沼の見える街

ぬまがさワタリのブログです。すてきな生きもの&映画とかカルチャー。

そして列車は"時"を運ぶ。『エンドロールのつづき』感想&レビュー(ネタバレあり)

いまインド映画がアツいことに異議を唱える映画ファンはいないだろう。『バーフバリ』旋風を起こしたS.S.ラージャマウリ監督の最新作『RRR』は日本でも絶賛ヒット中なだけでなく、欧米でも大ヒットして映画業界人の話題を集めているという。私も思う存分ことあるごとに語りまくっているので、ここでは『RRR』の話は繰り返さない。観てない人は今すぐ観たほうがいい。まじで。

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だが…いまアツいインド映画は『RRR』だけではない。最近日本で公開された作品に限っても、そのテーマ性も表現手法も実に多様で、インド映画の懐の広さに驚かされるばかりだ。たとえば、食という普遍的な営みを通じて、女性が晒される性差別の現実を鋭くえぐり出した『グレート・インディアン・キッチン』昨年のベスト10にも選んだ)。インド社会の教育格差の壁に教師と生徒が熱く立ち向かう『スーパー30 アーナンド先生の教室』。どちらも高度な問題意識を、巧みにエンタメの形に昇華させた秀逸な映画である。「インドの問題」という枠にとらわれない普遍性のあるテーマ設定になっているため、日本の観客が観ても確実に刺さるはずだ。

そして『RRR』の興奮冷めやらぬ…というか明らかに加熱している2023年早々、またしても素敵なインド映画が公開された。ド派手で激アツで常に何かしらの物体や感情が爆発してるような『RRR』とは正反対の、静謐で穏やかなトーンで描かれるインド映画…それが『エンドロールのつづき』である。

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【ざっくりあらすじ】

主人公は、インドの田舎町で暮らす9歳の少年サマイ。父のチャイ店を手伝っている日々の中、家族で街に映画を観に行くことになる。人の賑わいに満ちた映画館の熱気や、スクリーンを照らす光の美しさにすっかり心奪われたサマイ。「映画なんて低劣なものだ」と映画に冷淡な父親には内緒で、その後もサマイはこっそり映画館に通うことになり、いつしか映画という「光の芸術」にのめりこんでいく…。

 

【世にも映画的だが、あまりに現実的な乗り物】

列車はこの世で最も「映画的」な乗り物と言っていい。リュミエール兄弟が1896年に公開した、1分に満たない白黒映画『ラ・シオタ駅への列車の到着』は、映画など観たこともなかった観客を大いに驚かせた、「世界最初の映画」の1つとして名高い。(本作序盤、サマイ一家が映画を観た帰りに白黒で列車が写しだされるシーンはこの『ラ・シオタ駅〜』オマージュとのことだ。)

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その後もアクション映画から文芸映画まで、あらゆる映画に数え切れないほどの列車が登場し、その「映画的な美しさ」や「映画的な興奮」によってスクリーンを彩ってきた。列車は映画にとって特別な存在なのだ。

しかし、そんな映画の夢を象徴するような「列車」も、貧しい生活を送る大勢の人々にとっては、シビアな現実生活の一場面でしかない。本作の主人公・サマイもその「大勢」の1人だ。列車の動きや線路の構図、そして世界に満ちる光に「美」を感じ取る鋭敏なセンスをもつサマイは、明らかに映画の才能を持っているのだが、彼を取り巻く現実は厳しい。映画という「夢」の象徴であるはずの列車が停止した時、サマイにできるのはその周りで乗客にチャイを売り、小銭を稼ぐことくらいだ。そんな貧しい暮らしぶりでは、列車の出てくる映画を観ることさえも簡単にはできないし、列車を映して映画を撮るなんて、まさに「夢のまた夢」だ。

 

【"光の芸術"をDIY!】

だがまるで映画そのものを端的に表すような、「時」を意味する名前をもつサマイは、現実の厳しさの前に「夢のまた夢」を諦めたりはしない。心を強烈に惹かれる映画を観るために、店の売上をくすねてでも、小さな町のオンボロ映画館に通い始める。どんどん映画の面白さ・美しさにのめり込んでいくサマイだが、そこはしょせん子ども…。お金がいつも手に入るわけではなく、無賃鑑賞がバレて劇場をつまみ出されたり、映画ファン活動も簡単にはいかない。

そこに現れた「救世主」が、映画館で働く映写機係のファザル。お母さんの手作りランチと引き換えに、映写機室から映画を観てもいいという約束をゲットする。サマイとファザル、年の離れた2人の「映画好き」が形作る共犯関係のような、奇妙な友情の描写が楽しい。

2人の交流の中で、「光の芸術」である映画の根幹を形作る「フィルム」の仕組みが説明されていくのも、映画ファン的に面白いシーンである。サマイは「フィルムが動いている時はライトが消え、止まったときだけライトが光る」ことで、人間の脳を騙すかのように「動く映像」をスクリーンに出現させるということを教わるのだ。この映画の観客も、つい劇中のサマイと一緒に、まばたきを繰り返してしまったことだろう。

ファザルとの交流を経て、映画のメカニズムに関する知識を得たサマイは、仲間たちと一緒にお手製の「映写機」をDIY(Do It Yourself)して、自分たちで映画を上映しようと挑戦する。フィルムを盗み出すという、決して褒められたものではない所業に手を染めつつではあるが、非常に貧しい暮らしを送っている子どもたちにとっては、それが唯一の「映画」にふれる手段でもあった。素人なりのトライアル&エラーを繰り返しながら、自分たちだけのやり方で「正解」へと近づいていくプロセスは、間違いなく本作で最も心躍る場面だ。

そしていよいよ映写機が完成した後、村外れの廃墟を小さな「映画館」に作り変え、インドの伝統衣装サリーをスクリーン代わりにして、(盗んだフィルムを勝手に組み合わせつつではあるが)お手製の「映画」を上映する場面の幸福感は忘れがたい。フィルムのみなので音はなく映像だけの「上映」なのだが、楽器がわりの日用品を活かして「音響効果」も自分たちで作り出したり、観客に風を感じてもらうために息を吹きかける様は、まるで4DXだな…と微笑ましい。

この「小さな映画館」の場面は、まずはなんといっても「エンターテインメント」である映画の本質を垣間見るようでもあった。こんなアナログ感に満ちた楽しいシーンがあるからこそ、その後の急転直下の衝撃も際立つわけだが…。

 

ーーー以下ネタバレ注意ーーー

 

【「映画の映画」の地獄めぐり】

「映画にまつわる映画」「映画を撮る映画」は珍しくないどころか、完全に一大ジャンルと化している(日本でも『カメラを止めるな!』なんて代表例だし、最近も『サマーフィルムにのって』など秀作がありましたね)。 だが本作『エンドロールのつづき』が興味深い点は、物語や演技などの「ソフト」面よりも、フィルムや映写機のような「ハード」面を強調するという、映画に対する一風変わった間接的なアプローチを取りながら、かえって映画の本質に強く"光を当てて"いることだ。

そして本作が、映画のハード面に着目した「映画の映画」だからこそ、本作のもうひとつのクライマックスとなる、終盤の「地獄めぐり」が鮮烈に観客の心を刺してくるのだ。

そのきっかけは、サマイを「育てて」くれた町の映画館・ギャラクシー座に、デジタル化の波が押し寄せ、フィルムが用無しになってしまったという悲しい事態だ。気のいいアナログ映画あんちゃん・ファザルもクビである。まだ見ぬ「物語」であるフィルムや、それを上映するために欠かせない映写機は、ガラクタのようにトラックに詰め込まれ、どこかへ運ばれていってしまう…。そのトラックを(皮肉にも「映画的」なカーチェイスのように)サマイたちは追いかけ、リサイクル工場にたどり着くのだが、そこで目にした光景は、言葉を失うようなものだった…。

「映写機やフィルムがどのようなメカニズムで映画を映し出しているか」を、この映画を通じて私達観客もサマイと一緒に学んできた。だからこそ、そんな映写機やフィルムが単なる金属の塊として分解され、溶解され、再整形され、まさかのスプーンやアクセサリーに生まれ変わってしまうという一連の光景は、まさに「地獄めぐり」である。「万物流転」「諸行無常」といった四文字熟語が浮かぶ、圧倒的な虚しさと哀しさにあふれていた。

これまでの不屈の精神っぷりから考えても、てっきりサマイたちが「その映写機やフィルムはゴミじゃない、大切なものなんだ!返してくれ!」と懇願したり、工場から盗み出したりする展開になるのかな?と思っていたのだが、そうはならなかったことも意表を突かれた。

工場のシークエンスでは一切セリフがなくなるので、サマイが具体的に何を感じていたのかは観客の想像に委ねられる。カメラはただ、淡々と続くリサイクル工場のプロセスと、かつて「映画」そのものであった機材が別のものに流転していく姿を映し出していく。馴染み深いフィルムの時代が幕を閉じ、映画の次の時代が容赦なく始まっていく時の流れを、これ以上なく直接的な形で提示するかのように…。

この光景を見て、果たしてサマイは何を感じたのだろうか。予想を超えた事態に面食らい、何も手を出せず呆然としていたのだろうか。それとも、むしろ"死にゆく"映写機やフィルムの行く末をしっかり見届けようと熱い決意を固めたのだろうか。あるいは、サマイ(=時)の名を体現するかのように、人間にはどうしようもない"時"の流れを、せめてフィルムのように瞳に焼き付けておこう…と透徹した思いを抱いたのだろうか。

 

【そして列車は"時"(サマイ)を運ぶ】

思い入れのある映写機やフィルムが、全く別のものに生まれ変わってしまう、残酷だが荘厳な光景…。それを見届けて帰路についたサマイは、落ち込んでしまうどころか、むしろ映画の世界に本格的に関わっていきたい…という決意を固めたようだ。

映画のラスト、彼は「映画をつくる」という夢を叶えるため、家族の理解を経て故郷に別れを告げる。「映画をつくりたい」というサマイの想いが「光の勉強がしたい」「光を知りたい」という言葉によって表されるのも、映画の「光の芸術」としての側面を捉えてきた本作らしいポイントだ。

そして「映画になりたい」とまで言っていた、映画の世界に深い思い入れをもつサマイを、まだ見ぬ未来に向かって運んでいくのが、「この世で最も映画的な乗り物」列車である…という結末は美しい。かつて眺めるしかなかった列車が象徴する、夢見るしかなかった映画の世界に、自分なりのやり方でトライ&エラーを繰り返しながら踏み込んでいき、自分だけのやり方で「光を捕まえる」ことで、サマイはついに「列車に乗り込む」ことができたのだ。

同じ列車に乗っていた女性たちが身につける、インド特有の七色のアクセサリーに生まれ変わったフィルムたちも、サマイの出発を優しく見守っているかのようだ。止められない時の流れの中で、物体としての形をなくしてしまった映画たちは、きっとサマイのことを、そして映画に関わる大勢の人を、これからも励まし続けるのだろう。

菌も金もやばい。ドラマ『THE LAST OF US』第2話感想(ネタバレあり)

HBOドラマ版『THE LAST OF US』、1話に続いて2話もめちゃ面白かった〜。好きなコンテンツの実写映像化でこれほどテンション上がること自体かなり珍しい、なんなら人生初かも…?くらいあるので、前回に引き続き感想を書いていく。毎週やるかは気分次第。

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前回の感想はこちら

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ちなみに今回の第2話“Infected(感染者)”は、原作ゲームのクリエイターであるニール・ドラックマンが監督を務める回という意味でもかなり重要である。

 

ーーーネタバレ注意ーーー

 

【わくわく菌類ドラマとしてさらなる高みへ】

2話の開幕早々、舞台は驚きのインドネシアへ。ゲームの『THE LAST OF US』は、基本的に「ジョエルの視点」で統一されているため、舞台となるアメリカから離れた視点もほぼ全く挟まらないこともあり、アメリカ以外の「ラスアス菌」パニック(の前兆)の様子が描かれるだけでもかなり新鮮である。

