沼の見える街

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こういうのでいいんだよLV100。『ダンジョンズ&ドラゴンズ アウトローたちの誇り』感想&レビュー(ネタバレあり)

「頭空っぽにして楽しめる映画は、頭空っぽでは作れない」という有名なことわざがある。いや実際にはないが、多くのクリエイターが同意する真理だろう。観る側は頭を空っぽにしようが熟考しようが好きに観てOKなのだが、作る側が「頭空っぽ」で雑に適当に作ってしまえば、まず間違いなく観客は「えっ今の展開おかしくね?」とか「今時こういう表現はないわー」とか「とにかく話がつまらない」とかいちいち気を散らされてしまい「頭空っぽ」では楽しめなくなることだろう。「頭空っぽで楽しめる」とか「こういうのでいいんだよこういうので」と観客が思えるような「ちょうどイイ!」塩梅の作品を作るのは、実は極めて高度な技術なのだ。その真実を改めて思い知らせてくれる、「こういうのでいいんだよLV100」みたいなエンタメ大作が劇場に降臨した。『ダンジョンズ&ドラゴンズ アウトローたちの誇り』である。

結論から言って、素晴らしいエンタメ作品であった。実写エンタメ大作という括りでは、ここまで躊躇なく「万人にオススメ」できる映画を久々に観たな、とさえ思う。まさに「快作」と呼ぶのがふさわしく、先月の海外アニメ『長ぐつをはいたネコと9つの命』に匹敵する、よっぽど娯楽作品が嫌いとかじゃなければマジで誰が観ても楽しめるエンタメになっているので、ぜひ劇場に駆けつけてほしい。

 

【ざっくりあらすじ】

舞台は多様な種族やモンスターがいるファンタジー世界。頭は回るが腕っぷしは弱い盗賊エドガン(クリス・パイン)と、荒っぽいけどめちゃ強い相棒の戦士ホルガ(ミシェル・ロドリゲス)は、監獄から脱出をはかり、ある困難なミッションに挑戦する。気弱な魔法使いサイモン(ジャスティス・スミス)、変幻自在なドルイドのドリック(ソフィア・リリス)、ド真面目だが変に面白い聖騎士のゼンク(レゲ=ジャン・ペイジ)など、癖の強めな面々も仲間に加え、ダンジョンやモンスターやドラゴンの脅威をくぐりぬけるうち、一行は世界の命運がかかった陰謀に巻き込まれていく…。

 

【伝説のゲーム「D&D」】

何も知らずあらすじを聞くと「なるほど、ベタな魔法ファンタジーって感じなのね」と思うだろうが、それもそのはず、実は本作は、テーブルトークRPGとして歴史的にも重要なゲーム『ダンジョンズ&ドラゴンズ(通称D&D)』の映画化なのである。D&Dは、いわゆるRPG的な「ドラゴン」とか「ダンジョン」とか「魔法」とかの概念を、今私たちが馴染んでいるような形で広く作り上げた立役者と考えられている。その意味で本作は「ベタ」どころか、むしろ「元祖」と言っても言い過ぎではないような歴史と伝統がある世界観の映画化なのだ。

ちなみに元ネタのTRPG「D&D」については、最近アトロクでその歴史や意義を特集していたので、本作が楽しかった人は聞いてみると役立つと思う。

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「D&D」を元ネタにした映画であることは事前に知っていたので、何かTRPGっぽい要素(サイコロ振るとか?)を入れてきたり、たとえば『LEGO® ムービー』のように「第4の壁」を破るメタな仕掛けがあったりするのかな?と少し身構えていたのだが、いざ観てみれば(少し拍子抜けするほど)何の予備知識もいらず楽しめるエンタメに仕上がっていて驚くほどだった。

気軽に楽しめるとはいえ、美術セットも豪華だったりと、明らかに金がかかっている。セットとCGをうまく組み合わせているのか、パッと見ではほとんど大予算の『ゲーム・オブ・スローンズ』とも大差ないようなレベルに仕上がっている。そんな非常にしっかりと構築されたファンタジー世界観で繰り広げられるのが、しょうもない脱力ギャグ満載な、ダメ人間たちのおとぼけ珍道中だというのがまた本作のスゴイところだ。

 

【恋愛にならない男女バディの良さ】

「スットコドッコイ指輪物語」とも呼ぶべき、楽しい冒険ファンタジーの核となるのは、やはり魅力的な主要キャラクターたちだ。

まずは主人公の男女コンビ、エドガン&ホルガの描かれ方が良い。

冒頭の初登場シーンからして象徴的だ。マッチョなタフガイ囚人が僻地の監獄に送られ、収監された牢屋にはすでにエドガンとホルガがいた。なぜか手袋を編みながら男に挨拶するエドガン、無愛想にジャガイモを食べているホルガ。女性であるホルガを見て「遊ぼうぜ」などと軽口を叩く男に、エドガンは「やめとけ」と忠告するが、なおも絡もうとする男を、ホルガは一瞬でブチのめす。崩れ落ちる男、何事もなかったかのように話を続けるエドガンとホルガ…。

このシークエンス、説明的なセリフは何一つないにもかかわらず、この2人がどういうキャラクターで、どういう関係性で、どんな人生を送ってきたのか、観客になんとなく伝わるようになっている。あるキャラクターを観客に紹介するための導入シーンとして、お手本のように理想的と言っていいだろう。

エドガンを演じるクリス・パインは、最近観た彼の演技の中ではベストアクトと言っていいほどハマっていた。腕っぷしは弱いので、主に作戦や知略を担当するのだが、それもけっこうな頻度で失敗する。そんなダメ人間ではあるのだが、諦めずに目的を叶えようとする姿を応援してしまうのは、クリス・パインの演技の繊細さも大きい。バラバラになりかけたチームを、自分の弱さをさらけ出しながらまとめる彼の「リーダー」としての資質の描かれ方は、リアリティがあるものだった。後に明らかになる、妻の命を失ったエドガンを苛む「後悔」は、「ああ〜それはキツイ…」と本当に思えてくるヘビーさなのだが、だからこそ彼の成長と変化、そして最後にたどり着く心境には泣かされる。

相棒のホルガはもはや「ミシェル・ロドリゲス」という概念をそのまま具現化したみたいなキャラと言えるが、やはり無骨な女性がバンバン戦闘力を発揮する姿は気持ちいい。「強い女戦士」表象自体はそれほど珍しくないと言えるが、特に注目すべき場面は、元カレの家を尋ねるシーンだろう。「荒くれ者で家を開けがちな男と、彼を愛しているが付き合いきれず、別の男と次の人生を始めてしまう女」的な、よくある男女のジェンダーロールをひっくり返したような場面になっている。こうした性別規範のズラシと破壊をちょっとずつ入れていくことで、風通しの良さを作品全体にもたらす技術は、日本のエンタメも大いに見習うべきだろう。

さらにエドガンとホルガの間に、いわゆる恋愛フラグが一切立たないのも良い。その上で、互いにかけがえのない「家族」になっていく…というストーリーとなっているわけだが、それを恋愛なしで成り立たせてしまう手腕も凄いなと思う。男女だからといってむやみに恋愛関係にしてしまう安易な手癖に日頃からうんざりしている身としても、恋愛の逃げ道に頼らず人間性と関係性を正面から描写しようとする本作は、かなり痛快だった。

 

【ダメだけど愛すべき"旅の仲間"】

脇を固める他のキャラクターも、みんな少しずつダメだったり厄介だったりする部分を抱えているのだが、それがしっかり魅力につながっている点が高度なキャラ造形だと感じる。

まずは気弱な魔法使いで、隠れた才能がありながら、こそ泥めいた稼業で糊口をしのぐサイモン。演じるのは『名探偵ピカチュウ』の主人公でおなじみ、ジャスティス・スミスだ。偉大な魔術師を祖父にもつコンプレックスに向き合い、精神的な成長を遂げるという、本作のもう1人の主役とも言える重要な役柄を、彼ならではの人懐っこい雰囲気でうまく演じていた。これからスターダムを駆け上っていきそうな注目の若手俳優だ。

そして自然の化身であり変幻自在のドルイド、ドリック(最推し)。後述するが、本作のわくわく動物ムービーっぷりを激増させてくれた立役者である。演じるのは『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』でベバリー演じたソフィア・リリス。Netflixの『ノット・オーケー』の主役もとても良かったので、メジャーシーンで活躍してくれて嬉しい。あんなにかわいらしい見た目なのに、アウルベア(フクロウ熊)という名前そのまんまなファンタジー巨獣に変身して暴れまわる、ハルク系のパワータイプなのも最高。ちなみにアウルベアのデザインには、シロフクロウの特徴をうまくとらえるための資料集めから始め、数ヶ月を費やしたという。

「旅の仲間」の中でも目をみはる存在感を放つのは、レゲ=ジャン・ペイジ演じる聖騎士・ゼンクである。超真面目すぎて逆にオモシロ感が出ているキャラで、その繊細な美男子っぷりとのギャップがまた面白い。一見かなり知的なオーラを醸し出しているが、洞窟で「賢者しか襲わない」脳みそモンスターと出会った時、彼も他のおバカ連中と一緒に無視されていたので、実はやはり彼もまたバカ…ということなのか(観客も「そうかもな…」と納得できるのもスゴイ)。別れ際、歩き去っていく姿を写し続けるギャグに笑ったが、その後も地味に(遠すぎてボヤケていたが)いつまでも写り込んでるのがさらに笑えた。

悪役ではヒュー・グラントの演じる詐欺師フォージも、おヒュー度120%って感じで最高だった。大傑作『パディントン2』の悪役があまりに凄まじいハマりっぷりだったせいで、ヒュー・グラントのその後のキャリアを決定づけてしまった気もするが、本人が生き生きと演じているので何も問題はないだろう…。

 

【ギャグとサスペンスは同じ技術】

このようにキャラクターも善悪問わず魅力だが、個人的に本作で最も感心したのはシナリオであり、ストーリー面だ。その美点を言葉で説明するなら「笑いとスリルを高いレベルで両立している」ことだと思う。ギャグとサスペンスの両立とも言い換えられる。

本作の特徴的な点は、脱力するようなしょ〜〜もないギャグシーンと、ガチで手に汗握るようなスリリングなサスペンスシーンが、両方たくさん含まれ、しかも作品のトーンを損なうことなく同居していることだ。

ちなみに本作の監督の2人、ジョン・フランシス・デイリーと、 ジョナサン・ゴールドスタインは、『スパイダーマン:ホームカミング』でジョン・ワッツ監督と一緒に脚本を務めた人である。『スパイダーマン:ホームカミング』も、コメディとスリルをハイレベルで両立した、MCU屈指の傑作だと思っているので、本作のクオリティにも納得という感じではある。

「ギャグとホラーは紙一重」というのはよく聞く話だが、実は「ギャグとサスペンスも紙一重」というか、ほぼ同じ技術なのではないか…?と、本作を観て改めて気づくことになった。ギャグもサスペンスも「緊張と緩和」の呼吸のとり方がクオリティを決定づけるので、片方が巧い作り手は、もう片方も巧い傾向にあると思う。

本作を代表するギャグシーンをひとつ選ぶなら、エドガンたちが墓場で死者を生き返らせて、質問をするシーンだろう。生者と死者のテンポの良い掛け合いによって、かなり笑える場面に仕上がっているのだが、「1人の死者に5つしか質問できない」という謎ルールの設定によって、会話にちょっとした緊張感(サスペンス)をもたらしているのが上手い。この「質問は5つまで」のような明快なロジックを提示することで、緊張(と笑い)を生む手法は、本作の主要なサスペンス的な見せ場にも適応されている。

 

ーーー以下ネタバレ多め注意ーーー

 

そんなわけで、特に素晴らしいと思った本作のサスペンスシーンを3つ紹介する。ややネタバレなので、なるべく鑑賞後に読んでほしい。

 

○わくわく動物変身エスケープ

どんな生き物にも変身できる能力をもつドルイドのドリックが、ハエに姿を変えて敵のアジトに潜入する。しかし、悪の魔術師ソフィーナに正体を見破られてしまう! そこから、様々な生き物に姿を変えながらドリックが城を脱出する…というシークエンスが始まるのだが、この一連の場面が驚くほど素晴らしかった。

ドリックほど自由自在の「変身能力」を持っていれば、下手すれば「なんでもありじゃない?」と緊張感を損なってしまいかねないが、動物にしか変身できないというルール設定と、敵の魔術師も探知能力を持っていることを示すことで、スリルを確保している。

ハエ・ネズミ・タカ・シカなど、次々と異なる生き物に変身して、鎧の中や空に逃げていくドリックの姿をワンカット風の撮影で追うショットは、映像的な快楽に溢れている。なおプロダクションノートによると、シカの姿は、パルクールを専門とするスタントマンが茶色い服を着て実際に演じることで、群衆やカメラにダイナミックな反応を生み出したという。

変身能力の楽しさを絵で表現すると同時に、今にも捕まってしまうかも?という緊張感も両立した、強力なサスペンスが構築されていた。まさにセンスオブワンダーに溢れた、本作屈指の名場面だろう。

余談だが動物といえば本作、地味に動物(ファンタジー動物も含む)の描写が良かったよなと思う。あの恐竜のようなヘビクイワシのような鳥?のモンスターを、馬+ニワトリみたいな役割で家畜っぽく使役してる設定とかも妙にリアルで面白かった。そして中盤の山場である、レッドドラゴンのでっぷり太った姿にも意表を突かれたが、ドラゴンとは言え「動物」である以上、そりゃ引きこもってたらああなるわな…というリアリズム表現でもあったなと。

 

○どきどき魔法犯罪サスペンス

どこにでも空間移動ポータルを作れる「そこ・ここの杖」を活用して、敵の本拠地に乗り込むための「犯罪計画」をチームが企てる、一連の場面も素晴らしかった。「そこ・ここの杖」は、ドリックの変身能力と同じく「それなんでもアリじゃね?」と思えるくらい便利な魔法アイテムなのだが、「見える場所にしかポータルを作れない」という制限も示しつつ、『オーシャンズ11』も連想する魔法クライムサスペンスを作り上げる手法が見事だ。

「何ができるのか・できないのか」をしっかり観客に示し、「このキャラがこうしたからこうなった」というロジックをきっちり構築しつつ、誰の目にもわかりやすいエンタメとして成立させるという意味で、本作全体のアクションの良さが最も良く現れた場面と言える。全てがうまくいったと思いきや、ごくシンプルな「誤算」によって急に手詰まりになったりするのも、犯罪系スリラーの王道を行っていて面白いし、本作らしい脱力ユーモアも光っている。

 

○デスデス魔獣迷宮デスゲーム

終盤で主人公たちが巻き込まれる、権力者たちの主催する悪趣味な「デスゲーム」もスリリングだった。コロッセオのようなダンジョン闘技場で、満員の観客が見守るなか、主人公たちは魔獣と命がけの追いかけっこをすることになる。本作はコメディタッチとはいえ、『ゲーム・オブ・スローンズ』のような残虐さも蔓延する世界観なのだ…とよくわかる場面でもあった。

実際、ここは本作の中ではかなり恐ろしいシークエンスで、「鬼ごっこ」の中で判断をミスった人が容赦なく死んでいく姿は、『イカゲーム』さながら手に汗握るサスペンスを生んでいた。さらに主人公たちが魔法などの特技を封じられていることもあり、けっこうな絶望感もある。だからこそ数少ないチャンスを掴み、自身の能力や邪悪なギミックをロジカルに活かして危機を打開する展開はカタルシスがあった。

このデスゲーム場面、セットも豪華で派手な見せ場なので、普通ならこれをクライマックスに持ってきそうなものだが、これをクリアした後に真のラストバトルが待っている…という作りも、まさに「満漢全席」という感じの満足度を生んでいた。

 

以上「サスペンス」的に優れた見せ場をとりあえず3つ選んでみたが、どれも「映画にこんなシーンがひとつでもあったらそれだけで満足して劇場を後にできる」くらいのハイレベルな場面だ。なのに、これらがあくまで「たくさんある見せ場の中の一部」に過ぎないという事実も驚くべきことだ。

