沼の見える街

ぬまがさワタリのブログです。すてきな生きもの&映画とかカルチャー。

ゴルフ場の人食いザメ「オオメジロザメ」図解

「ゴルフ場の人食いザメ」こと「オオメジロザメ」のお話を図解しました。流れ次第では近所にやってくる…かもしれない。

TwitterにALT文章あり↓

ちなみに「ゴルフ場の人食いザメ」と呼ばれたサメたちですが、人に危害を加えることもなく愛され名物サメになり、その多くは再び洪水が起こった時にまた去っていったのだとか。ただし1匹、不届き者に盗まれてしまったらしい…。ゆるせぬ。

↓「ゴルフ場の人食いザメ」に関する最近のNYタイムズ記事(ギフトにしとくので興味あれば読んで)。ゴルフ場に閉じ込められたオオメジロザメの特殊なケースは、サメの寿命や適応能力を知りたい科学者にも恩恵を与えたもよう。ゴルフ場もサメで人気が出たのでわりと得したっぽい。

t.co

↓図解中でふれた「黒潮大蛇行」も調べてたのだが、ちょうど先日行ったばかりの「海」展でも詳しく解説されていて、タイムリーだなと思った。今週は海ウィークだったわ(9月後半だけど)

numagasablog.com

↓ナショジオのオオメジロザメ図鑑。

natgeo.nikkeibp.co.jp

オオメジロザメの河川での生息メカニズム、東大の研究。

www.aori.u-tokyo.ac.jp

↓日本で発見されたオオメジロザメと「黒潮大蛇行」の影響。

bunshun.jp

↓大阪湾で発見されたイタチザメ。

ja-jp.facebook.com

↓サメの話をする時に読み返す『世界サメ図鑑』。

世界サメ図鑑

世界サメ図鑑

Amazon

 

科博の特別展「海 ―生命のみなもと―」行ったよレポート

上野の国立科学博物館の特別展「海 ―生命のみなもと―」に行ったので簡単なレポートです。

umiten2023.jp

科博の特別展は必ず行くようにしてるが、夏の特別展は夏休み(絶対混む)ともろ被りしているため、油断してると終わってた!ということにもなりがち。意外ともうあと数週間なので動物勢はお早めに〜

 

まずは最も広いメイン展示場で、来場客を飲み込まんとする実物大メガマウス!

メガマウスは50年前くらいにハワイ沖で発見された深海ザメ。体長7mもの巨体をもち、深海ザメとはいえ比較的浅い水深(200mとか)に生息し、夜には海面に浮上してくることも考えると、わりと最近まで見つからなかったのは意外な気もしてくる。

ただ、個体数の少なさもあって、生きた姿が目撃されることは極めて珍しい。最近では2匹の生きたメガマウスが水面を泳ぐ姿がサンディエゴ沖で撮影されたニュースも。しかもオス/メスで求愛行動をしていると思われ、メガマウスの社会的な生活を捉えた現状ほぼ唯一といっていい貴重な映像資料となりそう。

t.co

ちなみにこの実物大メガマウス、元は神奈川の京急油壺マリンパーク(21年に閉館…)に展示されていたメガマウスを持ってきたとのこと。閉館は残念だが、再び日の目を見てよかった。ヤスリのような小さな歯もちゃんと再現されていて良い模型。「がまぐち」って感じね。

実物大サメといえば、ホホジロザメもいるよ。

人食いザメとしてのキャラが立ちすぎてるサメゆえに、意外とサイズで語られない気もするけど、実物大で見るとやっぱ超でかいよねホホジロザメ。250m以深まで潜って獲物を探すらしい(と考えるとやっぱメガマウスはいうほど深海ザメでもない感じもしてくる)

 

メイン展示場のもうひとりの主役、ナガスクジラ。

科博名物、半分は骨格の(人体模型ならぬ)鯨体模型となっていて、ナガスクジラの骨格の様子がよくわかる。大量の小魚やプランクトンをこし取って食べるために舌骨が発達しているそうだ。実物大の骨を眺めながら、そういえばゼルダ新作でもクジラの骨を巡るイベントあったな〜とか思い出した。

展示にあった「ホエールポンプ」という解説も興味深い概念。クジラの息継ぎと餌取りの上下移動(ポンプ)が起こす「湧昇流」によって、海の生態系を担うプランクトンが栄養を得ていたりする。つまりクジラの「ポンプ」が海洋生態系を支えているという話。私たち人類は水平思考がどうとか言いつつ、空でも海でも(自力では)立体的に活動しづらい肉体をもつこともあり、「縦方向」の思考に弱すぎるよなとは前から思っているので、クジラに学ぶべきことは多いかもしれない。

 

メイン展示場では「親潮」と「黒潮」という日本周辺の2大海流を軸にして、様々な生き物や生態系を紹介していた。

今回の「海 ―生命のみなもと―」展は、「海の生き物の展示」であると同時に、やはり「海」そのものの展示としての側面も強いのが興味深いところ。ホエールポンプのような「縦軸=垂直」の海の動きと、海流のような「横軸=水平」の海の動きを、あわせて紹介することで、海のあり方を3D的・立体的に理解してもらおうというコンセプトなんだと思う。

実際、海流そのものを解説する展示もあった。

ちょうどワケあって調べてた「黒潮大蛇行」のコーナーも見つけて、タイムリーだった(どのように蛇行が発生するかを説明する動画もあって勉強になる)。世界でも黒潮だけに見られる「海の大事件」で、2017年から始まって5年以上も続いていて…とあったが普通に今年も続行しており(過去最長の7年目)、漁業や気候など多方面に大きな影響をもたらしている。

t.co

海そのものの展示といえば、特別展の冒頭も、熱水噴出にまつわる特集でけっこう見応えがある。最も心をくすぐったワード「ロストシティのチムニー」。チム・チム・チェリーのチムニー(煙突)である。

現在の地球で唯一アルカリ性の熱水噴出が発見された、大西洋の海底「ロストシティ熱水域」の炭酸塩チムニー(煙突)。海底熱水といえば酸性で、黒い硫化物を沈殿させるもの…という知見を覆したという。真っ白の煙突が並ぶ「失われた海底都市」…。ロマンである。

ちなみにチムニー、抱きまくらぬいぐるみもある(茶色いけど)。唯一無二すぎるだろ

 

他にも、生き物と海の関わりについて、見どころが色々あるのでぜひ学んでほしい。

たとえばキーストーン(=要石)種の代表格として紹介されるラッコ。ラッコを再導入したらウニを食べまくってケルプ生態系が回復した話は有名。

このへんのことは前にも図解した。

 

もうひとつ、意外と面白かったのが「人類と海」の歴史。

旧石器時代にどうやって人類が海を超えたのかの謎を解こうと、石器時代に手に入る材料や道具のみを使って作った舟で、実際に台湾〜与那国島を渡ったというからスゴイ。地図もコンパスも使わずに星や太陽だけを頼りにした航海は、45時間くらいかかったらしい。

あと、かなり地味だが興味深かったコーナーが「貝塚」の中身をずらっと並べた展示。

貝殻の多くに稚貝が含まれておらず、貝の利用の持続可能性をけっこう考えていたんじゃないかという話もあって縄文人に感心。このままでは海洋資源を取りまくって滅ぼしかけてる現代人が縄文人より格段にアホになってしまう。

縄文人が利用していた様々な動物の骨などもあってワクワクしちゃう。ブダイやイシダイの硬いユニークな歯も、そりゃ見つけたら何かしら使うよね〜という感じで、こいつらわかってるな(何目線)と。よくみるとシャチの歯とかあるし。わざわざ狩ったわけではない…よね?

気になった魚・ヨコヅナイワシ。2.5mのイワシってどんだけだよ、と思うが、正確にはイワシの仲間ではなく、セキトリイワシという別の仲間の最大級サイズ。

ぬいぐるみもある。かわいい

こんなにイワシのぬいぐるみが充実してるのは海展だけ!

ハダカイワシ…!

 

図録も相変わらず充実してるので生き物勢は忘れずにね。フルカラー200p専門家がっつり監修で2600円は安いぞ。まじでな

 

余談:せっかく上野に行ったのでアメ横に寄って、隠れ家的なカフェ「御影ダンケ」に入ってみた。アメ横の喧騒の中にこんな昔ながらの喫茶店が…という驚きがある。「わちふぃーるど」とピーターラビットが同居する味わい深い空間でした。

 

カブトガニ&ルンバ(『ロボットはなぜ生き物に似てしまうのか』)

『ロボットはなぜ生き物に似てしまうのか』という本を読んだのだが、カブトガニとルンバが似ているという話が面白かった。こういう能力/機能をもつ存在を生み出せと言われたら、自然も人間も同じような「答え」に行き着くという例かもしれない…。

『ロボットはなぜ生き物に似てしまうのか 工学に立ちはだかる「究極の力学構造」』、面白いどうぶつ&工学本なのでぜひ。人工的に真似しようと思ってもできない生命の特殊性と、工学の可能性について考える本。電子版が半額になっている(たぶん本日9/7まで)。kindle unlimitedにもあるよ。

『ロボットはなぜ生き物に似てしまうのか』はロボット工学者による本なのだが、そもそも魚や鳥のような「元ネタ」を知らなければ、「泳ぐ」「飛ぶ」機械を作るという発想に至らなかった可能性もある、と語ってて興味深い。「模倣」以前に、私たちの発想そのものが実は他の生命に規定されているのかもと。

さらに言えば、「人間=私たち自身」という「モデル動物」がいなければ、人間の脚や腕によく似たパーツを連結したロボット(ショベルカーや産業用ロボットなど)の、基本的なメカニズムに至ることは難しかっただろうとも語られる。多くの人工物が、思われている以上に動物や人間に似ているのかも…。

『ロボットはなぜ生き物に似てしまうのか』、動力を追求するロボット設計者にとって究極の憧れでもある部位、それは「筋肉」である…という話も面白い。筋肉は「生き物の体を駆動させるモータ」であり、大きな制御装置や電源も不要、体の隅々に配置できるという、夢のようなアクチュエータ(動力源)とのこと。人工筋肉もあるけど生物の筋肉とはまだ似て非なるものなんだよね。

一方で、『ロボットはなぜ生き物に似てしまうのか』で「おお…」となった箇所(p256)。

①血管という精密なパイプ、②DNAによる複製という、2大「工学者が憧れる生き物ならではの機能」が、実はガンや心疾患など日本人の死因トップ3とも対応してるという事実。最大の強みが最大の弱点でもあるという洞察が光る。面白い本なのでセール中にでも読んでみてね。

おまけ ↓うちのカブトガニちゃん

特別展「古代メキシコ」たのしかったよレポート

先日、上野の東京国立博物館の特別展「古代メキシコ」に行ってきた。かなり面白かったので簡単に思い出を振り返る。東京では9月3日で終わってしまうのであと1週間くらいしかないが…

mexico2023.exhibit.jp

ちなみに写真撮影はほぼぜんぶOKだった。今時っぽいというか、まぁ海外では博物館で写真NGとかあまり見かけないわけで、日本もデフォルトでこうあってほしい。

展示を眺めてて思ったのは、古代メキシコ、かなり「鳥」好きだったのかなということ。(私が鳥好きだから目に付きやすいだけかもだが。)

まずは展示の目玉のひとつ、アステカ文明のサギ男…ではなく「ワシの戦士像」。戦闘や宗教で活躍した軍人の像のようで、ワシの羽や頭をその身にまとっている。膝(脛か)にワシの鉤爪がにゅっと生えてるデザインもかなり独特。↓

テオティワカン文明の鳥形土器もあった。「奇抜なアヒル」(Pato Locoなら"いかれたアヒル"のほうが適切かもだが…)と名付けられただけあり、ファンキーな雰囲気で面白い。こういうトサカのある水鳥を全然思いつかないが、何か具体的なモデルがいたのだろうか…。↓

同じくテオティワカン文明の香炉。鳥のモチーフがいくつか埋め込まれている(ちょっとゼルダっぽいよね)。戦士の魂を鎮める儀礼に使ったのかも、と解説にあった。↓

テオティワカン文明の「鏡の裏」に貼られた、羽を広げたフクロウの装飾。「投槍フクロウ」と呼ばれていた王を描いた可能性がある。投槍=「とうそう」だが、「なげやりフクロウ」と読むとちょっとおもしろい…↓

マヤ文明にもフクロウの土器があった。フクロウは死を預言する地下世界の使者だったらしい。ひょこっと頭出しててカワイイ…

いっしょに展示されていたマヤ文明のジャガー容器。ジャガーは権威の象徴で、不思議な力をもつとされた動物。なんともいえない顔をしている。↓

同じくマヤ文明のクモザル容器。クモザルはトリックスターとして神話に登場した。黒曜石の目が少しこわいね。

鳥といえば、アステカ文明の「エエカトル神像」はいちばん「うお、なんだこりゃ」と思った一品。風を意味する名で、生と豊穣を司る神らしい。いっけん体育座りしてる坊主だが、カワウやペリカン、クイナなどに似てると言われるクチバシっぽい口がついている特徴。クチバシを加えた結果、不思議な面長っぽい顔になってて、虚ろな目の感じといい、奇妙に不気味で強烈な像だ…。↓

やはり鳥は古代メキシコ文明全体でけっこう重要かつ神聖な動物だったのかも。テオティワカンの「羽毛の蛇」像(アステカ文明でいうケツァルコアトルに近い特徴をもつ)なども、「羽毛のある爬虫類」という意味では鳥を連想せざるをえないし。

しかしジャガーやサルなど元ネタ動物がわかりやすい古代メキシコ文明の神話的動物の中でも、急にイマジナリー度が急増する「羽毛の蛇」は妙にロマンがある。東洋の龍との共通点も興味深い。やっぱ昔は龍がいたんだろうか…(非科学)

 

鳥以外で心に残った展示物。

人身供犠が盛んだったアステカ文明の「テクパトル」と呼ばれる儀礼用ナイフ。生贄用のわりに目と口(歯)がついていてちょっと可愛い。キュートな顔して生き血を吸ってきたのだろうか(多くは使われた痕跡ないらしいけど)。ちをよこせ!!