軍に呼び出された菌類学者の中高年女性が、謎の菌類に乗っ取られたと思しき人間の死体を観察する(もう皆あっさり流してそうだけど、この役回りの人が女性なのやっぱイイよなと思う)。感染者の口から菌糸がモゾモゾ出てくるのはドラマ版のオリジナルな設定だと思うが、ビジュアル的におぞまし怖いし、この菌が「生きもの」であることがゲームよりも強調される形になっているのも興味深い。

そしてこの菌類のヤバさを目の当たりにした専門家が、軍のエライ人に「結局どうすればいいんだ?」と問われて告げる、「爆撃しなさい(Bomb)」という言葉の衝撃。「ワクチンも治療法もない、爆撃して皆殺しにするしかない」という宣告の絶望感に凍りつくエライ人…。「ウイルスならまだワクチンもできるけど、真に凶悪な"菌類"が感染を広げ始めたら、人間にはなす術もない…」ということなのか。

1話冒頭のTV番組もだが、「何かとんでもなくヤバいことが起こる前の静かな不穏さ」とか「事態がヤバすぎることを専門家だけが気づいている絶望感」のような嫌な表現が、このドラマはかなり巧みだ。まさにそういうドラマの大傑作『チェルノブイリ』のクリエイターであるクレイグ・メイジンが関わっていることも、この雰囲気作りに大いに貢献しているのだろう…。ちなみに『チェルノブイリ』もU-NEXTで見られる。

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緊張感にあふれた素晴らしい冒頭だったが、一点だけ気になったのが、現在進行で新型コロナに結びつけたヘイトにアジア系が晒されていることを考えると、これでもし東南アジアが「ラスアス菌」の発生源ってことにされてたら(フィクションとはいえ)イヤだな…とは見ながら思った。ただ、そういうことでもないっぽいので少し安心。結局ゲームでもまだラスアス菌の源泉って描かれてないと記憶してるけど、ドラマではそこも深掘りしていくのかな。

 

さっきも言ったようにドラマ版『THE LAST OF US』では、人類を滅ぼしつつある脅威がウイルスや呪いではなく、「菌」であることの必然性と、だからこその恐ろしさが原作ゲームよりも強調されている。

たとえば今回、最も鮮烈だったショットは、建物のバルコニーから、遠くの地面に寝そべる大量の感染者たちを眺めるシーン。それらがマスゲームのように、各個体が動きをあわせてゴロゴロしていく姿が、まるで「蛆虫」のような動きで、まったくイヤなことを考えるなぁ…と一瞬思ったのだが、実はそれは感染者たちの「生態」を表していることがわかる。

つまり感染者たちはバラバラのゾンビというよりは、集団で一つの「生きもの」を形作るような生態をしている。地中では物理的に張り巡らされた「菌糸」で互いに繋がっていて、独特のコミュニケーションを取っていて、遠く離れていても菌を踏んづけたりしたら察知して駆けつけてくる、という油断ならなさもある。逆に、だからこそ炎が弱点というのも現実味があるわけだが。

ゾンビと言えば基本的にはウイルス由来の設定が多いと思うけど、ウイルスという「生物か非生物か微妙」な存在ではなく、菌というハッキリと「生きもの」である存在だからこその怖さを描こうという意志を明確に感じるし、「わくわく菌類ドラマとしてやっていくぞ」という気概がある(?)ので、生き物好きとしてもやはり目が離せないことになりそうだ。個人的にも今「菌」に興味あるし…↓

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そんな恐怖のわくわく菌類ドラマを象徴するような恐怖キャラとして今回、満を持して登場したのが、みんな大好き「クリッカー」だ。

Twitterでハッシュタグつけてタイトルをつぶやくとクリッカーの絵文字が出るよ↓

本作を象徴する敵キャラであるクリッカーの初登場は、とても重要なだけあって、緊迫感のある秀逸なシークエンスになっていた。菌糸だらけの博物館に入った直後、何者かに殺された死体を見つけるわけだが、普通の感染者とは明らかに違う力で惨殺されている…。「まさか"ヤツ"がいるのか…」と不穏な空気を出すジョエルとテス。「ここからは"静かに"じゃなくて"音を出すな"」というジョエルの警告も緊張感を高める。そして奥へと進むにつれて、静まり返った空間についに鳴り響く「ココココ…」というあの独特の"クリック音"。キノコ化が進んで強化された"感染者"・クリッカーの登場である! 一連の流れが丁寧かつ周到だったこともあり、その満を持した出現には恐怖と同時に「待ってました〜!」とテンション上がった。

クリッカーは頭の上半分がキノコ化していることもあり、視覚は失っているのだが、そのかわり非常に優れた聴覚をもっている。特有のクリック音は(イルカやコウモリなどのように)その反響で周囲の状況や、獲物の位置を察知する目的があるのだろう。さらに、キノコ化した頭が(メンフクロウのように)ある種のパラボラアンテナのような役割を果たすことで、外界の小さな音でも決して聞き逃さない能力を持っていると思われる。原作ゲームでもクリッカーに捕まった場合は(通常の感染者と違って)一撃ゲームオーバーとなる攻撃力があるだけでなく、なかなか死なないタフな生命力まで持っており、ロクな武器もない序盤では非常に厄介な敵として印象的だった。

遭遇から始まるvsクリッカーのゾンビバトルも、近年のゾンビものの中でも屈指の緊張感が充満しているとともに、ゲームプレイ的な臨場感さえも感じさせる(ついスティックをゆっくり倒したりボタンを連打したくなってしまう…)、大変クオリティの高い出来栄えでゲームファンとしても満足だ。この辺りはさすがニール・ドラックマンが監督してるだけある、と言うべき力の入り方だった。

ところで今回、前半のエリーとジョエルたちの雑談の中で話題に出たクリッカーがいきなり登場したわけだが、もうひとつ話題に出た「胞子を飛ばしてくるヤツ」であるブローターも間違いなくドラマで描かれるはずなので、今から楽しみである。急に飛び道具を使うので初見では「ふざけんなや」と思ったものだ…。

 

【菌もヤバいけど金のかけ方もヤバい】

1話に続いての称賛だが、やはり美術が圧倒的に素晴らしく、なんて美しいドラマなんだ…とため息が出てしまう。実際この「美しさ」こそは、原作ゲームの最大の特徴でもあった。すでにPS5版にリマスターされた超美麗グラフィックなバージョンも出ているようだが(私は未プレイ)、元のPS3版の時点でもハッキリと「美しいゲームだ」と感じさせたので、グラフィックの質が云々というよりは、ロケーションの構築や、世界の切り取り方にこそ本作の「美」の真髄があるんだと思う。現に「ゲームの中のあの場所が妙に心に焼き付いて離れない」という場面を、本作をプレイした人には沢山思いつくはずだ。そうした美意識の賜物として(ホラー要素が強いにもかかわらず)ゲーム史上でも稀に見る美しい作品が生まれたのは間違いない。

そんなゲームの美学を、実写ドラマがここまで巧みに再現してくるとは、やはり想像以上と言わざるを得ない。確かに、細かく見るとゲームから削ったり変えたりしてるところも少なくない。倒壊ビルに全く入らなかったとか、議事堂手前の印象的な水場が省略されているとか、その他諸々。しかし本作がゲームと違いプレイ不可のドラマである以上、特にアクション面はゲームをそのままなぞってもダレるだけだし、むしろいくつかの要素を統合した結果、より鮮烈なイメージを観る者に与える場面が出来上がっていたと思う。

とりわけ今回は、水没したホテルのロビーの場面が素晴らしかった。崩壊した文明の物悲しさと美しさ、エリーの子どもらしい性格描写、びっくり描写と、限定空間を利用して起きる短いシークエンスの中で、様々なものが表現されている。ピアノの鍵盤にカエルが乗って音を奏でるショットも、ちょっとしたユーモアがあって素敵だ。

それにしても、この短いシーンのためだけに、ここまで凝ったセットを作り上げるとは、なんつー金のかかったドラマだ…と思わざるを得ない。HBOドラマの本領発揮というべきか、各話の制作費が10億円とかいう、ちょっと桁違いの金をかけているだけのことはあり、ほぼ全てのシーンが「こんなに贅沢で大丈夫なのか」と心配になるようなリッチな画作りをしている。同じくHBOの『ゲーム・オブ・スローンズ』とはまた違った意味での金のかけっぷりを感じさせる豪奢な作りだ。もちろん、制作費をかけたわりにはなんかショボイみたいなことも映像業界には多いので、あくまで優秀なクリエイターが正しい金の使い方をすればこうなる、という話なんだろうが…。なんにせよ、もはや物語云々というか、ゲームのあの場所をどう再構築するのかを見るためだけでも、毎週楽しみになってくる。

 

 

ーーーさらにネタバレ注意ーーー

 

【ザ・ラスト・オブ・テス】

2話を締めくくるのが、テスの哀しき最期である…。ゲームとほぼ同じ展開なので驚きはないとはいえ、アナ・トーヴさん演じるタフで実在感あふれるテスが、たった2話でめちゃ好きなキャラになっていただけに、話を知っているにもかかわらず普通に退場が悲しい。はあ……。ここで彼女が生き残っていたら、『THE LAST OF US』はまた違う物語になっていたんだろうか。だが最後まで自分の良心を貫き、大きな希望を誰かに託しながら逝けたという点で、マジで容赦なく人が死んでいく『THE LAST OF US』世界の中ではかなり幸福な部類の最期とも言える。

前回の感想でも書いたが、テスのキャラクターの再造形のハマりっぷりを見るだけで、本作の実写リメイクの意義深さを感じ取れるレベルだったし、もはや(ゲームのテスにも深い思い入れがあるにもかかわらず)こっちのドラマ版のテスでゲームの方もプレイしたくなってくるほどだ。ドラマの人気が高まれば、未来では「実写版のキャラ造形でプレイ」設定もできるようになったりして。

ところでゲームではテスの最期はハッキリと描かれることはなく、敵の軍勢に取り囲まれた後に銃声が鳴り響くことで間接的に死が表現されていたが、ドラマ版のテスの散り際はけっこう違っていたので意表を突かれた。まず(話をシンプルにするためもあるだろうが)人間ではなく感染者たちを食い止める流れになっている。

さらに、感染者になりかかっているテスに、別の感染者が口移しで「菌糸」を伸ばしてくるという、かなりおぞましい絵面の場面が追加されている。わりと性的な暴力性も感じさせる変更点なこともあり、もしかすると賛否あるかもしれないが、これによって直後の爆発がより大きなカタルシスを生んでいて、彼女の最期が一層インパクトの強いものになっていたと思う。また感染者を操る「菌」がもつ、先述した「生きもの」的なキモさというか、生理的にイヤ〜な感触を強調するという意味でも上手いと思った。

 

原作ゲームでも、こうしてテスが退場するまでが長い「序章」というか「チュートリアル」であり、ここから人類の命運を賭けたジョエル&エリーの2人の旅がいよいよ幕を開ける。序章の時点ですでに素晴らしいと言わざるを得ないドラマ版だが、「本番」に突入し、さらにヒートアップしていくのが楽しみだ。「わくわく菌類ドラマ」としての掘り下げからも目が離せない。U-NEXT独占配信だけどドラマ好きはぜひ見よう↓

『THE LAST OF US』U-NEXTで視聴

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読んだ本の感想まとめ(2023年1/16〜1/22)

今年の「摂取したコンテンツなるべく全部メモする」チャレンジの一環としての読んだ本まとめ記事です。おもにTwitterまとめ+アルファ。

 

<今回読んだ本>

『シチリアを征服したクマ王国の物語』ディーノ・ブッツァーティ
『成長戦略としての「新しい再エネ」 (SDGs時代の環境問題最前線)』山口 豊
『特別展「毒」公式図録』
『布団の中から蜂起せよ: アナーカ・フェミニズムのための断章』高島 鈴
『女性の世界地図: 女たちの経験・現在地・これから』ジョニー・シーガー
『30年にわたる観察で明らかにされたオオカミたちの本当の生活 パイプストーン一家の興亡』ギュンター・ブロッホ

 

前回↓

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『シチリアを征服したクマ王国の物語』ディーノ・ブッツァーティ