そんな面白い見せ場の数々は、必ずしも「見たことないほど斬新!」というわけではない、というのも逆に興味深い。たとえば『RRR』みたいに、全ての要素が常に観客の想像の50倍上を行くみたいなブッ飛んだ特殊例も確かに凄いのだが、この『ダンジョンズ&ドラゴンズ アウトローたちの誇り』のように、全てのシーンが観客の想定より1.5倍くらいフレッシュだし面白い…!くらいの塩梅でも、ちゃんとギャグやサスペンスを論理的にブラッシュアップしていけば、全体の満足感はこんだけ高くなるんだな…と感銘を受けたりもした。

 

【濃厚でオタクな元ネタ、しかしバーンと開かれたドア】

冒頭でも書いたが、本作はTRPG『ダンジョンズ&ドラゴンズ』が元ネタだ。そっちはそっちで長く深い歴史のあるコンテンツであり、世界中にマニアが沢山いるので、もっとオタク的な方向に振り切ることもできたかもしれないし、それこそ「第四の壁」を破る的な演出も可能だったかもしれない。しかし本作『ダンジョンズ&ドラゴンズ アウトローたちの誇り』は、あくまで初心者大歓迎な娯楽映画として、さらっとスムーズに楽しめる作りだ。そのバーンとドアを開け放つような、圧倒的な「開かれ」っぷりに、初見だと「TRPGゲームが元ネタ」と全く気づかない可能性あるよね…?と少し心配になったほどだった。

しかし、あえてオタク文化圏への過剰な目配せ・ウケ狙いや、メタな奇手奇策に頼らず、真に万人が楽しめる「開かれた」ような作りにしたことは、結局この映画にとっても、元ネタの『ダンジョンズ&ドラゴンズ』にとっても良かったんじゃないかと思う。仮に元ネタの存在に気づかなかったとしても、まずは映画を楽しんだ後で、詳しいマニアたちの「あそこはあれが元ネタで…」という語りによって、改めて「そうなんだ」と興味を深めることもできるのだから。(まさに私が今そういう状態である。こちらの記事↓もじっくり読んでみるつもりだ。)

『ダンジョンズ&ドラゴンズ/アウトローたちの誇り』を原作TRPG側から紹介してみた|マイケル・スタンフォード|note

比較するのもなんだが、たとえば同じ日に観た『シン・仮面ライダー』は、「歴史ある有名コンテンツ」の現代版リブートという点が本作と共通しているが、かなり対照的な作品と言えて、比べてしまう部分も多かった。庵野監督という際立ったオタク系クリエイターの手による、作家性が色濃い映画なので、ある程度「内向き」になるのは仕方ないし、そこが魅力という声も理解できる。シリーズファンが「これはあの過去作を踏襲していて…」的に楽しめる要素も色々盛り込まれていたのだろうと思う。しかし肝心のシナリオや演出といった、エンタメを成り立たせる基本的な部分が、練り込み不足に感じられて、どうしても作品として「閉じた」印象は否めなかった。

どんなにマニアックな文脈の上にあろうと、まずは「何も知らない人を楽しませることを最優先する」ことに全力を尽くした本作『ダンジョンズ&ドラゴンズ アウトローたちの誇り』からは、(『シン・仮面ライダー』に限らず実写でもアニメでもそうだが)内向きに閉じがちな日本エンタメが学ぶべきことは多いと感じる。

もちろん予算など、海外の大作エンタメと比べれば不利な面もあるので単純比較は難しいが、真っ先に学ぶべきは、まずはなんといってもシナリオであり、特にサスペンスとギャグの構築ではないだろうか。根本的には同じ技術であるサスペンスとギャグ、つまり「スリルと笑い」という、エンタメを成り立たせる二大要素を強化することで、作品としての完成度は爆上がりするはずだ(ウェットな感動/泣かせやマニアックな小ネタはその後でいいと思う)。本作のようにアメリカだけでなく、インドや韓国などアジア圏にも沢山の優れたエンタメ作品がある。それらから学び、その美点を吸収していけば、「オタク的な読み解きも存分にできるが、万人に開かれていて、新規のファンの獲得にも繋がる」という、理想的なバランスのエンタメ作品を日本で作ることも、きっと夢ではないだろう。

 

【おまけ】

ちなみに時間の都合で日本語吹き替えで観たんだけど、全然よかったです(まぁ最近は吹き替え事故案件もだいぶ減った印象だが)。ホルガが甲斐田裕子さんだったの、ファンなのに気づかず不覚。あと途中で出てくる死体が無駄に超豪華なので耳を澄ませときましょう…。

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ニャー Only Live Once.『長ぐつをはいたネコと9つの命』感想&レビュー(ネタバレあり)

人生は一度きり。YOLO (You Only Live Once)という英語のスラングにもなっているほど、誰もが知っているはずの真実であるにもかかわらず、私たちはそのことをあまり意識しない。それは人間が、死について考えるのが苦手だからなのかもしれない。そんな私たちの目をさますべく(?)、ファミリー/全年齢向け作品であるにもかかわらず、「死」や「一度きりの人生」について真正面から語る作品が現れた。しかも超カッコいいアクションと笑えるギャグを山のように散りばめながら…。映画『長ぐつをはいたネコと9つの命』である。

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ドリームワークス・アニメーションの成功を築いた大ヒット作『シュレック』シリーズの人気キャラ「長ぐつをはいたネコ」こと「プス」。人気のあまりプスを主人公にした長編劇場アニメ『長ぐつをはいたネコ』(2011)も作られ、本作『長ぐつをはいたネコと9つの命』はその10年以上越しの続編となる。

久々のシリーズ続編ということもあり、『シュレック』シリーズも前作『長ぐつをはいたネコ』も観てなくても全然問題なく楽しめる作りとなっている。とはいえシリーズファンに嬉しい要素もいくつかあるので、余裕あれば観ておくと楽しいはず(ちょうどamazonレンタルで100円セール中だし)。

ちなみに本作『長ぐつをはいたネコと9つの命』のジョエル・クロフォード監督って『クルードさんちのあたらしい冒険』の監督ですね。原始世界コメディ『クルードさんちのはじめての冒険』の続編なのだが、ギャグもキレまくりで面白かったのであわせて観よう。

 

【ざっくりあらすじ】

おしゃれな帽子にマント、そして長ぐつをトレードマークに、お尋ね者の人生を謳歌していたネコ・プス。今日も元気に歌って踊って大冒険、ついでに人助けに励んでいたが、少々ハシャぎすぎてうっかり死んでしまう! 「ネコには9つの命がある」という言い伝え通り、プスも9つのライフを持っていたはずが、すでに8回死んだので「残機1」となってしまった…。ゲームオーバー、もとい本当の死の恐怖に取り憑かれ、一度は引退も考えるプス。だが、どんな願いも叶う「願い星」の話を聞きつけたプスは、残機(残りライフ)を復活させるために旅に出るのだった。

 

【あえて「減らす」大胆アニメーション】

本作『長ぐつをはいたネコと9つの命』のアニメーションを最もよく特徴づける要素…それはアクションである。冒頭のアクションシーン(vs山の巨人)がYouTubeで公開されているので、観てもらった方が早そうだ。

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圧倒的に巨大な山の巨人と闘いながら、プスが街をダイナミックに飛び回る、実にワクワクするアニメーション活劇となっている。巨人がぶん回す鐘が家の屋根をぶっ壊すたびにゴーン、ゴーーンと鳴る音を、BGMとリズミカルに連動させ、攻撃をかいくぐって街を走り抜けるプスの疾走感をさらに増す演出の巧みさなど、今年のアニメ界でも最高のアクションシーンのひとつと言っていいだろう。

一方でこのアクション、けっこう独特なタッチで描かれていることにも気づくはずだ。その独特な味わいを生む隠し味のひとつが「コマ数」である。上のアクション場面だと、特にプスが「グラシアス」と言ってコーヒーを飲む(ちなみに原語では「おっ、エスプレッソか」と言ってる)あたりから顕著なのだが…

動画を見ればわかるが、こうしたプスの一連の動きが、カクカクした「コマ数を減らした」アニメーションになっている。カフェインで興奮したプスの尋常ならざる勢いを表しているとも取れるが、この場面に留まらずその「カクカク」した動きは、本作のアクションやバトルの方針全体を決定づけるアニメ表現になっている。アニメ作品の「コマ数の多さ」がもたらす滑らかさ、いわゆる「ぬるぬる感」とは、かなり正反対のアプローチを取っているのだ。

ディズニー/ピクサーなど、世界的に興隆している3Dアニメーションは、CG技術の格段の進歩もあって、まるで実写かと思うほどに違和感のない、「自然な」「なめらかな」動きを3Dキャラが行うのが主流だ。アニメではないがジェームズ・キャメロンの『アバター ウェイ・オブ・ウォーター』にしても、ハイフレームレートという「超ぬるぬる」表現がそのCGやVFXの謳い文句だった。そして日本で主流の2Dアニメでも、コマ数の多い「ぬるぬるした動き」は今なお「アニメのクオリティの高さ」と強く結び付けられているように思う。基本的に「コマ数が多い(ぬるぬる)=ゴージャス=良いアニメ」というわけだ。

そんな中、『長ぐつをはいたネコと9つの命』は、ぬるぬる至上主義に逆らうかのように、意表を突く「カクカク」した動きを意図的に織り交ぜることで、アクションシーンに独特のメリハリをもたらしている。あえて「コマ落とし」をすることで、よく考えれば奇跡のような「"絵"の連なりとしてのアニメ」の豊かさを、かえって観る者に強く意識させるのだ。これは、今も絶え間ない進化が続く3DCGアニメ界に現れた、新たな「答え」であるとも言える。

 

【『スパイダーバース』の衝撃と、その残響】

ここで少し、近年のCGアニメの明確な潮流を振り返ってみたい。ディズニー/ピクサーだけでなく、3DCGはここ数十年の世界のアニメを席巻し、CGの質をいかに高めていくか、競うように進歩が遂げられてきた。それと同時に、どうしてもツルッとした質感になりがちで、無機質な印象も与えかねない3Dアニメ表現に、どのように手描き2Dアニメ的な良さや美しさを復権的にもたらすか…という挑戦も続いてきた。

その挑戦にひとつの「答え」を提示した超重要アニメ作品が、やはりなんといっても『スパイダーマン:スパイダーバース』(2019)である。コミックを彷彿とさせるバキッとしたアナログ的な色彩や、2次元的なエッジィな構図をふんだんに織り交ぜながら、ディズニー/ピクサー系の3DCG表現とは全く異なるCGアニメーションのあり方を鮮烈に提示した。まさに革命的な作品だったのだ。

同じくソニー・ピクチャーズ・アニメーションのNetflix『ミッチェル家とマシンの反乱』(2021)もその流れを汲む傑作だったこともあり、他の制作会社も『スパイダーバース』以降の潮流を大いに意識するようになる。昨年の筆頭は、ドリームワークスの映画『バッドガイズ』(2022)だろう。

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詳しくは↑の記事でも語ったが、『バッドガイズ』は「コミック/イラスト風2Dアニメの魅力を活かした3Dアニメ」という『スパイダーバース』以降のトレンドを踏襲しながらも、また全く異なるドライ&ポップなアニメ表現を志した点で、見応え抜群だった。さらにそれに続くのが本作『長ぐつをはいたネコと9つの命』なので、ドリームワークスもソニー・ピクチャーズと競い合うように、こうした2D+3Dの実験を続けていくぞという意思表明(宣戦布告?)かもしれない。

さらに今年は、その実験的姿勢をさらに先鋭化させたような映画『ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!』が夏に公開したり…

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極めつけに、これらの潮流の起点となった『スパイダーバース』の正統続編『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』の公開も控えているので、いよいよ2023年の海外アニメはとんでもないことになりそうだ。楽しみすぎる。

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ちなみに全くジャンルは異なるものの、ほぼドキュメンタリーに近い手法で作られたアート的なアニメ映画である『FLEE』の、あえての違和感をもたらす「カクカク」した表現にも、『長ぐつをはいたネコと9つの命』のコマ落とし表現と通じるものを感じもした。エンタメとアート/社会派の両方の領域で、アニメ表現を根底から問い直すような探求が続いていると思うと、アニメファンとしては心躍る。

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ーーー以下、ネタバレ注意(大したネタバレはないと思うが)ーーー

 

【「おとぎ話のしゃべる動物は大嫌いだ!」】

『長ぐつをはいたネコと9つの命』は主人公がネコなので、日頃から唱えている「動物が主人公の海外アニメ映画にハズレ無しの法則」にまた新たな実例が生まれたことになったわけだが、「動物映画」として本作を観た時に、どんな見どころがあるだろうか。

本作の悪役が「おとぎ話に出てくる、しゃべる動物は大嫌いだ!」と微妙にメタな悪態を叫ぶので笑ってしまうのだが、この台詞は意外にも本作の動物描写の肝を捉えているようにも思う。「童話に出てくる、しゃべる動物」と「現実的な動物」の間の差異に、かなり自覚的なようにも思えるからだ。

その意味で面白い場面は、前半で出てくる「ママ・ルーナの家」こと保護猫ホームだ。もう一度も死ねないことを悟っただけでなく、恐るべき賞金稼ぎウルフの圧倒的強さにも恐怖を抱いたプスは、ついに挫折して「長ぐつをはいたネコ」稼業(?)をやめて、そのホームで老後のような余生を過ごすことに決める。

ホームで暮らすネコたちは、かなり現実味のあるネコとして描かれている。プスに代表される「フィクショナル/童話的な動物」と、保護ネコたちのような「リアルな動物」が混在している世界観という意味では、人間の中にごく少数の動物キャラが混ざっていた『バッドガイズ』とも通じる不思議なズレがある。普通に言葉を話したり立ち小便をしたり料理までこなすフィクショナルなネコ・プスと、保護ネコたちとの間に、リアリティ面でのギャップが生まれてしまっているが、それがまたギャグになっていて笑える。

一方、その「リアルとフィクション」のギャップはギャグ要素にとどまらない。プスはホームで暮らす日々の中、その「現実的」な世界にどんどん埋没し、食事やトイレのような日常動作も、すっかりごく普通のネコのようになっていく。「何回も死ねる」という、「フィクショナル/童話的」なスーパーパワーを失ったことで、プスは夢も希望も勇気も失い、「リアル」な動物に限りなく近づいてしまったわけだ。

そんな暮らしにすっかり馴染んでしまったプスだが、ある重要な動物キャラクターと出会う。それが「ワンコ」と呼ばれる名無しの犬だ。ネコのフリをしているが実は犬だった…という設定である。

ワンコは、本作の「フィクショナルな動物」と「リアルな動物」の間に存在する不思議なギャップを埋め、橋渡しするような動物キャラでもある。その外見はアニメ的に直球の可愛さというよりは、かなりリアリティを意識した「犬」造形となっている。ぼっこりしたおなかの質感も妙に生々しい。よく見ると縫われた切り傷の跡があるし…。

そんな絶妙にリアルで生々しい外見からうっすら伝わるように、ワンコは常に周りから虐められ、見捨てられ、忘れられるという、壮絶な生涯を送ってきた。童話に描かれることは決してない、残酷な現実世界に数多く存在する「現実の動物」の苦しみや悲しみを、その一身に引き受けるかのように…。ワンコが「笑い話」として語りだした、あまりに悲しすぎる生い立ちに、プスとキティが思わず絶句して「そんな悲しい笑い話、聞いたことないよ…」とこぼす場面は、笑っていいのか泣いていいのかわからない気分になる。

だがワンコ自身は、自分の悲惨きわまる「リアル」な境遇を苦にしていない。根っから前向きで明るい性格のまま、想像力を羽ばたかせながら、「いつかセラピードッグになりたい」という夢まで語りつつ、ハッピーな"今"を謳歌しようとしているのだ。これは、実はプスと正反対である。「童話的/フィクショナルな動物」としてヒーローのように活躍し続けてきたが、死の恐怖と生の限界に取り憑かれ、"今"を見失って「現実」に埋没してしまったプスと、ワンコは対照的なキャラクター構造になっているのだ。自分と真逆のワンコを最初は鬱陶しがっていたプスだが、そのエネルギーと純粋さに、徐々に心を開いていくことになる。

このように、「童話的/フィクショナルな動物」と「リアルな動物」を、プスの変化によって描き分け、その狭間に存在するワンコとの関わりによって、本作の根本的なテーマを際立たせようという、何気に高度な試みが本作には見られる。「動物アニメのリアリティ設定」の問題を逆手に取ったような、またなかなかフレッシュな動物描写が現れたな…と感じさせた。

 