アステカ文明の夏祭りの屋台で、焼きとうもろこしを売っていた人。…ではなく「熟したとうもろこしの女神」チコメアトル神の香炉。わりとニッチな神がいたのだな。それだけとうもろこしが重要な食物だったということでもある。

けっこうお気に入り、マヤ文明の「球技をする人の土偶」。腰でゴムボールを打つという面白げな球技に、王侯貴族が励んでいたらしいのだが、その姿をかたどった像(腰の入れ方がアクティブで良い)。戦争や人身供犠にも関連したそうなので、やってる方は真剣だったのだろう…。

 

図録もよくできてるのでオススメ。180度ぱたっと開く製本で読みやすい。表紙が3パターンあったので、サギ男…じゃなくてワシ男にしておいた。

特別展のムック本とかも出てる。せっかくだし図録買えば良いと思うけど一応↓

国立博物館自体も久々に行った気がする。ついでなので常設展もちょっとだけ見て回った。建物もやっぱよくて、この睡蓮の池とか綺麗だったな。

またそのうちゆっくり過ごしたい。おしまい。あと1週間で終わるので早く行こうね(混みそうだが…)

mexico2023.exhibit.jp

鳥山明の良いとこ全部のせ。映画『SAND LAND』感想&レビュー

「有名漫画家が描いた1巻完結の面白い漫画」の天下一武道会を開催したら、間違いなく優勝候補の一角を担うであろう漫画…それが『SAND LAND』(2000)である。

【1巻完結漫画の金字塔『SAND LAND』】

本作は『ドラゴンボール』完結から5年後の2000年に、短期集中連載としてジャンプに掲載されていた漫画だ。個人的にもほぼリアルタイムで読むことができた、唯一の鳥山明作品として思い入れが深い。

内容をざっくり説明すると、愚かで強欲な人間の手によって砂漠と化した世界「サンドランド」で、悪魔の王子ベルゼブブと、善良だがワケありな老人ラオが出会い、魔物シーフをお供に連れて、水を求めて冒険の旅に出る…という物語だ。

まず、少年漫画なのにおじいさんが主人公という設定が当時でも斬新で、「そんなのアリなんだ」と思ったことを覚えている(今なら例えばイーストウッドの映画『許されざる者』とか色んな参照元を思いつくのだが)。

ぱらぱら眺めるだけでわかるように、絵のクオリティも極めて高い。鳥山明らしいメカやクリーチャーのデザインや描き込みもさすがの一言で、『ドラゴンボール』完結後に円熟の域に達した氏の画力を堪能することができる。あまりの人気で長期連載化しすぎた『ドラゴンボール』から解放され、好きな題材をのびのびと描いている巨匠の余裕や遊び心に満ちた感覚も伝わってくる。しかし後で知ったことだが、この作画クオリティを、アシスタントも使わず1人で(短期とは言え)週刊連載として成立させていたとは、やはり化け物である…。

ストーリーの切れ味も見事だ。「砂漠の世界で水を求めて旅に出る」という極めてシンプルな物語を軸に、テンポよく次々に起こるアクシデントの数々、無駄を削ぎ落としたキャラクター配置と、とにかく圧倒的に読みやすい。そのエンタメのお手本のような明快さは、鳥山明のストーリーテラーとしての高い技能を証明している。

「砂漠化した世界を舞台に、資源を独占する横暴な権力者に立ち向かう」という物語自体も全く古びてないどころか、むしろ気候危機と格差が深刻な現代にこそ刺さっていると思う。本作で描かれる不平等の構図は、(化石燃料業界を筆頭に)大金持ちや権力者が資源を独占し、エネルギー供給の手段を掌握することで、支配力を維持しようとする現実の構図そのものだ。そしてその結果、地球温暖化の進行は一向に止まることがない。異常気象や火災の発生はニュースで知られるところだし、文字通り「砂漠化」の進行が懸念される地域も多い。

『SAND LAND』はあくまで少年漫画誌に掲載された王道のエンタメ作品ではあるが、だからこそというべきか、現実社会の支配や不平等の構造を、鳥山明という天才的クリエイターが(意識的かはともかく)鋭敏にすくい取っていたことに感銘を受けてしまう。

ところで『SAND LAND』の砂まみれの世界観といい、シンプルな「行きて帰りし物語」といい、横暴な支配者に抗う気骨といい、やはり『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)を想起する映画ファンも多いのではないかと思う。まぁ『マッドマックス』1作めは1979年なので、むしろ本シリーズが鳥山明に影響を与えている可能性も大きいわけだが、とはいえあの映画史に残る大傑作『怒りのデス・ロード』の15年前に、日本の漫画家が近い発想の名作を仕上げていたと思うと、ちょっと嬉しくなる。

 

【晴れて(まさかの)映画化】

そんな名作マンガ『SAND LAND』が、このたびまさかのアニメ映画化を遂げたという。そもそもゲームの企画だったのだが(それもだいぶ思い切ったな)、長編アニメとして作らないかという東宝側の提案もあって、めでたく制作の運びとなったようだ。とはいえ23年のマンガだし、ファンとしては「どうなるんだろ…」とちょっと心配しつつも劇場に駆けつけた。その結果…

たいへん楽しむことができた。原作コミックに思い入れが深い者としても、大いに満足できるアニメ化だったし、(ファンの贔屓目もあるかもだが)2023年の完全新作として出されても遜色ない出来栄えだったと思う。そして映画館で鑑賞して改めて感じたが、明快で痛快な活劇の面白さといい、人間臭く愛おしいキャラ造形といい、シンプルで力強い台詞回しといい、意外なほどきめ細やかなディテールの詰め方といい、とにかく鳥山明の良いところが全部出ている作品だなと思わされた。

原作のストーリーはほぼそのままだが、細かいところをけっこう足したり削ったり変えたりして、106分のエンタメ映画として成立するよう上手く仕上げている。

たとえば冒頭、魔物たちが軍の車を襲うシーン。原作では主人公(のひとり)ベルゼブブの視点だったが、映画では車の運転手たちのやりとりから始め、そこを魔物に急襲されるという形で、ホラー映画っぽいテイストに変更していた。この世界では悪魔や魔物が人間に恐れられている…という(重要なはずだが実は原作にはなかった)要素をうまく織り込んでいて、巧みな改変だったと思う。

もうひとりの主人公である、おじいさんの保安官ラオが町の人たちに助けを求められ、自分がなんとかすると約束して出発する様子を入れたのも適切な補足だろう。というかその後原作を読み返すとベルゼブブのもとにいきなりラオが出現するので、よく言えば爆速テンポだが、ちょっと唐突と言えば唐突にも感じられる。

他にも、ベルゼブブの父サタンがラオを指していう台詞が「あの人間は信用できそうだ」から「あの人間は興味深い」という、意味は同じかもしれないがより悪魔っぽい台詞に変わっていたり、終盤で活用される映画オリジナルアイテム「クソサボテン」が登場したり(中盤のラオの行動が伏線にもなる)と、地味に細やかな変更を見ることができる。

序盤の最大の見どころである、砂漠の猛獣「ゲジ竜」とのバトルも、スクリーンで見るとかなりの迫力があった。(ゲジ竜はよく見ると原作より足の数が多かったり、デザイン面での変更もある。)荷物を切り離してゲジ竜から逃れるくだりも、巨大な穴を車でジャンプするアクションに変更されていて、外連味が増していたと思う。

序盤のゲジ竜戦といい、それに続く様々なシチュエーションでの乗り物バトルといい、きっちりスリリングに楽しませてくれるアクションが続くのも本作の見どころだ。ベルゼブブが最強クラスの魔物にもかかわらず、一貫して緊張感を持続できているのも地味に凄い気がする。ベルゼブブは圧倒的に強い魔物なのだが、とはいえせいぜい腕力や五感が人間より格段に優れている…という程度ではあり、無敵や万能というほどではない(ゲジ竜を倒したり戦車に穴を開けたりはできない)…というバランスがいい感じに働いている。この「無敵ではないがとても強い」身体能力を、老人ラオの百戦錬磨の知恵と組み合わせて危機に立ち向かっていく、という意外と知的な楽しさもある。

具体的なネタバレはしないでおくが、中盤から終盤にかけてのアクションは、ボリューム的な意味で大幅にパワーアップしているので、原作ファンも嬉しくなるはずだ。(映画の後に原作を読むとちょっと地味であっさりしすぎに感じるほどかもしれない。)

 

ーーー以下ネタバレ、作品の核心部分に触れるので注意ーーー

 

【後悔と贖罪】

このたび『SAND LAND』を劇場で見て、改めて心打たれたシーンがあった。それは、「他者への偏見が大惨事に繋がったこと」への後悔と贖罪が正面から描かれることだ。ラオの正体は、実は伝説のサバ将軍であり、「破壊兵器」を作っていたとされる民族を攻撃した際に起こった爆発事故で死亡したと思われていた。しかしラオは魔物シーフの口から、その爆発事故の衝撃の真相を告げられる。実はラオが攻撃を命じられた民族が作っていたのは「破壊兵器」ではなく「水をつくる装置」であり、水を独占するために彼らが邪魔だったゼウ大将軍が、ラオを騙して攻撃させた…とわかったのである。

権力が煽った憎悪によって、他者への偏見が増幅され、結果として大虐殺を起こしてしまったという「罪」を突きつけられ、ラオは「本当の悪魔は、俺の方じゃないか…」と絶句する。この台詞は映画オリジナルで付け足されたもので、ベタな言い回しではあるのだが、本作のテーマを考えれば極めてまっとうで、かつ重たい言葉だと言うほかない。前半で「人間による魔物への偏見」「魔物や悪魔よりも悪いかもしれない人の業」を(コミカルにではあるが)語っていたことも、良い具合に伏線となっている。

基本的にドライな作風で、登場人物がそれほど深く苦悩したりしない鳥山明作品の中では意外なほど珍しい、取り返しの付かない過ちを犯した男のヘビーな後悔と贖罪に対して、この映画版は的確にスポットライトを当ててみせる。ここをしっかり描くことで、後にラオが大将軍に告げる「お前だけは絶対に許さない」という言葉が、格段の重みを放つことになるのだ。

そして本来であれば、本作のような気軽なエンタメ映画に紐づけて話題にしたいことでもないのだが、まさに偏見や差別によって引き起こされた虐殺を省みないことが政治的な常套手段になってしまっている今の日本では、こうしたド直球かつ王道の少年漫画的メッセージですら大事にしないといけない状況と言わざるを得ない…。

日本に限らずとも、「兵器を作っている」という大義名分で虐殺に駆り出された人間の後悔を描くストーリーを、「大量破壊兵器」を口実としたイラク戦争が起きる3年前に描いていたという事実もけっこうスゴイ気がする。もちろん鳥山明がこうした具体的な事象を意識して『SAND LAND』を作ったとは思わないが、これも先述した環境問題と同じで、普遍的で強度の高いエンタメを作り出そうとすれば、必然的に現実社会の様々な問題を突くような鋭さが生じてしまうこともある…ということだろう。

 

【あえて言えば…な弱点】

そんなわけで大いに楽しんだ『SAND LAND』だし、物語自体は今も全く古びてない…とは思うものの、まぁ本当に2023年の新作として見た場合、気になる点が全然ないというわけではない。真っ先に浮かぶのは、キャラクターが(おじいさんに偏ってるのは全然いいと思うが)男に偏りすぎ問題かもしれない。原作を知らない人が見たら「なんで主要キャラが男ばっかりなんだ?」とちょっと不自然に感じてしまうのではないか。

まぁ23年前の(そもそも全体的にホモソーシャル的な)ジャンプ漫画に現代エンタメ並のジェンダーバランスを求めるのは酷だろうし、映画化で変えるわけにもいかなかっただろう。ただ、もし今の鳥山明が『SAND LAND』のような話を描くなら、アレ将軍か、無理ならサタンあたりの立ち位置のキャラを女性にすることで(お母さんに頭が上がらないベルゼもかわいいんじゃね)、バランスを取ったんじゃないかとも想像する。…ということをTwitterで書いたら「原作のキャラを女性に改変しろというのか、行き過ぎたポリコレだ〜」みたいなつまらないクソリプが届いたが、誰も改変しろとは言ってない。いくら『SAND LAND』が名作とはいえ、2023年の最新作として見た場合は多少古びたり不自然になっているところもある、という当然の話をしている。

さらに言えば、結末もちょっと煮えきらない部分もなくはない。ここまで権力打倒の物語をまっとうにやりきったなら、もう王制そのものも打倒しちゃえば?とは言いたくなってしまう。邪悪な大将軍を追放したのはいいが、あの無能で愚かな王自体は権力の座にとどまり続けるんか〜い、という点でやや拍子抜けするのは確かだ。とはいえ、王制への謎の執着はディズニー作品とかにも同じことが言えるし、まぁ魔物とか悪魔とかいるドラクエ世界観だし、そこは童話的なお約束というか、深く突っ込むことはしないでおこう…。

また原作マンガ→アニメの改変ポイントはほぼ文句ないものの、いくつかの場面では鳥山明独特の味わいが少々抜けていたようにも感じた。たとえば、ラオの実力と人格を認め、過去の過ちに気づいたアレ将軍が、密かに国王や大将軍を裏切り、無線を使ってラオたちに王の泉の場所を教えるシーン。原作ではアレ将軍が「実は泉はあそこにあるんだよな〜」的な「ひとりごと」を言うことで、ラオに情報を伝えるというシーンなのだが、映画では「他の戦車に報告すると見せかけて、ラオに情報を届ける」という形に改変されていた。ぶっちゃけ明らかに映画の展開のほうが自然ではあるし、たいへん適切な改変だとは思う。ただ真面目なアレ将軍が異様にくだけたわざとらしい口調でラオに情報を伝えてくれる原作シーンの面白さ(『カリオストロの城』の銭形の「どうしよう??」の良さにも通じる)が、いかにも鳥山明らしい人間臭さに満ちた、本作屈指の好きな場面だったので、ファン的にはちょっと残念ではあった。

