沼の見える街

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ドラマ史に残るラブロマンス。 ドラマ『THE LAST OF US』第3話感想(ネタバレあり)

結論から言って、ドラマ『THE LAST OF US』第3話は、TVドラマの歴史に名を残すことになるだろう。 

確かにドラマ『THE LAST OF US』(ザ・ラスト・オブ・アス)は最初から素晴らしく、1話も2話も「名作ゲームの実写映像化」として見事な出来栄えだった。だが今週、全世界で放送/配信された第3話「長い間」は、それまでの「見事さ」とは一段、格が違っていると感じる。もはやゲーム云々というよりも、独立したドラマ作品として、桁違いの完成度と斬新さを誇っているのだ。すでに海外のレビューでも激賞が続出していたり(たとえばIGNは第3話に10点満点を与えている )、早くもエミー賞候補筆頭の声も上がっているようだが、出来栄えから言って当然の結果だと思う。

 

1話感想

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2話感想

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感想記事↑でも書いたように、ドラマ『THE LAST OF US』1話と2話は(興味深い補足や改変があったとはいえ)ほぼ原作の展開をなぞっていた。だがこの3話で初めて、いや「早くも」というべきか、このドラマははっきりと原作ゲームと異なる展開を見せることとなった。実質「ドラマオリジナル展開」と言っていい第3話は、原作ゲームから大胆な飛躍を遂げながらも、実は『THE LAST OF US』シリーズの核心にある、「人が生きていくことの悲哀」をさらに鮮烈に浮かび上がらせている。そしてその上で、ここが何より重要なのだが、世にもロマンチックな愛の物語に仕上がっているという、真に驚くべき回になっていたのだ…。

 

というわけで今回は特にじっくり語りたい回なので、わりとネタバレ全開でいくので注意(一応注意書きは「ネタバレ注意」と「致命的なネタバレ注意」の2段構えにしておく)。正直もう、なんなら1話と2話を飛ばして3話だけでも見てくれという気分なので、未見勢は今すぐU-NEXTで見てしまってほしい…。

『THE LAST OF US』U-NEXTで視聴

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ーーー以下、ネタバレ注意ーーー

 

【そして2人だけになった】

前回2話のラストで、菌に感染してしまったテスが、ジョエルとエリーを救うために迫りくる感染者たちに立ち向かい、帰らぬ人となった。過酷な人生の長年のパートナーだったテスを失い、ジョエルはさぞやショックだろうと思いきや、そこはタフな精神力と冷徹な理性を発揮し(少なくとも表面的には)無闇に落ち込むことはせず、エリーと共にあくまで淡々と旅を続けていく覚悟を決めたようだ。

2人は道中、廃墟と化したコンビニに立ち寄ったり、墜落した飛行機を見つけたりしながら、ささやかな会話を続けていく。会話の中で重要だったのは、この世界の「崩壊」がどのように始まったのかが、ジョエルの口から明示されたことだ。ラスアス菌(仮)は冬虫夏草菌の突然変異である可能性が高く、小麦などの食品に混入してしまい、世界中に広まった…という詳細が(ジョエルの言葉を信じるなら)明かされたことになる。本作に「わくわく菌類ドラマ」としての側面を期待している生きもの勢としては、テンション上がる場面だった。

ゾンビものの設定として、ゾンビウイルス(本作は菌だが)が「食品」を媒介として広まるというケースはわりと珍しい感じもするが、実際に食物が晒されている菌類の被害は世界的にもけっこう深刻なので、むしろリアリティがあるとも言える。小麦のような重要な食物に対しても、菌は猛威を振るっているのだ。

↑先日行った特別展「毒」の図録より。たとえばムギに発生する赤カビ病菌は非常に厄介である。マイコトキシンという毒素をもち、こうした穀物(ムギだけでなく稲、大麦、トウモロコシなど多様な植物に発生)がげっ歯類などの食料になるのを防いで、カビ/菌類自身の食料&すみかとなるようにしているという。菌類に人間の考えるような意志はないとはいえ、こうした菌類の不気味でイヤらしいような、たくましいような生態は、『THE LAST OF US』の恐るべき菌類にも大いに参考にされていそうだ。

その後ジョエルとエリーは、ショッキングな光景にたどり着く。それは、人間の死体が山と積まれた穴だった。この人々は、軍隊によって元の居住区から連れてこられたものの、収容する居場所がすでになかったために抹殺された…という無残な真相が明かされる。前話の感想でも語ってきた「命の線引き」の恐ろしさが、ここでもまざまざと映し出されるわけだ。穴の中で白骨死体と化した親子の服装と巧みにリンクさせて、物語は文明の崩壊が始まった2003年へと飛ぶ。そこでいよいよ、今回の主役となる人物である、変わり者の男・ビルに視点が移っていく。

 

【ビルとフランク、愛の物語】

ビルは原作ゲーム『THE LAST OF US』をプレイした人にとってはおなじみのキャラクターだ。人間不信でかなり気難しいものの、なんだかんだジョエルとエリーを助けてくれる、印象的な味方キャラとして活躍してくれたからだ。彼と一緒に学校に忍び込み、中ボス感染者・ブローターと闘うくだりなどは原作プレイヤーにとっても思い出深いシーンである。

そして原作ゲームでも、彼が同性愛者であることはそれとなく明示されていた。フランクの最期を見た彼の(珍しく)感情たっぷりの口ぶりや、エリーが家からくすねたゲイ向けのアダルト雑誌からも、そのことは伝わるようになっている。ただし、フランクとの関係もセリフでうっすら"匂わせ"られるだけなので、例えばDLC『Left Behind』や『THE LAST OF US part2』で、エリーのセクシュアリティが明白に描かれたことなどに比べれば、あくまでさらっと言及する程度ではあった。ひょっとするとビルが同性愛者だとは気付かずにゲームを続行した人も多かったかもしれない。『THE LAST OF US』シリーズ(特にpart2)はクィア表現について相当に先進的な大作ゲームと言えるが、第一作に関しては、10年前の作品であるがゆえの時代的・社会的な限界を感じさせる部分もある。

だからこそ、そんな『THE LAST OF US』を10年後に改めて語り直すドラマ版で、ゲームではさらっと流されるだけだったビルとフランクの関係に、これ以上なくじっくりと焦点が当てられることは、まさに必然だったのかもしれない。「匂わせ」どころか、誰がどう見ても明白な「同性カップルの恋愛」として、ラスアスらしい残酷さや悲哀もたっぷり漂わせながらも、世にもロマンチックな「愛の物語」を、ドラマ『THE LAST OF US』第3話は世界に届けてみせたのだ…。

2003年、ラスアス世界の菌類パニックが始まった時、ビルは政府も社会も他者も全く信頼していない、陰謀論者のサバイバリストだった。だがそれゆえにビルは、軍隊が人々を街から連れ去っていく中、地下に篭ってやり過ごすことで、人々が去った無人の街に1人だけ留まることができたのだ。先述したように、この時に連れていかれた親子が、結局は殺されてしまったわけなので、ビルの極端な生き方が彼の命を救ったことになる。

ビルは感染者や略奪者を寄せ付けないフェンスや防衛システムをDIYで築き上げ、この殺伐として物資にも乏しいラスアス世界では考えられないような、豊かな自給自足の生活を送り続ける。一人だけの生活に本心では孤独を感じていたかもしれないが、そもそも人間なんて基本的に嫌いだったであろうビルは、他人がいない生活に満足し、それなりに幸福に暮らしていたようだ。

しかし…そんなビルの元に、ある来訪者が現れる。それがフランクだった。ビルの仕掛けた沢山の罠の一つ、落とし穴にハマったフランクは、必死で「武器は持ってない」と伝え、命からがら穴の中から出してもらったと思えば、「もう2日も何も食べてない、食べるものをくれ」とビルに懇願する。他人を一切信用してないビルは、一旦は断って「さっさと失せろ」とつれない態度をとるが、根負けして結局家の中に招き入れる。

ちなみにフランクを演じるのは、ドラマ『ホワイト・ロータス 諸事情だらけのリゾートホテル』で支配人のアーモンドを演じたマレー・バートレット(ちょうど最近見たばかりだったので嬉しい)。マレーさん自身もゲイであることを公言しており、しっかり当事者キャスティングをしている。また、3話の監督を務めるのはドラマ『IT’S A SIN 哀しみの天使たち』のピーター・ホアー監督(自身もゲイ)であり、当事者の視点も大いに盛り込んだ同性ロマンスとしての繊細な描写も、今回の見所と言えるだろう。

ラスアス世界では貴重品である温かいシャワーを満喫するフランクに、着替えを持ってくるビル。いつになくドギマギして見えることから、この時点でかなりフランクが気になっているようだ(パッと見で好みのタイプだったのかもしれない)。

それからビルは、フランクに手料理をごちそうする。この荒廃した世界で、本格的なジビエ料理とワインが楽しめるだけでも驚くべきことなのに、ぶっきらぼうに見えるビルの姿からは意外な料理の美味しさにフランクは大喜び。ずっと自分のためだけに料理をしてきたビルも、喜んでくれる人が現れてまんざらでもなさそうだ。

和やかに食事をすませたフランクは、約束通り出発する前に、ヴィンテージもののピアノが気になり、見せてほしい…とビルにお願いする。いつの間にか楽譜も見つけて、勝手にピアノを弾き、歌いはじめるフランク。その曲はリンダ・ロンシュタット「ロング・ロング・タイム」だった。第3話の原語タイトル"Long, Long Time"の元になっている曲であり、今回の鍵を握る一曲である。

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ビルにとって「ロング・ロング・タイム」は、それまでマイノリティとして孤独に生きてきた人生に寄り添ってくれた曲だったのだろう。なんにせよ、ビルには思い入れが深いその曲が、フランクの微妙な腕前で演奏されることにビルはしびれを切らしたのか、自分で「ロング・ロング・タイム」の弾き語りを始める。その情感に溢れた美しい歌声と演奏に、フランクは深く心打たれたようだ。ビルのセクシュアリティにもフランクは気づいていたようで、思いが通じ合った2人はキスをかわし、恋に落ちるのだった。男性同士ということを差し置いても、ドラマでもなかなか見かけないレベルの、ものすごくロマンチックな「恋のはじまり」描写と言えるだろう。

そしてフランクは、結局この家を発つことはせず、ビルと2人で暮らし続けることを選んだ。その後は、時に数年単位で時間を飛ばしながら、ビルとフランク2人の外界から閉ざされた、しかし愛情豊かな生活に、どのような変化が訪れるのかが描かれていく。