アニメ映画『シチリアを征服したクマ王国の物語』が、昨年のベストに選ぶくらい素晴らしい出来栄えだったこともあり…

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ブッツァーティの原作『シチリアを征服したクマ王国の物語』を改めて読んだ。かわいくて恐ろしくて楽しくて、やがて哀しきクマたちの大冒険。名作として語り継がれるのもよくわかる、獰猛で自由な想像力に満ちた童話であった。

本書で特筆すべきは、ブッツァーティが自分で描いてる挿絵の数々がマジで良いんですよね。棒人間みたいにシンプルなクマがほんとかわいいし、それでいて絵を見るとけっこうひどいことが起こってるという、童話らしくさりげない残酷性もいい。デ・キリコとかのイタリア形而上絵画をも想起させる、不気味な夢のような実在感があるのも素敵。ブッツァーティ、もしも小説がウケてなかったら絵本作家とかになってたのかな。

ブッツァーティの絵心は『絵物語』(https://amzn.to/3JnKTOr)とかでも堪能できるから要チェック。

雰囲気こそかわいらしいけど『シチリアを征服したクマ王国の物語』は、人とクマという異なる種族が対立し、融和し、結局また断絶する…という凄いドライな話とも言える。それはどこか、現実のシチリアという島の歴史の写し鏡のようにも思えてくる。昔から対外的に色んな国に侵略されたり、分裂したりしてきたシチリアの、悲しい歴史が凝縮されたようなストーリーにも感じられるのだ。それでも、いやだからこそ、『シチリアを征服したクマ王国の物語』のラストはしんみりした感動を与えてくれる。人とクマの別れの場面で鳴り響く、人の子らとクマの子らがそれぞれ歌う悲しい歌は、確かに存在した両者の繋がりと、仄かな希望を語っているようにも思える。そういう悲哀と光明のバランスも、まさに名作だなと思う。

そして原作をちゃんと読んだ後にアニメ映画の『シチリアを征服したクマ王国の物語』を振り返ると、かなり原作に忠実に作りつつ、一点メタな構造を取り入れることで現代の作品としてバランスも取ってて、改めて優れたアニメ化だったな〜と感銘を受ける。配信レンタルもきてるので、海外アニメ好きは確実に観る価値あり。

amzn.to

アニメ『シチリアを征服したクマ王国の物語』を見た時「まぁシチリアにこんなすごい山は全然ないけどな…(ブッツァーティが住む北イタリアならともかく)」と思ったんだけど、原作小説の開始1ページめに「こんな山は今はないが、山がなくなるほど大昔のことだった…」みたいなことが書いてあって、作家の力技を感じた。

さらに余談だが『シチリアを征服したクマ王国の物語』、支配者側の人間に子グマがさらわれてしまい、取り返すためにクマたちが団結して猛攻をかける…というstoRRRyなので、脳内でこの曲が流れてしまうのだった。なにをみても『RRR』のことを考えてしまう…

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購入『シチリアを征服したクマ王国の物語』

 

『成長戦略としての「新しい再エネ」 (SDGs時代の環境問題最前線)』山口 豊

現代の動物好きとしては環境問題に着目せざるをえず、そのためには再生可能エネルギーにも着目せざるをえないので近年は色々な関連書籍を読み漁ってるが、今回は日本の再エネ分野での挑戦を説明した 『成長戦略としての「新しい再エネ」』を読んだ。

どう考えても今後の世界の鍵を握るであろう再生エネルギー分野で、日本はいっけん遅れをとっているようだが、実は破格のポテンシャルがあるぞ、全然まだまだやれるぞ…と証明していくという、基本的には元気の出る内容となっている。

ただし、新しい試みも各地でちゃんとやってるのだが、それが社会システム全体にうまく結びつかないんだよね〜、そしてそれこそが(再エネに限らない)日本の停滞の根本的な理由なんだよね〜〜〜…という、だいぶ身につまされる問題提起もあぶり出されるという、一筋縄ではいかない本であった。BBCでこんな記事↓も出たばかりだし…

www.bbc.com

たとえば、軽くて薄い次世代太陽電池として世界的にも高評価されている「ペロブスカイト太陽電池」は実は日本生まれで、国内原料調達も容易なのだが、国が研究支援を渋ってるうちに英・中その他に製品開発で差をつけられちゃった話とか、「あちゃー」という感じのエピソードも載っている。そしてそれは再エネに限らず、まさに日本の諸分野で起こってることのように思える…。

時事ネタとしては、ウクライナ危機以降に改めて浮き彫りになった再エネの重要性にも光を当てていく。化石燃料に国として頼り続けることの大きなリスクは、やはり近年改めて思い知ったという人も沢山いるんじゃないかと思う。そもそもウクライナ侵攻の勃発自体が再エネシフトの潮流と切り離せないのだ、という本書でも語られているロジックも本当そうだよなと思うし。色んな意味でターニングポイントな時代なので、まずはこうした本を考える契機にするのが良いと思う。

なんにせよ『成長戦略としての「新しい再エネ」』、今後の日本を考える上で、希望と焦燥を感じさせる1冊でした(希望も焦燥も、どちらも必要になりそう)。

購入→『成長戦略としての「新しい再エネ」』

 

『特別展「毒」公式図録』

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本というか特別展↑の図録だけど、とても読み応えがあった。

図版だけでなくコラムも充実で、たとえば「毒をもつ哺乳類」のコラム読んで「おもしれ〜〜」となったり。有毒の哺乳類ってめちゃ珍しいんだけど、いずれの種も全く異なる4つのグループに分散していて、毒の成り立ちや毒腺の構造も多岐にわたる。つまり「毒は哺乳類の進化のなかで4回独立に進化した」というわけ。こういう話を聞くと、毒って本当なんなんだろうね…と思えてくる。

全く異なる系統なのに一種の収斂進化のように毒を獲得した、レアな有毒哺乳類たちも面白いけど、さらにレアと思われる有毒の鳥類は、なぜか(このズグロモリモズを含む)複数種がパプアニューギニアに集中して生息しているというのもかなり面白いわ…。

そういえば先日『コーヒーの科学』読んで、カフェインの由来から「植物と毒の進化」について考えたばかりだったな。毒という色んな意味で「強い」ファクターが起点となって、進化の流れがパズルのように組み替わっていく点で、毒は生物全体の進化を考える上で重要なのよな…。

生物ネタにとどまらず「毒と人類の歩み」とか人文的考察も読み応えあった。「毒とフィクション」というコラムでは、現代エンタメにおける毒使いのキャラとしてジョジョ5部のチョコラータが挙げられててマニアックで笑った(フーゴじゃないんだ…と思ったが直後に出てきた)。バトル漫画とかエンタメにおける毒使いといえば敵役が多かったが、最近は最初から味方なことも多く(『鬼滅の刃』のしのぶさんとか)毒好きとしても時代の変化を感じるとのこと…。

かように多方面からの「毒」考察が面白くて、根本的に「毒とは何か」を考察する本という括りでも、現時点での決定版では?と感じるクオリティ。購入は今のとこ会場限定みたいだが、東京これない人のために通販もやってくれるといいな。

購入→グッズ・図録 | 特別展「毒」 <オフィシャルHP>


『布団の中から蜂起せよ: アナーカ・フェミニズムのための断章』高島 鈴

「紀伊國屋じんぶん大賞」1位を獲ったりと、今注目の人文書『布団の中から蜂起せよ』も読んだ。「革命」というと、立ち上がって武器をとって権力に立ち向かったり、バスティーユ刑務所を襲撃したりするようなアクティブな行動のイメージが強いかもしれない。布団の中でウダウダしてるだけなんて、「革命」には最も程遠い態度だ…と普通は思うだろう。だが本書『布団の中から蜂起せよ』は、「布団の中で」ただ生き延び、虚無に満ちた日々をやりすごすこともまた、弱者を抑圧する社会への反抗であり、いつか革命にも繋がりうる、れっきとした「蜂起」である…と、著者自身のパーソナルな経験や苦しみも織り交ぜながら説いていく挑戦的な1冊だ。

この歪んだ自己責任論に満ちた、資本主義的な「生産性」ばかりが重視される社会では、日々を無為に過ごすことはほとんど「罪」でもある。ゆえに、実際には社会の側にいくら歪みがあったとしても、そこにうまく参加したり順応したり"活躍"したりできない「布団の中」の人々には、「おまえが悪いのだ」と無言/有言のプレッシャーが日々かけられてしまう。

だが著者は搾取的・差別的な体制や権力システムを根本的に疑い、批判していくアナーカ・フェミニストとしての立場から、そんな抑圧にNOを突きつけていく。家父長制や天皇制や資本主義へのラジカルな批判に対して、必ずしもすんなり同意する読者ばかりではないかもしれない。しかし「今日も何もできなかった…」と"布団の中で"自分自身を責めてしまう人が、本書を読むことで「本当に自分が悪いのか?」と別の視点を持ち、苦しい今日を生き延びる力をもらえる本であることは間違いない。そしてそんな個々の変化はいっけん小さくても、もしかしたら大きな波を引き起こすかもしれない。それは確かに、「革命」の名に値する変化であるはずだ。

『布団の中から蜂起せよ』はエッセイ的な論考と織り交ぜて、ポップカルチャーの鋭いレビューも色々載っているのだが、特にゲーム『ナイト・イン・ザ・ウッズ』の(著者の"地元"への複雑な想いも織り交ぜた)読解はとても心打たれた。私も本当に大好きなゲーム…なのだが、制作陣がやらかしたアレコレが辛くて後味悪くて、ちょっと心の片隅に封印していたのだった。だが本書を読んで、久々に遊び直したくなったし、現実の色々な問題はなかったことにできないとはいえ、素晴らしいゲームだったな…と再実感した。半額セール中なので遊んでみてほしい…↓

t.co

それと私もめちゃくちゃ大好きな『ピエタとトランジ』の熱いレビューもあって嬉しくなった(『マイ・ブロークン・マリコ』と並べて語るの、なるほどな…と)。危険な女性探偵コンビ(?)の生涯を若いときから老年期まで描く小説で、ものすごい軽さで人がいっぱい死ぬけど最高の作品。こっちもみんな読んでほしい。

あと完全たまたまだけど『布団の中から蜂起せよ』と同時に『蜂と蟻に刺されてみた―「痛さ」からわかった毒針昆虫のヒミツ』を読み返していたので、タイトルに「蜂」が入ってる全然ちがう分野の本2冊を同時に読んでいるという珍しい事態になった。というか「蜂起」に蜂の字が入っているの少し興味深いよね。蜂起=「蜂のように起つ」…。昔の人は、蜂の小ささとその怒りの激しさに、抑圧に対して立ち上がる一般市民の姿を重ねたということなのか。やっぱこれからはハチが熱いな(?)

