沼の見える街

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神ドラマの終わり、そして…。ドラマ『THE LAST OF US』9話感想&レビュー

ゲームの実写化が失敗することが多いのはなぜなのだろう。それは「ゲーム」と「映画/ドラマなどの実写エンタメ」が、中途半端に似ているからだと思う。確かにどちらも映像をベースとする娯楽なので共通点も多いのだが、実はそれこそが罠なのだ。両者の類似点こそが、「自分で操作するゲーム」と「見てるだけの映画/ドラマ」は、本質的には全く異なる表現媒体だという事実が見えづらくなってしまう。

両者の差異を作り手が十分に理解せず、ゲームの見栄えするシーンを繋げて「実写化」したところで、ゲームのインタラクティブな楽しさにも、映像エンタメの研ぎ澄まされた面白さにも欠けた、中途半端なものになってしまう。結果的に「ゲームの実写化」に、ゲーム好きも映画/ドラマ好きも「なんか違うんだよな」となりがちなのは、そうしたことが理由ではないかと思っている。

しかし2023年、満を持して世に出たHBOドラマ『THE LAST OF US』が、全てを変えるきっかけになるかもしれない。ゲーム『THE LAST OF US』は、膨大な数のファンが存在する大人気コンテンツだが、そのファンが口を揃えて絶賛するようなドラマが完成したのである。鬼門だった「ゲームの実写化」に、ついに巨大な風穴が開けられたのだ。

というわけでドラマ『THE LAST OF US』シーズン1の最終話となる第9話を見届けたので、感想を書いておく。結論から言って、最後の最後まで素晴らしい出来栄えであった…。

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↓これまでのドラマ感想はこちら(毎週感想はやはりけっこう大変だったため5〜8話はまとめて感想になってしまってるが、あしからず)

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ーーー以下ネタバレ注意ーーー

 

【エリー爆誕】

ここしばらくは冒頭からオープニング曲の構成が多かったが、最終回となる今回は一転、アバン的な映像から幕を開ける。感染者から逃げ惑う、森を走る1人の女性。彼女は妊娠していて、大きなお腹を抱えている。どことなくエリーに顔立ちが似ているのと、「F*CK!」という罵り言葉の放ちっぷりからも、ひょっとしてエリーの母親か??と思ったが、まさにそのとおり。ゲームでは描かれることのなかった、エリー出生にまつわるエピソードがドラマ最終話のサプライズとして用意されたわけだ。ちなみに、エリーの母・アンナを演じるのはゲーム版でエリーの声を演じたアシュレー・ジョンソン。前回のトロイ・ベイカーに続く重要カメオ出演となる。

世界の鍵を握る少女エリーが、そもそもなぜ免疫を持っているのか、その「生まれ方」を科学的な説得力とともに描いているのも興味深い。エリーは「出産間際の母親が感染者に噛まれた状態で生まれる」という、ものすごく珍しい条件を満たさないと生まれない、特別な免疫をもつ子どもだったのだ。

自分の死を悟ったアンナは、助けに来たマーリーンにエリーの身柄を託し、自分を殺してほしいというシビアな願いを告げる。一度は断るも、親友のためと思ったのか、銃弾を彼女に撃ち込むマーリーン。アンナとマーリーンの間にある長年の深い友情ゆえの葛藤を漂わせることで、マーリーンもまた「Left Behind(残されたもの)」であることが伝わってくる。だからこそ、マーリーンがエリーに対して抱く並々ならぬ思い入れも伺い知れて、終盤の展開の重みがいっそう増すわけだが…。

 

【キリンのテーマ・The FINAL】

前回のエピソード(ゲームでいう冬パート)が終わり、日差しも暖かく、明るくなってきた季節の、ジョエルとエリーの旅の続きが描かれる。ただ(エリーに気を使っているのか)やけに朗らかに話し続けるジョエルとは裏腹に、エリーの様子はどこか上の空だ。8話ラストで自分に性暴力をふるおうとしたデビッドを殺害したりと、エリーがショッキングすぎる修羅場をくぐったことを考えれば当然とも言えるが、前回からそれなりに時間がたっていることを考えても、何か(前回のトラウマ以外の)別の理由があるのだろう。

その後、いかにも原作ゲームっぽい「俺を踏み台によじのぼってハシゴをおろしてくれ」的なアクションもファンサービス的に挟んだりしつつ、2人は廃墟の町を進んでいく。そんな中、エリーは「あるもの」を見つけて走り出す。「なんだよ…」とあとを追いかけるジョエル。その先に何が待っているかは、原作ファンはもちろん予想がついていることだろう…。そう、満を持してのキリンの登場である。ドラマ全体で3度めとなる「キリンのテーマ(=Vanishing Grace)」も満を持して流れるのだった…。辛いことばかり起きてきたエリーとジョエルの人生に、この残酷な世界が一瞬だけ与えてくれたご褒美のように、美しく奇跡的な光景だ。

