
一寸先は闇、とはこのことだ。知らせが届いたのは2025年10月11日、雨の降る肌寒い朝のこと。映画好きのお友達として仲良くしていたビニールタッキーさんのTwitter(現X)アカウントからDMが届いていた。遊びのお誘いかな、などと思って呑気に寝ぼけながらスマホを覗いたところ、DMを送ってくださったのはビニールタッキーさんの(一度お会いしたことのある)ご家族で、そこに書かれていたのは、脳が理解することを拒否するような、あまりに悲しい報告だった。
何が起こったのかは、SNSをよく使う映画ファンの方ならすでにご存知かなと思うが、念のため改めて辛く悲しい報告をしておくと、ビニールタッキーさんが10月10日の夜頃に突然、亡くなられたのだった。
こちらが、ビニールタッキーさんのご家族が逝去を伝えたポスト。↓
ビニールの妻です。突然のことで信じられずにいますが、昨晩、夫が亡くなりました。見たい映画があると東京に行き帰路に着く途中で倒れ、緊急搬送されましたが、帰らぬ人となりました。試写や原稿依頼等でお世話になっている方に連絡する術がなく、ここでのお知らせになってしまい申し訳ありません。
— ビニールタッキー (@vinyl_tackey) 2025年10月11日
翌日に見た時点で1万リツイート以上、千件ほどの引用投稿が表示されており、ビニールタッキーさんの投稿や記事を日常的に読んでいた、主に映画ファンを中心とした人々の衝撃の深さが伺えた。私もあまりのことに、もはやネットを見る気力もなかったので、ほとんど反応はチェックできていないが、少し映画ファンのTLを覗いた感じ、ビニールタッキーさんの人柄やお仕事の意義に触れながら、(面識のあり/なしにかかわらず)ショックと哀悼、そして感謝の意を示す投稿を数多く見かけた。
反響の多さもあってか、ネットニュースにもなっていた。
ビニールタッキーさんご本人はよく「おもしろ映画宣伝ウォッチャー」とかゆかいな肩書きを名乗られていて、「映画評論家」を名乗ったところは見たことがなかったので、そう紹介されているのを聞いたら多分ご本人も「え、映画評論家!?」というリアクションになる気もするのだが、豊かな知識と尽きぬ愛をバックグラウンドに、日々旺盛にいろいろな映画を紹介・評論されていた活動を客観的に見ると…まぁ、うん、紛うことなき映画評論だな!!という感じもする。ユニークな活動をされていた身近な方が逝去されてニュースになり、こうしたある種の社会化というか客観視が必要となることには、どこかまた寂しさを覚えてしまうのだが。
ともかく、ビニールタッキーさん(以下、日常的にそう呼んでいた呼称「ビニタキさん」にて失礼します)は地元からよく東京を訪れて映画を観ていて、そのチャンスを捉えて私もよく映画ファン友達と一緒にご飯を食べたり遊んだりしていた。
ご家族の方によると、ビニタキさんは当日、東京で映画を観た帰り道に(ご家族の投稿に書いてないようなので詳細は一応伏せておくが)とある原因から倒れて緊急搬送され、たいへん残念なことに、そのまま亡くなられたという。
こんな深刻な話をしている時に、いきなり不謹慎な余談を挟むことをお許しいただきたいが、この映画というのが(最後の日まで本人がSNSで感想など投稿してくれたおかげでわかるのだが)、また「よりによって!!?」というか、まことに不謹慎ながら「出来過ぎ」と言うほかない物騒かつゴキゲンな凄いチョイスで、他の(ビニタキさんと仲良しだった)映画好き友達と一緒に「さすがビニタキさんやで…」と呆然とするような微笑ましいような絶妙な気分になったのだった。理不尽なお別れの瞬間まで、私たちにイカした語り草を残してくれる思いやりとユーモア(?)、まさにビニタキさんらしいと言える。
なのでこの記事では、ビニールタッキーさんとの個人的な思い出や、ビニタキさんがやってきた活動から私たちが汲み取るべきことは何かを、あまり湿っぽくなりすぎず、なるべく楽しいトーンで振り返ってみたいと思う。ご家族を筆頭に、大切な方を喪って辛い思いをしている人の気持ちを慰めるため、などと大それたことを言うつもりはないしそんなことは不可能だが、ビニタキさん本人が読んで笑ってくれるようなことを書ければいいと思うし、何よりも自分自身が悲嘆に飲み込まれないために書かせていただきます。
ゆかいなお友達!ビニールタッキーさん
(※この章は個人的な話が多いので、次の章まで飛ばしてくれてもいいよ。)
いきなり調子に乗って「何を隠そう、ビニールタッキーさんの一番の友人は私でした」などと言い放つことも物理的には不可能ではないが、素晴らしい人柄で愛されていたビニタキさんのこと、普通に私が知らないだけでネット上にすらもっと親しくお付き合いしていたお友達がいるかもしれないし、そもそも彼の昔からのリアル友人とかに「誰だよお前……」と呆気に取られる可能性も大いにあるので、そんなことは言わないでおく。
