沼の見える街

ぬまがさワタリのブログです。すてきな生きもの&映画とかカルチャー。

「宇宙ネコ科スタンプ2」ニャウ・オン・セール

ブログでの告知をすっかり忘れてたら「猫の日」終わっちゃいましたが、LINEスタンプ「宇宙ネコ科スタンプ2」発売しました。LINEスタンプの猫の日キャンペーンは3月22日まで続行中なので、引き続きスタンプを買うと売上の一部が猫の保護のため寄付されるよ(普段よりちょい高いけどキャンペーン価格とのこと。猫のためと思ってもらえれば…)

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トップはスミロドン先輩(絶滅ネコ科)

↓これを早く使いたい

 

前回までの宇宙ネコ科はーーー

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↑こっちもよろしくね

2月21日(火)「アフター6ジャンクション」に出演します

おしらせ(ブログで告知するの忘れてた)。

2月21日(火)のTBSラジオ「アフター6ジャンクション」にて、「動物が主人公の海外アニメ映画にハズレ無し」をテーマにした特集に出演します。8時頃の50分くらいの「ビヨンド・ザ・カルチャー」枠の「解像度高すぎ晋作」というコーナーの一環です。動物とアニメ映画という二大好きなジャンル(?)の交錯ポイントを楽しく語るつもりです。

www.tbsradio.jp

どんなことを喋りたいか、事前に書き出して番組さんに送ったんですが、いつものブログとかのくせでつい書きすぎて2万字とかになってしまったので、間違いなく全部は話しきれないと思われますが、まぁあまり気にせず楽しくおしゃべりできればと思います。アトロクはタマフル時代からのヘビーリスナーなので緊張してしまうな。まぁ聴いてみてくださ〜い

読んだ本の感想まとめ(2023年2/6〜2/12)

読んだ本まとめです。今週はわりと引きこもっていたので読書がそこそこはかどってしまった(そうなるとこのまとめ記事が大変になる)。せっかく高いipad miniちゃんを買ったので無駄にせず活かしていきたい…。

 

<今週読んだ本>

『ふなふな船橋』吉本ばなな

『チャップリン 作品とその生涯』大野裕之

『グリーン・ジャイアント  脱炭素ビジネスが世界経済を動かす』森川 潤

『ヒトという種の未来について生物界の法則が教えてくれること』ロブ・ダン

『フェミニズムってなんですか?』清水晶子

 

前回↓

numagasablog.com

 

『ふなふな船橋』吉本ばなな 

吉本ばななさんの小説は以前よく読んでいて、『王国』シリーズとか『デッドエンドの思い出』とか大好きだったのだが、最近なんとなく離れていた(別に嫌いになったとかではなくあまり小説自体を読まなくなったため)。そんな中、千葉県の船橋を舞台にしたという本書を見つけて、船橋への愛着が深い私としては捨て置けず、久々にばなな小説の世界に触れたのだった。

ばななさんと船橋の繋がりは調べてないので不明だが、取材もしっかりされたのであろう、愛すべき船橋の名所(?)がたくさん出てきてそれだけで楽しい。やはり地元の知ってるロケーションがフィクションに出てくると嬉しいね。私も全然知らないようなお店とか場所も固有名詞でバンバン出てくるので船橋に行く時参考にしたいと思う(てか私が言うほど船橋ガチ勢ではなかったのか…?)。

そして本作、なんといってもご当地キャラにして全国的知名度を持つ「ふなっしー」がびっくりするほどフィーチャーされる。個人的には特に思い入れがないので(ごめんなっしー)地元民にはマジで大人気なんだな…と思いながら読むしかなかったわけだが、ふなっしーという特異なキャラを通じて、フィクションやキャラクターがどれほど人の人生を励まし、支え、救いうるかということを語っているんだと思う。 

終盤で「いや、ふなっしーは商業キャラクターであって実在しないし、そいつでビジネス展開して金儲けしてるやつがいるんだよ」という(事実といえば事実な)ツッコミ視点も出てきて、これほどふなっしーフィーチャーした作品でその冷徹な視点を入れてくるのが良い意味でばなな作品らしいわけだが、それに対して「いや、キャラクターが"実在する"っていうのはそういうことじゃないんだよ」とフィクションを愛する主人公が反論する下りとか、創作好きとしてもかなりグッと来てしまった。

購入→『ふなふな船橋』

 

 

『チャップリン 作品とその生涯』大野裕之

昨年のベスト本に選んだ『チャップリンとヒトラー――メディアとイメージの世界大戦』が非常に面白かったので、同じ大野先生の書いた『チャップリン 作品とその生涯』も読んでいた。チャップリンのNGフィルムをぜんぶ見た、世界的にも珍しいチャップリン研究者である大野先生が、彼の作品と生涯を通して「喜劇王」が後世に残したものを読み解く1冊。

numagasablog.com

昨年の「チャップリン映画祭」で代表作を(10本ぶっ続けで…)見倒していたこともあり、「あの映画のあそこか〜」とわかって、チャップリンの苦闘や天才っぷりを面白く味わうことができた。映画のいいところは、観ることで「その映画を語る言葉」を見聞きするという楽しさも生まれることだね(当然すぎるけど)。片っ端から名作を観るのもいいと思うけど、映画祭などの機会で、有名な巨匠の作品をちゃんと「縦軸で」まとめて観ることも大事だな〜と思わされる。チャップリン映画祭は今後も全国巡業するようなので行ける人はぜひ行ってほしい。

ところで『チャップリン 作品とその生涯』、別に絶版されたわけではないと思うのだが、最近まで品薄だったみたいなので、私も仕方なく古書店で買ったのだが(もうしわけない)、つい最近重版して買いやすくなったみたい。やったぜ。みんな買おうね。

購入→『チャップリン 作品とその生涯』

 

『グリーン・ジャイアント  脱炭素ビジネスが世界経済を動かす』森川 潤

気候危機を回避するための地球規模の「脱炭素」へのシフトが、もはや倫理の問題とか意識の高い低い云々ではなく、世界的な巨大ビジネスとなっている…という現状を、その波に乗りまくってる企業など、通称「グリーン・ジャイアント」を紹介しながら語る本。そして例によってというべきか、日本がその波に明らかに乗り遅れてる…というシビアな現状も見えてくる。

「気候を正常化するのに"奇跡"の技術は必要ない。すでにツールは揃っている」というガーディアン記事がちょうど出たわけだが…↓

www.theguardian.com

脱炭素の波に乗るにあたって、まずはなんといっても風力や太陽光のような、再エネの「王道」をいかに走っていくかが重要になってくるわけだが、日本は上の記事でいう変な"奇跡"…というか奇策に走ろうとして、かえって最重要な王道の領域で遅れを取ってしまっている…といった傾向があると、本書『グリーン・ジャイアント』でわりと辛辣に書かれてたな…。

『成長戦略としての「新しい再エネ」』を読む限り、せっかく再エネに関する大きなポテンシャルはあるのだから、色んなしがらみに負けてないで本当の意味で次世代のウェーブに乗っていってほしいものだ…。やはりその最大の障壁が硬直した政治ということなんだろうか。もちろん市民側の意識も重要なんだろうけど。

ところで『グリーン・ジャイアント』読んで、世界の年金基金は10年以上前から(気候変動含む)ESG投資に踏み切っており、実は日本の年金基金も相当な割合がESGに回るというのは「へー」となった。年金やら積立投資やらIDECOやら、自分の金が具体的にどういう方面に回るのか見えにくいところもあるので、ぶっちゃけ環境的な観点では大丈夫なとこに行ってんのか…?と不安になることもあったが、少し安心した…かな…?(まぁ完全には安心できないからこそ企業への市民からのプレッシャーも大事になってくるんだろうけど。)

ちなみにこういう気候危機や脱炭素の本って気が滅入る側面もあるけど、読んだら読んだでけっこうエキサイティングでもあるんだよね。たぶん人類が一度も経験したことないレベルの超デカいシフトが社会に起こってるのが、不謹慎だが単純に面白いというのはある。地球環境や人間社会のメカニズムを再考する好機なのは確かなので、引き続き考えていきましょうね…特に動物好きならなおさら…

購入→『グリーン・ジャイアント  脱炭素ビジネスが世界経済を動かす』

(2/12現在、電子半額ポイント還元中)

 

『ヒトという種の未来について生物界の法則が教えてくれること』

『ヒトという種の未来について生物界の法則が教えてくれること』、献本いただいて読んだのだが、今年ベスト本に選ぶ可能性があるほど、たいへん面白かった(そして怖かった…)。これから気候変動などで激変していくであろう世界で、ヒトや他の生き物がどんな変化を迎えるか、生物学の見地から切り込んでいく。

生きもの好き視点でもかなりエキサイティングな本なのだが、鳥好きとしてはカラスに光が当たるので熱い。本書によると、変化していく環境に対応できる「発明的知能」を持つカラスのような鳥と、より特殊な状況に特化した「自律的ノウハウ」を持つ鳥がいるのだが、激変していく世界では前者が有利となり、後者が不利となるという。

