沼の見える街

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ド迫力な小さい話。『イニシェリン島の精霊』感想&レビュー(ネタバレあり)

あらすじだけで思わず観たくなる映画は沢山ある。女の子が巨大なレッサーパンダになってしまう映画悪者が人類の数を半分に減らしてしまう映画黒人が経営する牧場をUFOが襲う映画2人の最強のインド人が出会い、とてつもない関係を築く映画…。万人に開かれたエンタメである映画には、こうした「一言でわかりやすく面白さを説明できる」キャッチーさが求められるものだ。

その一方で…「おじさんが親友のおじさんになぜか嫌われちゃった!どうしよう」というあらすじの映画もある。「知らねえよ……」としか言いようがない。しかし、そんな映画『イニシェリン島の精霊』がこんなにも面白いのだから…映画とは、実に豊かで奥深いものではないか。

 

【過激なまでに「小さな」話】

本作『イニシェリン島の精霊』は、過激なまでに「小さな」話だ。1923年、アイルランドの西海岸に浮かぶイニシェリン島で、お人好しの男パードリック(コリン・ファレル)が、なぜか突然、長年の友人のコルム(ブレンダン・グリーソン)に絶交を告げられてしまう…という話である。

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↑この『イニシェリン島の精霊』の予告編を観るだけで、本作の「小ささ」は実感できることだろう。世界を股にかけるアクション大作や、派手なエフェクトを駆使したアニメなど、とにかく「"大きな"話だよ!観てね!」と観客の期待を煽る映像が次々と流れるシネコンの劇場で、本作の予告編を目にした時、そのスケールの圧倒的小ささに、まるで他の映画に喧嘩を売ってるような「尖り」さえ感じた。

一応言っておくと本作のように、傍から見れば極めて小さな問題や出来事を扱った「小さな」映画自体は決して珍しくはない。舞台や人間関係が狭いまま会話メインで続行する作品は(特にアート系の映画では)無数にあり、「演劇的」と称されたりもする。アメリカの片田舎の町が舞台の、マーティン・マクドナー監督の前作『スリー・ビルボード』もそのひとつだろう。

だがとりわけ本作『イニシェリン島の精霊』は明確な意図をもって、格段に「小さな」物語であることが強調されているように思える。

たとえばオープニングだ。島の名産だというレース(編み物)も連想させる、岩だらけの島を空から映した鮮烈なショットで本作は幕を開ける。その無骨で神々しさすら感じさせる、寂寞とした島の自然のスケールの大きさと、人間たちが織りなす(レースだけに?)小さすぎる関係のこじれを対比させることで、人間がいかに「小さな話」に囚われ続ける些末な存在であるかを際立たせているかのようだ。

…しかし、である。「小さな話」であるからといって、それが「小さなこと」であるとは限らない。まじめに想像してみてほしいが、 私たちの現実の人生で、もし本当に、長年付き合っていた友人から、ある日突然嫌われたとしたら…? そんな出来事がもたらすショックは、レッサーパンダに変身したり、巨大UFOが襲ってきたり、人類の数が半分になったりすることの衝撃に、比肩しうるのではないだろうか…。それが言い過ぎたとしても、いざ自分の身に降りかかれば「知らねえよ…」では済まされないインパクトを及ぼすことは確かだ。そんな「ド迫力な小ささ」を体感できるのも、また映画なのである。

 

【あなたはコルム?それともパードリック?】

『あなたはボノボ、それともチンパンジー?』みたいになってしまったが、それはともかく…。

本作のダブル主人公である、パードリックとコルム。2人は友達だったのになぜ…というあらすじなわけだが、実はその関係性にはけっこう謎な部分も多い。というのもこの物語が始まる前に、2人が本当にどんな関係だったのかは、回想などでも全く明かされないまま物語が進行していくので、観客としては想像するしかないのである。パードリック視点の言いぶんを信じるとするならば、2人は本当に親友で仲が良かったと言えるのだろうが、それをコルム視点から裏付けるような証拠は何もない。