とはいえ、ネット経由で知り合った中ではおそらく相当に親しい部類だったであろう、と言ってもバチは当たらないだろう。友達がさして多くない身としてこれだけは言えるが、少なくとも私にとっては最も大事な友人の一人だった。(今頃ビニタキさんが「そんなに?」などと驚いていないといいが。そんなにだよ。)
しかし、大事な友人との思い出を語るうえでいきなり困ることがある。出会いが全く思い出せないのだ!!「マジで?こいつの友人観、雑すぎ…!?」と引かれるかもだが、インターネット経由でなんとなく知り合って、そのままなんとなく仲良くなってその後もずっと親しい、みたいな場合、逆に最初の方のきっかけを忘れてしまっているのはインターネットで知り合った人あるあるではないだろうか。そんなこともないだろうか。
ためしに自分のツイッターをビニタキさんの名前で検索してみた結果、2017年頃(まだ最初の本も出していなかった頃)に言及があるので、この時点で存在を知っていたのは確かだ。
昨年の「Vinyl Case(ビニールタッキーさん案件)」まとめ。そろそろ本格的に資料価値が生じているので、後世のためにも(無理のない範囲で)記録し続けてほしい…。おもしろ宣伝を見かけたら君も夜空に向かってビニールシグナルを出そう!https://t.co/o7pvZTVpYm
— ぬまがさワタリ@『いきものニュース図解』など3/19発売 (@numagasa) 2017年8月14日
「Vinyl Case」とかビニールシグナルとか図々しくも勝手に単語を作っているが、たぶんツイッター経由でこんな感じで何度か絡んで、この後に出すことになる最初の本(『図解 なんかへんな生きもの』)の出版記念イベントかなにかにお越しいただき、それをきっかけにして交流を深めていったとか、そんな流れだと思う。
まぁ出会いという些細な(?)ことは置いといて、私とビニタキさんの思い出を語る上で、最も象徴的なのは「ビニがさ会」であろう。
初開催のようす↓
【告知】
— 始条 明 (@AkiraShijo) 2019年12月6日
12/14(土) 14:30〜
【ビニールタッキーとぬまがさワタリの映画忘年会2019】開催決定!
2010年代終了の危機に、おもしろ映画宣伝ウォッチャーとふしぎ生物愛好家が立ち上がる!奇跡のクロスオーバー!きみも一緒に2019年をのんびり締めくくろう!!
詳細と参加は→https://t.co/5dVdcHq29A pic.twitter.com/X6lYD7KhOJ
きっかけは、イベンター(という言い方が適切かわからないが)としても各所で活躍されているお友達の始条明さん(以下アキラさん)が、そのスパイダーセンス=野生のカンによって、ビニタキさんと私のおしゃべりはイベントとして成り立つんじゃないか!?という驚きの発想に至ったことだ。「そんなことある!?」とも思いつつ、「年末年始に映画好きで集まって、その年のベストとかを気軽に語ろう!」というくらいの趣旨なら、まぁやってみても楽しいかとも思って、初の合同トークイベント、通称「ビニがさ会」の開催に至った。
ビニタキさんは「おもしろ映画宣伝」という、たしかにニッチではあるが実は重要かつ奥が深いジャンルに抜群の造詣を誇り、また映画全般のみならずTVやお笑いや音楽といった芸能にも(少なくとも私よりは)広く詳しかった。私も(ビニタキさんほどの濃さではないものの)映画が好きで、また動物関連のイラスト図解などサイエンス分野での仕事も増えていたので、そこを着眼点にした映画やドラマの紹介などをすることができた。絶妙に得意ジャンルが異なってはいたものの、だからこそ良いコンビネーションを発揮できた、と勝手に自負しております。
2019年に開催した初「ビニがさ会」は喋ってる方もとても楽しく、ありがたいことに好評もいただいたので、その後も毎年のように開催!……となれば良かったが、実際はなかなかそうもいかず、開催はしばらくお預けとなった。
新型コロナという世界的事件が勃発したりとか、私もビニタキさんも(たぶんアキラさんも)なんだかんだ忙しくなってしまった、とかもあるが、アクセスや価格などちょうどいい規模の会場だった「新宿フラックス SF DINING&BAR」が、2020年に閉店してしまったのも痛かったと思う(これも広く言えばコロナの影響なのかなぁ)。こういうイベントはやっぱ会場のちょうどよさが物を言う部分あるから…。
しかしビニタキさんとの私的な交流自体は、言うまでもなくその後も続いた。新型コロナでなかなか外出もままならない中、web会議システムを活かした「web飲み会」でコミュニケーションを取ったりすることも多く、他のお友だち共々、パンデミック下での孤独なフリーランス活動の中で心の支えになってもらった。
直接の対面ではなくとも、ちょいちょい組む機会があり、こちらもお友達の映画ライター・ヒナタカさんの文/取材で対談記事にしてもらったりした↓。『ウルフウォーカー』はいまだに人生のオールタイムベスト映画です!!