購入→『布団の中から蜂起せよ』

 

『女性の世界地図: 女たちの経験・現在地・これから』ジョニー・シーガー

www.akashi.co.jp

フェミニズム繋がり…というわけではないが、『女性の世界地図: 女たちの経験・現在地・これから』もインパクトのある有意義な本だった。

ジェンダー・ギャップ指数ランキングで日本は153ヵ国中「121位」とヤバイくらい低いだとか、特に経済や政治分野でのジェンダー平等への取り組みが(先進国どころか)世界的にみても遅れている…といったことは近年よく耳にするようになったし、日本で生きる人にとっても実感できる事実なんじゃないかと思う。

ただし、そうした社会の歪みが、日本固有のものなのかと言えば(むしろそうなら良かったかもだが)そうではない。女性が晒されている不平等は、日本も含めた全世界が向き合い、解決すべき大問題としか言いようがないことが、本書『女性の世界地図』をパラパラ眺めているだけで直感的に理解できるだろう。

本書では、世界の女性にとって「どんな問題が」「どこで」「どの程度」起きているのかが、カラフルな地図や図版を使いながらわかりやすく、しかし赤裸々に暴き出される。たとえばこんな感じ↓

これは「国政における女性議員の割合」を色分けして地図化したデータである(緑色が濃いほど女性の政治進出が遅れている)。政治の領域において、女性の進出がいまだに全くもって不十分であることがパッと見でわかるはずだ。我らが日本の後進っぷりが可視化されてしまい恥ずかしいわけだが、その一方でアメリカとか「先進国」とされる国でもけっこうダメなんだな…という現状が見えたりする。むしろ失礼ながら、イメージ的にはちょっと意外な国で、女性の政治的な進出が進んでいたりする(紫で表現)のも興味深いところだ…。

これはあくまで一例で、数字で表現できる信頼できるデータを引用しながら、他にも「結婚」や「出産」や「暴力」や「教育」にまつわる世界地図がたくさん掲載されている。どのページを見ても「世界的にはこんな感じなのか…」という発見があるという意味で、(あくまで現時点での最新データではあるが)何度も見返せる内容になっていると思う。広大で深刻なジェンダーの問題について、有用なデータを携えて筋道立てて考えるためにも、本書は適切な「地図」(文字通り)になってくれることだろう。

購入→『女性の世界地図: 女たちの経験・現在地・これから』


『30年にわたる観察で明らかにされたオオカミたちの本当の生活 パイプストーン一家の興亡』ギュンター・ブロッホ

オオカミ本に目がなく、見つけるたびに読んでいる私であるが、またも良い本に出会うことが出来た。『30年にわたる観察で明らかにされたオオカミたちの本当の生活 :パイプストーン一家の興亡』である。タイトルは妙に長いが、オオカミへの様々な思い込みを覆してくれる真摯な動物本であった。

2008年〜2009年、カナダ・バンフ国立公園のボウ渓谷に、オオカミの一家が突如として現れた。一家はほかのオオカミを1年で一掃し、その後5年にわたり君臨し続けた。このオオカミ一家の複雑で繊細な暮らしを、オオカミ研究の権威であるギュンター・ブロッホと、野生動物写真家のジョン・E・マリオットらが、忍耐強く観察していく。その結果見えてきたのは、「アルファ雄」「序列」「パック」など、従来のオオカミにまつわる固定観念をひっくり返す生き様だった。

例えば「強いオスが"アルファ"として群れを支配する」など、なんとなく知られているオオカミ生態は、あくまで人間が観察のため囲いに閉じ込めた、非常に特殊な状況の群れの話にすぎないと指摘。開かれた自然では、より多様で複雑だという。「アルファ」から「オメガ」といった、従来の一律的な序列の概念では、オオカミの繊細な社会をとらえきれないのである。

『30年にわたる観察で明らかにされたオオカミたちの本当の生活』で指摘された、人間の都合で狭められた条件で動物を観察し、さらに人間社会のバイアスを当てはめて生態を結論づける…というような、知的怠慢ともいえる態度は、オオカミに限らず色々な領域で起こってるのかもなと思うし、だからこそ常に問い直しが必要になってくる。

さらに『30年にわたる〜』では、観光事業の拡大がもたらしたオオカミたちの生活の変化など、
人間社会や人の行動がオオカミに与える悪影響を批判的に見ていく。シビアな話ではあるが、人間と動物の健全な関係を考える上でも、無視できない大事な内容である。

類書(判型も同じ)としては『オオカミたちの隠された生活』があり、これも読みやすく真摯な現代的オオカミ本でオススメ。

「アルファオス」みたいなオオカミ概念に実は人間側のバイアスがかなり入ってた…という話は『狼の群れはなぜ真剣に遊ぶのか』(これも良い本)でも取り上げられていた。実際の被害以上に膨れ上がった「恐ろしい動物」としてのイメージもまた正確な認識を妨げているんだろうな。

ちなみに『30年にわたる〜』には、拙著『ゆかいないきもの超図鑑』でも描いた「オオカミとカラスの共生」についても言及がある。童話みたいな関係に思えるかもだが、ちゃんとした科学的な裏付けもあるのです。カラスを「オオカミの目」と呼んできた先住民族は正しかったのだ。

Twitterでは他にも色んなオオカミ本を紹介したが、なんか自分でも整理したくなってきたので、そのうち別個にオオカミ本まとめ記事でも作ろうかな。いったんここまで。

購入→『30年にわたる観察で明らかにされたオオカミたちの本当の生活 :パイプストーン一家の興亡』

 

今回はこんな感じ。こういう読書メモ自体は続けたいが、5〜6冊紹介するだけでも8000字超えてしまい地味に大変なので、またちょっとやり方を考えるかもしれない。やっぱ映画みたいに1冊ずつ紹介のほうがいいかな。まぁしばらくは続けてみようかな。気になる本があったらリンクから買ってみてくれたら励みにはなります(amazonアソシエイト入ってるのでオススメした本が買ってもらえると数字でわかるので嬉しいのであった)。おしまい〜〜〜

コロナ後の航空パニック最前線。『非常宣言』感想&レビュー

イ・ビョンホンが空中でがんばり、ソン・ガンホが地上でがんばる。『非常宣言』は韓国のスーパー映画スターが天と地でがんばりながら共演する、たいへんゴージャスな航空パニック映画だ。

面白かったのでブログにもかんたんに感想をまとめておく。ネタバレは一応控えめにしとくけど観てから読むの推奨。

klockworx-asia.com

ハワイへ向かうウキウキ浮かれ気分が一転、バイオテロ地獄へと真っ逆さまに突き落とされる…。そんな最悪フライトへと事態がじわじわ嫌な感じに盛り上がっていく、スリリングな序盤がまずたいへん面白い。

バイオテロを引き起こすテロリスト(イム・シワン)も、すごい線の細いイケメンなのに、空港スタッフへの暴言とか子どもへの絡み方とかがマジでイヤで、テロと一切関係ない部分で異常な気持ち悪さを発揮していて良かった。ここまでのことをする以上、こいつはこいつで大義とかあるのか…?と思ったら……という、予想を下回ってくる感じも良い意味で底が浅くて良い。よくも悪くもその人間性や思想が特に重要になってこないという、こういう密室テロ映画では意外と珍しいキャラ作りかもしれない…。本作が真に刃を突きつけるのは、そんな軽薄な思想のテロリズムよりも、むしろ「私達」の中にこそある何か…ということが後半に明らかになるので、テロリストはその前フリにすぎないんだろうなと。

そして中盤、いよいよ航空パニック映画としての大見せ場となる、落下していく飛行機の中で巻き起こる阿鼻叫喚の地獄絵図もとにかく凄い。ふわあ…と舞い上がる女性の髪の毛の、静かでシュールな絵面から始まって、真の絶叫パニックが訪れる…という緩急の付け方も見事。「まるでハリウッドみたい!」とかそういうレベルではもはやなく、もう完全に世界トップクラスのパニックシーンだと思う。墜落する飛行機のGだけでなく、韓国の実写エンタメ映画の圧倒的な勢いをその身で感じるようだった。

というわけで、スリリングな前半〜中盤も面白いのだが、テロパニック展開が一段落して、いったん助かった〜!と思いきや絶望的な展開を迎えて、雰囲気がガラッと変わる後半こそが、むしろ本作『非常宣言』の本番だと感じた。テロリズムよりもさらに世界中に広く根深く蔓延る、しかし実は私達が心の奥底に抱えている「恐怖と保身」、そのせいで平気で他者の命に「線を引く」態度…。そこにこそ、本作の刃は最も鋭く突きつけられるのだ。

『非常宣言』を観てもつくづく思う韓国映画の凄いところは、そうした社会への批判的な視線とエンタメ的な面白さを巧みに合流させてくることで、しかもそれを本作のような(ソン・ガンホとイ・ビョンホンが共演してる)大衆娯楽大作でもガンガンやってくるのが本当に強い。そりゃ『パラサイト』が生まれる土壌だって育まれるよなと思う。 

ひるがえって日本をみるとどうしても、観客に嫌われるのを恐れてなのか知らないが、社会的・現実的なテーマにまっすぐ踏み込むことをためらうあまり、作品全体がやたらボンヤリしてしまうエンタメが少なくないように感じられる。日本(と括るのも雑だが)が真っ先に韓国映画から学ぶべきはそういうところだと思う。

ちなみに今回『非常宣言』、そういう韓国映画らしい社会批判的な視線が日本にも向けられるので、日本の観客の一部では反感を買うのかもしれない。まぁさすがに自衛隊が他国の飛行機をアレしようとするのは非現実的だ(と思いたい)し、基本はエンタメ度を増すためのフィクショナルな場面ではあると思う。ただ、今の日本の排外的な方向に傾きがちな空気、それどころか「我が国のために不安要素を排除しました!」とか言う政治家や官僚が喝采を浴びかねない現状を考えると、イヤな現実感が濃厚な場面だし、そういうとこ実は外からもよく見えちゃってるのかもな〜とか思わざるをえない。だって実際あんなことがあったら世論もめちゃくちゃ荒れてネットとかも(今以上に)ヘイトの温床になりそうじゃん…? 

 少なくとも、あの場面をもって「反日」だのと言うのはまさに見当外れであり、どっちかと言えば「確かに冷淡な対応だけど、日本の言うことにも一理あるんじゃね…?」と観客を誘導するための前フリにすぎない(さらにアメリカの前フリもあるし)。むしろ『非常宣言』が最も明確に批判の矛先を向けているのは、韓国の社会や体制、そして自国民のあり方だろう。コロナ禍は言うまでもなく、国民的トラウマといえる2014年のセウォル号沈没事故は明確に意識されているだろうし、もっと言えばごく最近起こった、梨泰院の痛ましすぎる転倒事故さえも、批判の射程圏内に入ってくるような鋭さをも感じた。

 テロや事故などで大変な目にあっている人々を本来は守るべきはずの国家権力が、逆にそうした人々に対して、いかに消極的だったり、冷淡だったり、残酷になりうるか…。そうした体制への根深い不信感が、『非常宣言』の主人公たちを待ち受ける運命には反映されている。さらに一般市民も時として、恐怖と保身の気持ちに負けてしまい、他者の命をジャッジできる立場に自分がいると思い込み、当事者の心情も考えずに「見捨てろ」とか「自己責任だ」とか、ひどい言葉を投げつけてしまう。

そして「これは韓国特有の事情だ」などという"誤解"を許さないほど、本作は恐ろしい普遍性をも獲得している。ここで描かれている社会の醜く残酷な有様を、コロナ禍を経た私たちの誰が「他人事」として片付けられるというのだろうか。

そうしたどの社会にもある残酷さ、そして誰の心にもある傲慢さを穿つかのように、本作で最も深く心を打つシーンが終盤に用意されている。飛行機に乗る絶体絶命の人々が、とある悲壮な「覚悟」を決め、泣きながら地上の家族に連絡する場面だ。これを「自己犠牲の美化」として批判する声もあるようだが、その見方は正しくないと私は思う。

この場面は、「大勢のためには少数が犠牲になるのも仕方ない」という意見をもつ劇中の市民たち、そして「それも一理あるのかも…?」という方向に心が少し動いてしまった観客たちに対して、「あんたらが簡単に口にする"仕方ない犠牲"って、マジで意味わかってる? こういうことだからね?」と作り手が、まっとうな怒りをもって改めて突きつけた場面だと私は受け止めた。乗客たちの高潔な判断に感動することも当然できるが、それ以上に「こんなことが正しいと本当に思うか?」と、今だからこそ問い直したのだと思う。「犠牲」をただの数字ではなく、「顔の見える人間」として描くことのできる映画ならではのやり方で、本作は世の中の悪しき思考停止に抗っているのだろう。

 

ところで「コロナ禍以降の嫌なリアリティ」と「命に線を引くことの恐ろしさ」に光を当てる手腕といえば、パンデミック以降の娯楽大作という点で、ドラマ版『THE LAST OF US』に今とても注目しているのだが…

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それよりも一足はやく、韓国映画からも『非常宣言』が出てきたので、素直にさすがっすね〜と思わざるをえない。HBOにちょっと勝ってるじゃん韓国エンタメ(勝ち負けじゃないけど)

 