ドラマ『THE LAST OF US』の画期的なポイントとして、「コロナ以降のリアリティを取り入れた、パンデミック以降初のパンデミック超大作」であることはすでに述べた。実は第3話は、その点でも語り甲斐のある回だ。なんといっても「まるでロックダウンのように」社会的に隔絶された状況で繰り広げられる愛の物語なのだから…。予想外の方向性ではあるが、「コロナ以降のリアリティ」によって大いに奥行きを増している回であるように感じた。 

ビルとフランクの関係は、愛情があるとはいえ、なんといっても2人だけの閉ざされた生活であり、社会的なサポートも何もないという極限状況なので、一筋縄ではいかない部分も多かったようだ。この辺の困難さは、現実にコロナ以降「家に閉じ込められる」機会を長く経験したからこそ、視聴者もより深く共感できそうなポイントである。幸福なベッドシーンから、いきなり4年後の派手なケンカに飛ぶ…という場面転換も、そんな波乱万丈な2人の生活っぷりや、そもそもビルとフランクが根本的に違う性格の人間であることをうまく表現している。

そんな中、フランクが「友達を呼ぼう」と突然言い始めるので、視聴者もちょっと面食らい、ビル同様「友達って誰だよ…」と思うところだが、その"友達"とは他ならぬテスのことだった。個人的にドラマ版のテスがゲーム版以上に大好きなこともあり、過去シーンとはいえ再登場してくれたのは嬉しいサプライズである。テスはパートナーのジョエルと一緒に(どっちもけっこう若返っている)ビルの家にやってくるのだった。

最初こそ食卓で銃を構えてまで警戒していたビルだったが、ジョエルとのやり取りの中で少しずつ心を開いていき、2人と協力関係を築くことができたようだ。他者に心を開くことが、結局のところ(ビルにとって最も大切な存在である)フランクを守ることにも繋がるのだ…というジョエルの後押しもビルの心を動かしたのだろう。

かように色々トラブルもあったビルとフランクの生活ではあるが、その根底には確かに愛情が流れていたことを最もよく象徴している名場面が、2人がイチゴを食べるシーンだ。銃とイチゴの種を交換したというフランクが、ビルに内緒でこっそりイチゴを育てていてくれたのである。この荒廃した世界では、もしかしたら二度と食べられないかも…と思っていたであろうイチゴを久々に食べたビルが、その美味しさと幸福感のあまり笑いだしてしまう姿は忘れがたい。「君が現れる前は、何も怖くなかった」とビルはフランクに告げ、口づけをかわす。たとえ絶望的に崩壊した世界の片隅であっても、お互いを思いやり、愛し合う人間の心は、イチゴの果実のように美しく、しぶとく生き残っているのだ。

だが…そんなビルとフランクの人間らしく幸せな生活を脅かす、最大の脅威となるのもまた人間であるということが、『THE LAST OF US』らしい皮肉さと残酷さを感じさせる。ジョエルの警告通り、ある夜、彼らの家を略奪者たちが襲撃するのである。火炎放射や電流などの殺意あふれる防衛ギミックで、なんとか略奪者たちを撃退するも、銃弾を腹に食らってしまったビル…。フランクは必死で、今にも死にそうなビルの傷に応急承知を施し、なんとか彼の命を救おうとするのだった。

 

 

ーーー以下、致命的なネタバレ注意ーーー

 

 

【ラスト・オブ・LOVE...】

そんな極限状況から場面はあっさり移り、なんと10年もの時間が経過していた。時系列は2023年となり、つまりこのドラマがジョエルやエリーの視点から描いてきた「現在」にほぼ重なったわけだ。一時は大ピンチに陥ったビルとフランクだが、たくましくも生き延びて、着実に年老いていったようである。略奪者の襲撃にあった時点では、重傷を負ったのはビルの方だったが、10年後に車椅子に乗っていたのはフランクの方だ。年老いたフランクは、自分では身動きも難しいほどの、重い病気にかかっているようだ…。

2人だけの高齢者(とすでに言っていい年齢だろう)の生活で、片方が車椅子の重病患者となれば実際かなり大変であり、夜にベッドに入るのも一苦労だ。そんな中でフランクは、何かを決意したかのように翌朝、車椅子に乗りながらビルの目覚めを迎える。「何してる」と戸惑うビルに対し、フランクは「今日を自分の"最後の日"にする」と告げるのだった…。

要は安楽死を選ぶことにしたという、フランクの覚悟は確かに悲壮なものであるし、福祉や医療の発達した通常の現代社会であれば、ビルもきっと全力で止めたことだろう。だが…今ここは何の社会的サポートもない、荒れ果てた世界だ。下手に苦しみながら生きながらえて、ビルに大きな「負荷」をかけるよりも、まだ自分の精神と肉体のコントロールが効くうちに、幸せな記憶と愛情を抱いたまま穏やかに逝きたい…というフランクの願いは、納得のいくものと思えてくるのも事実だ。だからこそビルもフランクの意志を尊重し、幸福な「最期の一日」を過ごすことにする。

ブティックに行って着飾ったりと、お互い一日を楽しみながら、2人は文字通り「最後の晩餐」を迎える。そこでビルがフランクに運んでくるのが、最初に彼らが出会った日の料理とワインだったことも、悲しいと同時に美しくもある。

いよいよ食事も終わり、フランクの頼みどおり、致死量の薬をワインに入れるビル。一緒にワインを飲み干すのだが…実はビルもまた、自分のワインにすでに薬を混ぜていたのだった。ビルは、フランクと一緒に死を選ぶ決意を固めていたのだ。

生きているビルと行動を共にした原作ゲームのプレイヤーの多くは、この場面でかなり意表を突かれたかもしれない。ゲームの話通りなら、この後ジョエルとエリーとの冒険がビルを待っているはずであり、つまりビルはなんだかんだ生き残るんだろう…と無意識で予想していたはずだからだ。

だが驚くべきは、いざこのドラマ版の展開を目にしてしまえば、原作ゲームのコアなファンである私でさえ「そうだよな、ビル…そうに決まってるよな」と思わざるをえなかったことだ。じっくり約1時間かけて語られた、2人が築いてきた関係性の見事な表現には、原作ゲームで示された運命を書き換えるだけの説得力があったことになる。

自分も一緒に死ぬというビルの決断に、視聴者としては100%納得するしかない一方で、フランクは必ずしも完全に納得がいったわけではないようだ。自分の死に「付き合わせる」形になってしまったのだからそれも当然だし、フランクは「怒ろうと思った」と一応は言うのだが、その直後に「でも客観的に見ると…なんてロマンチックなんだ」と微笑む。ここまで2人のロマンスに付き合ってきた視聴者から見ても、全くもって同感と言わざるを得ない。互いへの愛情を頼りに、荒んだ世界を生き抜いてきた2人にとって、これ以上にロマンチックな「結末」があるだろうか…。

死を目前にした2人は、お互いしかいない穏やかな最期を迎えるため、奥の寝室へと歩み去っていく。そんな姿のバックに流れるのが、ゲーム『THE LAST OF US』における屈指の名BGM「Vanishing Grace」であることに、原作ファンとしても心を打ち震わせてしまった。

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残酷なことばかり起きるこの世界で、無力な人間たちは愚かな判断を繰り返し、無意味で無残な「THE LAST OF US(人類の終わり)」を迎える運命なのかもしれない。しかしそれでも、ほんの一瞬かもしれないが、何か価値のある、無垢な、美しい瞬間も、確かに存在したのだ…。そんな想いをプレイヤーに抱かせるような、『THE LAST OF US』シリーズにとって極めて重要な場面で流れる曲、それがこの「Vanishing Grace」なのだ。ドラマ版では初めて流れたことになるが、ビルとフランクの最期は、まさにこの曲が象徴する意味合いにふさわしい。『THE LAST OF US』に通底して流れる人間の深い悲しみと、だからこそ際立つ美しい感動をもたらしてくれる、正真正銘の名場面だった。

余談だが自分の中でこの曲を勝手に「キリンのテーマ」と呼んでいた(原作プレイ済みなら同意してもらえるだろう)ので、曲が流れた時に感極まって「ビル、フランク……あなたたちが、あなたたちこそが……"キリン"なんだ……!!」と叫びだしたくなったが、ビルとフランクもそんなこと言われたって困ることだろう。

それはともかく、しばらく後のこと…。ビルとフランク亡き後の家を、ジョエルとエリーが訪れる。家の荒れた様子からジョエルはうっすらと悟っていたようだが、エリーが見つけた手紙によって、2人に何が起こったのか知ることになる。手紙の中でビルは、他人も社会も憎んできた自分が、たった一人だけ守りたい人間に出会えたことを素直に吐露しながら、ジョエルに自分の持ち物を託すと語り、「テスを守ってやれ」と伝える。すでにテスを失ったジョエルにとっては胸の痛くなる言葉だったろうが、どこか似た者同士ともいえるビルから投げかけられた「守りたいと思える1人を守り抜け」という最期のメッセージは、ジョエルの今後にとって重要な指針となっていくことだろう。

必要な物資や武器を揃え、最期のメッセージと車のキーを受け取り、ビルとフランクの家を後にするジョエルとエリー。その姿を、2人の遺体が眠る部屋の開かれた窓から捉えたショットで、この第3話は締めくくられる。まるで2人の苦難に満ちた旅への出発を、ビルとフランクが見送っているかのように…。『THE LAST OF US』ゲーム版のタイトル画面を彷彿とさせる「窓」のショットで締める美しいエンディングは、完璧の一言だ。

 

結末も含め、まさに文句なしの「神回」と言えるこの第3話が、世界に与えたであろう衝撃と意義深さは、どれほど強調しても足りない。そもそもこのドラマ版『THE LAST OF US』は、すでに各話の視聴者数が2000万人を超えるレベルの、世界中で桁違いに広く観られているドラマである。こんな超メジャー級のタイトルで、約1時間の尺を丸ごと使って、中年男性同士の、世にもロマンチックで愛おしく悲しいロマンスがじっくり描かれ、これほど大勢の人に「なんとか2人に幸せになってほしい」と思わせただろうという、そのことだけ見ても前代未聞な気がするし、エンタメ界全体にとっても歴史的な瞬間だったんじゃないかと思う。