そして時は流れ、2024年…。なんと5年ぶりに「ビニがさ会」が復活! 今回は忘年会ではなく新年会となり、会場も渋谷のかなりゴージャスなハコを借りるという、なかなかチャレンジングな企画で、久々だし全然集まらなかったらどうしよう!銀行強盗でもするか!と心配していたが、蓋を開ければ大勢の方が集まってくれた、思い出深いイベントとなった。
「年末年始に映画をゆるく語ろう」という趣旨だったはずが、ビニタキさんも私も本質的に凝り性だからなのか(特に私)、うっかり渾身の「私の考えたさいきょうの十二支映画」をプレゼンしてしまったり(十二支とは…?)、なんだかんだサービス精神に溢れたビニタキさんもいつもの「おもしろ宣伝」プレゼンにくわえて大量のパワポ(「この関係性がスゴイ!」など)を用意してくださったり、相当にギッチギチのイベントになってしまったことには苦笑が漏れたが、それだけ濃厚なイベントになったと自負はしている。
新年会の様子は↑の記事にも書いたのと、ビニタキさんも同タイトルでブログ記事を書いてくださった↓ので、2つ合わせればわりとしっかり雰囲気が掴めるんじゃないかなと。読み返したらけっこう記憶が飛んでいたので、やはり、何事も書いておくに越したことはないな。
そして翌年の2025年、今度は5年も間を開けることなく、「HAPPYビニがさ新年会2025」を開催。アキラさんがまたも素敵なロケーションを見つけてくださり、東中野というほどよい立地の素敵な映画館併設のカフェで、いい感じの集いを開くことができたと思う。
「HAPPYビニがさ新年会2025」を2/9(日)に開催します!
— ぬまがさワタリ@『いきものニュース図解』など3/19発売 (@numagasa) 2025年1月22日
映画を肴にビニールタッキーさんと楽しくおしゃべりするトークイベントです。来場者さんもゆるく交流したりしなかったり、ほどよい集いだ。文化的HAPPYをかき集め、荒れ狂う世界に立ち向かおう!
お申し込みはこちら↓https://t.co/PSJkK3PfsK
「ビニがさ新年会/忘年会」に参加した方の声には嬉しいものが多かったが、ふと思い出したのは「安心して映画の話を楽しめる稀有な場所」という声が印象的だった。これはなんといっても、ビニールタッキーさん(とアキラさん)の優しく寛容ながらも悪を許さぬ人柄が大きかったと思う。(私ひとりのイベントではこうもいかなかったはずだ…。)なんと、ビニがさ会をきっかけにお友達になり、その後も交流を続けている方々もいると聞いた。嬉しい限りだし、ビニタキさんもそれを聞いて喜んでいた。
そんなわけで(間が空いたとはいえ)3回も開催し、なんとなくリズムも掴めてきたので、このまま年末年始の恒例イベントにできるかな…?と思っており、アキラさんとも話し合ってビニがさ新年会2026」の予定もそろそろ考え出さないとな〜、もう年末か〜マジかよ「光陰矢の如し」すぎるだろ〜、などと考えていたところに、「矢の如し」どころか『300 〈スリーハンドレッド〉』の空を埋め尽くす大量の矢の如し圧倒的かつ絶望的な破壊力とともに、今回の訃報が飛び込んできたというわけだ。
ふんわりしたポジティブさで誤魔化すようなことは言いたくないので、心苦しくとも率直に言うが、ビニールタッキーさんが去った今、「ビニがさ会」の終了を告げざるをえないだろう。もちろん私やアキラさんはまだ元気に生きているし、メンバーや形式を変えたり、なんらかの形で「会」の継続や発展は可能だとは思う。驚愕の奇跡が起きれば天海祐希とぬまがさワタリの「あまがさ会」を開けるかもしれない(何話すの?)。
しかし何がさ会だろうと、折りたたみがさ会だろうと、ビニタキさんがいない以上、それはビニがさ会ではなく、別の会だ。当然の話だが、辛い。辛いが、誰かを喪うというのはそういうことだ。辛さを噛みしめるほかはない。
ビニタキさんとの楽しい思い出の振り返りが、単に悲しいだけのタイムラインである現在にたどり着き、また辛気臭くなってしまった。記事を読んでいる仮想ビニタキさんも「ちょっと〜、ダメな邦画みたいにウェットすぎますよ〜」などと苦言を呈している(仮想なので現実より辛口)。だがこちらも親しい友人を亡くしたばかりだし、日本には四季はもうないかもしれないが常に湿気は凄い。ウェットになるのも仕方ないだろう。しかし気力を振り絞り、思い出の中から、何か未来の糧になるような、ポジティブなものを掘り起こしたい。そのために、今度はビニタキさんの活動に焦点を当ててみよう。
映画宣伝ウォッチャー!ビニールタッキーさん