【濃すぎるサブキャラたち】

ワンコを筆頭として、本作には数多くの濃いサブキャラが登場する。願い星を追い求めるプス・キティ・ワンコの賑やかなトリオにくわえ、彼らを追いかけるライバル的なグループ(ウルフのみ単独行動だが)が3つあり、しかもその全員がやたらと濃いメンツなので、2時間の映画としてはだいぶギッシリ詰め込みまくったキャラクター配置となっている。だがそれでも全く混乱した感じがせず、鑑賞者がスッキリと理解できるストーリーラインが作れていることは称賛すべきだろう。

 

ゴルディロックスと3匹のクマ

本作のわくわく動物映画っぷりを3倍増してくれた、3匹のクマと少女ゴルディロックスの犯罪ファミリーである。『3匹のクマ』の童話がモチーフなこともあり、おかゆの「熱い/冷たい/ちょうどいい」を少女が確かめるシーンを元ネタに、「こっちは○○すぎる」「こっちは□□すぎる」「でもこれは…ちょうどいい(Just Right)」が決め台詞、もといお約束ギャグとなっている。

『3匹のクマ』とゴルディロックスの物語に、日本での知名度がどれくらいあるかはわからないが、「ゴルディロックス相場」とか「ゴルディロックス・ゾーン」とか、経済や宇宙科学の分野でも「ちょうどいい環境」を示す言葉にもなっているので、聞いたことはあるかもしれない。

最初は願い星を巡るライバル集団として登場しつつも、「ちょうどいい」というキーフレーズを繰り返しながら、徐々に彼女たち(血のつながらないクマと人の異種ファミリー)の成り立ちと絆が掘り下げられていく。その過程でワンコが絶妙に絡んでくるのも上手い。なかなか現代的なテーマの心温まる物語を見せてくれる、魅力的な準主役キャラクターだった。

ちなみに原語版では少女ゴルディロックス役がフローレンス・ピュー、お母さんクマがオリヴィア・コールマンという豪華キャストなので、個人的にはそっちも聞きたかった。日本語吹き替えキャストももちろん良かったが、やはり原語版と選びやすい上映形態にしてほしいものだ…。

 

ジャック・ホーナー

本作の悪役である。イギリスの伝統的な童話『マザーグース』の「リトル・ジャック・ホーナー」が、「ビッグ・ジャック・ホーナー」となって、私利私欲に溢れた大企業のボスを務めている。

前作『長ぐつをはいたネコ』では『マザーグース』のハンプティ・ダンプティが重要な(婉曲)役割だったので、2連続で『マザーグース』からこういう感じのキャラかよ!と思わなくもない。どういう扱いなんだマザーグース。しかも一応は複雑な過去を背負わされていた前作のハンプティ・ダンプティと違うのは、今回のジャック・ホーナーは単に恵まれた環境でひねくれて育っただけの、清々しいほどのカス野郎だということだ。まぁ「人にはそれぞれ事情がある」と伝えるのが大切なのと同じくらい、「そうは言っても悪いことは悪い」と伝えることも児童向けエンタメの立派な役目だと思うので、単なるカス野郎の悪役もまだ全然いていいと思う。

ただこのジャック・ホーナー、とんでもないカス野郎ではあるのだが、先述した「おとぎ話のしゃべる動物は嫌い」発言に象徴される、『シュレック』シリーズらしいメタ的な楽しさにあふれたキャラでもある。それが最も顕著なのは、童話に登場するアイテムやキャラをコレクションしていて、それを悪行のためにバンバン使ってくるという設定だろう。

たとえば『シンデレラ』のガラスの靴やかぼちゃの馬車(てか戦車)、『メリーポピンズ』の傘、ユニコーン(マイリトルポニー…?)のツノ、『不思議の国のアリス』の巨大化お菓子、白雪姫の毒りんごボム、不死鳥などなど、様々な童話アイテムが乱れ打ちのように登場し、カスな使われ方ばかりするというギャグが(酷いけど)ことごとく面白く、情報量の洪水で目が忙しい。

特に面白かったのは『ピノキオ』のジミニー・クリケット(っぽい虫)が登場するくだりである。良心が存在しないカス人間の「良心の声」を務めるハメに…という一連の展開は声を出して笑ってしまった。直近の『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』のクリケットも大変そうだったが、宿主(?)がカスなせいで、苦労っぷりがあっちの比ではない。

 

ウルフ

本作『長ぐつをはいたネコと9つの命』に濃厚に漂う「死」の匂いを象徴する、恐ろしくも超カッコいい悪役キャラクターである。

口笛を吹きながら獲物を探す賞金稼ぎであり、自分は「死神=death」そのものだと自称する禍々しい追跡者、その名もウルフ。登場シーンから不気味なインパクト抜群だ。2本の鎌を振り回すバトルスタイルや、先述した「決め絵の畳み掛け」的なアニメ表現の上手さも相まって「こいつには勝てない」絶望感を観客に植え付ける。こうしたアニメとしては珍しく、鎌がかすったプスの額から赤い血が流れる描写も、プスが陥った死へのパニック的な恐怖と混乱を生々しく表現している。

外見といいアクションといい、まさにプスが内心に抱える死の恐怖が具現化したようなホラーな存在感だが、だからこそプスが物語の中で乗り越えるべき「恐怖」が何なのかも明確に伝わってくる。台詞のくどい説明ではなく、敵のビジュアルやアクションによって作品の重要テーマを巧みに表現したという意味で、素晴らしいキャラクター造形の実例と言えるだろう。終盤のプスvsウルフの一騎打ちは本作のキレッキレのアクションの大見せ場となっているので刮目して見よう。そして冒頭のバトルの群衆の中にもウルフが混ざっているようなので、ぜひ探してみよう…。

一点だけ、オオカミをはじめ「悪役動物」への偏見を描いた『バッドガイズ』の直後で、思いっきりオオカミが超コワい悪役なのはどないやねんドリームワークス、と動物勢として若干思わなくもなかったが、まぁ作り手も違うので大目に見よう。こうなってくると、ウルフ主人公のスピンオフも見たくなってくるところだ…(スピンオフのスピンオフ?)

 

【NOLO(Nyaaa Only Live Once...)】

山盛りのギャグとド派手なアクションを散りばめながらも、ウルフ=死神の強烈な存在感に象徴されるように、『長ぐつをはいたネコと9つの命』の中心的なテーマには「死」がある。子ども向け大作としては、かなり珍しい踏み込みっぷりと言える。

繰り返し何度も死ぬことができる異能ゆえに、生の真価を実感できない主人公が、流浪の果てに「一度しかない生の豊かさ」を知るという点で、連想する直近の作品といえば、やはり『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』だろう。

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『長ぐつをはいたネコと9つの命』にも、ジャックの生い立ちにピノキオが登場したり、先述したクリケット的な虫といい、実は地味に「ピノキオ」ネタが多いのだが、デルトロ監督が大いに創造性を働かせたバージョンの『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』ともシンクロニシティ的に響き合っている事実は、やはり興味深い。また、死や老いを間接的に示唆した大作という点で『トイ・ストーリー3』や『トイ・ストーリー4』などを連想する人もいるかもしれない。

本作『長ぐつをはいたネコと9つの命』では、プスは冒頭で「8つの命」を失い、残りはあと1つしかない、これじゃ命がけの冒険なんかできないよ…と嘆くわけだが、よく考えると、要は私たち「リアルな」人間と同じ普通の人生になっただけとも言える。人は誰しも最初から「1回しか生きられない」というルールに縛られて生きているのだ。プスと違うのは、当然すぎるその事実を普段それほど意識しないということだけだ。

そんな「人生が1回しかないという事実」、すなわち「生の一回性」を、プスの葛藤を通じて、本作は観るものに改めて意識させる。何度でも死ねるという「フィクショナル」なパワーを失って「リアル」な動物に近づき、死の恐怖に取り憑かれて「今を生きる」心を忘れてしまったプスのように、リアルを生きる私たちもまた、失敗や痛みを恐れるあまり、心が死んだような日々を送っていないだろうか…と本作は突きつけてくる。

プスは、かつて愛した(今も未練ありまくりな)キティとの間にあったわだかまりについて話し合い、そしてワンコのまっすぐな生への愛に触れることで、「一度しかない人生」の尊さを味わうことを少しずつ学んでいく。その過程は、プスが虚勢を張るのをやめて、自分の弱さや恐れと向き合う姿勢とも密接に結びついているのが現代的なところだ。とりわけ、序盤でギャグっぽく繰り返された「セラピードッグになる」という夢が果たされるかのように、ワンコが打ちのめされたプスに寄り添う場面は心に残った。自分のことしか考えていなかったプスが、周囲の助けも借りながら、己の弱さと向き合っていき、他者への理解や愛を育み、新しい人生を見つけ出す…という、実に大人っぽい物語になっているのだ。

ところで、広大な可能性がある(あった)はずの世界で、かえって日々を雑に生きてきた主人公が、アクション満載の大冒険の果てに、ただひとつの自分の生に向き合う…という本作のストーリーから、つい最近公開された映画を思い出さないだろうか。そう、アカデミー賞を席巻したばかりの『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』である。

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実は『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は、非常にアニメーション的な要素が濃厚な実写映画だったな…と思っている(監督が湯浅政明に影響を受けたとも公言しているし、一瞬だが本当にアニメの場面もあったし)。マルチバース的な「全く異なる複数の世界/人生」がテンポよく切り替わっていく心地よさや、大量のカルチャーやフィクションへのメタ的・パロディ的な言及など、『エブエブ』でも見られた語り口の特徴は、本来ならアニメでこそ表現しやすいものと言ってもいい。実際『長ぐつをはいたネコと9つの命』でも、プスの「前世」たちの描かれ方や、ジャック・ホーナーの童話アイテム連発ギャグなどに、そうした『エブエブ』とも通じる要素やテーマが見られると言える。

そんな本作『長ぐつをはいたネコと9つの命』の特異なポイントは、こうした「一度しかない生を生きる」という本質的なテーマ性が、アニメーション表現とリンクしているとも解釈できるところだ。すでに語った、意図的にコマ数を落としたり、2D的な絵面をバシッと決めて「その瞬間をしっかり見せてくれる」斬新なアニメ表現は、まさに「生の瞬間をちゃんと味わう」ことの暗喩のようにも思えてくる、と言ったら穿ち過ぎだろうか。作り手の意図はどうあれ、ぜひ本作のメッセージを正面から受け止めて、めくるめく美しいアニメーションの「絵」をじっくり堪能したいところだ。

そして映画館を出た後も、ふだん目にする光景を、膨大な瞬間の連なりの中に埋没させることなく、「絵」として目に焼き付けてみようと思えるかもしれない。光の反射を美しく感じ、聴こえてくる音にじっと耳をすませ、もしかしたら匂いも楽しもうと思えるかもしれない(バラの匂いを嗅いでみせたワンコのように…)。一度しかない日々の道のりを歩む過程こそが、願いが叶うことよりも、命が9つあることよりも、きっと素敵なことなのだから。

神ドラマの終わり、そして…。ドラマ『THE LAST OF US』9話感想&レビュー

ゲームの実写化が失敗することが多いのはなぜなのだろう。それは「ゲーム」と「映画/ドラマなどの実写エンタメ」が、中途半端に似ているからだと思う。確かにどちらも映像をベースとする娯楽なので共通点も多いのだが、実はそれこそが罠なのだ。両者の類似点こそが、「自分で操作するゲーム」と「見てるだけの映画/ドラマ」は、本質的には全く異なる表現媒体だという事実が見えづらくなってしまう。

両者の差異を作り手が十分に理解せず、ゲームの見栄えするシーンを繋げて「実写化」したところで、ゲームのインタラクティブな楽しさにも、映像エンタメの研ぎ澄まされた面白さにも欠けた、中途半端なものになってしまう。結果的に「ゲームの実写化」に、ゲーム好きも映画/ドラマ好きも「なんか違うんだよな」となりがちなのは、そうしたことが理由ではないかと思っている。

しかし2023年、満を持して世に出たHBOドラマ『THE LAST OF US』が、全てを変えるきっかけになるかもしれない。ゲーム『THE LAST OF US』は、膨大な数のファンが存在する大人気コンテンツだが、そのファンが口を揃えて絶賛するようなドラマが完成したのである。鬼門だった「ゲームの実写化」に、ついに巨大な風穴が開けられたのだ。

というわけでドラマ『THE LAST OF US』シーズン1の最終話となる第9話を見届けたので、感想を書いておく。結論から言って、最後の最後まで素晴らしい出来栄えであった…。

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↓これまでのドラマ感想はこちら(毎週感想はやはりけっこう大変だったため5〜8話はまとめて感想になってしまってるが、あしからず)

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ネタバレ全開でいくので未視聴なら必ずU-NEXTで観ておいてね。(全話揃ってるから1ヶ月無料トライアルでもコンプできるかと)

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ーーー以下ネタバレ注意ーーー

 

【エリー爆誕】

ここしばらくは冒頭からオープニング曲の構成が多かったが、最終回となる今回は一転、アバン的な映像から幕を開ける。感染者から逃げ惑う、森を走る1人の女性。彼女は妊娠していて、大きなお腹を抱えている。どことなくエリーに顔立ちが似ているのと、「F*CK!」という罵り言葉の放ちっぷりからも、ひょっとしてエリーの母親か??と思ったが、まさにそのとおり。ゲームでは描かれることのなかった、エリー出生にまつわるエピソードがドラマ最終話のサプライズとして用意されたわけだ。ちなみに、エリーの母・アンナを演じるのはゲーム版でエリーの声を演じたアシュレー・ジョンソン。前回のトロイ・ベイカーに続く重要カメオ出演となる。

世界の鍵を握る少女エリーが、そもそもなぜ免疫を持っているのか、その「生まれ方」を科学的な説得力とともに描いているのも興味深い。エリーは「出産間際の母親が感染者に噛まれた状態で生まれる」という、ものすごく珍しい条件を満たさないと生まれない、特別な免疫をもつ子どもだったのだ。

自分の死を悟ったアンナは、助けに来たマーリーンにエリーの身柄を託し、自分を殺してほしいというシビアな願いを告げる。一度は断るも、親友のためと思ったのか、銃弾を彼女に撃ち込むマーリーン。アンナとマーリーンの間にある長年の深い友情ゆえの葛藤を漂わせることで、マーリーンもまた「Left Behind(残されたもの)」であることが伝わってくる。だからこそ、マーリーンがエリーに対して抱く並々ならぬ思い入れも伺い知れて、終盤の展開の重みがいっそう増すわけだが…。

 

【キリンのテーマ・The FINAL】

前回のエピソード(ゲームでいう冬パート)が終わり、日差しも暖かく、明るくなってきた季節の、ジョエルとエリーの旅の続きが描かれる。ただ(エリーに気を使っているのか)やけに朗らかに話し続けるジョエルとは裏腹に、エリーの様子はどこか上の空だ。8話ラストで自分に性暴力をふるおうとしたデビッドを殺害したりと、エリーがショッキングすぎる修羅場をくぐったことを考えれば当然とも言えるが、前回からそれなりに時間がたっていることを考えても、何か(前回のトラウマ以外の)別の理由があるのだろう。

その後、いかにも原作ゲームっぽい「俺を踏み台によじのぼってハシゴをおろしてくれ」的なアクションもファンサービス的に挟んだりしつつ、2人は廃墟の町を進んでいく。そんな中、エリーは「あるもの」を見つけて走り出す。「なんだよ…」とあとを追いかけるジョエル。その先に何が待っているかは、原作ファンはもちろん予想がついていることだろう…。そう、満を持してのキリンの登場である。ドラマ全体で3度めとなる「キリンのテーマ(=Vanishing Grace)」も満を持して流れるのだった…。辛いことばかり起きてきたエリーとジョエルの人生に、この残酷な世界が一瞬だけ与えてくれたご褒美のように、美しく奇跡的な光景だ。

ドラマ版は重要な見せ場は外さずバシッと決めてきたとはいえ、原作の変えるべきところは変え、実写らしいリアリズムも重視する作品でもあったため、「ワンチャン、キリン出ない可能性もあるのか…?」と心配(?)していた。CGも大変そうだし。それだけに、今回ドラマでもきっちりキリンを出してくれたことは(当然ではあるけど)うれしかった。

