプレイした視聴者はとっくに知っているだろうが、ドラマで彼女のセクシュアリティが明示されるのは今回が初めてとなる。エリーはライリーに思いを寄せていて、その心情がベラ・ラムジーの見事な演技によって繊細に表現されていくのも見どころ。下着ショップで自分の外見を気にしたり、ライリーに恋人ができていないかさりげなく気にしているところなど、ふだん強がって粗暴に振る舞いがちなエリーの思春期っぽい姿が垣間見えて微笑ましい(と同時に、こうした青春の謳歌が許されない世界の荒廃っぷりも踏まえると哀しくもある)。

(またしてもとてつもない費用をかけて制作したと思われる)壮大な寂れたモールを、2人はこの7話のなかで巡っていく。最もロマンチックなのはメリーゴーランドのシーンだ。原作ゲームではすぐに止まってしまう遊具だったが、ドラマ版では2人は一緒にメリーゴーランドに乗って、美しく優しいひとときを過ごす。

さらに印象深いのは、ゲームセンターの場面だ。懐かしのゲーム筐体が並び、エリーが見たこともないような色合いで照らされたゲーセンは、この世界の荒廃っぷりを思えばこそ、まるで天国のような異世界に思えてくる。『モータルコンバット2』も登場し、2人はしばらく子どもらしい無邪気な時間を過ごす。一方、ゲーム画面で無邪気に人をバラバラにしてハシャいでる2人に、感染者という真の脅威が迫りつつあるのは恐ろしい…。

このゲームセンターの場面がいかに特別な「幸福」を表す場面であるかは、通称「キリンのテーマ」こと"Vanishing Grace"のアレンジが流れることでもよくわかる。ラスアスシリーズにおいては「消えゆく一瞬の幸福」を表す重要な曲であり、ドラマ版では第3話で、ビルとフランクの2人が平穏な最期を迎える際に初めて流れた。ここぞという場面の曲ゆえ、たぶんこのドラマ版全体を通して3回しか流れないんじゃないかと予想している。1回めは3話、2回めは今回7話のゲームセンターの場面、そして3回めが最終話のキリン(出るよね?)

だがそんな「幸福」も長くは続かず、まさに"vanishing"=消えゆく運命にある。エリーは、ライリーが隠し持っていた爆弾を見つけてしまうのだ。ライリーがファイアフライ活動の一環としてモールで過ごしていたことを知ったエリーはショックを受け、ライリーを拒絶して一度は去っていく。しかし思い直して戻ったエリーは、ハロウィンショップでライリーと話し合い、街を離れてファイアフライのために尽くすという彼女の決意をいったんは受け入れる。

ライリーは最後のサプライズとして、ウォークマンをエリーに渡すと、エタ・ジェイムズの「I Got You Babe」を流して踊りだす。愛情が高ぶる中、ついにエリーはライリーに「行かないでほしい」という本当の思いを告げ、キスをする。思わず謝るエリーだが、ライリーは「なぜ謝るの?」と返す。2人の思いが通じ合ったのだ。

だがそこはラスアス、幸せな瞬間は決して続かない。2人の声や音を聞きつけて、モールに残っていた感染者の1人が現れて彼女たちを襲う。なんとか撃退するも、エリーもライリーも感染者に噛まれてしまっていた…。気持ちが通じ合った幸福が一瞬で絶望に反転する、あまりに辛すぎる展開であるが、最後の最後まで諦めず、一緒にいようとライリーはエリーに告げるのだった。

この後の展開がドラマで描かれることはなく、具体的な出来事は想像するしかないが、おそらくエリーはライリーと共に死のうと思いつつ、自分の感染だけがなぜか進まないことに気づき、人間でなくなったライリーを殺すなり置き去りにするなりして(たぶん前者なのが辛い…)、モールを脱出し、ファイアフライのマーリーンに合流したのだろう。

その記憶を蘇らせた現在(ジョエルが重傷を負った直後)のエリーは、必死で家の道具をかき集め、ジョエルの命をなんとか救おうと奮闘する。今はなきライリーの「諦めない」想いを受け継ぐかのように…。その必死の形相を映しながら7話は幕を閉じる。最後のバッサリとした切れ味といい、事前の期待を裏切らない、紛うことなき神回だった(まぁもはや毎回神回なんだけど)。

それにしてもこの7話といい、伝説の3話といい、劇中で描かれる印象深いロマンスがどちらも男性同士・女性同士となっており、もはやドラマ「THE LAST OF US」現代最高峰レベルのクィア大作ドラマとなっている(どっちも結末は悲しみが深いとはいえ…)。だが、そもそも原作ゲームからしてクィアな要素は強いわけで、ニール・ドラックマンを中心とした才能豊かなストーリーテラーが、世間の反発にも負けず「物語の力」を正しく使おうとしてきたことの結晶と言えるだろう。本当にラスアスシリーズのファンで良かったな…としみじみ思える7話だった。

 

【8話】

7話の感動をしみじみ反芻する暇もなく、視聴者をガツンと殴りつけるかのような壮絶な8話であった。性暴力や人肉食にまつわる描写もあるため、これまででは最も閲覧注意な回かもしれない。

ゲーム版では、ジョエル負傷後はエリーがしばらく実質的な主人公となり、ジョエルを救うための孤独な戦いに身を投じていく。出会う人間たちの不穏な暴力性、感染者とのシビアな闘いといい、原作でもかなり印象深いパートだったが、今回のドラマ版はそこにさらに「宗教」の要素を織り込むことで、破壊力とキツさが倍増したと言える…。