ビニールタッキーさんの本業といえば、やはり「おもしろ映画宣伝ウォッチャー」にほかならない。(…とイベントで言ったら、「いや本業じゃないですよ!本業はサラリーマンですよ!!」と当然のツッコミを受けた。それは本当にそう)
「映画宣伝ウォッチャー」とは、その名の通り映画の宣伝をウォッチし、映画そのものを良かったとかイマイチだったとか語らうごとく、映画の宣伝というあまりスポットライトが当たらない営みに対して、面白い宣伝だったとか、良い宣伝だったとか、この宣伝は改善の余地がある、とウォッチ&評論をする人のことだ…と認識している。
私の知る限りでは日本に1人しかいない職種なので、ビニタキさんは間違いなく「映画宣伝ウォッチャー」の第一人者と言えるだろう…とか言って意外と実は「ビニタキさん以前の映画宣伝ウォッチの長い歴史」があったりしたら恥ずかしいので、「たぶん第一人者」と言っておこう…。(まぁ広義の広告批評とも言えるので、その意味では批評の王道といえば王道なのだが。)
ビニタキさんの映画宣伝ウォッチャーとしてのキャリアはなかなか長く、こちらは以前に更新されていたブログで、日付が2016年で2回目ということなので、少なくとももう10年ほど「ウォッチ」を続けていることになる(私と会う直前くらいか)。
その後も定期的に映画宣伝ウォッチャーとしての活動を続け、近年は推薦コメントや雑誌の記事や対談など、かなり多岐にわたる映画関連のお仕事を手掛けていただけでなく…
ポッドキャストも配信していたり…
ついには「映画ナタリー」で連載まで手掛けていたのは、皆さんご存知の通りだろう。
具体的に、この年にどういう面白い映画宣伝があったとか、そういうのはビニタキさんが達者な筆致で楽しく綴ったり、優しいトーンで喋ったりしてくれているので、各自で過去ログをゆっくり漁っていただくとして、この章では、ビニタキさんの活動のより本質的な側面を、あくまで私の主観から、あえて少し真面目に考えてみたいと思う。「おもしろ映画宣伝ウォッチャー」の真髄とは何だったのだろう。
映画というのは不思議な媒体だ。「キング・オブ・見世物」としての(時に扇情的だったり低俗だったりする)圧倒的な大衆娯楽性と、「第七芸術」なんて言葉もあるほどに(時に大衆の視線や欲望を撥ねつけるような)複雑なアート性を併せ持っている。対極にあるはずの映画が同じ映画館で隣り合わせで共存していたりもする。『名探偵コナン』や『ワイルド・スピード』が上映している横のスクリーンで『異端の鳥』や『関心領域』が上映している、みたいなことも珍しくない。
「長くて数時間くらい、長方形の画面に収まればOK」というゆるい縛りが、スーパー大衆娯楽から、バッキバキの社会派やアートまで、なんでもアリな振れ幅を生む。作品の内容そのものも客層も、とにかく幅が大きい「映画」というメディアだからこそ、「作品の魅力を万人に広く伝える」ことには常に困難が伴うし、「映画の宣伝」は苦闘の歴史でもあったはずだ。
この日本という保守的かつ閉鎖的な傾向の強い島国のエンタメ業界において、そうした「苦闘」が最も激しくなるのは、特に「海外の作品」の魅力や面白さをいかに伝えるか、という局面だろう。
実際、ビニタキさんのウォッチ録を読んでいると、「おもしろ映画宣伝」が最も発生しやすいホットゾーンが、海外の映画(特にエンタメ映画)であることもわかる。(もちろん邦画にもおもしろ宣伝はあるのだが。)映画が本来もつポテンシャルにハマるはずの層=「見てほしい層」と、「実際に見てくれる層」が乖離していればいるほど、その宣伝には広いリーチが求められる。リーチのためには大きく踏み出す必要があり、それが飛躍をもたらすこともあれば、単にずっこけて終わることもある。「冗談みたいな思いつき」がところ狭しと飛び交うバトルフィールド、それが映画宣伝業界なのだ。
ビニタキさんの愛した「おもしろ映画宣伝」とは、あまりに幅広く複雑で多様で、だからこそ豊かなメディアでもある「映画」を、できる限り多くの人に届けよう、伝えようとする人々の苦闘の表れでもあった。
その苦闘は、基本的に(映画そのものと違って)誰にも賞賛されないし評価されない、「歌われざる闘い」だ。
こんなマイナーでシリアスでニッチな作品を、どうやって大衆に届ければいいんだ…と試行錯誤を重ねて、みんなが知ってる芸能人を宣伝に起用して、なんとか興味を持ってもらおうとする。当然、うまくいくとは限らない。作品とは無関係の芸を披露させて失笑を買ってしまうこともあるし、「それって作品のメッセージをむしろ損なってない?」という失策が炎上を生んでしまうこともあるし、(最近は減ったが)海外アニメの重要な役を「吹き替え初挑戦!」な俳優に担当させてファンから苦言を呈される、みたいなこともよくあった。