そんなわけで『非常宣言』、面白かったし感銘も受けたのだが、あえて気になったところにも触れておく。まず、恐るべき殺人ウイルスのルールが微妙に不明確で、接触感染なのか空気感染なのかとか(ネズミの場面で少し示されてはいたが)ちょっとわかりづらい。せっかくコロナ後の感染ものなのだから、この辺りのリアリティ描写にはもう少し期待してしまう。感染した人も死んだり死ななかったりするのでので、サスペンス的な盛り上がりを少し損なっていた感じもする。

さらに、夫婦の絆であるとか、父と娘の親子関係であるとか、家族規範的な描写によってエモさをブーストする手法がやや過剰かな…というのは感じた。これは韓国映画の大衆エンタメに総じてけっこう感じる部分だが…(まぁ日本映画も似たようなもんなのであまり強く言えない)。ただこうした保守的な「ベタさ」が、先述した終盤の感動的なシーンを強化していた部分もあるので、一長一短ではある。

また、二大男性スターの共演作なので尺的にも仕方ない面もあるが、事件の解決に挑むメインの女性キャラがいないのも少々物足りない。せっかくお医者さん(だよね?)の女性もいたのだから、たとえば彼女がウイルスの謎を解き、先述した「ルール」をより明快にする、などの作劇上の役割をもたせても良かった気がする。

こうした点は、むしろ同じ韓国の航空パニック映画『ノンストップ』の方が、ずっと風通しの良さを感じさせてくれた(こっちは純然たるコメディだが…)。

amaプラ見放題→https://amzn.to/3ZQF3L8

ちなみに『ノンストップ』も大好きな映画なので、年間ベストにも選んだ。

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『ノンストップ』はちょっとした不意打ちがあるので、ポスターも予告も見ずに全然なにも知らず観た方が楽しめると思う。深いテーマ性とかはないが、こんな誰が観ても「楽しかったわ〜」で終われる気持ちのいい快作も珍しいので、ぜひおうちで気軽に観てほしい。

超ちなみに、『非常宣言』で副操縦士ヒョンスを演じていたキム・ナムギルは『ノンストップ』にも登場するわけだが、なんつー役回りだよという死ぬほど雑な扱いで逆に美味しい。決して見逃さぬように…。

国立科学博物館の特別展「毒」に行ったよ毒毒レポート

ニコチンは 神経毒の 一種です(五七五)

というわけで上野の国立科学博物館の特別展「毒」(〜2/19)に行ってきました。ポイズン〜〜〜!

www.dokuten.jp

生き物好き的にもかなりエンジョイできたので写真レポ&感想をまとめておきます。(基本、写真OKシェアOKな特別展でした。現代的でイイと思う。)

ちなみに私は科博ガチ勢の嗜みとして、常設展に入り放題な「リピーターズパス」を持っているので、それを提示することで700円引きくらいで入れた(日時指定予約は必要だが)。年に2〜3回科博に行く人ならたぶん元取れるから受付で買っとこう。科博に限らず年パス系は、国が予算をケチるせいで国立なのに色々苦しいという博物館へのダイレクト支援にもなる。国立博物館を軽視しておきながら国を名乗ってんじゃねーぞ(←毒)

 

特別展「毒」、入ってみるとさっそく巨大オオスズメバチと巨大ハブが待ち受けていてアツイ!(前の「昆虫展」や「大哺乳類展」でも巨大フィギュアあったので、恒例化したんだろうか。)

でかい!こわい!カッコいい!

実は私は子どもの頃オオスズメバチに刺されてヤバかった過去があるため、一時期(こどものころ)はハチを敵視していたのだが…。

今はオオスズメバチの、狩りと戦闘に特化した能力と姿を美しいと思っている。(だから私を毒殺しようとしたことは水に流すとしよう。)こうして巨大な姿をまじまじ眺めると、本当に戦闘マシンのように美しい造形をしているよな…。こんな大きさじゃなくて本当に良かった。

 

ちなみに巨大イラガ幼虫もいた。

バッシバシなすごい毒棘(どくきょくと読む)。写真をタップしただけでかぶれそう。

こうして巨大な姿でクローズアップして見ると、あまりに毒トゲが過剰な気がして「そんなにトゲいることある?」となんか笑ってしまうが、自分を喰らわんとする外敵に、いかに効率よく毒を注入するか最適化した進化の結果なのだろうな。最適で合理的だからと言って、無印良品みたいにシンプルになるとは限らないのだ!(?)

 

ハチ毒のコーナーには、有名な「シュミット指数」の話題も。

シュミット指数とは…「毒のカクテル」と称されるほど多様で複雑なハチ毒の強さを、マジで色んなハチに刺されることで、体を張って確かめたシュミット博士が考案した痛みの指数。

 すげえキメの細かい「痛み」の指標とかも眺めていると、シュミット博士の体の張り方が変態的なのは否めず、素人目にはそのうち死ぬぞと思ってしまうが、科学者としては真面目で真摯な態度なのは疑いようもない。「痛み」という数値化しづらい感覚に基準を設けた点でも有意義である…。

シュミット指数最強の「タランチュラホーク」めっちゃこわいな(名前はカッコいい)。「毒」って、体が小さくて非力な動物が、外敵との力関係をひっくり返すために大きなコストを払って体に仕込むもの…というイメージがなんとなくあるので、この「タランチュラホーク」みたいに、ハチとしては明らかにバカでかいにもかかわらず、とんでもなく強烈な毒をもってるって、なんつーか反則な気がする。

かように一筋縄ではいかない「ハチの毒」、考え出すと面白いのだが、今回の「毒」展でもその多様さが詳しく解説されていてよかった。攻撃だけでなく守備にも使える「毒」の意外な応用性の高さこそが、ハチの進化の多様さを生んだ、という考え方もできるわけか…。

それほどハチ毒は(ハチ自身と同じように)多様を極めるので、「この毒が痛い」「いちばん強いハチ毒はこれ」なんてことは、実際に刺されてみないとわからない。「痛み」なんて感覚は主観が混ざるぶん、条件を揃えなければ定量化も難しいわけで、その意味でもシュミット博士のやったことって冗談抜きで意義深いんだろうな…。その成果は 『蜂と蟻に刺されてみた―「痛さ」からわかった毒針昆虫のヒミツ』という本によくまとまっているのでぜひ読もう。

購入→ https://amzn.to/3QQokne

 

そしてちょうど『THE LAST OF US』という菌類ゾンビが出てくるゲーム/ドラマがアツい時期なので…

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「毒」展でもどうしても菌類に目が行ってしまう。

「毒を持つ菌類」といえば、身近なのはやっぱり毒キノコということで、世界の色んな毒キノコが展示されていました。

 

世界一有名な毒キノコ🍄だけど、いうほど致死的な毒はないベニテングタケ。でも絶対食べないほうが良い!

いわゆる「マジックマッシュルーム」として、食べると幻覚を見る作用のあるキノコも多いのだが、す〜ぐ毒を摂取する人類に利用されてしまうのだった(この記事↓でも本来は毒物として進化したカフェインを話題にしたけど…)

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これ↓はワライタケで、日本では所持すら違法らしいので気をつけよう! しかし冷静に考えると「人間に幻覚を見せる毒」ってどういうことなんだろうな…どういう進化のロジックでそんな毒を獲得することになるんだ……謎すぎるぞ、キノコ。

食べると当然死ぬし、なんと触っただけでもヤバいカエンタケ。絶対近寄らないようにしよう…(こいつだけ厳重なのがなんかコワイ)

毒きのこコーナーには、「毒」展らしい科学的な注意書きも。毒きのこにまつわる「法則」みたいな言い伝えはほとんどが迷信であり、科学的根拠が何もないから注意、とのこと。信じちゃうと命に関わる「迷信」だもんな…

というかそもそも「地球上のきのこの大半は食毒不明」らしく、そうなんだ…いやでもそりゃそうだよな、と妙に感銘を受けた。それこそさっきのシュミット博士みたいに体を張ってる変態…じゃなかった、真摯な科学者がそんなに多いわけでもないだろうし、うっかり食べた事故でもない限り「毒がある」なんてわかりっこないもんな。シュレディンガーの猫ならぬ、シュレディンガーの毒きのことでも言おうか…。「毒について知る」営みの困難さをさりげなく思い知らされるコーナーであった。

 

続いて「こんな動物にも毒が!?」的なコーナー。そこにいたのは…

ピトフーイだ!(正確にはズグロモリモズ。)

世にも珍しい「毒をもつ鳥」とかいうロマンすぎる存在。パプアニューギニアに生息し、羽や皮膚に「バトラコトキシン類」の毒があることが判明。なんで鳥なのに毒をもってるのかというと、常食するジョウカイモドキ科の昆虫がもつ神経毒に由来してるとのこと(この近縁種の虫も展示されていた)。

ズグロモリモズを見て、逆に「なぜ毒を持つ鳥類は圧倒的に少ないのか」とも考えてしまうんだよね。まぁ鳥だけでなく、毒を持つ哺乳類も非常に珍しいわけだが…たとえば我らがカモノハシとか。

それでも他にもスローロリスとか、トガリネズミとか、「有毒哺乳類」って地味にそこそこの数いるので、「有毒の鳥」に比べるとやや多い印象(見つかってないだけかもしれないけど)。なんで毒のある鳥って珍しいんだろうね。

さっき「毒は大きな体や強い力を持てない生きものが高コストで獲得した外敵への対抗手段」と書いたが、まぁ一般的にはおおむねそういうことなんだろう。ただ、そこに「有毒の鳥が少ない」という条件がくわわると、たとえば「移動能力と毒」の間になんらかの関連を見い出せないかなって。

自分では全く動けない植物やキノコの仲間に「毒」を進化させたものが多く、動物の中では移動能力に劣る爬虫類・両生類なども収斂するように「毒」を獲得し、ひるがえって移動能力の高い哺乳類や、もっと高い鳥類には有毒の種が少ないという事実から、「毒」が「移動能力」を代替するような強みを自然界で発揮したりする可能性なんてないかな〜とかボンヤリ考えたりした。まぁこの理屈だと虫や魚にも毒持ち多いのはなんなんだよって話なので(タランチュラホーク先輩…)、自分で言ってていきなり破綻しそうな感じだが。ただ生存には超有利な毒が、体内で生成・維持するために半端ないコストが必要な特質なのは確かなはずなので(そうじゃないならみんな有毒生物になるはずだし)、この辺の「毒のコストとの折り合い」みたいな話を真剣に考える研究とかあるんなら覗いてみたいな。

 

他にも「毒」展、色々と毒にまつわる興味深い展示が多いのでじっくり見てみてね。冒頭でも紹介した、「身近な毒」として展示されるタバコ、迫力がある。

ニコチンは 神経毒の 1種です(二回め)

 

おみやげショップには「おおきなベニテングタケ」ぬいぐるみが売ってた。1万円オーバーだったので買うのはやめといたが、ぬいぐるみコレクションにくわえたい毒々しいかわいさである。

 

図録も買った。装丁も「いにしえの毒本」って感じで本格的でイイね。『薔薇の名前』じゃないけどページに毒塗ってそうな風格が素敵。

展示されていなかった、どうぶつコラムや豆知識も沢山なので、ゆっくり読むとしよう。科博の図録、普通に生きもの図解の資料になるので私的にマストバイである。てか普通に考えてこんなガチ装丁でフルカラー180pで写真・図版・コラム山盛りで大勢の専門家フル監修の本が2400円で買える機会は特別展の図録以外ではまずありえないので、一般的にもマストバイである。

そんな感じで楽しかった「毒」展。行ってよかった!開催は2月19日までなのでみんな早めに行こうね。

我々哺乳類も(ニコチンとかマジックマッシュルームとか)マジの毒を体に仕込むのは控えめにしつつ、心に毒を仕込んでたくましく生きていきましょう!スローロリスのように…。

 

「生きものの毒」にさらに興味持った人へのオススメ本。面白いよ。

『毒々生物の奇妙な進化』クリスティー・ウィルコックス

購入→ https://amzn.to/3HagCB0

神ゲーが神ドラマ化の期待大。ドラマ『THE LAST OF US』第1話感想(ネタバレ控えめ)