さらに人類自身にも、同じ傾向が見られるかもしれない。気候変動などで激しい変貌を遂げていく世界で、人や社会がうまく存亡できるかどうかは、その社会のシステムがカラスのような「発明的知能」に近いか、他の鳥のような「自律的ノウハウ」に近いかにかかっている…という話をする。その理屈だと、硬直的な日本社会はかなり後者に近い感じがするので、ヤバそうな気配だが…。

汎用性の高い「発明的知能」が、専門特化型の「自律的ノウハウ」に比べ、不安定で移ろいやすい環境では有利になるって話、『RANGE(レンジ) 知識の「幅」が最強の武器になる』を思い出した。専門特化的な能力や知性は、スポーツのような特定の分野では確かに有利な部分もあるのだが、より現実社会に近い変化の大きいカオスな世界、通称「意地悪な世界」では、幅広い知識と多様な視点がものを言うのだ…という本。こっちも面白いのであわせて読んでほしい(今見たら電子ポイント還元やってた)

ところでカラスの「発明的知能」と、他の鳥の「自律的ノウハウ」の違いって、まさに私も考えていたことだったので、そんなちゃんとした名前があったのか!と少し驚いた。

両者に優劣があるわけではないという点は私も強調したのだが、本書の言うように、人間のせいで混沌としていく世界では、有利/不利がたしかに分かれそうだなとは思う…。

ただし「カラスの知性」対「フクロウの知性」が、そのまま本書で言う「発明的知能」対「自律的ノウハウ」の関係になるわけではないみたいだけどね。フクロウも相対的に脳が大きな鳥であり、本書で自律的ノウハウを持つとされる(比較的脳が小さな)鳥とはまた異なるようなので…。

人間はなんとなく「人間が繁栄するとカラスもついてくる」と思い込んでるが、実はカラスと人間の「知性の種類」がかなり似ているため、カラスが栄えるような環境では人間も栄えがち…というだけの話で、カラス視点では「人間ってどこでもついてくるね」って感じかもしれない。

『ヒトという種の未来について生物界の法則が教えてくれること』にも「発明的知能がカラスを利するような地域の多くでは、それがヒトをも利することになり、ヒトとカラスが同じような暮らし方をするようになった」と書いてある。ただし人が狩猟採集民だった時の話だけど。カラスと人は、どこか似たもの同士なのは間違いなさそう。

余談だが「輸送網を張り巡らせて世界の国々を結びつけた人類は、その過程で(人間を利用する)特定の生物種のコリドー=移動経路も作ってしまった」という部分、めっちゃ『THE LAST OF US』じゃん…と思った(ドラマ版でまさにその話してたし、私もちょうど語っていた↓)

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そんなわけで『ヒトという種の未来について生物界の法則が教えてくれること』、シンプルに面白いので動物好きや人類の未来を懸念する向きはぜひ読んでほしい…。究極的には、人類がしくじって滅亡しようと、ヒトに(比較的)近い脊椎動物とかが死滅しようと、広い意味での「生物界」は意に介さず存続し続ける…という話が最後に待っており、迫力と哀しさとパワフルさ、そして謎の安心感を覚えた。

購入→『ヒトという種の未来について生物界の法則が教えてくれること』

 

『フェミニズムってなんですか?』清水晶子

フェミニズムの歴史や実践や現状に関する、ありそうであまりなかった日本語で読める基本的な入門書。Twitterとかでもフェミニズムやジェンダー関連はよく議論されたり炎上したりしがちなテーマではあるが、より学問的な観点で今どのようなことが論じられているのか、専門家が書いたこうした本を読んで学ぶのは良いことだと思う。

特に「インターセクショナリズム」など、なんとなくわかっているような気になっていたものの、意外と腑に落ちて理解するのが難しいような概念についても、噛み砕いて解説されるのはありがたいところ。

個人的にも、フェミニズムは映画などの現代カルチャーを語る上でもすでに不可欠となりつつあると実感するばかりだし、いうて私も去年のベスト映画とかで10作中3作にフェミニズム的テーマ性の強い作品を選んでいたことに気づいたり。現実社会にリンクするように、エンタメにおけるこうした潮流は今後も世界的に強まっていくだろうし、現代の最も大きな潮流のひとつとして(バックラッシュ的な動きも強いとは言え)ワクワクする部分もある。

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ちなみにこの本も電子版50%還元セール中でした(2/12現在)。文春が唐突にセールやってるみたいなので本漁りがはかどってしまう…
購入→『フェミニズムってなんですか?』

 

今週はここまで。本がけっこう読めた週はまとめを書くのも大変だ…。まぁとりあえず続けてみよう。

このキャラデザが"勝ち"2023。『金の国 水の国』感想&レビュー(ネタバレあり)

アニメのキャラクターがどれもだいたい同じに見えてきた…などと言おうものなら、アニメファンに「それはお前の見る目の問題だ」「加齢によって細かい差異が見分けられなくなったのだ」とか怒られることだろう。実際そうかもしれない。

しかしそれでも…ハッキリと「違う」デザインのキャラクターが主役の日本アニメが現れた時は、明白な「新しさ」を感じさせてくれるのだから、やはりキャラ造形のフレッシュさを常に追求していくことはアニメにとって大事なのではないか。映画『金の国 水の国』の話である。

youtu.be

 

というわけで『金の国 水の国』の感想をまとめておく。今週はおじさん同士が愛し合うドラマとか、おじさん同士が憎み合う映画とかで忙しかったので(どんな週だよ)、鑑賞から少し間が空いてしまったが、おかげで原作漫画を読んだりもできた。アニメ版も良かったが、個人的には漫画の雰囲気がより好みであった。詳しくは後述。

『金の国 水の国』原作→https://amzn.to/3IflIww

 

そんなネタバレ云々みたいな物語ではないと思うが、特にネタバレは気にしないので一応注意。

 

【ざっくりあらすじ】

時は大昔、舞台はファンタジーな古典童話っぽい世界…。隣り合う二つの国がいがみあっていたが、ひょんなことから両国の男女が出会い恋に落ちる。おっとりした姫サーラと、口の達者な青年ナランバヤルは、政争に巻き込まれたりしながら、二つの国の国交を開くために頑張るのだが…?

wwws.warnerbros.co.jp

 

【このキャラデザが"勝ち"2023】

普段、あまり劇場でアニメの予告編を観たくらいでは「ぜひ観よう」とはならないのだが…

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『金の国 水の国』に関しては、予告で「あ、これは見るわ」と思った。なんといっても主役2人のキャラデザが、日本アニメでほぼ見たことないものだったからである。

 原作漫画も読んでいなかったので、どんな話とかも全然知らなかったわけだが、予告を観た時点で、仮に話が多少つまらなかったとしても、正直もう主役2人のデザインだけである程度「勝ち」だろとまで思わされた(念のため言っておくと"勝ち"というのは売上とかより、作品そのものの価値や新しさに重点を置いた話ね)。

そして公開された映画を観たわけだが、現にこういう脱テンプレ的な造形のキャラクターが、日本アニメで主役を張っているというだけでも、やはり他の作品とはっきり一線を画するフレッシュさを感じられた。

特に新鮮だと感じたのはやはり、ふくよかな体型をした姫・サーラである。まぁ「ふくよか」とは言ったものの、マジで現実の基準で考えればこれくらいの体型は全然「普通」「平均的」の範囲に収まると思うのだが、ともかく日本アニメの主役キャラとしては間違いなく珍しい造形だ。日本アニメ(に限った話では実はないが)で、とりわけ女性キャラの造形が、スリムな美女や美少女のテンプレをできる限り逸脱しないような、かなり狭い範囲に限られがちなことを考えると、サーラの造形は(原作があるとはいえ)特筆すべき大胆なキャラデザと言える。

「アニメのヒロイン」離れした体型のサーラは、おっとりしていて心優しいが、自分の外見に昔からコンプレックスを抱いている。彼女の苦悩の背景には、やはり女性を外見でジャッジして差別する、昔も今も変わらない世の中の歪みがあることも明らかだ。たとえば「最も賢い王子」と「最も美しい姫」の交換…という設定にも、「男は頭脳なのに女は外見なのかよ」という性差別の問題が、それとなく示されていたように思う。そのように抑圧されたサーラが、自分の真の魅力に気づいてくれる誰かと恋に落ち、その優しさと行動力と勇気によって(結果的にではあるが)世界を救うことになる…という物語はエンパワメント的でもあり、大筋こそ古典的ファンタジーである本作に、現代にふさわしい輝きを与えている。

サーラだけでなく、恋の相手となる青年ナランバヤルの、良い意味で平凡さを感じさせる造形もイイ。アニメとかで「平凡な見た目」の立ち位置のキャラのはずが、「美人」「美形」とされるテンプレ的コードから描き分けられてなくないか…?と感じることもよくあるのだが、ナランバヤル君に関してはマジで「平凡な見た目」なんだろうと思わせる説得力が、シンプルな造形にもかかわらずちゃんと生まれている。