ただしヒントと言うべきか、本作にかなり重要な文脈を与えていそうな作品がある。マクドナー監督の15年前の映画『ヒットマンズ・レクイエム』(2008)だ。パードリック演じるコリン・ファレルと、コルム演じるブレンダン・グリーソンは、その時もダブル主人公を演じたコンビなのである。『ヒットマンズ・レクイエム』は、ベルギーの古都ブルージュで2人の殺し屋が雑談したり観光したり、酒場やホテルでウダウダ揉めたり、命の危機に陥ったり、自らの取り返しのつかない過ちに向き合ったりする、やや癖は強いものの独特な面白さのある映画だ。そのファレルとグリーソンが醸し出すケミストリーを、マクドナー監督も大いに気に入ったからこそ、15年後にもう一度2人の共演を『イニシェリン島の精霊』でセッティングしたのだろう。

よって『イニシェリン島の精霊』は、『ヒットマンズ・レクイエム』の実質的な続編である…とまで言えば明らかにおかしいが、こうした文脈を監督がわざわざ用意したことを考えれば、2人の間に『ヒットマンズ・レクイエム』を想起するような深い繋がりが、かつては確かに存在した、それなのに……といったん素直に考えるほうが、本作を読み解く上では適切と言えそうだ。

そして本作を観る前は、「なんでパードリックはコルムに急に嫌われちゃったの?」という謎が、物語のメインになるのだろうと考えていた。たぶん映画の後半くらいまではその謎を引っ張るんだろうな〜と。たとえば、実はパードリックが本当に嫌われても仕方ないようなひどいことをしていた…という展開もありうるし、最後まで「なぜ嫌われたか」明らかにならないパターンもあるかも?とか予想していた。だが予想を裏切って「答え」はあっさり、開始数分ほどでコルムの口から明かされる。

パードリックがコルムに急に嫌われちゃった理由とは……要するに「パードリックがつまらない人間だから」という、あまりに身も蓋もない答えであった。つまらない人間とずっと一緒にいて、つまらない話を聞いてきて時間を無駄にしてきたから、今後はお前のようなつまらない人間とは縁を切り、(音楽のように)真の意味で自分や世界にとって価値がある営みに没頭したい、だからもう話しかけるな、とコルムはパードリックに告げるのだ。

………。思わず絶句してしまうほどの身も蓋もなさであり、あんまりといえばあんまりな言い分なのは間違いない。「長年の友人に対してそれはないだろ」とコルムを正論で非難するのも容易い。だが、本作の恐ろしいところは、そんなコルムの「ひどい」考え方に、「あ〜〜〜…わかるかも……」という気持ちも湧いてきてしまうことだ…。

たしかに芸術や創作は、人の人生を変えるような力を持つ、とても大切な人間の営みだ。一方だからこそ、芸術や創作を追求することには、常にシビアさがつきまとう。才能やセンスも不可欠だが、何よりも絶え間ない修練に時間と労力を捧げる覚悟が必要だし、そのための時間は多ければ多いほど、良いものを生む上で「有利」なことも確かだろう。

絶対的な事実として、人生の時間は誰しも限られている。だとすれば、何の役にも立たない上に面白くもない人間関係はさっさと全部「切って」、その時間を真に価値のある営みに費やしたい、というコルムの率直すぎる言葉は、そうした観点からは理解できてしまう…どころか、むしろ「合理的」な態度にさえ思えてきてしまうのだ。

これは私がクリエイター方面に属する人間だからかもしれないが、しかしここでの「芸術」を他の仕事だとか、スポーツとか、学問だとか、何かしら人間の営みの中で「価値のある」とされるものに置き換えたとしても、上記の理屈は成立する。コルムとパードリックの諍いで描かれるのは、初見では「知るかよ…」となるような、あまりに個人的な小さな問題でありながら、同時に極めて射程の広い、普遍的な問題なのだ。