何も宣伝しなくても駆けつける熱心な映画ファンではなく、フィルターバブルの外にいる、しかし映画を観に行くポテンシャルはあるかもしれない人々に、どうやってその映画に関心を持ってもらうか…? 元から無茶だがSNS時代になってさらに過酷を極めるようになった難題に立ち向かう宣伝担当者たちの、時に滑稽で、時に効果的で、時に問題アリで、時に愛すべき闘いの数々…。その苦闘は、ふつう誰に顧みられることもない。ミスって炎上することはあっても、「これは良い宣伝だね」と褒めてくれる人はあまりいない。だが、例外もいる。それが「おもしろ映画宣伝ウォッチャー」、ビニールタッキーさんだったのだ。
ビニールタッキーさんの訃報を受けて、いくつもの映画配給会社さんが悲しみや哀悼の意を示したのも、不思議ではない。
うそ……つい先日メールでやり取りしていたばかりで、信じられません。
— ポニーキャニオン映画部公式 (@ponycanyon_eiga) 2025年10月11日
ある映画のコメント依頼した際、個性の強い映画でお声がけ頂けていつも感謝しておりますと優しいお返事いただいたばかりで、今後も色々とお願いしたいと思ってたのです。… https://t.co/W6z6O0nRqr
ビニールタッキー氏のご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げます
— ハピネットファントム・スタジオ (@Happinetphantom) 2025年10月11日
弊社のみならず映画業界全体がビニールタッキー氏の映画愛に溢れた作品紹介に励まされ、助けられ、
映画作品の普及に並々ならぬ尽力をいただきました。
改めてご冥福をお祈りいたします。
ハピネットファントム・スタジオ
ビニタキさんの活動も功を奏してか、ネット上でも次第に(映画そのものだけでなく)「映画の宣伝」自体への関心や注目が高まっていったように思う。そうした変化は映画宣伝の担当者の皆さんにとっては、炎上リスクなどを考えれば胃の痛い問題にもなりえたかもしれないが、それと同時に、自分の仕事のやりがいを増してくれる変化でもあったと想像する。
ビニタキさんは、映画そのものを紹介するのも上手だったが、映画宣伝についても、さまざまな背景を解説してくれる稀有な存在だった。
例えば「この映画宣伝がすごい!2018」の第1位に輝いた『ボヘミアン・ラプソディ』の宣伝のような、「おもしろ映画宣伝」の代表格とも言える「鏡割り」にしても、これ自体が実は本家「クイーン」が来日した時に本人たちがやった鏡割りのリスペクトだった!という文脈があったりする(ということもビニタキさんの紹介で知った)。
planetvinyl.hatenablog.com
上記の配給会社さんの反応なども踏まえて、ビニタキさんの活動を、もう少し広い視野でも捉えてみたい。
先ほど「日本という保守的かつ閉鎖的な傾向の強い島国」と言ったばかりで、たしかにそういう傾向はいまだに強いものの、同時に日本は間違いなく、「海外の文化」を旺盛に取り入れることで発展していった国でもある。それは実写映画も当然そうだし、宮崎駿や高畑勲に代表されるような世界的に有名な日本アニメーションにしても、ヨーロッパやアメリカや他の国々のアニメを熱心に学んだことで発展を遂げ、傑作を数多く生み出した。(余談だが高畑勲はクリエイターとしてだけではなく、マイナーだが高品質な海外アニメ作品を紹介する活動にも熱心だった。)
こうした「海外の文化を広め、伝えよう、他の国の良いものから学ぼう」という精神は、保守的かつ閉鎖的な島国にもかかわらず…というよりも、そのような国だからこそ、今も(幸いなことに)伝統的に根強く続いている。
日本の映画文化において、そうした潮流の中にある、世界的にも誇れそうな取り組みの例をひとつ挙げよう。劇場用パンフレットだ。作品ごとの基本的な情報を載せつつ、専門家や知識人が執筆したコラムや解説や批評が掲載されている千円前後の冊子が、映画館の売店に必ず置いてあるという事例は、世界的に見てもかなりユニークだと思われる。劇場パンフの存在意義は、とりわけ海外の作品において大きい。日本の観客には馴染みの薄い作品の理解を深められるよう、補助線となる情報をしっかり用意しよう、という意志の賜物ではないだろうか。