そして主役2人のテンプレを逸脱した秀逸なデザインこそが、『金の国 水の国』のファンタジックで童話的な作品世界に、命ある"普通の"人々が暮らしている世界としての、嘘くさくないリアリティと複雑な奥行きをしっかり与えている。その結果、たとえば本作の数少ない(いわゆる)美形なキャラとして「イケメン俳優」な左大臣サラディーンがいるが、彼の存在感も際立っている。貧しい出身で、実は知性的であるにもかかわらず、その美貌ゆえ若干ナメられがちであるなど、なかなか切実な現実感がある奥深いキャラ造形だった。

個人的にフィクションにおける恋愛(特に異性愛)にはあまり興味が湧かないのだが、本作のサーラとナヤンバラルの恋路は素直に応援させられてしまったし、そこは2人のデザインが醸し出す親近感も影響していると思う。美男美女の恋愛は世間にあふれ返りすぎて食傷気味なのだが、「男女どちらも平凡な見た目」の異性愛ロマンスの日本アニメというのは意外と観たことがなかったので、フレッシュに感じた。

「美女と野獣」的な、女性側だけが美人という創作物はすでに沢山あるわけだが、ここでもやはり本作は、サーラが脱テンプレ的な造形の女性キャラであることが効いている。マジョリティであるはずの「男女の恋愛」という枠組みの内部でさえ、実はほとんど描かれてこなかったものが沢山あるのだな…という気づきがあった。いかにキャラクターデザインが作品そのものの「新しさ」をブーストできるかを示す、本作は最良の例のひとつではないだろうか。

冒頭でも触れたが、「普通の人」の平凡な容姿をキャラ造形にうまく反映した本作が、斬新な日本アニメに「なってしまっている」ことから逆説的に、一般的な日本アニメのキャラクターデザインがやはりまだまだ凝り固まっていることを意識してしまったのも確かだ。アニメ『万聖街』の記事↓でも書いたことだが、よりテンプレを打破した「開かれた」キャラデザが、競争力という点でも今後はいっそう重要になっていくと思うので、『金の国 水の国』はその点でも注目されるべきと思う。

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【豪華絢爛な美術】

『金の国 水の国』の良さを語る上でキャラデザは筆頭に上がるわけだが、全体的に絵がリッチなので、単純に観ていて楽しいアニメである。特に背景美術に関しては、最近の日本アニメの中でも屈指の豪華絢爛っぷりではないだろうか。アラブ文化を取り入れた、サーラの暮らす「金の国」の街や人々、王宮などの建造物の描写も相当に手が込んでいた。

特にクライマックスで、ある「隠し通路」がド派手に現れてくる場面の迫力はアニメーションならではの圧巻な表現で、舞台となる「金の国」の空間的なスケール感もいっそう壮大なものに感じさせてくれる。気合が入った見せ場に、原作ファンも大満足なことだろう。

ナランバヤルの故郷、中国やモンゴルなどのアジアをモチーフにしたと思われる「水の国」の描写も良い。漫画だと「A国」と「B国」という記号にすぎなかった両国が、精緻な美術表現によって実在感を獲得していて見ごたえがある。

ただ、アニメになって美術の解像度が上がってリアリティが増したことで逆に、水が全然ない砂漠の「金の国」のすぐ隣が、こんなに自然豊かな「水の国」ってこの世界の自然環境どうなってんだよ…とか、やや気になる点が強まったのも確かだ。原作だと導入から思いっきり「童話なのでこのへんは気にしないでね!!」って感じだし、そこまで細かく美術を描き込んでもないので、むしろ気にならないのだが。

それと色々なアジア圏の文化をブレンドしてると思しき水の国はともかく、金の国はわりとそのまんまアラブ文化を完コピしてこのファンタジー童話世界に転用してる感じなので、ガチの現代エンタメの国際水準から言うと、若干「文化の盗用」という言葉がチラつきはじめる瀬戸際になくもないかな…?とか思ったりもした。とはいえ、この程度はまぁよくあるレベルなので、問題になるほどではないと思うし、映画館で観るに値する豪勢な画を楽しませてくれたことに素直に感謝しておきたい。

 

【意外と今に刺さってるストーリー】

先述したように、両国の設定もかなりフィクショナルだし、全体の「おとぎ話」感は原作でもアニメでも強調されているので、物語は良くも悪くも古典的…なはずなのだが、意外なほど「今」に刺さった物語になってしまっている側面がある。というのも本作、根本的には「資源を巡る戦争を外交で食い止める」話だからだ。

まぁ戦争というのは大抵はなんらかの(物的・人的)資源を巡るものと言えなくもないかもだが、たとえば現在進行中のロシアによるウクライナ侵攻が、本質的にはエネルギー問題を巡る戦争である…という話もよく聞くようになっている。よって大国が武力衝突や帝国主義的な侵略に行き着く前に、登場人物たちが力を合わせて国どうしを融和させようとする…という展開に、なんだか今特有の切迫感が生まれてしまっており、キャラへの応援にも余計に力が入ってしまうというものだ。

そして金の国では「外交」などという営みは、臆病者の腰抜けによる「男らしくない」「王らしくない」所業とされており、外交を試みた王も「腰抜け王」と呼ばれて蔑まれていた。その名前をなぜか親に継がされた現在の王が、"汚名"を克服するために武力を発揮して戦争しようとしている…という、悪しきマッチョイズムに支配された権力の厄介さを巡る物語にもなっている点に着目したい。

そしてそんな王がクライマックスに、マッチョさとはかけ離れた男性であるナランバヤルによって説得される点も面白く感じた。腕も立たないし金もないナランバヤルだが、唯一「口だけは達者」であるという、彼の大きな見せ場にもなっている。ナランバヤルは、金の国では「腰抜け王」と呼ばれていた王が、自分の国では「唯一話のわかるヤツ」だと称賛されていたことを今の王に告げる。価値観というのは場所によってガラッと変わるものだと説くことで、王が囚われている「王らしさ」の概念を相対化してみせるのだ。

最悪な種類のマッチョイズムに取り憑かれ、パワーを誇示したいがためにおかしくなってる権力者が、世界中でヤベー事態を引き起こし続けている今、いっそう本作のクライマックスで伝えられた価値観の転倒や相対化は、平和な世の中を作るために不可欠なステップに思えてくる。旧来的な価値観に囚われない、ナランバヤルの柔軟な考え方や発想、そして彼を惚れさせたサーラの優しさや勇気こそが、この物語の王国にとっても、私たち現実の次世代にとっても、何より大切なものになるはずだ。

 

【原作も読みました】

というわけでアニメ『金の国 水の国』が全体に楽しめたし、改めて漫画版を読んでみたのだが、けっこう受ける印象が違うな!とも思わされた。率直に言って、より好みなのは漫画版の方である。

情感あふれる方向に舵を切ってるアニメに比べても、原作はけっこう常に何かしらふざけてるような、ドライでユーモラスな空気感が張り巡らされている。みなもと太郎みたいな("プロレス"とかその時代や舞台に絶対ないであろう言葉を急に入れてみたり)細かいギャグもかなり多い。そのことが、事態がシリアスになってきても情緒的・ウェット方向に傾きすぎないような、やや突き放した視点も生んでいて、「なんだかんだ王族の話かよ〜」ともなりかねないこの物語を語る上では、むしろより効果的だと思う。

あと『金の国 水の国』原作、サーラの心情描写がより繊細で丁寧だなと感じた。この一連のコマ↓とか凄くいいんだよね(眉をしかめての"ニコ"が特にいい)。ただこういう微妙かつユーモラスなマンガ表現は、アニメだと再現が難しいというのもわかる。

たとえば映画版を見た時、サーラvs水の国王の飲酒バトルが勃発!というシーンで、突然時間が飛ぶので、「いや普通にバトル見せてほしかったんだが…?」となった。流れ的にもせっかく盛り上げてたし、飲食を愛する彼女の見せ場にもなるし。原作でもあんな感じで時間飛ぶのかな、ひょっとして飲酒シーンゆえに規制かかったとか…?とか観ながら邪推してしまったほどだった。

で、原作『金の国 水の国』を読んだら、そちらでも飲酒バトルはあっさり省略されていたのだが、漫画だともっと「サーラが強すぎてバトルの様子すら描かれない」ギャグなことが明快に感じられた。ここがアニメだと「あれ、バトルは?」となる戸惑いが勝ってしまったんだよね。これはあくまで一例だが、やっぱ漫画とアニメってテンポ感も全然ちがうし、メディアミックスの難しさを改めて感じたり。まぁこの辺は『鬼滅の刃』とか超メジャーどころの漫画のアニメ化にも大いに感じるところなので、本作特有の問題ではまったくないのだが。

 

…などと色々細かく思ったりもしたが、日本アニメの新しい可能性を感じさせる良作なのは間違いないので、テンプレ的なキャラ造形に若干飽きてきた人にもぜひ観てほしい一作でした。