マクドナー監督はインタビューの中で、「日々の暮らしのなかで誰もがコルムであり、またパードリックでもあります」と語っている(パンフレットより)。たしかに、この世に「価値のある」とされる営みがあり、人間がその実現に向けて「合理的」に行動しようとする以上、コルムのような立場にも、パードリックのような立場にも、どんな人でもなりうると言えるのではないか。

「いや〜、パードリックならともかく、自分はコルムではないよ。別に芸術や創作の才能もないし、人を見下せるような能力やセンスもないし。"切られた"ことはあっても、誰かを"切ったり"なんかしないよ」と思う人もいるかもしれない。

だが本作ほど極端な状況ではないとしても、たとえば「こんな面白くもない飲み会、さっさと帰って自分の好きなことをしたいな」くらいのことは、誰しも思ったことがあるだろう。さらに「なんとなく知り合って付き合うようになったけど、一緒にいても正直あまり面白くないんだよな…」「昔からの友人だったけど、久しぶりに会ったら全然気も話も合わなくなってて、なんかガッカリした」などなど、思い当たるフシはないだろうか…?

さらにもっと身近で矮小な、たとえばTwitterのようなSNSを例にとってみると、コルム現象(?)の生々しさがいっそう増す。 なんとなく相互フォローになったはいいけど、正直なんか「ちがうんだよな」と思っちゃったり、発言にじわじわ幻滅したりして、いいねもリプもしなくなったり、フォローを外したり、外すと角が立つからミュートにしたりして、結局なんとなく疎遠になったりとか……そういうことが一度もない、とあなたは言い切れるだろうか…?(書いてて辛くなってきたが。) あまりにささやかではあるが、それでも誰かを「切った」経験には違いない。「切られた」人から見れば、あなたはコルムである。

一応言っておくと、当然ながら人間関係は本人の自由であるし、違和感を覚えたら離れていくのは何一つ悪いことではなく、むしろ望ましいことの方が多いだろう。だが「より良い・価値のある人生のために、誰かを・何かを"切って"いる」という点では、本作の(次第に常軌を逸していくように見える)コルムの振る舞いと、私達の日常のあれこれは、本質的には変わらないと言えるのではないか…。そんな風にまで思わせる、絶妙に普遍的なバランスの物語となっているのだ。ファレル演じるパードリックがまた、「こいつの話、マジでつまんねーんだろうな…」とリアリティを感じさせてくれる佇まいをしてるのも、この嫌に生々しい物語の迫力を増している…。

 

【"芸術のために全てを捧げる"と言うけれど】

一方で本作『イニシェリン島の精霊』は、パードリックを「切ろう」とするコルムの(つい気圧されて納得してしまいそうになる)言葉や考え方を、ただ肯定するような作品では決してない。むしろ、そのいっけん合理的な理屈の影に潜む一種の傲慢さが、いかに恐るべき事態を招くことになるかを、鮮烈な形で描き出してもいる。

コルムはアイルランドの伝統的なバイオリンである「フィドル」を演奏し、作曲してきた経験から、芸術がいかに価値のあるものかを実感したのだろう。人間自身は死んだら消えてしまうが、人の生み出した音楽や絵画や詩のような芸術は、永遠に残るはずだ…とコルムは言う。ここまでは概ね、誰もが同意できることだろう。

だがコルムはさらに、「モーツァルトのことを覚えてる人は大勢いても、その時代の"優しいやつ"を覚えてるやつなんかいない」と、パードリックに言い放つ。「優しさ」のように、音楽や芸術の"価値"のようには、時代を超えて記憶されるような"価値"とは言えないものを、コルムは正面から否定してみせるのだ。その"価値"観から言えばたしかに、パードリックのような「退屈なお人好し」は、コルムの人生から居場所をなくしてしまうのかもしれないが…。