あと全体に、コミック1冊の内容を映画用に膨らませた内容であるため、やや冗長に感じる部分もなくはなかった。戦車戦やクライマックスの闘いも含めて、「膨らませた」部分もよくできてはいるのだが、すごく面白いとまで言ってしまうと原作ファンの贔屓目になりそうだ。熱心なファンは「蛇足」「贅肉」と感じる人もいるかもしれない。まぁ原作そのままのテンポと内容でやるとたぶん1時間くらいで終わってしまう話ではあるので、しょうがないところではある。

 

【『SAND LAND』のまっとうさ】

そんなわけで(大抵の面白かった映画同様)気になる部分が皆無ではなかったが、映画『SAND LAND』は、改めて鳥山明のストーリーテリングやキャラ造形の才能を実感するという意味では、これ以上ない機会といえる。「鳥山明を体感せよ」というコピーには何の偽りもないと言って良いだろう。本作が2000年に出た原作漫画の23年越しの映画化であることを思うと、むしろこんなにきっちり1本の独立したエンタメとしてまとめ上げた近年の日本アニメ映画をほとんど思いつかないことに、多少の危機感を覚えるほどだ。

もっと言えば『SAND LAND』が証明してるのは、主人公チームの3分の2がおじいさんで、女子高生もイケメンも出ず、キャラ造形がそれほど華やかでなくても、ストーリーやアクションが良くできてさえいれば、完全に良い映画になるということだ。『君たちはどう生きるか』もその観点から言って凄かったが、今時そんな企画は鳥山明や宮崎駿レベルの知名度がなければ実現困難、というならそれはそれで複雑な気持ちになる…。

そして先述したように、へたに捻ったり逆張りしたりせずに、王道のエンタメを突き詰めた本作が、テーマの面でも現代の日本社会や世界に深く刺さってしまっていることは特筆すべきだろう(少年漫画の勧善懲悪がそのまま刺さる現実世界がどうなんだよという話ではあるのだが…)。変に「正しさ」に逆張りしたせいで結局なにが言いたいのかよくわからなくなってしまったり、むしろ権力や多数派に都合の良い考えに追随してしまうような作品も沢山ある中で、本作の筋の通ったまっとうさには、今時珍しいほどの清々しさを感じずにはいられなかった。そうした真摯な物語を、あくまで(砂漠だけに)カラッとした鳥山明節で仕上げていることも感銘を受けてしまう。エモや情緒や泣かせに頼り過ぎな昨今の制作陣は見習ってほしい。

なんにせよ映画『SAND LAND』、今年の日本アニメ屈指の快作であることは間違いないので、残念ながら客入りは微妙とかいう話も聞くが(見る目ないぜ)、日本のアニメ好きは確実に劇場で観といたほうがいいよ。おわり。

原作も電子版とか出てるので読もうね。

ドラゴンボール以降の鳥山作品つながりで『COWA!』も読んでみたが、こっちもしみじみ良かった…。マコリン…

ハヤカワのオススメ本12冊+α

ハヤカワの本が好きで、面白かった本をよくオススメしてるのだが、セールのたびにいちいち紹介するのも面倒なので、広くオススメできそうな本をまとめておく。

ちなみにハヤカワといえばSFの印象があるだろうが、私はけっこうノンフィクションに偏っているので、単純に面白かった本をフィクション/ノンフィクション問わずごちゃまぜで紹介したい。タイトルで10冊といいつつ上下巻やシリーズも1冊扱いで、関連書もちょいちょい並べてるので明らかに数十冊はあるが…。ついでなのでその他のオススメ本も軽めに紹介しとく。セール時はどれもだいたい半額なので買っといて損なし。

 

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』

もはや読書界隈(?)では超有名SFと言ってよく、昨年末にベスト本にも選んだけど(2022年「読んでよかったベスト本」10冊 - 沼の見える街)、常に誰にでもオススメできる小説なので改めて紹介。

あらすじを紹介したいところだが、読んだ人が「とにかく無類に面白いが何を言ってもネタバレなのでさっさと読め」しか言わなくなるというネタバレ厳禁SF小説なので、未読ならぜひ何も知らずに読んでほしい。ちょっとだけ説明すると、冒頭から「もう終わりだろこれ」となる絶望的な危機に、科学とガッツと友情で立ち向かう物語…とだけ。

超エンタメであると同時に、ガチSFな側面もある小説なので、細かい科学的な描写も多くて躓く人もいるかもだが、理解はそこそこに読み飛ばしておけばいいし、1巻の後半くらいまで行ったら後はもう一気だと思う。

つくづく思うけど、最初の1冊として万人にオススメできる大傑作が出てくれてSFファンは「しあわせ!」だねと思わざるを得ない。ネットとかで「初心者にオススメなSF小説10選!」的なやつ見かけても、いまだにそれ…?いや名作なんだろうけど入門者がわざわざ読むかそれを…?とか思っちゃうこともよくあるが、その意味でも圧倒的な読みやすさとガチSF感を兼ね備えた『プロジェクト・ヘイル・メアリー』が出たことは、ジャンル全体にとっても良いことよな…と思ったりする。万人向けの定番の存在は大事よマジで。

それにしても地球温暖化を筆頭に気候危機のニュースが毎日飛び込んできて、最近も 海洋循環の停止が近い話とか洒落にならん件を知ったり、わりとマジで地球は『プロジェクト・ヘイル・メアリー』みたいな崖っぷちにあるんだなと実感させられる。ただし現実の方が本書よりマシな点をあげるなら「原因と対策がわかっている」ということなので、もう粛々と行動を起こすしかないわけだが…。

その意味でも、「科学こそ最も強力な言語である」という綺麗事っぽくもある信条を、ここまでスリリングかつユーモラスに、そして心を打つ形で描ききったエンタメもめったにないと思うし、サイエンスの力を信じる人や、人類の未来に絶望したくない人達も、きっと元気と勇気をもらえるはず。

ちなみに『プロジェクト・ヘイル・メアリー』著者の過去作『火星の人』もオススメ。映画『オデッセイ』の原作になった小説で、起こる事態はヤバイけど妙に元気の出る極限状況SFという点で『プロジェクト〜』と共通する点も多いから合わせて読もうね。

ちなみに『プロジェクト・ヘイル・メアリー』、明らかに映画版『オデッセイ』へのアンサーにもなっててグッとくるので、あわせて観ると楽しい。リドリー・スコットが最高の映画化してくれたら粋な返歌もしたくなるわな(偶然だったら凄いが…)

 

『イヌはなぜ愛してくれるのか 「最良の友」の科学』

個人的に今年のベスト動物本候補。世界一身近な動物「イヌ」を、他と違う特別な動物にしているものは何なのか?それは…「愛」である!といういっけん非科学の極みみたいに響く答えを、動物学者が本気で実証する。原題は"DOG IS LOVE"=「犬こそ愛」(つよい)。

『イヌはなぜ愛してくれるのか』の著者は行動学的な姿勢を是とする研究者であり、動物の"感情"や"心"、ましてや"愛"などという「甘ったるい」概念を持ち出すことには慎重だった。だがイヌ研究を掘り進めるうち、"愛"こそがイヌの進化、そして人間との関係を解明する鍵を握るという確信に近づいていく…。

(犬好きは怒るかもだが)イヌは他の"賢い"動物に比べて特に知能が高いわけではない…という事実に筆者はまず触れつつ、ではイヌの何がそんなに特別なのか?と問い、それは「感情」にまつわる能力であり、人間と強い絆を結ぶ能力なのではないか、と思考と実験を進めていく。

「イヌの何が特別なのか」を考える過程で必然的に「イヌの起源」を問うことになるわけだが、よく言われる「人間の狩りの相棒としてオオカミから進化した説」を「んなわけない」とバッサリ斬るくだりも面白い。ロマンには欠けるが、より真相に近そうな仮説も興味深いんだよね。

本書で強調されるのが「イヌとオオカミは全く違う動物」ということで、たとえば「アルファ/ベータ」的な序列の概念(実はこれもオオカミの生態を説明する上で不正確なのだが…)を、犬を飼う中で不適切に取り入れてしまい、無意味に厳しく犬に接する飼い主もいまだ多いと。由々しき事態。

また本書ではキツネが意外なキーパーソン、もといキーキツネになる。キツネをたくさん飼育して人懐っこい個体を選んで繁殖させた結果、とても人に懐く犬っぽいキツネが誕生、というロシアの研究。そういや世界一有名なイヌ研究者パブロフもロシア人ですね。

イヌ好き御用達みたいな本と思いきや、イヌのみならず、イヌの仲間全体の進化や生き方を考えるための、かなり射程の広い「動物本」であると思いました。というわけでたいへんオススメです。

ところで『イヌはなぜ愛してくれるのか』、原題の「DOG IS LOVE」は「GOD IS LOVE」のもじりと思われる…(日本語だと"ネコと和解せよ"が近いノリかもしれない)

 

ハヤカワ文庫のどうぶつ本といえば『アレックスと私』もいいよ。

ヨウムがめちゃ賢いのは今や常識だが、"天才"ヨウムのアレックスを世に知らしめた研究者の著作。当時(70年代〜)の女性学者と鳥類研究へのダブルな風当たりの強さに負けず、「鳥の知性」の深奥へと迫る、わくわく研究物語。

ちなみに解説文がシジュウカラの鳴き声研究で(鳥好きには)有名な鈴木俊貴さんだった。鳥に地道に向き合い続け、知られざる知的能力を見出したという点で、ぴったりなチョイスだね。

 

『知ってるつもり 無知の科学』

読みやすくて面白いのだがドキッとさせられる名著。私たちは自分で思っているよりずっと無知なのだが(多くの人は水洗トイレの仕組みさえ説明できない)、無知ではないとつい過信してしまう。我々の認知能力的に避けがたい面もある無知の実態や、無知を自覚しながらどう向き合っていくかを、認知科学者が考察する1冊。

本書は「無知」のテーマを通じて、逆説的に「人類の叡智とは何か」を語る本でもある。私たち1人1人の賢さや知識量は、超天才でも愚者でも実は大差ないとも言えて、社会集団として組み上げた知的ネットワークこそが、人類を特別な動物として発展させてきた。そのことをもっと自覚すべきなのかも…と謙虚な気持ちになる。

一方、最近起こったTwitter(あーXだっけ?)の大混乱を見ていても、「無知の無知」に陥るのは私たち庶民だけではないんだろうなとも思わずにいられない。たとえばハイテク業界で成功したような大金持ちが、実際には何事もロクに知らないくせに自分を全知全能だと思いこんで、まさかの破滅的な事態を招くのはなぜか…という記事を読んだばかりだし。

また本書で、私たちが英雄に弱いと論じるくだりはドキッとした。たとえばキング牧師は間違いなく偉人なのだが、公民権運動の背後には他にも無数のキング牧師的な存在がいたにもかかわらず、目立つ個人を英雄として祭り上げすぎると、コミュニティが果たした役割をちゃんと評価できないとも。

1人の英雄に過大な意味を負わせすぎる考え方は、本書で論じられる「無知の無知」をもたらす要因でもある、「個人の知識や賢さを過剰に重視し、ネットワークや共同体としての知のあり方を過小評価する」ことにも通じているなと思った(そして億万長者や独裁者の失敗にも…)。どんな人も一度読んで損はないです。

 

『三体』

三体

三体

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たいへん有名な中国SFだが、有名だけ合って圧倒的に面白い。2巻以降は積んでいたのだが、このたび読んでみたらやっぱりめちゃくちゃ面白かった(特に2作め)。

1巻目のあらすじはこんな感じ。物理学者の父を文化大革命で殺され、人類に絶望した女性科学者・葉文潔が、ひょんなことから地球外生物とコンタクトを取ってしまう。そして事態が大変なことになり…という、ちょうど逆方向の『プロジェクト・ヘイル・メアリー』みたいな話でもある。

なぜか世界的な科学者が次々に自殺している、いったいなぜ…?というサスペンスが物語を加速し、三つの太陽を持つ異世界VRゲーム『三体』の謎を巡ってどんどん話のスケールが増大。来年に来るらしいNetflixドラマで、どのように表現がされるか楽しみになってくる。

『三体』1巻目、なんといっても白眉はVR世界の「始皇帝コンピューター」だと思うのだが、アイディア元となった短編が『円 劉慈欣短篇集』に収録されてる(三百万の軍隊を使って十万桁まで円周率を求める話)ので、いきなり大長編は敷居が高いという人は本書から読むのも良いと思う。

1巻目も面白いのだが、個人的に本シリーズの最高傑作だと感じたのは、2巻目となる『三体Ⅱ 黒暗森林』。

1巻で「俺たちの闘いはこれからだ」的に終わった後、いよいよ時空を超えた「闘い」の本番が描かれることになる。地球人の敵となる三体人は、超高性能粒子コンピューター「智子(ともこ…ではなくソフォン)」の力を有し、人類に対して「全知」に近い情報収集力を得てしまう。

『黒暗森林』で描かれるのは、そんな三体人との騙しあい心理バトル。「面壁計画」という人類存亡をかけた「騙し」の使命を背負わされた4人(うち1人のボンクラ怠け者が主人公)が、バカでかいスケールの陰謀を企てるというストーリーが軸になる。サスペンスの一貫性と、物語のきれいな閉じ方という点では、ぶっちゃけ1作目より完成度高いと思うし、SFファンに最高傑作と称されてるのも納得。私みたいに1で積んでた人は絶対読み進めてほしい。

完結編となる『三体Ⅲ 死神永生』も面白くて一気読みしてしまった。

束の間の平和の後、またも絶体絶命にもほどがある危機に陥る人類…(平和な時期の人類の油断っぷりと、その後の阿鼻叫喚の落差がリアルで怖い)。人類を救う一縷の望みは、謎の「おとぎ噺」に隠されていた…という強力なサスペンスを軸にしつつ展開するのだが、もはやこの話「三体」ってタイトルでいいのか?となるほどスケールがどんどん極大化していって、もはや目眩がしてくる。ラストは呆然とさせられるが、不思議な静寂と感動があった。

スケールのあまりのデカさに誤魔化されそうになるが、コンピューターとして登場したのにどんどんキャラ化が著しくなっていく智子(ソフォン/ともこ)に関しては、お前何そんな良い感じのポジションに収まってんだコラとツッコみたくはなる。ただそこも不思議な愛嬌というか、『三体』に実は通底していた、極大宇宙バカSFとしての魅力を体現するキャラと言えるかもしれない…。史強と並ぶ『三体』二大萌えキャラである(?)