ゲーム『THE LAST OF US』シリーズは正真正銘の神ゲーである。

『THE LAST OF US(ザ・ラスト・オブ・アス)』…通称「ラスアス」について超ざっくり説明すると、菌類ゾンビパニックで崩壊しつつある世界で、とある深い喪失に苦しむ中年男・ジョエルと、世界を救う鍵となるかもしれない少女・エリーの、残酷で過酷な旅路を描く作品だ。あらすじだけ聞くと「よくあるゾンビものね」という感じかもしれないが、プレイヤーが主人公に乗り移って他者の人生を追体験する「ゲーム」としての性質をものすごく巧みに活かした物語や演出によって、映画やドラマではまず不可能な、強烈なインパクトをプレイヤーの心に与えやがっ……与えてくれるゲームである。

続編の『THE LAST OF US  Part II 』(通称ラスアス2)では物語が格段にスケールアップするだけでなく、「主人公を操作する」ゲームとしての必然性がさらに濃厚になり、考えうる全てのギミックをプレイヤーの心を抉るためフル活用してくるため、もはや娯楽っていうか"プレイする地獄"のような有様になってくる。2は非常にショッキングな展開が冒頭で起きることもあり賛否両論あるのだが、私に言わせれば傑作の1をはるかに上回る大傑作なので、否定レビューは気にせずさっさとプレイしたほうがいい。

まぁとにかく『THE LAST OF US』は強烈に面白いゲームシリーズなのである。世界中で大ヒットを記録し、様々な賞を総なめにし、ここ10年を代表する傑作ゲームとして語り継がれているのも、当たり前と言うほかない。

ラスアスはあまりに神ゲーすぎるし人生ベスト級に大好きな1本なので、まさかの実写ドラマ化を果たすと聞いた時には、「なにそれ楽しみ〜絶対みる」という期待と、「実写化?あのゲームを?厳しくね?」という不安が入り混じった。だが………まずは観てみなければわからない。

そんなこんなで運命の配信日1/16当日となり、さっそくHBOドラマ版『THE LAST OF US』を(去年『ハウス・オブ・ザ・ドラゴン』が終わって一回切ったU-NEXTに入り直して)、さっそく観てみたわけだが…。

まだ第1話だし現時点での評価ということになるが……結論から言って「最高」の出来栄えに仕上がっていたと思う。かなり高かった期待のハードルを大きく上回ってくれたことが嬉しいので、珍しく第1話からいきなり感想を書いてみたい。

致命的なネタバレはなるべく避けて語るつもりだが、何も知らずに観れるならそれに越したことはないので、可能であればドラマを見てから読んでもらいたい。「ゲーム未プレイの人はドラマとどっちから入るべきか」問題は、普段のスタンスならゲームを勧めるが、これだけ出来がいいとドラマから観るのも大いにアリだと今回は思う(せっかく世界同時に盛り上がれるしね)。第1話は80分と、ちょっとした映画くらい長いが、本当に面白いので体感すぐ見終わるだろう。↓

『THE LAST OF US』U-NEXTで視聴

px.a8.net

 

【パンデミック以降の世界に突きつける「パンデミック超大作」】

ドラマの基本的なあらすじは、ゲームと全く同じだ。主人公の男ジョエルは、娘のサラ、弟のトミーと一緒に幸せな人生を送っていた。しかし何の変哲もないある日、世界が急に音を立てて崩れ始める。謎のウイルス…ではなく実は「菌」なのだが、ともかくアメリカ中に致命的な感染症が広がってしまい、ゾンビのような人食いの「感染者」が跋扈し、文明社会が崩壊していくという、史上最悪のパンデミックが幕を開けることになる。

ここまでは確かにゲームもドラマも同じだ……しかし、ある意味では「同じ」ではない。私たちの世界のほうが変わってしまったからである。ゲーム『THE LAST OF US』は2013年に発売された作品だが、その実写化作品を今2023年に観るにあたって、現実世界に起きた大事件を想起しない人は誰ひとりいないだろう。言うまでもなく、2020年から世界を席巻している、新型コロナウイルスのパンデミックである。

あくまで私の思いつく限りではあるが、本作のように莫大な制作費が投じられた世界的なエンタメ大作で、「コロナ禍以降」に「パンデミック的な災害」を主要なテーマとする新作は、このドラマ『THE LAST OF US』が初となるのではないだろうか…? (まぁ『ウォーキング・デッド』などおなじみのゾンビ系は色々あるし、より小規模な作品であれば当然いくらでもあるだろうが。)

10年前のゲーム第1作の方は当然として、2020年6月の発売となるラスアス2を作った制作陣も、その直後に現実世界を致死的な感染症が襲うことになるとは予想していなかったはずだ。その意味でこのドラマは、コロナ禍の世界を作り手も観客も十分に思い知った後に、そのリアリティを織り込んで作られる、なんなら初かもしれない「パンデミック超大作」になるというわけだ。その意味でも、映像エンタメの歴史において、けっこう重要なポイントになりそうだな…と思っている。

『THE LAST OF US』シリーズの恐ろしさは、人食いゾンビである「感染者」の描写に最もわかりやすく現れている。ドラマではまだ序の口だが、平和だった日常が突如反転し、無害な隣人が「人ではないもの」に姿を変えてしまうという、かなり恐ろしい「感染者」描写をいきなり味わうことになる。

本作はまぁ確かにゾンビものではあるのだが、ウイルスではなくキノコのような「菌類」、それも冬虫夏草とかの寄生系のロジックで動くゾンビというのが(生きもの好きとしても)かなり面白いポイントなので、ドラマでも冒頭からそこに焦点が当たってくれて嬉しい。(まだ序の口だけどさっそく登場した、胞子化した死体のビジュアルとか最高!)わくわく菌類ドラマとしてのポテンシャルの高さがこの「おぞまし美しい」オープニングからもひしひし伝わる。↓

だがドラマ1話では感染者=ゾンビそのもの以上に、「感染者」と「感染していない人」と「感染しているかもしれない人」の間に、恣意的かつ暴力的に「線が引かれる」ことの恐ろしさが強調されていた。この世界ではどんな人でも、他者の偏見や思い込み、体制側の都合、その場の成り行きによって、かんたんに排除され、命を奪われてしまうということだ。そのことの恐ろしさは、実際にパンデミックを経た現実世界の私たちの中で、より嫌なリアリティをもって増幅されはしないだろうか…。

ジョエルたちを襲う最大の悲劇が、その暴力的な「命の線引き」によってもたらされてしまう…という事実の残酷さには、ドラマ全体を通じて確実に(ひょっとするとゲーム以上に頻繁に)繰り返し立ち返ることになるだろう。

何より悲しいのは、その悲劇にたどり着くまでに、ジョエル自身も多くの「線引き」を繰り返してしまっている…ということだ。極限状態で家族を守り、生き残ろうとするジョエルを責められはしないものの、それでも「困っている家族を見捨てる」だとか「感染者だろうが人間だろうが車で轢いて逃げる」だとか、彼もまた「線引き」をしてきたという残酷かつシンプルな事実が、ドラマではより強調されているのだ。だが、そうした行動の真の恐ろしさに、必死で生き延びようとしている人々が気づくことはない。ついに自分たちに「線引き」の銃口が向けられる、その時までは…。

ドラマオリジナル場面となる、文明崩壊後に命からがら街にたどり着いた子どもを待ち受ける運命にも震えてしまった。極めてドライな描き方ではあるが、システム(そしてそれを構成する私たち=us自身)による「線引き」の無情さをあぶり出しているのだ。

そして物語の最後、エリーを巡る「線引き」に対して、ジョエル自身が出すことになる結論こそが、『THE LAST OF US』の核心にあるテーマである。あの心を揺さぶる結末が、ドラマではどのように表現されるのだろうか。まだ1話だが、考えると早くも震撼してしまう…。

今後も「パンデミック以降、初のパンデミック超大作」として、現実のパンデミックによって明らかになった社会の歪みを織り込んできたり、原作ゲームにはなかった要素を色々ぶつけてくるかもしれない。私は原作の大ファンとは言え、別メディアであるドラマが必ずしもゲームに「忠実」に進めていく必要はないと思っているので、震えながらも楽しみにしたいところだ。 

 

【"ゲームキャラ実写化"の新たな挑戦】

ドラマ『THE LAST OF US』の見どころとして、ゲームのキャラをどのように「実写化」するかは期待のポイントだった。ゲームの時点でかなりリアルに作り込まれたキャラたちなので、実写では逆に忠実にゲームへ寄せていくのか、それとも大胆な変更を遂げるのか…。その意味でも、この実写ドラマ版はとても好ましいバランス感覚を発揮してくれた。

主人公ジョエルを演じるペドロ・パスカルの素晴らしさは言うまでもない(2023年はこの後『マンダロリアン』も来るし、今年の干支はウサギではなくペドロ・パスカルなのだろうか)。だが特に唸らされたのは、本作のもう1人の主人公エリー(ベラ・ラムジー)、そしてジョエルのパートナー女性テス(アナ・トーヴ)である。2人とも、ゲームのキャラに外見を「寄せる」方向のキャスティングというわけではないので、一部では「外見が違う!」などと言われるのかもしれない。だが実際に1話を見てみると「これしかない」というバッチリ感で、すでに2人とも大好きなキャラになってしまった。

おそらく制作陣が意識したのは、パンデミック後の崩壊した世界で、本当にたくましく生きていけそうな実在感と生命力を備えた女性キャラクターの造形だろう。エリーは、常に悪態をついているガラの悪い少女だが、その奥にはタフなサバイバル精神と知性を秘めており、そしてもっと奥には普通の子どもらしさが隠れていることが、ベラ・ラムジー(いま気づいたけど『ゲーム・オブ・スローンズ』のリアナか!そりゃ凄いわけだ)の見事な演技によって伝わってくる。その頭の回転の速さによって、無愛想なジョエルに一発くらわせる「暗号」のシーンなんて絶品だ。

テスにしても、56歳設定のジョエルのパートナーにふさわしく、現実的な加齢を重ねつつも、したたかな精神力と生存スキルを獲得してきた女性として、巧みに再解釈されている。このドラマ版の2人の造形を見てしまった後では、むしろゲームのほうのエリーやテスが、ちょっと男性主人公&プレイヤーに都合が良く、マネキン的にかわいすぎる&綺麗すぎる感じがしてこないか心配になるほどだ。あれほど思い入れのあるゲームにそんなことを思わされるという時点で、もはや実写化は成功していると言えるのではないだろうか。

とはいえこれは言っておきたいが、『THE LAST OF US』シリーズは、そもそもゲームからして、反差別や多様性への意識が極めて高い作品である。1作目の時点でもゲイのキャラクターであるビルが味方として登場したり、エリーへの性的な加害・搾取を怒りとともに描いたりしていた。『Part II』ではさらに踏み込んで、主人公エリーが同性愛者であることを正面からしっかり描き、女性の恋人と一緒に冒険をさせ、現実の社会をリアルに反映した多彩な人種・属性の人物を積極的に登場させるという(物語そのものは地獄みたいだが)とても現代的で風通しの良い、革新的なゲーム作品になっている。

残念なことに日本のゲーマーの一部に、その制作陣の真摯な姿勢をあげつらって、「ラスアス2はポリコレを意識しすぎて駄作になった」などと差別的な上に見当外れな意見を撒き散らす人もいるようだが、まさに愚の骨頂としか言えない。そもそも「エリーがポリコレで同性愛者にさせられた!」とか騒いでる時点で前日譚のDLC『The Last Of Us Left Behind –残されたもの-』すら遊んでいないニワカであることが明らかだし、ゲームの真価をまともに見極める鑑賞眼もないのだろう。TVゲームなどという高尚な趣味からは手を引き、そのへんで缶蹴りでもしていてほしいものだ。

少し脱線したが、このドラマは原作『The Last Of Us』のそうした先進的な姿勢を汲み取って、実写というフィールドでさらに研ぎ澄ませようと試みているに違いない。少なくとも「ゲームと見た目を全く同じにしましたよ、その方がファンも嬉しいでしょ?」みたいな表面的な"リスペクト"には、ドラマ制作陣は一切興味がないようだ。制作陣が追い求めているのは、傑作ゲーム『THE LAST OF US』の実写化にふさわしい、真に血が通った「生きた」キャラクターを創造することなのだろう。まったくもって信頼に値する姿勢だと言わざるを得ない。まだ1話だが、他のキャラクターがどのように再解釈・再創造されるのかゲームファンとしても非常に楽しみだ。