コルムの言う「芸術の永続性」は(映画を含む)創作物の中でも「良きもの」として語られることが多い。たしかに「人が死んでも芸術は残る」ことは、素晴らしいことだ。だがそれを重視するあまり、「いつか死んで忘れ去られるだけの人間なんてどうでもいいから雑に扱って、真に価値のある芸術のみに集中するべきだ」とまで言ってしまうと、雲行きが怪しくなってくる。それは現実に周囲で生きている他人を軽んじる考え方であり、自分自身のことさえ単なる「芸術を生み出すための機械」に変えてしまいかねないのだから…。そもそも芸術は、基本的には生を豊かにするための営みなのだから、そのために他者や自分を踏みにじってしまえば、本末転倒ではないだろうか。

もっと射程を広げてみると、「芸術のために全てを捧げる」と言えば聞こえはいいが、その思想がいくらでも有害なものになりうることは、映画/エンタメファンこそよく知っているはずだ。たとえば、MeToo運動で告発されたプロデューサーのワインスタインであるとか、自分に逆らえない立場の人間を食い物にしてきた映画監督や有名俳優であるとか、やりがい搾取の違法労働で若い才能を使い潰す制作陣であるとか…。そんな蛮行がつい最近まで、いや今も、海外だけでなく日本でも、「芸術」や「エンタメ」の旗印の下で堂々とまかり通っている。

その背景には、「芸術の価値は絶対的な正義だから」「クズみたいな振る舞いでも、良い作品を作りさえすれば良いから」「作品のためには犠牲は仕方ないから」という不文律も大いに影響していたのではないか。「芸術のために全てを捧げる」という美しいフレーズには、業界の腐敗を温存するための免罪符として使われてきた、醜い側面もあるのだ。

少々話を広げすぎたかもしれないし、フォローしておくと本作でコルムは、なにも他人を傷つけたり、弱者を搾取したりするわけではない(むしろそうした醜悪な人間に立ち向かうシーンもあるほどだ)。しかし「芸術のために全てを捧げる」こと、すなわち「何か崇高なもののために周囲の人や自分を犠牲にすること」がもつ危うさや恐ろしさは、本作のコルムの振る舞いを通じて描かれていくことになる。それが最も強烈に現れるのが、中盤のあるショッキングな展開だ。

 

 

ーーー以下、大きめのネタバレ注意ーーー

 

 

【切って、切って、切りまくる】

突然の絶縁を告げられ、自分が「切られた」ことに納得がいかないパードリックは、諦め悪くコルムに関係の回復を持ちかける。それにしびれを切らしたコルムは「これ以上関わってくるようなら、自分の指を切り落としてやる」という恐ろしい警告をパードリックに告げる。予告編でも流れたシーンだが、要は「それくらいお前のことが嫌いだから、もう絶対に話しかけるな」という脅しであると、普通は解釈するだろう。

だがなんと中盤で、なおもしつこくパードリックに食い下がられたコルムは、その「脅し」を実行して、本当に自分の指を切り落としてしまう! パードリックの家の扉に、無造作に投げつけられるコルムの血染めの指…。「おじさんとおじさんが仲違いしちゃった」という小さすぎる話から始まったこともあり、わりとユーモラスな雰囲気にも満ちていた本作が、観客に冷水をぶっかけるようなダークさに転じる衝撃の場面である。さらに、その後…事態はもっと深刻な方向へとエスカレートしていくのだ。

本作を観た人の多くが抱くであろう、最も不条理な謎が、「なぜコルムは指を切り落としたのか」であることは間違いない。そもそもコルムは、音楽に集中したいからこそパードリックに絶縁を告げたはずだ。それなのに、パードリックがしつこいからと言って、演奏のために必要不可欠な指を切り落としてしまっては、まさに本末転倒ではないか…? 