ちなみに『三体X 観想之宙』というスピンオフもある。本家・劉慈欣ではなく、ファンが『三体』物語の出来事を補完した、いわば「超オタクの二次創作」だが、それゆえの濃厚な面白さと、良くも悪くもな愛情のハジけっぷりが楽しいし、本作自体が「二次創作論」みたいにも読めて興味深い。

三体X 観想之宙

二次創作なのにクオリティが高すぎて準公式みたいな形で出版にこぎつけた、オタクの夢みたいな小説なのだが、必然的に良くも悪くもオタク炸裂という感じであり、やたら二次創作的な恋愛描写とか、オタクカルチャー(エンドレスエイト!)への言及も多くてちょっと笑ってしまう。

純然たる二次創作のはずだが、宇宙の次元の設定とか『三体』公式でも全くおかしくないインパクトと論理性で普通に感心してしまった。とことん原典を読み込むことで近接した深みに到達できる、二次創作の可能性を示している。スターウォーズに対するマンダロリアン的と言おうか…。

ちなみに著者・宝樹は、決して二次創作だけの人ではなく、その後も普通にSF作家として活躍し続けている。てか宝樹の短編集『時間の王』すでに買ってたわ(読まなきゃ)。

 

『自由の命運  国家、社会、そして狭い回廊』

人類史において「自由」を享受する国がなぜ珍しいのか、独裁にも混沌にも陥らず国家=リヴァイアサンの力をどう手懐けるべきかを論じる。前著『国家はなぜ衰退するのか』同様、読み応え抜群でスリリングな本。

自由と繁栄の条件を整えるには、強力な国家=リヴァイアサンが必要だが、強くなりすぎれば「専横のリヴァイアサン」(独裁国家)が生まれ、逆に弱すぎれば「不在のリヴァイアサン」(無政府状態)に堕してしまう。両極端を避けるためには国家と社会がせめぎあって成長し「足枷のリヴァイアサン」を生む必要がある。ただしこの「足枷のリヴァイアサン」はレアキャラで、いくつもの幸運と市民社会の不断の努力が重ならないと、すぐに「専横」か「不在」に成り下がってしまうという厄介な代物。

そんな三種のリヴァイアサンを基本概念としつつ、古代ギリシアや中国やアメリカやインドなど、様々な国の「自由」の歴史と未来を語るという壮大な内容。後半では南米やアフリカなどで生まれた「張り子のリヴァイアサン」(いっけん専横的だが政府としては全然機能してない)とかも出てくる。

世界の様々な問題を含んだ政治体制を一望する中で、「足枷のリヴァイアサン」を生み出すことの困難さと重要性がよくわかるし、(著者によれば一応は「自由の回廊」の中にとどまっている)現代日本の私たちが、どう政治や社会に向き合っていくべきかも見えてくる。ここ10年くらい明らかに凋落の傾向が著しい日本だが、破滅したくなければ頑張ってリヴァイアサンに足枷をはめましょう。

ところで『国家はなぜ衰退するのか』の基本理論に反するように、ここしばらくは専横的な政府と経済成長を両立していた(ように見える)中国だが、続く『自由の命運』では「長期的に見れば成長を続けることは困難」と語られていた。そして近年は実際そうなりつつある兆候も目立つようなので「おお」と思ったりした。

社会の繁栄(というより没落しない方法)を考える上で前著『国家はなぜ衰退するのか』をよく紹介してきたが、『自由の命運』は、国家に対して社会(うちら一般人)がとるべき姿勢という意味でもさらに踏み込んだ議論を展開しているので、合わせて読むのオススメ。どっちも凄い面白いです。

 

同著者の『技術革新と不平等の1000年史』もオススメ。

「科学技術の発展によって人類は豊かに、平等になってきた」という素朴な思い込みを打ち砕き、技術革新が生んだ搾取や不平等の歴史を語る。AIのような新技術が人類社会にもたらす功罪を冷静に捉えた上で、より良い社会のあり方を選択するためにも読むべき本。

技術が発展すれば人類は豊かに平等になる…というのは単純化しすぎで、その技術の恩恵が一部に偏るような"発展"を遂げたところで、むしろ不平等は拡大される。AI技術が中世ヨーロッパの農法改良と同じ轍を踏まないためには権力や企業に技術を濫用させないことが大事。

 

『神のいない世界の歩き方 「科学的思考」入門』

『利己的な遺伝子』で有名な生物学者ドーキンスが、神が存在しない理由を懇々と説き、神が不在の世界で「私たちはどう生きるか」を語り尽くす。神の否定と同時に、創造者を必要としない"進化"の凄さ・美しさを改めて認識させる「無神論入門」。

「神や宗教を支えにしてる人もいるし、信仰の自由もあるのに、神を頭から否定するなんてひどい」と思う人もいるかもしれない。ただ、たとえば超キリスト教大国のアメリカでは、国民の多くがいまだに聖書の内容を「文字通り」信じていて、進化論を嘘だと考えているという現状がある。そんな中、ドーキンスの苛烈ともされる無神論の普及活動(本書もその一環)は、科学者として真摯で勇敢な姿勢と言わざるをえない面はある。

個人的には科学を最重視しつつも、宗教や神を全否定したくはなくて、新書『科学者はなぜ神を信じるのか』で書かれたように両立の道もあるのではとも思うのだが、アメリカでも日本でもアンチ科学的で差別的な宗教保守が権力に深く食い込んでいる現状を思うと、シビアな視線も必要だよな…とは考えざるをえない。

…とヘビーな話もしたくなるが、とにかくドーキンスのキレッキレな文章がべらぼうに面白いし、生物の魅力や面白さの伝わる真摯な内容なので(よほど信心深い方以外は)読んで損ないです。

 

『こうしてあなたたちは時間戦争に負ける』

評判は聞いており(セールだったので)読んでみて、その複雑な美しさとアイディアの豊かさに圧倒された小説。時空の覇権を争う二大勢力の有能な女性エージェント「レッド」と「ブルー」が、時間を超越した秘密の文通を始め、最初は「私のほうが一枚上手だったね笑」的に煽り合っているのだが、お互いのことを知る過程で、次第に惹かれ合っていく…という壮大な超時空SFにして壮麗な百合小説。

レッドとブルーが互いに送り合う「手紙」は、普通の手紙であることはほぼなく、歴史と時空を飛び越えながら縄文字とか溶岩とかを「文字」として活用するといった、奇想天外なアイディアに満ちている。そこに込められたクィアな愛情の美しさであるとか、めまいがするような時空のスケール感とか、ポップカルチャーの引用とか、全体的に『スティーブン・ユニバース』ファンにオススメできそうだな〜とか思ったが、後書きで著者が執筆中に『スティーブン・ユニバース』のテーマ曲を熱唱してたと知り、やっぱファンだったのね!となった。

それにしてもSF賞を総なめにした『こうしてあなたたちは時間戦争に負ける』の著者さんといい、『第五の季節』シリーズでヒューゴー賞を3年連続で取ったN・K・ジェミシン(『スティーブン・ユニバース』ファンとして知られ、アートブックにも寄稿してくれた)といい、『スティーブン・ユニバース』が現代SFに与えてる影響って、やっぱとてつもないものがあるんじゃないだろうか…と実感するのだった。

SF小説に限らず『スティーブン・ユニバース』を観て育った人たちがいよいよ創作の第一線に躍り出てるという話でもあるんだろうけど、『スティーブン・ユニバース』をロクに見る手段がない極東の島国の私ですら相当な影響を受けてるんだから(直近3冊にぜんぶSUネタを入れてみたので見つけてね)、アメリカ本国での影響力の凄まじさたるや…ということか。

 

『同志少女よ、敵を撃て』

日本で色々な賞をとったベストセラー小説。WWⅡのロシア軍サイドの話か…いま楽しめるかな〜と訝りつつ読み始めたが面白かった。ナチスに故郷を燃やされ、身近な人を惨殺された少女が次第に狙撃手として覚醒していく…という王道な復讐譚。意外にも(というべきではないんだろうが)戦場での女性への差別や暴力の問題にも踏み込んでいた。

ぶっちゃけ冒頭〜序盤くらいにかけては「キャラ描写とか配置とか若干アニメっぽすぎん?」とか思いつつ少々冷めた目で読んでたのだが、本格的な戦闘が始まった中盤以降、主要キャラに最初の犠牲者が出るあたりからはかなり引き込まれた。

発売時期とロシアのウクライナ侵攻が重なっちゃったのは不幸な偶然ではあるのだが、ロシア軍内部から自国の権力の欺瞞を問い直す視点は通底しているし、ウクライナ人のキャラも非常に重要な存在なので、創作面での真摯さにかなり救われてるというのは不幸中の幸いと言える。

ただ、戦時性暴力の問題に真面目に切り込み、アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』にも言及する作品なだけに、本作が日本の小説であることを踏まえると(戦時中に軍が各地でやったことを考えても)日本軍の所業への言及がないことには若干のアンバランスさを感じなくはなかった。まぁそこに踏み込んでたらこんなにヒットしてなかったのかもしれないが…(身も蓋もなくて辛い)

とはいえ「戦闘少女」的な表面を消費して終わるのではなく、ジェンダーの問題にもしっかり取り組んでいる真摯な作品なのは確かで、これがベストセラーになっているという事実に、(時に閉塞感も覚える)日本の出版界に少し希望が持てた。戦場シスターフッド小説としての物語を締めくくる結末もかなり好きでした。

 

『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』

過激なサバイバリストの両親のもと、学校などの社会生活を排除して育てられた女性が、「教育」という概念との出会いによってあまりに大きな変化を遂げる。今は歴史家となった著者が、自身の強烈な人生の変容を振り返る、壮絶だが感動的なエッセイ。

アメリカでめちゃめちゃ売れててオバマとか有名人にも絶賛されてるだけのことはある凄い内容で、100%映画化するんやろな…と思いながら読んでいたが、毒親レベル100みたいな実家パートで起こるイベント、壮絶すぎて映像化ムリじゃね?ってのもチラホラ…。

サバイバリスト両親(てか父親)、シンプルにひどすぎるし、「とはいえ愛はあった…」的なヌルい着地は無理なレベルの「毒親」っぷりなのだが、これほど極端な例でもそこに「家」や「親」の普遍的な暴力性が伺えるし、だからこそ多くの人が著者の心の変化に共感できるのだろう。

実家の兄が暴力的な男で、なぜか「ニ◯ー」という差別用語で妹の著者を罵りまくり、彼女も昔は笑って流してたが、教育を受けて人類の歴史を知ることで、強烈な拒否感を覚えるようになる。それを「言葉も兄も変わってないが、私の耳が変わった」と表現してて、本質的だと思った。

親の教えによる精神的な抑圧によって、著者は嫌なことや不当な扱いに対して(日記の中でさえ)不満や怒りを表すことができなかったのだが、暴力兄にひどい仕打ちを受けたことでついに何かが爆発し、「自分の声を語る」という決定的な力に目覚めるくだりが(悲痛だけど)感動的。人類の理性を信じたい人にもオススメです。

 

『運動の神話』と『人体六〇〇万年史』

スポーツ全般あまり興味ない勢だが、だからこそというべきか、今年ベスト級に面白い本だった。「健康のために運動する」という現代人の状況がそもそも人類史上でも異様なのよねという事実から始めて、スポーツ・走る・座る・眠る・闘うといった人間の運動全般にまつわる「神話」(思い込みや嘘や偏見)を片っ端から解体していくという内容。

「運動」の定義がかなり広い本でもあって、「座る」の章とか非常に面白い。「座る」ことは健康に悪いと近年は言われがちで、たしかに実際、長時間イスに座り続ける人の死亡率は高くなりがちなそうだが、座りながらモゾモゾ体を動かすだけでもなんと30%くらい死亡率が下がるらしい。つまり落ち着きがない方が健康には良いということになる…(貧乏ゆすりも意外と合理的ってこと?)