キリンのCGよくできてんな〜と思いつつ調べて驚いたのだが、このキリンはCGではなく、なんと本物だという! 1ヶ月半かけて動物園のキリンの囲いにグリーンスクリーンのパネルを設置し、動物園でペドロ・パスカルとベラ・ラムジーが本当にキリンと一緒に撮影して、そこにVFXで風景を組み合わせたということらしい。 キリンではなく背景のほうがCGだったのだ。

やはりキリンのシーンはみんな大好きなので、CGでお茶を濁さず、リアル・キリンに出演してもらおう、という粋で大胆な判断だったのだろう。ゲームと違って、エリーが草をキリンに食べさせたりもしていて芸が細かい。ラスアス1のキリン、ラスアス2の恐竜といい、動物が"人生の幸福の瞬間"の象徴として暖かい輝きを放っているシリーズだというのは、動物好きとしてもなかなか喜ばしいポイントだ。ただし、「キリンのテーマ」こと「Vanishing Grace」のタイトルが示す通り、"人生の幸福の瞬間"は、キリンたちのように儚く歩き去ってしまうのだが…。

キリンを見届けたあと、ジョエルはエリーに「無理に病院に向かうことはない」と告げる。実はこの時点でエリーは、自分を待ち受ける運命を心のどこかで予感していたからこそ、さっきまで上の空だったのかもしれない。それをジョエルは敏感に察知したゆえ、エリーに他の選択肢を提示したわけだ。しかしエリーは「これまでの全てを無駄にしたくないから、行こう」と返すのだった。エリーの言う「全て」には、2話で退場したテス、5話のサムとヘンリー、そして7話で描かれたライリーの記憶も含まれているだろうことを考えれば、とても重いセリフだ。その重みと彼女の覚悟を受け取ったジョエルは、エリーとともに病院へと向かう。2人の勇気ある決断の果てに、恐るべき出来事が待っていることを知る由もなく…。

 

【間違っているが、絶対に「正しい」選択】

2人は廃墟となった軍のキャンプで立ち止まる。ジョエルはそこで、娘サラを失ったショックから人生の意味を見失い、自死を選ぼうとしたことを(回りくどい言い方ではあるが)エリーに告げる。ジョエルもエリーも2人とも「Left Behind(残されたもの)」であり、もうお互いしかいないということが、6話に続いて改めて強調されることになる。そして気を取り直してまた歩き出し、2人の親密な関係の深まりの象徴でもあるジョークブックをエリーが読み上げている最中…突然、ジョエルたちは背後から襲撃されてしまう。

原作ゲームの水で溺れて…という展開がカットされたこともあり意表を突かれたが、襲撃者の正体はゲーム同様、ファイアフライだった。エリーと引き離された状態で拘束されるジョエルに、マーリーンはエリーを連れてきてくれた感謝の言葉を述べる。だが同時に、エリーから免疫を取り出して人類を救う治療薬を作るには、エリーの命を奪う必要がある…という無情すぎる事実を、マーリーンは告げるのだった。

当然ジョエルがそんなことを受け入れられるはずもないが、人類全体の救済を試みるマーリーンたちも譲らない。マーリーンが冷酷なだけの人物でないことは、冒頭で示されたエリーの母・アンナとの約束の場面からも明らかだ。アンナやエリーへの重い感情と、人類の未来を天秤にかけた上での、彼女なりの苦渋の判断だということがわかる。そしてジョエルに感じている恩義も確かに本当であり、だからこそ彼を殺したりはせず、部下に解放を命じたのだろう。このマーリーンの非情になりきれないところが、結果としてファイアフライに惨劇をもたらすことを考えると、なんとも皮肉だ…。(そういえばラスアス2も、エリーを見逃したアビーの判断が結局は…という話でもある。)

そして原作ゲームで言うところの、最終ステージがいよいよ幕を開ける。ジョエルはマーリーンの部下を一瞬の隙をついて殺して武器を奪い、ファイアフライの兵士も非戦闘員も次々と殺害しながら、エリーを探して病院を突き進む。ゲームではここが最後のプレイステージとなり、これまでと違ってほぼ制限なく武器が使い放題だったりもするので、どうしてもラストバトル的な「熱さ」が生まれてしまうのだが、そうした「熱」はドラマ版ではほぼ完全に排されている。あくまで淡々と冷淡に、エリーのもとにたどり着くために、ジョエルは人を殺し続ける。どんよりと薄暗いBGMがバックに流れる演出もあり、そこにヒロイックさやドラマチックさは一切感じられない。

そしてついに彼は、エリーのいる小児外科にたどりつく(壁に「キリン」の絵が描いてあるのがなんとも辛い…)。手術室に到着し、エリーの手術を中止するよう医者たちに告げるジョエルだが、もちろん彼らは応じない。そしてジョエルは躊躇なく、医者を撃ち殺してしまう(アビーのお父さん…)。もはやその行動にはヒロイズムのかけらもなく、外から見れば恐怖でしかないわけだが、ジョエルが気にかけているのはエリーの命だけだ。

眠るエリーを連れて病院を脱出しようとするジョエルの前に、マーリーンが立ちふさがり、彼を必死に説得する。「いま逃げて生き延びたところで、そのうち無意味に死ぬだけだ」とマーリーンは告げる。「だったら今、確実に大きな意味のある、人類を救うことのできる最期を遂げるべきではないか」と。5話ラストで、ヘンリーが大きな犠牲を払ってまで救ったサムが死に、ヘンリー自身もあっさり死んでしまった姿を目にしている分、視聴者も思わず「そうかもな…」と傾きかねない理屈だ。現にゲームの「Part2」で、エリー自身も全く同じ後悔を抱えながら生きていることが明かされる。さらにマーリーンがジョエルに告げる、「エリーは成長し、いつかは去っていく」という言葉も、2の展開を予見させるものだ。

ジョエルはエリーの意見も聞かず、完全なる独断で、先程エリー自身が言った「これまでの全て」を無に帰してまで、エリーを救おうとしている。そのことの傲慢さをマーリーンは糾弾し、「正しい」判断をするように彼を説得しているのだ。

だが…ジョエルがその説得を、その「正しさ」を受け入れることは決してない。そしてだからこそ、ジョエルは「THE LAST OF US」という物語の主人公なのだ。

『THE LAST OF US Part2』の話になるが、マーリーンの懸念をなぞるかのように、「無意味に生きるより、意味のある死を遂げたかった」と嘆くエリーに対して、ジョエルは「もしもう一度チャンスを与えられたとしても、俺は同じことをする」とはっきり告げることになる。この言葉は単なる強がりではなく、ゲームシステム上も真実であることは重要だ。「THE LAST OF US」は、物語が分岐するマルチエンディングなゲームではない。何度プレイしても、ジョエルは必ず同じ行動を選ぶことになる。

つまり、ジョエルの「間違った」選択…つまり「たとえ人類を救うチャンスを台無しにして、邪魔するものを皆殺しにしてでも、目の前の生きている子どもを絶対に殺させたりはしない」という選択が、このゲームにおいては絶対的に「正しい」選択でもある。そんな矛盾した、しかし人の命の本質的な価値と尊さをあぶり出す強烈なメッセージこそが、「THE LAST OF US」が長い時間をかけて、ゲームという表現形式を通じて、私たちに送り届けようとしたものなのだ。

それでも、自分の信じる「正しい」選択をするために戦闘員も非戦闘員も虐殺したジョエルに、潔白な正義などあるはずもない。彼がやったことの「報い」は巡り巡って、続編『Part2』でジョエルを容赦なく捕えることになるだろう。ジョエルはプレイヤーにとって非常に思い入れの深いキャラだけに、2冒頭での衝撃的な「出来事」に猛烈に反発するファンも多かったようだが、1のラストで彼がやったことを考えれば、はっきり言って「必然」である。むしろ主人公だからといってそこを甘くするようでは、「THE LAST OF US」シリーズの名折れとさえ言えるだろう…。ジョエルの最後の「活躍」からヒロイックさを一切排したドラマ版は、その点を誤解の余地のないよう、さらに強調しているように感じた。

続編で待ち受ける不穏な未来に突き進むように、ジョエルは結局マーリーンをも殺害した末に、エリーを車に乗せてワイオミングの街へと向かう。「盗賊が来たから着の身着のままで逃げた」という苦しい嘘までついて、自分の選択にエリーを巻き込まず、嘘を貫き通すことを決めたジョエル。街に着く直前になって「嘘じゃないと誓って」とエリーに問いただされたジョエルは、「誓う」と宣言する。心のどこかでそれが真実でないと悟ったのか、エリーは悲しげな表情を一瞬浮かべるが、「わかった」と答える。そこで物語はバッサリと終わる。ドラマ「THE LAST OF US」シーズン1、これにて完結である。

 

【なぜドラマ「ラスアス」は"勝った"のか】

最後の最後に至るまで、ものすごい切れ味のドラマ版だった。この最終エピソードに至っては、なんとわずか43分なので、その削ぎ落としっぷりには容赦なさすら感じる。だがその結果、原作ゲームを実写映像に置き換えるにあたって、削るべきところは削り、手を抜くべきでないところは一切手を抜かず、無駄な贅肉を削ぎ落として「ラスアスの本質」を抽出したような、まさにエリーのナイフのように鋭い、傑出した出来栄えのドラマとなった。史上最も素晴らしいゲームのドラマ化…というより、最も素晴らしいメディアミックスの成功例として末永く語り継がれることだろう。

このドラマ版の勝因としては、冒頭でも語ったが、やはりひとえに制作陣が「ゲームと実写エンタメの違い」をよく理解していたことが大きいだろう。あくまで一例だが、ゲームでは派手だったり、戦略的だったりして面白い感染者や敵対人間とのバトルも、自分がプレイできるわけではないドラマでそのまま観ても、ゲームほどの興奮はもたらさない。ゆえにドラマ版ではそうしたアクションは思い切って大幅にカットし、実際の人間が演じるゆえに、より重厚に描くことのできる人間ドラマの方に、強く光を当てる判断をした。その最良の結晶が「ドラマの歴史に残る」とまで絶賛された第3話だったり、感染者も出ないし人も死なないが濃厚な印象を残す第6話だったりしたのだと思う。

バトルやアクションが少ないからと言って、印象が地味になったり、ケレン味が減ったわけではない。金を惜しみなくかけた美しく豪華なセットや、ホラー的な緊迫感あふれる演出によって(2話の博物館でのクリッカー戦が好例だろう)、ゲームをちゃんと彷彿とさせるタイプの面白さも要所に的確に用意している。一方ドラマで観てもそれほど面白くないだろうバトルを削ったり、いくつかのアクションや展開を統合したりと、大胆な省略を効かせることで、一方通行の映像エンタメであるドラマにふさわしいテンポ感を生み出している。

2時間の映画ではなく、10時間近くをストーリーテリングに費やせるドラマならではの手腕だが、ラスアス(1+DLC)の物語を比較的コンパクトに収めるためには、これ以上よくできた構成は考えられないと言っても良い。今後ゲームを映像化しようと考える全ての制作陣が、そして実写映像化に若干の不安を覚えつつ楽しみにするゲームファンが、このドラマ「THE LAST OF US」をひとつの大きな基準にすることになるだろう。

唯一、クリッカーやブローターといった恐るべき&愛すべき感染者たちが、事前の予想ほどは出てこなかったため、「わくわく菌類ドラマ」としての部分だけは必ずしも期待を上回ったとは言えない(そんな期待をしていた人がどれほどいたか不明だが…)。しかし正直、人間パートがあまりに重厚で鮮烈なラスアスシリーズにおいては、原作ゲームにおいてさえ感染者の存在はむしろ逆に「癒やしパート」と化している側面はある。キノコゾンビというジャンル的に安心して楽しめる「お約束」要素の存在が、繊細な作品の本質的な価値をやや曇らせている…という言い方もできなくはないのだ。なので個人的にはだが、感染者の登場バランスは、このドラマ版くらいでむしろバッチリという感じもする。ただ「2」のドラマではもっとゴージャスに感染者が登場する説もあるようなので、そうなればもちろんエンジョイしたいと思う。真のわくわく菌類ドラマはこれからかもしれない。

またこのドラマ版の魅力を語る上で、ゲームから「贅肉を削ぎ落とした」という言い方になってしまったが、当然だが「贅肉」がフルに付いているゲーム版も紛うことなき傑作であるのは周知の事実だ。ドラマでカットされたいくつものバトルやアクション、探索はもちろんだが、最終話のジョエルとエリーのハシゴ作業のような、ささやかな行動もまた、ゲームとして自分でプレイすることで、ラスアス世界への没入感を確実に増してくれる。ゲームもドラマも甲乙つけがたいとはいえ、やはり「完全なる真のラスアス」度が高いのは原作ゲームの方であることは間違いないので、ドラマが気に入った人は必ずゲームもプレイしてほしい。その意味で、このドラマ版は原作への素晴らしい呼び水になることだろう。

とにかく数ヶ月の間、心から楽しませてもらったドラマ「THE LAST OF US」、制作陣には純粋な感謝の念しかない。間違いなく2023年のベストドラマとして、いや2020年代のベストドラマのひとつとして語られることになるだろう。個人的には「THE LAST OF US」はpart2からがいよいよ本番くらいにまで思ってるので、今からシーズン2にも絶大な信頼を寄せざるを得ない。ありがとうドラマ「THE LAST OF US」、ありがとうジョエルとエリー、ありがとう感染者たち。また会える日を楽しみにしている…。

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最終回目前!ドラマ『THE LAST OF US』第5〜8話まとめて感想

今年を確実に代表するであろう神ドラマ「THE LAST OF US」がいよいよ明日終わってしまう!(シーズン2が決定してるとはいえ)寂しすぎる。あと10回はやってほしい。

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ちなみに明日3/13(月)といえば世間的(映画ファンとかの世間)にはなんといってもアカデミー賞2023なわけだが、ドラマ版ラスアス最終回の配信開始時間とブチ重なっているため、どちらを追えばいいのか判断に困る(まぁ私はWOWOW入ってないし授賞式は見れないわけだが)。

1話から一貫して素晴らしかったドラマ「THE LAST OF US」、当然毎週リアタイ視聴して感想を書いてきたわけだが…

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5話から(相変わらず神回が連発していたにもかかわらず)色々忙しくてブログの毎週感想が止まってしまっていた。シーズン1最終回となる9話は必ず感想を書きたいと思うので、辻褄を合わせるためにも(?)5話〜8話の感想を最終回前に(あっさり気味ではあるが)まとめておきたい。

ネタバレとかは気にしないので、未見の人は必ずU-NEXTで見ておいてほしい…!「ある程度の話数たまったら入るわ〜」と待ち体勢だった人、今が絶好のチャンスよ!