というのも今回の影の主役となる、生存者コミュニティのリーダー・デビッドには、キリスト教によって人々を教え導いている…という設定が加えられているのだ。パンデミックで崩壊した世界で、神がいつか救いをもたらしてくれるとデビッドは地域の人々に告げている。この悲惨な世の中を生き抜くために宗教心が必要なこともあるだろうし、デビッドは頼れるリーダー像にも見えてくるが、信心を持たない人間への妙な厳しさなど、どこか不穏で支配的な一面も見られる。

ちなみにデビッドの相方的なジェームズを演じるのは、ゲーム「ラスアス」でジョエルの声を演じたトロイ・ベイカーである。原作ゲームにとって極めて重要な人物の、予想外の渋いカメオ出演となった。(ベイカーがデビッドを演じる説も出回っていたそうだが、それだとさすがに"やりすぎ"感が出てしまっていたことだろう。)「中の人」ネタで言えば、「ジョエル」がエリーを殺そうとしたり、エリーが「ジョエル」を殺したりするという衝撃展開を楽しめるドラマ版となっている…。

エリーとデビッドの出会いに関してはほぼゲームの流れを踏襲しているが、デビッドの恐ろしさと異常性はドラマ版の方がはるかに解像度が高く描かれ、そこに「宗教」の要素まで加わってくるので、屈指のキツいエピソードにもなっている。

日本のゲーム版ではボカされてしまった(本当どうかと思う日本版のそういうの)人肉食の要素なども、ドラマ版では隠すことなく描かれる。またデビッドの宗教心…というよりは宗教を利用して他人を支配しようとする邪悪な心根が、極限的・閉鎖的な状況でいかに恐ろしいものになりうるかという描写も鮮烈だ。そもそもキリスト教の教義には家父長制的・異性愛規範的なイズムが切り離し難く含まれているとも言えるのだが、デビッドが捕らえたエリーにそれを押し付けようとする構図は、エリーが性的少数者であることを踏まえればいっそうグロテスクだ。

タフとは言え10代の少女に過ぎないエリーを、自分の同類だと勝手に決めつけて妙に持ち上げながら、結局は自らの支配下に置こうとするデビッドは、人は殺すけど悪気はない感染者の100倍くらい気持ち悪い。燃え盛るレストランでの戦いの果てに、返り討ちにあって激情した挙句、エリーに性暴力までふるおうとするという、デビッドの生々しく卑近なクソ野郎っぷりは胸が悪くなるほどだ。ここのエリーの壮絶な演技はまさに目を見張るもので、実在しないエリーの心の傷が本当に心配になってしまうレベルだし、ベラ・ラムジーはこの世の全ての賞を取ってほしい。

原作よりもさらに露骨になっていると言えるが、デビッドのエリーに対する性的な加害欲は、ゲームの時点でもうっすら伝わってくるものではあった。ドラマではそこをさらに明快にし、この作品における人間の「悪」とは何かを、より強烈に明示したということだろう。信心を説きながら子どもを食い物にするという点で、たとえばカトリック教会の子どもへの性暴力というおぞましい事件も連想してしまう…。先述したように、宗教保守のロジックに含まれるそもそもの性差別という、アクチュアルな問題提起もある。果敢に「宗教」の要素を織り交ぜることで、8話はそんな社会批評性も獲得しているわけだ。

この話を踏まえて、同じ中年男性であるデビッドとジョエルを対比してみるのも面白いだろう。どちらも荒廃した世界で必死に生きているという点では同じだ。だがデビッドは、宗教を盾にして都合よく他人を利用し、目いっぱいの虚勢を張って自分の"強さ"をアピールしてみせ、エリーを支配しようとした。一方、ジョエルは6話で自分の弱さを正直に吐露し、エリーのために身を引こうとまでしたが、彼女の希望を聞き入れて旅を続けた。こうして並べてみると、この両者の正反対っぷりがより際立ってくる。

とはいえ、ジョエルも決して理想化された善良なヒーローではない。8話でもジョエルはエリーのおかげで「復活」を遂げ、今度はエリーを助けるために敵に立ち向かうわけだが、その姿はヒロイックな「かっこよさ」とはかけ離れたものだ。捕らえた敵を拷問してエリーの場所を聞き出し、命乞いをする相手を容赦なく殺す姿は、どのような観点から見てもヒロイックではない。それどころか「ああ、ジョエルはもう、本来とっくに壊れているんだろうな…」と思わせる壮絶さがあった。

というのもエリーだけがジョエルを、かろうじて善と良識のある世界に結びつけていた「鎖」なのであって、エリーがいなくなってしまえば、ジョエルを縛るものはもう何もない。暴力を淡々とふるうジョエルは(ある意味ではデビッドたちよりも)恐ろしかったが、エリーに会うまでは彼は長い間ずっと、ああした陰惨な暴力の世界に生きてきたのだ。そう考えれば、次の最終回で待ち受けるであろう「あの展開」には嫌な納得感も生まれてくるし、それと同時に「ラスアス2」冒頭の衝撃展開も「ああなる」以外の選択肢ないよな…と思えてくる(非難する前作ファンも多かったけど)。最終回9話がどのように描かれるのか、今から戦々恐々としてしまう。

ともかく8話…というより6〜8話くらいで特に顕著だが、「ゲームじゃないと面白くない(かもしれない)部分」をバッサバサと削ぎ落とし、まさに「本質だけで構成されたラスアス終盤」という赴きがソリッドで、毎回しびれてしまう。それでいて変更点(今回の宗教など)は的確かつ有効で、その結果ゲームより尖った社会批判的な鋭さも生まれている、文句なしの完成度となっている。明日の最終回は(アカデミー賞を追うのも大事かもしれないが)最優先事項として、ドラマ最終話を正座しながら見届けようと思う。日本のドラマ好きも世界のラスアスファンと一緒に、ぜひ最後の地獄を味わってほしい…。

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