また「現代人は原始的な人類に比べて座る時間が長すぎる、したがって不健康である」という俗説が一種の神話だと喝破するくだりも面白い。筆者がアフリカで実地調査した結果、「いわゆる文明的ではない暮らしを送る健康な人々の集団も一日の大部分はめちゃめちゃ座ってる」ということがわかった。ただし細かく体を動かしていて、それこそが肝心なのかもしれない。

 

同じ著者の『人体六〇〇万年史 科学が明かす進化・健康・疾病』も読み終えたが、たいへん面白かった。600万年前に類人猿と分岐して直立二足歩行を始めてから、ヒトの身体は独自の進化を遂げた。だが生活の激変を経て様々な"ミスマッチ"問題も浮上。人体と健康を壮大かつ面白く語る本。

奇しくも、最近読んだ『なぜ心はこんなに脆いのか: 不安や抑うつの進化心理学』と全く同じ着眼点で(精神ではなく)身体を語るという内容だな。私たちが結局は独自の進化を遂げた"動物"であるがゆえに、体/心(ハードウェア/ソフトウェア)の両面が現代文明にミスマッチを起こしてるという話…。

どちらも、人間という動物を改めて考察する本という意味でもオススメできそう。

 

『わたしたちが光の速さで進めないなら』

SFマイブームきてるので読んでみたが、とても良かった…。廃墟の宇宙ステーションが舞台の表題作をはじめ、SF的な壮大さと、女性・移民・障害者など少数者の視線を巧みに交差させ、「普通」の檻を優しく溶かす7篇。

優しい語り口ながらも、7篇どれもけっこうゾクッとするようなSF的な飛躍があって面白い。生物好きとしては「共生仮説」が特に良かった。いわゆる「人間性」として私たちが信奉するものが、(自然界でいう)"共生"によってもたらされたのだとしたら…という。

最後の「わたしのスペースヒーローについて」も素敵。東洋人で障害者の中年女性(語り手の叔母)が地球人を代表するようなミッションに挑むが…という話。いわゆる「モデルマイノリティ」的な抑圧の問題意識と、そこからの飛躍(まさに)が痛快さをもたらす。

「ジェンダーSF」的なジャンルも近年は盛んだけど、そもそもSFって「地球-宇宙」や「人類-他の生命」の関係や違いを通じて、現実のマイノリティの生や社会問題を描ける分野なわけで、多様な書き手が力を発揮する余地が大いにあるよな…と『わたしたちが光の速さで進めないなら』読んで改めて思ったり。

同じ作者の『地球の果ての温室で』も読んでるが、こちらも独特の静けさと親密さに貫かれたポスト・アポカリプスSFで新鮮。

 

『鋼鉄紅女』

ジェンダーSFつながりではないが、(2023年11月時点ではセール対象外だが)今年ベスト級に面白かった本作も紹介。

怪物を倒すため、男女ペアで巨大ロボットを操縦!(元ネタは日本アニメ『ダリフラ』と公言)…という中国メカSFなのだが、社会構造や性差別に抑圧・虐待された女性の逆襲というフェミニズム的主題を盛り込むことで、切れ味が凄いことに。

ロボット・怪獣・男女の邂逅…といかにもアニメ的な要素を散りばめながら(現状の日本アニメでは描けなさそうな)不平等へのド直球な怒りと、性規範への反抗・撹乱としてのクィア性を描き切っていて凄い。まさに『侍女の物語』+『パシフィック・リム』って感じ。

元ネタのアニメの展開への失望が執筆の原動力になったそうなのだが(そういや私も途中で見るのやめちゃったな…)、その結果こうも激烈で強度の高いエンタメを生み出せたの凄いし、やっぱ批評精神って大事というか、新しい何かを生み出す創作マインドにも直結するものなんだよなと実感…。

テーマ的に考えると百合/シスターフッド成分が薄めなのが意外ではあったが、「男女の三角関係」という王道な関係から、性差別システムが男女をともに抑圧するという(『バービー』とも通じる)問題を鮮やかに描いて見事。「三角関係」がマジで三角になってるのも良い。そうこなくてはな!

ラストが良い意味でひどくて(登場人物たちと一緒に)笑うしかなかったのも最高。さらにエピローグの衝撃展開で「えっ!」と思ったが続編の刊行も決まってるそうで楽しみ。植民地主義にも踏み込んだり、さらなるテーマの広がりもありそう。巨大ロボ物語に描けるもの、まだ沢山あるんだな。

 

その他オススメ本(軽めに紹介)

『偉大なる失敗 天才科学者たちはどう間違えたか』

まだ読み途中だけど面白いので紹介。ダーウィンのような人類史上最も重要な科学的発見をした人でさえ、後世から見れば「完全なる間違い」を犯すこともあった。偉大な科学者たちの誤謬に注目することで、逆に科学という営みの強靭さがわかる。

ダーウィンの進化論の提唱は言うまでもなく科学史上屈指の偉業だが、いかんせんその時点では遺伝学が全く普及していなかったため、親の特徴が子に伝わるメカニズムに関してはダーウィンもあやふやな理解しかなかった…(そして後の大失敗理論に繋がる)という箇所とか面白いし切実。

『偉大なる失敗』によると実はダーウィンは(進化論の完成に不可欠だった)メンデルの遺伝学と超ニアミスしていた。しかしダーウィンはメンデルの研究に全く関心を寄せず、本まで持っていたのに、その研究が載ってるページを読むこともなかった。なぜわかるかというとページが↓の写真のようにくっついたままだから(当時は切って読んでた)。

この超ニアミスを見ると、ダーウィンがメンデルの研究を読んでさえいれば…!とか思いたくなるが、『偉大なる失敗』の著者は「まぁ当時のダーウィンが読んでもよくわからなかったんじゃね」とバッサリ。同時代の植物学者の大家ですら理解できないほど先鋭的な研究だったようなので無理もないけど。

『偉大なる失敗』のダーウィンの失敗を読んでちょっと感動してしまうのは、科学という営みがとことん属人的でないことがわかるからかもしれない。どんなに偉大な業績をもつ科学者が「自分は正しい!」と声をはりあげても、その理論が間違っていれば消えるし、正しかった部分だけが残る。健全なことだ。

しかし「無知の無知」に警鐘を鳴らしていた超天才ダーウィンでさえ典型的な誤謬にハマってた姿を見ると、もはや私たち一般人が「無知の無知」から脱するのムリなんじゃね?と思えてくるが、先述の『知ってるつもり 無知の科学』とか読んでがんばるしかないのかもね…

 

『BREATH 呼吸の科学』

ふだん無意識にしてる呼吸のメカニズムや、誰でもできる良い呼吸法について語る。古代人と現代人の頭蓋骨を比べて口呼吸への移行を論じたりとか「呼吸の歴史」としても興味深い内容。著者は科学者ではなくジャーナリストだが読みやすい。

 

『ホワット・イフ?――野球のボールを光速で投げたらどうなるか』

人類全員でレーザーポインターで照らしたら月の光は変わる?みたいな超くだらない科学の疑問に、元NASAの研究者が脱力イラストとともに答える。何の役にも立たない知識の楽しいおもちゃ箱みたいな本だが、だからこそサイエンス入門に良いと思う。

 

『ファスト&スロー』

私たちは自分を合理的だと思いがちだが、人間は必ずしも合理的でない。ファストな「直感」とスローな「論理」を併せ持っていて、前者が意外なほど強力に働いてしまう…という意思決定のメカニズムを様々な実例を挙げながら語る、面白い本。

 

『デジタル・ミニマリスト スマホに依存しない生き方』

テック企業が大金を投じて全力で私たちの可処分時間を奪い取りにきてる以上、我々一般ユーザーがまともな生活を送るためには、もはや「デジタル・ミニマリスト」を目指すしかねえ…という切実な内容の本。なんだかんだTwitterを使い続けてしまっている身としては耳に痛いし、本書の内容を100%実践できるかはともかく、一度読んどくと有意義だと思う。

 

『ヒトの目、驚異の進化 視覚革命が文明を生んだ』

普通に生きてると気づきにくいが、ヒトの目って実は凄いんだぜ!ということを、4つの「目のスーパーパワー」を軸に語るアツイ人類史本。他者の肌の色の変化を観るための目の進化とか、進化を巡るエキサイティングな本でもある。

 

『遺伝子‐親密なる人類史‐』

19世紀のメンデル(遺伝法則)とダーウィン(進化論)の二大発見から始まった、遺伝子を巡る人類の物語を綴る。DNA二重らせんの衝撃、優生思想の惨劇、ゲノム編集の新技術「CRISPR-Cas9」の可能性…。激動の時代にいると実感させられる。

著者シッダールタ・ムカジーはインド出身の医者/研究者(前著はピュリッツァー賞)だが、親戚の数名が統合失調症と双極性障害を発症している、遺伝性の高い病気の当事者でもある。遺伝という現象に切実に向き合わざるをえない人が語る遺伝子の歴史。生物勢は一度読んでおこう。

 

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ハヤカワの海は広大なので他にも明らかに色々あるはずだが、長いのでいったん終わっとく。また面白い本みつけたら追加するかも。大規模セールやると大抵は入るのでぜひ

アオサギの話しかしない『君たちはどう生きるか』考察&感想&レビュー

アオサギという鳥が好きだ。日本中で見ることのできる、とても身近な野鳥でありながら、大きな体をもち、翼を広げれば全長は1.5メートルにもなる。あまり人や外敵を恐れぬ泰然とした佇まいにも目を奪われる。目元から冠羽へとつながる濃紺の模様や、長い首を彩る斑点、くすんだ青灰色の色合い…。いわゆる「サギ」として連想する真っ白な羽のシラサギ(実はこれは種の名前ではなく、ダイサギ・チュウサギ・コサギらをまとめた通称なのだが)とは一線を画する、野性的な美をアオサギはその身にまとっている。

 そのルックスに恥じず、アオサギの暮らしはワイルドだ。魚や虫や甲殻類だけでなく、時には同じ鳥類や小型哺乳類まで捕食する。「張り詰めた弓」のようにジッと動かないかと思えば、突如として矢のような瞬発がひらめく。長い首を素早くのばし、鋭いくちばしで獲物を捉えるのだ。堂々たる巨体の優雅さと、刃物のような攻撃性を兼ね備えたアオサギを眺めていると、「鳥は"恐竜の子孫"ではなく、"恐竜"である」という最新科学の結論に、いっそうの説得力を感じられないだろうか。

 アオサギはとても魅力的で、不思議で、底知れない鳥だ。にもかかわらず、ふさわしい脚光を浴びてきたとは言えない。同じ「身近な鳥」でもスズメやハトなどと違い、創作物にサギがキャラクターとして登場することは稀だ。強いて言えばユーリー・ノルシュテイン監督の短編アニメ『アオサギとツル』(1974)はアオサギが主人公を務めた貴重な作品で、また日本でも片渕須直監督の『この世界の片隅に』(2016)でサギが象徴的な役割を担っていたが、思いつくのはそれくらいだろうか。無数の「鳥ポケモン」がいるポケモンシリーズですら(前に記事を書いたが、最新作にはウミツバメポケモンまで登場した)、まだ「サギポケモン」はいない有様である。

 だがしかし…2022年末。ある映画の告知がサギ界隈(?)をザワつかせることになる。日本を代表するアニメ監督・宮崎駿の(おそらく最後となりそうな)長編映画『君たちはどう生きるか』のキービジュアルが公開されたのだが…それが「限りなくアオサギっぽい何か」だったのだ。

 「鳥の映画であることは間違いない。勝った」と一応は勝利宣言したものの、実は本心からそう信じていたわけではなかった。まずこれが本当にアオサギなのか、そもそも鳥なのかもよくわからないし、主人公の姿なのか、単なる抽象的なイメージなのかも不明だ。何かを決めつけるにはあまりに曖昧なイラストだった。とはいえ公開までには予告編なども出て、もう少し情報量が増えることだろう、と予想していたのだが…

 …全然そんなことはなかった。結局このアオサギっぽい何かが出てくること以外(いや出てくるかどうかすら)何もわからないまま公開当日に突入したのである。アオサギがこんな事態に巻き込まれる状況は人生に二度とないだろうし、こういう周辺情報も意外と年月が経つと風化しそうなので、歴史の記録のために書いておく価値があるかもしれない。

 とはいえ「作品の情報をほぼ全く明かさない」という宣伝手法は直近でも『THE FIRST SLAM DUNK』がとっていたので、それ自体は特に「ふーん、まぁそういうのもあるよね」という感じではあった。鳥好きとしては、アオサギが本当に出たらいいな…でも駿のことだし、何か一捻りあるんだろうな…くらいのノリで公開を待っていた。

 そして2023年7月14日、劇場公開初日を迎えた私は、近所の(なるべく大きな)スクリーンに駆けつけ、何ひとつ詳細がわからない『君たちはどう生きるか』と向き合うこととなった。そして……衝撃を受けた。『君たちはどう生きるか』が本当に、紛れもなく、アオサギの映画だったことに。

 

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以下に書き記すのは『君たちはどう生きるか』の私なりの考察と感想だが、最初に断っておくと、ほぼアオサギの話しかしない。本作は膨大なメタファーや元ネタや仄めかしやアナロジーが張り巡らされた重層的な映画だが、アオサギ以外のほぼ全てを無視することで、ひどく偏った考察になることは間違いない。しかし作り手がキービジュアルに大抜擢したアオサギは間違いなく本作の要であるし、そこに特化した読み解きもそれはそれで価値があると考える。すでに大量の考察や感想が出回っていることだし、本作を楽しむ上で、パズルの1ピースのように組み込んでもらえれば幸いだ。

ほぼアオサギの話しかしないとはいえ、ネタバレには特に配慮しないので、なるべく鑑賞後に読んでほしい。とはいえ、いかんせんアオサギの話しかしないので、鑑賞前に読んだところで何言ってるのか全然わからない可能性はある。自己判断でどうぞ。

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【そしてアオサギは現れた】

 『君たちはどう生きるか』は轟音を放つサイレンの絵と音から幕を開ける。本作の舞台は戦争まっただ中の日本で、いっけん空襲にも似た大規模な火災に襲われていることがわかる。硬質で「円錐」に似た形をもち、人の意識を引き付ける音を発するサイレンのスピーカーは、どこか鳥のくちばしを連想させる…と考えるのは穿ち過ぎだろうか。

 そんなサイレンが発する轟音によって平穏な世界から叩き起こされ、非日常へと導かれていく少年・眞人(まひと)が本作の主人公だ。炎に包まれた街の人混みを、母親のもとへと突き進んでいく眞人の姿を、まるで炎そのもので描いたようなアニメーションで表現したシークエンスは圧巻の一言である。