ドラマ版は重要な見せ場は外さずバシッと決めてきたとはいえ、原作の変えるべきところは変え、実写らしいリアリズムも重視する作品でもあったため、「ワンチャン、キリン出ない可能性もあるのか…?」と心配(?)していた。CGも大変そうだし。それだけに、今回ドラマでもきっちりキリンを出してくれたことは(当然ではあるけど)うれしかった。

キリンのCGよくできてんな〜と思いつつ調べて驚いたのだが、このキリンはCGではなく、なんと本物だという! 1ヶ月半かけて動物園のキリンの囲いにグリーンスクリーンのパネルを設置し、動物園でペドロ・パスカルとベラ・ラムジーが本当にキリンと一緒に撮影して、そこにVFXで風景を組み合わせたということらしい。 キリンではなく背景のほうがCGだったのだ。

やはりキリンのシーンはみんな大好きなので、CGでお茶を濁さず、リアル・キリンに出演してもらおう、という粋で大胆な判断だったのだろう。ゲームと違って、エリーが草をキリンに食べさせたりもしていて芸が細かい。ラスアス1のキリン、ラスアス2の恐竜といい、動物が"人生の幸福の瞬間"の象徴として暖かい輝きを放っているシリーズだというのは、動物好きとしてもなかなか喜ばしいポイントだ。ただし、「キリンのテーマ」こと「Vanishing Grace」のタイトルが示す通り、"人生の幸福の瞬間"は、キリンたちのように儚く歩き去ってしまうのだが…。

キリンを見届けたあと、ジョエルはエリーに「無理に病院に向かうことはない」と告げる。実はこの時点でエリーは、自分を待ち受ける運命を心のどこかで予感していたからこそ、さっきまで上の空だったのかもしれない。それをジョエルは敏感に察知したゆえ、エリーに他の選択肢を提示したわけだ。しかしエリーは「これまでの全てを無駄にしたくないから、行こう」と返すのだった。エリーの言う「全て」には、2話で退場したテス、5話のサムとヘンリー、そして7話で描かれたライリーの記憶も含まれているだろうことを考えれば、とても重いセリフだ。その重みと彼女の覚悟を受け取ったジョエルは、エリーとともに病院へと向かう。2人の勇気ある決断の果てに、恐るべき出来事が待っていることを知る由もなく…。

 

【間違っているが、絶対に「正しい」選択】

2人は廃墟となった軍のキャンプで立ち止まる。ジョエルはそこで、娘サラを失ったショックから人生の意味を見失い、自死を選ぼうとしたことを(回りくどい言い方ではあるが)エリーに告げる。ジョエルもエリーも2人とも「Left Behind(残されたもの)」であり、もうお互いしかいないということが、6話に続いて改めて強調されることになる。そして気を取り直してまた歩き出し、2人の親密な関係の深まりの象徴でもあるジョークブックをエリーが読み上げている最中…突然、ジョエルたちは背後から襲撃されてしまう。

原作ゲームの水で溺れて…という展開がカットされたこともあり意表を突かれたが、襲撃者の正体はゲーム同様、ファイアフライだった。エリーと引き離された状態で拘束されるジョエルに、マーリーンはエリーを連れてきてくれた感謝の言葉を述べる。だが同時に、エリーから免疫を取り出して人類を救う治療薬を作るには、エリーの命を奪う必要がある…という無情すぎる事実を、マーリーンは告げるのだった。

当然ジョエルがそんなことを受け入れられるはずもないが、人類全体の救済を試みるマーリーンたちも譲らない。マーリーンが冷酷なだけの人物でないことは、冒頭で示されたエリーの母・アンナとの約束の場面からも明らかだ。アンナやエリーへの重い感情と、人類の未来を天秤にかけた上での、彼女なりの苦渋の判断だということがわかる。そしてジョエルに感じている恩義も確かに本当であり、だからこそ彼を殺したりはせず、部下に解放を命じたのだろう。このマーリーンの非情になりきれないところが、結果としてファイアフライに惨劇をもたらすことを考えると、なんとも皮肉だ…。(そういえばラスアス2も、エリーを見逃したアビーの判断が結局は…という話でもある。)

そして原作ゲームで言うところの、最終ステージがいよいよ幕を開ける。ジョエルはマーリーンの部下を一瞬の隙をついて殺して武器を奪い、ファイアフライの兵士も非戦闘員も次々と殺害しながら、エリーを探して病院を突き進む。ゲームではここが最後のプレイステージとなり、これまでと違ってほぼ制限なく武器が使い放題だったりもするので、どうしてもラストバトル的な「熱さ」が生まれてしまうのだが、そうした「熱」はドラマ版ではほぼ完全に排されている。あくまで淡々と冷淡に、エリーのもとにたどり着くために、ジョエルは人を殺し続ける。どんよりと薄暗いBGMがバックに流れる演出もあり、そこにヒロイックさやドラマチックさは一切感じられない。