真っ先に思ったのは、この行動はコルムによる「他人への脅し」であると同時に、「自分自身への戒め」なのだろう…ということだ。もしかしたらコルム自身の中にも残っている、パードリック含む他者や世間への未練を、文字通り「切り落とす」意味もあったのではないか…と思った。

そう解釈すれば、この「切断」が、さらにとんでもない方向にエスカレートしていった事態も、ある程度は説明できる。コルムへの怒りと嫉妬に駆られたパードリックが、コルムの音楽活動を邪魔するために意地悪な行動に出る。その後パードリックは、コルムといったん仲直りしかけたことでつい油断したのか、それをポロッと告白してしまう。それを聞いたコルムは、なんと左手の残った指も全て切り落としてしまうのだ…!

いよいよ完全に常軌を逸した行動としか言えないが、コルムのそんな暴挙は、「芸術に全てを捧げる」という誓いを破り、いったんはパードリックに心を許してしまった自分自身への「戒め」のように、もっと言えば「罰」のようにも見えてくる。

この「罰」を理解するためには、コルムが自分自身のことをどのように思っているのかを考える必要がある。コルムは確かに素人離れした腕前をもつ演奏家・作曲家だが、とはいえモーツァルト級の天才かと言えば当然そんなことはなく、作品を残すことに成功したとしても、コルム自身が恐れるように「忘れ去られていく」可能性も十分あるだろう。だからこそ、コルムはパードリックを「切って」まで、「芸術に全てを捧げる」ことを決意したわけだ。

だが「優しさに何の価値がある?」とバカにしていたコルムもまた、パードリックへの優しさや思いやりを完全には捨てきれない。それは、警察官によるひどい暴力からパードリックを助ける場面などからも明らかだろう。そしてパードリックの必死の説得によって(彼のひどい妨害行為に気づくこともなく)いったんは彼に心を再び開き、コルムは「優しさの世界」に帰ってきてしまった…。コルムは、むしろパードリックのことよりも、そんな自分自身が許せなかったのだろう。

…とはいえ、である。やはりフィドルの演奏に身を捧げるために、よりによって指を切り落としてしまうというのは、完全に矛盾して見えるのは確かであり、血まみれの傷が癒えぬうちにパブでフィドルを演奏(指がないので打楽器みたいにしか使えていないが…)し続けるコルムの姿は、狂気の沙汰としか言えない…。本作はコルムの奇行によって、もはや理性的な解釈を許さない突飛な奇作になってしまったのだろうか。

 

【小さな諍いと、大きな戦争】

いや、解釈を諦めるのはまだ早い。ここで重要になってくるのが、本作『イニシェリン島の精霊』の時代設定と社会背景である。具体的には、パードリックとコルムの諍いと並行してそれとなく示唆される「アイルランド内戦」に注目するべきだ。

約700年もの間イギリスに支配されていた(『ウルフウォーカー』でもおなじみですね)アイルランドは、ようやく「アイルランド自由国」の地位を1921年に獲得した。だが、翌年には講和条約の批准を巡って、国内が賛成派と反対派に分裂し、世にいう「アイルランド内戦」が勃発してしまう。1922年4月には、反対派のアイルランド共和軍IRAが首都ダブリンの裁判所を占拠するという大事件も起きた。

本作『イニシェリン島の精霊』では、パードリックがカレンダーを見る場面で、時代設定が1923年であることが明示される。だが並行して起こっているはずのアイルランド内戦の様子は、イニシェリン島と海を挟んだ本土から鳴り響く爆音や煙の様子から、あくまで間接的に示されるのみだ。

しかしそのことがかえって、パードリックとコルムの小さすぎる諍いと、はるかにスケールの大きい歴史的な内戦の間に、どこか相通じるものを感じさせる。なんらかの永続的な価値を求めることから始まり、対立がエスカレートしていく過程で後に引けなくなり、他者も自分も犠牲にすることを余儀なくしているうちに、自分にとって真に大切だったはずのものさえも失ってしまう…。この大きな世界の様々な「争い」を、世にも「小さな物語」として寓話的に描いた作品として本作を見れば、指を切り落とすというコルムのいっけん理解不能・解釈不能な行動も、どこか普遍性を帯びたものに感じられてこないだろうか。