原作も読もうね!→『金の国 水の国』

大判のスペシャル版もあるらしい。見開きがきれいなので紙ならこっちがいいかも。

神回の後の静けさ。ドラマ『THE LAST OF US』第4話感想

ドラマ版「THE LAST OF US」、なんぼなんでも神回すぎた3話の後、はたしてどうくるかな…と若干ビビっていた。すでに散々語り倒したように、3話は正真正銘の傑作回であったし、このドラマの現代エンタメ史における重要性をある程度決定づけた、と言ってしまっていいだろう。

 

↓前回(神回オブ神回)

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先週はドラマを観てからというものビル&フランクのことをずっと考えていてしまい、他の創作物がイマイチ頭に入らないほどだった。きっと同様の人が世界中に沢山いることだろう…1000万人くらい…(←このドラマの視聴者数を考えるとそんなに大げさではない数字なのでこわい)

ただぶっちゃけ毎回3話のテンションで来られても逆に困るというか、そんな毎週ドラマに打ちのめされて放心してるわけにもいかないので、今回は(話的にも繋ぎ回だろうし)あっさりめでいいっすわ…などと思っていたほどだ。そしてその期待は当たることになる。……ある程度は。

 

以下ネタバレ気にせず感想書くので、U-NEXTで見てから読んでね。

『THE LAST OF US』U-NEXTで視聴 

px.a8.net

 

ーーー以下ネタバレ注意ーーー

 

【ジョエルとエリー、アメリカぶらり旅】

まるで『タクシードライバー』のトラヴィスのように、前回ビルの家でこっそり手に入れた銃を、鏡の前で突きつけてポーズをとるエリー。タフな彼女の微笑ましい一面ではあるが、結局の所まだ子どもであるがゆえの危なっかしさも垣間見えて、不穏な気持ちも生じる。

ビルとフランクの家から貰い受けた車で、2人はドライブを続けているが、ガソリン補給のために廃墟のスタンドに立ち寄ったようだ。エリーがおもむろにリュックからジョークの本を取り出して読むくだりは、DLC「Left Behind」の場面を思い出すわけだが、このジョーク本が今回、意外なほど重要な役割を果たすことになる。このように、ドラマ版ではすでに何度か「Left Behind」の出来事やモチーフがさりげなく言及されてきたので、このシーズンの中で「Left Behind」もやってくれるのではないか、と期待は高まってしまう(やれば3話級の神回になるでしょ絶対)。

ゲームでもあった、ビルのゲイ向けエロ本をエリーがくすねて車内で読むシーンもちゃんと再現されていた。セリフや構図もほぼそのままだが、ゲームでも荒んだ世界の雰囲気をエリーが明るくしてくれる印象的な場面だったので、ファンサービスとして気合いを入れたのだろう。ちなみにゲーム1作目では、キャラクターが性的マイノリティであることが明示される場面は実質的にここだけなので、こうした表現に関してその後ラスアスシリーズがいかに格段の進歩を遂げていくことか、ちょっと思いを馳せてしまう。

しばらく進んだ後、野外でキャンプを始める2人。「焚き火はしない」というやりとりから、感染者よりも人間に警戒せざるを得ないという、世界の荒廃っぷりがそれとなく示される。2話で登場したクリッカーを筆頭とする感染者はたしかに恐るべき脅威だが、結局のところ行動パターンがはっきりした猛獣のような存在にすぎないとも言える。真に恐るべきは、やはり人間である…というのは、原作ゲームとも共通する世界観だ。そんな不安な夜であっても、エリーのダジャレクイズにジョエルが「正解」を出してしまう場面には暖かさがある。

翌朝ジョエルがキャンプでコーヒーを飲む場面も、地味に注目したい。ジョエルは原作ゲームでは探索中に「あ〜、コーヒーが飲みたい…」などと呟きつつ、今はめったに飲めないのであろうコーヒー愛を露わにしていたし、『The Last of Us Part II』でも彼のコーヒー大好き設定が生かされていた。しかしドラマ版では、一応コーヒーっぽい飲み物は普通に飲んでいるようだ。「焦げたウンチの匂い」とか言われて、むくれたように音を立てて飲み干すジョエルが萌えである。ちなみに焦げたウンチ呼ばわりは、文明崩壊後の生まれのエリーがコーヒーの匂いを知らないゆえなのかと思ったが、ラスアス世界で本物の(良い香りのする)コーヒーが流通してるとも考えにくいので、実は本当に劣化してヒドイ匂いのコーヒーな可能性も高い…。

そんな感じで、この4話はジョエルとエリーのやりとりなど、けっこう笑いの要素が多かったり、良い意味で力の抜けた感じも程よく、神回の直後に見るにはちょうどいい感じの繋ぎ回になっていた……と言いたいところだが、それだけでは決して済まさないのも、やはりラスアスである…。

 

【ラスアス2先取り?なしんどさ】

というのもこの4話で、早くも続編ゲーム『The Last of Us Part II』のテーマ性を強く想起せざるをえない場面が現れるのである。先ほど「真に恐ろしい敵は人間」と言ったが、『The Last of Us Part II』はその「敵もまた人間である」という事実を、おそらくゲーム史上最も高い解像度によって描いた作品と言って良いと思う。たとえば、モブの敵キャラにも全員名前があり、殺そうとすると命乞いを始めたり、その死体を見た仲間がそいつの名前を泣き叫びはじめたりするという、ほとんど嫌がらせのような細かい処置が加えられている…。その結果、ガンガン人を殺していくゲームにもかかわらず、殺人や暴力がもつ取り返しのつかない重みを常に突きつけられたまま進行するという、まさに「プレイする地獄」のような有様になっているのだ。まさにそれこそが『The Last of Us Part II』を傑作足らしめているわけだが…。

このドラマ版4話では、ジョエルとエリーから見れば「敵」にあたる組織の内情が、けっこう詳しく描かれていくのも印象深い。ドラマ『イエロージャケッツ』(これもU-NEXTで見れます)にも出ていたメラニー・リンスキーが演じる、組織のリーダーである「キャスリン」という中年女性のキャラクターに光が当たり、敵には敵の事情があることが描かれていく様子も非常に『The Last of Us Part II』っぽいと言える。ゲームでもおなじみの黒人青年のキャラクター・ヘンリーと因縁があることが示され、このキャラや関係がどう転んでいくのか読めないが、ドラマならではの展開が見られることはまず間違いなさそうだ。ビル編が大きく変更されたことで出番が延びた中ボス・ブローターも、満を持して登場する気配なので楽しみである…。

そしてジョエルとエリーが「敵」である人間たちの罠にはまり、やむをえず戦闘になって相手を殺害していく場面は、何より『The Last of Us Part II』の思想を大いに感じさせた。ストーリー進行の上では単なる「モブ敵その1〜3」とかに過ぎない彼らもまた、この崩壊世界で共に生きてきた者同士であり、仲間が殺されれば当然だが大きなショックを受ける。仲間を殺したジョエルの命を奪おうとした寸前、後ろからエリーに撃たれた若者は、必死で命乞いを始め、ブライアンという名前を名乗り、ジョエルに「むこうに行ってろ」と言われて立ち去るエリーに「行かないでくれ」と懇願し、「お母さん!」と叫びながら、ジョエルにトドメを刺されることになる…。とても「主人公たちが協力して敵をやっつけたぞ!」という場面とは思えない、あまりに悲惨すぎる描かれ方である。だが本来「誰かをやっつける」というのは、リアルに描写すればこういうことなのだ…。

そんな本物の、ひたすら陰惨なだけの暴力の場面を目にしてしまったエリーは、銃をジョエルに手渡す。ゲーム版では、勝手に銃を撃ったエリーに対して、ジョエルは怒りを表明するわけだが、ドラマ版ではまったく違った反応になっていた。自分が不甲斐ないせいで、エリーに暴力を振るわせることになってしまい、申し訳ない…と謝罪するのだ。その謝罪を聞いたエリーは、自分が傷ついていたことに今気づいたかのように涙を流す。ゲーム版ジョエルの(たぶん自分の不甲斐なさへの苛立ちも混在した)怒りも理解できなくはないが、ここはドラマ版ジョエルのほうが、大人の子どもへの態度としてはずっと適切なように思う。

悲惨な出来事はあったとはいえ、ジョエルとエリーは目前の危機を脱するため、ビルに登っていく。高層階の一室で夜を明かすことにした2人。眠る前に、エリーが再びしょうもないジョークを言い、今度こそジョエルは思わず吹き出してしまう。声に出して笑うほどにジョエルがはっきりと笑顔を見せたのは、おそらく第1話の20年前の場面以来だろう。亡くなった娘・サラが残した傷が癒えることは決してないが、ジョエルとエリーという孤独な2人が築く擬似親子的な関係は、次第に深まっていくのだった。