そしてついに彼は、エリーのいる小児外科にたどりつく(壁に「キリン」の絵が描いてあるのがなんとも辛い…)。手術室に到着し、エリーの手術を中止するよう医者たちに告げるジョエルだが、もちろん彼らは応じない。そしてジョエルは躊躇なく、医者を撃ち殺してしまう(アビーのお父さん…)。もはやその行動にはヒロイズムのかけらもなく、外から見れば恐怖でしかないわけだが、ジョエルが気にかけているのはエリーの命だけだ。

眠るエリーを連れて病院を脱出しようとするジョエルの前に、マーリーンが立ちふさがり、彼を必死に説得する。「いま逃げて生き延びたところで、そのうち無意味に死ぬだけだ」とマーリーンは告げる。「だったら今、確実に大きな意味のある、人類を救うことのできる最期を遂げるべきではないか」と。5話ラストで、ヘンリーが大きな犠牲を払ってまで救ったサムが死に、ヘンリー自身もあっさり死んでしまった姿を目にしている分、視聴者も思わず「そうかもな…」と傾きかねない理屈だ。現にゲームの「Part2」で、エリー自身も全く同じ後悔を抱えながら生きていることが明かされる。さらにマーリーンがジョエルに告げる、「エリーは成長し、いつかは去っていく」という言葉も、2の展開を予見させるものだ。

ジョエルはエリーの意見も聞かず、完全なる独断で、先程エリー自身が言った「これまでの全て」を無に帰してまで、エリーを救おうとしている。そのことの傲慢さをマーリーンは糾弾し、「正しい」判断をするように彼を説得しているのだ。

だが…ジョエルがその説得を、その「正しさ」を受け入れることは決してない。そしてだからこそ、ジョエルは「THE LAST OF US」という物語の主人公なのだ。

『THE LAST OF US Part2』の話になるが、マーリーンの懸念をなぞるかのように、「無意味に生きるより、意味のある死を遂げたかった」と嘆くエリーに対して、ジョエルは「もしもう一度チャンスを与えられたとしても、俺は同じことをする」とはっきり告げることになる。この言葉は単なる強がりではなく、ゲームシステム上も真実であることは重要だ。「THE LAST OF US」は、物語が分岐するマルチエンディングなゲームではない。何度プレイしても、ジョエルは必ず同じ行動を選ぶことになる。

つまり、ジョエルの「間違った」選択…つまり「たとえ人類を救うチャンスを台無しにして、邪魔するものを皆殺しにしてでも、目の前の生きている子どもを絶対に殺させたりはしない」という選択が、このゲームにおいては絶対的に「正しい」選択でもある。そんな矛盾した、しかし人の命の本質的な価値と尊さをあぶり出す強烈なメッセージこそが、「THE LAST OF US」が長い時間をかけて、ゲームという表現形式を通じて、私たちに送り届けようとしたものなのだ。

それでも、自分の信じる「正しい」選択をするために戦闘員も非戦闘員も虐殺したジョエルに、潔白な正義などあるはずもない。彼がやったことの「報い」は巡り巡って、続編『Part2』でジョエルを容赦なく捕えることになるだろう。ジョエルはプレイヤーにとって非常に思い入れの深いキャラだけに、2冒頭での衝撃的な「出来事」に猛烈に反発するファンも多かったようだが、1のラストで彼がやったことを考えれば、はっきり言って「必然」である。むしろ主人公だからといってそこを甘くするようでは、「THE LAST OF US」シリーズの名折れとさえ言えるだろう…。ジョエルの最後の「活躍」からヒロイックさを一切排したドラマ版は、その点を誤解の余地のないよう、さらに強調しているように感じた。

続編で待ち受ける不穏な未来に突き進むように、ジョエルは結局マーリーンをも殺害した末に、エリーを車に乗せてワイオミングの街へと向かう。「盗賊が来たから着の身着のままで逃げた」という苦しい嘘までついて、自分の選択にエリーを巻き込まず、嘘を貫き通すことを決めたジョエル。街に着く直前になって「嘘じゃないと誓って」とエリーに問いただされたジョエルは、「誓う」と宣言する。心のどこかでそれが真実でないと悟ったのか、エリーは悲しげな表情を一瞬浮かべるが、「わかった」と答える。そこで物語はバッサリと終わる。ドラマ「THE LAST OF US」シーズン1、これにて完結である。

 