2023年の今になっても、世界中の性的マイノリティの過酷な現状は存続し続けているし、日本にしても同性婚が成立する兆しがいつまでたっても見えない上に、最高権力者も「同性婚は極めて慎重な検討が必要」とか一生言い続けており最悪である。しかしだからこそ高い志と技術を兼ね備えたクリエイターが、こうした先進的なエンタメを世界に送り届けることによって、「世界は変わりつつある」と示してくれることそのものが、遠くの明るい星のように輝いて見える。「このドラマこそが"キリン"なんだ…!」と思わず叫びだしたくなるほどだ。(きっとドラマの作り手なら、何が言いたいかわかってくれることだろう。)

 

それにしても第3話でここまでのものを見せられると、前回までで「ゲームとドラマここは違う!ここは同じ!」とかでハシャいでたのが我ながらちょっと幼稚に思えてくるほどであり、もう原作と何が違っても文句言わないから独立したドラマとしての最善を追求してくれ…とさえ願っている始末だ。とか言って結末とかが本当にマジで全然ちがっていたらさすがに怒るかもしれないが、もはやこの素晴らしいドラマのクリエイターの手掛けたものであれば、それはそれで見てみたいとさえ思う。

あと原作ゲーム大好き勢としては「ドラマから観ても全然いいけど、せっかくプレイ環境あるならゲームを先にやってほしいかな〜」(PS4版なら激安で手に入るし…)というスタンスでいたのだが、この第3話でついに「いやもうゲーム知らなくても観たほうがいい」派に鞍替えした。それだけ、独立したドラマとしての完成度がすでに凄いことになっているという事実に、原作ゲームファンとしても喜びを隠せない。

てなわけで、U-NEXTは月額料金も高いしハードルたけーよという人も多いだろうが、このドラマを見るためだけでもその価値は確実にあると約束できるし、どうしても高すぎるのであれば31日間無料トライアルでもなんでも使って(マジで一銭も払いたくない場合は全話完結してからのほうがいいかもだが…)、この世界規模のラスアス祭りに一緒に乗ってくれたらファンとしては嬉しい。なんなら3話だけでも見てくれ!

『THE LAST OF US』U-NEXTで視聴

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読んだ本の感想まとめ(2023年1/23〜1/29)

読んだ本の感想まとめです。別にルール決めたわけではないが、なんか日曜日に更新する流れになってるな。いつまで続くかな〜

↓前回

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<今週読んだ本>

『インディ・ゲーム新世紀ディープ・ガイド──ゲームの沼』 田中 "hally" 治久 (監修), 今井 晋 (監修)
『進化のからくり 現代のダーウィンたちの物語』千葉聡
『食の歴史――人類はこれまで何を食べてきたのか』ジャック・アタリ
『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』酒井隆史 

 

『インディ・ゲーム新世紀ディープ・ガイド──ゲームの沼』 田中 "hally" 治久 (監修), 今井 晋 (監修)

『インディ・ゲーム新世紀ディープ・ガイド──ゲームの沼』読了。百花繚乱&奇々怪々なインディ・ゲームの魅力を、「戦争」「フェミニズム」「LGBTQ+」「音楽」「文学」など多様なテーマに着目してゲーム識者が紹介する本。ゲームは娯楽や暇つぶしとしての側面も大きいのだろうが、それと同時にいま最も前衛的な表現メディアでもあると実感させられる。

海外でもゲーマーズゲートのような事件もあったし、ぶっちゃけ日本でもフェミニズムや性的マイノリティ関連の問題に冷淡だったり敵対的なゲーマーも沢山いる印象なので、ゲームを紹介する本にフェミニズムやLGBTQ+の章もあるのは意外に思う人が多いかもしれない。だが個人的なゲーム好きとしての感覚でも、実は現代のゲーム(特に海外)はその辺に意識的かつ先進的な作品もかなり多い印象がある。まぁだからこその反動でゲーマーズゲートみたいな動きも活発化してるんだろうが。

本書で語られるようにインディゲームにも沢山あるみたいだが、そもそも超メジャー級タイトルでも『The Last of Us Part2』とかがすでに現れてるわけだからね。ラスアス2みたいにレズビアン女性を主人公に据えて(もう1人の主人公も筋肉バッキバキのコワモテ女性だし)こんな超弩級のエンタメを成立させた作品が、じゃあ映画やドラマやアニメにどんだけあるかって言ったら全く思いつかないので、なんならこうした観点では映像エンタメ全体がゲームに水を開けられちゃってる感じもする。

そんなわけで、先進的なゲーム界でもさらに先進的なインディゲーム界の名作を色々紹介してくれる本書のような存在はありがたい。有名な『Gone Home』(帰省したら誰もいなかったゲーム)や『Unpacking』(荷物を開けるゲーム)がフェミニズムの章で紹介されており、やってみようかなと思った。見た目だと全然わからなくて積んでいてしまったが…。評判いい『Butterfly Soup』もいいかげんやらねばな。

ちなみに本書で熱くオススメされてた『ディスコ エリジウム』、セールでPS版を買ったので遊び始めてる。とんでもねえ文章量で面白いが、主人公が精神的ショックで絶望してゲームオーバーになった。クセの強いゲームっぽいが、ハマるかもしれない…。

購入→『インディ・ゲーム新世紀ディープ・ガイド──ゲームの沼』

 

『進化のからくり 現代のダーウィンたちの物語』千葉聡

『進化のからくり 現代のダーウィンたちの物語』読了。日本のカタツムリ(陸貝)研究の第一人者が、進化生物学の面白さ(と学問としての大変さ)を生き生きと語る本。生物学者の営みがどういうものなのかを改めて伺える本でもあるし、市井の生きものファン(私含む)も励まされる内容。プロの生物学者が書いてるのだが文章力も巧みで読みやすく、一風変わった生物学入門としてもかなりオススメできる。

『進化のからくり』では、ある特定の生物についてとことん調べる…という手法は一般的には奇異にも見られるという話もされて、本書の著者もバブル時代のリーマンに「カタツムリなんて研究してどうすんの?」とか面と向かって言われたりしたという。しかしカタツムリ=陸貝のように(外から見れば)狭く些細に思える対象を深く掘り下げることで、「生命の進化」という極めて重要な問題の核心が見えてくるのだ。それは科学という営みの根本でもある。

『進化のからくり』、実はけっこう前に買ってたのだが(タイトル的にも)よくある動物の浅く広くな雑学系なのかな?と思い込んで積んでたのだが(ごめん)、ちゃんと読んだら陸貝というマニアックな対象に焦点を絞ることで、むしろ普遍的な進化の法則を解き明かす…というガチかつ読みやすい良書だったので、積ん読消化してよかった。

当初は本書、研究者ではないものの在野の生物好きで、注目すべき研究成果をあげている"現代のダーウィン"のインタビューも収録予定だった…(けど色んな事情でやめた)と書いてあり、それもぜひ見たかったなと少し惜しい(タイトルにもさらに合ったと思うしね)。特に生物学はアマチュアが重要な役割を果たしてきた分野だと思うから、いつか形にしてほしい。

ところで『進化のからくり』にもあったが、進化にまつわる学説って日本でも最近まで冷遇されていて、80年代には高校でも一切扱っておらず、大学でさえまともに教えてなかったと聞くと、海外の宗教保守の進化論否定をあまり笑えない感じになってくる。そもそも「進化」自体が相当に新しい概念というのも「進化あるある誤解」の背景にあるんだろうな。

↓ポケモンのせいだけとは言えないようですね…

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『食の歴史――人類はこれまで何を食べてきたのか』ジャック・アタリ

『食の歴史―人類はこれまで何を食べてきたのか』読了。前から面白そうでリスト入れてたのと、ちょうど電子版が半額だったので読んでみたが面白かった。フランスの有名知識人ジャック・アタリが「食」に着目して人類史を読み解いていく1冊。「食べる」という行為が生物としての根幹にある行動だからこそ、「食」は人間の全ての営みに深く結びついてくるし、人類存亡の鍵も握る…ということがわかってくる。

人類が言語を発展させて地球最強レベルに繁栄する動物になった、決定的な要因も"食"にあるとアタリは語る(火を使うことで消化に費やすエネルギーが減り、脳のキャパが増えた等)。個体数が増加するにつれ、定住化を本格化させた人類は「自然を食らうために自然を手なずけようとする」というループに突入していく。それが人類にとって良いことだったのかはともかく…。

本書の全体にうっすら流れるテーマとして「食と権力」がある。「食」が特権階級の権力維持のために利用されてきた歴史を、メソポタミア文明や古代中国とかまで振り返って語っていく。翻って現代の「食と権力」を、グローバル企業が"食"を媒介にして巨大な支配構造を形作る…という視点で考察していく。

『食の歴史』後半でも語られるように、たとえば気候危機のような地球規模の大問題を考える上で、つい「発電をどうするか」とかにばかり目が行きがちで、それも当然ものすごい大事なんだけど、実は「食」が占める割合が非常に大きいんだよね。たとえば畜産は温室効果ガスを大量に排出するのだが、だからこそ菜食主義が市民権を得始めているという側面もある。

気候危機の問題でも、ぶっちゃけ「食」について解決すればぜんぶ解決するんじゃね…?とまで言ったら当然言い過ぎなのだが、多くの人が思ってるよりは「食」の重要性ウェイトがめちゃ重い、というのは気候変動対策を扱う本とかでも実際よく語られること。(『DRAWDOWN ドローダウン― 地球温暖化を逆転させる100の方法』『Regeneration リジェネレーション 再生 気候危機を今の世代で終わらせる』とか。)「食」は副次的な役割どころか、全然"主役級"のテーマというのは「食」に産業として携わる人も、色々なものを日常的に食べている私達一般市民も覚えとくべきではないだろうか。

かように「食」はどこまでも個人的/ローカルな営みのようでありながら、極めて社会的な行為としての側面ももっている。この両義性が「食」の面白いところなので、こういう「食の歴史」みたいな本はつい心惹かれてしまうのだった。

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1月中は電子半額みたい。

 

『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』酒井隆史

『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』読了。日本でもヒットしてブルシット・ジョブ(以下BSJ)という言葉を広めた『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』という本を翻訳した著者による解説本。かなり人口に膾炙してきた感もあるものの、意外と誤解も多そうな「ブルシット・ジョブ」の概念を正しく理解し、日本社会の現実と突き合わせる上でもけっこう意義のある本だと思う。