 

【ゲームの実写化という鬼門を超えられるか】

何度も言ってるが、『THE LAST OF US』シリーズは正真正銘の神ゲーである。まさに「プレイする映画」「プレイするドラマ」と呼ぶにふさわしい、濃厚な実在感をもつキャラクターたちの過酷な旅路に、ゲームならではの手法で深く「連れ添う」ことができる傑作だ。しかしだからこそ、本シリーズを改めて「実写」に作り変えるのは相当難しいだろうなあと思っていた。

たとえば、『THE LAST OF US』の制作スタジオ・ノーティドッグのもう一つの有名シリーズ『アンチャーテッド』も、奇しくも昨年トム・ホランド主演で映画化された。娯楽作としては見せ場もド派手だしかなり楽しめたのだが、「あ〜、でもやっぱゲームとは根本的に違う体験だな」というのは実感せざるをえなかった。やはり「自分でプレイする」という、ゲームをゲームたらしめている根本的な要素なしには、どんなにド派手なスペクタクルも、ゲーム版『アンチャーテッド』シリーズのような没入感や痛快さを与えてはくれないと感じたのだ。本作に限らずゲームを「実写化」することの難しさは、映画をそこそこ観ている人なら誰しも実感するところではないだろうか。

だがこのドラマ版『THE LAST OF US』は、そんなハードルも超えてくれるのではないか…と期待している。なんならゲームより面白いよな、くらいに囁かれる作品になってくれてもいい。原作ファンは「それはさすがに無理じゃね」と思うかもだが、現にドラマ1話の時点で、ゲーム版で生じたよりも強い感情が、視聴者(私)の中に生まれた場面がいくつもある。

たとえば、ゲームでは冒頭のわりと一瞬で流された「腕時計」のエピソードも、ドラマではサラ視点から丁寧に肉付けして描くことで、ジョエルにとって「壊れた時計」のアイテムが持つ重みが格段に増している。その上で、ゲームの物語の流れを全く損なっていないというのもエレガントだ。

これはあくまで一例で、他にも弟トミーが留置所に入れられたせいでジョエルが出かける羽目に…のくだりとか、細かいながらサブキャラの人物描写を入れている。同時に「サラが目を覚ました時ジョエルはどこにいたのか」など、ゲームをプレイしただけではわからない情報をさりげなく補足しているわけだ。

こうした数多くの丁寧な補足や掘り下げの結果、すでに1話ラストの段階で、ゲームの同じくらいの進行度のタイミングと比べても、いっそう真に迫る実在感がキャラクターたちに与えられているように思う。確かにドラマや映画は、自分でプレイできるわけではないので、インタラクション性の楽しさや、没入感という意味ではゲームに劣るかもしれない。しかし一方通行の映像メディアだからこそ可能な、丁寧な演出や周到な描写によって、逆に「ゲームを実写化」した映像作品が、「ゲームを超える」感動を与えることも可能かもしれない…。そんな野心をも感じさせるドラマだった。そもそもゲーム『THE LAST OF US』など、ノーティドッグのゲームがなぜ凄いかといえば、ドラマや映画のそうした手法を、ゲームの構造に上手く取り入れたからというのも大きいのだから。

そんなわけでドラマ『THE LAST OF US』は、まるで既存のドラマ・映画など「一方通行の映像エンタメ」から、「新時代のエンタメ・ゲーム」に対する挑戦状のようでもあり、アンサーのようでもあり、原作への敬意だけでなくバチバチの野心に満ちているようにも感じられた。「ゲームの実写化」というジャンルの中でも、本作が歴史的な1作になってくれれば、ラスアス好き・映画好きとしてはこれ以上なく嬉しい。

 

というわけで、毎週このレベルのエンタメが味わえると言うだけでも、生きる気力が湧いてくるほどだ(まぁいうて見せられるのは世にも悲しく残酷な物語なのだが…)。続きを楽しみにしているし、なんなら毎週感想にトライしてみようかな、とかまで思ってる(それは仮に厳しくてもドラマ終了の段階でまた感想を書きたいものだ)。いったんおしまい。今年の1作になる予感がひしひしするので、ドラマファンはぜひ観てね↓

『THE LAST OF US』U-NEXTで視聴

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ちなみにドラマ版『THE LAST OF US』はU-NEXTの独占配信なので他のサブスクでは見れない。面倒だからもう何もかも統一されればいいのにね(乱暴)。U-NEXTは月額料金を税込2200円くらい取りよるお高いサブスクなので怯む人も多そうだが、映画鑑賞とかに使えるポイントを毎月1200ポイントくれるので(少なくとも私のような映画ファンなら)まぁ実質月額1000円という感じではある。

HBOドラマはさすがにたいてい面白いので、ラスアスだけでなく、せっかく入るならエミー賞獲った『ホワイト・ロータス』とか『メディア王』とかも観てしまおう。どっちも個別に記事書きたいくらい面白かった。

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紹介するまでもないが、やはりここ10年を代表するドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』はせっかくU-NEXTに入るなら必ず観ておいてほしい(8シーズンあるが…)。ドラマ『THE LAST OF US』のW主演ペドロ・パスカルとベラ・ラムセイも、出番こそ多くないけど見た人は絶対忘れないであろう強烈なキャラを演じている。配信されたばかりの前日譚『ハウス・オブ・ザ・ドラゴン』も凄まじい出来栄えなので必見だ。

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『ゲーム・オブ・スローンズ』U-NEXTで視聴

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『ハウス・オブ・ザ・ドラゴン』U-NEXTで視聴

 

…まぁHBOは打率が高すぎて、ついドラマ好きとしては色々勧めてしまうわけだが、普通の人はそんなドラマばかり観てるわけにもいかないと思うので、とりあえず1話だけ観て気に入りそうなやつを探してほしい。

31日間無料もあるのでお試しもどうぞ

読んだ本の感想まとめ(〜2023年1月15日)

今年の目標として「インプットしたもの(映画・本・ドラマ・アニメ・ゲームetc…)をできる限り全て記録し、簡単でもいいので何かしら感想を書く」を掲げている。いかにも挫折しそうな目標ではあるが、まず本からということで、2023年1月1日〜1月15日に読んだ本まとめ。

基本的にはTwitterの感想まとめ+アルファって感じになりそうですが、興味湧いたらゲットして読書に励み、共に知性をヤバいくらい磨き、この世界をヤバいくらい変革しようではないか。なお「読んだ本」の定義は「最初から最後まで(一応)読んだ本」とし、読みかけはカウントせず。

 

『コーヒーの科学 「おいしさ」はどこで生まれるのか』旦部幸博

今年は年明け早々、たまたまネットで見かけた、けっこうなお値段のするコーヒー豆焙煎マシーン「ジェネカフェ」を勢いで買ってしまった。さらに衝動ついでに、評判が良くてずっと気になっていたエスプレッソマシン「デロンギ マグニフィカS」も勢いで買ってしまった。どちらも高価なマシンなのでドキドキであったが、今のところ美味しいコーヒーが飲めて最高だし使い勝手が良く、新たなコーヒー生活の幕開けとしたい。

そんな多額(つってもあれだけど)の投資をしてしまったからには、コーヒーについてより深く学ばなければならない…。そんなわけで年明けから熟読したのが、『コーヒーの科学 「おいしさ」はどこで生まれるのか』である。今年の目標は……知と技と心を兼ね備えた、真のコーヒーマスターになることだ(今年中だとちょっと厳しいかもしれない)。

おそらく世界で最も有名な嗜好品の一種であり、あまりにも身近であるがゆえに、私たち人間はコーヒーについて実はよく知らない…ということさえも知らない。コーヒーってそもそも何なのか、どういう植物なのか、なんでまたカフェインなんて特殊な化学物質をもっているのか、なんで人類はそれを飲み始めたのか、そしてなぜ美味しいのか…などなど、コーヒーという面白い植物を科学的・化学的観点から解説していく、という面白い本だ。

あくまでその一例だが、「カフェイン」という物質の正体を語る部分も面白い。コーヒーの果実がなる「コーヒーの木」が作るカフェインには、実は他の植物の育生を邪魔する作用があるというのだ。カフェインは落ちた種子から広がっていき、近くの植物が育つのを抑え、自分だけが生長できるようカフェインを活用してるという。コーヒー、お前…イヤなやつだな、とか思いかけるが、そのおかげで美味しいというのなら文句も言えない。

コーヒーに限らず、紅茶などの「茶の木」もだが、そもそも植物がなんでカフェインを作るのかと言えば、「毒だから」という身も蓋もない理由があるわけだ。他の植物の生育を邪魔したり、虫やナメクジといった外敵から身を守る作用があったりと「化学兵器」としての役割が大きいという。そんな植物・動物視点では「毒」以外の何物でもないカフェインが、まさか人間の間で、人類史上に刻まれる超絶大ヒットを記録する愛され化学物質になるとは、コーヒー的にも「何なのお前ら?」って感じだろう…(トウガラシとかも同じなんだろうけど)。

他にもコーヒーゲノムからカフェイン合成関連の遺伝子を抽出した結果、「植物にとってカフェインを作ることが一種の"収斂進化"である可能性」が示されるとか、生きもの勢としてもグッとくる話が多い。それも当然かもしれない。植物もれっきとした「生物」なのだから…。

『コーヒーの科学』繋がりで同じブルーバックスの『植物たちの戦争 病原体との5億年サバイバルレース』も買ってみた。植物の世界、見様によっては動物より全然物騒で面白いんだよね。生きもの好きとしては植物にも向き合わなくてはいけないとは前から思っているので、今年は動物本に限らずちょいちょい植物本を読むつもり。

読みたい人は→『コーヒーの科学 「おいしさ」はどこで生まれるのか』

 

『ギレルモ・デル・トロ モンスターと結ばれた男』イアン・ネイサン

Netflixの『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』が非常に面白くて美しい傑作だったこともあり、発売されたばかりの 『ギレルモ・デル・トロ モンスターと結ばれた男』を読んでみたが、とても充実したデルトロ評伝だった。その圧倒的なビジュアルへの美意識や、異形への愛に満ちた世界をどう構築したかを、デルトロ全作品の成り立ちと歩みを振り替えながら精緻に論じていく。去年の『ナイトメア・アリー』や『ピノッキオ』など、最新作もしっかり掲載されてるのも良い。

デルトロ監督 、過去作を並べるとまったくもってスゲえフィルモグラフィだなとしか思えないが、実は決して順風満帆なキャリアではなかったのも忘れないでおきたい。たとえば私はけっこう好きなんだけど(『クリムゾン・ピーク』感想 - 沼の見える街)、『クリムゾン・ピーク』とか興行的には全然ダメで、これで『シェイプ・オブ・ウォーター』も当たらなかったら監督やめよっかな…とデルトロも思ってたらしい。デルトロでさえそんなこと思うんだからもうクリエイターなら誰だって思うんでしょうね、そういうことは…。そしてそんな歩みを知ると、『シェイプ・オブ・ウォーター』ヒットして賞も取ってよかったなと思ってしまう。

この本を見た後に『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』を見ると、いかに本作がデルトロの集大成みたいな凄い作品なのかもっとわかると思う。クリケット、フェアリー、クジラ等のクリーチャー(としか言いようがない)デザインもことごとく最高なので、評伝『モンスターと結ばれた男』とあわせて観たい逸品。

読みたい人は→『ギレルモ・デル・トロ モンスターと結ばれた男』

 

『直立二足歩行の人類史 人間を生き残らせた出来の悪い足』ジェレミー・デシルヴァ

最近、「人類が動物としてどういう進化を遂げてきたのか」っていうことが自分の中で気になるテーマでもあって、人類進化史の本とかをまぁまぁ読んでいたんだけど、そのことをSNSでもつぶやいてたら、出版社の方がこの『直立二足歩行の人類史 人間を生き残らせた出来の悪い足』を献本してくれた(つぶやいてみるもんだな)。読んでみたら実際ガチで面白い本だったので紹介しとく。