しかし穏やかな夜は続かず、目を覚ませばそこには銃口を突きつける黒人少年の姿が…!というところで4話は幕を閉じる。いよいよ『The Last of Us』シリーズを(色んな意味で…)最も象徴するサブキャラクター、ヘンリー&サム兄弟が登場…というわけで、期待が高まっていく。 というわけで4話は、神回の直後にちょうどいい(比較的)静かな回でありながら、ゲームに忠実な再現と巧みな再構成をうまく織り交ぜながら、ラスアス2を想起する辛い展開や興味深い改変などもブチこんでくるという、相変わらず目が離せないドラマであると実感させられた。

ちなみにだが、第5話は来週の月曜ではなく、今週の金曜(2/11)配信らしいので気をつけよう。ゲームファンにはおなじみの、山寺宏一さんや潘めぐみさんの吹き替え版も2/13から配信スタートするので、楽しみに待ちたいところだ。

 

『THE LAST OF US』U-NEXTで視聴 

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ド迫力な小さい話。『イニシェリン島の精霊』感想&レビュー(ネタバレあり)

あらすじだけで思わず観たくなる映画は沢山ある。女の子が巨大なレッサーパンダになってしまう映画悪者が人類の数を半分に減らしてしまう映画黒人が経営する牧場をUFOが襲う映画2人の最強のインド人が出会い、とてつもない関係を築く映画…。万人に開かれたエンタメである映画には、こうした「一言でわかりやすく面白さを説明できる」キャッチーさが求められるものだ。

その一方で…「おじさんが親友のおじさんになぜか嫌われちゃった!どうしよう」というあらすじの映画もある。「知らねえよ……」としか言いようがない。しかし、そんな映画『イニシェリン島の精霊』がこんなにも面白いのだから…映画とは、実に豊かで奥深いものではないか。

 

【過激なまでに「小さな」話】

本作『イニシェリン島の精霊』は、過激なまでに「小さな」話だ。1923年、アイルランドの西海岸に浮かぶイニシェリン島で、お人好しの男パードリック(コリン・ファレル)が、なぜか突然、長年の友人のコルム(ブレンダン・グリーソン)に絶交を告げられてしまう…という話である。

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↑この『イニシェリン島の精霊』の予告編を観るだけで、本作の「小ささ」は実感できることだろう。世界を股にかけるアクション大作や、派手なエフェクトを駆使したアニメなど、とにかく「"大きな"話だよ!観てね!」と観客の期待を煽る映像が次々と流れるシネコンの劇場で、本作の予告編を目にした時、そのスケールの圧倒的小ささに、まるで他の映画に喧嘩を売ってるような「尖り」さえ感じた。

一応言っておくと本作のように、傍から見れば極めて小さな問題や出来事を扱った「小さな」映画自体は決して珍しくはない。舞台や人間関係が狭いまま会話メインで続行する作品は(特にアート系の映画では)無数にあり、「演劇的」と称されたりもする。アメリカの片田舎の町が舞台の、マーティン・マクドナー監督の前作『スリー・ビルボード』もそのひとつだろう。

だがとりわけ本作『イニシェリン島の精霊』は明確な意図をもって、格段に「小さな」物語であることが強調されているように思える。

たとえばオープニングだ。島の名産だというレース(編み物)も連想させる、岩だらけの島を空から映した鮮烈なショットで本作は幕を開ける。その無骨で神々しさすら感じさせる、寂寞とした島の自然のスケールの大きさと、人間たちが織りなす(レースだけに?)小さすぎる関係のこじれを対比させることで、人間がいかに「小さな話」に囚われ続ける些末な存在であるかを際立たせているかのようだ。

…しかし、である。「小さな話」であるからといって、それが「小さなこと」であるとは限らない。まじめに想像してみてほしいが、 私たちの現実の人生で、もし本当に、長年付き合っていた友人から、ある日突然嫌われたとしたら…? そんな出来事がもたらすショックは、レッサーパンダに変身したり、巨大UFOが襲ってきたり、人類の数が半分になったりすることの衝撃に、比肩しうるのではないだろうか…。それが言い過ぎたとしても、いざ自分の身に降りかかれば「知らねえよ…」では済まされないインパクトを及ぼすことは確かだ。そんな「ド迫力な小ささ」を体感できるのも、また映画なのである。

 

【あなたはコルム?それともパードリック?】

『あなたはボノボ、それともチンパンジー?』みたいになってしまったが、それはともかく…。

本作のダブル主人公である、パードリックとコルム。2人は友達だったのになぜ…というあらすじなわけだが、実はその関係性にはけっこう謎な部分も多い。というのもこの物語が始まる前に、2人が本当にどんな関係だったのかは、回想などでも全く明かされないまま物語が進行していくので、観客としては想像するしかないのである。パードリック視点の言いぶんを信じるとするならば、2人は本当に親友で仲が良かったと言えるのだろうが、それをコルム視点から裏付けるような証拠は何もない。

ただしヒントと言うべきか、本作にかなり重要な文脈を与えていそうな作品がある。マクドナー監督の15年前の映画『ヒットマンズ・レクイエム』(2008)だ。パードリック演じるコリン・ファレルと、コルム演じるブレンダン・グリーソンは、その時もダブル主人公を演じたコンビなのである。『ヒットマンズ・レクイエム』は、ベルギーの古都ブルージュで2人の殺し屋が雑談したり観光したり、酒場やホテルでウダウダ揉めたり、命の危機に陥ったり、自らの取り返しのつかない過ちに向き合ったりする、やや癖は強いものの独特な面白さのある映画だ。そのファレルとグリーソンが醸し出すケミストリーを、マクドナー監督も大いに気に入ったからこそ、15年後にもう一度2人の共演を『イニシェリン島の精霊』でセッティングしたのだろう。

よって『イニシェリン島の精霊』は、『ヒットマンズ・レクイエム』の実質的な続編である…とまで言えば明らかにおかしいが、こうした文脈を監督がわざわざ用意したことを考えれば、2人の間に『ヒットマンズ・レクイエム』を想起するような深い繋がりが、かつては確かに存在した、それなのに……といったん素直に考えるほうが、本作を読み解く上では適切と言えそうだ。

そして本作を観る前は、「なんでパードリックはコルムに急に嫌われちゃったの?」という謎が、物語のメインになるのだろうと考えていた。たぶん映画の後半くらいまではその謎を引っ張るんだろうな〜と。たとえば、実はパードリックが本当に嫌われても仕方ないようなひどいことをしていた…という展開もありうるし、最後まで「なぜ嫌われたか」明らかにならないパターンもあるかも?とか予想していた。だが予想を裏切って「答え」はあっさり、開始数分ほどでコルムの口から明かされる。

パードリックがコルムに急に嫌われちゃった理由とは……要するに「パードリックがつまらない人間だから」という、あまりに身も蓋もない答えであった。つまらない人間とずっと一緒にいて、つまらない話を聞いてきて時間を無駄にしてきたから、今後はお前のようなつまらない人間とは縁を切り、(音楽のように)真の意味で自分や世界にとって価値がある営みに没頭したい、だからもう話しかけるな、とコルムはパードリックに告げるのだ。

………。思わず絶句してしまうほどの身も蓋もなさであり、あんまりといえばあんまりな言い分なのは間違いない。「長年の友人に対してそれはないだろ」とコルムを正論で非難するのも容易い。だが、本作の恐ろしいところは、そんなコルムの「ひどい」考え方に、「あ〜〜〜…わかるかも……」という気持ちも湧いてきてしまうことだ…。

たしかに芸術や創作は、人の人生を変えるような力を持つ、とても大切な人間の営みだ。一方だからこそ、芸術や創作を追求することには、常にシビアさがつきまとう。才能やセンスも不可欠だが、何よりも絶え間ない修練に時間と労力を捧げる覚悟が必要だし、そのための時間は多ければ多いほど、良いものを生む上で「有利」なことも確かだろう。

絶対的な事実として、人生の時間は誰しも限られている。だとすれば、何の役にも立たない上に面白くもない人間関係はさっさと全部「切って」、その時間を真に価値のある営みに費やしたい、というコルムの率直すぎる言葉は、そうした観点からは理解できてしまう…どころか、むしろ「合理的」な態度にさえ思えてきてしまうのだ。

これは私がクリエイター方面に属する人間だからかもしれないが、しかしここでの「芸術」を他の仕事だとか、スポーツとか、学問だとか、何かしら人間の営みの中で「価値のある」とされるものに置き換えたとしても、上記の理屈は成立する。コルムとパードリックの諍いで描かれるのは、初見では「知るかよ…」となるような、あまりに個人的な小さな問題でありながら、同時に極めて射程の広い、普遍的な問題なのだ。

マクドナー監督はインタビューの中で、「日々の暮らしのなかで誰もがコルムであり、またパードリックでもあります」と語っている(パンフレットより)。たしかに、この世に「価値のある」とされる営みがあり、人間がその実現に向けて「合理的」に行動しようとする以上、コルムのような立場にも、パードリックのような立場にも、どんな人でもなりうると言えるのではないか。

「いや〜、パードリックならともかく、自分はコルムではないよ。別に芸術や創作の才能もないし、人を見下せるような能力やセンスもないし。"切られた"ことはあっても、誰かを"切ったり"なんかしないよ」と思う人もいるかもしれない。

だが本作ほど極端な状況ではないとしても、たとえば「こんな面白くもない飲み会、さっさと帰って自分の好きなことをしたいな」くらいのことは、誰しも思ったことがあるだろう。さらに「なんとなく知り合って付き合うようになったけど、一緒にいても正直あまり面白くないんだよな…」「昔からの友人だったけど、久しぶりに会ったら全然気も話も合わなくなってて、なんかガッカリした」などなど、思い当たるフシはないだろうか…?