パンフレットに限らず、映画そのものも、(意外に思うかもだが)日本は先進国の中でも「他の国の映画」を観るための環境が比較的よく整った国だと感じる。国内作品が強すぎるアメリカは言うに及ばず、ヨーロッパを旅行しても、意外と「他の国の作品(特にエンタメ大作ではない作品)」が映画館で見られる機会は、日本以上に限られているのだな、と気づく。映画配給会社やミニシアター、評論メディア等を中心に、こうした「他者から学び、理解しよう」という信念の火を絶やそうとしなかった人々の努力の痕跡は、確かに今の日本映画界に残っている。
私としては、ビニールタッキーさんが笑いとボンクラみをまぶしながらも熱心に取り組んでいた「おもしろ映画宣伝ウォッチャー」という活動を、日本にも脈々と受け継がれてきた「異なる国の文化を広め、他者を理解し、学ぼう」という考え方の、大きな流れの中に位置づけてみたいと思う。ビニタキさんご本人には「大げさだなあ」と言われてしまうかもしれないし、実際「面白いから」やっていた面は大きいとは思うのだが、友情を抜きに客観的に見てもそれほど的外れな意見ではないはずだ。
一方で、日本に脈々と流れてきたその潮流、ギリギリで絶やされることはなかった火が、まさに風前の灯であることも確かだ。新型コロナは言うまでもないが、物価高や円安の影響もあり、海外の作品を上映するミニシアターも映画配給会社もメディアも、残らず厳しい苦境にある。(最近だけでも、新宿シネマカリテの閉館決定が記憶に新しい。)
そしてその苦境の背景には、日本に限ったことではないとはいえ、今また閉鎖的・内向き・後ろ向き、なんなら排外主義的な方向に突進しようとしているように見える、この社会の根深い問題があるように思えて仕方ない。
そんな中で繰り広げられる、ビニタキさんの「おもしろ映画宣伝ウォッチャー」活動は、ニッチなジャンルではありながら、実は意外なほどに深く今の文化の現状に食い込んだ、鋭い着眼点だったと言えないだろうか。徐々に内向きになっていく日本で、映画文化に携わった人々が苦闘した日々の証として、いつか資料的な価値を持ったとしても不思議ではない。
そして活動の意義そのものだけでなく、何よりもビニールタッキーさん本人の人柄や考え方が愛されていたからこそ、その早すぎる逝去が多くの人にショックと喪失感を与えたことは疑いの余地がない。
ビニタキさんが映画を紹介する際は、それがエンタメ性が高かったり一見ボンクラ感にあふれていたりしても、映画に込められた(時には映画クラスタにさえ無視・軽視されがちな)社会的なテーマもしっかり読み取って、わかりやすい言葉で表現されていた。
性や人種など様々なマイノリティへの連帯や、当事者からの切実な視線、社会の深刻な問題への批評マインドといった、映画の中のメッセージを誠実に受け取り、現実にきちんと反映しようと志すその姿勢は、同じ映画好き・エンタメ好きとして尊敬できるものだった。それはもちろんビニタキさん自身の人徳もあっただろうが、「映画の宣伝」という、虚構と現実の関係を実は一番シビアに捉える必要がある領域を、深く観察していたからこそ研ぎ澄まされた感性だったのかもしれない、と今は思う。
「創作に思想を持ち込むな」「映画に政治を持ち込むな」などという、今更なに言ってんだオメーと思わざるをえない、幼稚で虚無的で現実逃避的な言葉もSNSに飛び交う中、本当の意味で映画の力を信じていたビニタキさんの言動を、どこか心強く感じていた映画ファンや、マイノリティ当事者の方も少なくなかったんじゃないかな、と、逝去後の様々な人のコメントをみて思うのだった。
こうもバックラッシュが蔓延するご時世に、ビニタキさんのような心ある「ウォッチャー」を失ったことに、ショックと虚しさを感じている人は少なくないだろう。
私自身も、訃報を聞いた直後のショックからは少し回復したとはいえ、それでもずっと元気がなく、友人を喪った理不尽さへの悲しみと憤りを感じているし、いまだに何かの間違いであってほしいと思っている始末なので、他人に「元気を出せ」などと偉そうなことは言えないが、そんな時だからこそ、ビニタキさんが「映画ナタリー」の連載で、約半年前に書いたこちらの記事を紹介したい。
「映画宣伝はアップデートされ、よりよい方向に向かっている」というタイトルの記事だ。最後の方を引用してみる。
書き続けて感じたのは、「映画宣伝はよくなっている」ということです。個人的な趣味として何年も前から映画宣伝、特に海外作品の映画宣伝を見続けていますが、世界の価値観や映画内の価値観がアップデートされていくのと同じように、映画宣伝もよりよい方向に向かっていると感じます。その映画のよさや見どころを伝える際に、限られた予算の中でどういうタレントさんにオファーし、どのようなコラボをするのが最良かということを真剣に考えているのが伝わります。また、海外からゲストが来日した際も、そのゲストがちゃんと映画をPRできるように配慮し、ゲスト本人も楽しめるような企画や対談を考案したりと、真摯な仕事っぷりが感じられます。洋画が苦戦していると言われる昨今ですが、このように実直で丁寧な宣伝を続けることで盛り上がってくれたらいいな、と思うばかりです。