【なぜドラマ「ラスアス」は"勝った"のか】

最後の最後に至るまで、ものすごい切れ味のドラマ版だった。この最終エピソードに至っては、なんとわずか43分なので、その削ぎ落としっぷりには容赦なさすら感じる。だがその結果、原作ゲームを実写映像に置き換えるにあたって、削るべきところは削り、手を抜くべきでないところは一切手を抜かず、無駄な贅肉を削ぎ落として「ラスアスの本質」を抽出したような、まさにエリーのナイフのように鋭い、傑出した出来栄えのドラマとなった。史上最も素晴らしいゲームのドラマ化…というより、最も素晴らしいメディアミックスの成功例として末永く語り継がれることだろう。

このドラマ版の勝因としては、冒頭でも語ったが、やはりひとえに制作陣が「ゲームと実写エンタメの違い」をよく理解していたことが大きいだろう。あくまで一例だが、ゲームでは派手だったり、戦略的だったりして面白い感染者や敵対人間とのバトルも、自分がプレイできるわけではないドラマでそのまま観ても、ゲームほどの興奮はもたらさない。ゆえにドラマ版ではそうしたアクションは思い切って大幅にカットし、実際の人間が演じるゆえに、より重厚に描くことのできる人間ドラマの方に、強く光を当てる判断をした。その最良の結晶が「ドラマの歴史に残る」とまで絶賛された第3話だったり、感染者も出ないし人も死なないが濃厚な印象を残す第6話だったりしたのだと思う。

バトルやアクションが少ないからと言って、印象が地味になったり、ケレン味が減ったわけではない。金を惜しみなくかけた美しく豪華なセットや、ホラー的な緊迫感あふれる演出によって(2話の博物館でのクリッカー戦が好例だろう)、ゲームをちゃんと彷彿とさせるタイプの面白さも要所に的確に用意している。一方ドラマで観てもそれほど面白くないだろうバトルを削ったり、いくつかのアクションや展開を統合したりと、大胆な省略を効かせることで、一方通行の映像エンタメであるドラマにふさわしいテンポ感を生み出している。

2時間の映画ではなく、10時間近くをストーリーテリングに費やせるドラマならではの手腕だが、ラスアス(1+DLC)の物語を比較的コンパクトに収めるためには、これ以上よくできた構成は考えられないと言っても良い。今後ゲームを映像化しようと考える全ての制作陣が、そして実写映像化に若干の不安を覚えつつ楽しみにするゲームファンが、このドラマ「THE LAST OF US」をひとつの大きな基準にすることになるだろう。

唯一、クリッカーやブローターといった恐るべき&愛すべき感染者たちが、事前の予想ほどは出てこなかったため、「わくわく菌類ドラマ」としての部分だけは必ずしも期待を上回ったとは言えない(そんな期待をしていた人がどれほどいたか不明だが…)。しかし正直、人間パートがあまりに重厚で鮮烈なラスアスシリーズにおいては、原作ゲームにおいてさえ感染者の存在はむしろ逆に「癒やしパート」と化している側面はある。キノコゾンビというジャンル的に安心して楽しめる「お約束」要素の存在が、繊細な作品の本質的な価値をやや曇らせている…という言い方もできなくはないのだ。なので個人的にはだが、感染者の登場バランスは、このドラマ版くらいでむしろバッチリという感じもする。ただ「2」のドラマではもっとゴージャスに感染者が登場する説もあるようなので、そうなればもちろんエンジョイしたいと思う。真のわくわく菌類ドラマはこれからかもしれない。

またこのドラマ版の魅力を語る上で、ゲームから「贅肉を削ぎ落とした」という言い方になってしまったが、当然だが「贅肉」がフルに付いているゲーム版も紛うことなき傑作であるのは周知の事実だ。ドラマでカットされたいくつものバトルやアクション、探索はもちろんだが、最終話のジョエルとエリーのハシゴ作業のような、ささやかな行動もまた、ゲームとして自分でプレイすることで、ラスアス世界への没入感を確実に増してくれる。ゲームもドラマも甲乙つけがたいとはいえ、やはり「完全なる真のラスアス」度が高いのは原作ゲームの方であることは間違いないので、ドラマが気に入った人は必ずゲームもプレイしてほしい。その意味で、このドラマ版は原作への素晴らしい呼び水になることだろう。

とにかく数ヶ月の間、心から楽しませてもらったドラマ「THE LAST OF US」、制作陣には純粋な感謝の念しかない。間違いなく2023年のベストドラマとして、いや2020年代のベストドラマのひとつとして語られることになるだろう。個人的には「THE LAST OF US」はpart2からがいよいよ本番くらいにまで思ってるので、今からシーズン2にも絶大な信頼を寄せざるを得ない。ありがとうドラマ「THE LAST OF US」、ありがとうジョエルとエリー、ありがとう感染者たち。また会える日を楽しみにしている…。

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