元本『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』、私も読んで面白かったし重要な本だと思うけど、『ブルシット・ジョブの謎』でも書かれているように、たしかに書き方のクセがちょっと強めなんだよね(4000円とかするし)。だから話題になって買ったけど途中で挫折した…という人が多めなのもわかる本ではある。こういう「話題の本を解説」系って普段あまり読まないし、別に元本読めばいいじゃん…なスタンスではあるのだが、やはり翻訳者はさすがに理解が深いなと思うので、この新書『ブルシット・ジョブの謎』から入るのも全然アリだと思う。元本も読んでほしいけどね。

なお原書『ブルシット・ジョブ』が書かれたのはコロナ前だが、(ブルシットジョブの真逆とも言える)エッセンシャルワーカーの過酷な現状がコロナ禍で浮き彫りになった今、さらに重要性が増してしまってるという辛い面もある。真の意味で社会や他者の「役に立つ」仕事ほど不遇に扱われるという歪み…。

そういう、なんでブルシット・ジョブ(クソどうでもいいのに待遇はいい仕事)が沢山あるのに、本当に世の中に必要な仕事は待遇が悪いのかの問題に、『ブルシット・ジョブ』著者のグレーバーは「道徳羨望」(立派な行動を引きずり降ろそうとする感情)という言葉を作って考察していて、日本もそれ相当ありそう…と薄ら寒くなるのだった。教師が例に上げられていたけど、クリエイターの一部が異常に薄給だったりとか、「やりがい搾取」みたいな問題にも通じるのかな〜とか。

さらにこの問題の重要性が増している昨今、著者が亡くなってしまってるのは残念だけど、ブルシット・ジョブは「仕事」を根本から考え直していく上で重要な概念だと思うし、この新書を立脚点にしてぜひ読もう。

本書→『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』

元本→『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』

 

今週はこんな感じでした。講談社系が新書セールとかやってる せいで無限に買ってしまうが、それによって逆に積ん読を消化しようという気持ちも湧くので、結局とんとんかもしれない(そうかな)

そして列車は"時"を運ぶ。『エンドロールのつづき』感想&レビュー(ネタバレあり)

いまインド映画がアツいことに異議を唱える映画ファンはいないだろう。『バーフバリ』旋風を起こしたS.S.ラージャマウリ監督の最新作『RRR』は日本でも絶賛ヒット中なだけでなく、欧米でも大ヒットして映画業界人の話題を集めているという。私も思う存分ことあるごとに語りまくっているので、ここでは『RRR』の話は繰り返さない。観てない人は今すぐ観たほうがいい。まじで。

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だが…いまアツいインド映画は『RRR』だけではない。最近日本で公開された作品に限っても、そのテーマ性も表現手法も実に多様で、インド映画の懐の広さに驚かされるばかりだ。たとえば、食という普遍的な営みを通じて、女性が晒される性差別の現実を鋭くえぐり出した『グレート・インディアン・キッチン』昨年のベスト10にも選んだ)。インド社会の教育格差の壁に教師と生徒が熱く立ち向かう『スーパー30 アーナンド先生の教室』。どちらも高度な問題意識を、巧みにエンタメの形に昇華させた秀逸な映画である。「インドの問題」という枠にとらわれない普遍性のあるテーマ設定になっているため、日本の観客が観ても確実に刺さるはずだ。

そして『RRR』の興奮冷めやらぬ…というか明らかに加熱している2023年早々、またしても素敵なインド映画が公開された。ド派手で激アツで常に何かしらの物体や感情が爆発してるような『RRR』とは正反対の、静謐で穏やかなトーンで描かれるインド映画…それが『エンドロールのつづき』である。

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【ざっくりあらすじ】

主人公は、インドの田舎町で暮らす9歳の少年サマイ。父のチャイ店を手伝っている日々の中、家族で街に映画を観に行くことになる。人の賑わいに満ちた映画館の熱気や、スクリーンを照らす光の美しさにすっかり心奪われたサマイ。「映画なんて低劣なものだ」と映画に冷淡な父親には内緒で、その後もサマイはこっそり映画館に通うことになり、いつしか映画という「光の芸術」にのめりこんでいく…。

 

【世にも映画的だが、あまりに現実的な乗り物】

列車はこの世で最も「映画的」な乗り物と言っていい。リュミエール兄弟が1896年に公開した、1分に満たない白黒映画『ラ・シオタ駅への列車の到着』は、映画など観たこともなかった観客を大いに驚かせた、「世界最初の映画」の1つとして名高い。(本作序盤、サマイ一家が映画を観た帰りに白黒で列車が写しだされるシーンはこの『ラ・シオタ駅〜』オマージュとのことだ。)

youtu.be

その後もアクション映画から文芸映画まで、あらゆる映画に数え切れないほどの列車が登場し、その「映画的な美しさ」や「映画的な興奮」によってスクリーンを彩ってきた。列車は映画にとって特別な存在なのだ。

しかし、そんな映画の夢を象徴するような「列車」も、貧しい生活を送る大勢の人々にとっては、シビアな現実生活の一場面でしかない。本作の主人公・サマイもその「大勢」の1人だ。列車の動きや線路の構図、そして世界に満ちる光に「美」を感じ取る鋭敏なセンスをもつサマイは、明らかに映画の才能を持っているのだが、彼を取り巻く現実は厳しい。映画という「夢」の象徴であるはずの列車が停止した時、サマイにできるのはその周りで乗客にチャイを売り、小銭を稼ぐことくらいだ。そんな貧しい暮らしぶりでは、列車の出てくる映画を観ることさえも簡単にはできないし、列車を映して映画を撮るなんて、まさに「夢のまた夢」だ。

 

【"光の芸術"をDIY!】

だがまるで映画そのものを端的に表すような、「時」を意味する名前をもつサマイは、現実の厳しさの前に「夢のまた夢」を諦めたりはしない。心を強烈に惹かれる映画を観るために、店の売上をくすねてでも、小さな町のオンボロ映画館に通い始める。どんどん映画の面白さ・美しさにのめり込んでいくサマイだが、そこはしょせん子ども…。お金がいつも手に入るわけではなく、無賃鑑賞がバレて劇場をつまみ出されたり、映画ファン活動も簡単にはいかない。

そこに現れた「救世主」が、映画館で働く映写機係のファザル。お母さんの手作りランチと引き換えに、映写機室から映画を観てもいいという約束をゲットする。サマイとファザル、年の離れた2人の「映画好き」が形作る共犯関係のような、奇妙な友情の描写が楽しい。

2人の交流の中で、「光の芸術」である映画の根幹を形作る「フィルム」の仕組みが説明されていくのも、映画ファン的に面白いシーンである。サマイは「フィルムが動いている時はライトが消え、止まったときだけライトが光る」ことで、人間の脳を騙すかのように「動く映像」をスクリーンに出現させるということを教わるのだ。この映画の観客も、つい劇中のサマイと一緒に、まばたきを繰り返してしまったことだろう。

ファザルとの交流を経て、映画のメカニズムに関する知識を得たサマイは、仲間たちと一緒にお手製の「映写機」をDIY(Do It Yourself)して、自分たちで映画を上映しようと挑戦する。フィルムを盗み出すという、決して褒められたものではない所業に手を染めつつではあるが、非常に貧しい暮らしを送っている子どもたちにとっては、それが唯一の「映画」にふれる手段でもあった。素人なりのトライアル&エラーを繰り返しながら、自分たちだけのやり方で「正解」へと近づいていくプロセスは、間違いなく本作で最も心躍る場面だ。

そしていよいよ映写機が完成した後、村外れの廃墟を小さな「映画館」に作り変え、インドの伝統衣装サリーをスクリーン代わりにして、(盗んだフィルムを勝手に組み合わせつつではあるが)お手製の「映画」を上映する場面の幸福感は忘れがたい。フィルムのみなので音はなく映像だけの「上映」なのだが、楽器がわりの日用品を活かして「音響効果」も自分たちで作り出したり、観客に風を感じてもらうために息を吹きかける様は、まるで4DXだな…と微笑ましい。

この「小さな映画館」の場面は、まずはなんといっても「エンターテインメント」である映画の本質を垣間見るようでもあった。こんなアナログ感に満ちた楽しいシーンがあるからこそ、その後の急転直下の衝撃も際立つわけだが…。

 

ーーー以下ネタバレ注意ーーー

 

【「映画の映画」の地獄めぐり】

「映画にまつわる映画」「映画を撮る映画」は珍しくないどころか、完全に一大ジャンルと化している(日本でも『カメラを止めるな!』なんて代表例だし、最近も『サマーフィルムにのって』など秀作がありましたね)。 だが本作『エンドロールのつづき』が興味深い点は、物語や演技などの「ソフト」面よりも、フィルムや映写機のような「ハード」面を強調するという、映画に対する一風変わった間接的なアプローチを取りながら、かえって映画の本質に強く"光を当てて"いることだ。

そして本作が、映画のハード面に着目した「映画の映画」だからこそ、本作のもうひとつのクライマックスとなる、終盤の「地獄めぐり」が鮮烈に観客の心を刺してくるのだ。

そのきっかけは、サマイを「育てて」くれた町の映画館・ギャラクシー座に、デジタル化の波が押し寄せ、フィルムが用無しになってしまったという悲しい事態だ。気のいいアナログ映画あんちゃん・ファザルもクビである。まだ見ぬ「物語」であるフィルムや、それを上映するために欠かせない映写機は、ガラクタのようにトラックに詰め込まれ、どこかへ運ばれていってしまう…。そのトラックを(皮肉にも「映画的」なカーチェイスのように)サマイたちは追いかけ、リサイクル工場にたどり着くのだが、そこで目にした光景は、言葉を失うようなものだった…。

「映写機やフィルムがどのようなメカニズムで映画を映し出しているか」を、この映画を通じて私達観客もサマイと一緒に学んできた。だからこそ、そんな映写機やフィルムが単なる金属の塊として分解され、溶解され、再整形され、まさかのスプーンやアクセサリーに生まれ変わってしまうという一連の光景は、まさに「地獄めぐり」である。「万物流転」「諸行無常」といった四文字熟語が浮かぶ、圧倒的な虚しさと哀しさにあふれていた。

これまでの不屈の精神っぷりから考えても、てっきりサマイたちが「その映写機やフィルムはゴミじゃない、大切なものなんだ!返してくれ!」と懇願したり、工場から盗み出したりする展開になるのかな?と思っていたのだが、そうはならなかったことも意表を突かれた。