さらにもっと身近で矮小な、たとえばTwitterのようなSNSを例にとってみると、コルム現象(?)の生々しさがいっそう増す。 なんとなく相互フォローになったはいいけど、正直なんか「ちがうんだよな」と思っちゃったり、発言にじわじわ幻滅したりして、いいねもリプもしなくなったり、フォローを外したり、外すと角が立つからミュートにしたりして、結局なんとなく疎遠になったりとか……そういうことが一度もない、とあなたは言い切れるだろうか…?(書いてて辛くなってきたが。) あまりにささやかではあるが、それでも誰かを「切った」経験には違いない。「切られた」人から見れば、あなたはコルムである。

一応言っておくと、当然ながら人間関係は本人の自由であるし、違和感を覚えたら離れていくのは何一つ悪いことではなく、むしろ望ましいことの方が多いだろう。だが「より良い・価値のある人生のために、誰かを・何かを"切って"いる」という点では、本作の(次第に常軌を逸していくように見える)コルムの振る舞いと、私達の日常のあれこれは、本質的には変わらないと言えるのではないか…。そんな風にまで思わせる、絶妙に普遍的なバランスの物語となっているのだ。ファレル演じるパードリックがまた、「こいつの話、マジでつまんねーんだろうな…」とリアリティを感じさせてくれる佇まいをしてるのも、この嫌に生々しい物語の迫力を増している…。

 

【"芸術のために全てを捧げる"と言うけれど】

一方で本作『イニシェリン島の精霊』は、パードリックを「切ろう」とするコルムの(つい気圧されて納得してしまいそうになる)言葉や考え方を、ただ肯定するような作品では決してない。むしろ、そのいっけん合理的な理屈の影に潜む一種の傲慢さが、いかに恐るべき事態を招くことになるかを、鮮烈な形で描き出してもいる。

コルムはアイルランドの伝統的なバイオリンである「フィドル」を演奏し、作曲してきた経験から、芸術がいかに価値のあるものかを実感したのだろう。人間自身は死んだら消えてしまうが、人の生み出した音楽や絵画や詩のような芸術は、永遠に残るはずだ…とコルムは言う。ここまでは概ね、誰もが同意できることだろう。

だがコルムはさらに、「モーツァルトのことを覚えてる人は大勢いても、その時代の"優しいやつ"を覚えてるやつなんかいない」と、パードリックに言い放つ。「優しさ」のように、音楽や芸術の"価値"のようには、時代を超えて記憶されるような"価値"とは言えないものを、コルムは正面から否定してみせるのだ。その"価値"観から言えばたしかに、パードリックのような「退屈なお人好し」は、コルムの人生から居場所をなくしてしまうのかもしれないが…。

コルムの言う「芸術の永続性」は(映画を含む)創作物の中でも「良きもの」として語られることが多い。たしかに「人が死んでも芸術は残る」ことは、素晴らしいことだ。だがそれを重視するあまり、「いつか死んで忘れ去られるだけの人間なんてどうでもいいから雑に扱って、真に価値のある芸術のみに集中するべきだ」とまで言ってしまうと、雲行きが怪しくなってくる。それは現実に周囲で生きている他人を軽んじる考え方であり、自分自身のことさえ単なる「芸術を生み出すための機械」に変えてしまいかねないのだから…。そもそも芸術は、基本的には生を豊かにするための営みなのだから、そのために他者や自分を踏みにじってしまえば、本末転倒ではないだろうか。

もっと射程を広げてみると、「芸術のために全てを捧げる」と言えば聞こえはいいが、その思想がいくらでも有害なものになりうることは、映画/エンタメファンこそよく知っているはずだ。たとえば、MeToo運動で告発されたプロデューサーのワインスタインであるとか、自分に逆らえない立場の人間を食い物にしてきた映画監督や有名俳優であるとか、やりがい搾取の違法労働で若い才能を使い潰す制作陣であるとか…。そんな蛮行がつい最近まで、いや今も、海外だけでなく日本でも、「芸術」や「エンタメ」の旗印の下で堂々とまかり通っている。

その背景には、「芸術の価値は絶対的な正義だから」「クズみたいな振る舞いでも、良い作品を作りさえすれば良いから」「作品のためには犠牲は仕方ないから」という不文律も大いに影響していたのではないか。「芸術のために全てを捧げる」という美しいフレーズには、業界の腐敗を温存するための免罪符として使われてきた、醜い側面もあるのだ。

少々話を広げすぎたかもしれないし、フォローしておくと本作でコルムは、なにも他人を傷つけたり、弱者を搾取したりするわけではない(むしろそうした醜悪な人間に立ち向かうシーンもあるほどだ)。しかし「芸術のために全てを捧げる」こと、すなわち「何か崇高なもののために周囲の人や自分を犠牲にすること」がもつ危うさや恐ろしさは、本作のコルムの振る舞いを通じて描かれていくことになる。それが最も強烈に現れるのが、中盤のあるショッキングな展開だ。

 

 

ーーー以下、大きめのネタバレ注意ーーー

 

 

【切って、切って、切りまくる】

突然の絶縁を告げられ、自分が「切られた」ことに納得がいかないパードリックは、諦め悪くコルムに関係の回復を持ちかける。それにしびれを切らしたコルムは「これ以上関わってくるようなら、自分の指を切り落としてやる」という恐ろしい警告をパードリックに告げる。予告編でも流れたシーンだが、要は「それくらいお前のことが嫌いだから、もう絶対に話しかけるな」という脅しであると、普通は解釈するだろう。

だがなんと中盤で、なおもしつこくパードリックに食い下がられたコルムは、その「脅し」を実行して、本当に自分の指を切り落としてしまう! パードリックの家の扉に、無造作に投げつけられるコルムの血染めの指…。「おじさんとおじさんが仲違いしちゃった」という小さすぎる話から始まったこともあり、わりとユーモラスな雰囲気にも満ちていた本作が、観客に冷水をぶっかけるようなダークさに転じる衝撃の場面である。さらに、その後…事態はもっと深刻な方向へとエスカレートしていくのだ。

本作を観た人の多くが抱くであろう、最も不条理な謎が、「なぜコルムは指を切り落としたのか」であることは間違いない。そもそもコルムは、音楽に集中したいからこそパードリックに絶縁を告げたはずだ。それなのに、パードリックがしつこいからと言って、演奏のために必要不可欠な指を切り落としてしまっては、まさに本末転倒ではないか…? 

真っ先に思ったのは、この行動はコルムによる「他人への脅し」であると同時に、「自分自身への戒め」なのだろう…ということだ。もしかしたらコルム自身の中にも残っている、パードリック含む他者や世間への未練を、文字通り「切り落とす」意味もあったのではないか…と思った。

そう解釈すれば、この「切断」が、さらにとんでもない方向にエスカレートしていった事態も、ある程度は説明できる。コルムへの怒りと嫉妬に駆られたパードリックが、コルムの音楽活動を邪魔するために意地悪な行動に出る。その後パードリックは、コルムといったん仲直りしかけたことでつい油断したのか、それをポロッと告白してしまう。それを聞いたコルムは、なんと左手の残った指も全て切り落としてしまうのだ…!

いよいよ完全に常軌を逸した行動としか言えないが、コルムのそんな暴挙は、「芸術に全てを捧げる」という誓いを破り、いったんはパードリックに心を許してしまった自分自身への「戒め」のように、もっと言えば「罰」のようにも見えてくる。

この「罰」を理解するためには、コルムが自分自身のことをどのように思っているのかを考える必要がある。コルムは確かに素人離れした腕前をもつ演奏家・作曲家だが、とはいえモーツァルト級の天才かと言えば当然そんなことはなく、作品を残すことに成功したとしても、コルム自身が恐れるように「忘れ去られていく」可能性も十分あるだろう。だからこそ、コルムはパードリックを「切って」まで、「芸術に全てを捧げる」ことを決意したわけだ。

だが「優しさに何の価値がある?」とバカにしていたコルムもまた、パードリックへの優しさや思いやりを完全には捨てきれない。それは、警察官によるひどい暴力からパードリックを助ける場面などからも明らかだろう。そしてパードリックの必死の説得によって(彼のひどい妨害行為に気づくこともなく)いったんは彼に心を再び開き、コルムは「優しさの世界」に帰ってきてしまった…。コルムは、むしろパードリックのことよりも、そんな自分自身が許せなかったのだろう。