映画宣伝という、ごく限られた領域の観察結果ではあるが、だからこそ「ちゃんと良くなっている」というビニタキさんの「ウォッチャー」としての発言に、確かな説得力と希望を感じはしないだろうか。たくさんの宣伝をウォッチする中で、ビニタキさんだって「今時こんな宣伝はないだろ!」とかネガティブなことを思ったことだってあったはずだが、それでも映画の作り手や、映画を愛する私たちの価値観が次第に良い方に変わっていくにつれて、映画の宣伝も良くなっていったという過程も、実感と共に捉えていたはずだ。
日本でも海外でも、社会的にも文化的にも見受けられる、進歩や変化や多様性へのバックラッシュ的な動きは嘆かわしいが、例えば政治のようなわかりやすい「ド真ん中」だけが、世の中を構成しているのではない。本当の意味で大きな変化が、例えば「映画の宣伝」のような、いっけん些細であまり注目されない領域から芽生えることはないと、誰に言えるだろう。映画の宣伝と同じように、世の中も良い方に変わっていく、なんてことはないと誰に言えるだろう。悲しい時こそ、ビニールタッキーさんのように小さな変化を見落とさず、大きな変化を信じ、虚無と絶望に飲み込まれないようにしたい。
ビニールタッキーさんに捧げる祈り(通常版)
誰かが亡くなった後の「ご冥福をお祈りします」という定型文に、特に文句があるわけではない。ないのだが、個人的には「冥福」の意味もよくわかってないし(なんだか薄暗い感じがするし)、親交のあった友達に捧げる「祈り」としてはちょっと他人行儀な気もする。
あと私は一応ふだんの本業ではポピュラーサイエンス的な分野で活動していることもあり、できる限り言動も科学的でありたい、なるべく非科学的な表現を避けたいとも思っている。
天国とか死後の世界とか魂とか、そうした現時点では科学的に証明されていない曖昧な概念に頼らず、できる限り現実的かつ科学的な「祈り」を、端的にまとめた。この祈りをもって、この記事を締めることとしたい。
ビニールタッキーさんへ
あなたは映画を愛し、人々や世の中を(不完全なところも含めて)愛した。
そして、人々や世の中が良くなることを、決して諦めなかった。
遺された私たちも、そうできることを祈る。さようなら、今までありがとう。
〜おわり〜
…悪くない祈りだと思う。非現実的なことは何も言ってないので、信心を問わず普遍的にどんな人にも共有できる内容になっているはずだ。ただ……わかっている、祈りとしてはちょっと味気ない。なので、ここまで読んでくださった、ビニタキさんを悼む気持ちのある皆さんのために、もう科学が云々とか、そういうスタンスを全て放棄し、勝手な願いと空想だけを詰め込んだ、ファイナルカット版の「祈り」も用意したから、心の広い人だけ読んでほしい。もはや祈りの体裁をなしておらず、純然たるフィクションだが、結局のところ私とビニタキさんの最大の共通点は、フィクションが好きなことなのだ。
ビニールタッキーさんに捧げる祈り(ファイナルカット版)
天国は存在した。天国に映画館も存在した。
その映画館、「ヘブンズ超極楽シネマズ」は、無限のスクリーンを有し、天上天下に存在する映画を「全て」上映している。スクリーン数が無限なだけのことはあり、IMAXレーザーGT(ありがちな微妙に小さいIMAXじゃなくて池袋グラシネとかにある本物のIMAX)から、ドルビーシネマ、4DX、古ぼけたミニシアター風スクリーンまでなんでも揃っている。それらを全て超える最強最大ヘブンズ超極楽スクリーンも大人気だ。あまりのデカさにもはや逆に何も見えないのではないかと心配する人もいるが、座席数も無限なのでちょうどいい席が必ずあるため心配は無用だ。
絶妙な柔らかさのヘブンズ超極楽シートは座った瞬間に即寝オチすることも珍しくないほど圧倒的な快適さを誇る(もし寝てしまっても次の回を観れば良い、上映回数は無限だ)。名物の超セイント爆裂ポップコーンと天上の美酒コーラはまさに至高の味わいで、これを目当てに映画館に通う人も多いほどだ。あろうことか本編の上映前に流れるショートアニメ「神ネズミちゅう太郎」ですら嘘のように面白く、映画が始まる前から場内は爆笑と感涙に包まれる。