 眞人の願いもむなしく、火災で母親は亡くなってしまった。時は経ち、眞人は危険な東京を離れ、母親の実家がある地方へ疎開するのだった。この過程の日常パートも、人々の細かい所作などに豊かなアニメーションで溢れていて見所たっぷりなのだが、アオサギの話しかしない極端なコンセプトのこの記事では省略させてもらう。

 と言いつつひとつだけ、『白雪姫』の「7人の小人」を思わせる「7人のおばあさん」の表現が強烈すぎたので触れずにいられない。義母に導かれて屋敷に足を踏み入れる眞人を待っていたのは、うぞうぞ…と不定形な生物のように荷物に群がる7人のおばあさんだった。純然たる人間であるおばあさんたちを「おぞましくも蠢(うごめ)く不思議な生命…」みたいな質感で表現するなよ駿、まっくろくろすけじゃねーんだぞ…と思わずツッコみたくもなるが、宮崎駿の桁外れの「生命」描写力をまさかの形で体現する、鮮烈なアニメーションなのは間違いない。年齢的には「死」に近づきつつあるはずのおばあさんたちに、最も根源的な「生命の力」を発散させるかのような表現は、「生と死」が重要テーマとなる本作を象徴していると言えるかもしれない。

 蠢くおばあさんはいったん措いて、本題に戻ろう。そんな「生と死」の境界がどこか曖昧になっていくような、不可思議な屋敷に入っていく眞人の目には、屋根の上に佇む大きな鳥が映っていた。そう、我らがアオサギである。「アオサギっぽい何かが(たぶん)出る」ことの他には一切わからなかった『君たちはどう生きるか』に、鳥のアオサギそのものが登場した瞬間、「き、きたぁあ〜…!」という興奮を覚え、拳を握りしめ、立ち上がりそうになった。誰に責められようか。

 その後に続く、アオサギのリアリスティックなアニメ表現にも目を奪われた。池のほとりにアオサギが佇んでいると思ったら、急に眞人の方に向かって、屋敷の縁側をくぐってスーッと旋回して飛んでくるシーンも忘れがたい。あくまで現実的なタッチを貫きつつも、未知の領域から人間の領域へと何かが少しずつ侵入してくる様を、自然主義的かつダイナミックに描いた魅惑的な「鳥描写」だ。

 母をなくしたショックと悲しみにも影響されてか、眞人を取り巻く「現実」世界が少しずつ「非現実」に侵食されていく。その橋渡しとして重要な役割を果たすことになるのがアオサギだ。登場した当初は95%リアル寄り(なぜ100%でないかは後述)な描写をされていたアオサギだが、眞人を非現実的な異界に誘い込むかのように、じわじわと「リアル度」が減少していくのである。

 最初にアオサギの「リアル度」が減少を見せたのは、窓の外でくちばしを歪め、ニヤリと不敵に笑うかのような表情を浮かべる場面だ。次第にアオサギは「眞人!助けて!」など、焼死した母親の最期を思わせ、彼の心をかき乱し引きつけるような言葉を大声で発し始める(まるで冒頭のサイレンのように)。その後も自傷行為のダメージで寝込む眞人の寝室に現れたり、アオサギは挑発的な行動を繰り返しながら、異界からの使者のように眞人をどこかへ連れて行こうとする。

 このように「じわじわ」とリアリティラインを下げながら変化していくアオサギの不気味な魅力の表現は、固定されたCGモデルのある3Dアニメではなく、場面によって全く異なるキャラクターデザインが可能な「手描き2Dアニメ」にしかできない芸当だ。もはや絶滅危惧種と化した手描き2Dアニメの真の豊かさを、この点に感じずにいられなかった。

 こうした本作の特長を最も強く感じたシーンがあった。アオサギが屋敷の近くにある塔へと眞人を誘惑するように飛んでいき、窓枠の上部を足で掴みながらぐるんと回り、ぬるんっ…と窓の中に入り込む場面だ。インコが棒を掴みながらよく行うような、いかにも鳥っぽい「回転」の挙動なのだが、これは「実際のアオサギがまずやらない行動」であると言ってよい。アオサギの「リアル度」が大幅に減少する瞬間を、2Dでしか描けない「ぬるり」とした絶妙な違和感とともに描いたというわけだ。事実このシーンをひとつの転換点として、眞人は(まるで『不思議の国のアリス』のウサギを追いかけるアリスのように)徐々に異界へと転がり落ちていく。

 

【アオサギ変貌事件】

 そして、本作が真に「非現実」の世界に足を踏み入れる場面を迎える。アオサギが屋敷の池で眞人と対峙し、「お待ちしていました」などと口上を述べながら、ついにその非現実的な「本性」を明らかにするシーンである。いよいよアオサギは、ここに至るまでにじわじわ減少させてきたリアル度をかなぐり捨てるかのように、おぞましい異形の存在へと姿を変えていく。

 中でも強烈な表現は、くちばしのメタモルフォーゼだ。長く太いくちばしの裏に、まるで「歯茎」のような不気味な肉塊が現れ、続いて「歯」がズラリと並んでいく。歯をもたないはずの鳥のくちばしが、突如として人間の「口」の生々しいパーツを強調したかのような器官に変わっていく不気味さは特筆すべきだ。

 本作のキービジュアルが「アオサギの被り物をかぶった何か」に見えたからこそ、「被り物」を脱ぐどころか、これほどグロテスクで「肉」的な質感を強調した異形の変貌を見せられたことは衝撃的であった。アオサギに召喚されたかのような、池から現れた大量のコイや、眞人の体を覆い尽くすカエルの(集合恐怖を抱える人にはキツイであろう)おぞましさを感じさせる描写もあいまって、「生命」がもつ人智を超えた底知れなさが垣間見える、本作屈指の強烈な場面である。同時に、なんて宮崎駿らしいシーンなのだろう…と感銘を受けた。

 カエルまみれの眞人のピンチに、夏子と7人おばあさんズが駆けつける。夏子の放った矢に、アオサギは怯んで逃げ出したが、眞人は力尽きて寝込んでしまう。眞人はアオサギへの逆襲を決意し、その羽根を利用した弓矢を作り上げ、アオサギが待ち受ける塔へと乗り込んでいくことになる。ニセの母親とともに眞人を待ち構えていたアオサギに向けて、眞人はDIYした矢を放つと、見事くちばしに命中。慌てたアオサギはリアルな「鳥」形態を維持していられなくなったのか、リアルの皮を脱ぎ捨てるかのように、さらなる変貌を遂げる。着ぐるみを脱いだ「中の人」のようにそこから現れたのは、大きな鼻を持つ小さいおじさんだった…!

 あのキービジュアルの「鳥」を巡って、公開前に膨大な数の予想(いわゆる大喜利)がSNS上で盛り上がったが、まさかこんな、あらゆる意味でかわいくない小さいおじさんが鳥の中に入っていることを予想した人が、どれほどいただろうか…。度肝を抜かれるキャラクターデザインと言っていい。

 ともあれ、この衝撃的な造形の「サギ男」こと小さいおじさんモードを「リアル度0%(フィクション度100%)」、リアルなサギ形態のアオサギを「リアル度95%」とすると、本作のアオサギはこの両極をグラデーション的に変貌していくことになる。

 リアル・アオサギを「リアル度95%」と書いたのは、色合いや模様が本物のアオサギとは微妙に異なることに加え(これはアニメ的デフォルメの範囲ではある)、くちばしの先端に、ウミネコのような赤い色が施されていることが理由だ。確かに現実のアオサギのくちばしや脚は繁殖期に色を変える(ピンク色で婚姻色と呼ばれる)のだが、本作のアオサギのような赤い模様は本来ない。わざわざうっかりミスで色を足したとも思えないので、おそらく「これが本物のアオサギではない」ことを暗に示す、一種の符丁ではないかと思う。アオサギガチ勢以外の観客が気づくかは疑問ではあるが…。

 ただ、このように「わざと現実とは異なる描写を入れる」のは本作の生き物描写のけっこう興味深い点だ。リアルな鳥←→サギ男へと姿を変える中にもけっこうグラデーションがあって、たとえばサギ男の「脚の曲がり方」が場面によって違ったりする(下図)。

 サギ男は異形のファンタジー存在なんだからなんでもありだろ、と言われればそれまでだし、普通のアニメであれば「作画ミスか?」と思って終わりな気もするが、なんといっても宮崎駿の作品だし、なんらかの意図を読み取ってしまう。私の仮説は、現実世界とファンタジー世界の「濃度」の変化によって、サギ男の体の構造も変化していくというものだが、2回観ただけでは場面ごとに細かく検証できなかったので、もう一回みて確かめたいところだ…。

 なお『君たちはどう生きるか』には、アオサギを含めて3種類の鳥が登場する。他の2種とはペリカンとインコなのだが、注目すべきは、ペリカンはほぼ完全にリアル寄りな造形である一方、インコは思いっきりファンタジーな造形であることだ。特にインコは、本来は対趾足と呼ばれる「前2本・後ろ2本」の足の構造をしているのだが、本作のインコ(というかインコ人間)は「前3本・後ろ1本」の一般的な鳥の足(三前趾足と呼ばれる)になっており、生物学的な細部もほぼ無視されている。このペリカン(リアル)←→インコ(ファンタジー)の関係が、アオサギ(リアル)←→サギ男(ファンタジー)の関係にも完全に一致しているのは興味深い。アオサギが、リアルとファンタジーの両極を行き来する存在であることが、他の鳥の描写と呼応するように強調されているわけだ。

 

【なぜアオサギなのか① 生態から見るアオサギ】

 『君たちはどう生きるか』におけるアオサギは、結局どのような存在なのか。生物学・文化・本作の元ネタ文学など、様々な観点から考察することが可能だが、まずは「アオサギとはどんな鳥か」という基本的な生態を踏まえつつ考えてみたい。

 アオサギ、漢字で書くと「蒼鷺」。学名はArdea cinerea(訳:サギ-灰色の)、英語名はGrey Heron(灰色のサギ)。分類はペリカン目サギ科アオサギ属(そう、サギはペリカンの仲間だ)。全長は約93cmと、1m近い大きな鳥で、翼を広げると1.5mにもなる。アジア・ヨーロッパ・アフリカに広く生息し、日本でも川や湖や干潟など、あらゆる水辺や湿地で姿を見ることができる。市街地や公園でも姿を見かけ、あまり人間を恐れない個体も多い。オスとメスの色は同じで、青っぽい灰色をベースにした羽の色をしている。ヘビのように長い首と長い脚、長く太いくちばしが特長だ。魚や虫だけでなく、ネズミや小鳥のヒナやカエルなど、生きとし生けるものはなんでも食べる豪快な雑食っぷりを見せてくれる。

 つらつらとアオサギの生物学的な事実を並べてみたが、「結局なんでアオサギなの?」という問いの答えは究極的には宮崎駿にしかわからないのだろう。しかし、ヒントくらいは掴めるかもしれない。

 まず、誰の目にも明らかなシンプルな事実から始めたい。それは「アオサギが非常に大きな鳥である」ということだ。もう少し厳密に言えば「日本に住む人が身近で観察できる野鳥の中では最大級に大きな鳥」となる。先述したように、アオサギの体長は93cmと巨大だ。似たサイズ感の身近な鳥でいうと、同じくサギ類だが真っ白なダイサギ(89cm)や、黒い羽のカワウ(81cm)などもいるが、アオサギはもう一回り大きいことになる。

 アオサギは日本では特に珍しい鳥ではないため、私たちはこれほど大きな動物がとても身近にいても、それを普段あまり意識しない。近所でアオサギを見かけたとしても、鳥に興味がない一般の人は「何か大きな鳥がいるな」程度の認識しかないだろう。正直言って野鳥愛好家でさえ、アオサギがいたからといって喜んでまじまじ眺める人は多くないのではないだろうか。アオサギはこれほど大きいにもかかわらず、不思議と人々の意識にのぼらない「見えざる」存在であるとも言える。

 そしてアオサギの佇む水辺は、人間の領域(陸)と自然の領域(川や海)の境界と言ってよい。そんな人と自然の境界に佇む、「見えざる」巨大な動物…といえば、やはり宮崎駿作品のキャラクターでは『となりのトトロ』のトトロを連想してしまう。「アオサギ=トトロ」と直結させるのは強引すぎるとはいえ、実はアオサギはとてもジブリ的なイマジネーションを喚起する動物なのではないかと思えてくる。

 もっと言えばアオサギに限らず、鳥そのものが「境界的」な存在でもあると言える。もふもふした羽毛や温かい体やつぶらな瞳などの特徴をもつ「人間に親近感を与える動物」でありながら、恐竜と同じグループに属し、哺乳類とは異なる進化を遂げたことに由来する「絶対的な他者性」も併せ持つ。

 そんな「親近感」と「他者性」を兼ね備えた鳥の、最も絶妙なラインに位置する鳥がアオサギとも言えるかも知れない。映画の登場シーンでも(周囲の少々グロテスクな肉のひだと共に)強調される、アオサギのギョロリとした目は象徴的なパーツだ。小鳥のような可愛らしい黒目とは一線を画し、人間の愛着を遮断するかのような爬虫類的な鋭さがある。

 目の他にもうひとつ、本作でアオサギ(鳥)の他者性を強調する重要なパーツがある。それは足だ。4本指のアオサギの金属的な足が、キシ、キシと不気味な音をたてながら、眞人の頭上の屋根を闊歩するシーンは特に印象的だ。サギの足は半蹼足(はんぼくそく)と呼ばれ、指の根本に小さな水かきがあるのだが、そこもしっかり写実的に描写されている。羽毛をもち、温かみも感じさせる鳥ではあるが、やはり私たち哺乳類とは決定的に異なる「他者」であることを、足の不気味なクローズアップと音によって、改めて突きつけるかのような演出だ。このように「鳥の足」を一種の他者性の象徴として宮崎駿が用いるのは初めてではない。『崖の上のポニョ』のポニョがやや不気味な「進化」のような変貌を遂げた時にも、鳥のような足が生えてきた。