…とはいえ、である。やはりフィドルの演奏に身を捧げるために、よりによって指を切り落としてしまうというのは、完全に矛盾して見えるのは確かであり、血まみれの傷が癒えぬうちにパブでフィドルを演奏(指がないので打楽器みたいにしか使えていないが…)し続けるコルムの姿は、狂気の沙汰としか言えない…。本作はコルムの奇行によって、もはや理性的な解釈を許さない突飛な奇作になってしまったのだろうか。

 

【小さな諍いと、大きな戦争】

いや、解釈を諦めるのはまだ早い。ここで重要になってくるのが、本作『イニシェリン島の精霊』の時代設定と社会背景である。具体的には、パードリックとコルムの諍いと並行してそれとなく示唆される「アイルランド内戦」に注目するべきだ。

約700年もの間イギリスに支配されていた(『ウルフウォーカー』でもおなじみですね)アイルランドは、ようやく「アイルランド自由国」の地位を1921年に獲得した。だが、翌年には講和条約の批准を巡って、国内が賛成派と反対派に分裂し、世にいう「アイルランド内戦」が勃発してしまう。1922年4月には、反対派のアイルランド共和軍IRAが首都ダブリンの裁判所を占拠するという大事件も起きた。

本作『イニシェリン島の精霊』では、パードリックがカレンダーを見る場面で、時代設定が1923年であることが明示される。だが並行して起こっているはずのアイルランド内戦の様子は、イニシェリン島と海を挟んだ本土から鳴り響く爆音や煙の様子から、あくまで間接的に示されるのみだ。

しかしそのことがかえって、パードリックとコルムの小さすぎる諍いと、はるかにスケールの大きい歴史的な内戦の間に、どこか相通じるものを感じさせる。なんらかの永続的な価値を求めることから始まり、対立がエスカレートしていく過程で後に引けなくなり、他者も自分も犠牲にすることを余儀なくしているうちに、自分にとって真に大切だったはずのものさえも失ってしまう…。この大きな世界の様々な「争い」を、世にも「小さな物語」として寓話的に描いた作品として本作を見れば、指を切り落とすというコルムのいっけん理解不能・解釈不能な行動も、どこか普遍性を帯びたものに感じられてこないだろうか。

内戦に限らず、歴史の教科書に乗るような、そして今もまさに進行中の「大きな」戦争であっても、元をたどっていけば、その起源はパードリックとコルムの争いのように、とても個人的で私的で「小さな話」から始まるのかもしれない。本作は「個人的なことは政治的なこと」という有名なフレーズをさりげなく、しかし正面から体現してみせる映画と言えるだろう。さらにつなげると、マーティン・スコセッシの金言としてアカデミー賞授賞式でポン・ジュノ監督が引用した「最も個人的なことは、最もクリエイティブなこと」という言葉も思い出した。

こうした創作の本質を捉えた考え方は、コルムがパードリックに告げていた「身近な人間と無駄な時間を過ごしていないで、芸術のように崇高なものに専念すべきだ」という考え方に対する、鋭いカウンターになっていることにも注目したい。

本作『イニシェリン島の精霊』は、それこそ「知らねえよ…」となるような「極めて小さな個人的な諍い」を描きながら、争いの本質という「極めて大きな社会的なテーマ」を捉えてみせる創作物だ。つまりコルムが見下し、距離を置こうとしている「個人的なこと」は、いっけん無駄で無価値なようでも、芸術の核心である「クリエイティブなこと」に直結している。『イニシェリン島の精霊』は作品そのものを通じて、実はコルムの主張に真っ向から反対してみせる、奥深い映画でもあるのではないだろうか。

 

【わくわくどうぶつ映画『イニシェリン島の精霊』】

最後に動物好きとして言っておきたいが、本作は思ってた以上に「どうぶつ映画」だった。大自然に囲まれたイニシェリン島での生活を示すための単なる背景を超えて、動物が物語上でかなり決定的な役割を果たしているという点も、本作の「どうぶつ映画ポイント」を高くしている。ロバ氏も犬氏も演技がうますぎたし、なんらかの賞をあげてほしいものだ。島の日常生活に溶け込んだ馬や牛も、記憶に残る役回りを果たしていた。窓から「どしたの」て感じにパードリックを覗き込む牛とか可愛かったね…。

ただし「わくわくどうぶつ映画」とは言いつつも、特に可愛らしいロバのジェニーに起こる悲劇には悲しい気持ちになったのだが、単なる露悪表現ではなく、必然性がある描写であることは強調しておきたい。個人の小さな諍いがどんどんエスカレートして引っ込みのつかなくなった「争い」が、いかに罪のない弱者を傷つけ、取り返しのつかない惨禍をもたらすかを、鮮烈かつ象徴的に表現した場面である。バリー・コーガンの演じる、風変わりだがどこか憎めない若者ドミニクがたどる悲惨な運命も、イノセントな動物たちの姿と重ねられていたように思えた。

そしてラスト、犬が決定的に重要な役割を果たすことも、「どうぶつ映画」としての価値を高めている。パードリックとコルムの対立はエスカレートを遂げ、もはや取り返しのつかないほど深刻化し、2人の仲が修復されることは決してないのかもしれない。それでも、かつてコルムがバカにしたパードリックの「優しさ」は、たしかに彼の愛犬の命を救った。パードリックはそのことに対する感謝を、素直にコルムに告げる。最後の最後に、真の意味で温かな気持ちに満ちたやりとりが、一瞬だけ2人の間で交わされるのだ。

マクドナー監督の前作『スリー・ビルボード』でも鮮烈に描かれたテーマだが、どこにも出口がないような憎しみの連鎖を和らげ、終わらせることができるのは、やはり誰かの小さな「優しさ」なのかもしれない。たとえ「無価値」と軽視されても、それだけがこの争いの絶えない社会に残った光明なのではないだろうか。

「モーツァルトは記憶されても、"優しいやつ"のことなんて誰も覚えてない」とコルムは言った。その通りかもしれない。それでも、人の"優しさ"が救った犬を間に挟み、海を見つめ続ける2人を捉えた美しいラストシーンを、私たち観客は覚えていることだろう。

読んだ本の感想まとめ(2023年1/29〜2/5)

読んだ本の感想まとめです。今週は映画を(劇場や配信や試写で)いっぱい観たり、ドラマ『THE LAST OF US』第3話にひたすら打ちのめされてビルとフランクのことを一生考えていたりして忙しかったので大して読めてないが、もう毎週やったほうがいっそリズムが生まれるのかもしれない。

 

↓前回

numagasablog.com

 

<今週読んだ本>

『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』國分功一郎

『森の力 植物生態学者の理論と実践 (講談社現代新書) 』宮脇 昭

『ナショナル ジオグラフィック日本版 2023年2月号』

『珈琲の世界史 (講談社現代新書) 』旦部幸博

番外『Animage (アニメージュ) 2023年』 02月号

 

 

『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』國分功一郎

 

なんで急にスピノザの入門書なんて読み始めたかというと…(という文脈を書いておかないとけっこう忘れてしまうのである)

前回紹介した『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』という解説本がけっこう面白くて、もう1回元の本『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』を読み直していたんですね。

その『ブルシット・ジョブ』の中に、スペインのとある公務員が、6年も仕事をサボって哲学者スピノザの研究に(専門家レベルに達するほど)没頭していたのだが、6年間のあいだ誰ひとりサボりに気づかなかった…という凄いエピソードがあった。言うまでもなく職務怠慢の究極バージョンであるし、もちろんダメはダメなのだろうが、ちょっと畏敬の念も抱いてしまったんだよね。

『ブルシット・ジョブ』によると、その公務員への仕事は上司からほとんど嫌がらせ的に割り振られたということなんだけど、そんな無意味な仕事をブッちぎって、真に自分にとって意味のあるスピノザ研究にその時間を費やして、ついには専門家レベルにまで到達した…ということになる。まぁ日本で似たようなニュースがあったら絶対総たたきだろうし、さすがに最近はそんな仕事はめったなことで成立しないだろとも思うんだけど、なんだか胸がスッとする話だし、人間の可能性すら感じてしまった。

逆に言えば、仕事中でも別にみんながずっと忙しいわけでもなかろうし、職場でも暇な時は読書くらい堂々とできるようにしてくれれば、まだまだ世の中の知性が底上げされるポテンシャルって全然あるのでは…?とか思わざるをえなかった。もっと本も売れて、(私とか)クリエイターも潤うかもしれないし…。

私自身も(今はフリーランスなので良くも悪くもそんな状況に置かれることは考えづらいが)現実でそういうブルシットなジョブを強制されるような状況になれば、例のスピノザ公務員のような方向性で、システムの隙をつきながら、何か自分にとって意義あることをやろうと企てるかもな〜と想像したりした(それが難しい場合がほとんどなのだろうが…)。

前置きが長くなりすぎたが、『ブルシット・ジョブ』のスピノザ公務員の話を見ていたら、ちょっとスピノザ哲学そのものに興味が湧いてきた。世の中やブルシットなシステムへの反逆として学ぶ価値があるとその公務員は思ったわけだから。ただ初心者には難解という話もよく聞くので、とりあえず入門的な新書を読んでみるか…と。そこで読んでみたのが、この『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』というわけ。