工場のシークエンスでは一切セリフがなくなるので、サマイが具体的に何を感じていたのかは観客の想像に委ねられる。カメラはただ、淡々と続くリサイクル工場のプロセスと、かつて「映画」そのものであった機材が別のものに流転していく姿を映し出していく。馴染み深いフィルムの時代が幕を閉じ、映画の次の時代が容赦なく始まっていく時の流れを、これ以上なく直接的な形で提示するかのように…。

この光景を見て、果たしてサマイは何を感じたのだろうか。予想を超えた事態に面食らい、何も手を出せず呆然としていたのだろうか。それとも、むしろ"死にゆく"映写機やフィルムの行く末をしっかり見届けようと熱い決意を固めたのだろうか。あるいは、サマイ(=時)の名を体現するかのように、人間にはどうしようもない"時"の流れを、せめてフィルムのように瞳に焼き付けておこう…と透徹した思いを抱いたのだろうか。

 

【そして列車は"時"(サマイ)を運ぶ】

思い入れのある映写機やフィルムが、全く別のものに生まれ変わってしまう、残酷だが荘厳な光景…。それを見届けて帰路についたサマイは、落ち込んでしまうどころか、むしろ映画の世界に本格的に関わっていきたい…という決意を固めたようだ。

映画のラスト、彼は「映画をつくる」という夢を叶えるため、家族の理解を経て故郷に別れを告げる。「映画をつくりたい」というサマイの想いが「光の勉強がしたい」「光を知りたい」という言葉によって表されるのも、映画の「光の芸術」としての側面を捉えてきた本作らしいポイントだ。

そして「映画になりたい」とまで言っていた、映画の世界に深い思い入れをもつサマイを、まだ見ぬ未来に向かって運んでいくのが、「この世で最も映画的な乗り物」列車である…という結末は美しい。かつて眺めるしかなかった列車が象徴する、夢見るしかなかった映画の世界に、自分なりのやり方でトライ&エラーを繰り返しながら踏み込んでいき、自分だけのやり方で「光を捕まえる」ことで、サマイはついに「列車に乗り込む」ことができたのだ。

同じ列車に乗っていた女性たちが身につける、インド特有の七色のアクセサリーに生まれ変わったフィルムたちも、サマイの出発を優しく見守っているかのようだ。止められない時の流れの中で、物体としての形をなくしてしまった映画たちは、きっとサマイのことを、そして映画に関わる大勢の人を、これからも励まし続けるのだろう。

菌も金もやばい。ドラマ『THE LAST OF US』第2話感想(ネタバレあり)

HBOドラマ版『THE LAST OF US』、1話に続いて2話もめちゃ面白かった〜。好きなコンテンツの実写映像化でこれほどテンション上がること自体かなり珍しい、なんなら人生初かも…?くらいあるので、前回に引き続き感想を書いていく。毎週やるかは気分次第。

『THE LAST OF US』U-NEXTで視聴

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前回の感想はこちら

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ちなみに今回の第2話“Infected(感染者)”は、原作ゲームのクリエイターであるニール・ドラックマンが監督を務める回という意味でもかなり重要である。

 

ーーーネタバレ注意ーーー

 

【わくわく菌類ドラマとしてさらなる高みへ】

2話の開幕早々、舞台は驚きのインドネシアへ。ゲームの『THE LAST OF US』は、基本的に「ジョエルの視点」で統一されているため、舞台となるアメリカから離れた視点もほぼ全く挟まらないこともあり、アメリカ以外の「ラスアス菌」パニック(の前兆)の様子が描かれるだけでもかなり新鮮である。

軍に呼び出された菌類学者の中高年女性が、謎の菌類に乗っ取られたと思しき人間の死体を観察する(もう皆あっさり流してそうだけど、この役回りの人が女性なのやっぱイイよなと思う)。感染者の口から菌糸がモゾモゾ出てくるのはドラマ版のオリジナルな設定だと思うが、ビジュアル的におぞまし怖いし、この菌が「生きもの」であることがゲームよりも強調される形になっているのも興味深い。

そしてこの菌類のヤバさを目の当たりにした専門家が、軍のエライ人に「結局どうすればいいんだ?」と問われて告げる、「爆撃しなさい(Bomb)」という言葉の衝撃。「ワクチンも治療法もない、爆撃して皆殺しにするしかない」という宣告の絶望感に凍りつくエライ人…。「ウイルスならまだワクチンもできるけど、真に凶悪な"菌類"が感染を広げ始めたら、人間にはなす術もない…」ということなのか。

1話冒頭のTV番組もだが、「何かとんでもなくヤバいことが起こる前の静かな不穏さ」とか「事態がヤバすぎることを専門家だけが気づいている絶望感」のような嫌な表現が、このドラマはかなり巧みだ。まさにそういうドラマの大傑作『チェルノブイリ』のクリエイターであるクレイグ・メイジンが関わっていることも、この雰囲気作りに大いに貢献しているのだろう…。ちなみに『チェルノブイリ』もU-NEXTで見られる。

『チェルノブイリ』U-NEXTで視聴

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緊張感にあふれた素晴らしい冒頭だったが、一点だけ気になったのが、現在進行で新型コロナに結びつけたヘイトにアジア系が晒されていることを考えると、これでもし東南アジアが「ラスアス菌」の発生源ってことにされてたら(フィクションとはいえ)イヤだな…とは見ながら思った。ただ、そういうことでもないっぽいので少し安心。結局ゲームでもまだラスアス菌の源泉って描かれてないと記憶してるけど、ドラマではそこも深掘りしていくのかな。

 

さっきも言ったようにドラマ版『THE LAST OF US』では、人類を滅ぼしつつある脅威がウイルスや呪いではなく、「菌」であることの必然性と、だからこその恐ろしさが原作ゲームよりも強調されている。

たとえば今回、最も鮮烈だったショットは、建物のバルコニーから、遠くの地面に寝そべる大量の感染者たちを眺めるシーン。それらがマスゲームのように、各個体が動きをあわせてゴロゴロしていく姿が、まるで「蛆虫」のような動きで、まったくイヤなことを考えるなぁ…と一瞬思ったのだが、実はそれは感染者たちの「生態」を表していることがわかる。

つまり感染者たちはバラバラのゾンビというよりは、集団で一つの「生きもの」を形作るような生態をしている。地中では物理的に張り巡らされた「菌糸」で互いに繋がっていて、独特のコミュニケーションを取っていて、遠く離れていても菌を踏んづけたりしたら察知して駆けつけてくる、という油断ならなさもある。逆に、だからこそ炎が弱点というのも現実味があるわけだが。

ゾンビと言えば基本的にはウイルス由来の設定が多いと思うけど、ウイルスという「生物か非生物か微妙」な存在ではなく、菌というハッキリと「生きもの」である存在だからこその怖さを描こうという意志を明確に感じるし、「わくわく菌類ドラマとしてやっていくぞ」という気概がある(?)ので、生き物好きとしてもやはり目が離せないことになりそうだ。個人的にも今「菌」に興味あるし…↓

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そんな恐怖のわくわく菌類ドラマを象徴するような恐怖キャラとして今回、満を持して登場したのが、みんな大好き「クリッカー」だ。

Twitterでハッシュタグつけてタイトルをつぶやくとクリッカーの絵文字が出るよ↓

本作を象徴する敵キャラであるクリッカーの初登場は、とても重要なだけあって、緊迫感のある秀逸なシークエンスになっていた。菌糸だらけの博物館に入った直後、何者かに殺された死体を見つけるわけだが、普通の感染者とは明らかに違う力で惨殺されている…。「まさか"ヤツ"がいるのか…」と不穏な空気を出すジョエルとテス。「ここからは"静かに"じゃなくて"音を出すな"」というジョエルの警告も緊張感を高める。そして奥へと進むにつれて、静まり返った空間についに鳴り響く「ココココ…」というあの独特の"クリック音"。キノコ化が進んで強化された"感染者"・クリッカーの登場である! 一連の流れが丁寧かつ周到だったこともあり、その満を持した出現には恐怖と同時に「待ってました〜!」とテンション上がった。

クリッカーは頭の上半分がキノコ化していることもあり、視覚は失っているのだが、そのかわり非常に優れた聴覚をもっている。特有のクリック音は(イルカやコウモリなどのように)その反響で周囲の状況や、獲物の位置を察知する目的があるのだろう。さらに、キノコ化した頭が(メンフクロウのように)ある種のパラボラアンテナのような役割を果たすことで、外界の小さな音でも決して聞き逃さない能力を持っていると思われる。原作ゲームでもクリッカーに捕まった場合は(通常の感染者と違って)一撃ゲームオーバーとなる攻撃力があるだけでなく、なかなか死なないタフな生命力まで持っており、ロクな武器もない序盤では非常に厄介な敵として印象的だった。

遭遇から始まるvsクリッカーのゾンビバトルも、近年のゾンビものの中でも屈指の緊張感が充満しているとともに、ゲームプレイ的な臨場感さえも感じさせる(ついスティックをゆっくり倒したりボタンを連打したくなってしまう…)、大変クオリティの高い出来栄えでゲームファンとしても満足だ。この辺りはさすがニール・ドラックマンが監督してるだけある、と言うべき力の入り方だった。

ところで今回、前半のエリーとジョエルたちの雑談の中で話題に出たクリッカーがいきなり登場したわけだが、もうひとつ話題に出た「胞子を飛ばしてくるヤツ」であるブローターも間違いなくドラマで描かれるはずなので、今から楽しみである。急に飛び道具を使うので初見では「ふざけんなや」と思ったものだ…。

 

【菌もヤバいけど金のかけ方もヤバい】

1話に続いての称賛だが、やはり美術が圧倒的に素晴らしく、なんて美しいドラマなんだ…とため息が出てしまう。実際この「美しさ」こそは、原作ゲームの最大の特徴でもあった。すでにPS5版にリマスターされた超美麗グラフィックなバージョンも出ているようだが(私は未プレイ)、元のPS3版の時点でもハッキリと「美しいゲームだ」と感じさせたので、グラフィックの質が云々というよりは、ロケーションの構築や、世界の切り取り方にこそ本作の「美」の真髄があるんだと思う。現に「ゲームの中のあの場所が妙に心に焼き付いて離れない」という場面を、本作をプレイした人には沢山思いつくはずだ。そうした美意識の賜物として(ホラー要素が強いにもかかわらず)ゲーム史上でも稀に見る美しい作品が生まれたのは間違いない。