 そして振り返ると、動物のキャラクターも非常に多く登場する宮崎駿作品において、実は「鳥」のキャラクターはかなり珍しかったことに気づく。ぱっと思いつくのは『風の谷のナウシカ』のトリウマと、『千と千尋の神隠し』のハエドリくらいだろうか。どちらも印象的なサブキャラとはいえ、例えば『魔女の宅急便』のジジ(ネコ)や『もののけ姫』のモロ一家(山犬)やヤックル(おそらくカモシカ)のように、物語上の重みを担う動物キャラクターではなかった。

 鳥キャラクターの不在に、宮崎駿と鳥の間にあった微妙な距離感を読み取ることが可能だが、それでいて興味深いのは、キャリア全体を通じて「鳥のように空を飛ぶこと」は非常に重要なアクションであり続けたということだ。『魔女の宅急便』でキキが鳥たちと共に空を飛ぶシーンを代表例として、『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『紅の豚』『千と千尋の神隠し』など、心に残る飛行場面を挙げていけばキリがない。

 そして飛行が物語にとって極めて重い意味をもつ作品といえば、やはり2013年の前作『風立ちぬ』である。特に主人公・堀越二郎が夢の中で乗り込んで空を飛んだ飛行機が、白と紺色の「アオサギカラー」だったことは特筆すべきだろう。10年後に向けた伏線をすでに張っていたと言えるかもしれない…(実は『天空の城ラピュタ』の時点でほぼ同様の飛行機を考案していたようだが)。大きな翼をもつアオサギの羽ばたきが、鳥の中ではとてもゆっくりした動きであり、オーニソプター型の飛行機を連想させるということに、宮崎駿が注目していた可能性もある。

 さらに言えば、「鳥」そのもののキャラクターを登場させることは、実は宮崎駿がずっと秘めていた願望だったのかもしれない。というのも、彼が最も影響を受けたアニメ映画のひとつが、フランスのポール・グリモー監督による『やぶにらみの暴君』(1952)なのである。オオハシに似た不思議な鳥が登場し、独裁的な「暴君」の魔の手から少年少女を救う物語なのだが、『君たちはどう生きるか』のアオサギも、だんだんこの「鳥」によく似たシルエットや役回りになっていく。なお『やぶにらみの暴君』は改作され、現在は改変バージョンの『王と鳥』が広く観られている。

王と鳥

王と鳥

  • ピエール・ブラッスール
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 「文明と自然」「親近感と他者性」の境界に佇む身近で大きな動物であり、歴代ジブリにおける最重要アクション「飛行」を体現する存在であり、『やぶにらみの暴君』に感銘を受けて以来、宮崎駿がずっと温めていたかもしれない「鳥」のキャラクター…。その絶妙な領域にドンピシャで当てはまる存在が、アオサギだったと考えることもできる。そんなアオサギを、宮崎駿が(おそらく)最後の映画で主要モチーフに大抜擢したことは、実は意外ではないと言えるのではないか。

 

【なぜアオサギなのか② 文化から見るアオサギ】

 ここまで主に生物学的な面に着目してきたが、アオサギという鳥を、文化史的な面から考えてみることも大切だろう。アオサギは世界的に「死」の概念と深く結びついた鳥でもある。特にエジプト神話ではベヌウ(ベンヌ)という不死の鳥として重要な存在だ。死と再生を司るアオサギのイメージは後にギリシアへ伝わり、不死鳥フェニックスのモデルになったという説もある。
 アオサギの姿で描かれるベンヌ神は、再生と創造の神ラーとの結びつきが強い存在なのだが(↓の壁画のように)冥界の神オシリスの冠をかぶった姿でも描かれることが多い。

西テーベのデリ・エル・メディナにある壁画。太陽・創造・再生の象徴であるベンヌが崇拝されている。

 一見矛盾する「死と再生」のイメージを付与されたベンヌだが、古代エジプトの価値観ではこの2つの概念は直結するものだった。映画『君たちはどう生きるか』で眞人が迷い込む異世界は、ベックリンの絵画《死の島》そのもののような糸杉の並ぶ島が浮かび、死者たちが船をこいで海をわたる、濃厚な「死」の匂いが漂う彼岸の世界である。それと同時に、「ワラワラ」という不思議な丸い生命体がもう一度「生の世界」に旅立つ出発点としての役割もあり、「再生」を担う世界でもあった。そんな「死と再生」が同時に存在する世界へと眞人を導く存在として、アオサギはふさわしい鳥に思えてこないだろうか。

 とはいえ、戦中の日本が舞台である本作を考察する上で、古代エジプト神話ばかりに寄り掛かるのも心もとない。日本ではアオサギは、どのように語られてきたのだろう。古代エジプトとは反対に、昔の日本文化におけるアオサギは微妙に扱いが悪い。最古の歌集『万葉集』には4500首以上もの歌が収録されているにもかかわらず、サギを詠んだ歌は一首もないという(ツルを詠んだ歌は45首もあるそうだが…)。清少納言も『枕草子』の「鳥は」の段で、「サギは見た目も目つきも悪く、その姿には全く惹かれない」といったことを書いており、散々である。いとヒドし。

 一方、江戸時代になると、超常的な存在としてアオサギを見る視点が出てきたようだ。ただし古代エジプトのような神格化ではなく、むしろ妖怪のような扱いだったのだが…。たとえばサギが夜になると怪しく光る様を示す「青鷺火」という言葉が残っている。鳥山石燕が『今昔画図続百鬼』の中で、この「青鷺火」を描写している(下図)。

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』の「青鷺火」。一見ゴイサギっぽく見える形だが、アオサギ特有の顔の紺ラインも明確だし、アオサギが首をS字に縮めて収納モードになるとこういうシルエットになる。石燕はちゃんと観察して描いたのだと思う

 たとえばカワウソのように、日本の伝承において、身近な動物がそのまま妖怪のように語られる現象はけっこうあるのだが、サギもその一種と言えるのかもしれない。他にも『日本俗信辞典 動物編』によると、「帯を結んだ後にたたいておかないとアオサギにおどされる(愛知)」という言い回しが残っているそうだ。月夜には火のように光ると噂され、岸辺にぬらりと立つサギの姿に驚いて卒倒する人までいたというので、なかなかの妖怪扱いである。

 古代のエジプトと、江戸時代の日本とでは、アオサギの語られ方には格差があるとはいえ、これほど時間的にも地理的にも遠く離れた地で、死や闇や異界につながる超常的な鳥という、アオサギのイメージが共通してるのは不思議だし、どこか納得のいく部分もある。宮崎駿がこうした宗教や文化を直接的に参照したかどうかはわからないが、アオサギが呼び起こすある種の普遍的な「死と生」に繋がる感覚は、『君たちはどう生きるか』の異界からの使者としてのアオサギ=サギ男に間違いなく反映されていると思う。

【なぜアオサギなのか③ 直接的な元ネタ本】

 ここまでアオサギの生態と文化に絡めて語ってきたが、実は「なぜアオサギなのか」という問いを考える上で、最も説得力のある元ネタが存在する。それはアイルランド出身の作家ジョン・コナリーの小説『失われたものたちの本』(2007)である。

 『失われたものたちの本』のあらすじをざっと解説する。戦時下のイングランドで、母親を亡くした孤独な少年デイヴィッドは、父親の再婚相手の継母ともうまくいかず、現実と虚構の境界が曖昧になって「本の囁き」が聞こえるようになり、死んだはずの母の声に導かれて幻の王国に迷い込む。そこはキメラのようなファンタジー動物や、不気味な「ねじくれ男」が跋扈する、美しく残酷な物語の世界だった…。

 …おわかりいただけただろうか。映画『君たちはどう生きるか』のストーリー構造、ほぼそのまんまである。というか宮崎駿が本書の刊行に際して「ぼくをしあわせにしてくれた本です。」と帯にコメントを寄せているので、元ネタであることはほぼ確定と言って大丈夫だろう。そのわりに本作『失われたものたちの本』は映画のエンドロールなどにも一切クレジットされないので、さすがに「原案」として載せるなりして筋を通すべきじゃないのか駿…とツッコみたくもなる。まぁ実は吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』も一切クレジットされてないので今更ではあるが…(さすがにこっちは何かしら書くべきだろ!)

 一方、現実世界で喪失を抱え、家族や社会との折り合いもつかない子どもが、異世界に迷い込んで不思議な冒険をして帰ってくる…という物語構造そのものは、極めて王道的なものであるのも確かだ。『千と千尋の神隠し』にしても概ねそういう話であるし…。

 またクレジットこそしていないものの、『失われたものたちの本』が元ネタであることは、映画『君たちはどう生きるか』の中で明快に繰り返し示される。たとえば『失われたものたちの本』で主人公デイヴィッドを導いてくれる「木こり」という人物がいるのだが、『君たちはどう生きるか』で近い立ち位置のキャラクターは「キリコ」という名前だ。このように両者のキャラクターを構成する要素は、主人公との関係性や、世界における立ち位置など(例外もそこそこあるが)ほぼ対応している。

 『失われたものたちの本』には「ねじくれ男」というキャラクターが登場する。異世界を支配する強大な力をもつこの邪悪な男は、実質的な本作のラスボス的存在と言って良い。変幻自在のねじくれ男はおそらく(作中で明示こそされないが)鳥に変身することができ、現実世界を侵食する予兆としてデイヴィッドの前に現れる。その鳥が「カササギ」というカラスの仲間なのだ。

 そう、『君たちはどう生きるか』で、この「ねじくれ男/カササギ」に相当するキャラクターが「サギ男/アオサギ」というわけだ。「カササギ」と「アオサギ」の韻の踏み方にも、「木こり」と「キリコ」のような、もじりネーミングを見て取れる。

 元ネタがカササギである以上、舞台を日本に置き換える上で、たとえばカラスのような選択肢もあったはずだが、あえてアオサギをチョイスした理由には、前2項で述べたような背景があったのだと思う。さらに付け加えれば「サギ=詐欺」という日本語ならではの言葉遊びも重要なのだろう。実際「全てのアオサギは嘘つきだ」というパラドクスを巡る一幕がある。「嘘つき」は本作のアオサギというキャラクターを語る上でのキーワードになりそうだ。

 かように『失われたものたちの本』のねじくれ男と『君たちはどう生きるか』のアオサギの性質や立ち位置には(他のキャラクター同様)共通点が多いわけだが、だからこそ「何が違うのか」に注目する必要がありそうだ。細かい差異はもちろん色々あるが、最も根本的な違いがひとつある。『失われたものたちの本』で、最後まで影のラスボス的な存在としてデイヴィッドの脅威であり続けた「ねじくれ男=カササギ」に対して、『君たちはどう生きるか』の「サギ男=アオサギ」は、最終的には眞人の「友だち」になるということだ。この決定的な差異こそが、映画『君たちはどう生きるか』の根幹にあるテーマだと考えている。

 

【驚異のキャラクター・サギ男】

 『君たちはどう生きるか』のサギ男=アオサギについて、最初に映画を観た直後は「こいつをキービジュアルに持ってくるとは…」とその蛮勇と言って良い判断に驚愕したのだが、今となっては、本作を象徴するキャラクターはアオサギでしかありえない、と感じている。もっと言えば、宮崎駿が送り届けてきた数々の物語を締めくくるにふさわしい、素晴らしいキャラクターだとさえ思う。

 そもそもなぜ初見で「こいつがキービジュでいいの??」と思ってしまったのかといえば、サギ男の造形がマジで全然かわいくないということが一因にあげられる。ポスターなどを見た段階では、「アオサギっぽい何かを被った誰か」が出てくることはある程度推測できたわけだが、まさかあんな小汚い感じのおっさんが出てくるとは誰が予想しただろうか…。キービジュ版アオサギでは「中の人」のキリッとした眼差しがチラ見えしていたこともミスリードとなった。本編のサギ男は全然あんな顔つきではなかったけど…(まさにポスター「サギ」と言えようか…。)

 サギ男は作品の唯一のキービジュアルも務めた重要なキャラなわけだし、ビジネス的なことを考えたら当然あんなおっさんではなく、せめてもうちょっと可愛らしく/カッコよくて、ぬいぐるみやグッズにもしやすいようなキャラクターを造形していたことだろう。駿のセンスをもってすれば、そんなことは全然たやすかったと思う。
しかし宮崎駿は、その「当然」の判断を選ばなかった。結果として私たちに突きつけられたのは、リアルなアオサギと不気味なおっさんの間を行き来するように、時にはグロテスクに、時にはユーモラスに姿を変える異形のキャラクター「サギ男」だったのだ。

 一方、この衝撃をややシリアスに分析すると、私の中にも植え付けられているキャラクターに対するルッキズム(※外見で人を判断したり差別したりすること)も影響しているかもしれない。
日本のアニメにしろ、ディズニーをはじめとする海外アニメにしろ、私たちは(主に商業的な理由で)可愛かったり美しかったりカッコよかったりするキャラクターにいつだって取り囲まれているから、そうした価値観や規範をグニャッとはみ出すようなサギ男のデザインに面食らってしまうわけだ。

 だがこの「面食らう」プロセスこそ、本作にとって必要なのではないか。サギ男は理解を超えた異形のもの、本質的に異なる「他者」を象徴する存在でもある。「異質な他者」と口で言うのは簡単だが、商業主義的な「大人の事情」をブチ破るようなその圧倒的な「異形」を体現するビジュアルに、まさに度肝を抜かれてしまったのだ。
 サギ男に流れるデザイン思想に、過去の宮崎駿作品で最も近いキャラクターは『千と千尋の神隠し』のカオナシではないかと思う。現在の私たちはすでにポップカルチャーのキャラクターとしてカオナシを見慣れてしまっているが、少なくとも映画公開の当初は全然かわいい・愛らしいキャラではなかったと思う。不気味で底知れなく、むき出しのドロッとした欲望を秘めており、同時に気持ち悪いほどの生命力を感じさせる、対話不可能に思える「他者」…。
そんなカオナシが、物語の終わりには、どこかシンパシーや愛着を感じさせる存在になっているという展開こそが、『千と千尋の神隠し』後半の展開を画期的なものにしていた。