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ーーーーー以下ネタバレ注意ーーーーー

 

【5話】

比較的静かな4話という助走からジャンプするように、これまでで最もド派手であり、最も哀しくやりきれない、凄まじく濃厚な神回であった。ある意味では『THE LAST OF US』シリーズを最も象徴するキャラクターである、ヘンリー&サム兄弟がいよいよ登場し、彼らの複雑な人間性と生き方が繊細に描かれる。弟サムが聾者の設定になっており、手話や筆談でコミュニケーションを取るキャラクターとして再解釈されているのも、現代的かつ有効な変更点と言える。

そして(これまでもその要素はあったが)いよいよ『THE LAST OF US part2』を連想させる暴力と復讐の連鎖が、兄ヘンリーとキャスリンの確執を通して描かれていく。サムの命を救うためだったとはいえ、薬と引き換えに兄を売られたキャスリンが、ヘンリーに抱く憎しみは、納得が行ってしまう感情でもある。物語の展開的には「悪」っぽい側となるキャスリンにも、ドラマ版オリジナルの展開を加えて十分に理解できる動機を与えるこの手腕は、やはり『THE LAST OF US part2』を連想する凄みをドラマ版に与えている。そしてこの究極の選択は、ドラマ最終話でジョエルに降りかかることにもなるわけだが…。

3話で素晴らしいオリジナル展開を見せたドラマ版なだけに、ゲームで妙に印象深かった「地下に潜っていた人々の生活」も、ひょっとして物語として詳しく見せてくれたりして…?と思っていたが、さすがにそれはなかった(寄り道がすぎるしね)。しかしジョエル&サム一行の休憩地点として、たいへん印象的なロケーションとして使われていたので、原作ファンも満足である。

そんな5話、ひたすら陰鬱な話になると思いきや、人間同士の諍いの果てにまさかの感染者大フィーバー祭りが起こることで、きっちりゾンビドラマとしての本領も発揮してくれる。もはや感染者がむしろ癒やし枠になってね?と思うくらい人間パートの重みがキツイわけだが…(これはゲーム版でも言えることだけど)。待ってましたな千両役者・ブローターも大活躍してくれて嬉しいね(タイミング的にはこれが最初で最後の登場になる可能性もあるのかな。最終話でもっかいくらい出てほしい)。他にも子ども感染者の襲撃など色々盛り上がる場面ではありつつ、あれほどヘンリーとの確執が丁寧に描かれたキャスリンたちも、感染者の圧倒的暴力の前にあっさり命を落としてしまう、ラスアスらしい諸行無常さにも溢れている。

というわけで5話は、ゲーム中盤のエピソードの再構成と、世界や人物の奥行きをさらに増す変更が際立つ、見事なアレンジを見せてくれた。だが同時に「ここを変えたらもう『THE LAST OF US』じゃなくなる」という点は(たとえ視聴者が心の底では願っていたとしても)決して変えない鋼の意志も貫いてみせる…。そう、最後のサムとヘンリーの無惨な死のことである。

エリーとサムの(音声言語に頼らない)微笑ましい関係など、積み重ねの上手さもあり、さんざんゲームでショックを受けて覚悟していたにもかかわらず、彼らの最期は当然ショッキングだった。一方で、むしろ作り手の「上品さ」に心打たれたのも事実である。

5話ラストにしたって、凡庸な作品ならもっと「ショッキングでしょ?」と露悪的にドヤったり、ベッタリした情緒的な演出をまぶしそうなものなのに、2人の死や悲しみを凄くあっさり処理している。そのことによって逆に、複雑な背景をもつ彼らが悩みながらも取ってきた選択や行動、その全てが無意味で無価値であったかのように、あっさりとその生命を追えてしまう虚しさがいっそう際立つのだ。ドラマ『THE LAST OF US』はキツい物語なのは確かだが、露悪的・表面的なショッキングさ/過激さ/残酷さで注目を集める姿勢からは確実に距離を取るという真摯な姿勢が、5話でさらにハッキリしたと思う(怖いのはもちろん怖いが)。グロいの無理、で敬遠するのはもったいない作品である。

そして、たしかにヘンリーとサムはあっさりと無意味に死んでしまったようにも見えるが、必ずしもそれだけとは言えない。まず何が起こったかを把握したヘンリーが、「何もかも犠牲にしてまで助けた弟を自分の手で撃ち殺す」という辛すぎる判断を迅速に行なっていなければ、エリーは殺されていたかもしれない。またサムを救えなかったことは、自分の免疫で他者を救えるのなら…というエリーの想いと動機を、より強くしたことだろう。2人の物語は残酷な終わりを遂げたが、エリーとジョエルが生き続けていく限り、サムとヘンリーの生きた証も完全に消えるわけではないのだ。

 

【6話】

感染者も登場せず、銃撃戦も殺人もなく、前回と打って変わって全体的に静かな回と言えるが、ジョエルとエリーの関係性を語る上で最も重要なエピソードだ。街や大学を丸ごと作り上げてしまった美術セットも素晴らしく、驚くほどリッチでゴージャスな回でもある。要するに、またもや文句なしの神回である。

冒頭の、老夫婦に銃を突きつけながら会話をするドラマオリジナルの場面。夫婦の側がジョエルの脅しをあまり真面目に受け取っていないのと、出てきたエリーが緊張感を削いでしまうこともあり、このシリアスなドラマ版の中では貴重と言える、なかなか笑える場面になっていた。

その後は西部劇っぽい緊張感のある、警備メンバーとの対峙シーンもはさみつつ、ジョエルと弟トミーはワイオミング州の街でついに再開を果たす。この舞台セットはまさに『ラスアス2』冒頭でおなじみの街なので、「2」に向けた布石はバッチリと言えるだろう。復讐の連鎖を扱った前回までの時点でそうだが、すでに「2」が始まってる雰囲気をひしひし感じ、今からシーズン2が楽しみすぎる。

街での秩序ある暮らしぶりを語るトミーは、ジョエルに「じゃあ共産主義(コミュニズム)ってことだな」と言われて「ちがう」と否定する。だが妻のマリアに「いや、ここはコミューンだし、私たちはコミュニストでしょ」と言われて「えっ…」となるトミー。ジョエルはともかく、トミーは(バーでの感じとかを見ても)どちらかといえば保守的な政治姿勢なのかな?と思わせるので、3話の「政府はみんなナチだろうが!!」も連想する政治ギャグとなっていて面白い。

せっかく再会して安らぎのある時間を過ごした兄弟だが、娘を失った過去に囚われ、自分の新たな人生に優しい言葉をかけてくれるでもないジョエルに、トミーはしびれを切らしたのだろう。「兄貴の人生が止まっても、自分の人生は止まらない」とトミーはジョエルに言い放つのだった。

その後、考えた末に覚悟を決めたジョエルは、エリーが免疫を持っていることをトミーに告げる。だがそれ以上に印象的だった「告白」は、ジョエルが自分の「弱さ」を率直にトミーに吐露することだ。これまでも耳が聞こえにくかったり、体力が衰えていたりしたことで、エリーに多大な負荷をかけてしまったとジョエルは悔やんでいた。街に来る前、エリーに犬がけしかけられた時も、ジョエルは「怖くて動けなかった」と正直に告げる。そのジョエル姿は旧来的な「子どもを守る男性ヒーロー」の勇ましさとはかけ離れているし、だからこそゲーム版のジョエルよりもさらに生々しい実在感がある。ペドロ・パスカルの、無骨なだけではない繊細な演技力の真髄が発揮された名場面だった。その後のジョエル&エリーの(展開は省略しているもののゲームをなぞった)やりとりも、ジョエルの弱さの吐露の場面がとても効いている。口論になりはしたが、改めて2人がもう離れられない存在であることを、互いに改めて認識するという、胸を打つなシーンになっていた。

そしてゲームでは長いステージである大学の場面が(あれだけ豪華なセットを作っておきながら…!)本当にあっという間に終わってしまうのも凄いなと思った。まぁジョエルとエリーの他にキャラクターも登場しないし、ここはドラマでそのまま再現してもそれほど面白くないはずなので、切るべきところは切っていこうという判断なわけだが、それにしても思い切りが凄まじい(猿はちゃんと出てくるので良かった)。ジョエルもゲームより若干地味な形ではあったがちゃんと(?)大怪我を負い、エリーの慟哭でEND…。そしてタイミング的に、ついに次回は「アレ」がくるに違いない!と確信していたが……

 

【7話】

予想のとおり、ついにアレがきたーーーという最高の神回であった。何が来たかと言えばもちろん、ゲーム版の傑作DLC「Left Behind -残されたもの-」エピソード、満を持しての実写ドラマ化である。(よく考えたらDLCでも「現在:ジョエルの治療薬探し」と「過去の記憶」が交互に展開されるわけで、入れるならここしかなかったので予想も何もないが…。)

FEDRA(軍隊)で訓練を受けていた問題児エリーは、うまく軍に馴染めず暴力沙汰を起こしてしまう。だが上官のアイドバスで態度を改めて、出世の階段を登る決意を固め…たと思いきや、行方不明になっていた親友ライリーが目の前に現れ、夜の街に繰り出そうと誘われるのだった。なんとライリーはFEDRAの大敵の革命集団「ファイアフライ」に入った、とエリーに告げる。いまや正反対の立場になってしまった2人が、寂れたショッピングモールを訪れ、楽しいひとときを過ごしながら徐々に関係を深めていく姿を繊細に描いていくのが「Left Behind」の大筋だ。

エリーがレズビアンであることは、ゲーム(特に2)をプレイした視聴者はとっくに知っているだろうが、ドラマで彼女のセクシュアリティが明示されるのは今回が初めてとなる。エリーはライリーに思いを寄せていて、その心情がベラ・ラムジーの見事な演技によって繊細に表現されていくのも見どころ。下着ショップで自分の外見を気にしたり、ライリーに恋人ができていないかさりげなく気にしているところなど、ふだん強がって粗暴に振る舞いがちなエリーの思春期っぽい姿が垣間見えて微笑ましい(と同時に、こうした青春の謳歌が許されない世界の荒廃っぷりも踏まえると哀しくもある)。

(またしてもとてつもない費用をかけて制作したと思われる)壮大な寂れたモールを、2人はこの7話のなかで巡っていく。最もロマンチックなのはメリーゴーランドのシーンだ。原作ゲームではすぐに止まってしまう遊具だったが、ドラマ版では2人は一緒にメリーゴーランドに乗って、美しく優しいひとときを過ごす。

さらに印象深いのは、ゲームセンターの場面だ。懐かしのゲーム筐体が並び、エリーが見たこともないような色合いで照らされたゲーセンは、この世界の荒廃っぷりを思えばこそ、まるで天国のような異世界に思えてくる。『モータルコンバット2』も登場し、2人はしばらく子どもらしい無邪気な時間を過ごす。一方、ゲーム画面で無邪気に人をバラバラにしてハシャいでる2人に、感染者という真の脅威が迫りつつあるのは恐ろしい…。

このゲームセンターの場面がいかに特別な「幸福」を表す場面であるかは、通称「キリンのテーマ」こと"Vanishing Grace"のアレンジが流れることでもよくわかる。ラスアスシリーズにおいては「消えゆく一瞬の幸福」を表す重要な曲であり、ドラマ版では第3話で、ビルとフランクの2人が平穏な最期を迎える際に初めて流れた。ここぞという場面の曲ゆえ、たぶんこのドラマ版全体を通して3回しか流れないんじゃないかと予想している。1回めは3話、2回めは今回7話のゲームセンターの場面、そして3回めが最終話のキリン(出るよね?)

だがそんな「幸福」も長くは続かず、まさに"vanishing"=消えゆく運命にある。エリーは、ライリーが隠し持っていた爆弾を見つけてしまうのだ。ライリーがファイアフライ活動の一環としてモールで過ごしていたことを知ったエリーはショックを受け、ライリーを拒絶して一度は去っていく。しかし思い直して戻ったエリーは、ハロウィンショップでライリーと話し合い、街を離れてファイアフライのために尽くすという彼女の決意をいったんは受け入れる。

ライリーは最後のサプライズとして、ウォークマンをエリーに渡すと、エタ・ジェイムズの「I Got You Babe」を流して踊りだす。愛情が高ぶる中、ついにエリーはライリーに「行かないでほしい」という本当の思いを告げ、キスをする。思わず謝るエリーだが、ライリーは「なぜ謝るの?」と返す。2人の思いが通じ合ったのだ。

だがそこはラスアス、幸せな瞬間は決して続かない。2人の声や音を聞きつけて、モールに残っていた感染者の1人が現れて彼女たちを襲う。なんとか撃退するも、エリーもライリーも感染者に噛まれてしまっていた…。気持ちが通じ合った幸福が一瞬で絶望に反転する、あまりに辛すぎる展開であるが、最後の最後まで諦めず、一緒にいようとライリーはエリーに告げるのだった。

この後の展開がドラマで描かれることはなく、具体的な出来事は想像するしかないが、おそらくエリーはライリーと共に死のうと思いつつ、自分の感染だけがなぜか進まないことに気づき、人間でなくなったライリーを殺すなり置き去りにするなりして(たぶん前者なのが辛い…)、モールを脱出し、ファイアフライのマーリーンに合流したのだろう。

その記憶を蘇らせた現在(ジョエルが重傷を負った直後)のエリーは、必死で家の道具をかき集め、ジョエルの命をなんとか救おうと奮闘する。今はなきライリーの「諦めない」想いを受け継ぐかのように…。その必死の形相を映しながら7話は幕を閉じる。最後のバッサリとした切れ味といい、事前の期待を裏切らない、紛うことなき神回だった(まぁもはや毎回神回なんだけど)。

それにしてもこの7話といい、伝説の3話といい、劇中で描かれる印象深いロマンスがどちらも男性同士・女性同士となっており、もはやドラマ「THE LAST OF US」現代最高峰レベルのクィア大作ドラマとなっている(どっちも結末は悲しみが深いとはいえ…)。だが、そもそも原作ゲームからしてクィアな要素は強いわけで、ニール・ドラックマンを中心とした才能豊かなストーリーテラーが、世間の反発にも負けず「物語の力」を正しく使おうとしてきたことの結晶と言えるだろう。本当にラスアスシリーズのファンで良かったな…としみじみ思える7話だった。

 

【8話】

7話の感動をしみじみ反芻する暇もなく、視聴者をガツンと殴りつけるかのような壮絶な8話であった。性暴力や人肉食にまつわる描写もあるため、これまででは最も閲覧注意な回かもしれない。

ゲーム版では、ジョエル負傷後はエリーがしばらく実質的な主人公となり、ジョエルを救うための孤独な戦いに身を投じていく。出会う人間たちの不穏な暴力性、感染者とのシビアな闘いといい、原作でもかなり印象深いパートだったが、今回のドラマ版はそこにさらに「宗教」の要素を織り込むことで、破壊力とキツさが倍増したと言える…。

というのも今回の影の主役となる、生存者コミュニティのリーダー・デビッドには、キリスト教によって人々を教え導いている…という設定が加えられているのだ。パンデミックで崩壊した世界で、神がいつか救いをもたらしてくれるとデビッドは地域の人々に告げている。この悲惨な世の中を生き抜くために宗教心が必要なこともあるだろうし、デビッドは頼れるリーダー像にも見えてくるが、信心を持たない人間への妙な厳しさなど、どこか不穏で支配的な一面も見られる。

ちなみにデビッドの相方的なジェームズを演じるのは、ゲーム「ラスアス」でジョエルの声を演じたトロイ・ベイカーである。原作ゲームにとって極めて重要な人物の、予想外の渋いカメオ出演となった。(ベイカーがデビッドを演じる説も出回っていたそうだが、それだとさすがに"やりすぎ"感が出てしまっていたことだろう。)「中の人」ネタで言えば、「ジョエル」がエリーを殺そうとしたり、エリーが「ジョエル」を殺したりするという衝撃展開を楽しめるドラマ版となっている…。

エリーとデビッドの出会いに関してはほぼゲームの流れを踏襲しているが、デビッドの恐ろしさと異常性はドラマ版の方がはるかに解像度が高く描かれ、そこに「宗教」の要素まで加わってくるので、屈指のキツいエピソードにもなっている。

日本のゲーム版ではボカされてしまった(本当どうかと思う日本版のそういうの)人肉食の要素なども、ドラマ版では隠すことなく描かれる。またデビッドの宗教心…というよりは宗教を利用して他人を支配しようとする邪悪な心根が、極限的・閉鎖的な状況でいかに恐ろしいものになりうるかという描写も鮮烈だ。そもそもキリスト教の教義には家父長制的・異性愛規範的なイズムが切り離し難く含まれているとも言えるのだが、デビッドが捕らえたエリーにそれを押し付けようとする構図は、エリーが性的少数者であることを踏まえればいっそうグロテスクだ。

タフとは言え10代の少女に過ぎないエリーを、自分の同類だと勝手に決めつけて妙に持ち上げながら、結局は自らの支配下に置こうとするデビッドは、人は殺すけど悪気はない感染者の100倍くらい気持ち悪い。燃え盛るレストランでの戦いの果てに、返り討ちにあって激情した挙句、エリーに性暴力までふるおうとするという、デビッドの生々しく卑近なクソ野郎っぷりは胸が悪くなるほどだ。ここのエリーの壮絶な演技はまさに目を見張るもので、実在しないエリーの心の傷が本当に心配になってしまうレベルだし、ベラ・ラムジーはこの世の全ての賞を取ってほしい。

原作よりもさらに露骨になっていると言えるが、デビッドのエリーに対する性的な加害欲は、ゲームの時点でもうっすら伝わってくるものではあった。ドラマではそこをさらに明快にし、この作品における人間の「悪」とは何かを、より強烈に明示したということだろう。信心を説きながら子どもを食い物にするという点で、たとえばカトリック教会の子どもへの性暴力というおぞましい事件も連想してしまう…。先述したように、宗教保守のロジックに含まれるそもそもの性差別という、アクチュアルな問題提起もある。果敢に「宗教」の要素を織り交ぜることで、8話はそんな社会批評性も獲得しているわけだ。