そんなゲームの美学を、実写ドラマがここまで巧みに再現してくるとは、やはり想像以上と言わざるを得ない。確かに、細かく見るとゲームから削ったり変えたりしてるところも少なくない。倒壊ビルに全く入らなかったとか、議事堂手前の印象的な水場が省略されているとか、その他諸々。しかし本作がゲームと違いプレイ不可のドラマである以上、特にアクション面はゲームをそのままなぞってもダレるだけだし、むしろいくつかの要素を統合した結果、より鮮烈なイメージを観る者に与える場面が出来上がっていたと思う。

とりわけ今回は、水没したホテルのロビーの場面が素晴らしかった。崩壊した文明の物悲しさと美しさ、エリーの子どもらしい性格描写、びっくり描写と、限定空間を利用して起きる短いシークエンスの中で、様々なものが表現されている。ピアノの鍵盤にカエルが乗って音を奏でるショットも、ちょっとしたユーモアがあって素敵だ。

それにしても、この短いシーンのためだけに、ここまで凝ったセットを作り上げるとは、なんつー金のかかったドラマだ…と思わざるを得ない。HBOドラマの本領発揮というべきか、各話の制作費が10億円とかいう、ちょっと桁違いの金をかけているだけのことはあり、ほぼ全てのシーンが「こんなに贅沢で大丈夫なのか」と心配になるようなリッチな画作りをしている。同じくHBOの『ゲーム・オブ・スローンズ』とはまた違った意味での金のかけっぷりを感じさせる豪奢な作りだ。もちろん、制作費をかけたわりにはなんかショボイみたいなことも映像業界には多いので、あくまで優秀なクリエイターが正しい金の使い方をすればこうなる、という話なんだろうが…。なんにせよ、もはや物語云々というか、ゲームのあの場所をどう再構築するのかを見るためだけでも、毎週楽しみになってくる。

 

 

ーーーさらにネタバレ注意ーーー

 

【ザ・ラスト・オブ・テス】

2話を締めくくるのが、テスの哀しき最期である…。ゲームとほぼ同じ展開なので驚きはないとはいえ、アナ・トーヴさん演じるタフで実在感あふれるテスが、たった2話でめちゃ好きなキャラになっていただけに、話を知っているにもかかわらず普通に退場が悲しい。はあ……。ここで彼女が生き残っていたら、『THE LAST OF US』はまた違う物語になっていたんだろうか。だが最後まで自分の良心を貫き、大きな希望を誰かに託しながら逝けたという点で、マジで容赦なく人が死んでいく『THE LAST OF US』世界の中ではかなり幸福な部類の最期とも言える。

前回の感想でも書いたが、テスのキャラクターの再造形のハマりっぷりを見るだけで、本作の実写リメイクの意義深さを感じ取れるレベルだったし、もはや(ゲームのテスにも深い思い入れがあるにもかかわらず)こっちのドラマ版のテスでゲームの方もプレイしたくなってくるほどだ。ドラマの人気が高まれば、未来では「実写版のキャラ造形でプレイ」設定もできるようになったりして。

ところでゲームではテスの最期はハッキリと描かれることはなく、敵の軍勢に取り囲まれた後に銃声が鳴り響くことで間接的に死が表現されていたが、ドラマ版のテスの散り際はけっこう違っていたので意表を突かれた。まず(話をシンプルにするためもあるだろうが)人間ではなく感染者たちを食い止める流れになっている。

さらに、感染者になりかかっているテスに、別の感染者が口移しで「菌糸」を伸ばしてくるという、かなりおぞましい絵面の場面が追加されている。わりと性的な暴力性も感じさせる変更点なこともあり、もしかすると賛否あるかもしれないが、これによって直後の爆発がより大きなカタルシスを生んでいて、彼女の最期が一層インパクトの強いものになっていたと思う。また感染者を操る「菌」がもつ、先述した「生きもの」的なキモさというか、生理的にイヤ〜な感触を強調するという意味でも上手いと思った。

 

原作ゲームでも、こうしてテスが退場するまでが長い「序章」というか「チュートリアル」であり、ここから人類の命運を賭けたジョエル&エリーの2人の旅がいよいよ幕を開ける。序章の時点ですでに素晴らしいと言わざるを得ないドラマ版だが、「本番」に突入し、さらにヒートアップしていくのが楽しみだ。「わくわく菌類ドラマ」としての掘り下げからも目が離せない。U-NEXT独占配信だけどドラマ好きはぜひ見よう↓

『THE LAST OF US』U-NEXTで視聴

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読んだ本の感想まとめ(2023年1/16〜1/22)

今年の「摂取したコンテンツなるべく全部メモする」チャレンジの一環としての読んだ本まとめ記事です。おもにTwitterまとめ+アルファ。

 

<今回読んだ本>

『シチリアを征服したクマ王国の物語』ディーノ・ブッツァーティ
『成長戦略としての「新しい再エネ」 (SDGs時代の環境問題最前線)』山口 豊
『特別展「毒」公式図録』
『布団の中から蜂起せよ: アナーカ・フェミニズムのための断章』高島 鈴
『女性の世界地図: 女たちの経験・現在地・これから』ジョニー・シーガー
『30年にわたる観察で明らかにされたオオカミたちの本当の生活 パイプストーン一家の興亡』ギュンター・ブロッホ

 

前回↓

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『シチリアを征服したクマ王国の物語』ディーノ・ブッツァーティ

アニメ映画『シチリアを征服したクマ王国の物語』が、昨年のベストに選ぶくらい素晴らしい出来栄えだったこともあり…

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ブッツァーティの原作『シチリアを征服したクマ王国の物語』を改めて読んだ。かわいくて恐ろしくて楽しくて、やがて哀しきクマたちの大冒険。名作として語り継がれるのもよくわかる、獰猛で自由な想像力に満ちた童話であった。

本書で特筆すべきは、ブッツァーティが自分で描いてる挿絵の数々がマジで良いんですよね。棒人間みたいにシンプルなクマがほんとかわいいし、それでいて絵を見るとけっこうひどいことが起こってるという、童話らしくさりげない残酷性もいい。デ・キリコとかのイタリア形而上絵画をも想起させる、不気味な夢のような実在感があるのも素敵。ブッツァーティ、もしも小説がウケてなかったら絵本作家とかになってたのかな。

ブッツァーティの絵心は『絵物語』(https://amzn.to/3JnKTOr)とかでも堪能できるから要チェック。

雰囲気こそかわいらしいけど『シチリアを征服したクマ王国の物語』は、人とクマという異なる種族が対立し、融和し、結局また断絶する…という凄いドライな話とも言える。それはどこか、現実のシチリアという島の歴史の写し鏡のようにも思えてくる。昔から対外的に色んな国に侵略されたり、分裂したりしてきたシチリアの、悲しい歴史が凝縮されたようなストーリーにも感じられるのだ。それでも、いやだからこそ、『シチリアを征服したクマ王国の物語』のラストはしんみりした感動を与えてくれる。人とクマの別れの場面で鳴り響く、人の子らとクマの子らがそれぞれ歌う悲しい歌は、確かに存在した両者の繋がりと、仄かな希望を語っているようにも思える。そういう悲哀と光明のバランスも、まさに名作だなと思う。

そして原作をちゃんと読んだ後にアニメ映画の『シチリアを征服したクマ王国の物語』を振り返ると、かなり原作に忠実に作りつつ、一点メタな構造を取り入れることで現代の作品としてバランスも取ってて、改めて優れたアニメ化だったな〜と感銘を受ける。配信レンタルもきてるので、海外アニメ好きは確実に観る価値あり。

amzn.to

アニメ『シチリアを征服したクマ王国の物語』を見た時「まぁシチリアにこんなすごい山は全然ないけどな…(ブッツァーティが住む北イタリアならともかく)」と思ったんだけど、原作小説の開始1ページめに「こんな山は今はないが、山がなくなるほど大昔のことだった…」みたいなことが書いてあって、作家の力技を感じた。

さらに余談だが『シチリアを征服したクマ王国の物語』、支配者側の人間に子グマがさらわれてしまい、取り返すためにクマたちが団結して猛攻をかける…というstoRRRyなので、脳内でこの曲が流れてしまうのだった。なにをみても『RRR』のことを考えてしまう…

t.co

購入『シチリアを征服したクマ王国の物語』

 

『成長戦略としての「新しい再エネ」 (SDGs時代の環境問題最前線)』山口 豊

現代の動物好きとしては環境問題に着目せざるをえず、そのためには再生可能エネルギーにも着目せざるをえないので近年は色々な関連書籍を読み漁ってるが、今回は日本の再エネ分野での挑戦を説明した 『成長戦略としての「新しい再エネ」』を読んだ。

どう考えても今後の世界の鍵を握るであろう再生エネルギー分野で、日本はいっけん遅れをとっているようだが、実は破格のポテンシャルがあるぞ、全然まだまだやれるぞ…と証明していくという、基本的には元気の出る内容となっている。

ただし、新しい試みも各地でちゃんとやってるのだが、それが社会システム全体にうまく結びつかないんだよね〜、そしてそれこそが(再エネに限らない)日本の停滞の根本的な理由なんだよね〜〜〜…という、だいぶ身につまされる問題提起もあぶり出されるという、一筋縄ではいかない本であった。BBCでこんな記事↓も出たばかりだし…

www.bbc.com

たとえば、軽くて薄い次世代太陽電池として世界的にも高評価されている「ペロブスカイト太陽電池」は実は日本生まれで、国内原料調達も容易なのだが、国が研究支援を渋ってるうちに英・中その他に製品開発で差をつけられちゃった話とか、「あちゃー」という感じのエピソードも載っている。そしてそれは再エネに限らず、まさに日本の諸分野で起こってることのように思える…。

時事ネタとしては、ウクライナ危機以降に改めて浮き彫りになった再エネの重要性にも光を当てていく。化石燃料に国として頼り続けることの大きなリスクは、やはり近年改めて思い知ったという人も沢山いるんじゃないかと思う。そもそもウクライナ侵攻の勃発自体が再エネシフトの潮流と切り離せないのだ、という本書でも語られているロジックも本当そうだよなと思うし。色んな意味でターニングポイントな時代なので、まずはこうした本を考える契機にするのが良いと思う。

なんにせよ『成長戦略としての「新しい再エネ」』、今後の日本を考える上で、希望と焦燥を感じさせる1冊でした(希望も焦燥も、どちらも必要になりそう)。

購入→『成長戦略としての「新しい再エネ」』

 