内戦に限らず、歴史の教科書に乗るような、そして今もまさに進行中の「大きな」戦争であっても、元をたどっていけば、その起源はパードリックとコルムの争いのように、とても個人的で私的で「小さな話」から始まるのかもしれない。本作は「個人的なことは政治的なこと」という有名なフレーズをさりげなく、しかし正面から体現してみせる映画と言えるだろう。さらにつなげると、マーティン・スコセッシの金言としてアカデミー賞授賞式でポン・ジュノ監督が引用した「最も個人的なことは、最もクリエイティブなこと」という言葉も思い出した。

こうした創作の本質を捉えた考え方は、コルムがパードリックに告げていた「身近な人間と無駄な時間を過ごしていないで、芸術のように崇高なものに専念すべきだ」という考え方に対する、鋭いカウンターになっていることにも注目したい。

本作『イニシェリン島の精霊』は、それこそ「知らねえよ…」となるような「極めて小さな個人的な諍い」を描きながら、争いの本質という「極めて大きな社会的なテーマ」を捉えてみせる創作物だ。つまりコルムが見下し、距離を置こうとしている「個人的なこと」は、いっけん無駄で無価値なようでも、芸術の核心である「クリエイティブなこと」に直結している。『イニシェリン島の精霊』は作品そのものを通じて、実はコルムの主張に真っ向から反対してみせる、奥深い映画でもあるのではないだろうか。

 

【わくわくどうぶつ映画『イニシェリン島の精霊』】

最後に動物好きとして言っておきたいが、本作は思ってた以上に「どうぶつ映画」だった。大自然に囲まれたイニシェリン島での生活を示すための単なる背景を超えて、動物が物語上でかなり決定的な役割を果たしているという点も、本作の「どうぶつ映画ポイント」を高くしている。ロバ氏も犬氏も演技がうますぎたし、なんらかの賞をあげてほしいものだ。島の日常生活に溶け込んだ馬や牛も、記憶に残る役回りを果たしていた。窓から「どしたの」て感じにパードリックを覗き込む牛とか可愛かったね…。

ただし「わくわくどうぶつ映画」とは言いつつも、特に可愛らしいロバのジェニーに起こる悲劇には悲しい気持ちになったのだが、単なる露悪表現ではなく、必然性がある描写であることは強調しておきたい。個人の小さな諍いがどんどんエスカレートして引っ込みのつかなくなった「争い」が、いかに罪のない弱者を傷つけ、取り返しのつかない惨禍をもたらすかを、鮮烈かつ象徴的に表現した場面である。バリー・コーガンの演じる、風変わりだがどこか憎めない若者ドミニクがたどる悲惨な運命も、イノセントな動物たちの姿と重ねられていたように思えた。

そしてラスト、犬が決定的に重要な役割を果たすことも、「どうぶつ映画」としての価値を高めている。パードリックとコルムの対立はエスカレートを遂げ、もはや取り返しのつかないほど深刻化し、2人の仲が修復されることは決してないのかもしれない。それでも、かつてコルムがバカにしたパードリックの「優しさ」は、たしかに彼の愛犬の命を救った。パードリックはそのことに対する感謝を、素直にコルムに告げる。最後の最後に、真の意味で温かな気持ちに満ちたやりとりが、一瞬だけ2人の間で交わされるのだ。

マクドナー監督の前作『スリー・ビルボード』でも鮮烈に描かれたテーマだが、どこにも出口がないような憎しみの連鎖を和らげ、終わらせることができるのは、やはり誰かの小さな「優しさ」なのかもしれない。たとえ「無価値」と軽視されても、それだけがこの争いの絶えない社会に残った光明なのではないだろうか。

「モーツァルトは記憶されても、"優しいやつ"のことなんて誰も覚えてない」とコルムは言った。その通りかもしれない。それでも、人の"優しさ"が救った犬を間に挟み、海を見つめ続ける2人を捉えた美しいラストシーンを、私たち観客は覚えていることだろう。