この話を踏まえて、同じ中年男性であるデビッドとジョエルを対比してみるのも面白いだろう。どちらも荒廃した世界で必死に生きているという点では同じだ。だがデビッドは、宗教を盾にして都合よく他人を利用し、目いっぱいの虚勢を張って自分の"強さ"をアピールしてみせ、エリーを支配しようとした。一方、ジョエルは6話で自分の弱さを正直に吐露し、エリーのために身を引こうとまでしたが、彼女の希望を聞き入れて旅を続けた。こうして並べてみると、この両者の正反対っぷりがより際立ってくる。

とはいえ、ジョエルも決して理想化された善良なヒーローではない。8話でもジョエルはエリーのおかげで「復活」を遂げ、今度はエリーを助けるために敵に立ち向かうわけだが、その姿はヒロイックな「かっこよさ」とはかけ離れたものだ。捕らえた敵を拷問してエリーの場所を聞き出し、命乞いをする相手を容赦なく殺す姿は、どのような観点から見てもヒロイックではない。それどころか「ああ、ジョエルはもう、本来とっくに壊れているんだろうな…」と思わせる壮絶さがあった。

というのもエリーだけがジョエルを、かろうじて善と良識のある世界に結びつけていた「鎖」なのであって、エリーがいなくなってしまえば、ジョエルを縛るものはもう何もない。暴力を淡々とふるうジョエルは(ある意味ではデビッドたちよりも)恐ろしかったが、エリーに会うまでは彼は長い間ずっと、ああした陰惨な暴力の世界に生きてきたのだ。そう考えれば、次の最終回で待ち受けるであろう「あの展開」には嫌な納得感も生まれてくるし、それと同時に「ラスアス2」冒頭の衝撃展開も「ああなる」以外の選択肢ないよな…と思えてくる(非難する前作ファンも多かったけど)。最終回9話がどのように描かれるのか、今から戦々恐々としてしまう。

ともかく8話…というより6〜8話くらいで特に顕著だが、「ゲームじゃないと面白くない(かもしれない)部分」をバッサバサと削ぎ落とし、まさに「本質だけで構成されたラスアス終盤」という赴きがソリッドで、毎回しびれてしまう。それでいて変更点(今回の宗教など)は的確かつ有効で、その結果ゲームより尖った社会批判的な鋭さも生まれている、文句なしの完成度となっている。明日の最終回は(アカデミー賞を追うのも大事かもしれないが)最優先事項として、ドラマ最終話を正座しながら見届けようと思う。日本のドラマ好きも世界のラスアスファンと一緒に、ぜひ最後の地獄を味わってほしい…。

px.a8.net

 

後悔と手をつなげたら。『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』感想&レビュー(ネタバレあり)

無限の可能性が広がっているということは、無限の後悔が待っているということだ。

可能性は選択を生む。今日の昼食にピザを食べるか/カレーを食べるか、まっすぐ家に帰るか/スーパーに寄るか、映画館で『アントマン&ワスプ:クアントマニア』と『別れる決心』のどちらを観るか、このブログを読むか/読まないか…。そんな日常的なごく小さな選択であっても、どんなに小さな変化だたっとしても、何を選ぶかで確実に未来は変わる。

そして当然、人生にとってもっと大きな意味を持つ「選択」もある。夢への挑戦を続けるか/諦めるか、誰と結婚するか/そもそも結婚しないか、子どもを持つか/持たないか、愛する人を殺した人間に復讐するか/赦すか…。まるで常に「二択」かのように並べてしまったが、言うまでもなく現実の選択肢は膨大であることを考えれば、「可能性」の数は無限に近い。

そして私たちが「可能性」を認識し、想像力を持つ生き物である以上、そこには必ず「後悔」がつきまとう。「あの時ああしていれば、あそこで別の道を選んでいれば、自分の人生は違ったかもしれない」という感情から逃げられないわけだ。社会的に「良きこと」とされがちな選択肢を選んだ場合であっても、後悔は常につきまとう。たとえば「子どもを持つ」選択をした女性で、「母親になってよかった」と素直に思える人も沢山いるのだろうが、「母親になって後悔してる」という人も確実にいるのだ。(実際はその間を揺れ動き続ける人も多いだろうが。)

多かれ少なかれ、人は後悔とともに生きていくしかない宿命を背負っている。それでは私たちは、人類共通の業とも言える「後悔」とどのように向き合えばいいのか。そんな普遍的でシリアスな問いに、世にも奇想天外でバカバカしい、しかし感動的な形で答えてみせた映画…それが『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』である。

 

【確定申告、しましょうか】

主人公はミシェル・ヨー演じる、アジア系の平凡な中年女性・イヴリン。彼女はコインランドリーを運営して家族の食い扶持を稼いでいるが、その経営は厳しいようだ。確定申告(納税の手続き)のために大量の書類を整理したり記入したりと煩雑な手続きにてんやわんやしていたら、なんと経費の不備で国税庁に呼び出しを食らってしまう。この「かんべんしてよ〜」という面倒臭さは、フリーで活動してる確定申告を避けて通れない世界中の人間は、広く共感できるところだろう…。

ただでさえ夫が頼りにならなかったり、頑固な父親が春節のお祝いでやってきたり、娘が(保守的な父親を驚かせそうな)同性の恋人を連れてきたりと慌ただしい状況に、国税庁の監査まで加わってしまった、エヴリンの人生のカオスっぷりの表現が冒頭から見事だ。もはや彼女がひとつのことをじっくり考えたり、誰かにゆっくり向き合ったりできないということが、観てるだけでパニクってくるような情報量の多いワンカット的な映像によって説明される。このあたりは、脅威の90分ワンカットで撮られた映画『ボイリング・ポイント/沸騰』や、ドラマ『一流シェフのファミリーレストラン』のいっぱいいっぱいなレストラン経営も連想した。

これは「貧乏暇なし」的な生活描写でもあると同時に、エヴリン自身の内面世界の映像化でもあるようだ。劇中で明言こそされないものの、エヴリンはADHD(注意欠如・多動症)の症状をもっていると考えられる。実際『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の監督を務める2人組「ダニエルズ」のひとりダニエル・クワンは、本作をきっかけにADHDの診断に至ったと公表している。そうした当事者性を織り込みつつ、同じくADHDを抱えるエヴリンから見た「もうワケがわからなくなっちゃってる」世界を、誰が見ても追体験できるように映像で表しているというわけだ。

そんなエヴリンを、さらにブッ飛んだ「ワケのわからない」事態が襲う。この世界に同時に並行して存在する宇宙、すなわち「マルチバース」の別の宇宙からやってきた男が突如として夫ウェイモンドに乗り移ったのだ。そしてエヴリンは、マルチバース間をジャンプしながら「別の自分」の能力を受け取りつつ、全宇宙を滅ぼそうとしている存在と闘うことになる…!そんな奇想天外な物語が始まるわけだが、それに至るまでの序盤の日常パートをしっかり描いていたからこそ、その後のとんでもないカオスもいっそう引き立つというものだ。

様々な「可能性と選択」によって分岐した多様な世界が舞台となる以上、ヨレヨレで情けなくも共感を誘う中年女性の姿から、格闘や歌が得意な堂々たる大スターまで、映画史上まれに見る振れ幅を見せることになる主役・エヴリン。極めて高度な演技力が要求される役だが、そこにバッチリ応えてみせるミシェル・ヨーこそが、まずは本作の絶対的な屋台骨である。

ミシェル・ヨーは言うまでもなくアジア系女性を代表する大スターであり、近年では『クレイジー・リッチ』の貫禄溢れる姿も記憶に新しいが、本作では「人生に行き詰まった平凡な中年女性」をコミカルに、そして悲哀たっぷりに演じてみせる。だからこそ、マルチバースの狂乱に巻き込まれた彼女が繰り出す、その後の八面六臂の大活躍にもいっそう喝采を送れるのだ。

 

【アジア系の『ブラックパンサー』!?】

主演のミシェル・ヨーを筆頭に、助演のキー・ホイ・クァン、ステファニー・スーなど、主要キャラが軒並みアジア系の俳優で、これほどエンタメに振り切ったアメリカ映画が現れた…というのが、とにもかくにもフレッシュである。アメリカ本国では、もはやアジア系にとっての『ブラックパンサー』と言っても過言ではないような盛り上がりを見せた…と伝え聞くのだが(作品のタイプは全然ちがうけど)、それも納得のパワーを持ったエンタメ作品だと思う。

本作『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』が、『シャン・チー』や『クレイジー・リッチ』のような、近年のアジア系が中心のメジャーなエンタメ作品に比べても特に重要なのは、実は物語的には、主人公たちがアジア系であることの必然性が「ない」ことだ。イヴリンや家族がアジア系でなく、黒人やメキシコ系や他のマイノリティであっても、特に問題なく本作の大筋は成立する(もちろん細部は変わるだろうが)。これは先述した『ブラックパンサー』がアフリカ系/黒人以外では成立しない話であることを考えても、特筆すべきことだ。

もちろん、コロナ以降の世界各地でアジア系への差別が加熱している背景も見れば、アジア系が主役である本作の意義がさらに増しているという意味での必然性はある。だが「どんな人種でも成り立つ」エンタメを、あえてアジア系主人公でやっているということに、いっそう新時代的な風通しの良さを感じさせる。これはスリラー映画『サーチ』(2018)などを観た時も感じたことだが、それをはるかに上回る規模でアジア系の超エンタメ映画が登場し、しかも大ヒットを遂げたのは祝福すべきだろう。

ところでアジア系が主人公で、親子の関係に焦点があたる、ブッ飛んだエンタメ作品…という意味では直近の『私ときどきレッサーパンダ』も強く連想した。子ども視点で描かれた『レッサーパンダ』の葛藤を、母親からの視点で語った物語が『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』とさえ言えるかもしれない。興味深いシンクロニシティだが、どちらも2020年代を象徴する作品として語り継がれることだろう。

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ーーー以下、ネタバレ注意ーーー

 

【ふざけ倒した超絶アクション】

主演のミシェル・ヨーに匹敵する素晴らしさを誇るのが、夫ウェイモンドを演じるキー・ホイ・クァンだ。『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』や『グーニーズ』等のヒット映画に子役で出演した後は、主に映画製作に関わっていたようだが、久々の俳優業復帰となった。優しいけど情けない夫ウェイモンドから、別のバースのウェイモンドに体をのっとられ、キビキビ動き回る姿のギャップは、キー・ホイ・クァンのキャリアを知った上で観るとまた味わい深い。ダサめなウェストポーチをヌンチャクのごとく振り回しながら、国税局の警備員たちをなぎ倒していくシークエンスはとにかく最高で、今年のベストアクションに選ぶ人も多いことだろう。

ポーチヌンチャクに限らず、アクションは『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の最大の美点のひとつだ。カッコイイだけでなく、先程のウェストポーチ・ヌンチャクにも象徴されるように、キレッキレの超絶アクションの中に、ちょっと情けなかったりカッコ悪かったりバカみたいだったりする「外し」の要素を必ず入れてくる。日本のエンタメでいうと、劇場版『クレヨンしんちゃん』シリーズの、「やってることはバカみたいだが、雰囲気は大真面目だし、作画もキレッキレだし、色んなギャップが相まって妙にかっこいいアクションシーン」を強く連想した。あれの新時代アップデート実写版といったところか…。

クレヨンしんちゃん的といえば、ダニエル・ラドクリフの死体がオナラでジェット噴射する前作(どんな映画だよ)『スイス・アーミー・マン』を作ったダニエルズ監督らしい、お下品な笑いは今回は封印するのかな…?と思いきや、途中でマジでしょうもなすぎる下品ギャグが炸裂するので油断ならない。これではいくらマルチバースの映画であっても、本作のMCUへの参入は厳しいことだろう。

かように基本ふざけ倒した本作のアクションではあるのだが、「ふざけた突飛な行動をしないとバースジャンプ(マルチバースをまたいだ宇宙移動)を起こせない」という理屈に謎の説得力があるため、キャラが次々に変なことをやりだしても作品自体は弛緩せず、むしろどんどん「熱く」なっていく…という仕組みが非常にうまいなと感心してしまうのだった。

 

【わくわく"どうぶつ映画"??】

いや本作は別にわくわくどうぶつ映画ではないだろ…と思いきや、ちょいちょい異常なテンションの動物ネタが挟まれるので、色んな意味で目が離せない。

まずはやはり「ラカクーニ」である。『レミーのおいしいレストラン』(原題:"Ratatouille"=ラタトゥーユ)をパロった「ラカクーニ」というアライグマシェフと人間のコンビが活躍する宇宙が出てくるのだ。あまりにも直球なパロディで絵面は本当にくだらないが、めちゃくちゃ面白かったし笑ってしまった。ラカクーニがどう見てもパペットなのもジワジワ来る(しかもラカクーニの声はピクサー映画でもおなじみの作曲家ランディ・ニューマンである)。マルチバースのふざけた不条理さがよく現れた場面だし、後半で出てくる結末にも爆笑しつつ(『RRR』に続きまた肩車映画が…!)、「他者への優しさを選び取る」ことをがテーマの本作にとっては、何気に大事な描写でもあったと思う。

ちなみにピクサー映画っぽい雰囲気の「ラカクーニ」のテーマ曲もある↓。ランディ・ニューマン、ノリノリである。

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アライグマだけでなく、犬も異常なテンションで登場する。イヴリンに襲いかかる敵が謎の「犬使い」で、かわいいポメラニアンを蹴っ飛ばして勢いをつけて(モーニングスターのように)ぶんぶん振り回しながら闘うのだ。言うまでもなく、犬の扱いとしては最悪にもほどがあるため、動物倫理の観点からは言語道断のはず…なのだが、ああいう極端な動物ギャグに弱いこともあって、これも正直すごい笑ってしまった。(先月ラジオで「エンタメにおける動物倫理」云々と語ったばかりだというのに…。)ポメラニアン側にもやたらめったら殺意があってやけに楽しそうで、飼い主(?)との間に謎のバディ感が生じていたのも大きいかも知れない。傑作ゲーム『ゴーストトリック』の愛すべきポメラニアン「ミサイル」の凶悪版みたいだなと思った。殺しますともッ!!