『特別展「毒」公式図録』

numagasablog.com

本というか特別展↑の図録だけど、とても読み応えがあった。

図版だけでなくコラムも充実で、たとえば「毒をもつ哺乳類」のコラム読んで「おもしれ〜〜」となったり。有毒の哺乳類ってめちゃ珍しいんだけど、いずれの種も全く異なる4つのグループに分散していて、毒の成り立ちや毒腺の構造も多岐にわたる。つまり「毒は哺乳類の進化のなかで4回独立に進化した」というわけ。こういう話を聞くと、毒って本当なんなんだろうね…と思えてくる。

全く異なる系統なのに一種の収斂進化のように毒を獲得した、レアな有毒哺乳類たちも面白いけど、さらにレアと思われる有毒の鳥類は、なぜか(このズグロモリモズを含む)複数種がパプアニューギニアに集中して生息しているというのもかなり面白いわ…。

そういえば先日『コーヒーの科学』読んで、カフェインの由来から「植物と毒の進化」について考えたばかりだったな。毒という色んな意味で「強い」ファクターが起点となって、進化の流れがパズルのように組み替わっていく点で、毒は生物全体の進化を考える上で重要なのよな…。

生物ネタにとどまらず「毒と人類の歩み」とか人文的考察も読み応えあった。「毒とフィクション」というコラムでは、現代エンタメにおける毒使いのキャラとしてジョジョ5部のチョコラータが挙げられててマニアックで笑った(フーゴじゃないんだ…と思ったが直後に出てきた)。バトル漫画とかエンタメにおける毒使いといえば敵役が多かったが、最近は最初から味方なことも多く(『鬼滅の刃』のしのぶさんとか)毒好きとしても時代の変化を感じるとのこと…。

かように多方面からの「毒」考察が面白くて、根本的に「毒とは何か」を考察する本という括りでも、現時点での決定版では?と感じるクオリティ。購入は今のとこ会場限定みたいだが、東京これない人のために通販もやってくれるといいな。

購入→グッズ・図録 | 特別展「毒」 <オフィシャルHP>


『布団の中から蜂起せよ: アナーカ・フェミニズムのための断章』高島 鈴

「紀伊國屋じんぶん大賞」1位を獲ったりと、今注目の人文書『布団の中から蜂起せよ』も読んだ。「革命」というと、立ち上がって武器をとって権力に立ち向かったり、バスティーユ刑務所を襲撃したりするようなアクティブな行動のイメージが強いかもしれない。布団の中でウダウダしてるだけなんて、「革命」には最も程遠い態度だ…と普通は思うだろう。だが本書『布団の中から蜂起せよ』は、「布団の中で」ただ生き延び、虚無に満ちた日々をやりすごすこともまた、弱者を抑圧する社会への反抗であり、いつか革命にも繋がりうる、れっきとした「蜂起」である…と、著者自身のパーソナルな経験や苦しみも織り交ぜながら説いていく挑戦的な1冊だ。

この歪んだ自己責任論に満ちた、資本主義的な「生産性」ばかりが重視される社会では、日々を無為に過ごすことはほとんど「罪」でもある。ゆえに、実際には社会の側にいくら歪みがあったとしても、そこにうまく参加したり順応したり"活躍"したりできない「布団の中」の人々には、「おまえが悪いのだ」と無言/有言のプレッシャーが日々かけられてしまう。

だが著者は搾取的・差別的な体制や権力システムを根本的に疑い、批判していくアナーカ・フェミニストとしての立場から、そんな抑圧にNOを突きつけていく。家父長制や天皇制や資本主義へのラジカルな批判に対して、必ずしもすんなり同意する読者ばかりではないかもしれない。しかし「今日も何もできなかった…」と"布団の中で"自分自身を責めてしまう人が、本書を読むことで「本当に自分が悪いのか?」と別の視点を持ち、苦しい今日を生き延びる力をもらえる本であることは間違いない。そしてそんな個々の変化はいっけん小さくても、もしかしたら大きな波を引き起こすかもしれない。それは確かに、「革命」の名に値する変化であるはずだ。

『布団の中から蜂起せよ』はエッセイ的な論考と織り交ぜて、ポップカルチャーの鋭いレビューも色々載っているのだが、特にゲーム『ナイト・イン・ザ・ウッズ』の(著者の"地元"への複雑な想いも織り交ぜた)読解はとても心打たれた。私も本当に大好きなゲーム…なのだが、制作陣がやらかしたアレコレが辛くて後味悪くて、ちょっと心の片隅に封印していたのだった。だが本書を読んで、久々に遊び直したくなったし、現実の色々な問題はなかったことにできないとはいえ、素晴らしいゲームだったな…と再実感した。半額セール中なので遊んでみてほしい…↓

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それと私もめちゃくちゃ大好きな『ピエタとトランジ』の熱いレビューもあって嬉しくなった(『マイ・ブロークン・マリコ』と並べて語るの、なるほどな…と)。危険な女性探偵コンビ(?)の生涯を若いときから老年期まで描く小説で、ものすごい軽さで人がいっぱい死ぬけど最高の作品。こっちもみんな読んでほしい。

あと完全たまたまだけど『布団の中から蜂起せよ』と同時に『蜂と蟻に刺されてみた―「痛さ」からわかった毒針昆虫のヒミツ』を読み返していたので、タイトルに「蜂」が入ってる全然ちがう分野の本2冊を同時に読んでいるという珍しい事態になった。というか「蜂起」に蜂の字が入っているの少し興味深いよね。蜂起=「蜂のように起つ」…。昔の人は、蜂の小ささとその怒りの激しさに、抑圧に対して立ち上がる一般市民の姿を重ねたということなのか。やっぱこれからはハチが熱いな(?)

購入→『布団の中から蜂起せよ』

 

『女性の世界地図: 女たちの経験・現在地・これから』ジョニー・シーガー

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フェミニズム繋がり…というわけではないが、『女性の世界地図: 女たちの経験・現在地・これから』もインパクトのある有意義な本だった。

ジェンダー・ギャップ指数ランキングで日本は153ヵ国中「121位」とヤバイくらい低いだとか、特に経済や政治分野でのジェンダー平等への取り組みが(先進国どころか)世界的にみても遅れている…といったことは近年よく耳にするようになったし、日本で生きる人にとっても実感できる事実なんじゃないかと思う。

ただし、そうした社会の歪みが、日本固有のものなのかと言えば(むしろそうなら良かったかもだが)そうではない。女性が晒されている不平等は、日本も含めた全世界が向き合い、解決すべき大問題としか言いようがないことが、本書『女性の世界地図』をパラパラ眺めているだけで直感的に理解できるだろう。

本書では、世界の女性にとって「どんな問題が」「どこで」「どの程度」起きているのかが、カラフルな地図や図版を使いながらわかりやすく、しかし赤裸々に暴き出される。たとえばこんな感じ↓

これは「国政における女性議員の割合」を色分けして地図化したデータである(緑色が濃いほど女性の政治進出が遅れている)。政治の領域において、女性の進出がいまだに全くもって不十分であることがパッと見でわかるはずだ。我らが日本の後進っぷりが可視化されてしまい恥ずかしいわけだが、その一方でアメリカとか「先進国」とされる国でもけっこうダメなんだな…という現状が見えたりする。むしろ失礼ながら、イメージ的にはちょっと意外な国で、女性の政治的な進出が進んでいたりする(紫で表現)のも興味深いところだ…。

これはあくまで一例で、数字で表現できる信頼できるデータを引用しながら、他にも「結婚」や「出産」や「暴力」や「教育」にまつわる世界地図がたくさん掲載されている。どのページを見ても「世界的にはこんな感じなのか…」という発見があるという意味で、(あくまで現時点での最新データではあるが)何度も見返せる内容になっていると思う。広大で深刻なジェンダーの問題について、有用なデータを携えて筋道立てて考えるためにも、本書は適切な「地図」(文字通り)になってくれることだろう。

購入→『女性の世界地図: 女たちの経験・現在地・これから』


『30年にわたる観察で明らかにされたオオカミたちの本当の生活 パイプストーン一家の興亡』ギュンター・ブロッホ

オオカミ本に目がなく、見つけるたびに読んでいる私であるが、またも良い本に出会うことが出来た。『30年にわたる観察で明らかにされたオオカミたちの本当の生活 :パイプストーン一家の興亡』である。タイトルは妙に長いが、オオカミへの様々な思い込みを覆してくれる真摯な動物本であった。

2008年〜2009年、カナダ・バンフ国立公園のボウ渓谷に、オオカミの一家が突如として現れた。一家はほかのオオカミを1年で一掃し、その後5年にわたり君臨し続けた。このオオカミ一家の複雑で繊細な暮らしを、オオカミ研究の権威であるギュンター・ブロッホと、野生動物写真家のジョン・E・マリオットらが、忍耐強く観察していく。その結果見えてきたのは、「アルファ雄」「序列」「パック」など、従来のオオカミにまつわる固定観念をひっくり返す生き様だった。

例えば「強いオスが"アルファ"として群れを支配する」など、なんとなく知られているオオカミ生態は、あくまで人間が観察のため囲いに閉じ込めた、非常に特殊な状況の群れの話にすぎないと指摘。開かれた自然では、より多様で複雑だという。「アルファ」から「オメガ」といった、従来の一律的な序列の概念では、オオカミの繊細な社会をとらえきれないのである。

『30年にわたる観察で明らかにされたオオカミたちの本当の生活』で指摘された、人間の都合で狭められた条件で動物を観察し、さらに人間社会のバイアスを当てはめて生態を結論づける…というような、知的怠慢ともいえる態度は、オオカミに限らず色々な領域で起こってるのかもなと思うし、だからこそ常に問い直しが必要になってくる。

さらに『30年にわたる〜』では、観光事業の拡大がもたらしたオオカミたちの生活の変化など、
人間社会や人の行動がオオカミに与える悪影響を批判的に見ていく。シビアな話ではあるが、人間と動物の健全な関係を考える上でも、無視できない大事な内容である。

類書(判型も同じ)としては『オオカミたちの隠された生活』があり、これも読みやすく真摯な現代的オオカミ本でオススメ。

「アルファオス」みたいなオオカミ概念に実は人間側のバイアスがかなり入ってた…という話は『狼の群れはなぜ真剣に遊ぶのか』(これも良い本)でも取り上げられていた。実際の被害以上に膨れ上がった「恐ろしい動物」としてのイメージもまた正確な認識を妨げているんだろうな。