 そんなカオナシ同様、サギ男も最初はおぞましさ・気持ち悪さを感じさせるキャラクターだ。池で眞人と対峙した場面のグロテスクな変容は、『失われたものたちの本』のねじくれ男の不気味さ・邪悪さをビジュアル的に表現していると言っていいだろう。だが先述したように、『失われたものたちの本』と『君たちはどう生きるか』の最大の違いは、そんなサギ男(≒ねじくれ男)が、物語が進むに連れて、だんだん愛おしい存在に思えてくるという過程にこそある。

 巷にあふれる「かわいいキャラクター」の規範をあざ笑うかのように、あらゆる意味で「かわいさ」を排したサギ男に、愛着をもたせるのは簡単なことではないはずだが、そこはさすが天下の宮崎駿というべきか、細やかな演出やシーンを積み重ねることで、サギ男への愛着や感情移入を巧みに観客の心に生じさせる。

 特に宮崎駿の天才っぷりを感じたシーンをひとつ挙げたい。眞人とサギ男がキリコに送り出されて一緒に旅をすることになった際、サギ男は上くちばしに穴が空いているせいで鳥形態にもなれないし、疲れてもう歩けないとこぼす。眞人は呆れつつも、その穴をナイフで削った木片でふさいであげることにする。ナイフという、最初はアオサギを殺すために取り出したアイテムが、ここでは何かを作り出してアオサギを助けるために使われる、という反復も巧みだ。

 無事に穴を塞いでもらって、自由に空を飛べる鳥形態に戻ったアオサギだが、そこは「嘘つき」の本領を発揮し、悪態をつきながら眞人を置き去りにしようとする。だが喋るうちにサギ男はくちばしに微妙に違和感を感じ、「もう少し木を削ってくれ」と眞人に頼むのだった。

 この一連の流れは、個人的に本作で最も凄いと感じたシーンだ。非現実的な舞台で非現実的なキャラクターとやりとりをするシーンにもかかわらず、「上くちばしの異物が微妙に気になる」というサギ男の感覚には奇妙な現実感がある。これは「自分に鳥のようなくちばしがあったとして、喋るときに舌がどういう感触になるか」という「鳥視点(空からの視点という意味ではなく、鳥として生きる視点)」を突き詰めて考えていなければありえない発想だ。現実の生命に対する徹底した観察を欠かすことなく、その「現実」を想像力によって非現実のファンタジーに飛躍させる、生き物アーティストの巨匠・宮崎駿の面目躍如といったところか。

 このリアリティとユーモアが絶妙に入り交じる場面で(2回も木を工作する天丼的なギャグも相まって)劇場では笑いが起きていたし、異様な風貌のサギ男に不思議と感情移入させ、愛着をもたせる効果を生んでいた。そして観客だけでなく、眞人とアオサギもこの場面をひとつの転換点として、ある種の相棒(バディ)のような関係となり、共に冒険を先へと進めていくことになる。

 「直前まで眞人を見捨てようとしてたアオサギが、急に相棒みたいになってるのは納得いかない」という人もいるかもしれない。それも一理あるが、やはり先述した2回目の工作が、アオサギと眞人の関係を「ただの道連れ」から「旅の相棒」にギリギリで変えたのではないかと思う。たぶん1回目の工作が完璧にうまく行っていれば、アオサギは本当に悪態をつきながら飛び去っていたのだろう。しかし(眞人の腕の未熟さもあり)工作が完璧でなかったことと、かつ眞人の心に嘘つきのアオサギを大目に見る寛大さがあったからこそ、2人はなし崩し的に「相棒」になることができた。小狡くて恩知らずなアオサギも、さすがに2回も自分のために工作してくれた眞人を見捨てるのは気が引けた…ということかもしれない。

 結局この世の人間関係というのは、これほど微妙な違い(削った木片の数ミリの違いや、片方のちょっとした心の広さなど)で大きく変わるのだ…と考えると、実はなかなか現実的な展開ではないだろうか。2人の間に「友情」に似た感情が芽生える重要な転換点にもかかわらず、一切ウェットな情緒に頼らず、大胆な省略によってドライでユーモラスな場面になってることも凄いと思う。

 

【あばよ、友だち】

 アオサギの話しかしない記事ではあるが、最後に本作の根幹的なテーマについて(アオサギを通じて)考えてみたい。詳細は省くが、終盤まで観ると明らかなように、本作は異世界が象徴する「フィクション=虚構」にまつわる物語として解釈できるのだ。

 しかし「フィクションの力、最高〜!」という無邪気で全能的で「物語の物語」では全くない。むしろ世界的な巨匠にしては、いや世界的な巨匠だからこそ、ほとんど卑屈なほどに謙虚な「物語の物語」だと言える。なんといっても「物語」の象徴である異世界は、本作の最後に文字通り崩壊してしまうのだから。

 物悲しいのは、これほど圧倒的な知名度と評価を得ている宮崎駿が、こうも「物語の力」に悲観的な態度を示す姿勢にも、どこか「それもそうかもな…」と感じてしまうことだ。たしかに宮崎駿のように天才的なクリエイターは、さまざまな傑作を作り上げてきた。だが、それがなんだというのだろう。その素晴らしい傑作群によって世の中がどれほど良い方に変わったというのだろう。 戦争、貧困、疫病、差別、破滅的な気候変動…思いつく限りの悲惨な出来事が今も止まることなく絶賛進行中だ。

 スケールが大きすぎるというのなら、もっと卑近な話として、アニメーションの制作現場を覗いてみるのもいい。素晴らしき夢の世界を作り上げるアニメーターたちの多くは、普通の生活もままならない低賃金で働かざるをえない。クリエイティブな面でも厳しい状況にある。スタジオ・ジブリのアニメ制作部門は解散し、一応の後継者たるスタジオポノックが往年のジブリに匹敵する作品を生み出せているかどうかは疑問だ(※個人の感想です)。にもかかわらず、過去の栄光にすがるように「日本のアニメは世界一!」と熱に浮かされたように語る人は後を絶えない。そんな(外の"世界"のアニメの現状には大した関心がなさそうな)人々に、本作でインコの姿で表現された妄信的な崇拝者たちの姿を当てはめたくもなる。

 世の中の悲惨さや諸行無常を考えるほど、物語の達人である宮崎駿が、物語の力や存在意義そのものに疑いの眼差しを向けるような映画を作ったことに、悲しいことだが納得の気持ちも湧いてくる。『ストーリーが世界を滅ぼす』という本では、そもそもフィクションに代表される「ストーリーテリング」そのものが現代社会にとって大きな害をもたらしているという論考が繰り広げられるのだが、『君たちはどう生きるか』に込められた虚無的とも言える諦念には、そうした考えも連想してしまうほどだった…。

 すでに本作の「アオサギ=詐欺=嘘つき」の言葉遊びについては書いた。しかし宮崎駿の抱える、巨匠ならではの諦念と悲哀を踏まえて本作を観ると、そこに「言葉遊び」以上の重みを感じないだろうか。

 「全てのアオサギは嘘つき」というのなら、全てのクリエイターは嘘つきであり、全てのフィクションは嘘だ。そしてあらゆるキャラクターは存在しない。ぜんぶ嘘だからだ。

 『となりのトトロ』の有名なキャッチコピーとして「このへんないきものは、まだ日本にいるのです。たぶん。」という文がある。だが、いない。「たぶん」とかではなく、絶対にいないと断言できる。いたら生物学がひっくり返ってしまう。ちなみにこのコピーは糸井重里が当初「このへんないきものは、もう日本にいないのです。たぶん。」という形で提案し、それを宮崎駿が「いや、いるんだ!」と言い張って、今知られるものになったという逸話が残っているのだが、糸井重里も宮崎駿も完全に間違っている。「もう日本にいない」とか「まだ日本にいる」とかそういう問題ではなく、トトロは存在しないし、存在したためしがない。ぜんぶ嘘だからだ。

 トトロはいない。ネコバスもいない。まっくろくろすけもいない。しゃべる黒猫もいないし空飛ぶ豚もいない。ナウシカも王蟲もアシタカもヤックルも千尋もカオナシもハウルもカルシファーもポニョもいない。ついでに言えばラピュタもない。「ラピュタは本当にあったんだ」と感極まるパズーには申し訳ないが、ない。あとパズーもいない。ぜんぶ嘘だからだ。

 嘘であり、虚構であり、一時の夢でしかないフィクションは、本質的に脆く無力なものだ。いくら天才クリエイターが神経をすり減らしながら、震える手で「石を積み上げる」ようにその世界を築き上げたところで、その天才がいなくなれば、音を立てて崩れ去ってしまう。そして虚構の世界に浸ってくれた人=観客も、すぐにそんな世界があったこと自体をすっかり忘れてしまうのかもしれない。後には何も残らない。それが本作『君たちはどう生きるか』で描かれたストーリーだ。巨匠の最後(たぶん)の映画にしては、あまりに寂しい結末とも言えるかもしれない。

 …しかしそれでも、この諦念に満ちた諸行無常な作品世界にひとつ、明るい星のように力強い輝きを放つ言葉がある。それは「友だち」という言葉だ。眞人とサギ男は、最初は異なる世界の相容れない「他者」として対立しているが、この物語を通じて、なし崩し的に相棒のようになっていく。虚構の世界に残って、せめてその崩壊を先延ばしにするために自分の仕事を引き継ぐよう、血縁者である眞人に頼む老人の願いを、眞人はきっぱり断る。「現実世界に戻って、アオサギのような友だちをつくる」と眞人は宣言するのだ。

 一方アオサギは「え?俺…?」みたいな、驚きのリアクションを見せていた。付き合いも浅いし、そもそも「友だち」みたいな概念もあまりないだろうし、無理もないだろう。ただ眞人にとっては、最初は殺そうとしていた「絶対的な他者」であったアオサギと、旅を通じて少しだけ心を通わせたこと自体が、心に大きな変化をもたらしたのではないかと思う。血縁に基づく「大いなる宿命」とやらよりも、カオスで得体のしれない他者と「友だち」になれるかもしれない、そんな不確定な人生を眞人は選んだのだ。

 アオサギも(困惑しつつではあるが)そんな眞人の友情に応えてくれる。後継者の不在によって崩壊した異世界から、アオサギは眞人たちを運び出す。元の現実に戻ってもまだ異世界の記憶をもっている眞人を、アオサギは不思議がる。それは眞人が、魔力のある石を持ち帰っていたからだとわかると、アオサギは「これだから素人は…」と少々呆れながら「まぁ大した力もないし、すぐに忘れちまうだろうよ」と言い捨てる。本作に通底する、「物語の力」への諦念を思わせるセリフだ。

 そしてアオサギはあっさりクールに飛び去っていく。異世界が消滅した今、どこに行くつもりなのかはわからないが、きっともう眞人に会うことも二度とないのだろう。しかし、最後にこんな一言を残してくれる。「あばよ、友だち」と。


 そのセリフはドライさと微妙な皮肉も漂う、カッコつきの「トモダチ」といった言い方で、アオサギが本当に友情を感じていたのか、なんとも判断はできない。それでも最後に眞人を「友だち」と呼んでくれたことは確かだ。そしてもうひとつ確かなのは、映画を最後まで観た私たち観客の多くが、アオサギに不思議な愛おしさを感じているだろうことだ。それはつまり、私たちもアオサギと「友だち」になれたということではないだろうか。

 アオサギの衝撃的なキャラクター造形については先述したが、こんなあらゆる意味で全然かわいくないし性格も悪くて小狡かったりもする、不気味な「他者」であるサギ男とだって、物語世界を通じて「友だち」になれるんだとしたら…。それがアニメーションやフィクションの「魔法」でなくて、なんだというのだろう。眞人や私たちが、アオサギという「他者」と築いたささやかな友情こそが、創作物に可能性や希望がまだ存在することの証なのではないか。

 この世界に、サギ男はいない。トトロもネコバスもまっくろくろすけもジジもポルコもナウシカも王蟲もアシタカもヤックルも千尋もカオナシもハウルもカルシファーもポニョもパズーもいない。全ては嘘だ。だがそれでも、みんな私たちの「友だち」だ。巨大なダンゴムシや、足が12本ある化けネコや、謎の半魚人や、無限の欲望を抱えた不気味な仮面の影とだって、アニメーションの世界でなら「友だち」になれる。『君たちはどう生きるか』のアオサギは、そうした「虚構の他者」を凝縮したような存在なのかもしれない。数多の不思議で奇妙で不気味な、それでも愛すべき「友だち」に巡り合わせてくれた宮崎駿が、最後に送り届ける作品のキービジュアルを飾るにふさわしい、素晴らしいキャラクターではないだろうか。


 アオサギが言うように、結局フィクションなんてものは、すぐに忘れてしまうような無力な存在にすぎないのかもしれない。それでも、作品やキャラクターがたとえ一時でも、観た人の「友だち」になれたんだとしたら、孤独な時間に寄り添うことができたのだとしたら、慰めや励ましや勇気を与えることができたのだとしたら、それは確かに良かった、この世界を作って良かったと思えるよ…という、宮崎駿から私たち観客に向けたささやかなメッセージが、アオサギの「あばよ、友だち」に込められているように思えてならないのだ。

 

ーーーおわりーーー

 

 

2万字近い長さになってしまったし本文は終わりだが、はてなブログが記事の有料販売サービスを始めたそうなので、好奇心で使ってみた。補足的なおまけ文章を2000字くらい書いてみたので(Twitterで書いたことと一部重複するが)、記事が面白かった人は投げ銭感覚でどうぞ。

 

おまけ【君たちはどう生きるか、って言うけど結局どう生きたら良いわけ?具体的に】

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