スピノザの理論はとても一言で言えるようなもんではないし、詳しくは本を読んでほしいわけだが、本の中で紹介されていた以下の1節が良いなあと思った。

もろもろの物を利用してそれをできる限り楽しむ〔……〕ことは賢者にふさわしい。たしかに、ほどよくとられた味のよい食物および飲料によって、さらにまた芳香、緑なす植物の快い美、装飾、音楽、運動競技、演劇、そのほか他人を害することなしに各人の利用しうるこの種の事柄によって、自らを爽快にし元気づけることは、賢者にふさわしいのである。

(第四部定理四五備考)

難しめな言い回しではあるけど、要するに賢者とは「楽しめる」人のことなんだ、と言ってるのだろう。ブルシットな世のアレコレを打ち砕き、生きることを心から楽しむためにも、哲学が必要なんだと。件のスピノザ公務員の心をひきつけたのも、こういうところにあるんだろうな。

さっそくスピノザの原著『神学・政治論(上) (光文社古典新訳文庫)』も読んでみたりしたわけだが、初っ端からけっこうフルスロットルでかましてくるため、当然だがとてもじゃないが入門書をちょっと読んだくらいで理解できる哲学ではないだろう…とも思う。ただその根底にある思想は何か大事なものだと、入門書レベルからも感じ取ることはできたので、今後もスピノザ先輩のことを気にかけてみたいところ。

購入→『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』

 

 

『森の力 植物生態学者の理論と実践 (講談社現代新書) 』宮脇 昭

↓この「都市の再野生化」にまつわるCNNの記事を興味深く読んでいたら…

www.cnn.co.jp

海外でもその手法が高く評価されているという、著者の宮脇昭さんの名前が出てきたので、著書も読んでみたのだった。若い頃から森林再生や植林に深くコミットしてきた人生を振り返りつつ、今後の日本の「森林」のあり方を語っていく本で、「日本一木を植えている科学者」として名高いのも頷ける情熱と知識量だな…と感銘を受ける部分も大きかった。

ただ一方で、これは著者さんが高齢ということもあるだろうし、この方だけの問題というわけではないと思うんだが、わりと素朴に「日本人の精神」「日本のDNA」的な、ぶっちゃけ非科学的だし排外的なナショナリズムにも容易に転じうることを無批判に称揚しだすくだりがあり、正直ヒェ…となる部分もあった。いかに専門領域の知識が豊富とは言え、そこは少し突き放した距離感をもって読む必要がありそうだなとは。ただ一読の価値ある本だと思うし、生態系や動物を考える上でも植物に向き合わねば、の想いを新たにした…。

購入→『森の力 植物生態学者の理論と実践 (講談社現代新書) 』

 

 

『ナショナル ジオグラフィック日本版 2023年2月号』

毎月定期購読してるナショジオだが、今月は特に「ラッコ特集」が読み応えあったので紹介。絶滅寸前になるほど数を減らしていたラッコを、再び自然に返す「再導入プロジェクト」が世界各地で行われていた。そのことによる生態系へのメリットや、観光を潤す利益などを語っていく一方で、ラッコの大食いっぷりが漁業者に引き起こす不安なども当事者インタビューも織り交ぜて語っていく点で(私自身はもちろんラッコに栄えてほしいとはいえ)意義深い特集だった。そして、ラッコ歓迎派もラッコアンチも同意するのが、ラッコの圧倒的かわいさであった…。

キーストーン種であるラッコが生態系に与える影響は基本的に良いものだと思うし、『ゆかいないきもの超図鑑』で紹介したように、増えすぎたウニを食べてくれて、そのおかげでケルプ林が回復して、結果的には漁獲量が爆増した…という結果も出ている。

ただ、やはり大食いな動物なだけあり、海の幸を食べ尽くしちゃうのでは…?と短期的には不安になる漁業者も多いみたいなんだよね。まぁ無理もない不安かもなと思うので、そうした既得権益層とのコミュニケーションもしっかりしつつ、ラッコのいる健全な生態系を作っていってほしいところ。

ていうかラッコ再導入を巡る現地の悶着を聞いていると、わりと『ウルフ・ウォーズ オオカミはこうしてイエローストーンに復活した』みたいになってる面もあるんだなと…。外野からのんきなもんだけど、いつか『ラッコ・ウォーズ』として本になったら読みたい。『ウルフ・ウォーズ』との違いは、賛成派と反対派が「とはいえカワイイのはめちゃくちゃカワイイ」と同意してるという点だが…。実に一筋縄ではいかない動物である。

ちなみにナショジオ今月号、ブルキナファソの「泥建築」特集(気候変動への対策にもなりうる伝統的な泥建築だが、まさに気候変動によって危機に晒されているというのが皮肉だしヒドイ話…)とかも面白かったので、雑誌ごと読んでみてほしい。全く知らんジャンルの情報も飛び込んでくるのが雑誌の良いところだね。

購入→『ナショナル ジオグラフィック日本版 2023年2月号』

 

 

『珈琲の世界史 (講談社現代新書) 』旦部幸博

今年はコーヒーに向き合おうと思っているので、色々コーヒー本を読み漁っているのだが、いきなりものすごい勘違いをしていたことが明らかに…↓

そう、高級コーヒー豆の「ゲイシャ」って日本の芸者とは何の関係もなくて、エチオピアのゲイシャ(ゲシャ)村で野生種が採取されたからゲイシャって名前だと知ったのである…。いやさすがに日本産とは思ってなかったけど、何か芸者に引っ掛けた由来があるのかなとは思ってた…マジか…

そんなゲイシャコーヒーの産地ゲイシャ村、エチオピアの地図を頑張って探したら見つけた。マジか〜。よく見たら近くに「マジ」って地名あるし。やかましいわ

www.google.com

で、このゲイシャの件を冒頭でいきなり教えてくれたのが本書『珈琲の世界史』。なおゲイシャコーヒーの由来は『珈琲の世界史』という本に豆知識として書いてあったのだが、別に「芸者だと思ってたでしょ?でも実は〜」的なノリでさえなかったので、そんな勘違いは誰もしてなかったということか…ばかな…するだろ……。

そんな『珈琲の世界史』は、コーヒーという人類が3番目に大量に飲んでる(水とお茶の次)の飲み物に着目しながら、コーヒーの起源を巡る諸説から始まり、世界の歴史の移り変わりを語っていくという面白い本でした。イギリスやフランスの政治体制の変革であるとか、歴史上の重要な場面でけっこうコーヒーが大きな役割を果たしていると知れてコーヒー好きとしても楽しい。

あと意外と知られてなさそうな日本のコーヒー史とかも興味深かった。「スペシャルティーコーヒー」とか「サードウェーブ」とかよく考えると何なの?っていう人も多いだろうし、ちゃんとした知識を得ておくと良いかもしれぬ。

ところで読んで知ったけど、何度か紹介した『コーヒーの科学 「おいしさ」はどこで生まれるのか』と同じ著者さんなのね。同じコーヒーという対象へのアプローチでも、「科学」は理系的な興味をもつ読者、「世界史」は文系的な興味に向けて書いたそうな。化学的メカニズム寄りな『コーヒーの科学』と本書をあわせて読むことで、文・理を兼ね備えた最強のコーヒーマスターになれるかもしれませんね。類書だと中公新書の『コーヒーが廻り世界史が廻る』もけっこう面白い。引き続きコーヒーに向き合っていきたい。

購入→『珈琲の世界史 (講談社現代新書) 』

 

番外『Animage (アニメージュ) 2023年』 02月号 インボイス特集記事

まだ特集記事しか読んでないので番外とさせてもらうが、良かったので紹介。

アニメーターの西位さんと、声優の甲斐田裕子さん(好き)と税理士さんの対談が載っていた、アニメージュ2月号。インボイス問題は私も何度か言及してるけど、フリーランスのクリエイターの集合体である日本アニメ界の今後にマジで大きく影響しそうだし、ぜひアニメ誌で語られてほしい問題だったので、意義深い特集であると思う。アニメ好きは一読をお願いしたい。対談の中で、やっぱ当然ながらクリエイター側も社会や政治に無関心ではいられない…といったことも真摯に語られていて、本当そうだよなと。

ちなみにKindle Unlimitedでも読めるのでぜひ。にまたKindle Unlimited2か月99円キャンペーンやってるみたいなので、対象者ならどうぞ。

関係ない話で恐縮だが、甲斐田さんの最近のお仕事では『バッドガイズ』のダイアン知事がマジ最高でしたね! 本作は本職声優ではない人の吹替えの見事さも話題になったが、やっぱプロ声優の熟練の業も至高ということは重ねて強調しておきたい。そのためにも"裾野"を守らないとね…。

購入→『Animage (アニメージュ) 2023年』 02月号

 

今週はこんな感じでした。ところでipad miniがタイムセールで安かったので買ってしまったよ…(今日までらしいので気になる人はどうぞ)。読書、はかどらねば…