ちなみに『30年にわたる〜』には、拙著『ゆかいないきもの超図鑑』でも描いた「オオカミとカラスの共生」についても言及がある。童話みたいな関係に思えるかもだが、ちゃんとした科学的な裏付けもあるのです。カラスを「オオカミの目」と呼んできた先住民族は正しかったのだ。

Twitterでは他にも色んなオオカミ本を紹介したが、なんか自分でも整理したくなってきたので、そのうち別個にオオカミ本まとめ記事でも作ろうかな。いったんここまで。

購入→『30年にわたる観察で明らかにされたオオカミたちの本当の生活 :パイプストーン一家の興亡』

 

今回はこんな感じ。こういう読書メモ自体は続けたいが、5〜6冊紹介するだけでも8000字超えてしまい地味に大変なので、またちょっとやり方を考えるかもしれない。やっぱ映画みたいに1冊ずつ紹介のほうがいいかな。まぁしばらくは続けてみようかな。気になる本があったらリンクから買ってみてくれたら励みにはなります(amazonアソシエイト入ってるのでオススメした本が買ってもらえると数字でわかるので嬉しいのであった)。おしまい〜〜〜

コロナ後の航空パニック最前線。『非常宣言』感想&レビュー

イ・ビョンホンが空中でがんばり、ソン・ガンホが地上でがんばる。『非常宣言』は韓国のスーパー映画スターが天と地でがんばりながら共演する、たいへんゴージャスな航空パニック映画だ。

面白かったのでブログにもかんたんに感想をまとめておく。ネタバレは一応控えめにしとくけど観てから読むの推奨。

klockworx-asia.com

ハワイへ向かうウキウキ浮かれ気分が一転、バイオテロ地獄へと真っ逆さまに突き落とされる…。そんな最悪フライトへと事態がじわじわ嫌な感じに盛り上がっていく、スリリングな序盤がまずたいへん面白い。

バイオテロを引き起こすテロリスト(イム・シワン)も、すごい線の細いイケメンなのに、空港スタッフへの暴言とか子どもへの絡み方とかがマジでイヤで、テロと一切関係ない部分で異常な気持ち悪さを発揮していて良かった。ここまでのことをする以上、こいつはこいつで大義とかあるのか…?と思ったら……という、予想を下回ってくる感じも良い意味で底が浅くて良い。よくも悪くもその人間性や思想が特に重要になってこないという、こういう密室テロ映画では意外と珍しいキャラ作りかもしれない…。本作が真に刃を突きつけるのは、そんな軽薄な思想のテロリズムよりも、むしろ「私達」の中にこそある何か…ということが後半に明らかになるので、テロリストはその前フリにすぎないんだろうなと。

そして中盤、いよいよ航空パニック映画としての大見せ場となる、落下していく飛行機の中で巻き起こる阿鼻叫喚の地獄絵図もとにかく凄い。ふわあ…と舞い上がる女性の髪の毛の、静かでシュールな絵面から始まって、真の絶叫パニックが訪れる…という緩急の付け方も見事。「まるでハリウッドみたい!」とかそういうレベルではもはやなく、もう完全に世界トップクラスのパニックシーンだと思う。墜落する飛行機のGだけでなく、韓国の実写エンタメ映画の圧倒的な勢いをその身で感じるようだった。

というわけで、スリリングな前半〜中盤も面白いのだが、テロパニック展開が一段落して、いったん助かった〜!と思いきや絶望的な展開を迎えて、雰囲気がガラッと変わる後半こそが、むしろ本作『非常宣言』の本番だと感じた。テロリズムよりもさらに世界中に広く根深く蔓延る、しかし実は私達が心の奥底に抱えている「恐怖と保身」、そのせいで平気で他者の命に「線を引く」態度…。そこにこそ、本作の刃は最も鋭く突きつけられるのだ。

『非常宣言』を観てもつくづく思う韓国映画の凄いところは、そうした社会への批判的な視線とエンタメ的な面白さを巧みに合流させてくることで、しかもそれを本作のような(ソン・ガンホとイ・ビョンホンが共演してる)大衆娯楽大作でもガンガンやってくるのが本当に強い。そりゃ『パラサイト』が生まれる土壌だって育まれるよなと思う。 

ひるがえって日本をみるとどうしても、観客に嫌われるのを恐れてなのか知らないが、社会的・現実的なテーマにまっすぐ踏み込むことをためらうあまり、作品全体がやたらボンヤリしてしまうエンタメが少なくないように感じられる。日本(と括るのも雑だが)が真っ先に韓国映画から学ぶべきはそういうところだと思う。

ちなみに今回『非常宣言』、そういう韓国映画らしい社会批判的な視線が日本にも向けられるので、日本の観客の一部では反感を買うのかもしれない。まぁさすがに自衛隊が他国の飛行機をアレしようとするのは非現実的だ(と思いたい)し、基本はエンタメ度を増すためのフィクショナルな場面ではあると思う。ただ、今の日本の排外的な方向に傾きがちな空気、それどころか「我が国のために不安要素を排除しました!」とか言う政治家や官僚が喝采を浴びかねない現状を考えると、イヤな現実感が濃厚な場面だし、そういうとこ実は外からもよく見えちゃってるのかもな〜とか思わざるをえない。だって実際あんなことがあったら世論もめちゃくちゃ荒れてネットとかも(今以上に)ヘイトの温床になりそうじゃん…? 

 少なくとも、あの場面をもって「反日」だのと言うのはまさに見当外れであり、どっちかと言えば「確かに冷淡な対応だけど、日本の言うことにも一理あるんじゃね…?」と観客を誘導するための前フリにすぎない(さらにアメリカの前フリもあるし)。むしろ『非常宣言』が最も明確に批判の矛先を向けているのは、韓国の社会や体制、そして自国民のあり方だろう。コロナ禍は言うまでもなく、国民的トラウマといえる2014年のセウォル号沈没事故は明確に意識されているだろうし、もっと言えばごく最近起こった、梨泰院の痛ましすぎる転倒事故さえも、批判の射程圏内に入ってくるような鋭さをも感じた。

 テロや事故などで大変な目にあっている人々を本来は守るべきはずの国家権力が、逆にそうした人々に対して、いかに消極的だったり、冷淡だったり、残酷になりうるか…。そうした体制への根深い不信感が、『非常宣言』の主人公たちを待ち受ける運命には反映されている。さらに一般市民も時として、恐怖と保身の気持ちに負けてしまい、他者の命をジャッジできる立場に自分がいると思い込み、当事者の心情も考えずに「見捨てろ」とか「自己責任だ」とか、ひどい言葉を投げつけてしまう。

そして「これは韓国特有の事情だ」などという"誤解"を許さないほど、本作は恐ろしい普遍性をも獲得している。ここで描かれている社会の醜く残酷な有様を、コロナ禍を経た私たちの誰が「他人事」として片付けられるというのだろうか。

そうしたどの社会にもある残酷さ、そして誰の心にもある傲慢さを穿つかのように、本作で最も深く心を打つシーンが終盤に用意されている。飛行機に乗る絶体絶命の人々が、とある悲壮な「覚悟」を決め、泣きながら地上の家族に連絡する場面だ。これを「自己犠牲の美化」として批判する声もあるようだが、その見方は正しくないと私は思う。

この場面は、「大勢のためには少数が犠牲になるのも仕方ない」という意見をもつ劇中の市民たち、そして「それも一理あるのかも…?」という方向に心が少し動いてしまった観客たちに対して、「あんたらが簡単に口にする"仕方ない犠牲"って、マジで意味わかってる? こういうことだからね?」と作り手が、まっとうな怒りをもって改めて突きつけた場面だと私は受け止めた。乗客たちの高潔な判断に感動することも当然できるが、それ以上に「こんなことが正しいと本当に思うか?」と、今だからこそ問い直したのだと思う。「犠牲」をただの数字ではなく、「顔の見える人間」として描くことのできる映画ならではのやり方で、本作は世の中の悪しき思考停止に抗っているのだろう。

 

ところで「コロナ禍以降の嫌なリアリティ」と「命に線を引くことの恐ろしさ」に光を当てる手腕といえば、パンデミック以降の娯楽大作という点で、ドラマ版『THE LAST OF US』に今とても注目しているのだが…

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それよりも一足はやく、韓国映画からも『非常宣言』が出てきたので、素直にさすがっすね〜と思わざるをえない。HBOにちょっと勝ってるじゃん韓国エンタメ(勝ち負けじゃないけど)

 

そんなわけで『非常宣言』、面白かったし感銘も受けたのだが、あえて気になったところにも触れておく。まず、恐るべき殺人ウイルスのルールが微妙に不明確で、接触感染なのか空気感染なのかとか(ネズミの場面で少し示されてはいたが)ちょっとわかりづらい。せっかくコロナ後の感染ものなのだから、この辺りのリアリティ描写にはもう少し期待してしまう。感染した人も死んだり死ななかったりするのでので、サスペンス的な盛り上がりを少し損なっていた感じもする。

さらに、夫婦の絆であるとか、父と娘の親子関係であるとか、家族規範的な描写によってエモさをブーストする手法がやや過剰かな…というのは感じた。これは韓国映画の大衆エンタメに総じてけっこう感じる部分だが…(まぁ日本映画も似たようなもんなのであまり強く言えない)。ただこうした保守的な「ベタさ」が、先述した終盤の感動的なシーンを強化していた部分もあるので、一長一短ではある。

また、二大男性スターの共演作なので尺的にも仕方ない面もあるが、事件の解決に挑むメインの女性キャラがいないのも少々物足りない。せっかくお医者さん(だよね?)の女性もいたのだから、たとえば彼女がウイルスの謎を解き、先述した「ルール」をより明快にする、などの作劇上の役割をもたせても良かった気がする。

こうした点は、むしろ同じ韓国の航空パニック映画『ノンストップ』の方が、ずっと風通しの良さを感じさせてくれた(こっちは純然たるコメディだが…)。

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ちなみに『ノンストップ』も大好きな映画なので、年間ベストにも選んだ。

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『ノンストップ』はちょっとした不意打ちがあるので、ポスターも予告も見ずに全然なにも知らず観た方が楽しめると思う。深いテーマ性とかはないが、こんな誰が観ても「楽しかったわ〜」で終われる気持ちのいい快作も珍しいので、ぜひおうちで気軽に観てほしい。

超ちなみに、『非常宣言』で副操縦士ヒョンスを演じていたキム・ナムギルは『ノンストップ』にも登場するわけだが、なんつー役回りだよという死ぬほど雑な扱いで逆に美味しい。決して見逃さぬように…。