ざっくり言うと、直立二足歩行をするほぼ唯一の動物である人類の進化の謎に、「足首の専門家」(この時点ですごいんだが)が迫っていき、実は「歩行」こそが「人間性」の本質を形作っていた!という可能性を示すという、かなりワクワクする人類本。

「歩行」という切り口から人類進化に関する凝り固まった定説に切り込んでいく本であるのも面白いところ。たとえば「過去の人類の女性はあまり歩かなかった(なぜなら妊娠とかをする女性の身体は歩行にあまり向いてなかったから)」みたいな、なんかそれ性差別的なバイアスかかってんじゃねーの?と思えてくる意見も、最近までまことしやかに囁かれていたらしい。

でもそれに対して本書は、たとえば「女性(初期人類のメス)の歩行」こそが人類進化を強くブーストさせてきたんだ、というような話を確実な根拠を示しながら語ったりしていく。これは人類学に限った話では全然ないよなと(動物好きとしても)思うが、現在から過去を見る際、人間が現生人類以外の動物(初期人類など含む)を見る際の、無意識のバイアスにも光を当てていくのが面白い。

なので本書の途中でレベッカ・ソルニットの『ウォークス 歩くことの精神史』が引用されたりするのも(歩行繋がりというだけでなく)テーマ的に納得感がある。ソルニット、読む本読む本に引用されてる気がするな…(私が好きだから気づきやすいだけかな)。

そんなわけで人類史の細かい知識はなくても楽しめるスリリングな本だし、何より「よっしゃ歩こう」という気持ちにさせてくれるので、散歩好きとしては読んでよかった。

読みたい人は→『直立二足歩行の人類史 人間を生き残らせた出来の悪い足』

 

『人類の進化 大図鑑』アリス・ロバーツ

人類進化つながりで『人類の進化 大図鑑【コンパクト版】』 もついでに。人類がどういう歩みを辿ってきたかのビジュアル図とか、いにしえの人類の(その辺を歩いてる人みたいな)リアルな復元図とかがいっぱい載ってる図鑑。今回読んだのはコンパクト版だったけど情報量ぎっしりだった。フル版も読んでみたい。

 

『荊の城 上・下』サラ・ウォーターズ

映画『お嬢さん』は私の人生ベスト映画の1本と言っていい大好きな作品なのだが、その原作になった小説『荊の城』を、こともあろうに読み終えていなかったことを思い出したので、この機会にさっさと再読することにした。ちなみになんで今『お嬢さん』かというと、『水星の魔女』のスレミオ繋がりで再燃したからなのだが、この話は長くなるので今はやめよう…。

20世紀前半の朝鮮半島が舞台の『お嬢さん』と違い、『荊の城』の舞台は19世紀ロンドンだが、貧しくも賢い孤児の少女スウが、詐欺師の「紳士」に誘われ、令嬢の侍女になりすまして巨額の財産を奪う企みに乗る…!という大枠は映画と同じ。だが映画にはなかった後半のさらなるどんでん返しなど、原作だけの仕掛けもあって、最後までどうなるかわからず楽しめた。

その映画にはない「どんでん返しその2」に普通に驚いたわけだが、本書の主人公スウ&モード(『お嬢さん』でいうスッキ&秀子)の間に存在していた権力格差をひっくり返し、撹乱することで、最後には2人の関係がよりフラットで対等なものになったようにも思えて、上手い仕掛けだなと感じた。とはいえ映画にこれまで入れてしまうと、筋が複雑になりすぎるので、『お嬢さん』でのカットはやむなしという感じだが…。

身分も性格も全く異なる女性2人が出会い、恋に落ち、裏切り、また信じ合いながら、自分たちを抑圧してきた大きなものに立ち向かう…という物語の本質は、映画も小説も全く変わらない。だが『荊の城』のラストに関しては、あの素晴らしい『お嬢さん』のラストシーンよりさらに好きかもしれない。官能小説という、彼女たちを抑圧し、消費し、貶めてきたものを、最後に自分たちの幸福のためにその手に取り返す…という痛快さと美しさは、映画よりもさらに際立っていたと感じる。本作が小説という文字の集合体であればこその、忘れがたいエンディングだった。

とはいえ『お嬢さん』の方では、モード=秀子を搾取していた本の表現が(映画なので当然かもだが)文字よりもビジュアルに重きを置かれていたので、映画のラストは「自分たちの手に取り返したもの」について、より絵的に鮮烈になるよう強調したのだろう。小説にはない、館の本を焼き払うシーンも、映画にしかない強烈な怒りの表出として効いていたし、パク・チャヌクの再構成の上手さも改めて認識する。物語の本質を抽出して別のメディアで再解釈した作品の中でも、やはり『お嬢さん』は傑作のひとつに数えられるだろう。それを再認識できた点でも、さっさと読み終えてよかった!

読みたい人は→『荊の城』

 

『ボクのクソリプ奮闘記 アンチ君たちから教わった会話することの大切さ』ディラン・マロン

長年SNSをやってるとクソリプをいただく機会も多いこともあって、キャッチーな(軽薄とも言う)タイトルが目についた本『ボクのクソリプ奮闘記 アンチ君たちから教わった会話することの大切さ』だったが、これが思った以上に考えさせられる、深く胸を打たれるページが沢山ある本だった。

その内容は、自分にヘイトコメントを送りつけてきた人と直接会話するという挑戦的プロジェクト「"Conversations with People who Hate Me"(ぼくを憎む人々との会話)」を始めた著者ディラン・マロンがつづる体験記。邦題こそ軽薄な感じだが、誰もが「画面のむこうで確かに生きている人」をなかなか想像できなくなる、SNS時代のために書かれた真摯な本だった。

著者マロンはゲイを公表しているコメディアンで、多くの醜悪で差別的なクソリプ…っていうか普通にヘイトコメントをweb上でどっさり受け取っていた。こんな風に憎悪を寄せられていたら、普通は心を病んでしまってもおかしくないが、ユーモアに溢れる著者は、逆にそれらを晒すことで自分のネタに変えていたようだ。

だがある日、そうした「ネットトロール」(ネット上で嫌がらせをする人々)のうち1人「ジョシュ」のコメントから、ホーム画面に飛んでみたら、「『ファインディング・ドリー』はマジで力づくで泣かせにくる」とか「誰か今夜遊ばないか、寂しいんだよ」とか、あまりにも人間臭いことが書いてあったのを見て、マロンはなんとも言えない気持ちになる。

とはいえ良いネタになると思って、いつもどおりマロンはジョシュのそうしたコメントをショーで客席に晒してみたのだが、爆笑というよりは、「ああ…」というため息のような、共感のような反応が客から返ってきて面食らったそうだ。しかもなんと、この晒されたジョシュがショーを見てしまい、怒りを露わにメッセージでマロンに連絡してきた!

マロンはあわててジョシュとやりとりしてみたのだが、その結果わかったことは、ネット上でヘイトコメントをしていたジョシュもまた、学校に居場所のない、いじめられている若者であることだった…。2人がより丁寧な対話を重ねていく中でジョシュは、マロンに吐いた差別的な暴言など、自分のやったことに少しずつ向き合う姿勢を見せる。ささやかな変化かもしれないが、「画面のむこうに人がいる」ということをジョシュは思い知ったことになったのだ。

そしてこれが本書の重要なポイントなのだが、同時にマロンの方もまた、「ヘイター」や「トロール」といった言葉ではくくれない複雑な人間性をもつ人が、ヘイトコメントの裏に確かにいるのだ、という事実を思い知る。ヘイトを向けてくる人がこちらを人間扱いしてない時、こちらも相手を人間と見るのは難しくなるものだが、それでも確かに、自分の暮らしや社会との関わりをもつ、生きた人間であることを浮き彫りにするやりとりだったのだ。

「分断」が叫ばれるアメリカ、いや世界全体を少しでも良い方向に向かわせるために、その劇的な体験には大きなヒントが込められている、とマロンは考えたのだろう。こうした「橋渡し」をもっと行うために始まった一大プロジェクトが、"Conversations with People who Hate Me"(ぼくを憎む人々との会話)だったというわけだ。そのプロジェクトは大きな反響を呼び、色々と意外な展開を見せていき、「会話」の難しさと大切さをあぶり出すことになる。

「分断」を解決するための「会話/対話」の大切さ…というテーマは、「ザ・綺麗事」という感じもするし、ハッキリ言ってそれほど珍しくない。だが本書の特筆すべきポイントは、「会話」が全く万能の処方箋ではないどころか、むしろ心の傷を深めるだけという可能性もきちんと認識していることだ。「憎しみをぶつけてくる人とも常に会話することが大切だ」「それができない人は心を閉ざしているだけ」みたいな雑で甘い結論には決して着地しない。

結局の所、クソみたいなヘイトや差別に心を消耗しきることもなく、「会話してみよう」などと思えること自体が(著者も性的マイノリティではあるとはいえ)特権的とも言えるし、「会話」など贅沢品でもある…とマロンは自覚している。実際、性被害にあったアーティストの女性と、彼女へひどいコメントをした若者との「会話」は、いたたまれない終わり方をして、会話が必ずしも良い結果を(少なくとも即座には)もたらさないことを、著者は痛烈に思い知ることになる。

だがそれでも、皆が「画面のむこうにいる人」の姿を想像できるようになる、希望への道はあるのではないか…ということを、体をはったトライ&エラーによって、説得力のある根拠によって示す姿勢こそが、本書の最も素晴らしく、胸を打つところだ。

私自身も正直、ネットでマイノリティとか特定の属性とかへの差別をまき散らしてる人を見ると、「いや会話とか無理だし、しても無駄でしょ」と普通に思っちゃうし、会話を試みるどころか即ブロックなわけだが、それでも(そんなヘイトに日々晒される)当事者の書いた本書には、感銘をもらうところも多かった。

というわけで素晴らしい本だった『ボクのクソリプ奮闘記』だが、翻訳にはちょっと思うところがあった。汚いネットスラングとかが大量に登場するので翻訳が難しい本なのは重々理解しつつ、クソリプの和訳が「あぼーん」とか絶滅ネット死語なのが若干「ウッ」とはなる…。スラングの訳・置き換えは日本の現在のネット文化にも精通してないと厳しいだろうし、無理に日本ローカライズする必要はなかったんじゃないかな。

それと著者のプロジェクト名"Conversations with People who Hate Me"(ぼくを憎む人々との会話)というシンプルで真摯な題が、「やつらがボクのことなんて大っ嫌いだってあんまりいうから、とりあえず直で電話して話してみた件」とか長ったらしく軽薄になってて、しかも文中で何度も繰り返すのも、ちょっと意訳がすぎるのでは?とか。タイトルも"クソリプ"とか"アンチ"だとちょっと軽いというか、やっぱり「好き/嫌い」ではなく「差別・ヘイト」の問題であることは強調されるべきなのでは…とか。まぁ私も「クソリプ」というワードに惹かれて読んだクチなので、重箱の隅かもだが。

些事はともかく、この大SNS時代、得るものが沢山ある本だと思う。個人的にも先日、なんか漫画家の人に見当違いの絡まれ方をして、たまたま作品を読んだことあったのでそれに絡めたウマイ感じの反撃でもするか…とか戦闘態勢になりかけたが、そんなことしても一瞬スッとするだけで後味よくないだろうし、相手も人生うまくいかなかったり色々あるのかもな…と想像力を働かせ、適当に会話してミュートするだけに留められたのは、『ボクのクソリプ奮闘記』読んでたおかげかもしれない。読書は大事である。

読んでみたい人は→『ボクのクソリプ奮闘記 アンチ君たちから教わった会話することの大切さ』

 

というわけで1月から良い本が沢山読めてうれしいですが、たった5〜6冊紹介するだけでも8千字とか軽く行ってしまうことに気づき、やっぱ「見たもの感想ぜんぶ書く」目標の厳しさがいきなり伺えるのだが、まぁ自分のペースでやります。気になる本あったらぜひゲットしてみてね〜