天国なので言うまでもなく映画鑑賞は無料だ。厳密には無料というか、ヘブンズ超極楽シネマポイントが6ポイント溜まると鑑賞無料というシステムなのだが、映画館に足を踏み入れるたびにヘブンズ超極楽シネマポイントが6000ポイント付与されるので、永久に実質無料なのだ。ポイントシステムの存在意義を疑問視する声もあるが、廃止の兆しはない。
かように全てが無限で無料、言うことなしに思える天国の映画界だが、ちょっとした問題も生まれている。どうも、地上の映画を観る人の数が減りつつあるらしい。「天国民の"地上映画"離れ」が進んでいるというのだ。
先述したように、天国では天上天下のどんな映画も即座に上映される。なので今年亡くなった映画ファンは『羅小黒戦記2』や『ウィキッド パート2』や『スパイダーマン:ビヨンド・ザ・スパイダーバース』といった「地上映画」の待望作も決して見逃すことはないどころか、地上の最速上映と全く同じタイミングで、最高の条件で観ることができるのだ。
こんな完璧な環境にもかかわらず、なぜ「地上映画離れ」が進むのか。その大きな理由は「天国の映画」がめちゃめちゃ面白すぎることだ。
映画の誕生からすでに百数十年が経過し、天国には伝説的クリエイターや天才俳優がすでに大勢やってきている。彼ら彼女らの溢れる創作魂は天国でも尽きることなく、さらなる高みを目指して修練を重ね、次なる作品の制作に精を出す人がほとんどだ。そして天国にはリソースや予算の概念がないので、巨匠や天才たちが商業主義の枠組みから解き放たれ、完璧に満足のいくまで好き放題とことんクオリティを突き詰め、地上では物理的/時間的に不可能だった驚異の傑作を次々に生み出す。
ごく最近だけでも、チャップリンが記念すべき500作目の主演/監督作となる抱腹絶倒のアクションコメディ最新作『楽園脱走』を撮ったり、キューブリックがチャドウィック・ボーズマンを主演に据えた歴史大作(アメリカ史のダークなパロディらしい)を撮ったり、映画監督に転身して今や女性監督の巨匠となったマリリン・モンローが自らの生涯をまさかの宇宙SFミュージカルとして映画化したり、高畑勲が念願の企画をついに実現させて20時間の超大作アニメ映画版『平家物語』を爆誕させたり(大勢の優秀なアニメーターたちが協力してくれたそうだ)、怒涛の傑作ラッシュに天国映画界は熱狂していた。
天国に来た映画ファンも、しばらくは馴染み深い地上の作品を喜んで観ているのだが、実質無限のリソースと才能を注ぎ込める天国オリジナル映画の素晴らしさをひとたび知ってしまうと、ほとんどの地上映画が若干しょぼく感じられてしまい、「地上では面白かったんだけどね〜」という決まり文句と共に、足が遠のいていくという面もあるようだ。
そして天国では、基本的にみんな完璧ハッピーなバイブスなので、地上特有の問題や事情や苦悩が反映された地上映画が、だんだんとっつきにくく感じられていく…という背景もあるのかもしれない。(天国にだってよくみれば天国なりの問題はあるはずなので、地上の映画から学べることもあると思うのだが…。)
そんなわけで「天国民の"地上映画"離れ」が囁かれるようになった今も、決して諦めることなく、地上の映画の魅力を天国の人々に伝え続けようと頑張る、志ある人たちもいる。しかし「伝える」ためのノウハウに今ひとつ欠けるようで、思うようにいかないことも多いようだ。
そんな少数派の映画ファンたちが今日も、ヘブンズ超極楽シネマズのロビーに集まって、のんびり映画話と「作戦会議」に花を咲かせている。
「キューブリックや高畑勲もそりゃ凄いけど、『ワン・バトル・アフター・アナザー』とか、天国の人ももっと見てほしいよな〜」「微妙に見てる人少なくて寂しいよね」「『ファイナル・デッドブラッド』の話も全然通じないしさぁ」「うちらががんばって広めなきゃ!」「映画の宣伝が得意な人いないかな」「映画配給会社の人とか?」「でもここじゃよっぽど面白い宣伝じゃないと、人目を引けないよ」「映画の面白い宣伝をひたすらウォッチしてた人とか来ないかな〜」「そんな人が都合よくいるわけ…」
その時、天国にやってきたばかりの、心優しき1人のおもしろ映画宣伝ウォッチャーが、映画館に足を踏み入れた。
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というわけで、最後に祈りを。
ビニールタッキーさんが今いるところがどこであれ、そこに映画館があることを祈る。
そして、映画についてあーだこーだと楽しく語れる友達がいることを祈る。
何より、その友達が、私にとってビニールタッキーさんがそうであったくらい、良い友達であることを祈る。
おわり