犬といえば、エヴリンが犬になっている宇宙も存在するようだ。パンフレットにマルチバース版エヴリンの一覧が載っていて(劇中では爆速スピードでほぼ視認が不可能なのでありがたい)、その中に犬版エヴリンがいる。目が怖い。

ちなみに猫エヴリンの宇宙もある。『ボージャック・ホースマン』のプリンセス・キャロライン的な。

同じくマルチバースを扱ったMCUドラマ『ロキ』でも、ロキが人間型ですらなくワニになっていたりしたが、本作のマルチバースでも同様の事態はありうるというわけだ。マルチバースという壮大な世界観を通じて、動物と人間は本質的には「等しい」存在である…ということを描いているとも言える。

さらに言うと犬や猫だけでなく、「そもそもエヴリンが生物ではない」宇宙というのもけっこう出てくる。生物が誕生しなかった宇宙というのも遠い遠いマルチバースの果てに存在し、そこではエヴリンやジョブは「岩」になっているのだ。岩の他にもエヴリンやジョブが「ピニャータ人形(お祝いで叩いて割るやつ)」になってる宇宙もある。

生物ですらないなら、それはもうエヴリンという存在としてカウントできるのか…?と当然のツッコミも湧いてくるのだが、本作のマルチバース世界における「自己」や「存在」の定義がめちゃくちゃ広いというのはけっこう興味深い。「人間、動物、植物、無生物など万物に魂がある」というアニミズム的な思想に貫かれた世界観なのだ。ブッ飛んだやり方ではあるが、逆説的に「生命とは何か」を考えさせられる映画かもしれない。

 

【クイアムービーとマルチバース】

予告編だと全然わからないが、登場人物の性的マイノリティ性(クィアネス)が物語の重要な鍵を握っている、クィアムービーとしても見どころが多かった。決定的に重要なキャラクターは、主人公エヴリンの娘であり、レズビアンでもある女の子・ジョイである。ジョイは恋人であるベッキー(いいやつ)をエヴリンたち家族に紹介しようと連れてくるのだが、忙殺されているエヴリンは娘たちの相手をする余裕もなく、保守的な祖父にベッキーを「娘の恋人だ」とちゃんと紹介することもしない。「上の世代は保守的だから」というのをなんとなくの言い訳に使いながら、性的マイノリティである娘と恋人を「公」のカップルとしては認めないというわけだ。後で明らかになるように、その背景には(父親云々ではなく)エヴリン自身がまだ拭いきれていない、性的マイノリティへの差別的な考えも確かに存在していた。それをうっすら察したジョブは、傷ついた表情を浮かべながらエヴリンのもとを去っていく…。当然であろう。

ただこう書くとエヴリンがひどい人のようだが、同性婚すらもまだ成立していない日本社会では、性的マイノリティへの態度に関して、大多数はエヴリンと大差ないのではないかと思う。(直近の邦画『エゴイスト』でも同性の恋人の親に会いに行った主人公が、本当の関係を言い出せなくて…という場面があったりした。)こうした軋轢は、日本で暮らす私たちにとっても今後いっそう身近なものになっていきそうだし、だからこそ本作は重要な物語でもある。というのも、クィアネスに対する主人公の意識の変化が、マルチバースという特大ギミックを駆使して描かれることになるのだ。

ここから大きめのネタバレになるが(まぁ予告で言っちゃってるけど…)、本作をクィア・ムービーとして語る上で、やはりジョイを演じるステファニー・スーの輝きっぷりを語らずにはいられない。ジョイはなんと別の宇宙では、本作の「ラスボス」的なキャラである、変幻自在の最強存在ジョブ・トゥパキだったのだ。先述したクィアな若者を繊細に演じたスーの演技も良いのだが、それ以上にジョブの演じっぷりは最高の一言である。

ジョブは全宇宙のマルチバースと繋がり、全知全能に近いパワーを得たことで、まさに「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス(なんでも・どこでも・同時に)」を体現する、恐るべき存在となっていた。実写というよりはアニメのようなテンポで(特に湯浅政明のアニメっぽい)、一瞬ごとに外見や能力が変わっていき、固有の人間としてはほとんど破綻しているような、「カオスの王」として君臨するジョブ・トゥパキ。チャンネルを切り替えるような気軽さで変幻自在に姿も雰囲気もチェンジし続けるという、前代未聞の実写キャラクターといえるジョブの人格や姿を、生き生きと演じ分けるステファニー・スーの演技力は驚嘆すべきだ。

ステファニー・スーは、TVドラマシリーズ『マーベラス・ミセス・メイゼル』や映画『シャン・チー』でも、脇役ではあるものの確かなインパクトを残す役を演じてきたが、本作でさらなるブレイクを果たすことになるのは間違いないだろう。ジョブは確かに悪役的な存在として登場するものの、複雑で虚無的な内面を抱えた繊細なキャラクターでもある。クィアでカラフルでパワフルなエネルギーを秘めた、新時代のアイコンが生まれたと言えよう。

本作がクィアムービーとして秀逸なのは、同性愛者であるジョイ周りの表現だけではない。主人公エヴリンも、広大なマルチバースを巡る旅路のなかで、自分自身のセクシュアリティさえ、必ずしも固定されていないことに気づくのである。

たとえば、国税庁でイヤな監査役を努めていたディアドラは、はるか離れた宇宙の「人類の指がソーセージのように進化した世界」(なにそれ)では、なんとエヴリンと恋仲にあったことがわかる。思い返せばディアドラと闘っていた時、マルチバースを移動して彼女を打倒するための「突飛な行動」として、エヴリンはディアドラに「愛してる」と告げたわけだが、別のマルチバースでは本当にエヴリンとディアドラは恋愛関係だったのだから、伏線としてかなり秀逸である。(ディアドラのテーマ的に流れる楽曲「月の光」の使われ方も巧みだ。)ディアドラを演じるのは『ナイヴズ・アウト』『ハロウィン』等で今をときめくイケイケ壮年女優ジェイミー・リー・カーティスであり、しょぼい意地悪監査員を務めるには豪華すぎ…と思いきや、まさかの超重要な役回りであった。

マルチバースの大冒険を終えたイヴリンが意識を変革し、あるがままのジョイを受け入れ、保守的な父親に向かってちゃんとベッキーを「娘の恋人だ」と紹介する姿には、別のマルチバースでは自分自身も同性のディアドラを愛していた、と知ったことも大きいのではないかと思う。複雑に重なり合い、分岐し続ける壮大なマルチバースの描写によって、個人の中にも存在する「性の揺らぎ」と意識の変化を表現するというのも、なかなか凄い発想である。

 

【後悔と想像力とマルチバース】

マルチバースを扱った作品は、近年どんどん増えている。そのトップランナーはやはりマーベル映画で、特にフェーズ4以降の作品、『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』や『ロキ』や『アントマン&ワスプ:クアントマニア』など枚挙にいとまがない。MCU以外でもアニメ映画では『スパイダーマン:スパイダーバース』も、マルチバースを扱った傑作のひとつだ。

そんな中、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の素晴らしいところは、作品の核となるテーマを語る上で、マルチバースの設定にこの上ない必然性があるところである。実は「マルチバース入門」としても最適な映画なんじゃないだろうかと思うほどだ。とりわけ良いなと思ったのは、「過去のこの時点でエヴリンがある行動を取った/取らなかったことで未来が派生し、こんな宇宙が生まれた」というロジック的な説明をしっかり見せてくれることである。これにより、膨大に存在する宇宙が「エヴリンの選択の結果である」という事実が強調される。(さすがに岩とか人形とかまで離れてしまうと、エヴリンの選択とはまた違うのだろうが…。)

冒頭で書いたように、この映画は「後悔」にまつわる映画でもあると思う。あそこで別の選択をしていれば、人生には別の可能性があったのではないか、もしかしたらその自分は、今の自分よりベターだったんじゃないか…と、私たちは日々の隙間のふとした時に(不毛と知りつつも)つい考えてしまうものだ。だが時間を戻すことはできない。多かれ少なかれ「こんなはずじゃなかった」「別の"今"があったかも」という後悔を抱えながらも、人は生きていかなければいけない。

その「後悔」のあり方は、実は本作で描かれた「マルチバース」の姿によく似ている。「お昼にアレを食べればよかった」から「あの人と結婚しなければよかった」まで、軽さ重さは様々だが、人が「後悔」した瞬間、その人の心の中には「別の可能性」によって分岐した「別の宇宙」が生まれる。後悔だらけの私たちはすでに、マルチバースを生きていると言えるのだ。

「後悔」は基本的に、よくないものとされる。すでに起こったことはどうにもならないし、過去は変えられないのだから、振り返ることなく、潔く未練を投げ捨てて、未来に向かって歩き出そう…というわけだ。まったくもって正論だし、きっとそうするべきなのだろう。…しかし本当にそれだけなのだろうか? 私たちが日々してしまう「後悔」は、何の価値もない不毛な妄想にすぎないのだろうか。実は本作『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は、「それは違う」と告げているように思う。

なんといってもエヴリンは「後悔ばかり」の人生だったからこそ、本作のヒーローになれたのだ。エヴリンは別の宇宙の夫から「あなたは全宇宙で最低バージョンのエヴリンである」という、とんでもない真実を告げられる(普通にひどい)。なぜかといえば、他の宇宙のエヴリンたちがしたような選択を、本作のエヴリンは「自分にはできない」と諦めたり、後回しにし続けたり、より「ダメ」な選択肢を選び続け、その結果が今のエヴリンだから、というのだ…。

事実、そのせいでエヴリンの人生は後悔だらけだ。しかし、だからこそエヴリンは最強でもある。自分自身が「最低バージョン」だということは、マルチバースには「より良いバージョンの自分」が沢山いることになる。そんな「ありえたかもしれない自分」に向かって飛び立つことで、まるで「後悔と手をつなぐ」ようにして、エヴリンはより強く優しい自分になることができたのだ。

エヴリンとは逆に、「絶対に後悔しなくていい人生」とはどういうものか、と考えてみてもいい。ジョブのように、マルチバースを自在に移動できる存在にとって「後悔」はありえないだろう。可能性が分岐し、後悔が生じた瞬間にすべてをやり直してしまえばいいだけなのだから。しかし「後悔」とは無縁のはずのジョブは、もっと恐ろしい「虚無」にとりつかれる。ありとあらゆる可能性がこの宇宙に無限に広がっているなら、それは「何をしても、しなくても同じ」ということではないのか…?という絶望だ。

ジョブがベーグルにこの世の「すべて」をトッピングしたことで、宇宙最強の虚無を出現させてしまう…というシュールの極みでありながら絶望的な光景は、彼女を苛む圧倒的な虚無主義の象徴だろう。そんなジョブに比べれば、人間らしく「後悔」に苛まれているエヴリンは少なくとも虚無的ではない。後悔する人、いや後悔できる人は、「別の可能性」を思い描き、少なくとも何かを願っている人なのだから。それは「今の自分も、この世界も、どうにもならないし何も変わらない」とすべてを諦めることより、ずっと良いのではないか。

そしてもうひとつ、「こうではなかった自分」を想像するのと同じくらい大事なことがある。「こうではなかった他者」を想像することだ。いま目の前にいるやつはイヤな奴で、自分と相容れない"敵"かもしれないが、「別の宇宙」では違うかもしれない…。それどころか、自分にとって大事な存在かもしれないと考えてみるのだ。時空が違えば関係も違う。エヴリンにとって、国税庁のディアドラと、指ソーセージ宇宙のディアドラが全く違う存在だったように…。

ウェイモンドの命を賭した「優しくあろう」という言葉をしっかり受け止めたエヴリンは、ラストバトルで敵を暴力によって「倒す」のではなく、「幸せにする」ことで勝つ。その展開にも、マルチバースだからこそ際立つ説得力がある。その人がどんなことに幸福を感じるか、その人が抱える物語を(マルチバースを通じて)理解した上で、「最高の幸せ」を送り届け、もう戦わなくて良くする…。エヴリンが「他者への優しさ」によってマルチバースならではの勝利を遂げたことが、ユーモアたっぷりに表される素敵なクライマックスだった。

こうなると本作におけるマルチバースとは、「ありえたかもしれない別の世界」を思い描くことによって、自分や他者への「想像力」を拡張することのメタファーのようにも思えてくる。それは、まさにフィクションが持っている力そのものではないだろうか。人が「後悔」するメカニズムは、別の世界・別の可能性・別の物語を想像し、創造するためのメカニズムでもあるのだ。

物語が終わった後も日常は続く。この膨大な可能性に溢れた、容赦なく無限に広がる宇宙で、いつでも「別の可能性」を想像しながら、「こんなはすじゃなかった」と後悔を重ねながら、エヴリンも私たちも生きていくことだろう。だが本作を観た後は、ふと後悔に襲われた時に、ちょっと違った考え方ができるかもしれない。いま自分は、他の宇宙で生きる「こうじゃなかった自分」と、手をつないでいるのだと…。

「アフター6ジャンクション」出演たのしかったよレポ&補足

2/21(火)の「アフター6ジャンクション」に「動物が主人公の海外アニメ映画に(ほぼ)ハズレ無し」というテーマで出演しました。ちょっと緊張したけどすごい楽しかった!!聞いてくださった方&実況とかしてくださったリスナーさん、ありがとうございました。帰り道で読んで「うれしー」と思いました。

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ラジオで50分も喋らせてもらうのも初めての経験だったし、本番ならではの面白かったポイントの感想や、放送のなかで語りきれなかったこと(もともと語ろうとしてた内容が2万字とかあったからな)も含めて、メモも兼ねて箇条書き的に書いておきます。アトロクのヘビーリスナーとして初出演の思い出を書き残しておきたいんだ!!

ちなみに特集のアーカイブはSpotifyなどで聴けるので、この記事と合わせてどうぞ(私自身はなんか気が引けてまだ聴いてない)

https://open.spotify.com/episode/3P7IulQjNCdFMtvkw40Z3i?si=734cc3dd46b44ab9

 

【当日のようす】

初出演で遅刻したくないので早めにTBSラジオのある赤坂に着く。(映画の前にチャン・イーモウの『崖上のスパイ』観てこようかなとか思ってたけど微妙にギリギリになりそうでやめた。意識を高くもったのだ)

赤坂は土地勘が全然ないのだが、でっかく赤坂って書いてあるし、まごうことなき赤坂だろう。右から読んでも左から読んでも…

そしてTBSラジオに潜入!あやしいものでないことを警備員やフロアの人に説明し、入館パスをもらう。さっそく収録現場に向かいたいところだが、その前にアトロクリスナーなら知らぬものはいないTBSラジオ観光名所に寄っていく。それは……セブンイレブンであった。

この少し上の階にあるセブンイレブンが最近、なぜかフロアの反対の位置に移転&リニューアルをしたと宇多丸さんやパートナーさんがラジオで語っていたので、それはぜひ立ち寄らねば…と思っていたのだ。行ってみたところ、まごうことなき普通のセブンイレブンであったが(当然)、リスナーとしては「これが噂のセブンイレブンか…」とちょっと楽しかった。あとなんかみんないそがしそうだったので(当然)じゃまにならないようさっさと出ていった。おみやげになにか買えばよかった。

 

その後はおとなしくアトロク収録のスタジオに行き、構成作家さんの古川さんと打ち合わせをする。前日に(絶対に50分ではムリな話したいことを詰め込んだ)2万字の長文を送りつけられて再構成が大変だったと思うが、苦労をおくびにも出さず冷静に優しく、初出演の私を優しくガイドしてくださった。

待ち時間に、火曜パートナーの宇垣総裁こと宇垣美里さんが持ってきてくれたというチョコレートを、ありがたくもおすそわけしていただく。美しいだけでなく、めちゃくちゃ美味しかった……。チョコレート沼、深入りするとヤバそうだな。

チョコの美味しさに元気をもらいながら、20時の放送に向けて精神を統一するのだった…。

 

【放送開始!】

・いきなりだが「エンタメにおける動物描写は今後、今で言うジェンダーや人種のような、人間のマイノリティ描写に匹敵する重要性を得ていくことになるだろう」という核心から入らせてもらった。初出演だし本当はもうちょっと色々と前置きをするつもりだったが(ジェンダーの問題を例に、宇多丸さんが年間ベストにあげていた『透明人間』『プロミシング・ヤング・ウーマン』や、宇垣さんが推薦コメントを寄せていた『セイント・フランシス』に触れてみたりとか)、尺の都合や、構成作家・古川さんのご提案もあったし、アトロクリスナーの意識の高さを信用した判断ということで…。最初からフルスロットルなので少し緊張したが、特集全体で伝えたかったことにダイレクトに入れてよかったと思う。

・このくだりで「動物倫理」についても少し触れたが、聞き慣れない概念かもしれないので、興味ある人は田上 孝一『はじめての動物倫理学』など読みやすい新書も出てるので読んでほしい。

・自己紹介パートは(送った文章ではついダラダラ長々語ってしまったが)放送ではごくあっさりすませられて正直少しホッとした。できる限り自分以外の生命とか自分以外の作った作品とかについてオタク語りしていたいものだ……

・「動物が主役の海外アニメ映画」は体感95%くらいの当たり率!という今日の本題に入る。宇多丸さんに「残り5%はなんなんだ笑」というツッコミをいただく。だよね。まぁいうて色々な動物アニメがあるから言い訳の余地を残しておきたかったのだ…(せっかくなので『SING2』に言及しようと思ったが無用な火種を増やしたくないのでやめといた)

・歴代のディズニー動物アニメを列挙してた時、『101匹わんちゃん』に宇垣総裁が「大好き!」とビビッドに反応してくださって、私もちょうど見返したばかりで、なんだこのスゲえアニメは…と思ったので、時が許せばいくらでも話し込みたかった。

・ちなみに放送後に光栄なことに、宇垣総裁のお犬様「テンプラ」のお写真も見せていただいた…めちゃかわであった。

・あとディズニーのくだりで『ディズニーと動物』を取り出したら宇垣総裁に突っ込まれたので少し嬉しかった。生放送って楽しいね(?)

