沼の見える街

ぬまがさワタリのブログです。すてきな生きもの&映画とかカルチャー。

『ストーナー』読んだ。

  • アメリカの小説『ストーナー』(ジョン・ウィリアムズ著/東江一紀訳)を読んだ。「第一回日本翻訳大賞」の「読者賞」を受賞した小説。海外文学界隈では近頃たいへんな話題になっている作品のようで、私も(一応)翻訳に縁のある身としてずっと気になっていたため、ネットで注文してみた。
  • ちなみに今日も朝から翻訳をしていたのだが、途中でどうにも行き詰まって「やってられるか!」的な気分になってしまい、半ば逃避気味に本作を読み始めたのだった。そしたらもう、とても面白くて、一気に最後まで読んでしまった。
  • とはいえ、物語はひたすら地味。ウィリアム・ストーナーというアメリカ人が、大学に入って、文学を学んで、教師になって、年老いていくだけの話。そんな小説が面白いのか、と思われるだろうが、これがなぜか面白い。映画でも漫画でも娯楽小説でもなく、「文学作品」でしか味わえない面白さだと思う。
  • ドラマチックなことは何も起こらず、あくまで淡々とストーナーの人生が描かれていく。ささいな幸せや不幸に一喜一憂しているうちに、特に何かを成し遂げることもなく、ただ人生の時間だけが過ぎていく。その時間を、ストーナーという男の視点で共有するという、本当にそれだけの物語なのに、なぜだか読むのをやめられず、最後には言葉にならないような感動が訪れる。すごい作品だった。
  • アメリカで『ストーナー』が刊行されたのは、今から50年前の1965年。当時はたいした評価もされないままに忘れ去られていったが、なぜかつい最近になって、フランス等のヨーロッパで「発掘」され、再評価が進み大ブレイクした。
  • ストーナー』の日本語訳を手がけた東江一紀氏は、闘病生活のなかでほとんど最後まで本作を訳し終えていたのだが、ラスト1ページを残して今年亡くなった。氏の逝去は残念なこととはいえ、このエピソードが奇妙に作品のテーマと呼応しているように思えて、いっそうグッときてしまう。
  • 「すぐに忘れられてしまうような、なんてことのない男の人生」を描いた小説が、50年の時を経て現代によみがえり、遠くの日本という国でも翻訳され、翻訳者は惜しくも亡くなったものの、その小説が同じ年にできた「翻訳大賞」を受賞し、さらに広く読まれるようになってきている…という、この一連の流れに、しみじみと心を打たれる。
  • 具体的な内容について語りたいんだけど、どこから話したものか…う〜ん。とりあえず、勢いで英語版kindleで買ってしまったので、作中でいちばん好きな段落を原文と一緒に引用させていただきます。なんとなく雰囲気が伝わるといいのですが。ちなみに終盤の第16章より抜粋(和書293ページ)。

ふたりは夜中まで、旧友どうしのように話した。ストーナーは娘が、その言葉どおり、絶望に寄り添いながら、幸せに近い生活を送っていることを受け入れた。この先も、年々少しずつ酒量を増やしながら、穏やかな気持ちでがらんどうの人生に沈み込んでいくことだろう。父親として、少なくともグレースがその道にたどり着いたことを喜び、娘が酒を飲めるという事実を寿(ことほ)いだ。 

They talked late into the night, as if they were old friends. And Stoner came to realize that she was, as she had said, almost happy with her despair; she would live her days out quietly, drinking a little more, year by year, numbing herself against the nothingness her life had become. He was glad she had that, at least; he was grateful that she could drink.

  • ちょっとネタバレ注意で解説すると、ストーナーの一人娘であるグレースは若くして「できっちゃった結婚」をしたんだけど、その相手がすぐに戦争で死んじゃったんですね。なので未亡人になったグレースは、夫の両親と残された子供と一緒に慎ましく暮らしていた。でもやっぱり悲しみはグレースの中に深く根を張っていて、若干アル中気味になってしまっている。上述の引用部分は、そんな娘の悲しみの声に耳を傾けるストーナーの心情を描いているところなわけですが…。この箇所、本当に好きなんですよね…。
  • ここの良さをどう説明したものか…。客観的に見れば、夫を失って、アル中にもなっちゃって、グレースの人生はわかりやすいくらいに不幸なわけですよね。そんな不幸な娘に対する、というよりは「人生の不幸そのもの」に対する、ストーナーの限りなく優しい眼差しがとても好きです。「少しずつ酒量が増えていくだろう」という、ずしりと重い悲観も、「娘が酒を飲める」事実として「寿(ことほ)ぐ」っていう、この…。人間の深い哀しみを、もっと深い優しさで包みこむ、この豊かさ…。これですよ。これが文学の存在意義ですよ。ほんとに。
  • …せっかくなので少し翻訳の話も。『ストーナー』は全体的にすごく平易な英語が用いられているようで、現に上記の引用部分にも難しい単語はほぼゼロです。しかし(以前の『マッドマックス』の字幕の話とも通じるけど)だからと言って翻訳が簡単ということには決してなりません。平易な言葉使いだからこそ、ただ機械的に訳すだけでは、味もそっけもない単調で幼稚な文章になってしまう。その点、さすが「翻訳大賞」受賞作というべきか、(素人に毛が生えたレベルの私が言うのもなんですが)上記の訳は完璧の一言でしょう。
  • あくまでシンプルな言葉を選び、語順を適切に変えて読みやすさに配慮する一方で、原文のしみじみとした悲しさと優しさを損なうことなく、風格のある美しい文章に訳しあげている。まさにプロ中のプロの仕事だと思います。
  • 特に見事だと感じたのは "numbing herself against the nothingness her life had become"を「がらんどうの人生に沈み込んでいく」と訳した点。「numb」という動詞、私も知りませんでしたが、「麻痺する(させる)」という意味なんですね。該当部分は雑に直訳すると「人生の無価値さに対して自分自身を麻痺させる」みたいな意味になるはずですが、それを「がらんどうの人生に沈み込んでいく」と意訳するとは…。どれほどの研鑽を積めばここまで素晴らしい訳ができるというのか。しびれます。
  • 語り足りませんが、遅いのと長いのでもう終わりたいと思います。こんな素晴らしい作品に出会わせてくれた「翻訳大賞」に感謝ですね。翻訳という行為に対する希望が静かに湧いてくるような作品でもありました。というわけで私も頑張ろうと思います(英語じゃないけど)…。雑なまとめでした。ではまた。