・ここで宇多丸さんたちから「日本の動物アニメ映画ってどうなんでしょう?」という質問が出る。日本アニメ映画でも『平成狸合戦ぽんぽこ』や『おおかみこどもの雨と雪』などまぁまぁ思いつくわけだが、たしかに欧米や海外に比べるとメジャーどころではあまり数が思いつかないんだよね…。その場の思いつきだったが、「日本ではポケモンが動物アニメの代替として機能してるかも」という話を軽くしてみたり。「ポケモンと動物」は過去にweb記事も書いていたので、全然じっくり話せるテーマではあったが。↓

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【バッドガイズ】

・放送ではタイトルコールとあらすじを言わせてもらえることになり、「いつも聞いてるやつだ!」とちょっと張り切った。にせんにじゅうね…2022年公開の『バッドガイズ』です!(噛んじゃった)

・『バッドガイズ』の偏見を持たれてる動物、サメの話。『ジョーズ』の功罪の話に当然なるわけだが、宇多丸さんも言うように、スピルバーグが「『ジョーズ』なんか作るんじゃなかった」とまで後悔してるというのは知らなかった。作らなかったら映画の歴史変わっちゃうだろ!(だがスピルバーグの後悔の深さはよく現れている)

・サメにしてみれば人間のほうがよっぽどモンスター…という話で、「こんなことが可能な生物は、私の知る限り……人間だけです」という『ガメラ 大怪獣空中決戦』の台詞を挟む宇多丸さん。まさしく『ガメラ 大怪獣空中決戦』はものすごいエキサイティングな動物映画としての側面もあるので、脱線して話し込みそうになったけど我慢する(放送後に少しお話できた。レギオン襲来もアトロク映画祭でやるのかな〜、行きたいな)

・「タランチュラは毒が全然強くないクモ」という話、皆さんのリアクションを見る限りでは、やっぱりあまり知られてないみたいね(生物ファンの間では有名なネタではあるのだが)。この偏見に関しては、宇多丸さんの言うように大概ボンドが悪いよな。ついでに言えばピラニアもボンドだし…

・CMタイム、宇垣さんに「『バッドガイズ』のピラニアの"臭い"ネタ、おならネタってなんか元ネタあるんですか?」と聞かれる。言われてみれば…と思うが、特に思い当たる節がなかったので「死臭とかそういうイメージかな?」とかぼんやりしたことしか返せず。オナラ系は子どもへのウケがいいから、とかなんだろうか…

・唯一、バッドガイズ動物のなかで本当に人を沢山殺している動物である、ヘビの話。世間の偏見に従うように「悪」にしがみつくしかない、ストリートの若者の実情に重ね合わせる宇多丸さんの話はけっこうドスンと響いた(リアルでもありそうな話だなと思って)。

・ちなみにそんな『バッドガイズ』に近いテーマで、人間からの怖がられるヘビを主人公にして、オーストラリアの動物園から脱走する動物たちを描くNetflixアニメ『バック・トゥ・ザ・アウトバック めざせ!母なる大地』も面白いので、動物好きはオススメ。

・ところで『バッドガイズ』は実はWWF(世界自然保護基金)ともコラボしてて、バッドガイズのメンバー動物への支援キャンペーンなども実施。寄付するとぬいぐるみがもらえたりしていた。

・あと『13th -憲法修正第13条-』の話とかもできたらよかったのだが、さすがに時間がなかったので省略やむなし。まぁこの辺はブログ記事にも書いたので読んでみてください。

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【ハッピーフィート】

・ペンギンの子育ての科学的リアリズムと人間側の規範のお話。ペンギンの子育ての大変さは、過去に「コウテイペンギン子育てスゴロク」として図解しましたね(『図解なんかへんな生きもの』参照)。
・放送で話せなかったペンギンの生態も交えて、このへん少し詳しく説明すると、コウテイペンギンの父親は、おなかの卵を抱くスペースで、氷の上にずっと立ち続ける。メスがエサを取りに行って帰ってくるまで、オスは3〜4か月絶食する。(ちなみにオスは「ペンギンミルク」という乳状の分泌物をヒナに与えて飢えを凌ぐ。)そしてアニメのように、体を寄せ合ってブリザードに耐える。南極の気温はマイナス60度にもなるので、少しでも失敗すれば卵は凍りついてしまう。だからこそ、マンブルの父親は、卵をうっかり落としてしまった時にあれほど狼狽したというわけ。

・そしてマンブルが誕生。父が卵を落としたのが原因かはわからないが、ある種のハンディキャップを背負った存在として生まれる。ペンギンはあしのうらに寒さをしのぐための羽毛が生えているのだが、マンブルはこの羽毛がなしor不足して生まれたということかな?と。
・その結果、マンブルは氷の上にちゃんと立つことができない。そのかわり、足をしょっちゅう動かす「ハッピーフィート」であり、ダンスの才能をもつ。ただし「歌」を何より重視するコミュニティでは、ダンスの才能はなんの役にも立たないどころか、厄介者扱い。しかしマンブルが冒険を通じて、おなじく南極で育つアデリーペンギンのコミュニティなど、他の価値観にも触れていくなかで、その「他者との違い」こそが真に大切なものだ…と伝わってくる、とても普遍的な物語になっている。

・ちなみに映画でマンブルが属している「ペンギンの学校」も、近い形態が本当に自然界にある。「クレイシ」(フランス語で保育園)と呼ばれるヒナの集団で、自立への足がかりになる。

・『ハッピーフィート』の「モンスター映画」としての面白さは放送で語れてよかった。人間側の動物への思い込みを覆す意味もあるかも、という宇多丸さんの意見にも同意。子育ての過程でヒナたちがトウゾクカモメにさらわれるのはペンギン日常あるある(過酷)。そしてヒョウアザラシも、海で魚をとりにくるペンギンたちを待ち構えている。体の大きなミナミゾウアザラシの方はペンギンを食べることはないが、でかくて威圧的でペンギン目線では怖いことだろう。

・そして『ハッピーフィート』の最重要ポイントだと思っている、水族館でのシーンを通じた、人間文明や人間社会への批判的な眼差しについて。動物園や水族館は縁の深い場所でお世話にもなっているので、やや語るのに勇気がいるポイントでもあったが、やはりジョージ・ミラー監督の誠意を受け止める上でも外せないところだろうと。

・『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』の日本プロモーションの話も(キャメロンかわいそう! ) 。たしかに『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』は「捕鯨」を筆頭に、海洋動物への搾取に対する批判的なメッセージ性も強い。ただ念のためフォローすると、キャメロンは日本の捕鯨を批判してるというよりは、中川真知子さんという方の記事によると、捕鯨の描写的には自分の属するアメリカの捕鯨文化への自己批判という側面も大きいようであるのだが。

・そして日本でも変化は起きていて、たとえば2020年に私もコラボさせてもらった、品川区の公立水族館の「しながわ水族館」では、リニューアルによってイルカショーの中止が決定。今は日本も過渡期にあって、段階的ではあっても、現実世界でもこうした動きが今後も続いていく可能性が高いと思う。

・そこにあわせて、『ファインディング・ニモ』を見てカクレクマノミを飼おうとする人間が激増したことについての、宇多丸さんの呆れコメント。まったくもってひどい話だよね…と思うし、フィクションの限界もちょっと感じてしまう話。

・というわけで厳しい視線もある『ハッピーフィート』だが、同時に描いている希望の話もするのだった。そのための鍵になったのが、マンブルの「ダンス」であり、最初は彼を異端にしていた才能だったというのも、本作の素晴らしいところだと思う。メロディや言葉は種の壁を超えることはないけど、「リズム」は生命にとって普遍的なものなんじゃないか、というミラー監督の音楽思想?も感じた。この辺は語れなかったが、リズムといえば…だし、宇多丸さんの意見も聞いてみたかった!

・これも放送には入らなかったが、続編となる『ハッピー フィート2 踊るペンギンレスキュー隊』(2012)についても語っておきたい。2もとても面白いのでナメずに観てね。こちらは「ディザスタームービー」としての面白さを通して、気候変動のような、さらにスケールの大きい地球の問題への姿勢を描こうとしていると思う。

・地球温暖化の影響もあってか、氷山が溶け出して動き、ペンギンたちの居住地を閉じ込めて孤立させてしまう。この絵面が「これはもうダメじゃね?」と思うくらい絶望的な光景なのだが、マンブルとその子ども・エリックたちが冒険しながら窮地を救っていく。
・まさかのオキアミも登場し、サブストーリーの主役に。オキアミといえば南極の食物連鎖ピラミッドの最下層で、大量に食べられながら他の動物達を支える動物。そのうちの1匹が「自分の人生はこれでいいのか」と悩み始め、「食物連鎖のピラミッド」を駆け上がろうとするという楽しいストーリー。(相棒のオキアミとのBL的・ゲイカップル的な関係性も良い。)

・そして『ハッピー フィート2』、クライマックスのある有名な曲を、それまでに登場した動物たちが合唱する場面が、アニメのミュージカルシーンの中でも屈指の感動をもたらしてくれた。
・マンブルたちの心優しさが、絶体絶命の危機のなかで救いとして花開く描写としても素晴らしいし、さっきの「自分のようなちっぽけな存在が何になる」と思っているオキアミが、曲の最後に果たすある役割も感動的。これは、たとえば気候変動のような大きな危機に晒されている私たちの世代が、「1人1人のアクションが大事」というのは単なる綺麗事ではないんだよ、と背中を押す寓話のようにもなっている。動物オンリーの話でそんな高度なことをやるとは、やっぱジョージ・ミラーはすごいわ。

 

【ウルフウォーカー】

・放送中に本作にたどりつかないIFもなくはなかったので、無事に収まって安心した。あらすじ読みつつ、『ウルフウォーカー』=『RRR』説を提唱する。面白がってもらえたので提唱してよかった…。

・「ウルフビジョン」の説明。オオカミに変身したロビンが、ウルフビジョンを駆使して森を駆け抜ける場面ね。ここはまず3Dモデルで森のVR空間を作り、そこに精緻かつ膨大な数の手描き2Dアニメーションを組み合わせていくという、「2.5次元」スタイルと呼ぶべき革新的な手法を取っているとのこと。
ロビンが家でオオカミとして目を覚まし、初めてウルフビジョンを体験する場面だけで、実に1500枚もの印刷物が必要だったという。

放送には入らなかったけど、まぁ過去にブログでも語ったことなので、興味あれば読んでみて。

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・犬の視点を世界で見るという点では、『マロナの幻想的な物語り』(2020年日本公開)というアニメ映画もとてもオススメ。また違った意味で驚異的な「犬から見た世界」の描写など、ヨーロッパから凄い動物アニメが続出していることも興味深い。犬の声はのんさんだし。

『荷を引く獣たち』という本は放送でぜひ紹介したかったが、ちょっと余裕がなかった。でもその年に読んだベスト本に選んだ1冊なのでぜひ読んでほしい(何回もTwitterとかで言及してるけどね)。ただ放送で言及してないにもかかわらず、聞きながらTwitterでこの本に触れてる人がいて、アトロクリスナーの教養を感じるなど。

・ご自身が障害者であり、また動物を愛するアーティストであるスナウラ・テイラーさんが書いたこの本では、「動物への抑圧」と「障害者の抑圧」が実は複雑に絡み合って繋がっていると語る。そこから、健常者中心主義と人間中心主義がつながっているのなら、障害者と動物の解放への道のりもまた根本で繋がっているのでは…と論じていく。
(『ゆかいないきもの超図鑑』の主人公のひとりを車椅子ユーザーの動物好きにしたのは、この本の影響もある。)

・その観点から『ウルフウォーカー』を見れば、オオカミという動物の表現に、どのような意味が託されているのかを、様々な視点から見ることができる。先述した「女性であること」の他にも、たとえばトム・ムーア監督は「オオカミたちはrefugees(直訳:難民)である」とも語っている。「故郷を追われるマイノリティ」のメタファーとしてオオカミを見る解釈も、難民の境遇への理解や共感がかつてないほど求められている今、いっそう重要だなと。

・このあたりもぜひ話したかったが、さすがに50分では無理でしたね。こちらの対談記事でも詳しく語ったから読んでもらえれば。

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【(放送には入らなかった)ピクサー/ディズニーの動物アニメ短編】

・時間が余れば、あっさりめに楽しめる「動物アニメ映画」を箸休め的に2本紹介したいと思っていた(しかし時間は一切余らなかったのでここで紹介しておく)。

・まず、ピクサーの短編アニメ『ひな鳥の冒険』。2016年『ファインディング・ドリー』の併映。

youtu.be・波打ち際を走り回るシギのひなが、世界の荒波に揉まれながら(まさに)、はじめてエサをとることに成功する…というだけの短い話だが、すごく良いアニメ。
この鳥は正確には「ミユビシギ」というシギがモデルと思われる。本作のアラン・バリラロ監督が、カリフォルニアにあるピクサーの近くの浜辺で見たミユビシギにインスピレーションを得て『ひな鳥の冒険』を作った。

・ただ実はミユビシギは日本でも普通に見られるシギで、主に春や秋に海を超えて渡りをして、日本とアメリカをつないでくれる鳥でもある。今の季節も首都圏の浜辺などで観察される。波から逃げるようにささーっと移動するかわいらしい姿がネットでもよくバズっている。

・私も鳥が大好きで、毎日のように水辺を散歩して鳥の姿を探し回っているので、ここまで水鳥にフィーチャーした、しかも超ハイクオリティな鳥アニメが出てきたのは本当に嬉しかった。
・そのキャラクターも、ディフォルメを極力省いた造形に注目。ピクサーもディズニーも動物主人公の作品は沢山あるが、その中でも最もリアル寄りの造形ではないかと。もちろん行動などは、動物学的なリアリティとアニメ的なわかりやすさをうまくミックスしているんだけど、現実世界の動物のデザインの素晴らしさを実感させる。
・鳥好きには、Netflixで見られるアードマンの短編『ことりのロビン』もオススメ。

 

・もう一本、あっさり見られる最新の動物アニメとして『ツリーから離れて』(2021)をあげたい。こちらはディズニーで、『ミラベルと魔法だらけの家』の同時上映だった。『ツリーから離れて』は、アライグマの親子が主人公の2Dアニメだが、『ひな鳥の冒険』と対になるようなテーマとなっている。

・『ひな鳥の冒険』が子どもの好奇心と失敗と挑戦を「子ども目線」から描く作品とすれば、『ツリーから離れて』はそれを親の目線から描いた。かつて恐ろしい目にあったからこそ、子どもの自由を縛ってしまう…という、三世代にわたる親子の抑圧と解放というテーマを、一切言葉を発しないアライグマの行動を通じて描く、かなり地味だが挑戦的な短編。なにげに『ミラベルと魔法だらけの家』のテーマとも通じる話になっている。

・『ひな鳥の冒険』『ツリーから離れて』は共通点の多い作品だが、動物の行動やデザインをかなり現実に近づけておきながら、同時にちゃんとアニメーションとしても情感豊かで、人間が感情移入しやすいものにするという、最新の動物アニメのトレンドを切り開いているといえる。今後も注目していきたい。

 

【そして放送後…】

・放送後も少し残って、数十分くらい宇多丸さん&宇垣さん&古川さんとお話させてもらった…(ご多忙&お疲れとは知りつつ、ついテンション上がって楽しくなって話し込んじゃったよ)。そういえばこれも動物映画だよな〜とか、こんな動物テーマのフィクションで広げるのが可能かもねとか、『長ぐつをはいたネコ』新作すごそう、とか宮崎駿の新作はどういうことなんだよ(ポスターのあれは鳥なの?)とか、盛り上がらせてもらう。「馬」は数的に絶対できるけど逆に広すぎるとか、「羊」はどうかなとか、ショーンから転じて『ウォレスとグルミット ペンギンに気をつけろ』は世界一面白い30分だとか色々…。放送でも宇多丸さんが言ってたけど「鳥」はたしかに絶妙で面白いテーマだなと思う(ヒッチコックも『鳥』だけでなく『サイコ』とか、鳥に強めのオブセッションがあったりするし)。最近も『異端の鳥』なんかもあったし。鳥に限らず「動物とフィクション」は正直いくらでも話せるテーマなので、またなんらかの機会があればぜひ呼んでもらいたい! 

・そして楽しかった思い出を抱えながら帰路についたのだが…

楽しさにぼんやりしすぎて地下鉄を乗り過ごしてしまい、東京駅を目指してけっこう歩いた。さむかった。だが、これもまた良い思い出となるだろう……

「宇宙ネコ科スタンプ2」ニャウ・オン・セール

ブログでの告知をすっかり忘れてたら「猫の日」終わっちゃいましたが、LINEスタンプ「宇宙ネコ科スタンプ2」発売しました。LINEスタンプの猫の日キャンペーンは3月22日まで続行中なので、引き続きスタンプを買うと売上の一部が猫の保護のため寄付されるよ(普段よりちょい高いけどキャンペーン価格とのこと。猫のためと思ってもらえれば…)

store.line.me

トップはスミロドン先輩(絶滅ネコ科)

↓これを早く使いたい

 

前回までの宇宙ネコ科はーーー

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